オオトリ2014〜相談室だより〜

大晦日です。とくだです。
ブログのオオトリ、久々に、務めさせていただきます。
クリニックの中には、たくさんのポスターや、言葉やラミネートされて貼ってありますね。その中でもお気に入りの場所、皆さんあるかと思います。
私のお気に入りは、入り口横にある、オバQの1ページです。
大人になった正ちゃんのところに、オバQが帰ってくるというストーリーのラストのワンシーンです。
それと、喫煙室の前というか処置室の方へ曲がるコーナーのところにある、
談春のパンフレットの言葉が印象的です。年の瀬には思い出します。
「色々あった一年なのは お互い様
成老病死について考えざるを得なかったのも お互い様
四苦、三十六
八苦、七十二
忘れる 断ち切る 思い切る
百八つを突き切って 新しい年」
2015年も、よろしくお願いいたします。


予告ブログ③~「バリ島」旅行記

2013年9月27日~この年の夏季休暇
バリは飛行機で6時間、時差が1時間だそうだ。
飛行機はいつも僕が<狭い!>と文句を言うので、エグゼグティブ・クラスに乗った。
ガルーダ・インドネシア航空。↓。


この旅は、僕と女性2人の3人旅。
スポンサーが僕で、向こうでの工程は女子まかせ。
2泊を山で、2泊を海で過ごすスケジュール。
空港からバスで1時間、山の中のこじんまりとしたホテルだが、一人一人に面倒見が良い。
ホテルは街のようになっていて、道のそこかしこに、花のお供えがある。↓。


ホテルの中はバギーで移動する。お部屋は一軒家のようだ。↓。


プールもついている客室で、ここでのんびり読書も出来た。↓。


朝は、朝食専用のレストランへ。↓。
女性陣が言うには、「虫対策が良い」のもこのホテルの決め手のポイントだったそうだ。


初日は、あらかじめ予約しておいたスパへ。スパから車がお出迎え。
エクスポのために作ったという海を渡る橋は、まだ無料らしく、1月から有料通りになるそうだ。
片道2車線&バイク専用2車線の計4車線からなり、車道とバイク道が完璧なコンクリートの壁で仕切られていた。
そう言えば、至る所に、「APEC2013、インドネシア」と書かれた旗やのぼりが飾られていた。
スパのメニューは、ボディ・フェイシャル・クリームバス・シロダーラ。
下は、スパ後のミーゴレン。ケチャップで「TATSUJI」と書かれてある。↓。


その後、ホテルに戻り、アフタヌーン・ティー。夜は、川沿いのレストランで。
この川には近所の人がよく沐浴に来るらしく、地元の生活が垣間見れるスポットらしい。
翌日は、ウブドの町まで買い物。ウブドは離れているから、ホテルの車で送迎してもらう。
つまり、ここのホテルはそのくらい観光地ではなく、ゆっくり出来る場所にあった。
案外、バリでは、海より山を好む人も多いらしい。
ウブドまで、車で移動中、犬やニワトリが放し飼いの光景がよく見えた。
犬は放し飼いだが、猫のように大人しい。
ニワトリも、放し飼いだが、きっと食用にしないのかな、皆、やせていた。
ウブドの町でまず日よけようにストロー・ハットを買って、被って観光した。
下は、ウブドで気になった石のカエルの像。↓。


これは、店先に飾ってあった鳥篭。↓。


僕は寝釈迦のポーズが気に入っていて、色んな寝釈迦のポーズをクリニックの受付に飾ってある。
どうして僕が寝釈迦のポーズを気に入ってるかと言うと、それは「悟り」や「反抗」や「満足」や「怠惰」や「挑発」や「お色気」を
同時に発信する記号だからです。
ウブドの店で銀色の寝釈迦像を見つけた。これは「みやげ物」というより「骨董品」のようだった。
僕は店員にこれをくれと言うと、店員は真面目な顔で「これを置く場所は自分の目線より上じゃなくてはダメだ」と言う。
クリニックの受付カウンターは目線より下だ。それじゃダメ?って聞くと、「ダメだ」と言う。
不敬罪みたいなニュアンスなのかな。こういう観光地なのに売りつけようとせず、信仰を大切にするのは立派なことだと思う。
僕は店員に判ったよ、と笑顔で答えると、彼も笑顔で手を振り、その銀の寝釈迦を地べたに置いた。
何だよ!お前!言ってることとやってること違うじゃん!
後の2日は、海のホテルに移動。
そこはよそから押し売りとかが入って来ないような標高の高いところにホテルがある。
着くと、ロビーで木琴のようなものを連弾して演奏されていた。これが、その楽器。↓。


海も押し売りが入って来れないようにしてあるから、ガラガラ。↓。


バリ島のこの時期の温度は22~33度で、28度くらいが丁度良いらしい。
僕は足の先っぽだけ波にひたして。せっかくだから、ビーチの雰囲気だけ。椰子の木。↓。


僕らは、この後すぐ、アフタヌーン・ティーのためだけに、ブルガリ・ホテルに移動。
ブルガリ・ホテルのアフタヌーン・ティーは有名らしいが、そのあたりには何も無く、道もガタゴトで30分かかった。
昼過ぎに制服を着て歩いてる子が多いので聞いてみると、バリでは学校は7時から12時半くらいなのだそうだ。
学校は土曜日もあり、日曜だけが休みらしい。
バリの人の給料は安くて、大学の学費は高いらしい。
お金持ちの人はオーストラリアの大学に行くらしい。
バリの産業は観光だから、英語が出来ないとダメらしい。僕は英語が苦手だから、バリではダメだな。
バリには観光大学や踊りの学校があるらしく、ホテルやレストランで勤める人は観光大学を出るらしい。
踊りの大学は、バロン・ダンスとケチャック・ダンスに分かれているらしく、僕らはアフタヌーン・ティーの後、ケチャを見る予定。
しかし、ブルガリ・ホテルまでは遠い。途中、農地に牛がいた。
バリの牛は、田畑を耕すためだけの家畜だそうで、ミルクもとれない。
宗教上の理由で食用にはしないから、食べる時は、他の島に渡す。他の島とは、イスラム教のことだって。
ヒンドゥー教は、牛を食べないが、豚は許すらしい。
イスラム教は、豚は食べないが、牛は食べるらしい。
そうこうしてるうちに、散髪屋があったりして。男の子は、100~120円くらいが相場だそうだ。
やっと、ブルガリ・ホテルに着いた。
ホテルに入るときのチェックが厳しい。
警察官が黒い犬を連れていて、犬が車の周りやトランクの中の匂いを嗅いで回る。
アヘンの取り締まりに厳しいそうだ。特にこういうホテルは、厳重。
さっき難しい宗教上の食べ物の戒律を説明したが、レストランは関係なく観光客向けに、牛も出すそうだ。
最近では、若い人も食べるようになってきたそうで。
ただし、僧侶は、牛は食べないらしい。
そして、僧侶は、ニワトリも食べない。
だけど、僧侶は、アヒルは食べる。
さらに、僧侶は、アヒルの餌までチェックするらしい。
下が、ブルガリ・アフタヌーン・ティーの一部。エビ。↓。


これが、アイスとスコーン。↓。


夜は寺院に、ケチャック・ダンスを観に行く。6時から開始だが、5時半くらいに行かないと席がとれない。
ケチャック・ダンスは楽器を使わない古いダンスで、ダンサーが声だけで「ケ」「チャキチャキ」と節をとる。
物語は、白猿ハヌマーンとかが登場していたシンプルな筋だ。
この寺院には猿が多く、いたずらで、帽子をとるので気をつけるように看板があった。
僕は、席についてからも、帽子を手で押さえていたら、後ろの席の、西洋人の夫人に「ソーリー」と声をかけられた。
投影法の心理テストで「P-Fスタディ」というのがあるのを皆さんはご存知かしら。
フラストレーションが溜まる場面の1コマ漫画に吹き出しがあり、そこに「せりふ」を書くテストだ。
「時計じかけのオレンジ」の最後の方にも出てくるから、それで思い出す人もいるかもしれませんね。
つまり、何を言いたいかと言うと、そのテストの1つに前の客が大きな帽子を被ってて、観づらいという場面があって。
外人ってこういう時に普通に礼儀正しく「ソーリー」って言えるんだな、って思って。
日本人だとギリギリまで我慢して、最後の最後に喧嘩腰になる、ってパターンが多くないか。
そんなことはないか。俺だけか。失礼しました。下が、僕が被ってた帽子。今は診察室で、唯ちゃんの頭上に。↓。


寺院からは、石の先端、が見え、ここにジャワ島から昔、坊主が来たとか来ないとか。
由緒正しいそうです。↓。


岬から見下ろす海はインド洋です。↓。


ケチャック・ダンスは、こんな風にまず、司祭が出てきて、火をくべて始まります。↓。


男達が上半身裸で、「ケ」「チャキチャキ」と言いながら出てきます。↓。


ケチャの踊りです。お客の半数は日本人だそうで。中国人や韓国人はバリの踊りは観ないそうで。↓。


これがクライマックス、炎の中にいるのが、ハヌマーン。
ハヌマーンは、客席にも入って行っちゃう愛嬌者で、マチャアキや加藤茶ンを彷彿とさせました。
だから、日本人受けするのかな。↓。


ここの入場料は踊り子には行かないそうで、全額、村と寺院のためになるそうです。
彼らは、お祭りの時のためにケチャック・ダンスをするそうです。朝は働いて夜はケチャック。
ケチャック・ダンスは、学校でも教えるそうで、バリ島は6月に文化フェスティバルがあり、学校も休みになるらしい。
国をあげてのイベントですね。
日本からは歌舞伎と和太鼓が参加したらしい。
そう言えば、BELLRING少女ハートの「みずほ」の特技が「けん玉と和太鼓」ではないか。
ベルハー(BELLRING少女ハートの略)も6月の文化フェスに日本のサブカル代表として、アイドル枠で行ったらどうか。
みずほ、和太鼓、出来るし。それに、そもそもケチャって、オタ芸でもあるよね。
ベルハーと「オタさん」(BELLRING少女ハートのファンのこと)で大挙、海外進出したらどうだろうか。
BABYMETALに負けるな!
話が脱線してしまいましたね。脱線ついでに、下が、みずほ(BELLRING少女ハート)。↓。


ケチャック・ダンスのお芝居のおしまいに近づき、夕陽が落ちてきます。↓。


僕らはその後、「バリ・コレクション」に行きました。
バリ・コレクションは、ウブドに比べると値段が高く(同じものがビックリする値段で売ってます)旅行者はもっぱら、
買い物はウブドでして、バリ・コレクションはレストランに使うそうです。
僕らの旅は、僕と女性2人の3人旅でしたが、バスを間違えて深夜に違うホテルに着いてしまいました。
そして、やっとタクシーを見つけて、目的地まで帰ったのは良いのですが、タクシー代をボラレました。
何って説明すれば判るかな?
つまり、お札を間違えたのです。
日本円に置き換えてみます。
たとえば、「2000円」と言われたので、「1万円札」を1枚出しました。
すると、タクシーの運転手は、「2ですよ」と答えました。
なので、もう1枚「1万円札」を出したら、タクシーの運転手は、サッと顔色が変わり、急発進して去って行きました。
だから、正確に言うとボラレたのではないのです。こっちのミスです。
でも、日本人のタクシー運転手さんは、そういうことをしないよな。
あいつ、慌てて車をすっ飛ばして行ったから、帰りに事故にでも遭ってないかな。
僕はちょっと悔しかったので、部屋に戻ってから、即興の呪いのおまじないを、ケチャ風に踊ってみました。
翌朝、ホテルのロビーに行き、<昨日の深夜、タクシーの事故、なかった?>って聞いたら、知り合いが事故に遭ったと勘違いされ、
ホテルのロビーは大騒ぎ。色んな所に電話したりして。幸い、事故はなかったそうです。
後で、検証したら、3人とも、間違いに気付いていました。
でも、各々が、誰かが、どうにかするだろうと思っていて。
海外などで危機的な状況になったら、取り敢えず、リーダーシップをとる、というのが今回の教訓でした。
バリ島の町には犬がたくさんいて、放し飼いで、朝、放つと夕方に家に帰って来るらしい。散歩させないでいいから楽だね。
昔、バリで狂犬病が流行ったらしく、それ以来、首輪のついた犬は1ヶ月に一回注射をして、そうでない犬は銃で殺すそうで。
狂犬病で観光客が来なくなったら、バリの人は仕事がなくなってしまうからだそうで。
僕は特別、動物愛護精神に敏感ではないから、仕方ないんだろうな、と思う。
だけど、もし本当に観光で食っている自覚があるなら、一人のタクシーの運転手の意識から改めるべきだと思う。
犬を銃で撃ち殺すように簡単にはいかないだろうけれどね。
俺は、もう絶対、「バリ・コレクション」には行かないからな。でも、ま、山は行ってもいいかな。

BGM.BELLRING少女ハート「ライスとチューニング」


受付だより~天明・富田の消失~

2014年12月18日(木) 晴れ(凄く寒い)
皆さん、こんにちは。受付の後藤です。
本日12月18日はどんな日かご存知ですか?そう!スティーブン・スピルバーグ監督のお誕生日です!
しかしそれだけではありません。
前回のブログで後藤が大好きと公言させていただいた、涼宮ハルヒというアニメシリーズでは、
12月18日はとても重大な事件が起こった日なのです。
ハルヒシリーズをご存知でない方に簡単にご説明させていただきますと、
ハルヒシリーズの中に「涼宮ハルヒの消失」という作品があります。
『消失』ではタイトル通り、ハルヒが主人公のキョンの前から姿を消してしまうというお話。
(これ以上先はネタバレになりますので、興味のある方はカワクリで読んでみてください)
そのハルヒが姿を消したのが12月18日なのです。
という事で、『消失』にかけまして今回のブログは10月、11月と立て続けにカワクリから『消失』もとい退職された
天明さんと富田さんお二人の『消失』を通して様々なことを書いていこうと思います。
先生からは「NEW受付としての前にこれまでとこれからの区切りとして、先輩へのこれまでの思いなどを込めて
色々書いてみなよ」と今回良い機会を与えていただきました。
年末ということもあり、受付の総決算的な意味合いも込めて、先輩お二人から学ばせていただいた事や
川原クリニックの受付のあり方を今一度考え、先生のイデオロギーなどなど、後藤独自の個人的解釈から
書かせていただこうと思います。
大変個人的且つ主観的で、稚拙な持論になると思いますが、皆さま寛大な気持ちで見守っていただければと思います。
今更ですが、まずはよく誰が誰だか分からないと言われるので、簡単にご説明させていただきます。
一番先輩の天明さんは明るい髪色のストレートロングの方です。
次に先輩の富田さんはセンター分けのミディアムの方です。
そして私後藤は黒髪ポニーテールをしている者です。
因みにフレッシュ小森さんは一番短いショートヘアのお姉さんです。
(そう言えばここまで四人揃って一人も髪型が被らないのも凄い…。)
天明さんと富田さんとは一年半ほど3人で受付をご一緒させていただきました。
一年半の中には笑あり涙ありの様々な出来事でいっぱいでした。
皆さんのカワクリの思い出や記憶の中にも、お二人の印象は強く残っているのではないでしょうか。
天明さんはその可愛らしい外見とは裏腹に、趣味がとてもカワクリと共通していて、
アイドルからアニメまでバラエティに富んだ会話を受付で繰り広げ、多くの方と盛り上がっていました。
たまに「クールですね」なんて言われたりしていましたが、明るくムードメーカーで受付の顔という存在。
きっと多くの方がカワクリの受付と言えば、あの神的存在の『岡田さん』の次に思い描く方ではないでしょうか。
富田さんは受付3人の中で真ん中っ子な立ち位置ですが、実は本当に真ん中っ子なのです。
私と三ヶ月ほどしか変わらないのに、たったの二週間で独り立ちして一番大変な立場だというのに、
いつも様々な物事の間に入って気遣って下さいました。
いつも周りを一番に気遣い、常に様々な所にアンテナを張っていて、私がやろうとしていた仕事をもう先にしていて
くださることも多く、「この人、超人じゃん!」と勝手に思っていました。
富田さんの送別会でのお別れの挨拶の際にも、
心理士の谷田さんから「富田さんはいつも必ず何かお仕事をされている印象」と働き者の太鼓判を押されるほど。
きっと過去に皆さんが「カワクリ気遣いできるじゃん」なんて思っていらしたら、それはきっと富田さんです(笑)
そんな受付3人が、実は全員同い年だったのを皆さんはご存知でしたか?
私もお二人の年齢はそこまで自分と変わらないだろうと思っていましたが、
まさか3人とも同い年という偶然には驚きました。
年が同じと言うこともあり、3人の関係は少し普通の先輩後輩とは違っていたようにも思います。
3人それぞれ抱える悩みや思いは似ていて、シンクロする部分も多く、独特な受付の結束力でした。
互いが必死に互いを思いやり、私はそのお二人に大変甘えていたなと、お二人が『消失』してから
今更痛感するほどです(笑)
でもそれは良い意味でも悪い意味でも表面化されていて、ある時に先生から「3人の個性がないように見えている」と
言われたことがありました。
その時はそんなに3人が似ていると私は思っていなかったので、先生の発言には驚きました。
しかし今振り返ると、あの時の自分はただ「クリニックの受付」として働いていたなと思います。
多分先輩お二人もそうだったのではないかな、と思います。
仕事覚えが悪くて要領も悪い私は、なんとか必死に「受付の仕事」を全うしようと必死で、
先輩がいない間をなんとか必死でカバーしている様な感じでした。
故に、先輩のコピーのようになっていた部分もあったのかなと思います。
それが「3人の区別がつかない」印象に繋がっていたのかな?と今では思います。
そんな中で先生は「ただの受付」ではカワクリには必要がない。
「カワクリの受付」として治療者の一環として仕事を全うして欲しい。
しかし医師や看護士、臨床心理士のように専門的な学問の経験はなく、また3人とも医療事務としての経験も
カワクリが初めてでした。
「治療者の一環」に何の資格も経験もない、ましてや二十歳そこそこの自分たちにそんなことができるのかと
最初はとても不安でした。
先生もそんな私たちにそれぞれの「受付」となって欲しくて、「なぞなぞ」や「ブログ」などさまざまな案を
出してくださったりと試行錯誤されていました。
受付はそれに戸惑いながらも必死に応えていく。
過去の先生のブログを読んでいただければお分かりかと思いますが、勿論生意気ながら先生と受付で衝突することも
ありました(笑)
でもそれは先生も受付各々もそれぞれが抱く「受付のアイデンティティ」があったからこそ。
そんな受付としてのアイデンティティの確立においても、3人で手探りで成長していったのは、
私にとってとても良い経験でした。
「受付の在り方」だけではなく「仕事」や「働く」という事への意味を模索する機会であったし、
何よりも「プライベートでの自分」と言うアイデンティティとは別に「職場での自分」を模索し確立していくのは、
責任感も同時に強くなっていくように感じました。
この責任感から更に成長を遂げて、「やりがい」を感じまたその先に成長していくのかなと思います。
一年前の受付の印象と現在の受付の印象は、皆さんの中で変化はありましたでしょうか?
まだまだ皆さんの目には「一年前の後藤」と「現在の後藤」とでは大差がないかもしれませんが、
少しでも成長した姿を感じていただけたらと思います。
実は私がカワクリに来た当初は、「受付は名前以外のことを教えてはいけない」なんて言う謎ルールがありました。
先生は「教えたくないことは教えなくていい」と思っていたそうですが、それがどこかですれ違いそんな謎な受付ルールが
昔存在しました。
そんなすれ違いが発覚したのも、先生が受付に革命をもたらそうと試行錯誤されていた時に発覚したのですが、
先生が「そんなルールない!」と撤回されました。
なんの縛りもなくなり、皆さんとの交流も以前より深まったように思います。
天明さんがアニメや声優がお好きだったなんて、最近知った方も多いのでは?
共通の趣味や興味があると、より一層、話題は盛り上がりますし、共感性を感じることは心の距離が縮まるように感じます。
受付による自己開示性は、アットホームさを売りにしたカワクリにとっては当たり前だけどとても重要なものです。
なによりクリニックの壁という壁を使いまくって、先生が皆さんに「無言の自己開示」をしている訳ですしね。
そして共感性や心の距離を縮めることを通して、患者さんに「寄り添う気持ち」こそ、
私たち受付の治療法であり、自己開示はその1つであるとも言えます。
そんな大切なことも天明さんや富田さんと一緒に居たからこそ、気づき学べたのだと思います。
そんな受付それぞれが一年以上の経験を経て、先生の試行錯誤の策も講じて大分以前の受付と変化を遂げ。
そんな変化の結果こそ、『レジェンド富田』や『天明バブル』が生まれたのではないかなと思います。
お二人の卒業を間近に、多くの方がクリニックに駆けつけて下さり、またご連絡を頂いたりしました。
お二人の卒業をたくさんの方に惜しんでいただき、その光景は先生が一番に受付に求める条件だと思います。
本当に本当に天明さんと富田さんにはお世話になりました。ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。
そしてそして期待のルーキー!フレッシュ小森さん、これからよろしくお願い致します。
頼りない後藤で申し訳ないのですが頑張りますので!汗
マイペースな私を見守ってくださって、いつも本当に感謝しています。
そしてそしてそして、ここまで長々とブログにお付き合いいただいた皆さまにも感謝です。
これからも進化し続ける受付をどうかあたたかく見守っていただけると幸いです。
天明さん、富田さん、これまでの受付の先輩方に感謝を込めて。
そして小森さん、これからの未来の受付の方々にに期待を込めて。


BGM.平野綾「冒険でしょでしょ?」


ねぇ、君、今夜は、久し振りに、オタクの話をしようよ。

18/ⅩⅡ.(水)2014 寒い、強い風
「涼宮ハルヒの消失」について書きます。
ネタバレ注意です。
まだ観てなくて、これから観たいと思ってたら、読まないで下さいね、特に顧問。
1行目から、ネタバレです。
大丈夫ですか?
最悪、バーって流して写真だけ見て、「まどマギ」まで行き着けば、セーフですから。
Ready?
今日、12月18日と言えば、長門有希が「涼宮ハルヒの消失」で世界を改変した、その日です。
それにあやかって、診察室のマウスパッドを「長門有希」の物に変えました。
この絵柄は、「射手座の日」の時の1コマで、アニメを観たことがある人はニヤリとするでしょう。
観てない人にとっては、なんでもないでしょう。それが、これ。↓。

前に後藤さんのブログ記事でも紹介された涼宮ハルヒ(&ゴジラ)コーナーの「涼宮ハルヒの消失」のポスターは2種類。
1つは、これ。↓。

もう1枚は、これ。↓。

2種類とも両面ポスターで、今は「長門有希」メインで推してましたが、この時期なので映画告知ver.に裏返しました。
1枚目の裏が、これ。↓。

2枚目の裏が、これ。↓。

同じ壁の「涼宮ハルヒの消失」関連グッズを紹介します。映画の前売りチケットです。↓。

これは、長門有希のキー・チェーン。長門が眼鏡をかけてるのが、判りますか?。↓。

さて、それでは場所を移動して、フィギュア棚から「涼宮ハルヒの消失」関連グッズを探してみましょう。
まずは、映画を観た人なら判ると思いますが、「朝倉涼子のおでん」です。
これは、本物のおでんが映画公開当時に商品化されたものです。寒い冬、ファンには有り難いですね。↓。

そんな朝倉涼子が鍋つかみを手にはめ、おでんを運んで来るフィギュアです。見やすく棚から出して撮影しました。↓。

「涼宮ハルヒの消失」では世界が改変され、ハルヒは光陽園学院の生徒です。
だから、制服もお馴染の北高のとは違いますね。↓。

改変後の世界では、長門有希は普通の内気な少女です。メガネっ子です。↓。

「鍵」を揃えるべくキョンとともに、ハルヒは体操服に着替えて北高に忍び込みます。
キョンのリクエストで、ポニーテールにします。良く見えるように横から写しました。↓。

なんだかワクワクして来ましたね。また映画を観たくなっちゃいますね。
なのにカワクリで「涼宮ハルヒの消失」をモニターで流さない理由は、字幕スーパーがないことと、朝倉涼子のせいです。
このようにカワクリでは、記念日や季節感を大切にしています。
世間は、今の時期は、クリスマスで、カワクリでも、こないだまでビーチ・ボーイズのクリスマス・ソングを流していました。
しかし、今の時期、どこもかしこもクリスマス・ソングでうんざりだ、と評判がすこぶる悪かったです。
そんな人の耳には、ビーチ・ボーイズもフィル・スペクターも有難味はないようです。
なので、クリスマス・ソングをカワクリのBGMから全部、抜きました。
代わりに、今のカワクリのBGMのメインは「大瀧詠一」と「物語シリーズ」の主題歌&サウンド・トラックです。
大瀧詠一は去年の12月30日が命日だから追悼です。↓。

「物語シリーズ」の意味は、「憑物語」が今年の大晦日にMXTVで全4話一挙放送を記念してです。↓。

そう云う季節感ですから、カワクリの音響は全然クリスマスっぽくなくて、リア充じゃない人には心地良いかもですよ。
さて、オタクの話の続きをしましょう。
僕は、「まどマギ」では、美樹さやか、が1番好きです。
診察テーブルの卓上カレンダーの左右に美樹さやかのミニチュア・フィギュアを並べてみました。↓。

皆さん側が、制服ver.のさやか。↓。

そして、僕側が魔法少女のさやか。↓。

受付には、さやかのヴォイスが聞けるフィギュア(グッズ)もあります。↓。

ボタンを押すと、さやかが、2パターンで囁きます。
「あたしって、ほんとバカ…」と「奇跡も…魔法も…あるんだよ」です。
興味のある人は受付スタッフの後藤さんか小森さんに言って下さいね。
(心理相談室の前の千石撫子の声を聞きたい人も声をかけて下さいね。今まで、リクエストした人、いないみたいですから)
そうそう、喫煙所にも「まどマギ」コーナーがあります。
そこでも、美樹さやかはキュゥべえと大きなポスターで存在感を現しています。↓。

タバコを吸わない人でも、美樹さやかに興味があったら喫煙所に入って見て下さい。
未成年者でも、喫煙しなければ入って良いですよ。
だけど、クリニック(って言うか医療機関)で喫煙所があるのは珍しいでしょう?
今度、喫煙所を作った訳を教えますね。
最後に、美樹さやか、の缶バッジで、おしまいです。↓。

次回、「涼宮ハルヒの消失」つながりで、後藤さんが何か書きます。
BGM. 大瀧詠一「幸せな結末」


予告ブログ①~「生きること、死ぬこと」

15/ⅩⅡ.(月)2014 はれ 
※今思うと、あれがプロローグだったんだね。
珍しく、マサキから電話があって、この1年で同級生が2人死んだんだそうで。
2人は闘病日誌をフェイス・ブックにアップしてて、別の友人が、自分も癌で闘病中、とコメントしてるそうで。
<なんか壮絶だな>と僕が答えると、マサキはこう言った。
「だからさ、もう僕らの年は、普通に病死する年齢になったんだよ」って。
<まぁ、そうだな。で、だから何?>。
「ところで、君、まだ、酒呑んでから、風呂に入ったりしてるの?」。<もうしてないよ>。
マサキは、「病死なら良いんだよ。病気なら。只さ、君は酔って風呂で寝たりするから、変な死に方はやめて欲しいんだよ」。
<死に方に、普通とか変とかあるか?>と僕が言うと、
「あるよ!こっちが後悔するんだよ。『あぁ、注意しとけば良かった』ってさ。病気なら許すよ。事故死はやめてくれよ」と、
マサキは強い口調で言ってたな。
ここで少しだけ、僕とマサキの関係を話しておきたい。2人の思い出話を。
僕とマサキは、同じ大学の医学部に一緒に入学した同期。年はマサキが一個上。
自分で言うのも何だけど、入学したての僕の態度は悪かった。
言い訳じみてるけど、僕は精神科医になりたくて医学部に入ったから、他の奴らとは目的意識が違うと思っていた。
皆は、医学全般を勉強して、国家試験をパスしてから、自分の最も興味のある分野に進むという選択肢を持ってたでしょう?
だから、僕はハナからそんな奴らと気が合う訳がない、と決め付け、友達を作ろうとしなかったんだ。
だから、皆、僕を変人扱いしていたね。
そんな僕にとって、化学の実習はペアで協力してやらなければならないから、それは苦痛だった。
ペアは機械的に出席番号順に組まされてね。
僕とマサキの苗字は二人とも「カ行」で、続きだったから、席順は隣同士だった。
僕らの初めての接触は、化学の実習だったね。
これは誰にも話してない事かもしれないけど、マサキの漢字は「マキ」とも読めてね。
僕は何を早合点したのか、てっきり、ペアを組む子は「マキちゃん」という女の子だと決め付けていたんだ。
<マキちゃんって、どんな子かな。きっと笑顔の良く似合う世話好きな少女に違いない。イヒヒ>って妄想してた。
さっき、友達を作ろうとしなかったと言ったけど、ホラ、鎖国しても出島くらい作るでしょう?
僕は、空虚な大学生活に、学園ラブコメの要素を期待して、「マキちゃん」の到着を待ってたんだよ。
そこに現れたのが、マサキで、実習のパートナーに「こんにちは、僕、マサキだよ」と丁寧に挨拶する男で。
あの時、僕は一瞬にして頭の中にこさえた砂の城が崩れ落ちて、混乱を通り越して殺意さえ感じたんだよ。
だから僕の実習のパートナーに対する第一声は、<君、この実験、1人でやってね。俺、やる気なくしたから>だった。
確かに、ひどいね、俺。
おまけに僕は嘘が嫌いなので、本当にマサキに1人でやらせたんだよ。
実習はとても長くかかって、マサキは僕に、「頼む、これ洗ってくれないか?」と巨大な球状のビーカーを渡してね。
それは、何十万円もする高級なガラス細工の実験道具だったけど、僕は怒りが鎮まらなくって。
<わざと落として割っちゃえよ。洗わないで済むぜ>って平然と答えてね。
後で、聞いた話だと、マサキの僕の第一印象は、「本当に嫌な奴だった」そうで。
その後、僕とマサキは卒業するまで同じクラスだったけど、一切交わりがなかった。
きっと、マサキが避けてたんだろうな。
そんな僕らは一緒に大学を卒業して、同時に国家試験に受かって、僕は精神科へ進み、マサキは放射線科に入局した。
うちの精神科の教授のモットーは、「精神科医は体も診れなくてはいけない」で、救命センターのローテを義務づけた。
しかし、そこの労働環境は劣悪で、24時間救急で夜など寝れず、それなのに翌朝からも仕事があって。
寝る時間などほとんどなく、時間をみつけては、当直室で仮眠するくらいで、家にはほぼ帰れない3ヶ月、で。
マサキも同時期に、救命センターをローテしていたから、僕らはそこで再会した。
もう、さすがに、年月が経ってるから、化学の実習のことは、時効で。
僕らはお互いの医者になってからの近況を報告し合って。
だけど、そこで耳にしたマサキの話に僕は耳を疑くった。
放射線科医は直接患者と接さないイメージだが、CTスキャンの造影撮影などでは、血管確保のために注射をうつ。
血管の出やすさは個人差があって、出やすい人と出にくい人の差は激しい。
マサキは、たまたま、血管の出にくい人に当たって、注射を失敗したことがあったそうで。
マサキのオーベンは、ヒステリックな意地の悪い女医で、駆血帯という腕を縛るゴムに針を刺す練習を何日もさせたらしい。
マサキは、「駆血帯なら、すぐ刺せるんだよ」と当たり前のことを言って、笑いを誘おうとしたけど、それは笑えない。
俺は聞いてて、頭に来たんだ。
<それは、イジメじゃないか!マサキ、そんな科はやめて、精神科へ来い!>と救命センターの後、精神科にローテするよう勧誘した。
マサキも精神科には興味があったらしく、僕に背中を押されて、とても感謝していたね。
やたら有り難がるから僕はそこに付け込んで、<じゃさ、毎朝の患者のデータのチェックと伝票書き、俺の分もやっといて>。
マサキは、笑いながら、二つ返事でOKした。
これで、イーブン。僕の救命センターでの仕事の負担はかなり減り、気持ちも大分、楽になった。
出会いの関係性は、普遍的だと思ったものだよ。
僕らがいる頃の救命センターは大忙しで、テレビ局が泊り込みで密着取材をしてる程だった。
その番組は、救急車が病院玄関に着くなり、待ち構えていた医者が心臓マッサージをしながら、病院の中まで運ぶシーンから始まる。
その心臓マッサージをしているのが、マサキだった。
マサキは、ばっちり全国放送の電波に乗っていた。
その番組は2時間くらいの特番だったけど、一方の僕は1コマも画面に映っていなかった。
テレビ映えしないのかな。ま、いいや。俺が勝負するとこは、そこじゃないし、って負け惜しみを言って。
僕はなんとかマサキの力を借りて、救命センターのローテを終え、マサキを引き連れて、精神科に戻った。
マサキは主流派のグループの先輩たちに可愛がられ、そのまま精神科に移籍した。
その結果、僕らは、精神科でも同期になり、研修医を終えたら、二人とも大学院に進んで、そこでも同期で。
大学院生には週に1日「研究日」と言って、まったくポケベルが鳴らない、呼び出しをくわない日がもらえた。
つまり、毎週1日、一回50分の精神療法の枠が8コマ、確保出来る。それも4年間。
当時、僕は精神分析を勉強中で、大学院に行けば、「精神療法センター」の面接室も使えて。
そこは一般の外来とは、かけ離れた場所にある静かな空間で。
こんな治療環境は、どこでも手に入らないから、僕はそれ欲しさに大学院に進んだんだ。
だから、僕らの大学院生活は対照的だった。
マサキは研究をして、学会発表をたくさんして、アカデミックな舞台で精力的に活躍した。
僕はただただ地味に地道に精神療法をして、外部にスーパービジョンを受けに行って、やりたいように精進した。
僕は精神療法班の皆さんの協力の下、というより皆が手分けしてくれて、論文を仕上げた。
しかし、大学院卒業には語学力をみる、という項目があって、英語の論文の全訳の提出も必須だった。
お恥ずかしい話だが、僕がそれを知ったのは、提出期限まで残り2日の時点だった。
僕が教室の隅で困っていたら、マサキが「どうしたの?」と声をかけてきて、僕は事情を説明して。
すると、マサキは、「それなら~」と自分が訳した最新の英語の文献の全訳をくれた。
マサキは、いくつも、論文を訳していて、提出したのは別のだから、「良かったら使って」と僕にくれた。
<そう?悪いね>と棚からぼたもちで、滑り込みセーフ。僕は、運も実力のうちだ、と思ったっけ。
そして、僕とマサキは無事、審査を通り、二人揃って、大学院の卒業式に参加して。
マサキは両親が、僕の家からは母が式に出席して。
マサキの両親とうちの母は、嬉しそうに挨拶を交わしていて、記念にと僕らは、2ショットの写真を撮られたね。
まだ、その写真、うちにあるけど。
マサキは晴れやかな表情で正面を見て写っていて、僕は視線をそっぽに向けて写っていて。
真を写す、と書いて写真と読むが、正攻法で卒業した人間の達成感と、人に頼ってばかりの男の、コントラストみたいで。
二人とも若いよ。
大学院を卒業すると、関連病院に出向になる。
丁度その頃、アメリカの大学の精神科で教授をしていたという精神分析のM先生が日本に帰国するという噂を聞いた。
そして、M先生はA病院が引き抜いたとの情報もキャッチした。
僕は、実際、学問的な先生の臨床が、実践的な日常の現場で通じるものなのかをこの目で確かめたかった。
そばにいれば多くのことを学べるとも思った。
だから、僕の出向先をA病院に希望した。
ところが、A病院へ出向するのは、もう既に、マサキで決定済みだった。
それは、マサキが大学院時代にA病院にパートタイムで勤務していた実績があり、A病院からのオファーでもあった。
大学病院の医者は、どこの関連病院も欲しがり、引く手あまた、だ。
医局長は、「A病院はマサキで決定で、1つの病院に2人は派遣出来ない。川原をA病院に出すのは、無理だ」と言った。
しかし、そんなことで引き下がる僕ではない。
僕は医局長に、直訴した。
<A病院には僕を行かせるべきだ。その方がA病院の為にもなる。マサキは、丹沢の山の奥の病院にでも飛ばせば良い>。
返す刀で僕はマサキにも、<お前は、A病院を辞退しろ。お前が行くより、俺が行くのがふさわしい>と圧力をかけた。
そして、僕は毎日の様に、医局長とマサキにしつこくそれを言い続けて。2人とも、ノイローゼにならなかったかな?
でも、その結果、医局長は英断した。
異例の医局人事。
「A病院へ、川原とマサキの2名を同時に出向」。
無理が通れば道理が引っ込むのが、世の中だ。
大学院を出た者は、通常、2年間出向したら、一旦、大学へ戻るシステムだった。
だけど、僕はある人から、「大学病院から来る医者は大抵2年で帰るから患者に不親切だ」と言われ、その通りだと思った。
そこで僕は、3年目以降も居残りを希望して。
もう医局は、あまり僕と関わると面倒になると懲りていたのかしら、すんなり僕の意見は通って。
これで、マサキとはおサラバになると思っていたんだ。
そうしたら、マサキもA病院に残留になって。
それは、A病院から医局へのたってのお願いであって、マサキの残留の理由は僕のそれとは大きく違ってた。
A病院は、各大学から精鋭の医者が揃う大所帯だ。それをまとめるのは、大変な仕事だ。
A病院は、マサキの力を高く評価していて、A病院の「医局長」として残って欲しいとの要請だった。
大学の医局は、これには難渋を示したが、(俺とは大違いだ)結局、裏金でも動いたのか(嘘です)、マサキも残留となって。
これは今まで、ちゃんと話したことがなかったと思うから、今更だけど、告白するね。
ある日、A病院で僕が受け持った患者さんから、衝撃の事実を聞いたんだ。
彼は精神科救急で入院してきて、これまでの精神科受診歴はなかった、はずだった。
病気が良くなった彼が僕に語ったのは、実は小学生の時に親に内緒で1人で精神科を訪れていたと言う過去だった。
そんな情報は、全然、聞いていない。
そりゃそうだ、入院時は本人から情報を聴取出来ないから、家族からの陳述を手がかりに診療がスタートする。
家族は、彼が小学生時代に1人で精神科を受診していたことなど、知らないのだ。
だから、記録には残っていない訳だ。
我々は診断面接と言って、最初の数回でその人のこれまでの歴史を聴取するけど、重要な事は最初は喋らないのかもね。
向こうもこちらを伺っていて、「本当にこいつは信用して良い人物か」なんて吟味しているんじゃないかと思うんだ。
その人の小学生の時の精神科受診体験は、1回の診察で、「病気ではない。何かあったら来て」と言われて帰されたそうだ。
「何かあった」と思うから、意を決して、受診したのにだ。
彼は、精神科医療に失望したそうだ。
だから、「何かあった」けど、受診をしなかった。
そして、いよいよどうにもならなくなって、精神科救急のルートに乗ったのだ。
もし、小学校の時の、初回の診察が違う形だったら、もしかしたら入院を回避できていたかもしれないな、と僕は思って。
言われてみると、研修医の頃、上級医の先生の外来に陪席させてもらった時に、似たような患者さんが来た事があった。
その先生は丁寧に診察をして、同様に、「君は病気じゃないから、安心しなさい」と諭して帰した。
そして、先生は「あの子はテレビの番組をみて、自分も病気なんじゃないかと心配して来たけど、これで安心しただろう」と
満足そうに笑っていた。
しかし、僕はその子が絶望的な表情で部屋を出て行くのが印象的でよく覚えていたんだ。
点と点が線になった、というのか。僕は、こういうケースは世の中にたくさんあるのではないかと思って。
一般的に精神科の病気は発症すると病識がない、と言われて、自分で自分が病気だとは思えないというけど…。
確かに、ヘビーな病気の急性期の多くは、病識がないけど。
だけど軽症の病気や、再発直前の患者さんは自ら、「自分はおかしい」と訴えてくるよな。
それは時には、専門家の僕らや、普段、一緒に暮らしている家族でさえ気づかない程のわずかな異変なのだ。
つまり、病気の極初期には本人にしか判らない、ものすごく病識がある時期がある、という仮説が成り立たないか?
だって、小学生が1人で精神科を訪れるなんて、通常じゃない。きっと本人にしか判らない病識があるという仮説。
それを多くの医者が見落としている可能性がある。
しかし、それは「誤診」ではない。まだ発症してないのだから。
でも、発症してしまったら、それは精神科医でなくても判断がつくものだろう。専門家なんて要らないよ。
だから僕は思ったんだよ。
専門家の仕事は、病気になる寸前に受診してきた患者さんをしっかりつかまえて離さないでおくことだって。
たった1回で帰してはいけない。医療につなげていく。
理想を言えば、病気が発症する前に、病気を治すこと、それは、未病とも言えるかもしれないね。
精神科の病気の多くは、「発症」するのではなく、「発見」されるだけなのかもしれない、とも。
だったら、なるべく早く「発見」した方が良い。
僕はそんなことを、A病院で患者さんから教わったんだよ。
そうしたら僕は、いてもたってもいられなくなって。
僕は「こどもの精神科医」になって、多くの子供の助けをしなくてはという使命感にかられて。
そんな時、「こどもの精神科」を専門にするB病院で精神科医の募集をしていることを知って。
これは、俺に行け!、と神様やご先祖様が言ってるのだと思って。
僕は迷わず応募して、シンクロだと思って、これは僕のための「欠員」だと信じて疑わなかったんだ。
ちゃんと説明したことなかったけど、そういう経緯だったんだよ。
そして、僕はB病院の採用面接を受けて、晴れて合格して。
でも、そこで色々な問題が噴出してきたんだよね。
まずは、そもそも僕のワガママで、A病院に医局から2名出向させていた人員の埋め合わせ。
さらに、今度、新しく勤めるB病院では、僕は公務員扱いになるらしく、大学の医局を退局しなければならなくって。
只でさえ、医局は人事のやりくりで大変なのに、助手クラスの僕が突然に辞めるのは、駒を動かす方は大打撃で。
大学の医局からも、A病院からも、責められそうで。
そこで、僕はマサキにそのことを打ち明けて。
マサキはさすがに驚いて一旦は僕を慰留したけど、すぐに止めても無駄だと理解してくれて。
マサキは、「わかった。僕が何とかするから。君は大人しく何もしないでくれ」と言って。
出会いの関係性は大事だと思ったよ。面倒なことは、マサキに任せよう。
僕はひたすら、果報を寝て待つことにして。
さすが、マサキはどんなマジックを使ったのか、どんな交渉術を駆使したのか、知らないけれど、首尾よく事は進んだ。
僕は、円満に医局を退局し、A病院に別れを告げて、B病院に就職した。
僕は児童思春期病棟の入院患者と、思春期デイケアの担当をして。
病棟の患者と通いの患者の垣根をはらって、「ソフトボール・チーム」を作り、毎週、近所のグランドを借りて、半日、練習した。
そして、近隣の同じように児童専門の病院に、「ソフトボールの試合」を申し込み、試合を成立させた。
病棟では、プログラムに乗れない夜行性の患者たちのために病院非公認の漫画クラブ「メソ部」を作り、コミケにも出店した。
年末のクリスマス会では、ほぼ楽器初心者のメンバーで、バンドを組み、演奏をした。僕もピアノで参加した。
普通の病院にいたら体験出来ない有意義な4年あまりだった。
自分で考えたことをどんどん思いつき実行して。
そして、それはそれをサポートしてくれるスタッフたちの協力もあったから可能だったのだが。
勿論、あまりなスタンド・プレーを面白く思わない人たちもいた。
しかし、僕はそれでいいと思っていた。
本当に良いものは、評価が分かれるものだと知っていたからね。
万人に気に入られる高感度№1タレントが面白くもなんともないのと同じ理屈で。
しかし、いいことばかりはありゃしない。僕は、意外な形でB病院を辞めることになってしまって。
それは、精神科の中で分裂騒動があったからで、僕はそれを収拾しようと尽力したのだが、かえって事が大きくなって。
本当は水面下で計画は完了していたはずなのに、僕がそれを表面化させたからで。
結局、病院長や総婦長まで巻き込んで、毎日のように会議が開かれたが、平行線。
あげくの果て、問題の早期収拾のため、「これは事を大きくした川原が悪い!」という結論になって。
<え~>、って思ったが、言われてみれば、そうかもしれないね。
僕は、そんな政治的なやりとりの日々に辟易していたし、病院長以下の評価がそうなら、もうここは潮時だと思った。
そうすると、不思議なもので、「ヘッド・ハンティング」の会社から、お誘いがあった。
何故、この時期にタイミング良く?と僕はいぶかしがった。
僕を面白く思ってない奴らの差し金だと、被害的なもののとらえ方もした。
しかし、もう病院にはいられないし、この病院に移る時に医局も辞めてしまったので、僕には後ろ盾がなかった。
だけど、困った事に、僕には、多くの患者さんがいた。
精神科の治療は、他の科と違い、終わりが有りそうでない。
それは、「病気」を診るからではなく「人」を診る診療科だからだと思う。
「症状」は「相談」の入り口に過ぎないのだ。
一般的に、医師が異動する時には、次の医者に引き継いで行く。
僕は幸せ者で、患者さんの多くは、僕について来てくれていた。
僕が病院を移るたびに、一緒に医療機関を移して、ついて来てくれていた。
僕は行く先々の病院で、多くの患者を連れて行くので、驚かれたよ。
「ひとりゲルマン民族大移動」と呼ばれた事もあった。
つまり、そんな患者さん達の診療を続ける場所が必要だったんだ。
僕は仕方なく、「ヘッド・ハンティング」の会社の紹介で、ある病院の院長と事務長の接待を受けた。
僕の経歴は、見栄えが良かった。
大学院は出てるし、直近のB病院では「医長」だったし。
僕を、ヘッド・ハンティングする病院が提示した条件は悪いものではなかった。
ただ、顔色の悪い院長の面構えが気に入らないのと、幇間のような事務長の「今日はザックバランに」という連呼が耳障り。
僕は、その後、数日、耳の奥で、「ザックバラン」「ザックバラン」という幻聴に悩まされたくらいで。
しかし、僕には、もう選択肢がなかった。
そこに行くしかないと決意しかけた夜だった、マサキから電話があった。
マサキは、「大体の話は聞いたよ。この業界は狭いからね。大変だったね」と僕を労って。
マサキは、「A病院に戻っておいでよ」と言った。
僕は、<それは出来ないだろ。俺、変な辞め方してるし>。
「大丈夫、俺が話をまとめるから。君がくればA病院にとっても戦力になるし。あっ、俺、診療部長になったんだよ」だって。
だから、マサキにはある程度人事権とかもあるみたいで。「話は僕がつけるから。君は何もしないでね」と言った。
せっかく、そう言ってくれてるんだから、ここはマサキに任せた。
そして、僕は晴れて、A病院に出戻りすることになって、懸案の患者さんの行き場も出来た。僕はマサキに拾われた。
でも、皆さん、覚えてますか?あいつ、元・放射線科医ですよ。誰のおかげで偉くなったと思ってんだ?
その時の僕の偽らざる心境は、1度死んだ身だ、思う存分やろう、だった。
僕がこれまでの経験で学んだ事は、多職種が協力するチーム医療で医者に求められる物は、強力なリーダー・シップと他のスタッフが犯したミスも全部請け負う責任と覚悟だった。
人間と言うのは、相手が本気かどうかを嗅ぎ分ける力があって。
そして、それが本物だと感じ取ると必ずひるむ。
僕は、もう失う物は何も無かったから、強気で攻めた。
僕は次々と新機軸を打ち出し、それをマサキが会議で通してくれた。
どんな魔法を使えば、あんな滅茶苦茶なアイデアが会議で通るのだろう?
おかげで、僕の病院での評価も高くなったんだけどね。
気がつけば、マサキは副院長に昇格するという。
大出世だね!おめでとう。僕は1人の男のサクセス・ストーリーをこんな真近で見られるとは思わなかった。
ちなみに僕の役職は、「ヒラ」のままで。
マサキは、僕に診療部長にならないか?、と打診した。
自分が副院長になるから、診療部長の兼任は会議が多すぎて、荷が重いと言うのだ。
僕は、きっぱりと断った。
<だったら、『会議を少なくするための会議』を新たに発足させたらと良い>と助言してね。
もっとも、マサキは、僕の将来のことを考えていてくれて、「元・A病院診療部長」は何かの時につぶしがきくと言うのだ。
それでも僕は断った。
<マサキのように実力がない奴は肩書きが必要だが、俺のように優秀な者には邪魔なだけだ>と言って。
マサキは、「そんなことを言うなよ」と悲しそうな目で言ってたね。
ある日、マサキが僕に「実は開業しようと思うんだ」と打ち明けた時にはびっくりした。
僕はてっきり、マサキはこのままの流れで院長になるものかと思っていたから。
するとマサキは笑って、「だから、院長になるんだよ」と開業してクリニックの院長になるんだと珍しくシャレたことを言った。
マサキが開業支援の会社オクスアイの金村さんと打ち合わせをする時、僕も野次馬で同席させてもらった。
マサキと金村さんはかなり具体的な打ち合わせをしていた。
一方の僕は、自分の性格上、開業は向いてないと思っていた。
自分は経営者向きの性格じゃないと思っていたから。
だけど、オクスアイの金村さんの辣腕を見ていたら、この人なら僕でも開業が出来るのではと思えてきた。
その頃、僕の母は末期癌で闘病中だった。
母はかねがね、僕に、「人に雇われていてはダメ。開業しなさい」と口が酸っぱくなる程言っていて。
僕は、老い先短い母に親孝行をしたい、と魔が差して。
そして、マサキの打ち合わせの最中、金村さんに<俺も頼んで良い?>と衝動的に申し込んだ。
僕は開業を決意した。マサキも金村さんもビックリしていた。
マサキは、「君と僕が同時に開業したら、病院は大騒ぎになるから、自分が開業の許可を取ってからにしてね」と釘を刺した。
僕はその言葉に引っかかり、<何だ?マサキと俺が同時期だとまずいのか?>。
確かに、マサキが抜けたら、病院は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
そこに俺が辞めると言ったら、絶対、引き止められるな。
出戻りの身だ。弱味もある。
<よし、マサキより先に辞めよう!>。
僕は、金村さんに、マサキより俺の案件を優先してくれ、とせっついた。
そして、マサキのお願いを無視して、病院側に<僕は開業するので、年内で辞めます>と宣言した。
こんな僕でも、病院はちょっとパニックになり、ありがたいことに慰留された。
マサキは、「アチャー」って顔をしていたね。
ごめんね、こういうの早いもの勝ちだから。知らなかった?
ちなみに、カワクリは平成19年1月の開業で、マサキのクリニックは平成19年4月がオープンです。
僕らは開業後、しばらくは、数ヶ月に1回は集まって酒を酌み交わし、近況を報告しあった。
開業は僕の方が先輩だが、マサキは大病院の管理をしていた人間だから、主に僕がマサキに判らないことを相談する会だった。
僕は今でも、誰々が急死したけど、香典いくらにする?、とか電報とかお花とか贈る?とマサキに電話して相談している。
逆に、マサキから電話があることは滅多にない。
そんなマサキが、今回、珍しく電話を寄越して。
その用件が、「酒を呑んで風呂で寝るな」とか「事故死をするな」だって。
唐突に思われるかもしれないけど、それには一応、伏線があって。
この位の季節だったから。あの事件は。
それは最初に僕らがA病院に勤務してる頃の話。
僕は過酷な過重労働で肉体的に疲弊していて。
あまりに体調が悪いので、マサキのすすめで内科の先生に診てもらって。
内視鏡検査では異常がなかったけど、血液検査で、「多血症」の所見が出た。
臨床検査技師の話では僕の血の色が真っ黄色で、大変驚いたと、マサキから聞かされた。
「多血症」はストレスでもなるらしく、治療法は「血を抜く」しかないらしい。
なんて野蛮な治療法があるものだ。
その直後、僕は大学の精神療法センターの忘年会に参加した。
疲れていたし、僕の呑み方は破滅的な呑み方をするから、泥酔した。
運が悪いことにその時、僕は何か原稿の作成中でノートパソコンを持ち歩いていて。
会がお開きになり、その店は2階にあり、僕は足を踏み外し、両手をふさがれたまま、急な階段を顔面から落下した。
受け身が取れなかった。
その後の記憶はない。
後で聞いた話では、そのまま大流血したまま、走り出し、また転倒。
起き上がってフラフラしたところに、通りかかったタクシーにぶつかって行ったらしい。
幸い、そこの道は細い路地で、タクシーは徐行していたから、タクシーの運転手に過失はなかった。
僕はそのまま自分の出身大学であり、自分がかつて勤務していた救命センターに搬送されて、ICUに緊急入院となった。
ICUって言っても、国際基督教大学(International Christian University)じゃないですよ。
集中治療室(Intensive Care Unit)ね。
皆さんは、「ICU症候群」って知っていますか?
ICUのような特殊な医療環境に入る人は体も弱ってるため、一過性の精神症状を引き起こすことがあるのです。
僕はそれになりました。
「せん妄」という精神運動興奮を伴う意識障害です。
この間の記憶はまったくないのです。
ICUは基本的に重症の身体疾患の患者さんを診てる訳で、そこで「ICU症候群」が起きると精神科医が呼ばれます。
運悪く呼ばれた精神科医は僕の後輩だったため、僕に罵倒されて帰ったそうです。
その時の僕は暴れるから、ベッドに強力な紐で拘束されていたそうで。
仕方なく上級医の医者が呼ばれる訳ですが、僕は先輩に対しても、「俺より出来ないくせに出しゃばるな!」と悪態をついて。
先輩は、本当のことを言われて、ひどく傷ついたそうです。
そこでも、最後に登場したのは、マサキでした。
マサキは、僕を強力な精神安定剤で数日間、眠らせたそうです。
僕の家族は、後になって言うことには、このままもう僕が二度と目を覚まさないんじゃないかと心配したそうです。
意識障害の回復の仕方は独特です。
まるでトンネルから出るように、ある時からパッと記憶が戻ります。
その瞬間、僕の目の前には、マサキがいました。
マサキは、「起きた?おい、酒は呑むもので、呑まれちゃダメだぞ」と言いました。
<ば~か。『酒は、反省するために呑むものだ』って、立川談志が言ってるぞ!>と僕が言い返すと、
「良かった。君、正気に戻ったね」と答えるマサキの笑顔が見えました。
よく言うよね、てめぇで、セデーションかけといて。
僕の病状は大量の出血と顎の骨の骨折でした。
大量の出血は、僕の多血症の治療に役立ち、血液検査のデータは正常値に戻っていました。
僕は全身状態も回復し、意識も正常になり、拘束も解かれ、形成外科の病棟に移りました。
大学病院に入院したことがない人でも、ドラマなどで、見たことがあると思いますが、教授回診というのがあります。
主任教授を筆頭に医局員が全員大名行列のようにゾロゾロとベッドサイドを回るやつです。「白い巨塔」とかで見ませんか?
僕の部屋にも、教授回診はやってきました。
形成外科の教授はいかにも職人気質の融通のきかなそうな無愛想な男でした。
僕は学生時代にこの人の授業を受けたことがあるので、顔と名前は一致しました。
教授は、僕のレントゲンを見て、「う~む、見事な骨折線だ」と言って、一同が口を揃えて、「見事だ」と賛美しました。
骨折線を誉められても、別に嬉しくもないのですが、誉められて嫌な気分はしませんでした。
後になって知ったのですが、マサキが形成の先生に、「川原君は誉めながら、治療をして下さい」と頼み込んでいたらしく。
頭ごなしだと、治療意欲がそがれるタイプだからって。
僕の治療は、手術ではなく、顎間固定と言う、口が開かないようにワイヤーで上下の歯茎をくくりつける方針になりまして。
骨折線が、美しいから、ね。
顎間固定の期間は、3ヶ月だって。その間は口から物も食べれないので入院生活です。
僕は1ヶ月くらいで退屈な入院生活に我慢が出来ず、点滴を自己抜去し、病院を無断で離院して、家に帰りました。
家族があやまりに病院に挨拶に行き、僕は「傷病手当金」の給付を受けて自宅療養です。
家でなるべく液状のもので栄養がとれるような生活をしました。
しかし、暇でした。
「男はつらいよ」の全シリーズを1作目から全部観たり、太宰治の小説を年代順に読み直したりしました。
いよいよ、3ヶ月がたって、顎間固定が外れました。
まだ、顎の骨がずれるといけないので、頭のてっぺんと顎を包帯でグルグル巻きにして、僕は現場に復帰しました。
その姿は痛々しくて、無理に出なくても良いんじゃないか、という賛否両論も聞かれました。
最近で言えば、フィギュア・スケートの羽生選手のような姿ですね。一緒にしたら、怒られるか。
僕の外来患者さんは、3ヶ月間、マサキの外来で代診してもらって。
マサキは、「君の患者さんはすごいね。まるで手がかからなかったよ」と感心していて。
「薬も、川原先生の出したものをそのままで、って3ヶ月間、何も問題がなかったよ」と言ってましたが、僕は内心で、
<お前に言ってもしょうがない、と思ったんだろう>と思っていたんだ。
その証拠と言っちゃなんだが、復帰後、ある少女からもらったカセット・テープには参った。
彼女は、家族以外で口を利くのは僕くらいで、僕も彼女との診察時間を大切にしていて。
そんな彼女にしてみれば、いきなり僕が怪我で3ヶ月入院と聞かされた時にはショックだったことの予想は出来る。
彼女は気丈にも、僕と会えない日々を、本来なら診察時間が約束されてる時間帯にカセットにメッセージを吹き込んでいて。
初回は、DJ風に、「達二先生がいなくても、意外と私は大丈夫です。今日の1曲目は、Xの紅、です」って感じで。
そして、普段なら診察でお話するような他愛もない話を、明るい口調でユーモラスに独り語りしていて。
1ヶ月が4週とすると、3ヶ月×4週=12回分の収録があった。
最初の方は、そんな感じでDJ風のセッションなのだが、2ヶ月目になると、途端に無口になって行って。
そして、最後の1ヶ月は、泣き声と嗚咽で。
「私は達二先生に会いたいが、患者だから、お見舞いにも行けない。立場が違うから。今までそんなことにも気づかなかった。
そんな自分が馬鹿でくやしい。達二先生に、会いたい」と言って泣いていた。
これにはやられた。おそらく僕の担当の患者さんの代表の意見だと思った。
僕は人生で後悔することはしょっちゅうあるが、反省することは滅多にない。
だけど、さすがにこれを聞いた日には猛省した。
彼女がこのテープを吹き込んでいる頃、僕は家で<暇だ~暇だ~>と文句を言っていたのだから。
あかんたれ、だと思った。
そして、僕はそれから心に誓ったことがある。
翌日に診療のある日には酒を呑むのは、よそう。
酒が残って、患者さんの話を集中して聞けなかったらいけない、と思ったからで、それは今でも続けている。
実際には、ビールの1~2本や、日本酒の2~3合や、ワインの3~4杯が、明日の診療に影響を及ぼすことなどまずない。
でも、そういう決意をしたことで、皆さんに勘弁してもらおうと勝手に1人で決めたのです。
勿論、例外はあるけどね。
たとえば、お通夜に呼ばれて、「故人の為に今日は呑んでやって下さい」なんて遺族に酒を勧められた時とか。
そんなシチュエーションで、<いえ、明日は診療がありますから>なんて断れないだろう。だから、そういうのは例外ね。
僕は多分この時から心を入れ替えたのだと思う。
患者さんがいるから、勝手に死んだりしてはいけないと思っている。
皆を見送ってから、死のうと思っている。
あっ、そんなことを言って、今、思春期の新患をバンバンとってるけど、大丈夫か?俺の寿命。
ま、いいか。人生、成り行き、だ。
閑話休題。
そんな僕に、マサキが電話を寄越した。
ここのところ、知り合いが立て続けに死んでるからという理由で。
それで僕が事故死でもすれば、マサキの旧友ゆえの虫の知らせが当たったという事になるのだろうが。
だけど、それじゃ、話としては面白くない。人生はそんなにシンプルではない。人生はもっと奇抜だ。
だったら、例えば、実はこれは、その逆で、マサキが急に死ぬのではないか?
これは意表を突かれたが、考えてみたら、ありがちなパターンではある。
僕を心配して寄越した電話が、実はマサキの最期のメッセージだった、なんて感じで。ありそう!
マサキが死んだらやっぱり友人代表として、弔辞を読むのは、僕だろうな。
僕が何故、予告ブログ「生きること、死ぬこと」に手こずっていたかと言うと、途中でその事に気づいてしまったからで。
記事と平行して、マサキの葬式で読み上げる挨拶文も、考えなくてはならなくなったからで。
こんなに長く付き合いのある友人の死と直面するのが苦痛だったのだ。
だから、僕は弱虫でブログの記事を先送りにし、カワクリのスタッフにブログの更新を委ね、現実から目をそむけていた。
しかし、それではいけない。
困った事から逃げ出すのは、僕の悪い癖で、僕はもう大人だし、若者の手本にならなければいけないのだ。
だから、いつまでも、マサキの死を否認してばかりはいられない。
予告ブログ「生きること、死ぬこと」と同時進行で、マサキへの弔辞も書き上げることにしよう。
僕とマサキの思い出話を書くのだ。
それが、マサキへの弔辞になる。
しかし、ここまで来ても、どうも、まだマサキが死んだ実感が湧かないんだ。
そりゃそうだ、マサキ、生きてるから。ピンピンしてるから。
でも、人間はいつ死ぬかなんて判らない。メメント・モリだ。一期一会だ。
手探りながら書いてみる。
マサキに語り掛けるように、お別れの言葉を書こう。
書き出しは、こんな感じだ。
<マサキ、なぜ君はこんなに早く逝ってしまったのか。僕はこれから誰に頼れば良いんだ。
僕は今、友人代表として、君の弔辞を読むためにここにいる。いまだに信じられないよ~>
~の続きは、この記事の冒頭に循環します。※D.C.
・おまけクイズ
僕は入院生活の時、家族に頼んで、僕の本棚から、あるマンガを持って来てもらいました。
さて、それでは問題です。
僕が入院中に家から持って来させて読んだマンガとは、以下のうちどれでしょうか?
①小林まこと「1・2の三四郎」
②永井豪「あばしり一家」
③手塚治虫「火の鳥」
④高橋留美子「めぞん一刻」
⑤みつはしちかこ「小さな恋の物語」
正解は、ラストの「BGM.」で発表します。
しかし、なんで、このマンガをチョイスしたのかは、今考えても、謎です。
深層心理を究明出来る人は考えて見て下さい。
その推理の結果も、コメントにお寄せ下さい。
では、正解発表。
BGM. ギルバート・オサリバン「アローンアゲイン」
 (とても綺麗なメロディです。この歌詞の意味を知らない人は、訳詞を調べない方が良いですよ。ひきますから)
 (アニメ「めぞん一刻 」で一度だけOP曲に使われました。おまけクイズの正解は、④高橋留美子「めぞん一刻」でした)


朝刊

9/ⅩⅡ.(火)2014 はれ
ちょっと前の記事で、「名医を紹介」みたいな有料の広告の勧誘がよく来ると書いたのを覚えてる方もいるでしょうか?
その時、僕は、「全部、断っていて」、きっと本当の名医の所に無料のインタビューが行くのだろうと書いたと思う。
そうしたら、こないだ来た。
前の、前の、病院で一緒だった心理士の「Oさん」の紹介で、新聞の取材だった。
クリニックの宣伝目的ではなかったから、引き受けた。
しかし、果たして、僕が適材なのかという疑問はあった。
こういう啓蒙的な記事には、もっと口先のうまい御用達の学者先生が喋った方が良いのでは?と記者さんにも言った。
ま、とりあえず現場の声を、と言う事らしかった。
そして、昨日の朝刊にその特集記事は出てた。
大したことは述べてないし、ちょっと名前が出てるだけで、えばるようなことじゃないんだけどね。
だけど新人の頃、お世話になった先生はきっと喜ぶと思って、今日、新聞に手紙を添えて、レター・パックで郵送した。
手のかかった生徒ほど可愛いと言うし。
犯罪以外で新聞に載るのは良いことだから、孝行のつもりで送った。
新聞の記事は、12月8日の朝刊に掲載された。
その日は、ジョン・レノンの命日だから、自分の名前が12月8日の新聞に載ったのは、少しだけ嬉しかった。
下は、カワクリのジョン・レノン追悼週間の診察室の入り口(&出口)の正面の壁一面。↓。


次回、いよいよ、予告ブログ「生きること、死ぬこと」行きます!
BGM.グレープ「朝刊」


受付だより~お待たせいたしました!小森編

2014年12月5日(金)小春日和
みなさま、こんにちは。
受付だより、第二弾。担当はフレッシュ小森です。
カワクリへ来て2ヶ月が経ちました。だいぶ馴染めてきたようです、カワクリに。
とある休日、わたしは陽気な歌を口ずさんでいました。
あれ?これ、なんの曲?わたしはなにを歌っているのかしら・・・?
な、なんと、クリニックのBGMで流れている曲ではありませんか!なんの曲かもわからないのに。
これはもう、カワクリメンバーとして馴染んできた証拠ではないでしょうか。
(ちなみに先生に確認したところ、アニメ「偽物語」つきひフェニックスの「白金ディスコ」でした。)
そんな小森がお送りする受付だより、テーマは何にしようかな。後藤さん、天明さんは2人ともアニメだったからな。
ちょうどBGMの話も出たことだし、音楽にしようかな。あ、そういえば前回の記事(なぞなぞ編)にボブ・ディランが
出てきたっけ。
どれどれ、ボブを探してみましょう・・・お、いましたいました、こんなところに。
じゃん!

BGMではよく流れていますが、意外や意外、ボブはここにしかいません。
これは、ディラン(やはりボブと呼ぶのは違和感があるのでディランで)のイギリスツアーに同行して撮影された
ドキュメンタリー映画「DON’T LOOK BACK」のチラシです。
ちなみに原題では「DON’T」ではなく「DONT」だそうで、こちらは日本公開時のものと思われます。
わたしは観たことがないので、次のお休みにでも探してみようと思います。
そもそもわたしがディランを知るきっかけとなったのは、映画「アイデン&ティティ」でした。
みうらじゅんの漫画が原作で、全編にわたりディランの曲が使用されています。
主人公の中島は、バンドブームに乗ってメジャーデビューしたロックバンドのギタリスト。売れるための音楽を
やりながら、本当に自分の思うロックはこれでいいのかと葛藤しています。そんなとき、高円寺のアパートに
ディランが現れます。ディランは中島にしか見えません。中島に迷いや疑念が湧くと、あるときは家の中に、
あるときは街中で、はたまたライブハウスの観客にまぎれて、ディランが現れるのです。ディランは答えを
教えてはくれませんが、中島はディランに恥じないような行動を選択していきます。
この映画を観たのは10年ほど前ですが、当時はディランの曲に聞き惚れてしまい、正直内容は
あまり覚えていません。
改めて考えてみると、「アイデンティティー」って何なのでしょう?
先生の記事にもよく登場しますね、アイデンティティー。
今年3月のブログに、1月と4月にアイデンティティー問題をこじらせて来院する人が多い気がすると
書いてありました。
確かに、年末は今年1年を振り返り、年始は新年の抱負や目標を考えるといった機会が増えるものです。
せっかくなのでそれに乗って、改めて考えてみようかなアイデンティティー。
と思いながらこのブログを書いているわたしの後ろに気配が・・・もしやディラン?!と思ったら先生でした。
なんと先生の手には、原作の漫画が!さすがですね~。
さっそくお借りして休憩中に読む。そして唸る。まったく休憩になりません。
で、わたしの思うアイデンティティーとは、ずばりこれ、ディランです!
これでは話が終ってしまうので、もう少し書いてみます。
アイデンティティーを辞書で調べますと、自我同一性と書いてあります。
その人をその人たらしめるもの、という感じでしょうか。少しくだけると個性とか。
わたしたちが生きていくあいだに、大小かかわらずたくさんの選択が現れます。
そのときディランが囁くわけです、「お前は本当にそれでいいのか?」と。
この声を、アイデンティティーと呼んでもよいのではないでしょうか。
しかしこの声は、なかなか聞こえないかもしれません。ディランも、誰にでも見えるわけではありません。
親の教えとか、学校の教育とか、社会の常識やルールというたくさんの声(騒音)の中で、聞き取るのは大変です。
わたしは今まで、医療の世界で働いたことはありません。なんなら、資格も持っていません。
まったくの異業種から転職しました。
どうしてカワクリで働きたいと思ったのかと訊かれれば、ディランの声に従ったから!というところでしょうか。
ちなみに、さきほどのディランの下にはこんなチラシがあります。
じゃん!

クリニックのオープン当初に作ったものだそうです。現在は使われておりません、お宝です。
わたしが思春期の頃、まわりにいるオトナといえば、親と学校の先生ぐらいでした。
その頃よく思っていました、もっといろんなオトナと話してみたいと。
教育とか、損得とか、正解・不正解だけじゃない話をしたかった、聴いてみたかった。
そんなわたしがオトナになって、オトナっていいなと思うことは、夏休みの宿題がないことではなく、お酒が飲めるように
なったことでもなく、いろんな人に出会い、話すことができること。
揺りかごから墓場まで。ちがうか。赤ちゃんからお年寄りまで。
特に、カワクリで働き始めてからは、毎日たくさんの人と接します。わたしとしては、絶好のチャンスです。
思春期の頃の願いが、叶ったのかもしれません。
どんどん話しかけますが、話したくないときは断っていただいてかまいません。
そして、どんどん話しかけてください。その度に、わたしの夢が叶っていきます。ありがとうございます。
わたしは、ディランを見失わないように、声を聞き逃さないように、今日も生きていくのであります!
あらら、またもやフレッシュ感のない記事となってしまいました。
お花とか、ラブライブとか、可愛い写真のせたほうがよかったかな。受付のイメージ壊れるかしら。
いやいや、そもそもこのブログタイトル、十中八九N・Gですよ?
たまにはN・Gなことも書かないと、タイトル変えなきゃいけないし。
ね、先生。新人にお手本をお願いします。
BGM.ボブ・ディラン「Like a Rolling Stone」