radio

こんにちは。受付うかいです。
少し前の荒れた天気とはうってかわって、暑い日が続いていますね。
みなさん熱中症には注意してくださいね。

 

コンビニに寄ったら色んな種類の熱中症対策の飴が売られていました。
一度も買ったことないのですが、あれって美味しいですか?
想像としては、甘い、しょっぱい、甘い、しょっぱいを舐め終わるまで無限ループ出来るイメージなのですが、違いますか?
口にしたことある方、ぜひ教えてください。

 

 

ポカリスウェットも熱中症対策ドリンクとしてはド定番ですが
CMも人気ですよね。
私が1番印象に残ってるポカリのCMは、ダチョウに乗る中山エミリです。
何度も挑戦して最後に乗れるのですが、そのときの
「乗れた、乗れたよー!」と言っている彼女が可愛くて可愛くて。
危険な行為だと思うのですが、「がんばれ!」と応援しながら観ていました。

 

あの時のポカリはまだ缶なんですよね。
いつの間にかペットボトルが主流になりましたが。
そんな話をしていたら、もっと前は瓶だったことが判明しました。
そして驚くことに、瓶の前は缶でした。
ポカリは缶デビューなんですね~。

 

ポカリスウェットの公式サイトには、歴史や誕生秘話なども書かれていて
興味深かったです。

 

ではここで本日最初の曲です。
ダチョウ編のCMでバックに流れていたさわやかなナンバーです。
懐かしさに浸りましょう。

*FIELD OF VIEW 【突然】*
♪~

 

 

 

この間の先生のブログに、苦手なことが書かれていました。
そのネタをパクらせてもらうと、私は走るのがとても遅く、中学生の時に50m11秒という数字をたたき出し、縄跳びでは二重跳びが出来なくて、
跳び箱のたては6段しか跳べず、横は1段すら跳べません。
鉄棒は逆上がりが出来なくて、マット運動は側転はおろか後ろまわりすら出来ません。
ドッヂボールでは当りたくなさすぎて必至で逃げて最後の一人になり、
大縄跳びでは一生入っていけないヘタレ。

まぁ要するに運動音痴なのです。

 

そんなわたしが唯一できるスポーツが、小さい頃から習っていた水泳で、
私がいるべき場所は陸より海なのだ!と常々言っていたし
「人間は昔、海の生き物だった説」を本気で信じていました。

 

小学生のある時、スイミングスクールの行事で「海の遠泳」がありました。
子供たちが列をなして海をひらすら平泳ぎで進むだけの、とっても地味なイベントなのですが、いざ泳いでみるととてもしんどい。
いつも泳いでいるプールとは違い、波もあるし、塩っぱいし、肌はヒリヒリする。
浜辺に近い水面は緑色だったのに、進むにつれ藍色になり、その時にはもちろん足はつかないし、なんだか水も冷たい。
怖い、海怖い。
それでも止まることは許されず、進み続けると、一面に広がるクラゲの群れ。
水をかくたびに肩に触れ、少しの間トラウマになるほど気味の悪い光景でした。

折り返し地点でやっと休憩があったのですが、休憩と言っても海。座れる場所なんてありません。
立ち泳ぎで点呼をとり、コーチから鳩の餌のように氷砂糖が投げられそれを口に含むという、今思えばギャグのような光景なのですが、その時の私は必至で氷砂糖に食らいつきました。
あとは戻るだけなのですが、どれだけ水をかいても砂浜が遠い。
もうダメだ、腕が動かん。あとひとかきしたら死ぬ!と思いながらももうひとかき。
それをずっと続けてもなかなか進まない。
みんなそうだったようで、明らかにペースダウン。
前方にいるコーチから
「もうちょっとだから!頑張ろう!」という声が聞こえ、
後方にいるコーチから
「サメに喰われるぞ!ちゃんと泳げ!」という声が聞こえてました。
まさに飴と鞭である。

 

そしてなんと、衝撃なのは、その後のことは一切覚えていないということ。
まぁ、特になにもなく普通に泳ぎきったのでしょう。
達成感をきっと当時は感じたはずですが、思い出そうとしても何故かクラゲと氷砂糖にかき消されます。
先ほどのポカリのCMは、挑戦し続けることの大切さや、努力の末に得られる達成感などが描かれていると思うのですが、私の場合、達成感は記憶から抹消されていました。
さすがに私もダチョウに乗れれば忘れないとは思うのですが。

 

余談ですが、氷砂糖はきっと、CM中のポカリの役割を果たしていたのでしょうね。

 

さて、ここで次の曲へ参りましょう。

*Chappie 【水中メガネ】*
♪~

 

 

 

先ほど「達成感」という言葉が出ました。
私は学生の頃からその気持ちを得ることが少なかったです。
努力が大嫌いでしたから。
(海の遠泳はその中でも大分頑張った記憶です)

だから鉄棒も跳び箱も縄跳びも、最初にほんの少しだけ練習して、出来なければそれ以上の努力はしなかったですし、出来なくても誰も困らないから出来なくてもいいや、と思って未だに出来ないままです。

 

体育の授業はもちろん大嫌いで、毎回なんとかして出席しない方法を考えたものです。
体育教師って、運動神経の良い子が優遇されるじゃないですか。

 

中学二年生の時、熱血漢でもなく、怖くて厳しくもなく、無愛想でもない、体育教師っぽくない体育教師が新しく赴任されました。
ひょろっと背の高いその先生は、まだ若いのに頭頂部が薄くて、陰で「ハゲ」というあだ名がついていました。

 

ある時バレーボールの授業があり、私は仮病で見学をすることになったのですが、ネットをはる準備に借り出されたことがありました。
その時にその先生が言いました。
「俺大学時代バレーボールをやっていてさ、上下関係が厳しくて、下級生イジメがすごかったんだよ。
1年のとき、先輩の前で正座させられて、目の前で先輩からひたすらボールを頭に投げつけられるの。
目をつぶって耐えるんだけど、毎日だぜ?
それ一年間ずっとされたから、頭皮が死んで今こんな状態」
と、「ハゲの理由」をこっそり語られました。

 

私はその次の体育の時間から、一度も休まず出席しました。

 

バレーボールの授業の時、アンダーハンドパスの練習をみんなでしていると
「お、おまえうまいな」
と言われ、先生が投げたボールをアンダーハンドパスで返す、というのを見本として皆の前でやらされました。

ダンスの授業の時も、振り付けを覚えるのが早かったから、私ともう一人の女子が見本になって皆の前で踊りました。
どちらも恥ずかしかったけれど、名誉なことでした。

 

こんなに体育の授業を楽しいと感じたのは初めてで、
バレーボールではオーバーハンドパスも出来る様に何度もイメトレをして、ダンスの練習も家でたくさんしました。
体育の成績表が楽しみで、そんな気持ちもはじめてでした。
五段階評価でいつもは2、良くて3だったので。
頑張って保健の授業も真面目に受け、テストもいい点数をとりました。

 

学期末、成績表を受け取ったら、保健体育の欄には【3】という数字。
5度見ほどしましたよ。
見本になって一緒にみんなの前で踊った子は【5】でした。
膝から崩れ落ちて、灰になって飛ばされそうなほどショックでした。
あんなに頑張ったのに。

 

何故この結果なのか、考えても考えてもわからず
努力が数字に反映されなかったことに悲しさよりも怒りが沸き、
当時の私はその体育教師にどちらかと言えば好意を抱いていましたが、
瞬間的に憎しみに変わり、その憎しみをどう表現していいかわからず、
ひたすら避け続けました。

 

その先生は赴任されてそんなに経っていないのに、すぐに消え去りました。
別の学校へ行ったのか、教師を辞めたのかは覚えていませんが、
その先生の最後の日、たまたま職員室前でバッタリ会った時
「そうだよな。お前、俺のこと嫌いだもんな」
と急に言われました。
避けてたことがまるわかりだったのだと気が付き、罪悪感を覚えました。

 

でも、私にも意地があります。
「先生こそ、私が嫌いなんでしょう?だから【3】をつけたんでしょ?」
・・・とは言えませんでした。
無言で頷き、走って、逃げました。
苦い思い出です。

 

それ以降、もともと嫌いだった体育はもっと嫌いになりました。
そしてこの時の私は、高校2年のとき体育教師が担任になり、壮絶な日々を送ることになるとは夢にも思わないのでした。
この話はまたいつか。

 

さて、次の曲はこちら。
タイトルだけ見ると【3】を見たときの私の気持ちのようですが
大人な失恋ソングです。
それではどうぞ!

*大沢誉志幸 【そして僕は途方に暮れる】*
♪~

 

 

 
さて、お別れの時間がやってまいりました。
初放送でしたが、いかがでしたでしょうか?

このラジオは、みなさまからのお便りやリクエスト曲などを募集しています。
コメント欄を活用していただくか、受付で直接言っていただいてもかまいません。
お待ちしております。

 

それでは皆様、最後にこの曲を聴きながらお別れです。

 

*松田聖子 【sleeping beauty】*
♪~

 

 

ということで、今回のブログはラジオ形式でお届けしました。
といってもひだまりラジオと、江頭2:50のラジオしかまともに聞いたことがない私なので、
なんだかよくわからない一人語りになってしまいました。反省。

そもそもラジオを文章にするなんて高度な技術ですよ。
できませんよ。笑

文字だらけで皆さん、疲れましたよね。

でも、なんでもありの十中八九N・Gです!
挑戦も大事!

第2弾があるのか、ないのか。。。
もしあったときのために、ラジオを聞いて勉強しておきます。

 

BGM: JUDY AND MARY  「RADIO」


いまジン

29/Ⅴ.(火)2018 はれ 日大アメフト部ばかりのニュースの中、オフィス北野新社長に、つまみ枝豆。

5/25のタモリ倶楽部は、ゲストはKinKi Kidsの堂本剛とTKOの木本で、都立大でロケ。
テーマは、ZINE(ジン)。

番組によると、ZINE(ジン)とは、雑誌を意味する、マガジン、や、同人誌ファンジンを起源とする自費出版の小冊子で、
個人や2-3人のグループとかで自分の好きな物や事をテーマに自由に作る出版物のこと。
自費出版の中での、ZINE、の位置づけはアートっぽいのです。↓。(タモリ倶楽部より)

4-5年前、ある美大生が「ZINE」を作ったと言って、くれた。
僕はその時、「ZINE」が何なのか説明されたがよくわからず、今回のタモリ倶楽部でやっと理解した。
しかし、5年前にもらった「ZINE」のインパクトというか新鮮さというか衝撃とか自由さとか可能性は体感していた。
なぜなら、彼女は海外へ行ってしまうのだが、その渡航前に自宅をギャラリーにして個展を開いていたからで、
僕もそこに観に行ったのだが、それは暑い夏の日だった。
僕はその当時、赤・緑・黒の「スイカ頭」にしていたが、彼女のアドヴァイスでは、ストライプを残して、
次は、黄色いスイカにしたら良い、と言っていたっけ。
近くにバカデカくガラガラのセブンイレブンがあったのを覚えてる。

僕がずっと野望を抱いてたのは、2017.7/25のブログ記事、「夢の展覧会」の出版。
当初は絵本にして、「ノーベル文学賞」を狙い、授賞式で、米朝会談を成功させてノーベル平和賞をもらったトランプ大統領の横でピースサインをするのが我々の最終目標で、
そうやってノーベル賞の価値を落そうと誓い合ったのに、色塗り係の大平さんが功名心がまるでなく興味を示さぬ為、
自然とトーンダウン、フェイドアウト、自然消滅の方向に向っていた。そこにタモリ倶楽部!

シンクロニシティーに従うのが、我ポリシー。今、ジンか。
100部は作りたい。目的は、知り合いに配ったり。まずは都立大の店に出し、中野のタコシェに置いてもらえれば大成功。

しかし僕は手先が不器用だから、どうしよう?
ここはひとつ大平さんの妹さん(うちのイラスト担当)にお願いしてみるか、紙対応。
忙しいかな?

ブログでは、皆さん僕の事を知ってますから、「夢の展覧会」で良かったのですが、もし「ZINE」がうまく行って、
都立大の店先に並んだら、タイトルが「夢の展覧会」では購買意欲を湧かせるには、パンチが弱い。

僕の「夢日記」にはサブタイトルがあって、ある時期「発病までの記録」とノートの表紙に書いていたものがある。
その頃、僕は医大生で精神科医になることを目指していたが、同時に、自分がいつか狂ってしまうんじゃないか、
と本気で不安に思っていて、そんなタイトルを日記をにつけていた。

そうだ、それを引用して、「発病までの記録~精神科医の夢日記」というタイトルにしてもいいかな、と思っている。
そういうアイデアも相談したいな。妹、暇人だといいな。

BGM.ジョン・レノン「イマジン」


たまご料理の日

 

タイトルが思いつかず、今日は何の日かな?と調べたら5月22日はたまご料理の日でした。

こんにちは。受付の大平です。5月の模様替えをおしらせします。

気が付けばもう5月後半。晴れた日は日差しが暑いですね。

イラストを張り替えてからもう3週間たっていました。
今回のイラストテーマは『厄払い』。
なぜこの時期に厄払い?と不思議ですよね。しかもこのテーマ難しい。
しかし川原先生は5分もかからずこのテーマのイラストを描き終えました。

それがこちら↓

私、大平のイラスト。あまりにも思いつかなかったのでお札?お守り?風デザインに↓

うかいさんのイラスト。これはかんなぎのなぎちゃん。顔がないけど表情は想像出来ますよね↓

増田さんのイラスト。初参加の増田さんはこのイラストを描くのにとっても悩んでいました↓

 

ウォーターサーバーのなぞなぞも4月中にかわっていました↓

私は今回のなぞなぞ1つも解けず、患者さんにヒントをもらって解けました。
そろそろ1ヶ月たったのでまたかわりそうですね。
まだ解いていない人は受付で答え聞くの待っています。

 

受付に貼ってある、ベルハーポスターも張り替え。
このポスターはベルハー解散の時のものらしく、
あの頃、川原先生は解散ショックが大きくこのポスターを記憶の隅にしまってしまったみたいです。
それをうかいさんがお片づけ中に発掘してくれました。

Before↓

After↓↓

 

ポプテピピックのポスターもDVD1巻のものから3巻のポスターに↓

 

マンガの新刊↓↓

ピカチュウと牛乳のPOPはうかいさんが新たに作ってくれました!

 

ピカチュウといえば、クリニック入口横のゴジラにピカチュウが!↓

これはアートですね。
気づいた人たちが笑ってしまうとても楽しいイタズラだったのでそのままにしてあります。

BGM.Jonas Blue 「 Mama 」


ともだち、が、いない…

17/Ⅴ.(木)2018 はれ&蒸し暑い  西城秀樹死ぬ、63才。

それはアウェーのような大ブーイングだった。
僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、
<いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー>と声をかけた。

 

 

イジメもなければ、ハブられることもなかった。どちらかと言えば、親切な人ばかりだった。

きっかけは新年度に体調をくずし、数週間学校を休んで、新しいクラスに行ったら、もうグループが出来上がっていたことだ。
班分けをする時も入れてもらえたが、特別に仲良くしたい人達でもなかったし、話題も合わなかった。
僕には友達がいなかった。

今、大人になるとどうってことないことが思春期には気になることがある。
友達がいない、というのは、その代表選手だ。

友達がいないというのは、さびしい奴と憐れに思われたり、
自分はそうなりたくない、と思ってる奴からは批判の対象になったりもする。そいつの自己正当化のために。
親は心配するだろうし、教師はしゃしゃり出そうだから、なるべく顕在化しないように気を回した。

万有引力とは引き合う孤独の力だ、と寺山修司は言っていたが、
僕と同じように友達のいない男は万有引力のように引かれあってつるむようになった。
そいつはガタイがデカく乱暴者でリアル・ジャイアンみたいな奴で加減を知らないから、皆から恐れられ敬遠されていた。

どういうきっかけでそうなったのかサッパリ覚えていないのだが、僕らは学校が終ると彼の家まで遊びに行った。
彼の家の近くには神田川が流れていて、彼は当時の流行の最先端のスケートボードを持っていた。
僕らはスケートボードに最適な坂まで通い、一人が坂の下で見張りをし、もう一人が坂の上からすべった。
もし車や自転車が来たら合図を送り、衝突しないように、途中で降りれるためである。
坂の下には神田川。
僕らは何度もスケートボードを神田川に落としては、長い棒で突っついて拾い上げ、またすべっては落としてを繰り返した。
何日も何日もひたすら同じことをやった。

そのうち、僕とジャイアンが仲良くなったことが学校で知れ渡り、僕の学校でのカーストは上がった。用心棒がついたから。

学内で柔道大会があり、ジャイアンは柔道部でもないし、最上級生でもないクセに、破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、
決勝戦まで行った。

決勝の相手は柔道部のキャプテンで最上級生の男だった。
体格はジャイアンがまさったが、キャプテンにもメンツはある。
試合は力と意地の攻防で、結局、足技か何かで、我・ジャイアンがよろけてポイントをとられ、逃げ切られ、準優勝だった。

表彰式。優勝者は圧倒的な声援を受けた。その半分は、よくぞ生意気な怪物を退治した、という判官贔屓な賞賛だった。
準優勝者も表彰されたが、それはアウェーのような大ブーイングだった。
僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、
<いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー>と声をかけた。

周りの上級生は、「なんだ、あのチビ」「誰だあいつ?」といぶかしい顔をしてこっちをにらみ、
クラスメートは空気を読んで、「おいやめとけよ」、と制止する者もいたが、僕はまるでシカト。拍手を送った。
ともだちは、僕の方を振り返って、はにかんで笑った。

その異様な光景を興味深そうにみてた奴が3人いて、彼らもやがて合流して、僕らは5人組のグループになった。

皆クラスはバラバラだったが、夏休みには海に行ったり、放課後は誰かの家に集まったり遊びに行ったり、
冬にはスキーにも行ったことがある。僕は旅館で一人寝てて、旅館のおばさんに、
「あんたも若いんだからすべって来なさい」と小言を言われた。
山口百恵が「初恋草紙」を歌ってる頃で僕はゲレンデに出ないで、旅館でラジオから流れてくるそれを聞いていた。

高校を卒業してからも、皆、進路は違ったが、年に1回は集まって旅行に行く関係が何年も続いた。
それは、ひとりが結婚して所帯を持って関係がバラけるまで続いて、僕としてはともだち関係の記録である。

BGM. 西城秀樹「ラストシーン」


欠点

9/Ⅴ.(水)2018 水曜日に雨は多くないか?雨も水だからか?

僕に出来ないことは色々あるが、男子として割と恥ずかしい欠点は、「泳げないこと」と「自転車に乗れないこと」だ。

泳げないことは、中学の時、吉田拓郎(よしだたくろう・当時)も泳げないと知って、<だったら俺もいいや>と、
早々に投げ出した。
日本のフォーク系ミュージシャンには泳げない人がたくさんいて、六文銭の及川恒平はお風呂も怖いらしい、
とラジオで拓郎が笑って話してたのを、僕も笑って聴いていた。

自転車に関しては、友達の後ろに乗っけてもらったり、僕は足が速かったから、伴走したりしていた。
茅ヶ崎から辻堂くらいの距離だったら、自転車と一緒に走れた。
今思うと、友達が随分加減して走ってくれてたのだと判るが、当時は、<俺は自転車より速い>と自慢してたのだから、
全然空気を読んでなかったのだなぁと思う。

そういうまわりに支えられてたから、自転車を乗るという場面は回避して生活して来れた。
女の子とサイクリングに行く時は、普通は男子の自転車に女子がつかまって乗るのだろうが、僕は逆だった。
これはちょっと恥ずかしい絵で、まぁ20才も過ぎると、皆、車に乗るから、自転車に乗るという機会は減るが、
僕は自転車に乗れないくらいだから、自動車も乗れる訳がなく、大抵、他の人の助手席に乗った。
女の子とドライブする時も、助手席に乗った。

そう言えば、こないだフィギュアスケートの羽生結弦が「自転車に乗れない」と告白したニュースを知った。
僕はもう大人だからいいが、僕と同じように自転車に乗れなくて肩身のせまい想いをしてる男の子がいるとしたら、
僕にとっての、よしだたくろう、と同じように免罪符としての効果があるのではないかと思った。
「羽生結弦と同じならいいや」的な。

僕が自転車に乗れない理由は、母のせいである。
いとこ達と自転車で遠くに行くという企画があった時、母は「達二は行かないわよね」と哀願した。
だから、僕はそれに応じた。

とは言え、うちの兄は自転車に乗れるし、その後も自転車に乗れるようになるチャンスはいくらでもあった。
いつの時代も練習を手伝ってくれる面倒見のいい友人はいるもので、
「タッちゃんは運動神経がいいから、すぐ乗れるよ」と励まし応援してくれたが、てんで乗れなかった。
まるで母への忠誠心を言い訳にしてるみたいだが、僕はやれることとやれないことが極端なのである。
これも母のせいにしてしまうのだが、いわゆる家事というものが一切出来ない。
これも多分、母が自分がいなければ何も出来ない子供に仕立てて、所有物みたいにしたせいだと思う。

こないだサランラップを切ろうとして、指を切った。
耳掃除は母が楽しみにする作業だったから、自分でやると加減がわからず必ず出血する。
このあいだ耳鼻科に行って耳掃除をしてもらったら、やんわりとお医者さんから、
「このくらいのことで来ないで下さい」と言われてしまった。
家に帰って、爪を切ったら、深爪した。

そんな僕にとって大学生になって家を出たことは、物理的に母と距離をとり、自立するチャンスだった。
しかし、悲しいかな人間は、同じようなことを相手をかえて繰り返す。
一人暮らしをしても家事など出来ないのを知ったクラスメートの女子が、医学部は面倒見のいい人が多いから、
ローテーションを組んで、掃除や洗濯をしに来てくれた。
さすがにそれは申し訳なさ過ぎたから、今でいうニートやひきこもりな男友達を自分のマンションに呼び寄せ、
家賃はとらない分、家事をしてもらった。

僕が学校に行ってる間、彼らが部屋の掃除や洗濯をして夕飯を作って待っていて、
夜は僕の録り溜めた歌謡曲やプロレスのビデオをみながら、人生や本の話をした。
朝は僕だけ起きて学校へ、彼らは寝てるが、僕が帰ってくるまでに家を綺麗にしてくれてるから、ギブ&テイクだった。
彼らは家に居場所がなかったから、僕が居場所を提供し、寄生させてたつもりだったが、僕の方が精神的に彼らに寄生していたのかもしれない。

その後も季節が変わるように関係性は変わるが、身の回りのことをしてくれる男女が途切れることなくいたから、
僕はいまだに食器の洗い方や洗濯機の回し方や衣替えやATMの使い方や小包の出し方を知らない。

よく結婚相手に母親と似たような人を選ぶというが、うちの奥さんと母は全然似てないと思う。
ただ、やはり家事という点においては、僕に何もさせないから、結果的に身の回りのことは完全に奥さんにやってもらってる。
そう言えば、マイナンバーとかも知らない。マイナンバーが何なのか、番号なのか、何桁の数字なのか、
あるいは保険証みたいなカードなのか、実物をみたこともない。何かの時に必要になるのかな?

こうやって考察してみると、奥さんと母は似てないが、僕と奥さんの関係と、僕と母の関係はとてもよく似ている。

移動手段として自転車に乗れない僕は自動車にも乗れないので、自家用車は奥さんが運転している。
僕はたまに助手席に乗るのだが、うちの車の車種が何だかも知らない。
車にまったく興味がないので、ポルシェとカローラの区別もつかない。

母はここ(ブログ)では美化されているが、光あるところに影がある。
今回の自転車の記事は、母の欠点の部分だと思う。あえて、母の日近くに、ぶち込んでみた。

BGM. RCサクセション「日隅くんの自転車のうしろに乗りなよ」


GWの過ごし方

8/Ⅴ.(火)2018 雨 今日から通常業務

僕はプロ意識が高いので、(自慢はやめよう)、雨が降ろうと風が吹こうと、インフルが流行ろうと、へっちゃらな免疫力を持っている。
しかし、そこは人間、どこかで採算をとるから、大型連休に入ると風邪をひいて、休みが明ける頃、
不死鳥のように蘇るという生活パターンを信条としていた。
でも、今回は大病することもなく、それは多分、休みになってもリズムを変えず、日付が変わる頃には寝て、
6時くらいには目が覚める、という習慣を体が覚えていたからだろう。

皆さんは、GWいかがお過ごしでしたか?
僕は、アマゾンプライムでアニメを観れることがわかったから、GWは、
「ひぐらしのなく頃に」「新世紀エヴァンゲリオン」「魔法少女まどか☆マギカ」を一気見したら、メンタルがやられてしまいました。

そのせいでGWに予定していた、ゼアゼアのライブも、中サンの「大ポスター展」も「まんだらけ展」も、
美容院も~行ったばかりだが美容師さんが突然のさよなら・産休に入ると言うからインターバルを縮めて~
予約を入れておいたのも、どれも「うつ」で面倒くさくなって、行くのをやめてしまった。
その結果、今年のGWは家から一歩も出ないで、ひたすら昼から酒を呑んだくれていた。

そんな中、僕を救ったのは、「でんぱ組.inc」「ベボガ!」兼任の、ぺろりん先生、こと、鹿目凛(かなめ りん)だった。
録り溜めている「でんぱの神神」の、ぺろりんが参入してからの回を繰り返し観て、いやされた。

ぺろりんのことをずっと前から注目して応援しているファンがたくさんいることは承知しているが、
このGWの瞬間最高ファン率みたいなものがあったら、僕の微分の傾きはかなりの急勾配、
トップを狙える位置にあると思う。

昔、きゃりーちゃんのファンクラブに入って、しょこたんのバスツアーに寝坊したら、当時の受付の岡田さんに、
「センセーは、もう、しょこたんのことが好きじゃないんですよ」と自慢気に指摘された。
彼女の得意気な精神分析によると、僕は熱しやすく冷めやすい、二股をかけれないタイプ、らしい。

本当は、ぺろりんの魅力を~番組でみせた涙の理由とか、インスタにあげる写真のこだわりなど~語りたいところだが、
外の雨も強くなって来たから、早く帰ることにする。

BGM.渡辺真知子「唇よ 君を熱く語れ」


我が身可愛く

1/Ⅴ.(火)2018 はれ トランプ米大統領がノーベル平和賞?

TOKIOの山口メンバーの報道で感じたのは、日本人はヨッパライに寛容だと言われたのは、今は昔、のことである。

談志の十八番と言われている、「芝浜」を実は談志はあまり好んでなく、年末のファンサービスにやっていた気がする。
僕は短絡的に、断酒会に噺家を呼び、「芝浜」を演ってもらえばと考えたが、
あれは良妻の話であり、内助の功とかの話で、
よくよく考えたら、アル中の人は奥さんに逃げられたり、逃げられなくても仮面夫婦だったりするから(違ったらゴメン!)、
こういう噺はしらけちまうかもしれない。

酒にのまれて顎の骨を折って3ヶ月自宅療養した時、務めていた病院の理事長が心配して、
「あなたをみてると母親の気持ちになるのよ。あなた、お母さん、生きてる?あぁ、もう亡くなっているの。そう。
私があなたの母親になります。あなたは私の息子です」と言って、強力なコネを駆使して、
日本で屈指の先生に僕のスーパービジョン(治療の客観的なアドヴァイスをくれる)を依頼してくれた。
僕は週1で、その先生のオフィスに通って、スーパービジョンを受けた。

でも、その日本で屈指の先生は、僕のケースの話などロクに聞かず、僕の母親代わりの悪口ばかりを言っていて、
僕はそれを黙って聞いてるから、こっちがカウンセリングしてるようで、でもそのご縁で僕はその後の運命の進路を変更した。
人生何が起きるか判らない。

話を、TOKIOの山口メンバーの報道に戻そう。彼に対して、テレビでコメントする芸能人の意見は皆、厳しかった。

その中、スピードワゴンの小沢の発言だけが異色だった。
小沢は、ワイドナショーで皆が山口メンバーに厳しい意見を言ってる中、
「山口さんは、何度かお世話になっていますが、優しくて温かくて頼りになる先輩で。
今回、こういうことがありましたが、僕はそれでも山口さんのことが好きです。だからファンです」と言った。

ちょっと昔、ほぼ毎日みてる母子がいた。皆の診療が終ってからだから、真夜中に終わることもあった。
なんだかんだがあって、結局、すごく良くなって、大変、感謝された。感謝の仕様もないとも、お礼の仕様もないとも。
そこで僕は、だったら、<もし僕がお酒のしくじりで、女性問題とか暴行事件で捕まったら、
「あの先生はそういうことはするかもしれませんが、私たちの診療には誠心誠意な方でした」
と証言して、噂だけを聞いた他の患者さん達をガッカリさせないようなフォローをして欲しい>とお願いしたことがある。
母子は、「わかりました」と約束をしてくれたのを、山口メンバー&スピードワゴン小沢の一件を見て思い出した。
あの母子、覚えてくれてるかな?

BGM.河島英五 「酒と男と女と涙」