ヰタ・セクスアリス

13/Ⅵ.(日)2010 はれ
山口百恵の『百恵白書』というLPに「いた・せくすありす」という曲がある。 
『百恵白書』は、全曲宇崎竜童作曲・阿木耀子作詞の当時のアイドルのLPとしては異例の、
シングルカット曲なし、というトータル・アルバムだった。トータル・アルバムなんて言い方も古いが、
要は一つのコンセプトを持った作品集という意味だ。
フィル・スペクターの「クリスマス・アルバム」や、
ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」、
ビートルズの「サージェント・ペパーズ」などが代表と言えば理解るだろうか。 
当時の歌謡界はシングル・レコードに重きを置いていて、
特にアイドルのLPなんてシングルが溜まったらベスト・アルバムみたいにして出すか、
洋楽や人の歌を歌う(カバーなどという概念はない)手抜き感が満載だった。
ポール・モーリアの曲に適当な歌詞をつけて歌っている人もいた。天地真理だ。持ってる。
話を戻す。
日本の歌謡曲でトータル・アルバムと言ったら、
フォークルの「紀元弐阡年」とタイガースの「ヒューマン・ルネッサンス」くらいではないか。
フォークルは歌謡曲じゃないか。そんな中、『百恵白書』は突然変異みたいにポンと世に出た。
帯には、
「このアルバムは私の分身、この中に18歳の、そう制服をぬいだわたしのすべてが入っています」と書いてあったが、
その煽情的な文句でさえが生ぬるく感じた、その内容は赤裸々で中学生だった僕には衝撃的だった。
まさに‘赤い衝撃’だ。
僕は薄幸そうな百恵のファンで、かねてから百恵が「私」という言葉を「アタシ」と発言するのがアバズレみたいで好きだったが、
『百恵白書』は何もそこまでお話していただかなくてもけっこうなのでございますが…、という「重さ」があった。
山口百恵は、まだ中3トリオの一番地味な子、っていう括りからやっと抜けたかどうかが僕のイメージだった。
ここから山口百恵は大きく軌道を修正して‘神話’や‘伝説’というおかしな方向に進むのだが、
『百恵白書』はその第一歩みたいなもので、僕は悪い予感がしたんだ。
このアルバムの中には、ファイナル・コンサートの異様なクライマックスで迎えるラストの
「さよならの向こう側」の前に歌われた「歌い継がれてゆく歌のように」が収録されていて、
この曲も名曲なのは判るが、初めて聴いた時、何か得体のしれない不安が脳裏をよぎったんだよなぁ。
山口百恵、守護霊、入れ替わったか?と少しマジで思ったりした、友達には言わなかったけど。
中でも一番、食あたりしたのは「いた・せくすありす」という、A面の3曲目の歌だ。
やっと、書き出しと繋がった。
タイトルは森鴎外の性欲史みたいな小説をモジったことからもわかるよに、
百恵の性的なことに関する告白みたいなものが録音されていた。 
あの下品な鶴光のオールナイト・ニッポンよりも、聴いてるところを母親に聞かれたくなかった。
後にも先にもない。畑中葉子の「後から前から」の方がまだマシだ。何を言ってるんだ?
今、あらためて歌詞を見ると別に大したことは書いてないのである。
その後の百恵を知っているから驚愕しないのか、感性が鈍ったか、これを成長と言うのか、
これを老いというのか。
しかし、あらためて聴く勇気はない。
BGM. 西城秀樹「勇気があれば」


2 Replies to “ヰタ・セクスアリス”

  1. 小説家であり、陸軍軍医でもあった、森鷗外の「ヰタ・セクスアリス(vita sexualis:性欲的生活)」掲載の「スバル」は、発売禁止になりましたね。

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