ザ・ヒストリー・オブ・川原⑦~「良男さん」

27/Ⅶ.(火)2010 はれ、暑い
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第七弾。
名は体をあらわす、などと言うがこの人は良い人だった。
名前が「良男」である。大学時代の野球部の1年先輩だった。
僕はサードを守り、良男さんは控えの一塁手だった。
ある日の試合で、ショートの先輩が失策したあと、僕がサードゴロを一塁へ悪送球した。
ピッチャーは振り返って「怖くて三遊間には打たせられないな」と嫌味を言った。
ファーストだって捕れない球ではないだろう。
技術的な問題ではなく、捕る気がないのではないか?と思った。
無性に腹が立った。
そんな時、ベンチから良男さんの声が響く。
「ドンマイ~、ドンマイ~。川原~、くさるなよ~」。
3アウトをとり、ベンチに戻ると、良男さんが僕の横に座り、
「くっそ~、俺がファーストだったら捕ってやったのに。俺が試合に出れないから…」と
口惜しがった。
良男さんは努力の人だった。
野球部の練習日以外も自主練していた。
その試合の後、僕は良男さんに誘われ練習をした。
良男さんが一塁ベースにつき、僕がゴロを捕球したと想定しあらゆる体勢から一塁へ送球する送球練習。 
細長いファーストミットの先を使ってショートバウンドの球は全部すくい上げる。
頭を超えそうな暴投もジャンプしてキャッチしてくれる。
言い忘れたが良男さんは長身である。
たまさか胸のあたりにストライクのボールを投げると、
いい音を出すためにファーストミットを思いっきり強く早くはじくように閉じる。
パシーン!球が重そうだ。
「川原~、ナイス・スロ~!」、良男さんは目をつむって青空に向かって雄叫びをあげるのだ。
こっちが照れる。
その後、僕はささいなことから日々がめんどくさくなり人間関係を全部切りたくなり部活を辞めた。
学校で部活の先輩とすれ違うとバツが悪いのは初めだけで、すぐに挨拶もしなくなった。
それでも良男さんは違った。僕の悪い噂を聞きつけると、
そのたびに学生会館まで僕を探し出しにきて、
「川原、くさるなよ」「川原、学校は辞めるなよ」と、こっちが「うん」と言うまで肩を揺すられた。
先日、新宿紀伊国屋書店に医学書を買いに行った。
モン・スナックでカレーを食べ、伊勢丹の方に歩いて行く途中で後ろから「川原!」と声をかけられた気がした。
しかし、ふり返ってもそこにはただビル風みたいなのが吹いているだけで、
カラクリ人形みたいな人間が往来してるだけだった。
しかし、それは聞き覚えのあるあの人の声だ。
僕が今、こうして精神科医をやったり院長ブログを書いたりしてるのも良男さんのお陰である。
「川原、くさるなよ」と言って引きとめてくれなかったら、本当に学校辞めてたかもしれない。
感謝しておりますです、心から。
BGM. ベニー・グッドマン「夢見る頃を過ぎても」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑥~「AZ as No.1」

26/Ⅶ.(月)2010 はれ時々くもり
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第六弾。
いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。
AZもその1人だった。
医学校時代、薬師丸ひろ子が「古今集」というLPを発表した年のお話。
AZは外見は可愛いいが、あまりブリブリ・キャピキャピしてなくて、さっぱりした親切な人だった。
性格的には男っぽいのかもしれない。
だから、恋愛の対象として大ブレークすることはなかったが、隠れファンは多かった。
AZ人気がブレークしない別の理由は、もう何年もつき合っている彼氏がいることだ。
AZは自慢するでもなく、かと言って秘密にもしてなかった。
AZが21才の頃だろうか。AZの誕生月は11月なのだが、その誕生日の前に彼氏と別れたらしい。
この噂は一瞬にしてクラス、学校中に広まった。
我々の耳にも入ってきた。僕と藤巻人間とベナの3人は、紳士的に闘おう、と協定を結んだ。
もうじきAZの誕生日、ここはひとつ各々が「バースデー・テープ」を作りAZに贈り誰のテープが
心を射止めるかで勝負をしよう。
「かぐや姫」のおとぎ話みたい。まだMDのない時代。条件を次のように決めた。
①テープはTDKのAD45分を使用する。
②コンセプトはバースデーだが、必ずしもお誕生日の歌だけでなくてもよい。
③薬師丸ひろ子の「元気を出して」はなるべく入れる。
④風の「22才の別れ」は入れてはいけない。
⑤テープ以外のものをプレゼントしてはいけない。
⑥曲目紹介のインデックス・カードを添えるのはよいが、ラブレターのような内容は禁止する。
ここから「バースデー・テープ作り」という名の恋を争うレースが始まった。
一番有利なのは、洋楽・邦楽すべてのジャンルに全方位網的に博識な藤巻人間だ。
彼はソラで、バースデーソングと歌手名を2~30は言えた。
それを絞り込み曲順を考え、曲と曲のつなぎにジングルのようなものを使おうと自信満々だった。
べナは、「ポパイ」なんていう当時のオシャレ雑誌にも載ったことがある我らのファッション・リーダーなので、
オシャレなテープ作りを心掛けた。
骨董通りにある「ハイドパイパーハウス」という輸入レコード屋でレコードをチョイスしていた。
スティービー・ワンダーをものすごく上手に使っていた。
僕はというと、A面は遠藤賢司の「踊ろよベイビー」、クレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」、
遠藤ミチロウの「お母さんいい加減あなたの顔は忘れてしまいました」、
原田知世の「天国にいちばん近い島」、ZELDAの「東京TOWER」、A.R.B.の「ダン・ダン・ダン」、
ムーンライダースの「9月の海はクラゲの海」などと、まぁまぁの滑り出しだったのだが、
経過報告でお互いの試作品を聴き合う品評会をやったら、彼らの出来が素晴らしく、…戦意喪失。 
B面は山崎春美の「タコ」とかいうインディーズのレコードで前衛的な音楽に
「草葉の陰から一生呪ってやる」と延々とシャウトしてる演奏があり、
それが丁度20分ちょっとあったからそのまま吹き込んで終りにした。
絶対、こんなバースデー・テープ貰いたくないな。
AZ、ごめん、悪気はなかったんだ。
で、このレースの行方がどうなったかというと、AZは僕らのプレゼントをとても喜んでくれ、
「ありがとう」と感激してくれた。
その日の僕らは僕の家に集まり、感想を言い合ったり解剖学の勉強をしたりした。
後日、どのテープが一番良くてどれが一番駄目だったか?を3人で聞きに行ったら、AZはやんわりと
「人に順位はつけられない」みたいなことを言っていた。
AZは1年後の11月、僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。
藤巻人間が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。
「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、
それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。
BGM. SMAP「世界に一つだけの花」


ザ・ヒストリー・オブ・川原③~「エロスとタナトス」

11/Ⅶ.(日)2010 
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第三弾。
僕が小さい頃、父親は雷おやじだったので~父は大正生まれで戦時中は樺太や満州などで苦学したらしい~
いつも怒ってたので、僕は「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。
ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えた。
逆に、母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。                                                     だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、
母が死んだら後を追おうと決意した、小学校低学年の頃である。
母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。                                                               僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。
死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。                                              何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。
中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、
掲載されてるマンガがシュールで面白かった。
誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、
いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。                                                                                            
エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して
エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなっていた。
話は父に戻るが、父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。
僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、
藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、そろいで着て喫茶店に行ったりした。
医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、
「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。
父が死ぬ直前~兄はもう医者になっていて僕は医学生だった~僕は毎日、
学校の実習を終えるとお見舞いに通った。
父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。
僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、
ある日、2人きりの時にすべてを教えた。
父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。
主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」
というようなことを言われた。
だから、僕もこの件は誰にも言っていない。今、始めて言った。
父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、
まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。
BGM. 青山和子「愛と死をみつめて」


ザ・ヒストリー・オブ川原①~「家族の肖像」

3/Ⅶ.(土)2010 蒸し暑い、くもり夕方から雨
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第一弾。
生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理だった。
カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、
「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、
堂々と好きになっても許される安心感があった。
天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」
だという噂があったが、真偽の程は定かではない。
父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうよう頼んでやるから」と
交換条件をチラつかせた。
しばらくして、森昌子が「せんせい」でデビューした。
僕と一緒に歌謡番組を観てた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。
父は堅物だが、時々おかしなことを云う。
僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、
今日からお姉さんよ、などと言われても困ると思った。
その頃、モンチッチ、まだなかったけど。
茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。
僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。
そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が
松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。
朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。
「マミー」は「くれんの?」と答えた。
僕は、こいつらはお似合いだな、森昌子は「マミー」にまかせた、と思い随分と気が楽になった。
母は働き者で浮かれたことはまずなかった。
だから芸能人で誰が好きかなんて話も聞いたことがない。
唯一、歌舞伎の坂東玉三郎を贔屓にしていたくらいか。
晩年は、兄がアリスの堀内孝雄に似てると誰かに言われたらしく、2か月半くらい堀内孝雄を応援していた。
僕は部屋に月刊明星か月刊平凡の付録についていた天地真理の等身大ポスターを貼っていた。
紺色のチョッキにベルボトムのGパンを履いて微笑んでいて、隣の真理ちゃんという感じだった。
いい感じ。                             
兄の部屋は殺風景で『ミクロの決死圏』という、博士の命を救うために医療チームがミクロになって
博士の耳から体に入っていくというSF映画のポスターが貼られてたのを覚えている。
兄はギターが弾けて学生時代はテニス部だった。
兄の部屋のポスターの変遷は「かぐや姫」とか「ビートルズ」といったアーティストか
コナーズとかボルグといったテニス・プレーヤーで、およそ色気も素っ気もなかった。
アイドルにうつつを抜かしたことなんてないんじゃないか?
あっても、岡田奈々1週間、とか、小泉今日子10日間、なんて程度じゃないかな。
そのくせ、東京乾電池の高田純二がやっていた土曜のお昼の8チャンの番組で、
アナウンサーの寺田理恵子のお見合い相手を大学生から募集するというコーナーの、
第1回の出演者としてテレビ出演していたのには驚かされた。
<ご趣味は?>「テニスです」
<何級ですか?>「硬球です」という、仕込まれた掛け合い漫才みたいなことをやっていた。
家族には極秘にしていたが、僕はその番組が録画されたビデオをたまたま発見して観た。
でもそこは武士の情け、親には内緒にしておいた。
BGM. サザンオールスターズ「茅ヶ崎に背を向けて」


サタデー・ナイト・ラヴァさん~ジューン・ブライド

30/Ⅵ.(水)2010 ハレ晴れ
ジューン・ブライド「6月の花嫁」、6月に結婚した花嫁は幸せになるという。
ヨーロッパでは古い伝承のようで、ローマ神話の結婚の女神Junoにあやかったとか、3~5月が結婚を禁止し
6月は解禁月だからとか、欧州では6月が一番雨が少なく天候がよく復活祭もあり祝福ムードが高まるとか。
でも、日本でジューン・ブライドを広めたのは間違いなく「よしだたくろう」だ。
ヒット曲「結婚しようよ」の歌の通り六文銭の四角桂子と、6月に教会で白いスーツを着て結婚式をあげた。
それが若者の結婚式の一つのスタイルになった。
結婚は幸福、祝福だけとはかぎらない。
面白くないと思ってる人もいる。まして、それが想いを寄せてる人なら…。
流行歌にはそういうテーマがよくあって代表曲はシュガーの「ウエディング・ベル」と早川義夫の「サルビアの花」だ。
シュガーは80年代に流行った3人組のガールズ・グループで、僕はファンでシングル・レコードを全部持っている。
「ウエディング・ベル」は元恋人の結婚式に呼ばれ祭壇の一番隅で二人の幸せを見せつけられ、
♪クタばっちまえ、ア~メン♪と、ハーモニーを効かせ全員で小首をかしげるポーズを決めるのが可愛い、
80年代OLのサバサバした心境を歌ったヒット曲だ。
一方、早川義夫は60年代のGSの中でも異彩を放つ存在の「ジャックス」のリーダーで解散後は岡林なんかに楽曲提供もしていた。
そんなことはどうでもいい。問題は、早川義夫のソロ・アルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』である。
まずは、このレコード・ジャケットを見て味わって欲しい↓。

このA面の5曲目に「サルビアの花」が収録されている。
オケはなく、早川義夫がピアノで弾き語りをしているが、その迫力に凍りつく。
早川義夫の歌唱法は独特で、口の中で言葉をこねくり回し、陰湿というか恨めしい。
「サルビアの花」の歌詞は、♪扉が開いて出てきた君は偽りの花嫁。頬をこわばらせ僕をチラっと見た。
泣きながら君の後を追いかけて花吹雪舞う道を、転げながら、転げながら、走り続けたのさ~♪、である。
60年代の色恋のもつれの怨念じみたものが見事に描写されている。
シュガーの「ウエディング・ベル」と続けて聴いて比較することをオススメしたい。
以前、BS-NHKのフォーク特集でゲストの早川義夫が「サルビアの花」を歌っていて、
演奏終了後にアシスタントの岡部マリが「こわ~い」と震えあがり、司会の坂崎幸之助が苦笑していたのを覚えている。
僕は大学の頃、「ローランド・大人のためのピアノ・スクール」というのに1年間だけ通ったことがある。
渋谷の、今のアニメイト・コミック館の坂を登りきったジョナサンの付近にあった。
毎週土曜日の夜レッスンに通った。
マリコ先生という大学を出たくらいの育ちの良さそうな美人が僕の担当だった。
僕は子供の頃少しピアノをやっていたし、中高はブラス・バンドにいたから譜面も読めた。
だからレッスンは「好きな曲を弾けるようになろう」という目的にした。
そこで僕は早川義夫の「サルビアの花」弾き語りバージョンがやりたい、と言い出した。
当時は、スコアなんてものは売ってないから、マリコ先生にレコードを貸し譜面におこしてもらった。
それがこれ↓。懐かしい。

ピアノを始めて半年くらい経って、医学校の同級生・レレちゃんとマリコ先生が女子高時代の友人だと判明した。
僕はちょっと恥ずかしかった。
レレは、鬼の首を取ったように得意気だった。
僕は大学が忙しくなりピアノをやめた。
自動的に、マリコ先生とは会わなくなった。
何年後か、マリコ先生の結婚パーティーがあり、僕は当日レレに連れられパーティーに顔を出した。
僕はあまり気が乗らなかったが、レレが強引だった。
「サルビアの花」の男が来た、と嫌われないかと不安だったが余計な心配だった。
マリコ先生は、ノーブルなウエディング・ドレスで僕の飛び入りをとても喜んでくれた。
僕も嬉しかった。
レレに感謝した。
BGM. RCサクセション「マリコ」


追悼、T先生の思ひ出

29/Ⅵ.(火)2010 くもり
T先生が死んだらしい。
T先生は研修医時代を内科で過ごして精神科に来たから、
キャリア的には先輩だが入局したのは僕と半年位しか違わない。
年度区切りで言うと「同期」になり、新入医局員の歓迎旅行では一緒に出し物を披露した。
その年の新人は僕らを含め5人だった。
僕以外の4人が春・夏・秋・冬の「レナウン娘」になり、
僕がSMの女王様に扮し4人をしばくというお下劣ショーだった。
観てる人は酔っ払いだから、この位で丁度いい。  
レナウンとは1960年代に流行した若い女性向けの衣料品メーカーで、
「ワンサカ娘」というCMソングをBGMに使った。
当時は、音源を入手するのが難しく、レナウンに直接頼んだらテープを送ってくれた。
T先生は、♪ドライブウェイに秋が来りゃ♪の秋娘担当で、
KISSみたいに白粉で顔を真っ白にし、ピンクのポロシャツに白いスコートに白のソックス、首にスカーフを巻いた。
舞台上で、僕のムチから嬉しそうに逃げ回るT先生の笑顔を忘れない。
鬼ごっこしている子供みたいだった。
僕の研修医2年目の派遣病院で1年間一緒に過ごした。
まだ何もわからない僕には、ほぼ同期のT先生の存在が助かった。
タバコを吸う時、天井に向かって煙を垂直に吹き上げるのが癖で、インディアンの狼煙(のろし)のように見えた。  
いわゆる‘ギター小僧’でたくさんのギターを蒐集していた。
高価なものもあったようでよく自慢していたが、僕はあまり関心がなかった。
仕事が終わるとナースを誘ってよく呑みに行った。
F.も一緒だった。よく遊んだ。その時の遊び仲間のセイコも死んだってね。変死だって噂。
4/Ⅵのブログで僕の「入局にあたって」という作文を紹介したが、同じ教室年報にT先生も「入局して」という文章を寄せている。
はじめは戸惑いや驚異を感じて大変だったが、いくつかの症例を経験し、知識を得て、その対応も変わってきた。
精神科医療で大切なのは他職種との連携で、その治療においては家族の関わりが重要だと感じる。
周囲の先輩方や良いスタッフに恵まれて感謝する、
という趣旨のことが書いてあった。
T先生の医学的な死因はまだ聞いてないが、僕は孤独死なんじゃないかと思う。
T先生、その内、遊ぼうね。セイコも誘ってさ。
BGM. かまやつひろし「ワンサカ娘」


Ωの法則・#2

27/Ⅵ(日).2010 はれ
オウム事件のあった年、僕は大学院を修了し関連病院に出向した。
当時、その病院には「ファントム理論」という何やら難しげな学説を唱えられた安永浩先生というとても偉い先生がいた。
とある席で、安永先生は「オウムがやっている拉致監禁や洗脳や電気ショックと、
我々の行っている精神科医療のどこが似ていて、どこが違うのかを明確に考えるべきではないか?」
という趣旨の発言をされた。 
その場にいた少しだけ偉い先生や中堅の先生は「全然違いますよ」と一笑にふした。
確かに、「全然、違う」のである。
それでも安永先生が問題提起した意図は何か?
僕は安永先生の反応に注目した。
しかし安永先生はそれっきり何も答えず、それ以降オウムについては何も言わなかった。
賢者とは人里離れた森の奥にただ1人で住み、乱世になると人々の前に姿を現し一言だけ意見をするという。
人々がそれを受け容れれば事態は改善し、受け容れなければ黙って森に帰るという。
安永先生をみていてそんな話を思い出した。
僕がこの病院を辞め別の病院に移る時、送別会には行けないからと安永先生から手紙をいただいた。
筆圧の弱い薄~い、それは風流な文字だった。 
もし、人が水に字を書くことに成功したら、きっとこんな字になっただろう。
BGM. さだまさし「天文学者になればよかった」


Ωの法則

27/Ⅵ.(日)2010 はれ
NHKは苦しい立場にあるようだ。大相撲の名古屋場所を中継するかどうかの決断である。
中継をするとなれば、視聴者からの猛反発は必至だし(船頭は東スポ)、中継しないとなれば中継を望むファンからの反発も避けられない。むしろそっちの抗議の方が多いのではと予想される。反発は受信料の問題にもつながる可能性がある。局内では「このままサッカー日本代表に注目が集まってほしい」という声が上がっているという。東スポ情報。

ビデオの整理をしていたら、「オウム・ビデオ」というのがvol.1~8まで出てきた。
2時間テープだから標準でも16時間。3倍速で録ってたらもっとである。「オウム・ビデオ」とはオウム真理教の一連の騒ぎを、録画しコレクションしておいたものである。よく録ったなぁ。

でも、あの時のオウムはすごかった。今のサッカーW杯どころじゃない。って、比較するのも変だが。不謹慎な言い方かもしれないが、あの時に角界の賭博問題があってもまったくニュースにならなかったと断言できる。

当時、関口宏が土曜か日曜の夜に「家族でニュースを観よう」みたいなコンセプトの
ニュース・バラエティーみたいな番組をやっていた。その中で山瀬まみが「お父さんのためのワイドショー講座」というコーナーを持っていて、その週にあった民放各局のワイドショーで取り上げられた話題の放送時間数を合算して、その数値の大きい順にランキングにし、芸能・スポーツ・大衆文化に疎いお父さんに紹介する企画で、このコーナーの間だけお茶の間の力関係が逆転し山瀬のキャラともうまく相まって「やだ~お父さん、こんなのも知らないの~?」的ななごみを生み、家族で観るニュース番組のバランスをとる装置として機能していた。

ところが、オウム事件である。「お父さんのためのワイドショー講座」が機能しなくなった。さすがの山瀬のキャラをもってしても不可能だった。何故なら、ランキング1位がオウムは当然として、2位以下がなかったのである。2位以下がない、というのは、他のニュースが1秒も放送されなかったということである。全民放の毎日のワイドショーがコマーシャル以外はすべてオウムだったのである。これが何週も続いた。芸能人が結婚しようが離婚しようが不倫しようがチャリティーしようが覚せい剤で捕まろうが賞を獲得しようがまったくニュースにならなかったのである。地下鉄サリン事件が起き、どうもオウムが関与してるらしいという話になり、彼らは身の潔白を証明すべく連日テレビに出るようになった。生の記者会見などが昼時に毎日、行われたのが、ワイドショーを独占した1つの要因でもある。しかし、1番大きかったのは「上祐(じょうゆう)さん」こと上祐史浩という特異稀なキャラクターの存在だ。

僕のオウム・ビデオのvol.1の巻頭に録画されているのは、田原総一郎の「サンデー・プロジェクト」で上祐さんは村井秀夫・オウム科学技術省長官とともに生出演した。どこかハーフのような端正なマスクと清潔感のあるひた向きさが彼の第一印象で、大学時代にディベートで鍛えたという話術には田原総一郎も一目置いた。宗教をやってるイコールちょっと変、みたいなマイナスな偏見も彼らのビジュアルが吹き飛ばした。熱い上祐さんの隣に座る村井秀夫という若者も穏やかな悟りを開いた優しい仏さまのようなキャラで、このコンビが番組を通して識者たちの意地悪な質問を正面から受け止め
「自分たちはやっていない。我々はまじめに修行をしているだけだ。オウムも被害者だ」と訴えた。番組の最後で、司会の島田紳介が思わず「この人たちが、あんな事件を起こしたとは思えません」と擁護してしまう程、彼らはシロに見えた。僕も、紳助に同感だった。

それからというもの、上祐さんはテレビに引っ張りダコ。英語もペラペラな高学歴でありながら、理解してもらえないと熱くなり悔しさを素直に表現する若さが日本人特有の判官贔屓と母性本能をくすぐり主婦層の人気を呼んだ。キムタクやヨンさまやベッカムと並ぶのではないか。比較するのも変だが。

上九一色村の強制捜査や色んな物的証拠が出て来て、オウムはクロだと誰もが確信した。それでも、ひとり上祐さんは潔白を訴えつづけ、テレビに出演し続けた。世間は、オウムには真面目に修行するグループと国家転覆を狙うテロ集団との二つの顔があり、
上祐さんは前者に属し本当に事実を知らされてなかったのではないか、などと考えた。

そんな中、村井秀夫がテレビの中継中に刺殺される事件が起きた。上祐さんはテレビの中で、友人が殺された、と涙を流して憤った。それは、もし我々が友人が誰かに殺された時に見せるだろう反応となんらかわりなく、上祐さんの「正常さ」が強調された。
そこからの上祐さんは決死の覚悟だった。どう考えてもオウムの潔白はない中で、孤軍奮闘した。村井秀夫は息をひきとる瞬間、自分を抱きかかえる上祐さんに向かっ「ユ…ダ…」と言い残したと言う。上祐さんは村井秀夫の発言は犯人を自分に教えるためのダイイング・メッセージだと理解し、ユダつまり裏切り者、もしくはユダヤ組織の関与かもしれないと分析した。ある番組では、イエスを裏切ったユダやフリーメーソンの解説も行っていた。この頃になると、上祐さんのファンも上祐さんには同情したが、彼の訴えで考えを訂正することはなかった。むしろ、上祐さん、よく頑張った、そろそろあなたも目を覚ましなさい、みたいな風潮になった。

ワイドショーのスタンスも変わった。上祐さんの天敵・江川詔子あたりに「一連のオウム報道に関して、一部、オウムを英雄視した責任がある」みたいことを言われ、そろそろヤバいぞと思ったのだろう。それまでは、上祐さんに自由に話させてたのが、上祐さんの話をすべて途中でさえぎった。ハナから発言の場を与えられないことより、局アナあたりに話を途中でさえぎられることの方が上祐さんのカリスマ性を風化させる効果があった。今までの上祐さんの独壇場は与えられず上祐さんの発言はまるでその人格を否定する目的であるかのようににことごとくさえぎられた。マスコミによって作られた偶像がマスコミの手によって破壊されるブームの終りの作業だった。それでも上祐さんはよくテレビに出続けたと思う。褒めるようなことではないのかもしれないが、上祐さんはああいうかたちで責任を全うしたのだと思う。僕もそれに付き合った。それがこのビデオテープ8巻である。見直すことはないだろうなぁ。

その後、テレビがどうなったかと言うと、上祐さんの面白みを消したのだから上祐さんで視聴率はとれなくなり、芸能人の浮かれたニュースで賑わうようになり、オウム事件は普通に事件を報道するだけとなっていき、「お父さんのためのワイドショー講座」のランキングから消えていった。

僕は学生時代、アパート暮らしをしていた時、セールスや勧誘の類を一々、居間まであげお茶を出し、彼らの言い分を聞いたあと論破して帰らせるという遊びをしていた。                                                     色んな人が来た。新聞をとってくれとか、英語の教材を買えとか、カンボジアの子供に寄付する金をくれとか、親子連れで来る宗教の勧誘もあった。                                                                       ことごとく論破して負けなしだった。ただ1つ、非常に印象に残ってるのは、ヨガの修行を通して自己実現をしようというあまり営利目的ではないお誘いだった。僕は東洋体育もそこそこ詳しかったので、彼を言い負かすのはたやすかったが、その人はそんなことよりいかにヨガが素晴らしく自分には修行が必要だということを真摯に語っていて、ちょっとグラっと来た。実習が忙しくて物理的に時間がとれないから断った。

それは、まだ犯罪集団になる前のオウム真理教だった。

BGM. 大滝詠一「カナリア諸島にて」


行方不明

24/Ⅵ(木).2010 はれ
蒸発者に憬れたことがある。安部公房の『燃えつきた地図』とか三島由紀夫の『音楽』とか。                                      皆さまがたにおいてはW杯で盛り上がってらっしゃるところ、なんなんな話題でしょう。
何の不自由もなく、一見幸福そうにさえ見えた男が突然姿を消した。
行き場所も告げず、書き置きもない。
懸命な捜索、やっとの思いで男を見つけ出した。ドヤ街みたいな処にみすぼらしい姿でいた。
でも、声はかけなかった。
なぜなら、今までのどんな瞬間よりも男の顔が幸福そうに見えたから。
そんな話に憬れた。
「蒸発者」にではない。
「身内や友人に親身に心配される存在」を夢想した。
だから、もし僕が「蒸発者」だったら、自分を必死に探し回る家族や仲間の心配顔を、物陰に隠れて、                                かくれんぼする子供みたいに、「あっ、来た来た」なんて喜んで見るに違いない。
これじゃ、蒸発者失格だ。
そんなことを考えてたのが10代の終り頃、我ながら幼稚である。
昔、wowowでシティーボーイズの舞台『丈夫な足場』というのを観たことがある。
蒸発者の集いがあり、各々がどういう経緯で蒸発するに至ったかを、時間軸や座標軸をシャッフルして、
つぎはぎにして、最後に話が繋がるというものだ。
面白かった。DVD、出てるかな?
「蒸発」に似てるものに「神隠し」がある。
神隠しといえば『ピクニックatハンギング・ロック』という映画だ。
1900年のオーストラリアの寄宿制の女子学校が舞台。
先生に引率された一行が、岩山ハンギング・ロックへピクニックに行く。すると、ちょうど12時に時計が止まって、
少女達がいなくなってしまう事件の顛末が筋。
意味深だなと思ったのは、1人だけ岩山に吸い込まれなかった子がいて、その子があまりかわいくない子として、
非常に差別的に描かれていたことだ。
神隠しにあうのはきれいな子だけ、きれいじゃない子はだめ~っていう。 
「選ばれなかった子」は、事件の「証人」の役割をさせられた。
なんか、意味深でしょ?
BGM. よしだたくろう「かくれましょう」


ヰタ・セクスアリス2

13/Ⅵ.(日)2010 はれ
学生時代に出席番号の近かった友人が、
奥さんに浮気がバレばい秘訣とは「嘘に事実を少し混ぜて喋ることだ」と自慢していたのを何故か思い出した。
彼の説によると、
「人間は嘘をつくと表情に出る。
だから、本当のエピソードを少し挿入すれば、事実を話す時には表情に変化が出ないから、‘
相対的に’表情の変化が薄まり、嘘がバレにくくなるのだ」と言う。
なるほどと感心したが、数年後に彼は離婚していた。
僕に初恋というものがあるなら、小学校の時のクラスメートの娘だろう。
彼女は当時流行っていたテレビの魔法少女に似た名前で、広い松林のすぐ脇に住んでいた。
彼女の家に遊びに行くと、彼女は親に見つからないように僕を押入れの中に誘い、
押入れの上の段の狭く暗い空間に2人並んでしゃがむと、
息を殺し頃合を見計らっては僕の手をギュっと黙って握るのだった。妙にドキドキした。
これは顕かに‘悪い’ことだった。
なぜなら彼女が母親に
「まさか押し入れに入っていないでしょうね?」と咎められてるのを見たことがあるからだ。
彼女は平然と「入ってないわ」と嘘をついていた。
魔女っ子だ。
彼女の家では犬を飼っていて、彼女は
「犬は嘘をつくと目が動くのよ。人間も同じだと思うの。
だから、私はお母さんに何か聞かれても、じっと目を動かさないようにしているの」と告白した。
僕らは何度も押入れに入ったが、この方法でついに一回もバレなかった。
ある日、いつものように押入れの上の段に並んで座り、いつもは彼女が手を握ってくるのを待つのだが、
はじめて僕から手を握ってみた。
すると彼女は怒って「駄目!手は、私から握るの!」と手を振りほどいた。
僕は「女って、勝手だなぁ」と呆れて、それ以来、彼女の家に寄るのを止めた。
次第に僕らは疎遠になり、僕の初恋は自然消滅した。
上に紹介した2つのツールは結構、実用的だと思う。
もし、やむなく嘘をつかなければならない時にお役に立てば幸いである。
BGM. 憂歌団「嘘は罪」