憬れのハワイ航路③

2日目。
午前中、観光バスで市内観光。まずは、「この木なんの木」を観に行く。

この木は、モンキーポッドという名で、ハワイにはそこら中にあるが、日本人だけがここを有難く訪れ写真を撮るのだという。その光景を外国人が不思議がるのは、その日立のCMが日本でしか流れていないからだ。そうだ。
お昼には、浮輪を買って海に出る。僕は泳げないので、うんと浅い所で浮輪にしがみついていたら頭から大きな波が来て、一瞬溺れた。となりで外人の子が不思議そうに見てた。130cmくらいの子供のオヘソくらいの海域だ。天気晴朗なれど波高し。怖かったけど、仲々面白い。今度は波に流されて、砂浜をウォークする外国人女子の足にぶつかってしまう。「ソーリー」とあやまられた。こっちが悪いんだけど。僕は浮輪をしたまま丁度、正座をした格好で砂浜に打ち上げられたから、そのまま手を拝むように合わせ、「すみません」と和風にお辞儀で返した。
お昼は、ユミさんに教わったBBQプレートのお店へ。ユミー、だって。ユミ?もしかして、自分が経営してる店?まさかね。よく見たらヤミーだった。カルビ定食を食べる。おいしい。骨付きカルビなので手で持ってかじって食べた。六本木にあった、昔、猪木が経営してたアントン・リブを思い出す。
15時頃、ホテルに帰りシャワーを浴び、ベッドで一休憩。
空港で買った雑誌の『逆効果!あなたのムチの入れ方。「叱り方」のお手本』という特集を読みながらうたた寝。悪夢で飛び起きる。そしたら、夜の21時。そんなハワイ、2日目。
BGM.A面 モコ・ビーバー・オリーブ「海の底でうたう唄」/B面 ミーナ「砂に消えた涙」


憬れのハワイ航路②

初日。
ハワイは日本語が通じると言うが、あれは嘘である。店員は片言の日本語を使ってくる人が3割、ガチのイングリッシュで来る奴が7割とみた。まさか、俺をみてアメリカ人とも思わんだろ。
しかし、英語が喋れなくても何とかはなる。概ね、買い物と観光でのやりとりなので、お互い、通じればいいのである。細かい文法の指摘や、「そんな言い回しは英語にはない」などとうるさいことも言われない。
僕の今日の数少ない経験から言えば、英語が苦手な人は一切英語を使わない方がいい。「イエス」とか「ノー」とかも言わない。「スモール」とかもダメ。全部、日本語で通す。「そう」「ちがう」「もっと、小さいの」と、なるべく大きな声で身振り手振りで言うと通じる。「この人には、一切英語が通じないんだ…」と思い知らせ、相手が聞き取り能力をアップしようと努力させるのである。中途半端に、「フィッシュ~」なんて言うと、牛肉が出てくるから。実際、ビーフ、出てきたし。「さかな!」と言うのがいい。
昔、英語の教師が、「英会話の上手・下手は語学力ではない。それは気質とか体質みたいなものが大きい」と言っていたのを覚えている。気質なら気合でカバーできる。後で、疲れるけど。
ホテルは素敵なホテル。荷物だけ置いて、海に出た。ビーサンを脱いで、波打ち際を歩く。海に入るのなんて何年ぶりだ?

ハワイの海には、白い鳩が多い。どのくらい海を渡れば、白い鳩は砂の上で安らげるのだろう?
ボブ・ディランの「風に吹かれて」の一節が頭をよぎる。
変な山があるなぁ、と独り言を言うと、近くの子どもが「ダイヤモンド・ヘッドだよ」と教えてくれた。あぁ、ベンチャーズの。
反対側に夕陽が映える。茅ヶ崎も、ハワイも陽が沈む方向は同じなんだな。
遠くにヨットが見える。夕陽に赤い帆、プラターズだ。綺麗なので、写メに撮ってみる。うまく撮れないなぁ。写メの限界だな。写るんです、買っとくべきだった。

BGM.A面 早見優「夏色のナンシー」/B面 ザ・リガニーズ「海は恋してる」


憬れのハワイ航路①

7/Ⅸ.(火)2010 はれ
 めったに海外など行かず、飛行機も何十年ぶり(オーバーか?)なので、緊張したフライトだった。                                                       昔みたマンガ『俺の空』で、主人公・安田一平が飛行機に乗るなりグーグー寝てしまうのを見て、スチュワーデス達が耳打ちして「よっぽど、旅慣れた方ね~」とうっとりしてるシーンが思い出されるが、まぁ『俺の空』とは安田一平が行く先々で色んな女に惚れられるというストーリー展開だから、さほど不思議な話でもない。何を言いたいかと言うと、真逆だ、ということである。
 話が前後するが、今回のクリニックのロング・ヴァケーションを利用して、ワイ・ハに行ってみることにしたのです。
ハワイには、初来日です。
飛行機の中、座席の前にモニターのがあって映画を観たりゲームを楽しんだりできるシステムが搭載されているのだが、僕のだけうまく作動しなかった。丁度、広瀬正の『マイナスゼロ』というSF小説を持ってたのでそれを読んだ。1945年の東京への空爆シーンから始まる。飛行機の用途も、色々だと思う。
 皆さんはご存知の方も多いかと思いますが、飛行機ではいくらでもタダでお酒をくれるのですね。前の席の人たちがガバガバ呑んでいた。僕も、もう少し旅に慣れたら注文してみようと思います。
でも、万一、「お…お客様の中に、お医者様はおられませぬか?」などと緊急事態があった時、あまりヘベレケでも困る。
 それで思い出したのだが、医学生の頃、友人の付き合いで赤坂あたりの「カラオケ道場」に行ったことがある。
カラオケ道場とは、当時、流行りで似たような店が色んな街にあったのだが、1人づつステージに上がってカラオケを披露し、元・歌手のオーナーがその腕前を審査して、「何級」とか「何段」とかのランクと賞状をくれる店であった。
僕は人前で歌を歌うことはあまり好まないので、ただ座って他の人の歌を聞いてるだけなのだが、その時、ステージで歌ってる人がいきなり倒れてしまう場面に遭遇したのである。
皆大慌てで、「誰か医者はいないですか?」ということになったが、その場に医者はいなかったので医学生の僕が出て行った。ただ、119番通報するように指示しただけなのだが、お店のオーナーに大変感謝された。
お礼と言っては何だが、歌ってないのに「初段」の賞状をもらった。
それは、その時の慌てぶりがよく出ていて、「川原達二殿」の字が「河原達二殿」となっていて、皆で笑った。
今でも、どこかにその賞状はあるはず。
BGM.A面 ザ・バーズ「アテンションプリーズ」/B面 能勢慶子「アテンション・プリーズ」


らくご×情熱大陸

5/Ⅸ.(日)2010 はれ
毎日放送開局60周年記念「らくご×情熱大陸」の第3夜を赤坂ACTシアターまで観に行く。                                                           赤坂サカスという場所には初めて行くが、なかなか綺麗なところでACTシアターも素敵なところ。                                                      こんなところで、談志と爆笑問題が本当にやるのかなと一瞬戸惑うほど都会でした。

開演までの間、スクリーンに孫悟空が乗るような雲がプカプカ浮かんでいて、上のチラシの左隅にあるやつ、                                           時々、その雲にCG処理された談志が乗って「あ~」って通り過ぎていくのが面白かった。
談志は今年の初めに入院していて、今回が退院後、初の舞台。はじめに、談志のスタンダップ・ジョーク。                                               談志は、思ったより元気で声も出ていた。
次いで、爆笑問題の漫才。
ステージを降りた爆笑問題の2人が談志の楽屋を訪れ、その前で下着になり着物に着替えながら話すシーンが、会場に‘生放送’された。
高座に湯呑みを運び、演者の札をめくる役をオダギリ・ジョーがやった。オダギリはちょんまげをして着物を着ていた。  
落語は「ぞろぞろ」と「落語チャンチャカチャン」。先のジョークと合わせると、談志は1時間半くらい喋った。                                                  「俺、おしゃべりだから」とケロッとしてた。ステージに、爆笑問題の2人とオダギリ・ジョーが集まりトークをする。                                         爆笑問題の2人の、談志のファンぶりがとても空間をやさしくした。
談志は太田光に「アンジャッシュはちゃんとやれてるか?」と聞いていた。太田は苦笑しながら「大丈夫です」と言い、                                          田中が「師匠が何もアンジャッシュの心配をしなくても」と突っ込んだが、談志は「昔、その腕を買ったから」心配らしい。 
談志は「昔は、漫才も一つのネタをじっくりやってそれを観に客は行ったものだが、今はテレビで一回やったら終りだからな」、と憂いた目をして言った。太田が「すぐ古くなっちゃうんですよ」と優しくつつむように言葉でフタをした。                                これは、「情熱大陸」でテレビ放映するのだろうが、どうやるのだろう?楽しみだ。

帰りに、自由が丘で焼肉を食べる。いつも行くホルモン屋がつぶれてた。それで、焼肉ハンターという店に入った。                                             そこがなかなか美味しかった。店の雰囲気も良く、沖縄風というか南国風の作りで、BGMがニュー・シネマ・パラダイスみたいにノスタルジックで良かった。ごきげんで、ウコン茶ハイを5杯飲んだ。
BGM. ジェフ・ベック・グループ「今宵はきみと」


夏休み前

4/Ⅸ.(土)2010 はれ
夏休み前のオーラス。クリニック開業して4年目の夏、初めて長い休暇をとります。
去年までは、長い休みをとる余裕がなかったので、石の上にも3年とはよく言ったものです。
今日は、岡田さんがお休みなので、受付は吉田さん1人。
普段、受付は早番と遅番で時間をズラしているのですが、吉田さんぶっ通しです。それも土曜日は平日より混むし、                                          クリニックの休暇直前だからてんてこ舞いだったでしょう。お疲れ様でした。
そういえば、夕方頃、北口商店街を子供たちが山車をひいて行進する声が聞こえました。                                                             山車は「だし」と読み、御みこしは担いで山車はひくみたいです。
夜は、寿司屋で鮎酒を呑む。魚の形をした容器に焼いた鮎を丸ごと入れ、その上に熱燗を注ぐ。鮎を突きながら呑む。                                         一回に2合入る。4回、おかわりしたまで覚えている。さんまときんきとあじといわしとつぶ貝を食べる。
BGM. 弘田三重子「ヴァケイション」


九月の空

3/Ⅸ.(金)2010 はれ
いよいよ九月ですね。石野真子の初主演映画『九月の空』が思い出されます。
たしか男子しかいない剣道部に石野真子が入部して~という話だったと思う。あれは嫌な映画だった。
プライベートでもキス未体験の真子にキスシーン。必然性がない。友達と観に行って、キスシーンでは友達の目を隠した。
真子の引退が決まってから、GOROでヌードが発表になった。
僕はかなり頭に来ていた。事務所とか、そんな雑誌を買った自分とかに。グラビアの石野真子の目は悲しげに見えた。
当時、サザンオールスターズの歌詞で「醒めた瞳の人には何もできない~」っていうのがあり、桑田に見透かされた気がした。
その後、鶴光のオールナイトニッポンで真子のメッセージが流れた。
「あれは、インチキで、あんな話は聞かされてなくって、だから、そんな女だとみんなに思われたくない…」って言っていた。 
僕は翌日、夕方、庭の焼却炉に、真子のヌードを破って入れ、火つけて燃やした。
グラビアの石野真子が黒い煙とともにクニャクニャによじれながら燃えて消えた。
石野真子の残したレコードの最後の言葉は、
「私も苦しいことがあったらみんなのこと思い出すから、みんなも苦しいことあったら私のこと思い出して…」であった。
先日、ある人物から「石野真子、好きだったでしょう?これ、どうぞ」と例の「GORO」の記事をもらった。 
ある意味、お宝。
27年の歳月を越え、解禁してしまうか?しかし、あんまり気乗りしなくって、実はまだ見れてないのです。
BGM. 石野真子「ハイスクール・クイーン」


人相

2/Ⅸ.(木)2010 はれ
Y.S.が、似顔絵を描いてくれた。
実に人相がよろしく、やさしさ2割増し。サービス・カット。
なんとも、気恥ずかしいというか、嬉しいです。ありがとう。
人相といえば、小学校の「聖書」の時間に聞いたお話をひとつ。
ある画家が、絵の依頼を受けた。
それは、マリア様に抱かれた赤ん坊のイエス様と12人の弟子を一緒に描いてくれ、という注文。
(時代考証メチャクチャ)。
画家は、街を歩いてモデルを探す。
最初に見つけたのが、可愛らしく純真な顔をした赤ん坊。イエス様のイメージにピッタリ。
それから、1人づつモデルを見つけ描き上げていく。
しかし、どうしても最後の1人、「裏切り者のユダ」だけが描けない。
悪どい顔の人間というのもそうそう世の中にはいないもので、何年も歳月が過ぎた。
ある日、街で「これだ!」という悪い人相の男を見つけ、モデルを引き受けてもらった。
やっと、完成するぞ。
絵を描かれてる途中、モデルの男は画家に向かってこう言った。
「私は、人生で絵のモデルをやるのは2回目なのです。
1回目は、赤ん坊の時だったので覚えていませんが」。
イエスのモデルをした赤ん坊が、大人になってユダのモデルをやった、というお話。
悪いことをすると顔が変わるから、みんなも気をつけよう~、という脅しだった。
人を外見で判断してはイケナイが、ある程度の人間性は顔に出る。
せっかく、いい人相に描いてもらったのだから、恥じないように生きなければと心に誓った。
40何才の秋なのだ。

BGM. 郷ひろみ「How many  いい顔」


昔のクラスメートの夢

1/Ⅸ.(水)2010 はれ
AZと勉強をしている。彼女が「ラジオを3000に合わせて」というが、ラジオのダイヤルは1500程しかなく、困っていると、                                      彼女は「こっちに決まってるでしょ」と短波の3.00にセットした。
僕がちょっといじっただけで、バカでかいオープン・リールや無数のカセット・テープが一斉に動き出した。                                               「100%soかもね」と「待つわ」だけが繰り返し録音されている。きっと、お松の仕業だ。
彼女は呆れ顔。僕は、このコタツで横になり、耳にえんぴつを突っ込んで寝てしまおう。
BGM. 沢田研二「勝手にしやがれ」


TK~ヒーローの条件

31/Ⅷ.(火)2010 はれ
日本の3大TKといえば、「高倉健」「タクヤ・キムラ(キムタク)」「タツジ・カワハラ」である。などと、暑さに乗じて言ってみた。
左右に短冊状に無関係の名言を持ってきて、あたかもつながりがあるかのように見せるのが、今のマイ・ブーム。


↑(右) 『雪が降った。けれど、地面が血に染んでいるので積らなかった』。アントン・チェーホフ「手帖」。
↑(左) 『喧嘩のいいところは仲直りができることね』。「ジャイアンツ」。
 そういえば、最近、義理・人情なんて言葉、聞かなくなったなぁ。
『日本社会の基本的な行動原理は集団であり、その原則に疑問を抱くと集団から徐々に外れ、ドロップアウトして行ってしまう。「個」を認めない日本の社会システムにおいて、その集団の中で、「個」を背負ったのが高倉健であった。
彼は映画の中では、戦争や刑務所から帰って来ると周囲がすっかり様変わりしていた…、という集団には属しながら、                                     どこかしら客分的な存在を演じた。組織の中にいながら、その組織に馴染めない。所属はしているが、帰属意識はない。                                        なおかついざという時には力がある。日本人の帰属意識の裏返しを、高倉健はスクリーンの中で演じてみせた。
高倉健は、決してアグレッシブではない。寡黙で、悪どい相手に対しても耐える姿は、マゾキスティックでさえある。                                           観客はスクリーンに向かって「健さん、やっちまえ~」と声をかける。それでも耐える。耐えに耐える。                                                  そして、ついに最後の最後に怒りを爆発させる。カタルシス~。
高度経済成長の時代、高倉健が任侠映画で演じてみせた美学は、決して生産的とはいえない。                                                 しかし、それ故、アウトロー的な精神・美学に憧れを持つ日本人の心を魅きつけたのだろう』。                                                           というような趣旨のことを映画評論家の品田雄吉が言っていたのを、少し脚色してみた。
 僕は、昔、大橋巨泉のクイズ番組での「三田寛子の落書き」に応募葉書きを書くが、10枚書いてあきた。                                                小田林は、昔、「高倉健のポスター」をあてるため、100枚ハガキを出したらしい。
「男らしい、というにはあまりにもストイックな生き方」。これは卒業アルバムの小田林の自己紹介コメント。僕が考えてあげた。彼は本当にそんな人で僕とは真逆の立ち位置だが、不思議と気が合い今でもたまに呑んだりする。
8月も終りかぁ。小田林、8月、誕生日じゃなかったっけ?
BGM. 杉田二郎「男どうし」


僕のトイ・ストーリー

30/Ⅷ.(月)2010 はれ
みなとみらいに『トイ・ストーリー3』を観に行く。
F.は僕に、①も②も観てないくせに?と心配するが、大丈夫、僕は『ロッキー』だって‘3’から観た前科があるんだから。                                 『ロッキー3』には、ハルク・ホーガンが出てたからね。
下の写真は、子供の時、怪獣に囲まれてる。↓。

 これらの怪獣たちはどんどん増えていくが、「帰ってきたウルトラマン」の途中くらいから、                                                        僕の興味はプロレスや野球やマンガへ移って行き、怪獣たちは放っぽらかしにされた。
当時、父が眼科の診療所を開業していたから、そこに来る子供たちの遊具として待合室に持って行かれることになった。                                       僕は断った。しかし、父は「おもちゃは、遊んでもらうためのものだ。ただ箱にしまっておくだけでは、おもちゃが可哀想だ」などと知った風なことを言った。お気に入りのフィギュアだけ手元に残して、あとは診療所行き。                                   瞬く間に、1体もなくなっていたから、お土産用になってしまったみたいだ。いい人にもらわれてるといいな。
 僕らの世代は、怪獣ブームのど・ストライクなので、けっこう似たようなエピソードをトラウマッチックに抱えている人が多い。                                     中学入学と同時に捨てられた、など。そういう人たちが、大人になり古いオモチャや復刻版のフィギュアを買い求めている。 
興味がない人も、1度、中野の「まんだらけ」や高円寺の「ゴジラ屋」に行ってみることをすすめる。                                                      ショウウインドーに厳重に陳列された怪獣たちに再会すると、子供の頃に遊んだ記憶がソフビ人形の匂いと共に思い出される。
 『宇宙船別冊 怪獣・ヒーローお宝鑑定カタログ1998年版』という本がある。この本は、名に偽りなく全編お宝フィギュアを                                   紹介し鑑定し独自に値段をつけてるだけのカタログであるが、これが実に面白い。↓。

その中に、1頁だけちょっと風変わりな記事があって、異彩を放っている。それが、コレ。↓。

 「怪獣供養」の題で2人の文が紹介されている。実相寺監督は、初代ウルトラマンのシリーズで「怪獣墓場」という話を作った。シーボーズという骨格だけの怪獣が登場した。「怪獣墓場」はウルトラマンにより退治され、処理が厄介なので宇宙の無重力空間へ捨てられた不憫な怪獣たちを悼んで作られた作品だという。監督は、「怪獣の供養はファンならば欠かせない。せめてお盆には、思いめぐらせようじゃないか」、と提言している。
本誌の構成をやってる西村祐次は、「今、袋入り未使用の怪獣が珍重されるが、足に名前があるボロボロの怪獣達の方が、本来の役目を全うした幸せな奴らかもしれない。皆さんも子供の頃を思い出して、心の中で‘怪獣さん、ありがとう’と。その言葉が一番の供養かと思う」。という文章を寄せている。
下は、残しておいた怪獣プラス僕が大人になって集めた怪獣たち。↓。



さすがに子供の頃のような遊び方はもうしないが、いつかは家に立派なショーケースを買って、この怪獣どもをキレイに飾って、この怪獣たちに囲まれてイッパイやるのが僕の夢である。これが日本人のおもちゃとの付き合い方だ。
BGM. 五つの赤い風船「遠い世界に」