白い部屋

12/Ⅳ.(火)2016 はれ、暖かい。
子供の頃から、繰り返しみる夢があった。
僕は静かな白い部屋にいて、壁にもたれかかるように体育座りして、高い窓から光が差し込む。
見覚えの無い部屋だが、どこか懐かしい部屋だった。
心当たりのない部屋なのに、鮮烈な記憶があった。
そんな風だから、一時期は前世の記憶かしら?、などと考えたりもした。
どの夢にも共通するのは、無音の白い部屋ということで、なぜそこにいるのかは、夢によってバリエーションがあった。
理由が無い場合もあったし、ある時は、政治犯だったし、ある時は凶悪犯罪を起こした罰だった。
正義であるがゆえに、悪い権力者に無実の罪で投獄されたこともあった。
いずれも、僕の感情は無感情、何の抵抗も工夫もせず、その状況を受け入れていた。
結局、そこが僕の「居場所」であったような気さえした。
精神科医になって、研修医の2年目で関連病院の単科の精神病院に出向した。
僕は大学病院とリハビリセンターくらいしか病棟を知らなかった。
今はもうそんな病院はないが、僕が医者になりたての頃の精神病院は、アメニティより収容に重きを置くような作りだった。
そんな中、過度に刺激的になっている患者さんを、他の患者さんから隔離する部屋を「保護室」と呼んだ。
保護室は大学病院の病棟にもあったが、僕は僕の勤務先の病院の保護室をみて愕然とした。
それは、ずっと子供の頃から、夢に出て来ていた、白い部屋、だったから。
僕は医者になって3年目から大学院に進学するため、大学に戻った。
医者になるとお金が儲かりそうだと思われがちだが、それは何年かしてからで、
今は随分と改善されたようだが、当時の研修医の月給は5万円だった。
僕は比較的、若く結婚していて子供もいたが、大学院生は無給で、むしろ学費を払わないといけなかったし、
卒後教育も大切で、勉強会やスーパービジョンにもお金がかかった。
見かねたオーベン(指導医)が、アルバイト先を紹介してくれて、日曜日やまとまった休みには出稼ぎに行った。
今はもうそんな所はないだろうが、当時は「無医村」のような精神病院が地方にはあった。
僕は夏休みに家族を連れて、九州や東北の病院に2週間泊り込みで勤務に行った。
宿舎を用意してくれると言われたが、そこのお風呂場に黄色い巨大な物体があり、家族は悲鳴をあげた。
何かと思ったら、キノコ、が浴槽からはえていた。
僕は昼間、病院に行って仕事をして、夕方に宿舎に帰った。
九州の病院では、赤とんぼ、がいっぱい飛んでいて、僕は<なんとかこれ食えないかな?>と思ったものだ。
僕の仕事は、「いればいい」、だけだった。
さすがに医者がいないのはまずいからという理由で、雇ってもらえていたのだから。
回診と言って、病棟の患者さんの様子をみて回る時に、保護室の患者さんの様子もみる。
看護婦さんは、「この人はもう何年もここから出られないのです」と僕に説明した。
僕は、ナース・ステーションに戻ってから、カルテをみた。
すると入院時から何年も1回も薬が変更されていなかった。
これは何とかなるかもしれない、と思った。
僕は薬の調整と患者さんへの働きかけを考えた。
看護婦さん達は、やる気になって、どんな指示にも嫌がらず、無理な要求も頑張って動いてくれた。
僕には2週間の時間しかなかったが、複数の患者さんを保護室から出す事に成功した。
看護婦さん達は、自分たちがあてにされたことをすごく喜んで、仕事をしてて良かったと言った。
僕の大学院の生活は4年間だったから、そんな出稼ぎを、その間、ずっと続けた。
同じ病院にも行ったし、違う病院にも行った。
それは、僕が雇われる理由は、医者の腕ではなくて、医者がいないと困るから、で、その時の病院の都合によった。
でも、行く先々で看護婦さん達の反応は同様だった。
よく「チーム医療」などと言って、医者はそのリーダーだと言われる。
リーダーに求められるのは、その人の治療的な姿勢に尊敬が出来て、強力なリーダーシップで皆をその気にさせ、
明確な指示をだし、役割分担の采配をして、その結果における責任のすべてを医者自信が背負うという覚悟だと思う。
僕にもしそれがあるとするならば、それは大学や教育機関では習わなかったし、教えてももらわなかった。
僕はこのジプシーのようなアルバイト生活で、限定した2週間の仕事で、それを実感したのだと思う。
看護婦さんや薬剤師さんや栄養士さんやお掃除のおばちゃん達が一丸になって結束した力は、
我々の臨床のエネルギーにも転換された。
そして僕は大学院を修了し関連病院に派遣され、医者になって7年目で、やっとアルバイトをしなくて良い生活が送れた。
それまでに、多くの患者さんを保護室から出せた。
不思議な物で、そのせいなのか、それ以来、僕は、白い部屋、の夢をみなくなった。
BGM. 八神純子「さよならの言葉」


4 Replies to “白い部屋”

  1. 先生のリーダー像はその通りだと思います。
    上司が覚悟をもって全責任を負うという形がないと人はついてきませんよね。
    まさに、今自分に求められてるのがそれなんだと思います。
    先生、なんかアドバイスをください!

    1. sinさん、いつもコメントありがとうございます。
      リーダーへのアドバイスですね。
      まずは、自分が生き残ること。
      そして、まだ余裕があったら、隣のメンバーに働きかける。
      それでも、まだ余裕があったら、その隣のメンバーに働きかける。
      それでも、まだ余裕があったら、そのまた隣のメンバーに働きかける。
      それでも、まだ余裕があったら、~その繰り返しですね。
      マザー・テレサ方式です。
      それが、燃え尽きないコツですかね。
      お互い、頑張りましょう!

  2. ストロング金剛デス
    九州ドサ廻りの話し、興味深く読ませていただきました。良い想い出ですね〜羨ましいです。
    自分も若かりし頃はドサ廻り興行に行きましたが、関東近郊が殆んどでした。
    チーム医療の話しも参考になりました。何かを変えようとするのは大変な労力ですし、熱い気持ちがないと出来ないですよ。
    職種は違えど、リーダーのモチベーションで組織は変わりますよね。
    自分が左遷されたのも、どんな理由にせよ自分がやる気を無くしたからに他ならないです。決して組織のメンバーのせいではないんですよね〜
    今の自分は窓際で、いかに責任逃れで楽するかを主眼においてます。昔自分がさげすんでいた同僚と同じ様な事をやっていてお笑いですよ。
    取り敢えず、言うだけはただなので言っておく事にします。私も熱く燃えつき真っ白になりたい!!
    それではオマタ〜

    1. ストロング金剛さん、こんばんは。
      僕も事実上、クビになった病院では、スタッフのことを信用できず、全部自分でやろうとして燃え尽きました。
      その時、1人の看護婦さんに「先生、もっと看護婦を信用して下さい」と言われたけれど、その時の僕は聞く耳がなかったですね。
      あの失敗があって、今がある、というべきなのでしょうが、今同じ条件でもまた同じことをしそうです。
      難しいですね、人生は。
      では股。

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