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メッケル通信、の続きを書上げました。
私めの飛び道具であるパソコンスキルをフル活用して、川原先生の許可を得て、
過去の記事にジャンプ出来るように細工をしてみました。
その結果、川原先生がお好きだったアイドルの変遷を、ご一緒に追体験も可能になりました。
尚、改訂に伴い、元の記事のタイトル「メッケル通信(みかん)」の、(みかん)、と
本文の掉尾の、(以降、後日に続きを書きます)、の2箇所を削除致しました。
すでにコメントを頂いた方へのご挨拶を兼ねてのご報告です。
さて、入口はこちらです。READY?

<ENTER>
2015年12月21日(月)、メッケル記す。


受付だより~後藤エンドレスエイト~

2015年12月18日(金) 
皆さんこんにちは。受付の後藤です。
本日12月18日はどんな日かご存知ですか?そう!スティーブン・スピルバーグ監督のお誕生日です!
しかしそれだけではありません。
前回のブログで後藤が大好きと公言させていただいた、涼宮ハルヒというアニメシリーズでは、
12月18日はとても重大な事件が起こった日なのです。
ハルヒシリーズをご存知でない方に簡単にご説明させていただきますと、
ハルヒシリーズの中に「涼宮ハルヒの消失」という作品があります。
『消失』ではタイトル通り、ハルヒが主人公のキョンの前から姿を消してしまうというお話。
(これ以上先はネタバレになりますので、興味のある方はカワクリで読んでみてください)
そのハルヒが姿を消したのが12月18日なのです。
ってあれ?この書き出し・・・デジャブ?
なーんて、思って下さった方は素晴らしい記憶力!笑
この冒頭は丁度一年前、私の先輩お二人が卒業されてその思いを綴った記事の冒頭のものです。
もうお二人がご卒業されてから一年も月日が流れたのですね。早いものです。
富田さんと天明さんが卒業され、小森さんと山﨑さんが入って下さいました。
以前の二人とは異なった二人だけれど、小森さんと山﨑さんとのトリオはそれはまた一味違ったカワクリらしい受付となりました。
そしてサポートスタッフ増員計画により、NEWスタッフの関矢さんと大平さんが加入!
そんな折、私後藤も1月いっぱいを持って卒業を迎えることとなりました。
気が付けば約3年、川原クリニックでお世話になりました。
過ごした3年を思い返すと、本当に色々なことがありました。
一年前はこのブログで先輩方との思い出やこれからの受付への思いを綴らせていただきましたが、今回は皆さんとの思い出を綴らせて下さい。
この3年を振り返ると、受付なぞなぞ計画や聖誕祭企画、突然のクリニック雨漏り事件なんてものもありましたね。
雨漏り事件の時は仕事中に突然天明さんの頭上から、蛇口のような水が降って来て、慌てて富田さんと3人の手で水を受け止めました(笑)
その異変に皆さんがお気づきになり、雨漏りの対策を教えていただいたりと本当にありがとうございました。
雨漏りをご心配いただいたお電話もあって、カワクリは本当に皆さんに支えられていると実感しました。
他にも不慣れで作った受付のなぞなぞを、多くの方に解いて頂きました。
数えたら後藤だけで9作品もリリースしていました!
デビュー当時と比べたら、なぞなぞの難易度やデザイン度も少しは上がっていったと思います。
ヒントや回答を通してお話してくださった方も多く、なぞなぞは本当に受付にとって大切なコミュニケーションツールです。
「早く次の作ってよ」とリクエストを頂けた時は、本当に作ってよかったと思えました。
クリニックに飾られているポスターやフィギュアも、多くの方と話すきっかけになりました。
ハルヒの話題を始め、ラブライブやゴジラ、化物語、さくらちゃん、おそ松さん、まどまぎ、ねこあつめ、ポケモン、etc…数え切れないほどの話題で盛り上がりました。
漫画やアニメの他にも、音楽や映画、小説、お料理の話、大岡山のパン屋さんいついてなどなど、他愛もない話まで。
お会いした方々お一人お一人を思い出す度に、こんなお話しをしたな、こんなことがあったなと甦ります。
カワクリはイベントも大切にしていて、バレンタインにはチロルチョコを配ったり、
先生のアンチクリスマスでは12月なのにわざとハワイアンな曲をかけたり。
お花係りも復活すると、各所に置かれたお花を「きれいね」と愛でていただけて、
それが嬉しくて次はどんなお花にしようと選んだり。
夏ごろには涼しげなオイル時計がやってきて、皆さんから「どこで売ってるんですか?」と注目の的になりました。
秋には勿論ハロウィン!「あれ?カワクリの受付さんならコスプレしてるかなって思ったんだけど(笑)」ともよく言われました。
私は生まれは平成、心は昭和なので「秋と言えばお月見ですよ!」と言って笑われました。
私は三度の季節をここ川原クリニックで巡りました。
そんな中で本当に様々なことがありました。
この経験や思い出は私にとって大切な宝物です。
悔いのない夏休みを終わらせて二学期に進むハルヒのエンドレスエイト同様に、
後藤も皆さんとの思い出を胸に次のステップへと進もうと思います。
皆さん、本当にお世話になりました。
ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
BGM.Lady GaGa「Born This Way」


Dr.スランプ コモリちゃん

2015年12月15日晴れ
みなさま、ご無沙汰しております。
バトンの行方について、ご心配をおかけいたしましてすみません。
ずっと書きたかったことがあったのですが、なかなか書けない。いやー、書けない。
キーボードが進まず、気づいたら師走になってしまいました。年越しにならなくてよかった!!
(先生の予告ブログの気持ちが、少しわかったような・・・。)
わたしも先生のブログを心待ちにしているひとりなので、最近の怒涛の投稿を楽しんでいます。
ついに、謎の最終兵器も登場しましたよ!わたしも、うかうかしてられません!今回は腹を括って書きました。
題して「わたしが精神科受付になった訳」
以前にも書きましたが、わたしはカワクリに来るまでまったく異業種の仕事をしていました。
これまでの仕事は楽しかったし得意だったので、このままスキルアップしてキャリアアップして、なんて考えていました。
ところが転職して2年目のある日、どうしても会社に行きたくなくなりました。
でも、当時のわたしは会社を休むということがどうしても出来なくて、休みたいと電話するくらいなら行ったほうがまし。 
そんなことを続けていたら、楽しかった業務も人間関係も、いつのまにか苦痛になっていました。
楽しい予定を立てようと思っても、自分がなにをしたいのか、なにが好きでなにが嫌いなのかよくわからず
会社には行きたくないしで、途方にくれてしまいました。
とりあえず、少しでも興味が湧いたことを見逃さないようにし、かたっぱしからやってみました。
ひたすら寝てみたり、本を読んだり、映画を見たり、人の話を聴きに行ったり、旅に出たり。ゆっくりゆっくり、時間をかけて。
そうしていたら、だんだんと自分の感覚を思い出してきました。
社会とか常識を基準としない、自分の感覚です。好き嫌いとか、喜怒哀楽とか。(ディランが帰ってきたぞー!)
で、それに従った結果、会社を辞めました。
この間の経験のなかでも特に大きかったのは、いろいろな人に出会ってたくさん話をしたことでした。
いろいろな世代の、生活環境も仕事も自分とはまったく違った人たちでした。
こんなに多種多様な生き方があるのか?!目から鱗がぼろぼろ落ちました。
もっと早くその人たちに出会えていたら、もっと楽に生きられたのに・・・。
そうなんです。
わたしが13歳のとき、母が病気で亡くなりました。
親戚はみんな札幌に住んでいたので、文字通り、父が男手ひとつでわたしと弟を育ててくれました。
思春期真っ只中のわたしのまわりには、父と、学校の先生しか大人はいませんでした。
その頃のわたしは、好きだった勉強は大嫌いになり、遅刻して行き、授業は寝続けていました。
でも、学校の先生たちは声をかけてくれませんでした。
今思えば、母を亡くしたわたしにどう接したらいいのかわからなかったのかもしれないし、もしかしたら声をかけて
いたけど、わたしには響かなかったのかもしれません。
とにかく、誰にも話せず、いろんなことをひとりで抱えこんでいました。
あのとき、家とか学校以外の場所や、親とか学校の先生以外の大人がまわりにいたら、わたしはもっと楽に
生きられたんじゃないか・・・そう思いました。
さて、この頃にはそろそろプー太郎生活にも飽きてきて、そろそろ働かないとなと思っていました。
さて、どんな仕事をしようか??
このときひとつだけ決めたことがあって、それは、生活費のためだけに働くことはしない、ということでした。
こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、決してそれを否定しているわけではないのです。
ただ、わたしはそれをやったら、また燃料切れになってしまうと思ったのでした。
このわたしのお休み期間は、まわりに「プー太郎うらやましい」と言われれば、「でしょ!!」と返していましたが
なかなかしんどくて、でも振り返るとわたしの人生の転機だったんですね。
誰かが、「いやいや、そっちじゃないよ」と教えてくれたんだと思っています。
いま、そんな時間の中にいる人たちに、わたしの経験が役に立つのではないか?
これからは、幅広い世代の人たちと接していきたい、そう考えて精神科の仕事を探しました。
経験もスキルもないけど、精神科しか考えていませんでした。
そして、カワクリの募集を見つけました。
面接で初めて先生にお会いして、話をしたとき、やっと見つけたと思いました。
どうしてもここで働きたい!と、念を送っていました。届いたようです。笑
そして働き始めて、やはりわたしの確信に間違いはなかったと思いました。
ですが、、、ここ最近、わたしはまた見失っていました。自分が何をしたいのか、どう生きたいのかということを。
そう、これがブログを書けなかった理由です。
ただ、昔の自分と違ったのは、今回はひとりで抱えず、いろいろなひとたちに助けを求めました。
頼って、甘えて、助けてくださいと言いました。
そして、復活しました!
今回、わたしに働き始めたときの思いを思い出させてくれたのは、先生はもちろんのこと、クリニックのスタッフ、そして
なにより患者さんでした。そう、これを読んでくださっている(もちろん、読んでいない人も含めて)みなさまです。
原点に返って、もう一度やってみようと思います。わたしのカワクリでの第2章の始まりです。
先生がスタッフに求めることに、テロリスト集団から身を挺して守ってくれる人とありました。
もちろん守ります。でも、いまのわたしは何度妄想しても、患者さんに守られる結末になってしまう・・・。
弱っ!!鍛えます!!
ここで働くことを通じて、みなさまに恩返しができればいいなと思っています。
でも、また迷走するかもしれません。だって、人間だもの。そんなときには、厳しく言ってください。
おいおい、言ってることとやってることちがうじゃねえか!と。
この記事が、適切な内容かと言われたら、そうじゃないかもしれません。十中八九N・Gです。
でも、わたしがどうしても伝えたかったのは、ひとりで抱えず、誰かに助けや答えを求めてもいいということ。
人はひとりでは生きていけない、支え合って生きていけばいいんだということ。
だから敢えて、自分の弱いところや経験を書いてみようと思いました。
増子さん(怒髪天)に負けないくらいの、くさい記事になっちゃった。ちゃんちゃん。
BGM.怒髪天「宜しく候」


父とライバル

27/ⅩⅠ.(金)2015 亡き父の誕生日
僕が大学2年の試験中に父が死んだ。
<試験で大変な時期に死ぬなよ>と思ったくらいで、僕は父子の葛藤はあまり抱えていなかった。
それは僕が二人兄弟の次男で、昔はやっぱり長男は特別だから、兄が良いクッション役になっていたからだと思う。
父が死んでから、およそ30年くらい経つ。
やっと僕も冷静に父との関係を見直せるようになって来た。
その位、時間はかかるよ。
勿論、個人差があるだろうから、あくまで参考資料としてね。
そうしたら、僕の気持ちの中にも変化が生じて、父へのライバル心のような物が産まれて来た。
それは僕が勤務医から開業医になり、僕の知っている父と同じ土俵に立ったこともあるかもしれない。
父に対して、うらやましい、という思い、嫉妬心のようなものに気づき出した。
それは様々あるが、嫉妬心を「本来、自分に入って来て当然と思う物が相手に行ってしまった時に生じる」と定義したら、
その最たるものは、
父さん、唯ちゃんと同じ誕生日でいいなぁ>である。
下が、2010年にTBSショッピングで当てた、唯ちゃんのバースディ・カード。
クリニックの入口左手の衝立に貼ってあります。立体形です。↓。

唯ちゃんが父と同じ誕生日なのは毎年記事にしてるから、長くブログを読んでくれてる人には最早、風物詩ですね(笑)。
と言う訳で、普段はカワクリに来れない方々に「けいおん」&「唯ちゃん」の一部を紹介しましょう。
相変わらず、待合室のテレビモニター側の窓には垂れ幕が張ってあります。
初めての人は巨大でビックリしますよ。↓。

さっきのバースディ・カードの近くには、唯ちゃんのほぼ等身大パネルがあります。
近くにはジャンボ・バルタン星人やゴモラやピカチュウ達がいて、カオスです。↓。

診察室のソファには、唯ちゃんのほぼ等身大低反発クッションとクタクタ顔のクッションの無言の存在感が目を引きます。
診察の時、気が散りそうですが、診察は皆さん真剣なので、よっぽど慣れるまでは目に入らないようです。↓。

その他にも細々したものがありますので、カワクリにお見えになった際には探してみて下さいね。
BGM. 榊原郁恵「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」


ミネラル少女

25/ⅩⅠ.(水)2015 小雨、少し寒い
ハワイに行った時のこと。
僕はハワイは食べ物が合わなくて、それ以外は何の申し分もない島なのだが、食べ物が合わなかった。
そんな僕は、外国人(?)向けの寿司屋にばかり通った。
ハワイの寿司屋にも日本酒はあった。
僕は、日本と同じ調子で、<お水もちょうだい>と言った。
すると、その店で接客をしていた女の子は日本人だったが、「お薬を飲むのですね?」と言った。
僕は<この子は一体、何を言ってるのだろう?>と首をかしげた。
すると、彼女はウインクをして、もう一回、「お薬を飲むのですね?」と言って水を持って来てくれた。
僕はそれでもまだ訳がわからず、メニューを見ていたら、ソフトドリンクの欄に「ミネラルウォーター」を見つけた。
そうか、ハワイでは、水は有料なのか。
確かに、飲料水がただで出てくるのは、日本くらいだと聞いたことがある。
彼女は、同じ日本人の僕に恥をかかせないように、遠回しに教えてくれていたのだ。
よく見ると可愛い子だ。
造形が整っているのではなく、内面性が人相に滲み出ている本物の可愛さだ。
写真写りばかり良い薄っぺらな上滑りな女とは一味違うのだ。
そんな彼女が何故、こんなハワイの寿司屋で働いているのだろう?
僕はそれが不思議だった。
そして彼女の店が跳ねるのを待って、僕らは夜のハワイのビーチを散歩した。
お互いの話をして、僕らは恋に落ちた。
な~んて、後半は妄想ですが。
それはともかく、それ以来、僕は日本に来日してから、必ず、ミネラルウォーターをチェイサーとして注文している。
ミネラルがメニューにない店では、ウーロン茶を別に頼んで、チェイサーにしている。
あっ、チェイサーってお酒を呑む時に、アルコールを加水分解するために、飲む水のことね。
車が追いかけっこするのをカー・チェイスって言うでしょ?アクション映画とかで。
あのチェイスですね。お酒を追っかけるみたいに呑む水のことです。
最近のお気に入りの飲み屋は、自由が丘の外れの店。
そこは日本酒が充実しているのだが、メニューにミネラルウォーターがない。
だから、僕はウーロン茶を別注文していた。
他の客は、普通に、水をもらっている。
僕はそれを尻目に、ハワイの寿司屋の少女を思い出して、君に届けとばかりに格好をつけて、只の水を貰わないでいた。
しかし、給仕にくる少女が持っているサービスの水のボトルを見て驚いた。
それは富士ミネラルのミネラルウォーターだった。
僕は彼女に声をかけ、ミネラルがあるのか?、と尋ねると、「ありますよ」と瓶を自分の頬の横に寄せて微笑んだ。
僕は、<じゃ、それ頂戴。ウーロン茶はキャンセル>と言った。
彼女は、「わかりました」と言って、水をくれ、伝票からウーロン茶を消した。
僕は、<あのさ、そのミネラルウォーターにお金を払いたいんだけど>と言うと、彼女は「これはサービスです」と言う。
僕は、<だから、お金を払って、水を飲みたいんだ>と言うと、彼女は「?」と首をかしげた。
仕方がないから、僕はハワイの寿司屋のエピソードを話して聞かせた。
すると彼女は、「わかりました。じゃ、ちょっと聞いてきますね」と奥に走って行った。
やがて店主が来て、「当店のこだわりで、お酒を美味しく召し上がって頂く為にミネラルを無料で提供しています」と言う。
しかし、それではこちらが困るのだ、と僕も引き下がらない。
店主も頑固だ。
水の料金を払う、貰えない、の押し問答が続いた。
この言い合いに水入りしたのは、給仕の少女だった。
彼女は店主に僕のハワイのエピソードを言って聞かせ、説得した。
そうして僕は晴れて、ミネラルウォーターにお金を支払うことに成功した。
僕が彼女に礼を言うと、彼女は「親びんを説得するのは大変だったんですからね」とふくれて見せた。
まぁ、それは可愛いふくれっ面なのだが、彼女、店主のことを、親びん、って呼ぶんだ。
そして僕のテーブルに富士ミネラルの大瓶が置かれた。親びん、って感じだ。
<ちゃんとお金を取ってね>としつこく僕が言うと、「わかってます!ほんのちょっとですからね!」とツンデレみたいに言った。
それがとてもチャーミングだった。ハワイのあの子も元気かな?
お会計の時、伝票を見たら、おそらく彼女の小さな字で、下の方に、「お水、10円」と書いてあった。
BGM. 岩井小百合「水色のラブ・レター」


僕が精神科医になった訳

24/ⅩⅠ.(火)2015 あたたかい
僕の生まれた頃は、子供は親の家業を継ぐのが、まだ「普通」だった。
医者の子供は医者になるように育てられ、歯医者は歯医者、八百屋は八百屋、パン屋はパン屋だった。
クラスの同級生は、皆、そうだった。
ギリギリ、そんな世代だった。
僕の家は眼科の開業医で、僕は二人兄弟だったから、将来は、父と兄と3人で医院を大きくすることが刷り込まれていた。
周囲の誰もがそう思っていたし、それをやっかむ人もなく、暖かく見守られていた。
そういう時代だった。
それは仕方がなかった。
こればかりは個人の力ではどうしようもなく、僕は物心付いた時から、医者になることになっていた。
勿論、その後の人生で、思春期や反抗期で、それを修正する機会は平等に与えられた。
だけど、僕は医者になった。
それは医者になる、のではなく、精神科医になろうという強い意志があったのだ。
医者になるには医学部に入り、全教科を勉強して、全教科の国家試験をパスしないといけない。
だから、逆に言えば、医師免許があれば、何科にでもなれた。
僕にとっての将来の約束は、医者になることだった。
親の都合は、家の眼科を手伝うことだった。
しかし、拡大解釈をすれば、医者になれば何をやっても良いとも言えた。
僕の親族には医者が多かったから、僕は専門的に色んな科があることを知っていた。
ここまでが前置き、ね。
僕の生まれは湘南の茅ヶ崎の海側で、そこは別荘地の多い温暖なゆったりとした風土だった。
僕が幼稚園の頃、近所をブツブツと独り言を言いながら、乳母車を引いている貧しい老婆が徘徊していた。
老婆は乳母車に古い赤ん坊の人形を乗せていて、その人形を本当の赤ん坊だと思っているという噂だった。
すずめ、を捕まえて食べてるという噂もあった。
僕は母親やお手伝いさん達に、「タッちゃん、あの人に話しかけてはダメですよ」と教えられていた。
ある日、狭い路地で、乳母車の老婆と鉢合わせになった。
僕は思わず、<すずめ、って食べれるの?>と聞いた。
すると、老婆は「坊や、そんな可哀想なことをしてはいけないよ」とビックリするほど、優しい声で言った。
僕は一瞬で、この人は良い人だ、とピンと来た。
すると、そんな気持ちが以心伝心、彼女にも伝わったらしく、僕らは仲良くなった。
老婆は乳母車から赤ん坊を抱え上げて、「ほら、こうするとお日様が透けて見えて綺麗なんだよ」と僕に教えてくれた。
セルロイドの人形に夕陽が差し込んで、それはキラキラと反射して輝いて虹のように見えた。
しかし、僕はこの事は、親には秘密にしておいた。
同じ頃、似たような事件があった。
僕の実家は診療所の2軒隣りにワンブロックほどの広さを持っている大きな家だった。
だから、時々、「乞食」(←これは不適切な表現なのでしょうが、差別を助長する意図ではないので使用します)が来た。
母親やお手伝いさんは、「タッちゃん、乞食が来たら、食べ物をあげちゃダメですよ。クセになってまた来るから」と言った。
僕は言う通りにしていた。
ところが、ある日、僕しか家にいない時に、勝手口から、女の乞食が、「何か恵んで下さい」と入って来た。
僕は、<お前に、何かあげるとクセになってまた来るから、やらない>とピシャリと言い放った。
すると女の乞食は、「坊ちゃん、もう何日も何も食べてないのです。約束します。今日だけですから」と懇願した。
僕は女乞食の目をジッと観察して、僕にはこの人が嘘をつくようには見えなかった。
そこで、従業員がいつでも、食べれるように台所に置いてある塩むすびを持って来てあげた。
女乞食は何度も何度もお礼を言い、約束は守る、と言って帰って行った。
僕はこの事も、大人達には話さなかった。
代わりに、毎日、<ねぇ、今日、乞食、来なかった?>と聞くのが日課だった。
すると、親やお手伝いさん達は、「変な事を気にするのね。乞食なんか来ませんよ」と笑った。
女乞食は僕との約束をちゃんと守ったのだ。
僕はこれらの事を通じて、大人たちの言う事はなんていい加減なものだろうとあきれた。
そして、こういう「常識」とか「普通」は疑ってかかる必要があると思った。
当時の僕は幼稚園生だったから、実際はそんな風に言語化は出来なかったと思う。
今、振り返って、解説すると、そういうことだと言うことです。
僕はそれ以来、無批判にこの世を支配している「常識」とか「普通」とか「規則」とか「一般」とかを敵視するようになった。
それは、そういう事によって、無力な人が、抵抗する術もなく、不当に扱われてることに義憤を感じると同時に、
「常識」に縛られて、生きている大人たちも決して、自由に見えなかったからだ。
僕は将来、医者になったら、歪んだ「常識」や「普通」で窮屈をしている人達を助ける仕事をしたいと思った。
その頃の知識で、精神科という科があることを僕は知っていた。
僕は医者と言う権威を武器に、差別や誤解を受けてる人や、不自由に生きている大人たちの心を解放するために力を発揮しようと決めた。
そして、それは僕の性質上、とても向いているとも思った。
それが僕が精神科医になった訳で、この初心はブレることなく今に至っている。
初心忘れるべからず、と言うのは、初心に立ち返れ、とか、初志貫徹みたいな意味で使われることが多いと思う。
でも本当は別の意味があるのだと、中学の時の担任が国語の教師だったから、ホームルームの時間に教わったのを
今でも覚えている。
「~べからず」、と言うのは、「~できない」つまり「can not」の意味で、だからこのフレーズの正しい意味は、
初心はいつまで経っても忘れることの出来ない事で、一生、付いて回るものなのだ、という意味になるそうだ。
初心忘れるべからず、が味わい深くなりませんか?
今はカワクリの新しいスタッフを増員しようとしているところですが、よくどんなスタッフを選ぶのかと言う質問を受ける。
本当は、もしカワクリに、テロリスト集団が雪崩れ込んで来た時に、身を挺して、患者さんを守ってくれる人、と答えたい。
しかし、実際そんなことがあったら、まずは我が身を心配するのが「正常」だから、そこまでは求めない。
そんなことを言っていたら、求人、来ないもの。
ですから、どんなスタッフを求めるかと言えば、僕が精神科医になった訳に共感して、一緒に働きたいと思ってくれるような人です。
その為には、こっちも日々努力して、口先ばかりでなく、態度でそれを示す覚悟が必要だ。
そのつもりで、やってはいるんだけどね。
なかなかね…。
BGM. よしだたくろう「ひらひら」