顧問!

28/Ⅰ.(火)2014 寒いけど、昨日と同じくらい
そもそも、ブログを始めるにあたって、何を書くか判らない、と思っていた。
それは、「書くべきことが何か判らない」という内容的な意味と、「何を書くかぁ判りゃぁしない」という自覚のたとえと。
だから、ブログのタイトルを「川原達二の十中八九N・G」にしたのです。
他の候補は、「川原達二の言わなければよかったのに日記」。
これは、深沢 七郎からの拝借、オマージュです。
アイデアでは、文字だけでは伝わらない事もあるだろうから、ブログ記事の最後にBGMとして音楽を添えようと考えた。
その結果、悩んだ末、ジューシィ・フルーツに軍配があがったのです。
さて、そんな訳で、「川原達二の十中八九N・G」は、当初の予測通り、たまに不適切なことも書いてるようです。
僕の友人知人や同業者の人も読んでくれてるようで、今年の年賀状にも、何枚か、「読んでますよ」と書いてくれていた。
たまに「あんなこと、書いて大丈夫?」とか、ストレートに「大丈夫?」と聞かれることがある。
この2つの違いは判りますか?
後者は、僕自身の心配をしてくれてる訳です。
そこで、ネット社会は恐いというし、遠くの友人にチェックを依頼した。
検閲というか、「ヤバイ」記事には、連絡をくれるように。
コメント欄は、僕が読むのが遅いこともあるから、直で「大丈夫?」と知らせてもらうことにした。
顧問のようなものです。
これからは、去年の10月19日の「風の噂とブログの予告」で宣言した記事に突入します。
以下の順番です。
①「生きること、死ぬこと」
②「石野真子35th Anniversary Tour2013 しあわせのレシピ」のレビュー
③「バリ島」旅行記
④「BELLRING少女ハート」のライブのレビュー
⑤アニメ「日常」のDVD特典の肩身分け
⑥「爬虫類を飼うこと」
⑦立川志らくの落語会
これらは、①の「生きること、死ぬこと」を書き出してみたら、他に優先しなければならない事に気付いてしまって。
筆が止まっていましたが、何とかなりそうです。
石野真子の誕生日が、1月31日なので、②は当日にアップさせたいですね。
でも、良く考えたら、これらは僕個人の趣味趣向や性癖や変態性がもろに出る可能性が高いです。
N・G、必至!?
そこで顧問の出番です。
去年のクリスマス辺りの記事は、評判が悪かったです。
イメージダウンです。
あれを見て、新患予約を取り消した人もいるとかいないとか。
ですから、今後のブログ記事は、投稿して数日で、消えるかもしれません。
スリル満点、「川原達二の十中八九N・G」、皆さん、お見逃しなく。
顧問には、顧問料は支払わないけれど、代りに「まど☆マギ」の究極フィギュアの写メを先行送信しておきました。
それは、クリニックの受付に飾ってあるものです。↓。

そうそう、たまに質問されるので、答えておきますが、カワクリ内のフィギュア等の内装は撮影OKです。
ただし、プライバシーには配慮して、人が写らないようにして下さい。
それともう1つ、スマホなどの充電もOKです。スタッフに声をかけて下さい。コンセントのありか教えます。
次回は、おそらく、「生きること、死ぬこと」をお送りできると思います。
先に言っておきます、それを読んで、僕を嫌いにならないで下さいね。
BGM. リッチー・ヴァレンス「COME ON, LET’S GO」


番外編・父の命日

8/ⅩⅠ.(金)2013 くもり
前回と前々回とその前の記事を読まれた方は、さすがに今回は予告通りに、記事が進むと思われたでしょうね。
でも、「生きること、死ぬこと」を書くには、同時進行で先に済ませないといけない案件が生じてしまって。
今は、そっちに手を取られてしまっていて。
優先順位というのか、まずそっちを済ませてから、或いはその合間合間に書いてゆくので、しばらくお待ち下さい。
でも、そんなことをしているとその間はブログの更新が滞ってしまうので、今日も番外編をお送りします。
今日は11月8日、父の命日なので、お墓参りの代りに、父の思い出を記します。
父は大正10年生まれで、戦争中は家族と離れ離れになって、結核を患い足が不自由になって、満州に渡り医学校に入るも、敗戦で日本に戻り、東京の医学校に入り直し、自分より10以上も年下の同級生と一緒に勉強したとかしないとか。
あまり自分の苦労話をしなかったので、良く知らない。
父は何故だか、縁もゆかりもない茅ヶ崎という海に近い町を選び、そこに住み眼科医院を開業した。
家は茅ヶ崎の南口の駅の近くにあって、もう少し海の方まで行くと別荘地が多くなる土地だった。
僕が子供の頃は、近所から引っ越す人が多くて、そういう人から土地を買って、家はどんどん広くなって行った。
最終的には、ワンブロックくらいあったんじゃないかしら?
庭に池やプールや歌碑や書庫があり、職員の寮や患者さん用の駐車場や母方の親戚の住まいも近くにあった。
僕は小学校低学年の頃、裏に住む祖母のところに話し相手に行ってた。
炬燵に入って、日本茶と和菓子を食べ、夕方に流れる時代劇の再放送や大相撲中継を一緒に見ながら談話していた。
祖母は、母方の祖母で、「タッちゃんのお父さんは、トリ年生まれだから、夜明けを告げる人で、だから立派に一代で財を築いた」と幼い僕に説明した。
僕は、<じゃぁ、だったら、僕は大人になっても働かなくてもいいね>と言ったら、祖母は狼狽した。老婆を狼狽させた。
祖母は、「タッちゃんはトラ年で一番強いんだから、お医者さんになって、お兄ちゃんと一緒にお父さんと3人で病院を大きくしないと」と言ったが、それは嘘っぽかった。
本心でそう言ってるようではなかった。
ただ、立場上、そう言わざるをえないという雰囲気だった。目を合わさなかったもの。
でも、昭和40年代の医者の子供は皆、「後を継ぐのが当然」のように育てられてたようだ。
良い悪いではなくて、そんな時代だったのだと思う。
小学校でも、教師やクラスメイトは無条件に僕は将来、医者になるものだと決め付けていた。
学級で、お腹が痛い子が出ると、まず僕に診てくれ、とやってきたものだ。
そして、僕は「保健室に行け」とか「家に帰って病院に行け」とか指示を出していたものだ。
僕は小4の時、手の骨を骨折して、父の知り合いの整形外科の医者にかかり、その家族と付き合うようになった。
クラスに医者の子は僕だけだったので、よその医者の家の様子を知るのは、自分の家と比較して自分を客観視する上で参考になった。
僕の怪我は野球の試合中に起きた。
僕はショートを守っていて、三遊間の深いゴロを逆シングルでダイビング・キャッチした際に、左手の親指に全体重がかかって複雑骨折した。
それでも、僕は起き上がり様、ボールを右手に持ち替えスナップを効かせて、一塁へワンバウンド送球、打者走者を刺した。
思い出は美化されるもので、僕のファインプレーは僕の記憶の中で日々、華麗に上書きされた。
だから、大きくなってプロ野球の好プレー特集などを見ても、<俺の方がスゴい>と本気で思っていた。
高校を卒業する頃は、ドラフト会議で指名されるんじゃないかとドラフト前日に床屋に行ったりした。部活はブラバンだったのに。
僕の骨折した左手の治療方針は、ギブス固定だった。まだ子供の手なので、手術だと骨が成長しないからと言われた。
だから、僕は左手に分厚い石膏のギブスを数ヶ月していた。
グラブははめられなかったが、右手は使えたので、野球ではピッチャーをした。
捕手からの送球はワンバンで返してもらい右の素手でキャッチした。
ある日、僕のギブスの石膏がどの位、硬いのかと話題になった。
上級生達が来て、試しに脳天に空手チョップを打ってみて、と頼まれた。
皆、おっかなびっくりで、口々に、「軽くな」と言ったが、僕は容赦なくジャンピング脳天チョップを食らわした。
皆、頭を抑えて、転げまわって痛がった。
それ以来、僕は小4にして、学校で最強の男になった。
誰も、僕と喧嘩をしようとはしなかった。
それは、最強の武器であるギブスが外れた後もそうだった。
おそらく皆が恐れたのは、僕の左手のウェポンにではなく、平気で本気チョップを打ち込んで来る凶暴性だったのだろう。
ギブスが外れた後は、リハビリの日々だった。毎日、病院に通った。
父の知り合いのその病院は茅ヶ崎の南湖という海岸の方にあって、僕の家からは少し遠かった。
僕はバスで通っていた。
これで治療が全部、おしまいとなった日に、父の友人のお医者さんは僕を車で自宅まで送ってくれた。家族総出で。
僕の家は両親とも運転免許証をもってなかったから、車がなかった。
だから、家族が一台の自家用車で移動するという空間にお邪魔するのはよそと自分の家を比較する上で新鮮だった。
その家のお父さんが運転手をして、僕が助手席に座り、後部座席に奥さんと子供が2人いた。「人生ゲーム」みたいだと思った。
子供は、僕より年少の人見知りをしない騒々しい男の兄弟だった。
道中、彼らは父親に向かって、「ねぇ、このお兄ちゃんを治したのは、パパ?」と後ろから話しかけていた。
父の知り合いの医者は、ハンドルを握りながら、子供たちに、「違うよ。タッちゃんが一生懸命、自分で治したんだよ」と答えた。
僕は、この家では子供は自分の父親を誇りに思うんだ、と思って、自分にはそういう気持ちが欠けてるな、と思った。
僕は自分の両親に車内でのやりとりの一部始終を報告した。
<お父さんの友人の医者は、自分が治したと自慢してもいいのに、治療は患者の治そうとする気持ちが大事だと教えてたよ。
英才教育だね。なかなか大したものだよ。あの兄弟は、将来医者になって、あの病院を大きくすると思うよ>と僕は言った。
すると、僕の父と母は、顔を見合わせて、困ったような顔をして黙り込んだ。僕は、その瞬間の「間」をよく覚えている。
その後、僕は疲れて、居間でそのままうたた寝をしてしまった。
母が僕に毛布を掛けた拍子に目を醒ましたが、同時に両親の会話が耳に入って来た。
父「さっきの達二の言い分を聞いたか?」。母「ええ」。
父「達二は、将来、駄目かもしれないな」。母「あの子は、難しいから」。
その後、父母、沈黙。僕は、重い空気を読んで、タヌキ寝入りを続行。
そして、それからいつか、チャンスがあったら、問い質してやろうと思っていた。セリフも考えた。
<何をもって駄目と定めるのだ?駄目の定義を明確に述べよ。逆に、駄目じゃない状況とはどういうものを指すのだ?
それのメリットは何だ?仮にそれが良いものだとして、それは誰の価値基準だ?>などと。
しかし、結局、それは聞かなかった。
父は、僕が二十歳の頃、胃癌が見つかって、医者をリタイアした。
僕は、子供の頃は、あまり父と話さなかったが、父が死ぬまでの1年弱はよく話した。
その頃の父は僕の個性を認めていて、僕が着てた普段着のツナギをお揃いで着たり、僕の吸ってる煙草の銘柄を、マネした。
それは、セーラムのメンソールで、茅ヶ崎の風土にはよく似合った。
癌に煙草は良くはないのだが、父はもう手遅れだったので、僕らは一緒に吸っていた。
もうその頃には、父の「達二は、将来、駄目かもしれない」発言の真意や言及はどうでもよくなっていて、煙草の煙と一緒に僕は煙に巻かれてやった。
BGM. トレメローズ「サイレンス・イズ・ゴールデン」


番外編・母の誕生日

5/ⅩⅠ.(火)2013 くもり
前回と前々回の記事を読まれた方は、予告通りに、記事が進むと思われたかもしれませんね。
まずは、「生きること、死ぬこと」なのですが、これを書くには先に済ませないといけない物が生じてしまって。
優先順位というか、同時進行というか、そっちの合間を見つけて書いてくので、しばらくお待ち下さい。
①「生きること、死ぬこと」、②石野真子、③バリ島、④ベルハー…の順番で行くので。
さて、そんな訳で、ブログの更新が滞ってしまうので、今日は11月5日、母の誕生日なので、母の思い出で繋ぎます。
母は2006年3月19日に死去していますが、僕はろくにお墓参りなどしていません。
そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、(お墓も建てるって言うのかな?)、そのお墓には両親の骨が入っています。
でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。
それは、あの寺の坊主が僕は気に入らないんだ。ひどい人相してて、態度もふてぶてしい。おまけに、その嫁も。
あいつらに会うのが嫌で、お墓参りをしなくなったと言っても、過言ではないよ。
そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかったし、母だって、父が死ぬまでは行った事がないはず。
つまり、縁もゆかりもない場所だ。
何かの歌にあったけれど、お墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのだ。
こんなことを言ったら、細木数子あたりにどやされそうだが。
僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。
そもそも、三回忌だとか七回忌に法要があったかどうかさえも知らない。知らされてないし。
こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれない。
なので、その名誉挽回に、母の誕生日に母の思い出を綴ろうという訳だ。
形式にとらわれない、供養の仕方を模索したい。母に語りかけ口調で。
お母さん、小学校の頃、僕は背が小さかったですね。
ある日、お母さんは僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ましたね。
「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいましたね。
聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言ってましたね。
僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど。
お母さんが悔しがってるのが、かわいそうでね。
僕はお母さんから、馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。
それで、家に帰って、その報告をしたら、お母さんは嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてたね。
もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きましたね。
僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血しましたね。
すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しましたね。
箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃かな。
お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって。
口もきかないから、お母さんは困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいましたね。
こう考えると、僕は我儘ですね。「My Mother」=「我がママ」の駄洒落じゃないですよ。もっとしんみりした話をしたいのです。
でも、我儘と言うより、僕は自分勝手でしたね。
大学の入学式です。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。まだ反抗期ですね。
僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。
あの時は、ごめんなさい。悪かったと思っています。
あの日、お母さんは、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってましたね。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。
あれが正解だったのかも。
そう言えば、兄の結婚式の時も。
僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。
結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、お母さんはホットした顔をして、振り向いて笑っていましたね。
僕にも今、家族がいて、世間体は保っています。
でも、家族って言っても、他人とあまり変わらないですね。
家族だって、他人と一緒。これって、考えようによっては、博愛主義者みたいですね。
僕は、お母さんの作る「ロースト・ビーフ」が好きでしたよ。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですよね。
高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。
それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べるんだ。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないんです。お母さんは、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったからね。
こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。そりゃ、ファミレスだからね。
僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。
その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言うんだよ。
多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたんだろう。
だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえないんだ。
僕とその子の目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いを送った。
しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがったんだ。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていてさ。
僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
でも、親だから教える義務があるとか、理屈は判るよ。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、お母さんのことを思い出して、考えますよ。
お母さんは、僕の心の中にいると思ってますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だよ。
BGM. ザ・ローリング・ストーンズ「Have You Seen Your Mother Baby, Standing In The Shadow?」


「くどう君」と「干しぶどう」の思い出

13/Ⅷ.(火)2013 はれ
きゃりーぱみゅぱみゅのファンクラブから、お知らせがありました。
「きゃりーぱみゅぱみゅと行く日帰りぶどう狩りバスツアー」です。
日程と開催地は以下のようです。
8月15日(木)名古屋駅 出発・解散
8月16日(金)新大阪駅 出発・解散
8月17日(土)新宿駅 出発・解散
内容は、①きゃりーちゃんと一緒にぶどう狩り、②昼食会場にてきゃりーちゃんとお楽しみコーナー、
③きゃりーちゃんと集合写真撮影、④ファンクラブツアー限定のお土産プレゼント、など、だそうです。
僕は、どの日も診療なので、残念ながら不参加です。
でも、是非、きゃりーぱみゅぱみゅとぶどう狩りに行きたい人は、ファンクラブに今から入ったらどうでしょう?
あっ、でも申込みは先着順で定員になったら締め切りと書いてあるから、もう遅いかな。
すみません、良く読んだら、もう受付期間、終ってました。
もっと早く教えてあげれば良かったですね。今度からは、そうしますね。
きゃりーのライブを観に行った時(2013年3/25の記事、良かったら見て下さい)、苺狩りツアーをやりたいと言っていた。
それが、ぶどうに変更になったんですね。季節の影響もあるのでしょうね。
ファンとの交流をいち早く行おう、という前向きな果実変更なのだろう。えらい!
ただ1つ、苦言を呈させて貰えれば、しょこたんのバスツアーは「ツーショット写真」が売り物です。
今回のきゃりーちゃんのバスツアーはグループごとの撮影なので、是非、次回の企画時にはそこを1つ考慮して欲しい。
さて、ぶどうで思い出したのだが、僕は「干しぶどう」が嫌いである。
それには訳があって、その訳を思い出したのだが、わざわざここで書くようなことでもない気がする。
かと言って、普段、立派なことを書いてるかと言えば違うので、書くことにする。
前置きとして、僕はぶどうは好きである。
嘘ばっかりつく僕の指導に困った教師から、葡萄をもらったこともある。
巨峰は皮ごと食べるし、ワインも明日が休みなら3本くらい飲む。
だけど、「干しぶどう」だけは食べれないのだ。
どこかの有名な贈り物の定番のレーズンサンドも食べれない。
普通、嫌いな訳が判ってれば、苦手は克服しそうなものなのだが、僕の理由は小学校の低学年の頃、鮮明に覚えてる。
「くどう君」という同級生が、お父さんの転勤で「ロンドン」に引っ越すことになった。
僕の田舎は茅ヶ崎で、東京には近かったが、同じ学校から海外に転校する子は珍しかった。
「くどう君」と僕は仲が良くて、引越しが決まってから、僕は「くどう君」の家に遊びに行った。
季節は、今くらいの真夏だった。「くどう君」の両親は、準備で忙しかったのか、不在でおばあちゃんが家にいた。
僕と「くどう君」が遊んでいると、おばあちゃんが麦茶とおやつに「干しぶどう」を差し入れてくれた。
「干しぶどう」は、白く丸い皿に並べてあった。
そして、時は、真夏。
「くどう君」のおばあちゃんは、昭和40年代当時のおばあちゃんとして平均的だったと思う。
彼女は白いノースリーブの下着のような服を着ていて、かがんで皿を置く時に胸元から谷間が見えた。
「くどう君」のおばあちゃんはノー・ブラだったから、垂れ下がった乳房とその先に萎んだ乳首が見えた。
僕は、その垣間見えてしまった「くどう君」のおばあちゃんの乳頭と、皿の上の「干しぶどう」が同一の物に見えた。
それで、「食べろ、食べろ」というババァに吐き気がして、それ以来、「干しぶどう」を見ると老婆の乳首に見えた。
菓子パンに「干しぶどう」が乗っていたら食べれない。
ピラフに「干しぶどう」が入っていたら顔をそむけた。
その頃の僕は、過敏になっていて、「干しぶどう」だけをよけて食べるのも無理だった。
接触してるということは、汚染されてることを意味したから。それだけで、全部アウト!
ちょっと高級なレストランに連れて行かれ、気の効いた料理に「干しぶどう」が入っていて、僕はそれに手をつけなかった。
僕はそういう子だったので、親は別に理由も聞かないで放っておいてくれたので、今思えば感謝してる。
さすがに僕も大人になって、今では、何秒以内に「干しぶどう」をよけたらセーフ、という独自のルールを作り、
おかげで食べれる料理の幅も広がった。
話を「くどう君」に戻そう。
僕は、「くどう君」のお別れの会のことは良く覚えている。
「くどう君」はクラスの人気者で女子からも絶大な人気があった。多分、俺の次くらいに。
女子たちは皆、泣いていて、中には、「くどう君、行かないで」と無責任なことを言う奴もいた。
ま、子供だから仕方ないか。
でも、担任は大人なんだから、しっかりして欲しい。
クラスの空気は、「くどう君、行かないで」一色になりかけてたのに、あの先生は何もしなかった。
そして、目で僕に「この場をなんとかしろ」みたいな合図を寄こした。
僕は、<ここはお前の仕事だろ>と視線で返した。
でも、流れからしょうがない。
僕は皆に向かって、<そんなこと言ったって、親の都合だからしょうがないだろ>と言った。
一瞬で、「そりゃそうだ」という雰囲気になった。
そして、僕は、<ロンドンには、ドンドン行け!>と「くどう君」の背中を思いっきり叩いた。
「くどう君」は、2・3歩、よろけてから、振り返った顔は涙まみれで、「タッちゃんは、大人びてるなぁ」と笑った。
それが、「くどう君」の最後の笑顔だった。…って、「くどう君」、死んでないし!
という訳で、きゃりーちゃんのぶどう狩りバスツアーから思い出した、真夏の「くどう君」と「干しぶどう」の思い出でした。
BGM. 高田みづえ「パープル・シャドウ」


知ってて、わざわざ、騙される

6/Ⅵ.(木)2013 ホントに梅雨??快晴
僕には、子供の頃、おかしなクセがあった。
それは、借りてもいないお金を友達に返すのだ。
額は、50円とか100円単位だが。
友達は、当然、貸してないので、受け取らないのだが、僕は嘘が上手かったから、相手を言いくるめて、貸した気にさせた。
友達は、「そう言えば、貸してたかも?」とか言って、小額のお金を受け取るのだ。
僕は心の中で、<しめしめ、馬鹿め>とほくそ笑むのだ。
そんなことを中学生くらいまでしていた。
何で、そんなことをしていたのか、きっと人に借りを作りたくないとか、誰かに借りを返さなくてはという強迫観念みたいなものだったのかしら。
僕の実家は茅ヶ崎で、割と大きな家だった。
当時は、「乞食(こじき)」というのがいて、大きな家に「何か食べるものを恵んで下さい」とやってくると聞いていた。
そして、大人たちは、口を揃えて、「乞食に、食べ物をあげてはいけない」と言った。
1度、あげると、この家はくれると思って、それ以降、何度も来るようになるからだそうだ。
僕がまだ小学校にあがる前だったと思う。
僕の家に、女の乞食が来た。その時、家には僕しかいなかった。
女の乞食は、「食べ物を恵んでくれ」と言った。僕は、<1度、あげると何度も来るようになるからあげれない>と断った。
すると、その女の乞食は悲しそうな顔をして、「これっきりだから、2度と来ないから」と訴えた。
子供の僕には、その人が嘘をつくようには、見えなかった。
僕は、<ちょっと待ってて>と言い、食卓にあった、おにぎりをあるだけ女の乞食にあげた。
女の乞食は、何度も何度も、「ありがとうございます」と礼を言い、帰って行った。
何度も何度も振り返っては、お辞儀をして去って行った。僕は、その姿が見えなくなるまで見送った。
それ以降、約束通り、女の乞食は、うちに来なかった。
僕は、女の乞食を信じて良かったと思った。と同時に、大人の言うことを鵜呑みにしてはいけない、と思うようになった。
こう書くと、ちょっと美談のように読めるかもしれませんね。だとしたら、すみません。違うのです。
僕が女の乞食におにぎりをあげたのは、乞食のためではなく、親にずっと乞食の話を聞かされてて、会ったこともない乞食に申し訳ないと思っていたからで、だから、僕は自分のうしろめたさを埋めるために乞食におにぎりをあげて、楽になろうとしただけ。
あげた乞食がたまたま良い人で、約束を守って、2度と来なかっただけの話で。
僕は医者になってからも、少しおかしなクセが残っていた。
医局に入ると、関連病院にパートに行けるのだが、おおよその金額の最低ラインは保証されていた。
しかし、僕は、あまり評判の良くない先輩の医者から、斡旋された病院と契約した。
その金額は、最低保証ラインの半分以下だった。生活費に困った。
多くの親切な先輩達は、僕のために怒ってくれ、「その病院はやめろ」とか「あいつは信用するな」とその先輩を悪く言った。
その先輩は、病院からバックマージンを貰ってるのだと指摘する人もいた。多分、事実だと思う。
その人は、そういう人だから。別に僕は、その先輩に何の恩もなかったし、親しくして貰っていた訳でもない。
その先輩は、駄目元で研修医に片っ端から声を掛けていたのだ。
それに、たまたま僕が引っ掛かっただけだった。
こんなこともあった。遠方に引っ越す先輩が、自家用車の処分に困って、それを僕に売りつけたのだ。
僕は、自動車を運転しないから、車など必要なかった。
でも、僕は言い値で車を買い取った。家族には、怒られた。
その時も、多くの先輩達は、僕のために怒ってくれ、「あんな車がそんな値段がするはずがない」と意見を言った。
関連病院のパートの斡旋をした先輩と、車を売り付けた先輩は、別人物である。
僕のために怒って、意見をして、忠告してくれた親切な先輩達は同じ人物である。
その頃の僕は、少し、うんざりしていた。熱心に、親身になってくれる先輩達に対して。
<そんなこと言われなくても判ってるよ>、って。<知ってて、わざと、騙されてるんだよ>、って。
今、考えると、僕はおかしかったと思う。わざわざ、縁もゆかりもない人に金を騙しとられてることを知ってて平気だなんて。
きっかけは患者さんだった。
僕と同じで、借りてもいない金を他人に返す患者さんがいて、その人と面接をするうちに、<やっぱり、おかしいな>と思った。
僕は、ある日、2人の先輩に、<てめぇ、よくも騙しやがったな!このサギ野郎!>とぶち切れた。
1人は、病院の屋上に呼び出し、もう1人は、当直室の奥のシャワー室に閉じ込めた。
2人の先輩は、あっさりと謝り、話はチャラにした。
2人は、ずる賢くて、セコイ奴だったが、気の弱い人でもあったから、僕は怒りすぎ、少し、悪いことをしたな、と思ってる。
BGM. カリオカ「 Little Train Of The Coipira 」

チクりババアと南ちゃん

30/Ⅴ.(木)2013 梅雨入り、小雨
もう、1年以上、経ってしまった。その番組を観てから、僕はずっとこの記事を書きたいと思っていた。
去年の「10大ニュース」の末尾にもそう書いたが、タッチの南ちゃん、に関してである。
これは書こうと思うと体力がいるので、ついつい先送りしてしまっていたのだ。
でも、今こそ、書こうと思う。5月中に終らせてしまおう。
去年の4月、フジテレビで「1億3千万人が選ぶアニメ&特撮ヒーロー&ヒロインベスト50」という番組をやった。
文字通り、1番好きなヒーロー・ヒロインを年代別(10代、20代、30代、…)にアンケート調査した結果をランキングで発表した。
この番組には、20代の代表として、中川翔子が出演していたので、ブルーレイHDが気を利かせて自動的に録画しておいてくれたのだ。
冒頭に「タッチの南ちゃん」に関して、なんて書いているから、クイズになりませんが、皆さん、誰がベスト3だと思いますか?
そうです、ヒロインの1位は、タッチの浅倉南でした。
僕はこれがすごく意外でした。
僕の予想では、「しずかちゃん」か「ちびまる子ちゃん」か「セーラームーン」かと甘く見てたから。
しずかちゃんはヒロインのベスト50にも入っていませんでした。まる子は14位、月野うさぎは6位でした。
ヒロインの2位が峰不仁子で、3位が銀河鉄道999のメーテルでした。
「けいおん」の平沢唯と「涼宮ハルヒの憂鬱」の涼宮ハルヒは、「10代」のベスト10に入ってましたが、総合ではランクを落としました。
ちなみに綾波レイは8位、アスカは22位でした。ウルトラセブンのアンヌ隊員は9位とベスト10入りを果たしていました。
ヒーローは、3位がルパン三世で1位がドラゴンボールの孫悟空とワン・ピースのルフィが同点1位でした。
仮面ライダーが4位で、ウルトラセブン(5位)の方がウルトラマン(7位)より上位でした。
僕はガンダムは詳しくないのですが、シャア(12位)がアムロ(15位)より上でした。これは妥当なのですか?
しかし、ビックリしたのは、番組内では直接、採り上げられなかったが、画面の隅に映っていた、「70代」の1位の月光仮面だ。
少し笑った。
しかし、これをわざわざボードに書く意味はあるのだろうか?
統計には何の反映もしないと思うのだが。
大体、このアンケートがどういう方法で行われたのかは、番組では紹介されなかった。なので想像するしかない。
バイトが街頭で道行く人にインタビューをしたのかな?
70代と言えば、人生の大先輩だぞ。そんな方に対して、「あなたの好きなヒーローは?」なんて良く質問できたものだ。
俺は、そんなこと聞く勇気ないな。70代も良く「月光仮面」なんて真面目に答えたな。
近頃の年寄りは、たるんでるのかな。
話を戻そう。僕は、この「タッチの南ちゃん」が1位というのがすごく驚きだった。
「タッチ」は僕もマンガで読んだことがある。「みゆき」と「タッチ」は同時期に人気があった。
僕が大学生になった頃だ。
僕の大学では、医学生が臨床実習することを、ベッド・サイド・ラーニングと呼んで、通称、BSL(ビー・エス・エル)と言った。
BSLは、5年生から始まる。僕の大学4年の頃の学業成績は、低空飛行で、なんとか進級できるかというギリギリだった。
そこで僕は、「タッチ」で上杉達也の部屋に南の「めざせ、タッちゃん、甲子園」という文字があったのをマネしようと思い、
クラスの可愛い女子に頼んで、ルーズリーフに「めざせ、タッちゃん、BSL」と書いてもらい、それを部屋に貼って勉強しました。
川原達二も、タッちゃんだからね、「めざせ、タッちゃん、BSL(ビー・エス・エル)」はエールになりました。
そのお陰で、僕は無事5年生に進級することが出来ました。
アニメ化はその後だったかもしれない。僕は、アニメは初回だけ観て、続きは観なかった。
それは、声優・日高のり子の南役がしっくり来なかったからだ。
あっ、これは誤解しないで欲しい。
浅倉南のイメージに、日高のり子が合わなかった、という意味ではありません。逆です。
日高のり子は、売れないアイドルだった頃、「鶴光のオールナイトニッポン」のアシスタントをしていて、僕は毎週聞いてました。
鶴光とスタッフに毎回、いじめられる日高のり子を僕は好もしく思っていて、「もう一度・ブラックコーヒー」というEPも買いました。
そして僕はいつしか深夜放送を聞く年齢ではなくなり、日高のり子のことも、あまり考えることはなくなってしまいました。
だから、「タッチ」がアニメ化され、浅倉南役が日高のり子だと知った時には、仰天した。
そして、初回だけアニメを観て、南の声が日高のり子であることを確認作業はしたかった。
そして、日高のり子の声だった。
僕は、「日高のり子、良い役、もらえて良かったね」と心の中で呟いて、安心した。
今でも、時々、この手の番組で、「タッチ」が紹介されると、ご本人登場みたいにして、日高のり子が出演してるのを見かける。
その時の、番組内での、日高のり子の歓待され具合は、すごい。
日高のり子が、マイクで、「タッちゃん」なんて言うと、スタジオ中、大盛り上がりになる。
僕は、それを見るたびに、本当に、良かったなぁ、としみじみ思うのだ。
しかし、それとこれは別だ。
僕は、今回のアンケートのランキング1位が「タッチの南ちゃん」というのには、違和感を覚えた。
そこで僕は後日、クリニックのスタッフに、<南ちゃんが1位は意外じゃないか?>と同意を求めたが、
あるスタッフからは、「南ちゃんは王道」と一蹴されてしまった。
さらに、そのスタッフは、「私はアンチ南・派ですけどね、フフフ」と付け加え、ブラックに笑った。
そのブラックなアンチ南・派が誰なのかは、内緒にしておきます。
そのスタッフのイメージダウンになっちゃうといけないからね。
さて、「タッチ」ですが、調べたらマンガは、1981年から1986年まで連載されてたようです。
それは、丁度、僕が大学に入る前後から、BSL(ビー・エス・エル)くらいまでの勘定になります。
だから、「めざせ、タッちゃん、BSL(ビー・エス・エル)」はタイムリーだったんですね。
僕は、精神科医になりたくて、医学部に入学しました。
だから、他の科目に興味は全くなかったので、勉強は苦労しました。
<俺は、精神科医になるために入ったのに、何で体中の骨の名前を英語と日本語とラテン語で覚えなくちゃならないんだ!>
などと日々、激怒していました。
だから僕は態度の悪い学生で、特に1・2年の頃の教養課程では、学生課の職員に要注意人物としてマークされていました。
ある日の授業中、確か前日が部活のコンパか何かで先輩の家に泊めてもらって、そのまま学校に来た日でした。
僕は、急にシャワーを浴びたくなり、そう思うと我慢できなくて、授業を脱け出して、体育館のシャワー室に向かいました。
僕が、シャワー室に入ろうとすると、おそうじのオバちゃんが、「アンタ、授業中じゃないの?」と注意してきました。
僕は、二日酔いで機嫌が悪くて、<うるせぇ、ババア!俺は昨日、風呂に入ってねぇんだ!>と言ってシカトしました。
僕が、シャワーを浴びてると、しばらくして、3人の学生課の職員がドカドカとやってきました。
一番偉そうな奴が、「川原、出て来い!」と一喝しました。
僕がシャワー室の扉を少し開けて外を見ると、物凄い形相の3人の男の後ろで、さっきのオバちゃんが笑って立ってました。
僕は、<ババァ!チクりやがったな!>と怒鳴りました。すると、ババアは、アカンベェのように、ぺロって舌を出しました。
むかつく。
学生課の職員は僕に向かって、「今、すぐ出て来い!」とわめきました。
僕は、<今はリンスの最中なんです>と答えました。
学生課の職員はイライラした声で、「リンスを流したら、すぐに出て来い!」と怒るので、僕はリンスを流して、すぐに出ました。
そうしたら、学生課の職員は、血相を変えて、「体を拭いて来い!」と言いました。
僕は、<リンスを流したら、すぐに出て来い、って言ったのは、そっちだ>と言い返しました。
そうしたら、そう言った相手は、黙り込みました。
すると、別の職員が、「すぐに、体を拭いて出て来い!」と言い、もう1人が「服も着て来い!」と機転を利かして付け加えました。
ババアは、後ろで、そのやり取りを見て、大笑いしてやがりました。
むかつく。
服を着た僕は、立ち話で説教を喰らい、教室に連行されました。
ババアは、バイバイのポーズで手を振ってやがりました。
むかつく。
僕は、休憩時間に体育館に戻り、ババアを見つけ、<ババア、今日からお前の名前は‘チクりババア’だ>と言い放ちました。
チクりババアは、そんなことは聞き流して、「アンタ、あの学生課達の驚いた顔見たかい?傑作だったね」と大笑いしてました。
僕は、そんなババアに呆れて物が言えませんでした。
それ以来、僕らは<チクりババア、今日のチクりの成果はどうだ?>、「アンタ、皆はもう教室に行ったよ、急ぎな!」などと
挨拶を交わすような仲になりました。
そのうち、傍目からは、僕とチクりババアは、いいコンビだと噂されるようになりました。
それも、むかつく。
そんなある日のこと、僕の1個上の先輩が、大学の近くの料亭の馴染になったから、僕を連れてってやる、と言い出しました。
断る理由もないし、驕ってくれるというから、ついて行きました。
先輩は偉そうに店の人に僕を、「俺の兄弟分だ」と紹介しました。
僕は、<いつ俺がお前の弟分になったんだよ!>と心の中で思いましたが、ここは先輩の顔を立てて黙っていました。
すると、店の奥の座敷に団体客がいるのが判りました。
それは、この辺を仕切る土建屋の親方とその一味でした。
先輩は、急に徳利を持って、「おい、挨拶に行くぞ!」と僕の腕を引っ張って、その親方の所に行きました。
親方は、まだ30代後半の年らしいが、さすがにここらを仕切ってるだけあって、堂々とした風格の人でした。
それに比べて、取り巻きは、柄が悪いのや頭の悪そうな奴らで、皆、酔っ払ってて、僕は何をされるか判らなくて恐ろしかった。
でも、そこは適当にお愛想を言ったり、頭が悪い奴には判らないような皮肉や嫌みを言って、その場のスリルを楽しみました。
連中は、そもそも、酔っ払っていて、人の話などちゃんと聞けてないから、僕が馬鹿にしてもゲラゲラと笑って聞いていました。
結構、良い人達でした。
だけど、さすが親方は器が違いました。
僕の巧妙な皮肉や嫌みを見抜いて、「お前は、面白いな」と杯をくれました。
そして、これから、早朝野球があるから、それに参加しろ、と言いました。
この人達は、こんな調子で夜通し呑んでから、多摩川で早朝野球をして、それから家に帰って眠るらしい。
先輩は、「喜んで参加させていただきます」と言っていたが、親方は先輩に「お前はいい」と断りました。
先輩は、がっくりと肩を落としていて、少し気の毒でしたが、大変なのは僕の方です。
こんな連中と朝まで呑んで、それから野球だって。
先輩は先に帰っちゃいました。
大変なこっちゃ。
しかし、恵の雨というのか(意味は違うか)、明け方から雨が降り出して、野球は雨天中止になり、そこで解散となりました。
親方は、僕に申し訳ないと思ったらしく、自分の家で呑み直そうと誘ってくれました。
もう朝でした。
ここまで来て、断るのもなんなので、僕は親方の家を訪問しました。
さすが、この辺を仕切るだけの親方で、早朝に突然の訪問客(僕)が来ても、家の女性陣は笑顔で持て成してくれました。
あらかじめ用意してあったのか、瓶ビールが何本もと大皿の料理が次々と客間に運ばれて来て、僕は恐縮しました。
親方の家の女性陣とは、親方の奥さんと親方のお母さんと親方の小さな娘さんでした。
娘さんは、まだ小さな幼女でしたが、料理を運ぶのを手伝っていました。
その子はとても可愛い顔立ちをしていて、きっと奥さんに似たのでしょう。
親方が、自分の娘を見る目が、その瞳がとても優しかったのが印象的でした。
しかし、ここで大事件が勃発しました。
料理が次々と運ばれて来て、僕は「どうぞごゆっくり」と微笑む親方のお母さんと目が合いました。
僕と、親方のお母さんは、一瞬にして、同時に、凍りつきました。
それは、なぜなら、なんと、親方のお母さんは、チクりババアだったのです。
僕とチクりババアはすぐさまアイコンタクト、見知らぬ振りをしようと合意したのです。
僕は親方に、親方の母上を普段、「ババア呼ばわりしてる」なんて知れたら、半殺しにされると恐怖しました。
一方、チクりババアは、自分がチクり行為をしてると息子にしれたら、息子の顔にドロを塗ると気遣ったらしいです。
何も知らない親方は自分の膝の上に娘を乗せて、「こいつは、目の中に入れても痛くない程、可愛いいんだ」と自慢しました。
チクりババアは、料理の皿を置くと、退室時に僕にだけ見えるように、ぺロっと舌を出して、笑って、階段を降りて行きました。
僕は内心、ドキドキしてました。そして、その狼狽を隠すために、<娘さん、名前、何って言うんですか?>と聞きました。
すると、親方は嬉しそうに、「みなみ!タッチの浅倉南と同じ、南!」と答えました。
僕は、親方が早朝野球をする理由に、妙に納得させられました。
だけど、僕はそれっきり、その後は1度も親方には会っていません。生涯で1度きりの付き合いでした。
勿論、南ちゃんとも。
それからの僕は、専門課程に進んだもので、校舎が今までとは別になり、チクりババアと会う機会はめっきり減りました。
たまに遭遇すると、僕らは、<南ちゃん、元気?>とか「アンタ、良い医者になりなよ」と挨拶を交わし合いました。
あれから20年以上経つから、南ちゃんは今頃はもう、ひょっとしたらお嫁に行ってるかもしれないのです。
時の経つのは、早いなぁ。
そう、僕が言いたいのは、それなのです。
あれからそれだけ時が経っているのに、去年行われたアンケートで、ヒロインの1位が、いまだ南ちゃん!、という驚きです。
先日、Tさんに見せてもらった、最近の「ブルータス」という雑誌にも、男の好きなアニメのヒロイン・ランキングが載っていて、
そこでも、1位は浅倉南でした。(ちなみに、2位・メーテル、3位・峰不仁子、4位・綾波レイでした)
やっぱり、徳田さんの言う通り、「南ちゃんは王道」なんだなぁ。
…あっ、いけない。
アンチ南・派の正体、バラしちゃった。
BGM. 水谷麻里「 21世紀まで愛して」


自由が丘の休日。(GW③)

2013年、ゴールデン・ウイークの過ごし方。パート3.
新宿の休日。」の続き。
新宿三丁目から乗り継ぎなしで、自由ヶ丘へ。
僕は、週1のペースで自由ヶ丘に来自由(らいじゅう、と読む)しています。
それは、体のバランスを整えるためにストレッチに通っているからです。
職業柄、ずっと座っていると、肩や首や腰や目が痛くなります。
数年前までは、大岡山の「ステラ治療院」に週1で来ステ(らいすて、と読む)して、
体のメインテナンスをしていました。
今でも、本当に体がきつくなると、駆け込み寺のように泣きつきます。
すると、時間外でも診てくれて、そして何よりすごいのは1回で良くなります。
僕がステラに行かなくなったのは、南波先生という僕の担当の人がお嫁に行くために退職したのがきっかけです。
ちゃんと新しい先生に引継ぎもしてくれたのですが、この頃から僕の考えは少し変わって来ていたのです。
「治してもらう」ばかりでなく、自分で「体を整える」努力をしようと。
それで走ったり、筋トレをしたりしていましたが、冬は外は寒いし、筋トレはやってて無意味な気がして続きません。
そこに、Fさんから、Dr.ストレッチを教えてもらいました。
なんか、雑誌に出てる広告の文みたいになってきましたね。
でも、これは宣伝ではないですよ。
とても、良心的な店です。
それは僕が始めて、訪れた時のエピソードに圧縮されています。
「何が一番お困りですか?」と聞かれたので、<目が痛い>と言ったら、
「眼科に行った方がいいですよ」と応えられたのです。
良心的でしょう?
何が何でも客をとろうとしていない。
エラい!
診察やカウンセリングにも似たところがありますが、初回で感じたインパクトはその後の関係にかなり影響しますね。
僕は、最初に担当してくれた人が気に入ったのでトレーナーをしてもらっています。
Dr.ストレッチでは、自分1人では動かせない筋肉を他動的に動かしてくれるので、
最初は楽でいいやと思っていました。
でも、それだけではなく、宿題のようなメニューが出ます。それを次回までに1日何セットかづつやってゆくのです。
それは簡単ですぐ出来るものなので、たとえば、1つの診察と診察の間でも、やろうと思えばやれます。
診察の合間には、あまり、やろうとは思いませんが。たとえば、の話です。
僕は、股関節を柔らかくするメニューと、肩の稼働域を広げる運動をしています。
そうしたら、今回、トレーナーさんに「肩が抜けやすいから、締める練習に変えましょう」と
左右の肩甲骨を寄せる方法を教わりました。
決まったメニューをガイドラインのように続けるのではなく、個人個人に沿ったプランを立てるとこも、
我々の仕事に似ています。
下が、僕の通うDr.ストレッチ自由ヶ丘店。↓。

僕のトレーナーさんは、最初に担当してくれた人で、僕に、眼科に行け、と言った女性です。
トレーナーと言うと、ポケモンを連想してしまいがちですが、ポケモンとも共通していますよ、
お互いの息が合うことが大切です。
それは、我々の仕事も同じです。信頼感が大事です。
僕は毎週、日曜か月曜の休みの日に、ストレッチをしに自由ヶ丘に来自由しています。
僕は、トレーナーさんのことを信頼しています。だから、頑張って練習しています。
そして僕は、馬鹿なのかな?、今さらになって、気付きました。
ステラの南波先生から、お嫁に行くために退職する、と聞いたのが、とてもショックだったのだと。
そして、その寂しさを胡麻化すために、「治してもらう」ばかりでなく、自分で「体を整える」努力をしようと理屈をつけたんだと。
南波先生がいなくなる現実を直視できなかったのだ。
その直後は、ステラの付近にも近付かなかった。
毎週、みていてくれてた人だったからね。
仕方ないよ。
南波先生がステラを辞めたのは去年の1月だった。
本当に受け容れられるのに、1年チョイかかったんだ。(GW④)へ続く。
BGM. 三田寛子「恋するメトロ」


運が強いらしい

26/Ⅳ.(金)2013 はれ
春だと言うのに、お疲れサマーです。と、忌野清志郎っぽいおやじギャグでスタートしてみました。
今回は、ちょこちょこ、おやじギャグを入れてみましょう。
何がお疲れかと言うと、スタッフの入れ替わりと新しい人がカワクリに慣れるまでの準備です。
つまり、それに結構な労力を使っているため、新患をお断りしているのです。
もし、ご希望されていて、お断りした方がこの記事を見ていたら、すみません。そう言う訳です。言い訳です。
しかし、これは長い目で見れば、とても重要な工程で、ここをテキトーにしては後でボロが出てしまいます。
でも、ご安心。もう大体、新メンバーの布陣は決まりました。婦人ばかりです。
今後も多少のミニマム・チェンジはあるかもしれませんが、期待に応えられるように努力して行きます。
そもそもは、磐石だった受付の岡田さん&吉田さんのWおめでたい理由退職がファンファーレでした。
ファンファーレの意味、合ってるかな?
それを皮切りに、(カワクリだけに皮切り)、ここ1年ちょっとで、さっき数えたら、合計で、入った人10人、去った人9人です。
10-9=1、と引き算すると1人増えただけになりますが、「1」だけにその位置エネルギーはものすごく高いです。
それを知ってる誰かさんは、僕のプロフィールから、ナントカ占い、でこの間の運勢を調べてくれました。
すると、それは「出会いと別れの連続」だそうです。
占い、とは統計学みたいなもので、一方で、当るも八卦当らぬも八卦、とも言いますね。
占いに詳しい人に言わせると、運勢通りになる人とならない人の差は、その人の持ってる「運の強さ」によるそうです。
つまり、僕が占い通りに「出会いと別れの連続」に陥ってるのは、僕の持ってる「運」が強いのだそうです。
判ったような、判らないような、何か良いように、言い様で、言い包められてるような気もします。
でも、確かに僕は昔から、占いなどでは、必ず、運が強い、と言われます。
運が強い、と言うのは、運がいい、と言うのとは別の意味で、誉め言葉ではないそうです。
台湾では占い師が占いをして、その結果を考慮して、その人に合ったパワーストーンでブレスレットを作ってくれる店に行きました。
僕は占い師に、あなたにはパワーストーンはいらない、と販売を拒否されました。
数人でその店に行ったのですが、そんな仕打ちを受けたのは僕だけでした。オレの態度が悪かったのかな?
大学の卒業間際には、良く当る占い師のところに、数人で進路相談に行ったことがあります。
占い師は皆には親切にアドヴァイスをしていましたが、僕には「あなたはそのままでいい」と言って終わりでした。
<そのまま?、ずっと大学生かよ!>って思わず、つっこみました。
そうしたら占い師は言いました。「あなたは運が強いから、そのままでいい」って。
昔、母がまだ生きてる頃、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。
だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。
神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。
1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。
すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。
僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。
「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。
母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。
アトピー性皮膚炎に効くという水を売る、講習会に行った時も、そこの代表が僕を指差し、あなたには売れない、と言って帰されました。
まぁ、仰せの通り、必要なかったんだけどね。でも、なんで判ったんだろう。やっぱ、態度が悪かったのかな?
話は、随分と脱線しましたし、言う程、おやじギャグも挟めませんでしたね。
「出会いと別れの連続」かぁ。でも、ピンチはチャンスって言うし。辛抱する木に花が咲く、って言うし。
下は、新しい受付の今週の植物係の富田さんが、飾ってくれた診察室のお花。名前は、聞き忘れました。↓。

やっと暖かくなって来ましたね。もう、そろそろ運期、変わらないかな?
BGM. 吉田拓郎「春を待つ手紙」


電話の話し

18/Ⅳ.(木)2013 はれ
今年から、東京都精神神経科診療所協会(東精診)というのに入会した。
いや、させていただいた。
その勉強会が、13日(土)にあり、テーマは「精神科救急」関連のこと。
翌日の、14日(日)は、「こころの電話相談」の当番をした。
15日(月)は、月1の精神分析の研究会と、この休みは、精神科一色だった。
多分、皆さん、知らないと思うので紹介しますが、東精診では毎週日曜日に無料の電話相談をしています。
それは入会している診療所の「精神科医」が、当番で担当しているのです。
心理士やケースワーカーではなくて、精神科医がやっているのが貴重だと思います。
実は、僕はこのサービスを入会するまで知らなかったのです。
つまり、あまり知られていないと思う。
なので、ここで宣伝しましょう。
東精診のホームページを開いてもらうと、左端に「こころの電話相談」という囲いがあります。
そこをクリックしてみて下さい。
毎週日曜、PM2~5時まで、対応しています。
これは、当番の数日前にクリニックに宅急便でそれ専用の携帯電話が送られてくるのです。
僕は、自分がその当番だと知りながら、本部か何かに行ってやるものだと勝手に思い込んでいたから、
電話機が送られてきた時には驚いた。
前の当番の先生が次の当番の医者に直接、送るルールなのだ。
伝票には、「電話機」と記されている。
僕は、説明文をよく読んでなかったから、電話機の送り主のクリニック宛てに直接電話して、
「そちら名義で、謎の電話機が送られて来たのですが、こ、これ、心当りありますか?」って聞いちゃった。
時限爆弾か何かと勘違いして、あわてて。
そしたら、そのクリニックの受付の方は、朗らかで、親切に、「きっと、電話相談の当番ではないですか?」と教えてくれた。
そこで、やっと気がついた。お恥しい。前のクリニックの先生、失礼いたしました。
今後とも、よろしくご指導ご鞭撻の程を。
で、電話相談である。
相談は、3件あった。
これが「多い」のか「少ない」のかの判断は微妙だ。
試しに、ヤフーで「こころの電話相談」と検索してみたら、少なくとも10頁以内には見つからなかった。
岡山や広島や宮崎や埼玉はあったのに。宣伝不足なのかな。
なので、ここで紹介して、少しでも認知度を上げようと、記事にしている訳です。
無料相談ですが、通話料だけはかかりますので、念のため。
そうそう、電話で思い出したのだが、僕が高1の時、学習塾で知り合った女の子にやたら長電話をする子がいた。
その子は電話魔で、一時期、毎日のように電話がかかってきた。
当時は、携帯電話などない時代で、家の電話にかかってきた。それで、平気で2~3時間、喋るのだ。
内容は、どうでもいいことばかり。
たとえば、世良公則&ツイストの新曲について、とか。
先日、古い日記を見ていたら、架空の電話のシナリオを発見した。
それは、その子に電話する前に、僕がシュミレーションしたもので、数頁にわたっている。
シチュエーションは、僕が電話をするところから始まっている。
僕はその子の長電話には慣れっこだったのだが、自分から電話をするのは、緊張したのかな、そんなものを作って。
こちらが話しかけて、相手の答えを想像して、話が進んでゆく台本なのだが、
実際には、「一言目」から想定外のフレーズが返ってきて、無駄に終った想い出が残ってる。
僕はその子と塾の友達たちで海水浴に行ったことがある。
その子は、高1のくせに真っ赤なビキニを着ていて、それがまた何とも色っぽくなかったことを、
真夏の強烈な日差しとともに思い出す。
それは、その子の性格があまりに明る過ぎたからだと思う。
その子は、僕をそのグループで「1番可愛い子」とくっつけようと色々とおせっかいを焼いては、すべてを台無しにした。
「私に任せておきなって~」みたいなことを言って、すべて台無し。悪気はないんだよなぁ。
その子のお兄ちゃんは小さな暴走族のリーダーをしていて、その子は、それをとても嫌がっていた。
僕は、「そんなことはどうでもいいことさ」、と電話越に言ったことがある。本当にそう思ったし。
珍しくその子は、黙り込んでいた。
今、思うと僕は、その子のことが好きだったのだと思う。
BGM. ピーターとゴードン「愛なき世界」


もしかして外科医?

21/Ⅲ.(木)2013 はれ
その朝、目がさめたら、となりに知らない美人がいた。
彼女はとっくに起きていて、「やっと起きた。遅刻」と僕に言った。
それは、まだ病棟実習をする前だから、大学の3年か4年の頃のはず。
僕は、友達と、大学の近くの街で呑んでいた。
たまたま、その店でとある運動部がコンパをやっていたので、そこに顔を出した。
その頃の運動部は2次会以降は最上級生が払う、という暗黙のルールがあったから、うまいこと紛れ込んで、
ただ酒にありつこうと考えた訳だ。
その作戦はまんまと成功して、僕は3次会のパブにもなだれ込んだ。
そのパブでは、第一外科、通称「1外(いちげ)」が飲み会をしていた。奥の方で外科の医者と看護婦さんたちが騒いでいた。
僕らのグループの最上級生の6年生は、1外の方々に挨拶に行っていた。「お前も言って来い!」と言われるまま、
僕は挨拶に行き、そこで呑んだ。
気が付いたら、結構、夜も更けていて、僕は「ところで、お前、誰?」とか言われてた時には、
最初に呑んでた友人も運動部のメンバーも皆、帰っていて、僕1人だけ、1外の人達と呑んでいた。
1外のスタッフは、普段、ハードな仕事なので、飲み方も豪快だった。
忙しさやストレスと、飲み会の発散の仕方は正比例すると思う。
救命救急の飲み会に参加したことがあるが、そこでは「パイ」が飛び交っていた。ケーキのパイである。
看護婦さん達が、医者の顔面めがけて「パイ」をぶつけるのだ。普段の憂さ晴らしなのか?
こうやってバランスをとってるのか、と興味深く、上級医の顔に付く生クリームを観察した記憶がある。
話は戻るが、僕は1外の飲み会に最後までつきあい、病院の近くに住むナースの家に皆で雑魚寝したのであった。
医者や看護婦は偉いもので、あれだけ呑んで騒いでも、翌日、休まないのだから。
それに比べて学生は、僕などは、甘いのだ。
そう、僕が目をさましたその部屋は、1外のナースのアパートだったのだ。
彼女は、僕に、「将来、何科に行くの?」と聞いた。僕は、「精神科」と答えた。
彼女は、「プシコ?意外ね。外科にしたら?」と真顔で言った。
当時は、都内でも郊外は畑などがあって、僕は彼女のアパートから学校に行く路を教わって、あぜ道のようなところを歩いて行った。
すると、向こうから畑仕事を終えた、おばあさんとすれ違ったりして、僕は何か後ろ暗い気分にさせられた。
僕が、彼女にあったのはそれっきり。
医学生が病棟のナース・ステーションに顔を出すのはそんなにおかしなことでもなかった。
それに泊めていただいたお礼を言いに行くのは、むしろ人間として当たり前なのかもしれなかった。
正直、何度か、会いに行こうかな、という誘惑と戦った。だけど、僕は行かなかった。
もう1度、彼女と会ったら、僕は自分の描いている人生の線路が違う方向に行ってしまう危険を予感していたのだ。
BGM. 市川染五郎「野バラ咲く路」