上手な川原達二の作り方

19/Ⅲ.(日)2017 母の命日
※今回はこれまでのブログ記事から母の思い出をピックアップして加筆・修正して編集した企画です。
(1)母は2006年3月19日に死去していますが、僕はろくにお墓参りなどしていません。
そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。
でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。
それは、あの寺の坊主がひどい人相をしていて、態度もふてぶてしい。おまけに、その嫁も。
あいつらと喧嘩して、お墓参りをしなくなった。
そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった。縁もゆかりもない場所だ。
何かの歌にあったけれど、お墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのだ。
僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。
そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。
こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれない。
なので名誉挽回に、今日は母の誕生日なので、母の思い出を綴ろうという訳だ。
形式にとらわれない、供養の仕方を模索しよう。母に語りかける口調で。
・お母さん、小学校の頃、僕は背が小さかったですね。
ある日、お母さんは僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ましたね。
「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいましたね。
聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言ってましたね。
僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど。
お母さんが悔しがってるのが、かわいそうでね。
僕はお母さんを馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。
それで、家に帰って、その報告をしたら、お母さんは嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてたね。
・もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きましたね。
僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血しましたね。
すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しましたね。
・箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。
お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって。
口もきかないから、お母さんは困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいましたね。
・大学の入学式です。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。まだ反抗期ですね。
僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。
お母さんは、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってましたね。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。
あれが正解だったのかも。
・そう言えば、兄の結婚式の時も。
僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。
結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、お母さんはホットした顔をして、振り向いて笑っていましたね。
・僕は、お母さんの作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。
高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。
それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。お母さんは、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったですね。
・こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。
僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。
その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。
多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。
だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、<お前、意地でも喋るな!>と気合いをこめて合図を送った。
しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。
僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、お母さんのことを思い出して、考えますよ。
お母さんは、僕の心の中にいると思ってますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だね。
(2)山口百恵は、まだ中3トリオの一番地味な子、っていう括りからやっと抜けたかどうかが僕のイメージだった。
ここから山口百恵は大きく軌道を修正して‘神話’や‘伝説’というおかしな方向に進むのだが、
『百恵白書』はその第一歩で、中でも一番、食あたりしたのは「いた・せくすありす」という、A面の3曲目の歌だ。
タイトルは森鴎外の性欲史みたいな小説をモジったことからもわかるよに、
百恵の性的なことに関する告白みたいなものが録音されていた。 
あの下品な鶴光のオールナイト・ニッポンよりも、聴いてるところを母親に聞かれたくなかった。
畑中葉子の「後から前から」の方がまだマシだ。何を言ってるんだ?
(3)母は働き者で浮かれたとこはなかった。
だから芸能人で誰が好きかなんて話も聞いたことがない。
唯一、歌舞伎の坂東玉三郎を贔屓にしていたくらいか。
晩年は、兄がアリスの堀内孝雄に似てると誰かに言われたらしく、2か月半くらい堀内孝雄を応援していた。
(4)僕は子供の頃、あまり大きい方ではなかった。
背の高さなんてどうでもいいと思うのだが、他人に「タッちゃんは小さいからね」と言われると、
母はよく、「サンショは小粒でピリリと辛い!」と怒っていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(5)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。
だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、
母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。
僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。
中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、
掲載されてるマンガがシュールで面白かった。
誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、
いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。
(6)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

(7)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。
(8)山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む。23歳の医学生だった風太郎の、昭和20年1月から12月までの日記。
始めは文語体だった日記が、だんだん口語体に変わっていく。
母は山田風太郎のことを「プー太郎」と呼んでいた。プー太郎、って結構、古い単語みたいだぞ。
(9)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。
祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。
それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。
帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と
現代そば事情を嘆いた。
僕は、この親子はアベコベだな、と思った。
(10)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。
Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。
僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。
亡き母を偲び、語呂合わせの巻、でした。
(11)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。
その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。
僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。
鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、
それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。
ちなみに、今、『鳥◎』はない。
(12)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。
子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。
さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。
「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。
それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。
だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。
「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。
それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は<なるほど>と思った。
(13)母はバレンタインに毎年、死ぬまでチョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、
「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思うなぁ。
(14)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。
母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、
「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。
(15)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。
母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。
母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。
ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、
「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。
僕が、<今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ>と指摘したら、
「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、
「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。
<お釣りの件は?>とたずねると、「う~ん、どうでしょう?それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。
(16)立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、というのは女性を美人だとおだてる時に使う文句だ。
美人とお花といえば、子供の頃、母が観てたので一緒に見てた、「花ははなよめ」というドラマを思い出す。
主題歌が、メロディーに乗っけてただただ花の名前を並べるだけで、途中に「いよー」とか「よーい」とかお座敷っぽい合いの手が入る。
それは、主演の吉永小百合が芸者なのだが、3人の子連れの花屋にお嫁に行くという設定だったからだろう。
僕がよく覚えてるのは、吉永小百合が「母親」であることに悩んで、自分のお母さん(この人も芸者)の淡島千景に相談に帰ると、
淡島が吉永小百合に「ただの子供好き」と「母親」の違いをたとえ話で言って聞かせるシーンだ。
それによると、子供がご飯を食べながらボロボロこぼしてたら、
「ただの子供好き」はこぼすたびに「まぁ、こんなにこぼして」と一々、拭いて面倒をみるのだが、
「母親」は笑ってそれを眺めていて子供が食べ終わったら黙って拭いてあげるのだという。
吉永小百合は何かを悟り花屋に走って帰り、それを淡島が優しく見送るのである。名シーンだ。
後日、茅ヶ崎の北口にある西友というスーパーで僕は母と買い物をして、その帰りに上のレストランで何かを食べた。
僕と母は対面に座り、僕が何かをこぼしたら、母が「あら、こぼしてる」と手を出そうとしたので、
僕は母に上に書いた「花ははなよめ」の淡島千景のセリフを言ってやった。母は、即、ダマった。
母は負け惜しみで、「嫌な子ね…」というから、僕は負けじと、<親の顔がみたい?>と言い返した。圧勝で終わった。
(17)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、
茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。
(18)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。
それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、
キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。
僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。
要は、「お金<気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。
プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、
「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。
(19)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。
母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。
僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、
母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。
そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
(20)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。
「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。
(21)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。
だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。
神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。
1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。
すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。
僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。
「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。
母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。
(22)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。
OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。
僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。
その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。
僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>
と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。
当然、母は聞き出そうとする。
<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)
(23)ワニが死んだ日のこと。
僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。
しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。
その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。
カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
<ワニの肉は言われた通り、本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや>
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。
(24)母で思い出すのは、中学1年の時の「サングラス事件」。
僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。
担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」
と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。
担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」
に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、
「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。
じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。
職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。
これは指導じゃない、お願いだ」と言った。
(25)僕の小学校は女子校の付属で、小学校時代は、バレンタインに軽トラック1台分くらいのチョコをもらった。
それが、中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。
こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。
(26)喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。
母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。
すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)
あれは何だったのか、いまだに判らない。
(27)僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
(28)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。
僕は、正直、女子ってバカだと思ってたけど、そんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。
すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。
(29)親心で思い出したのだが、僕が小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、
ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、
そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまったことがある。
電話口に向って、母は、
「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、<このままじゃマズイな>と思ったものだ。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。
(30)皆さんこんにちは、大平です。
本日はクリニックの模様替えをお知らせいたします。
バレンタインも終わりましたが、カワクリはひな祭りです。
これは先生のお母様がプレゼントをして下さったもののようです。
男の子に雛人形をあげるのは珍しいですね。桃も飾りました。↓。

(31)カワクリは、6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。
(32)子供の頃でした。今頃の季節です。川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。
応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。
でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。
そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。
目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。
でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノックしました。
まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。
母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。
母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。
すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。
そして、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
(33)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。
おしまい。アーメン。


やおい、じゃないよ、やよい、だよ

2/Ⅲ.(木)2017 雨 かまやつひろし死ぬ
友人が病気になった。「誰にも言うな」と云うから<分かった>と答えたら、「ブログにも書かないで」と念押しされた。
ん?これは、「あえて書いて!」というフリなのか?ダチョウ倶楽部的な。
ま、期待値(ギャンブルで掛け金に対して戻ってくる見込みの金額をあらわしたもの)を考慮して、一応、ふせておこう。
確率は低いけど、当たるとデカそうだから。
こないだ会った時に友人は「リリーズのコンサートに行った」と自慢していて、「相変わらず可愛かったよ」と言っていたから、
何かの機会に、僕の持っている「好きよキャプテン」のシングルレコードでも見せて、薬師丸ひろ子のように、<元気を出して>、
と言ってあげたい。
時の経つのは早いもので、もう3月ですね。やおい、じゃないよ、やよい、だよ。
そういう訳で、今回は、3月のカワクリの模様替え、をお送りします。
クリニックに来院されてる方はとっくに気付いているはずですが、ウォーターサーバーの場所を替えました。
今までは、カウンターテーブルと90度の角度に位置していたから、端っこに誰かが座っていると使いにくかったでしょう。
それをこの様にして改善したのです。↓。

この移動に押しやられる形で、缶とペットボトルは美空ひばりの下に移りました。↓。

ウォーターサーバーのサイドには、お湯→お風呂という発想で、入浴中の忍野忍を配置しました。↓。

このポスターの忍ちゃんは、「お前さまよ、この儂と同じ絵柄のフィギュアが受付にあるぞ」と教えてくれています。
時計回りに受付の方を振り返ってみて下さい。
ここにあります。↓。

ウォーターサーバーに戻ります。
忍ちゃんコーナーには、入浴つながりで「入浴彼氏」のキモイメッセージも添えてみました。
劇場版「傷物語」を観に行った、I.さんからもらった入場記念の特典カードのコヨミンも心なしかホストっぽいですね。↓。

そんな軟派な男にお仕置きするのはセーラー戦士、ウォーターサーバー横だけに、水野亜美。↓。

缶バッジをアップで写します。
決め台詞、「水でもかぶって反省しなさい!」。
「入浴彼氏」にピッタリですね。↓。

もしも水をこぼしてしまったら、こちらのティッシュをつかって下さい。
「おそ松さん」のシコ松・ティッシュボックスカバーも配備しました。
アニメ「事故?」の名シーンを商品化したものです。↓。

薬は水か白湯で飲みましょう、というキャンペーンではないのですが、「好きな人を振り向かせる処方箋」も置きました。↓。

その下にいるのは、イカ娘。「振り向くでゲソ!!」と言っています。この処方箋と引っ掛けての「振り向かせ」ですね。
言われた通りに振り向いてみましょう。
こんなパノラマが広がります。
診察室の入口に何かいます!。↓。

ズームアップしてみましょう。
本当だ!巨大ダイオウイカがいるでゲソ!!。↓。

折角なので診察室の扉を開いて、中を見てみましょう。
診察室の内扉は、以前にお知らせしたように、石野真子シングルスコーナーになりました。
今の季節だと、「春ラ!ラ!ラ!」を思い出しますが、この歌詞は何ともおかしなものです。
それは、♪春という字は、三人の日、と書きます。あなたと私と、そして誰の日?♪と歌い出したかと思うと、
なんと、あなたを好きになる前の彼も呼んで三人でお出かけしましょう、という提案なのです。
これは僕が高校生の頃の歌ですが、当時の僕は<どんなシチュエーションだ?>と頭を悩ませました。
あの頃と比べたら僕も少しは人生経験を積んで来たから、当時は純情すぎただけかな?、と考察し直してみましたが、
それでも、やはりおかしな状況で、それを三人そろって、♪春ラララ~♪と歌う心境はいまだに理解の範疇を越えています。
昭和生まれだからでしょうか?
そう思って受付の三人(大平・ソネ・うかい)に歌詞を教え感想を聞いてみました。
そうしたら、三人とも口を揃えて、「気まずい(苦笑)」と答えてくれました。
良かった。時代のせいではないみたいだ。この歌、変だよ!でも、石野真子の最大のヒット曲なんだよなぁ。
僕は割と石野真子の出演する番組や雑誌のインタビューやファンクラブの会報を熱心にみてるファンだったが、
石野真子が、この歌詞が変だ、と言ってるのを聞いた記憶がない。
デビュー35周年記念ライブにも行ったが、そこのトークコーナーでも「春ラ!ラ!ラ!」については言及しなかった。
「私はオレンジ」という谷山裕子が提供した歌(ファーストアルバム収録曲)については、
「あの頃は何も意味もわからずに、♪私を食べて、今すぐ食べて♪なんて歌ってて恥ずかしい」、
と言って会場を笑わせたのにだ。
僕が石野真子を他のアイドル達と違うな、と位置づけてる理由のひとつはそういうところだ。
彼女は人を傷つけたり裏切ったりする発言が皆無なのだ。
いまや主流ともいえる、当時のぶっちゃけトーク、や、全部言っちゃうね、みたいなことを一切しない。
倉田マリ子と双璧をなす、芸能界口の固い女、と言えるかもしれない。
あれ、倉田マリ子は濡れ衣だっけ?
石野真子コーナー。↓。

診察室の皆さんが座った正面、僕の背後には、山口百恵ちゃんのLPを飾りました。
上が、山口百恵15才、今のベビメタ、ゆい&もあ、の方が年長です。
下が、山口百恵20才、今の元・ベルハー、みずほ、と同い年です。
なんでしょう、このベテラン感。さすが、昭和と寝た女、ですね。↓。

意外と死角というか、皆さんが目にしないのは、後ろの正面です。
そこにも、シングル・ジャケットを貼り直してみました。
良かったら、見てみて下さい。何か知ってるの見つかるといいですね。↓。

当時は娯楽が少なかったのと、レコード業界に活気があったから、皆、やたらとレコードを買っていました。
友達の家に行くと、本棚とレコードラックをチェックし合い、そこでヒエラルキーが決まったりしました。
いつの世も例外はいて、高校時代の同級生・マル君、は高1の時点で一枚もレコードを持っていませんでした。
彼は僕のレコードラックをみてビックリしてましたが、僕はレコードを一枚も持ってないマル君に驚きました。
僕らは都内の私立の男子校に通っていて、そこには神奈川や埼玉や千葉から通う子も多かったです。
マル君、も結構、遠くから通っていました。
「マル君は、生まれてから一度も本物の海を見たことがない」という噂が学園中を飛び交ったこともあります。
僕が流したデマです。
そんなマル君が高校卒業間際についにレコードを買います。
当時は、秋葉原の石丸電気3号館がレコードセンターで、今で言うタワレコみたいな存在でした。
僕は、マル君がレコードを買う場面に立会いたくて同行(尾行?)しました。
そして、マル君の選んだ一枚とは、クリスタルキングの「大都会」でした。
下が、シングルレコードのストック。↓。

歌謡曲の思い出と言えば、高3の時、何かの拍子で、ツッパリ達のグループと一晩明かすことになりました。
はじめは、皆、不良自慢をしていました。
当時の時代背景は、金属バット事件とか校内暴力、学校の廊下をバイクが走る、駅で不良高同士が喧嘩をする、
などが日常茶飯事だったのです。
しかし、夜も更けて来ると、まるで歌声喫茶みたいに(行ったことないけど、歌声喫茶)皆が歌を歌い出し、
当時流行っていたオフコースの「さよなら」とか「眠れぬ夜」(西城秀樹バージョンもあり)を
ツッパリ達が歌っては、皆が涙を流して、口々に、
「俺たちにも、金八先生がいればこんなにはならなかった…」みたいなことをほざいてて、あきれた。
だから、
<武田鉄也がトルコ風呂(ソープランドのこと)へ行ったら、トルコ嬢(ソープ嬢のこと)が、
「え~、なんで金八先生がこんなところに来てるの~?」と泣き出してしまい、困ってしまった武田鉄也が、
「あれは~、仕事だから~」と言ってなだめた>というエピソードを話したら、一斉にツッパリ達から睨まれて、こわかった。
下のレコードを貼ってくれたのは、受付のソネさんで、ソネさんは「初恋」が好きだそうです。
ソネさんは、三田寛子バージョンも知っていて、さすが!、知ってることは何でも知っていて、
知らないことは何も知らない人です。
あっ、リリーズの「好きよキャプテン」が登場しました。友人に電話して知らせよう。
薬師丸ひろ子みたいに、「もしもし、私、誰だかわかる?」。↓。

中学時代、ブラバンで同期だった、おんだ君は、太田裕美の大ファン。
おんだ君が言うには、「太田裕美の水着写真は、この世に絶対、存在しない」。
<絶対、ってものはこの世にないだろう?>と僕が言うと、おんだ君はムキになって、「もし在ったら100万円払う!」って。
100万円って価格設定が、中2っぽい。
そこで僕は100万円ハンターになり、色々調べてみたが、太田裕美の水着写真は確かになかった。
そこは僕も中学生だから、負けず嫌いで、太田裕美の顔写真を切り抜いて、外人のヌード写真の顔の部分に貼り付けて。
作った合成写真は、今でいうアイコラ。我ながら良い出来で、お色気たっぷり。
おんだ君も気に入ってくれたらしく、「青い海と空のコントラストがキレイだね」なんて言ってさ、100円で買い取った。
100万円が100円に。
そんな、おんだ君の部活での政治力は絶大で、高吹連の自由曲に「赤いハイヒール」を選ぶよう、顧問や幹部に働きかけ、
僕らはコンクール(中高一貫校は中学生も出ていい)で、それをやった。
僕はホルンで、おんだ君はフルートだった。
「赤いハイヒール」はその時の練習用に買ったシングル。
「ブルースカイブルー」と「よろしく哀愁」は、ずっと不倫の歌だと思っていた。
今回歌詞を読み返したら、必ずしもそうとは限りませんね。
でも、そんな風に中学生に勘違いさせてしまうような歌が、堂々と歌番組でアイドルが歌っていたのだから、
鷹揚というのか、世の中の懐の深さというのか、あそび(この場合、ブレーキのあそび=余裕、に近い)があった。
女遊びは芸の肥やし、なんてテレビで皆言ってたけど。今だったら、大バッシングですね。
勝新が今の時代に生きていたら、どうなるんだろう?
勝新、芸能界追放かな?
それとも、世間の芸能界の見方が変わるのかな、ありゃ特別だ、って。
去年の一連の芸能界の「ゲス不倫騒動&報道」について、勝新の意見聞きたいな。
守護霊インタビューが出来る人、勝新の本、出してくれないかな。俺、買うけど。
桂木文は「ムー一族」で郷ひろみの恋人役をやっていたから、郷ひろみの隣にしました。
「短編小説」は、「ムー一族」の挿入歌で、さだまさし、の作詞作曲です。
さだまさし、は当時人気で、一方でタモリが深夜放送で、さだまさしの悪口ばっかり言ってました。
僕も世代的には、どストライクです。百恵ちゃんの「秋桜(こすもす)」も書いてますしね。
立川談春は僕と年齢が近いから、談春は、さだまさしの大ファンらしい。
談志が死んでから、談春は、さだまさしと二人で落語会をやっていた。談志が死んでからね。
生きてるうちにやってたら、破門だろ(笑)。↓。

立川談志にとっての歌謡曲とは最も新しくて、「津軽海峡冬景色」までだそうです。
弟子の志らくにとっての歌謡曲の最新は、久保田早紀の「異邦人」までだそうです。
下の、一番下の右から二番目が「異邦人」。
水谷麻里は、「すすめ!!パイレーツ」の江口寿史の奥さん。何故か右手だけ白い手袋ようなものをはめていた。
上坂すみれプレゼンツの「80年代アイドル歌謡曲」の選曲はかなりマニアックでした。あの子も変わった子だ。
中でも、伊藤つかさの曲では「へんネ!」をチョイスしています。これは「悲しみをうけとめて」のB面です。↓。

立川流四天王と言えば、志の輔・談春・志らく・談笑ですが、レコード盤にたとえて、
伝統を重んじる、志の輔・談春が「A面」、イリュージョン担当の、志らく・談笑が「B面」と言われています。
志らく曰く、「得てして、名曲はB面に多い」。
その代表でしょうか、薬師丸ひろ子の「探偵物語」のB面の「すこしだけやさしく」は名曲です。
ソネさんも昭和のアイドルには詳しくて、<一番好きなのは誰?>って聞いたら、石川ひとみ、ですって。
二枚貼ってみました。石川つながりで、隣には、石川秀美、を配置してみました。
その下には、聖子ちゃん。うかい、さんは、松田聖子、が好きらしい。↓。

大平さんにも、<誰が一番可愛い?>と質問したら、悩んだ末に、三田寛子、を指名しました。
受付三人の名前が出たので、ウォーターサーバーに戻りましょう。
元々、ウォーターサーバーがあった場所が移動してさびしくなったから、4人合作の絵を描いて貼りました。
良かったら見てみて下さい。
これは、奇数月に更新する予定です。1月・3月・5月・7月・9月・11月。大相撲の本場所と一緒ですね。
まずは、3月からスタート。↓。

個別にみて行きましょう。どれが誰の作品かは、ご想像にお任せします。
まずは、春と言えば、「花粉症」ですね。
ACHOO、は英語で、ハクション、の意味だそうですよ。↓。

3月と言えば、ひな祭りですね。ピカチュウで描かれています。↓。

それで思い出しましたが、今日、ひな人形を出しました。
これは僕が二十歳の頃、うちの母親が僕に買ってくれました。
思春期の男子に、ひな人形をプレゼントする母親って変わっていますね。
やおい、じゃないよ、やよい、だよ。
これを飾るために、寝釈迦動物たちを、ソネさんが移動させました。
寝釈迦サンタ以来、彼女のセンスは光ります。
今回のポイントは、ピンクの豚が、ピンクの蓮の花の中に保護色で隠れてるところでしょう。↓。

続きまして、今回のメインテーマである、3月=弥生、です。
色んな不思議な生き物がいますね。
あれ?、弥生、の文字が消えてる。↓。

上の絵の「おとうふ」とは、とうふメンタル、のことだそうです。
皆さんは、「知ったら常識」、というフレーズを知っていますか?
僕は、とうふメンタル、を、受付に説明されるまで知りませんでした。
それは、おとうふのようにちょっとした外圧で崩れやすい弱いメンタルのことを言うのだそうです。
皆さんは、知りませんでしたか?とうふメンタル。これ、常識ですよ!
…と、この様に使います、「知ったら常識」。
ちなみに、このおとうふの表情は、早番で来たら、もう既に患者さんが玄関の前で列を作ってた時の受付の表情だそうです。↓。

これは一目瞭然、僕のです。
「春よ来い」と「恋」を引っ掛けて、おめかししてるシーンです。
大学5~6年生の頃の病棟実習のイメージです。
病棟実習には、ネクタイ着用が義務づけられてましたからね。
左下の、「キャー」とは僕のペンネームで「キャーハラ」の略です。
ジェームス・ディーンが映画の中で、
「僕の名前は、ジェイミー。本当は、ジミー、だけど親しい人にだけ、ジェイミー、って呼ばせるのさ」と言うと、
ヒロインの女の子が、「まぁ、ジェイミー?面白い名前ね!」って笑うシーンからパクりました。↓。

あんまり上手じゃないから恥ずかしいのですが、この頃に僕が詠んだ短歌があります。
とっときのペイズリーのタイでも絞めて町へ出ようか春ともなれば
父は僕が大学2年の冬に胃癌で死にました。
父の形見のネクタイを僕は何本も持っていたのですが、普段はネクタイなどしません。
しかし、病棟自習はネクタイが必要なので、その時にネクタイを引っ張り出して来たのです。
その中の一本にペイズリー柄の赤と緑のネクタイがありました。
流行はよく一回転するなどと言いますが、丁度その当時、ペイズリー柄が流行していました。
ちょっと派手なネクタイなので病棟実習には着用しませんでしたが、いざという時に使おうと思ったのです。
春、とは、父が死んだのが冬だから、そのショックから立ち直るという意味もありました。
小此木啓吾先生の「対象喪失」という本の中に、大体どこの文化圏も喪に服す期間は1年、と書いてありました。
年賀状を出さない、とかね。
でも、本当の意味で受容するのは、個人差があるでしょうね。時間って、人によって流れ方が違う気がするし。
僕の場合、病棟自習の前にこの句を詠んでるから、受容するのに3年かかっていますね。
それから、春、には、いよいよ病棟実習が始まり医者に近付いてきて、国家試験に合格して、サクラサク、で、
春よ来い、という意味も込められてましたね。
そして、さっき言った「春よ来い」と「恋」を引っ掛けた、春、のトリプル・ミーニングですね。
この絵で僕がおめかししながら空想してる女の子のモデルは、受付にしました。
以前、<それ一つ?二つ?>、とソネさんに聞いたら、指を一本差し出して、「一つです」と答えたのが、
「この指、止まれ」みたいだなぁ、と思ったのが印象的だったからこのポーズにしてみました。
女の子本体は、大平さんに似せようと描いたのですが、何故か、サザエさんのカオリちゃんみたいになっちゃいました。
ソネさん&大平さんで完成してしまったのですが、うかいさん要素を使用しないのは不公平なので、
黄色いアワアワの空想のルートを、迂回、させてみました。↓。

さて、3月のカワクリの模様替えをお送りしましたが、いかがでしたか?
ついでに、僕の新しいネイルをお見せしましょう。
僕の最近のお気に入りのマンガ「デデデデ」をテーマにしました。
親指は、おんたん&門出(かどで)。↓。

残りの指は、「デデデデ」と書きました。門出側は、青。コミックス1巻の表紙を参照。↓。

おんたん側の「デデデデ」は赤。コミックス2巻の表紙を参照。↓。

そんなネイリストさんも、実家に帰るらしく、3月でサヨナラです。
おニャンコクラブの「じゃあね」の歌い出しではありませんが、
「春はお別れの季節です。みんな旅立ってゆくんです」。
彼女の実家は僕の好きなマンガの舞台で、町中の鉄がみんな錆びている田舎。
人生は、出会いと別れの連続ですね。
出会いや別れに慣れては来たけれど、ちょっぴりさびしいものですね。
下が、今月の新刊、「死人(しびと)の声をきくがよい」9巻直筆サイン入り。
早川さん、可愛いです。特に1巻の最後の話が僕の純情ロマンティックのツボです。
母の命日も3月です。でしゃばりで、過保護で、アナーキーな人だから何やら口出しして来そうな季節です。↓。

BGM. ソフトクリーム「やったね!春だね!!」