ザ・ヒストリー・オブ・川原⑥~「AZ as No.1」

26/Ⅶ.(月)2010 はれ時々くもり
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第六弾。
いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。
AZもその1人だった。
医学校時代、薬師丸ひろ子が「古今集」というLPを発表した年のお話。
AZは外見は可愛いいが、あまりブリブリ・キャピキャピしてなくて、さっぱりした親切な人だった。
性格的には男っぽいのかもしれない。
だから、恋愛の対象として大ブレークすることはなかったが、隠れファンは多かった。
AZ人気がブレークしない別の理由は、もう何年もつき合っている彼氏がいることだ。
AZは自慢するでもなく、かと言って秘密にもしてなかった。
AZが21才の頃だろうか。AZの誕生月は11月なのだが、その誕生日の前に彼氏と別れたらしい。
この噂は一瞬にしてクラス、学校中に広まった。
我々の耳にも入ってきた。僕と藤巻人間とベナの3人は、紳士的に闘おう、と協定を結んだ。
もうじきAZの誕生日、ここはひとつ各々が「バースデー・テープ」を作りAZに贈り誰のテープが
心を射止めるかで勝負をしよう。
「かぐや姫」のおとぎ話みたい。まだMDのない時代。条件を次のように決めた。
①テープはTDKのAD45分を使用する。
②コンセプトはバースデーだが、必ずしもお誕生日の歌だけでなくてもよい。
③薬師丸ひろ子の「元気を出して」はなるべく入れる。
④風の「22才の別れ」は入れてはいけない。
⑤テープ以外のものをプレゼントしてはいけない。
⑥曲目紹介のインデックス・カードを添えるのはよいが、ラブレターのような内容は禁止する。
ここから「バースデー・テープ作り」という名の恋を争うレースが始まった。
一番有利なのは、洋楽・邦楽すべてのジャンルに全方位網的に博識な藤巻人間だ。
彼はソラで、バースデーソングと歌手名を2~30は言えた。
それを絞り込み曲順を考え、曲と曲のつなぎにジングルのようなものを使おうと自信満々だった。
べナは、「ポパイ」なんていう当時のオシャレ雑誌にも載ったことがある我らのファッション・リーダーなので、
オシャレなテープ作りを心掛けた。
骨董通りにある「ハイドパイパーハウス」という輸入レコード屋でレコードをチョイスしていた。
スティービー・ワンダーをものすごく上手に使っていた。
僕はというと、A面は遠藤賢司の「踊ろよベイビー」、クレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」、
遠藤ミチロウの「お母さんいい加減あなたの顔は忘れてしまいました」、
原田知世の「天国にいちばん近い島」、ZELDAの「東京TOWER」、A.R.B.の「ダン・ダン・ダン」、
ムーンライダースの「9月の海はクラゲの海」などと、まぁまぁの滑り出しだったのだが、
経過報告でお互いの試作品を聴き合う品評会をやったら、彼らの出来が素晴らしく、…戦意喪失。 
B面は山崎春美の「タコ」とかいうインディーズのレコードで前衛的な音楽に
「草葉の陰から一生呪ってやる」と延々とシャウトしてる演奏があり、
それが丁度20分ちょっとあったからそのまま吹き込んで終りにした。
絶対、こんなバースデー・テープ貰いたくないな。
AZ、ごめん、悪気はなかったんだ。
で、このレースの行方がどうなったかというと、AZは僕らのプレゼントをとても喜んでくれ、
「ありがとう」と感激してくれた。
その日の僕らは僕の家に集まり、感想を言い合ったり解剖学の勉強をしたりした。
後日、どのテープが一番良くてどれが一番駄目だったか?を3人で聞きに行ったら、AZはやんわりと
「人に順位はつけられない」みたいなことを言っていた。
AZは1年後の11月、僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。
藤巻人間が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。
「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、
それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。
BGM. SMAP「世界に一つだけの花」


2 Replies to “ザ・ヒストリー・オブ・川原⑥~「AZ as No.1」”

  1. いい話ですね。
    川原さんは、卑下する必要なく自分の個性・強みを発揮したと思います。
    そしてAZ(そんな名前の柔術クラブを知っています)さんの対応も大人です。
    きっと3人の戦いではなく、元彼も含め4人、
    いや彼女の気持ちも含めるとそれ以上人数の戦いだったと思います。

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