ラスプーチンも加入

今日は「ムンク」のその後です。

よくよく考えたらムンクは僕が中学の時に、1年だけ五反田に住んでた時に、マンションにいた子です。しばらくして、「ところでこのフランス人形どうしたの?」って聞いたら、誰も知らない、って。いつのまにか家にいた。皆気味悪がったから僕が引き取った。以来ずっと僕の部屋にいる。もう母が死んで20年くらい経つ。僕とこいつの関係の方が50年くらいだから母を抜いた。誰よりも長い。

残念ながら、ムンクに何か特別な力がある訳ではなくて、ただ、僕の中学受験のための塾通いの頃から中学合格、その後の僕の生活をずっと見てきて知っている。僕がマンガを読んでいる時も、投函しそびれたラブレターを書いていた時も、ホルンの練習をしていた時も、深夜ラジオを聴いていた時も、友達が遊びに来て馬鹿騒ぎしてる事も、親に隠れてウイスキーをこっそり飲んだことも、憬れのアイドルのピンナップも、好きなプロレスラーのポスターも、僕のお気に入りの歌手とレコードも、整髪料で髪型に異常にこだわって鏡の前に立っていた姿も、それから、僕の喪服姿も何度か見て知っている。
僕の歴代の彼女も、一回きりの人も僕の部屋に遊びに来たことのある人は皆会っている。

今は、霊能者から「もはや呪物だから、手離した方が良い。呪物コレクターを紹介します」と言われてしまいましたが、それではムンクが可哀想です。球体関節人形なのですが、関節もイカれて脱臼しているし、髪の毛もとれちゃっています。対症療法でいいから治してあげたいのですが、まずは綺麗なお洋服を着せてあげたくて、Facebookで見つけたお人形作家さんにダイレクトメールしてみたら、色良い返事が来たのでムンクのお洋服の交渉をしました。

お人形作家さんが今週の水曜日、クリニックまで来てくれると言うのでそこでムンクと対面してお話をしてお渡しです。だから家からムンクを連れて来ました。

厳重に袋にしまって。

中を開けますね。

あらあら、髪の毛が取れちゃった。

こうやって乗っけていますが、ボンドか何かで接着した方が良いのかな?それも相談しよう。

帽子もボロボロになっちゃって。

これも上にかぶせるだけです。新調してもらいましょう。

これが現状の「ムンク」です。

この子の名前は長いことなくて「お人形」と呼んでいましたが、僕の夢の中に出て来て「わたしはムンク」と名乗ったから、それで名前はムンクです。

ムンクひとりを預けると寂しがりそうだからいつも一緒に寝てるサンリオの人形もお供させます。

おうちで寝てるムンクたち。

仲良さそうに寝ていますね。

ムンクを預ける時に一緒に旅立たせます。埴輪の発想です。

文化部長のスーちゃんにも抱っこしてもらいました。最初は恐る恐るですね。

でも、しばらくすると慣れて、優しく抱っこしてくれました。

人形作家さんが来てくれてムンクを預けました。そうしたら預けてる間の代わりのお人形をくれました。ムンクの友達にして欲しいと、抱き熊スーティー、というそうです。木毛(もくもう)とお腹は「激落ちくん」というスポンジで出来てるそうです。アンティーク調ですが、全部、新品です。チョコミントのミント色はなんとなくカワクリのロゴの色とも似てますね。赤い蝶ネクタイがポイントです。

お人形作家さんが作ってくれた、抱き熊スーティー、を運ぶ時の布バッグ。だきぐまSOOTY、とはイギリスの番組にいた「耳黒スーティー」から来てるそうです。

「気持ちよく心地よく過ごせるように僕はいつも君のことを守ってみてるよ」っていう子なのです。

名前は勝手につけて良いと言われたので、ラスプーチン、にしました。意味は、反戦を願って、プーチンでラスト、みたいな願いを込めました。

ラスプーチンを連れてお昼に行きます。鍋焼きうどんを分けてあげます。

いつも守ってくれる約束だから、連れて出かけますよ。

 

お人形作家さんは、テディベアの第一人者です。実はムンクを渡した翌日にテレビのロケでお教室にテレビ局が来たそうです。芸人のさまーずの二人が来て、一緒に作家さんがあみだした似ベア絵を描きながらテディベアの雑談をしたそうです。時系列で言うと、この企画は僕がムンクのお願いをした直後に来たものらしく、作家さんは「ムンクちゃん効果」と本気で呼んでくれています。

アートな仕事をする人の思考回路って古代的で素敵ですね。すっかり懐いちゃいました。

ムンクをお預けした3月19日は、偶然、母の命日だったから、とても感慨深かったです。

僕は、ムンクの居場所にラスプーチンを配置して一緒に寝ています。

ムンクの服が仕立てあがるのが楽しみです。


親切な川原達二の育て方~30のエピソード

僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らしをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。
1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。「著作権の侵害だ!」、みたいに。正確には意味が違うけれど、言わんとしてるニュアンスは判るでしょう?
僕は比較的若くして結婚して、妻がいて、子がいて。
母はどんな気持ちで、僕と妻に手紙を寄こしたのだろう。
封筒の宛名には必ず、僕と妻の両方の名前が書いてあった。
僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかったのにな。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
でも、それで誰かが損をするとか、他人に迷惑をかけると言うのではないから、自己満足だって自覚してる分、無自覚な善人よりは無害なんじゃないかな?
つまり、これからは縁のある人には、出来る限り、親切にしようと思った訳です。口先だけ、みたいに聞こえるかもしれないけれど、なるべく、そうしようと努力するつもり。

 

これは、母の遺歌集。↓。

海桐花は、とべら、と読みます。海岸に咲く花ですね。
さて、問題です。この表紙の絵、どこかで見覚えはありませんか?正解は、心理相談室の額縁の絵でした。↓。

中の写真に、自宅前とあるが、これはある先生のお家を訪問した時に玄関先で撮ったもの。それが、自宅前にて、となってるから、さぞかしその先生は驚いたことでしょう。↓。


母の死後、押入れから、僕が子供の時に描いた絵が出てきた。これは近所の養鶏場で描いたもの。診察室に置いてある。↓。


裏を見ると、絵画教室で描いた油絵みたい。↓。


小学校の何年生だったか夏休みの宿題が終わってなくて、一番大変だったのは、「自由研究」。母は何の変哲もない木箱を持って来て、その蓋に、僕に絵を描かせた。僕は、蕎麦屋の前の置物の、タヌキ、の絵を描いた。母は、趣味で、鎌倉彫、をやっていたから、僕のタヌキを上手に彫って、色をつけて、上にニスを塗って完成。これが優秀だと評判になり、神奈川県の賞をとり、どこかに展示された。
「子供らしい視点、自然との調和と、子供らしからぬ技術の確かさ」みたいなことが評価された。
母は、ニワトリの絵はとっておきながら、その鎌倉彫、は捨てていた。僕が作ったものじゃないからかな。親心って、そんなものなのかな?

 

母は2006年3月19日に死にました。僕はろくにお墓参りなどしていません。そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてない。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれないですね。なので母の思い出を過去の記事から抜粋し加筆・訂正して編集して僕なりの供養にしてみました。お暇な時に、読んで下さい。題して、「親切な川原達二の育て方」です。

 

(1)小学校の頃、僕は背が小さくて、ある日、母は小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ました。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいました。どうやら「たっちゃんは小さいから」とバカにされたそうで。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるから、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、そいつらの息子たちをブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてました。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(2)もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きました。僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血。すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しました。

(3)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって口もきかない。母は困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいました。

(4)大学の入学式、僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってました。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が僕だから。あれが正解だったのかも。

(5)そう言えば、兄の結婚式の時も僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、母はホットした顔をして、振り向いて笑っていました。

(6)母は薬剤師の資格を持っていて、僕が風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)。あれは何だったのか、いまだに判らない。

(7)僕は母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。母は、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったのです。

(8)鳥皮は「川原3大好物」の1つです。小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥ぎん』で釜飯を食べた。
釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのだけれど、僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのです。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥ぎん』はない。

(9)穴子も「川原3大好物」の1つです。子供の時、寿司の出前は高級な「寿司政」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司寅」の方が好きだった。子供心に「寿司政」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司寅」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司寅」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのです。
だから、家で寿司の出前をとる時は「寿司政」で大きな桶を頼むのだけれど、僕用に「寿司寅」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司政」の出前と「寿司寅」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司寅」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司寅」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と僕は気にした。
それに気づいた母は僕に、「達二の1番は『寿司寅』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(10)川原3大好物の最後は、うぐいす餅。家の近所には母の母が住んでいて、僕は暇な時におばあちゃんちに寄っていた。
相撲をやってるシーズンは相撲中継を、それ以外の時は時代劇の再放送を見ながら、おやつを一緒に食べるのである。たまに、お茶菓子を買ってってやるのだが、年寄りなのでケーキなどは好まず和菓子屋に行く。
そこで季節に応じて、団子やらおはぎやら桜餅やら草餅やら黄身しぐれやらを土産に買う。そんなある日、僕の目を奪ったのが、鮮やかな薄みどり色の和菓子だった。和菓子屋は、その色をうぐいすに喩えたが、僕はイグアナとかカメレオンを想像した。僕は爬虫類や両生類の生き物が大好きで、それは勿論、怪獣や恐竜に似てるからだ。このうぐいす餅の薄みどりは、刺激の少ない老人とのやさしい時間の中で、東宝ゴジラ・シリーズのガバラやゴロザウルスを連想させた。僕はゴジラ・シリーズでも、彼らのような敵役や脇役が好きだった。
下の写真が、ガバラ。子供の時のをまだ持っている。↓。

これが、ゴロザウルス。これは、大人になって復刻版を入手した。↓。

(11)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄弟でお金を出し合い、プレゼントをした。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金より気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(12)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(13)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(14)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸のルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうです。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。

(15)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。僕は、女子ってそんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。

(16)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(17)僕には、イジメ、というものを受けたことが、ほぼない。もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通ってた時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かったから、ぼやかして喋ったんたと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(18)母はバレンタインに毎年、チョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思います。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は「このくらい」と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆された。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスのカーストが決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(19)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやってきた。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(20)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)

(21)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、俺の形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(22)カワクリは、2023年6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(23)僕は、元々は開業する気はまるでなかった。勤務医の方が気楽だし、臨床の仕事は好きだが院長ともなると管理的な業務や経営的なことを考えなくちゃいけないから、そういうのは不向きだと自分が一番知っていた。
それでは、何故、開業する気になったかというと、うちの母親は古い人間で、
「医者になったのなら、他人に使われてるようでは駄目。独立開業して一人前!」という自分の価値観を押し付けてくるタイプだった。
僕は、平気の平左(へいきのへいざ、と読む。‘平気’という意味)で、その時にやりたいことをやれる病院を渡り鳥みたいに、気ままに見つけて、渡り歩いて生きていた。
晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。僕は開業すると言っても、ほとんど思いつきもいい所で、何のビジョンも、具体的な案も、現実的な資金もなかった。
開業支援の会社があってそこが物件探しから、コンピューター・システムの導入も、看板や広告も、従業員の応募も、役所への届出も、必要な書類の整備も、ご近所への挨拶も、開院披露パーティーの提案も、取引する業社も、普段使う電話機も金庫もタイムレコーダーもロッカーも、開業支援の会社がやってくれた。スムーズに事が運んだ。一つだけ誤算があったとすれば、開院披露パーティーを待たずに母親が死んだこと。僕が開業すると知って安心して、死期を早まらせたのかもしれないな。

(24)僕は親のことをよく知らない。父親は大正10年の生まれで親から離れて北海道やら満州に移り住んでいたらしいが、理由は知らず、それに比べれば母親のことはよく知ってると思ったのだが、大正14年生まれで東京に育って、実家が薬局のようなものをやっていたということくらいの知識しかなかった。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
それまで母と大岡山の関係をまったく知らなかったから、ビックリした。
こういうのを縁って言うのだろう。大切にしようと思った。

(25)川原家は、兄の進路の話し合いがされていた。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終わらない。よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は「もう少し熱を上げなきゃ」と思い、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたのです。母はそれを父に見せました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせ、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(26)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。

(27)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は僕のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になってしまった。こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出したりしますよ。

(28)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意して、母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、「有害図書ポスト」みたいなものが設置されエロ本の不法投棄はなくなった。そしてその頃には、僕はあまり自殺について真剣に考えなくなってしまった。

(29)思春期反抗期だった頃にみてた子が今はお母さんになる時代。彼女は、自分があれだけ嫌ってた母親みたいになったらどうしよう?、とか子供が思春期になって自分のような反抗期を迎えたらどうしよう?と今から心配している。だから僕は、もしも、この子が思春期になって手を焼いたらうちに連れてくれば、「お前のお母さんがどんな青春時代を過ごして、どんな気持ちでお前を産んで、どんなに大変な思いをしてお前を育てたか」を俺が言って聞かしてやるからと伝えたら、「それはとても心強い」と笑う。これがこれからの僕のライフワークの一つになる。患者は言う「だから、先生、本当に長生きして下さいね」。

(30)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

永六輔の言葉に、人間は2度死ぬ、と言うのがあります。1度は肉体の死で、2度目は忘却の死。つまり、忘れられてしまうこと。
だから、時々、その人の話をしてあげることが大切で、そうしていれば記憶の中では生き続けるのです。なので母の命日にこんな記事を書いてみました。それが、実家や墓参りに行かない僕の供養のやり方です。


真説「わたしはムンク」

自室の神棚です。

Q.りんご酢は神棚に置くものなんですか?

A.お酢には除霊効果があるそうです。例えば、お風呂にお酢を入れて入浴すると、邪霊を駆逐するそうです。

Q.「ゴリラとの結婚」も神棚なんですか?

A.はい。神様は異類婚姻が好きかと思いまして。

と架空の質疑応答をしてみました。

そんな朝にはレトルトのグリーンカレーに、おかめ納豆をトッピングして食べてみましたが、納豆の辛子が強すぎて、エスニックが和風に負けて何とも微妙でした。でも、お陰で目が覚めました。

さて、それでは「カワクリ、宗教&スピリチュアルコーナー」の紹介です。

まずは仏教から。

寝釈迦コーナー。

キリスト教。マリア像、手前のしょこたんは寝釈迦ポーズ。

イエス様。

音叉(空間の浄化に使う)と木魚(いらなくなったボールペンなどを捨てる時に使う)。

頂き物の沖縄の魔除けたち。

さて、場面が自室に戻ります。この子はいつもキングサイズのベッドで僕と一緒に寝てるアンティークドールです。

僕が中1の頃からいつのまにか家にいたお人形なのですが、家族の誰が家に持って来たのか、貰ったのかもわからず、不気味がられてました。そんな彼女が可哀想なので僕の部屋に置いておきました。それから、高校や浪人生や大学や父が死んだり、大学を落第しそうになったり、失恋したり、国家試験に受かったり、医者になったり、引っ越したり、一人暮らししたり、やけ酒飲んだり、友達が遊びに来たり、挫折したり、天狗になったり、ピアノを買ったり、ギターを売ったり、絵を描いたり、レポート書いたり、風邪で寝込んだり、医者になって頑張ったり、結婚したり、子供が出来たり、中野の関連病院に行ったり、開業したり、今に至るまで、約50年くらい、どんな家族より長く僕のそばにいて色んな人間模様を一緒に見ていてくれてます。

カツラはとれて、髪はボンドで留めたら良いのかしら?とか、アンティークな帽子や靴も無くなっちゃったし、服も一回も洗濯してないです。日に焼けて色褪せてしまっています。

球体関節人形なのでしょうが、関節もイカれて脱臼しています。髪や関節も対症療法でいいから治してあげたいのですが、まずは綺麗なお洋服を着せてあげたいです。女の子だし。

今は、霊能者から「もはや呪物だから、手離した方が良い。呪物コレクターを紹介します」と言われてしまいましたが、それではお人形が可哀想ですし、何よりどんな家族より長く僕といる子なのでそばに置きます。Facebookで見つけたお人形作家さんにダイレクトメールしてみたら、色良い返事が来たので交渉中です。

この子の名前は、長いことなくて、「お人形」と呼んでいました。最近名前をつけて、名前は「ムンク」。僕の夢の中にお人形が出て来て、「わたしはムンク」と名乗ったから。それで、ムンク。

もうすぐムンクのお洋服を注文する。


ラジオごっこ~カラオケもついでに

霊や邪気は、人形や紙を好むらしく、うちのクリニックはフィギュアやマンガが多いから時々、空間を浄化する。皆さんも時々耳にしたことがあるかもしれないが、チンチーン、という受付が奏でる音は、地球と同じ周波数の音叉を水晶に当ててチャイム代わりに使ってるもの。

お香を焚くのも有効なのだが、僕は「嗅覚過敏」なのできつい香りはNG。昔、悪魔祓いにも使うと聞きセージを炊いてみたことがあるが、あまりの匂いに悶絶し、自分が悪魔なんじゃないか?と思うくらい苦しかったから「焚く」系はこりごり。

で、エネルギー療法の先生に聞いたら、霊は金属の音を嫌うらしい。そう言えば孫悟空のお師匠さんの杖にも鈴がついていたし、霊と話せる人が霊にインタビューした記事で「嫌いな音楽は何ですか?」というのに、マライアキャリーのクリスマスソングのイントロ、と答えてたのを読んだことがある。あの歌って、鈴の音で始まるものね。で、1番空間浄化に相応しいものは何かと考えた末、教わったのが、タンバリン、です。音楽の授業で使うような皮の貼ってある奴じゃなくて、カラオケボックスにあるような鈴が重なり合ってシャカシャカする奴です。カラオケボックスでパクって来る訳にもいかないので、通販で買いました。

これを休憩時間とかに診察室や相談室や待合室で鳴らすと、遊んでるように見えますが、霊や邪気を追い払えるという寸法です。

診察室の本棚にもシャカシャカ。

そんな訳で、今回はラジオのDJ風に僕の近況をお伝えしながら、カラオケで一曲歌ってみるという企画をお届けしようと思います。一曲目は、河合奈保子の「ムーンライト・キッス」。タンバリンの代わりに河合奈保子が曲間でカスタネットを叩きます。

ムーンライト・キッス 河合奈保子

 

友達と女友達と親友と理解者と、LOVEとLIKEの違いとか、真剣に悩んでいた時代が僕にもありました。そんな10代の頃、「君が好きだから」という歌を作りました。「気がつけばいつも一人きりだが、寂しくなんかはない。誰が何と言おうとゆずれないものがあるけど、それが何かもわからない。仕方がないさ、君が好きだから」という、のんきな詞と牧歌的なメロディーでした。二番は、「貸し借りみたいな恋はいらない。悪口陰口言われても僕のそばには君がいる。世界中で君ひとり、味方ならは良い」みたいな内容です。この歌から伺えるのは僕は彼女に愛とか恋とかより、「ツレ」とか「バディ」のような感覚を求めてたみたいです。二曲目は、大上留利子で、嫌われ者の恋。

大上留利子 (Ruriko Ohgami) – 嫌われ者の恋

 

でんぱ組が解散になり、アイドルを卒業したぺろりんのYouTubeチャンネルを細々と見てる日々ですが、そもそもぺろりんを知ったのは、でんぱ組がテレ朝の深夜番組で、でんぱの神神、という看板番組を持ってる頃、毎週楽しみに見てて、ある日、最上もがが脱退することが決まりその代わりに入った新メンバーだったから。最上もがは、自分のことを「ボク」と呼ぶ僕っ子で、そう言えば、今人気のあのちゃんもそうだけど、一人称をボクと呼ぶ女の子はいつからいるんだろう?僕が知ってる一番古い子は、僕が中1の時にバスボンのシャンプーのCMで人気になった松本ちえこのヒットシングル。

W0189 松本ちえこ「ぼく」

 

前のラジオ企画で紹介した多岐川裕美のヒットスタジオ出演時の生歌を聞いたらすごく「下手」だった。昔の俳優さんは歌が下手な人が多かった。それはその道のプロはそれしか上手くないと言うことで逆に信頼があった。さんまとかも歌は下手だし。そういうのは良いなと思う。最近の芸人さんはみんな何をやっても達者だけど、日本人の国民性は「これ以外にとりえがない」という不器用な人も好きですね。立川談志がよくジミー時田の話をしていた。ジミー時田は酒癖が悪く女好きで貸した金は返さないし時間は守らないだらしのない怠け者だがギターを弾かせると、「どうでぃ、こいつが俺の友達だ!」って自慢したくなるって言ってた。

ともだち 南沙織

 

いつもは心理の2人と3人でランチに行くのだけれど、その日は混んでて僕が終わらないから2人に先に行ってもらい、僕は、餃子の王将、でひとり、新作の味噌ラーメンを食べる。

これが実物。

餃子の王将、に行ったんだから、勿論、餃子も食べた。

ひとりのランチは淋しい。曲は郷ひろみの「寒い夜明け」です。作詞をあの、楳図かずお、がしています。

郷ひろみ – 寒い夜明け

 

気に入ってた中華料理屋の店長が僕の知り合いの女の子にセクハラしてたと知ってから、そんな店に儲けさせたくないから行くのを辞めた。その代わりに多用してるのが、ゾーミン、という中華料理屋。この日は回鍋肉定食に餃子を食べた。

キャベツは高いそうですね。

この写メを、メル友の冬子ちゃんに送ったら、偶然彼女のお家の晩御飯も回鍋肉だったって。なんたる偶然。曲は、北風よ。岸本加世子です。

岸本加世子「北風よ」

 

昔、通ってたキックボクシングのジムの上に中華料理屋があるのだが、その真横に中華料理屋が出来るらしい。鰻屋のおかみさんが、良い人たちだから行ってあげて、と。早速見に行ってみると、今、建築中だが看板はもう出来上がってる。下の写真の英語の意味、わかりますか?僕はスペルが間違ってるような気がするのですが。チャイニーズの、H、が抜けてるんじゃない?

語学に詳しい人に聞いたら、これは英語じゃなくてイタリア語なんだって。イタリア語でチャイニーズって、H、は入らなくて良いんだそう。だけど、中華料理屋なのにイタリア語って何故なのでしょう?「行ったりーや」のダジャレかな?曲は、松本伊代で、チャイニーズ・キッス。

「HD」松本伊代  チャイニーズ・キッス 1983年

 

忌野清志郎が死んだ時、泉谷しげるは「アイツの死は絶対に受け入れない。通夜も行かない。告別もしない。冥福も祈らない」との名言をはいた。それを聞き僕も「訃報を信じません」という同じ立場をとろうと考えた。
元々僕は「別れ」に弱く、アントニオ猪木の引退試合もトイレに行ってて見逃したし、父が死んだ時も靴下を買いに行ってて、棺桶に釘を打つのにあやうく間に合わなくなりそうになった。
キヨシが死んだ年の5月9日に青山ロックンロールショーと銘打たれたファンのためのお別れ会が行われた。本来なら僕はここには参列しないのだが、当日、息子に「行ったら?」とすすめられ一緒に行くことにした。その日は土曜日で外来が終わったのが8時すぎでそこから青山に直行した。
下の写真は会場でもらった記念のもの。息子には感謝している。

曲は、さらば涙と言おう。森田健作ではなく、石野真子バージョンで。

さらば涙と言おう

 

今度、徳田さんとダンスの舞台を観に行く。徳田さんと言えば、牡蠣グラタンだ。それは、ある冬の寒い日。
徳田さんは、テレビで大岡山の特集番組を観たらしく、そこで紹介されていたレストラン林の「牡蠣グラタン」がとても美味しそうだったから、今度、時間のあるお昼に食べに行きましょう、と誘って来た。林は、ハヤシライスが有名で牡蠣グラタンは冬だけの限定メニュー。
そして、数日後、時間のあるお昼休みが出来たから、「牡蠣グラタンを食べに、林に行こう!」となって、「牡蠣グラタン」は普通のメニューには載ってないけれど、おすすめメニューが書いてある黒板の一番上に書いてあった。オーダーを取りにお店の人が来て、僕が「牡蠣グラタンを、2つ…」と言いかけたら、彼女はそれを左手で制止して、右手でメニューを見ながら、「私、ハンバーグにします」と宣言するなり、パタンと両手でメニューを閉じた。僕が唖然としていると、彼女はその様子に気付き、「私、デミグラス・ソースが好きなんです」と照れたように告白した。いや、照れるところじゃないんだが。
その時、僕は、数日前に見たテレビ番組のワンシーンを思い返した。それは、徳光さんが、ミスターこと長嶋茂雄にまつわるエピソードを紹介していた場面で、
徳光さんは、ミスターをあるソバ屋に案内したことがあり、そこのソバはとても美味しく店主がミスターの大ファンらしい。そこで徳光さんは、ミスターをそこのソバ屋に連れて行き、店主は大喜び。店主は、張り切って、ソバを手打ちする様子を実演して、ミスターは「なるほど、なるほど」とうなづいて見学してたそうで。そして、ソバが打ち上がり、店主が「何を召し上がりますか?」とメニューを見せると、ミスターは「う~ん」としばらく考えて、「カレーライス!」と答えたそうです。徳光さんは、苦笑しながら、「店主はガッカリしてたよ。でも、そこが、やはりミスターだよね」と言ってスタジオを笑わせていた。
僕らのテーブルに、牡蠣グラタンとハンバーグが運ばれて来た時、僕には、そのソバ屋の気持ちが判る気がしました。僕は、思わず、心の中で叫びました。
「徳田さん!、ミスターかよ!。何、ハンバーグ食ってんだよ!、牡蠣グラタン、注文しろよ!」。まぁ、大人だから言葉にはしなかったけど、あまりのショックで、味、しませんでした。徳田さんには、そんな苦い思い出もあります。曲は、所ジョージで、君と二人で。

君と二人で (シングル・ヴァージョン)

 

先日、昔のよしみの他職種の集まりが錦糸町であって楽しく飲んだ。会が始まる前のスカイツリー。

会が終わった頃のスカイツリー。

道をウロウロしてたら、ガールズバーの立ちんぼに声を掛けられて、気がつけば知り合いでした。一緒にいた仲間に、先生こんな離れた場所にも知り合いがいるんですか?、と感心されてちょっと鼻が高かったです。ひとの評価ってこんなことで左右されるのだから不思議ですね。

その集まりでグループLINEも作り、グループ名が必要だからと公募されたので、4つアイデアを出したらそのうちの一つが採用されました。さて、次のうちどれが採用されたでしょう?

1、錦糸町パラダイス

2、ボブディランは今何を考えているか?

3、夜中に台所で僕は君に話しかけたかった

4、古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう

正解は、ご想像にお任せして、曲は本日最後です。野口五郎で、きらめき。

野口五郎 – きらめき


文化部通信~その陸拾参~

こんにちは、文化部通信63弾。文化部長スーです。

今年もクリニックにひな人形がきてくれました。

可愛いですね~。って・・これは新入りのロコンたちでした。
正しくはこちらですね。毎年うっとりします。

”ひなまつり”は女の子の節句ですね。
以前の文化部通信で、私と先生の独断と偏見により選び抜いた「可愛い女の子」を紹介したことがありました。
あれから数年経ち、カワクリ内にはまだまだ可愛い女の子がたくさん居るので「可愛い女の子 2025ver」を紹介したいと思います。

しょこたん&さっちゃん

「エスパー魔美」 佐倉魔美

ぺろりん

「うる星やつら」 ラムちゃん

「涼宮ハルヒの驚愕」 佐々木さん

キティちゃん

山口百恵

初音ミク

「銀河鉄道999」 メーテル

ゆうこりん

芦田愛菜ちゃん

「おやすみプンプン」 田中愛子

「不思議の国のアリス」 アリス

「推しの子」 星野アイ

みなさんの”推しの子”は居ましたか?
多種多様な可愛い女の子がいっぱいで、選ぶ時間が幸せでした♪

最初に紹介したひな人形、すごく綺麗なんですが、毎年3月3日が終わると早々に片付けてしまいます。カワクリの受付に代々伝わる風習の1つです。
(ひな人形は、しまい忘れると婚期が遅れるという言い伝えがあるので…。)

今年見れなかった方は、また来年の登場を楽しみにお待ちくださいね♪


文化部通信~その陸拾弐~

こんにちは、文化部通信62弾。文化部長スーです。

2月といえば梅の季節や節分など色々イベントがありますが、バレンタインは外せませんよね。
以前の文化部通信でバレンタインといえば・・ ”恋のキセツ”という事で、病院内の男女のカップルを紹介したことがあります。
せっかくなので前回紹介したカップルとは、また別のカップルたちを紹介したいと思います。

まずは ~小学生部門~

スパイファミリー 「ダミアン&アーニャ」

ドラえもん 「しずかちゃん&のび太」

小さな恋のメロディ

~中学生部門~

涼宮ハルヒの憂鬱 「5分で別れたカップル(中学校期) 谷口&ハルヒ」

からかい上手の高木さん 「真野ちゃん&中井」

~高校生部門~

ダンダダン 「モモ&オカルン」

名探偵コナン 「和葉&平次」

名探偵コナン 「園子&京極さん」

進撃の巨人 「ミカサ&エレン」

~大人部門~

大瀧詠一 「Best Always」

スパイファミリー 「ヨル&ロイド」

夢グループ

ジョン・レノン&オノ・ヨーコ

風立ちぬ

色々なカップルがいますね。
「からかい上手の高木さん」の真野ちゃん&中井カップル、真野ちゃんの愛が強くて可愛いですよね♪でも、中井くんの方も真野ちゃんの事しっかり大好きなんです。「からかい上手の高木さん 14巻」にこの話が載っているのでぜひ胸キュンしたい方は読んでみて下さい。
他の可愛いカップルも出て来ますよ!

 

~文化部通信アーカイブス~
掘り起こしのイラストをどうぞ。

今回は、”チョコ”に関係した名前のイラストです。

1.”チョコ”レートプラネット

2.”ちょこ”たん(しょこたん)

3.”チョコ”ビッチ(ジョコビッチ)

4.島倉”ちょこ”(島倉千代子)

5.”ちょこ”いしょういち(横井庄一)

6.”ちょ~こ~”(「長江」さだまさし)

今年もかわいいチョコがいっぱい出ていますね。
試食がない時期もありましたが、今年は試食も楽しめそうですね。
いつも買うチョコだけじゃなく、新しい美味しいチョコにも出会えるかもとワクワクする2月の始まりです♪


明るいよ

29/Ⅰ.(水)2025 はれ 寒い 渡邊渚、初フォトエッセー発売。「Amazon」の「売れ筋ランキング」の「タレント本(総合)」のカテゴリーで1位に輝く。

さてこれは何でしょう?暗いニュースばかりなので、最近買った買い物です。

正解は大谷翔平の首振り人形です。

レトロな感じですね。

診察テーブルに配置しました。

第2弾。箱の中身は何でしょう?

正解は大谷翔平のぬいぐるみです。

袋から出して。

診察室の入り口の「ぺろりん」は、アイドルを卒業したから外します。

ここに並べました。

ココ壱でCMしてる、この人はココ壱がすごい好きで母親のカレーよりもココ壱って言ってた罪深い人(?)らしいですよ!

クジで、ココ壱のスプーン当たりました🥄

食べたカレーは、塩豚肉増しにトッピングでナス・旨辛ニンニク・ほうれん草・完熟トマトで、3辛です。

辛さを調節するため甘いソースも貰いました。

そんな訳で僕は割と明るく暮らしています。

BGM, 忌野清志郎 + 坂本龍一「明・る・い・よ 」


川原は年末年始にどのような食生活をしたか?

9/Ⅰ.(木)2025 はれ 7月に「おそ松さん4期」アニメ化決定。「ダンダダン2期」と同じ時期。夏までは生きていよう。

今日はカワクリの誕生日です。

今回はタイトル通りです。まずは年末「マツコの知らない世界」で紹介された店でワインを頼む。

マンガに出て来るような骨付きソーセージをつまみに。

これが、番組で紹介された「ガーリック明太子と大葉のパスタ」。

正月は寿司屋。黒龍の石田屋を飲む。

2022年モデルだが、

製造は2024年11月。

鰻屋で日本酒。

長生きするように、モズク酢。

焼鳥。

割き立ての肝焼き。

鰻は白焼きで半身。

板わさも。

ヘビ年だから、かまぼこも白ヘビ風。

元キスマイの北山くんのYouTubeに、三四郎の小宮がゲストで出て一緒にココ壱で食べてたオーダーをマネする。

これから辛いカレーを頼むからミルクと甘いソースを頼みます。

「1辛」のカレーにトッピングは、ほうれん草・豚しゃぶ・納豆・ナス。

しかし、CoCo壱って意外と高いですね。松屋の隣にあるから同じレベルかと思ってたから伝票を見てビックリしました。

お笑い芸人のチャンカワイが言っていた「ラーメンはチャーシューを先に食べれば太らない説」を信じてチャーシューつけ麵を頼んで実験する。

麺の上に並んだチャーシューを先に食べる。

後から面を食べれば太らない。本当だといいな。

女ともだちと友人のお見舞いに行く。お土産を買いにデパ地下へ。モンブランのシュークリームを買う。頼んでからパイ生地に「シュー」を入れてくれます。

ここからは自分への「お年玉」。

「物語シリーズ・モンスターシーズン」のBlu-ray。副音声が面白いです。

付録についてた千石撫子の着せ替え。

これは「ダンダダン」のターボババア。

エンディング曲の時みたいにドライヤーを使っています。

逆側から。

正面から。

最近は入浴中に無意識に子供時代に聴いた歌を口ずさんでいます。大人に疲れた、のでしょうか。「ピンポンパン」のCDを購入。

僕が小学校の頃、大ヒットした「ピンポンパン体操」を歌っていたのは石毛恭子お姉さんです。そのCD。

BGM. 石毛恭子ピンポンパン「レインドロップス」


文化部通信~その陸拾壱~

新年あけましておめでとうございます。文化部通信61弾。
文化部長のスーです。皆様どんなお正月をお過ごしでしょうか?

正月といえば福袋やお年玉。どちらもワクワクしますよね♪
そんな福袋・お年玉とは少し違いますがクリニックにもワクワクドキドキする”あるもの”が届きました。

先生に開封してもらいます。

デン!!・・・おっと、これは”あるもの”を収納する専用ケースでした。

本命はこっちでした。

ジャーン!!ヴァイスシュヴァルツとダンダダンのコラボカードでした~!

中身はこんな感じ

このカードを5パック開け、その後追加で5パック届き‥合計10パック開けて揃ったカードがこちら。(☆で目印がついているのがレアです)
モモちゃん 7枚(レア2枚)

オカルン 6枚(レア2枚)

アイラちゃん 5枚(レア2枚)

星子 4枚(レア1枚)

戦闘シーン 3枚

ターボババア×セルポ星人 5枚(レア2枚)

この写真だとレアが分かりづらいんですが、実際見るとキラキラで綺麗ですよ。
そしてこのレアは1パック(50枚入り)につき1枚入ってるカードなんです。その貴重なレア枠に、モモちゃんとセルポ星人のレアが1枚ずつかぶってしまいました。

そして10パック開けた結果‥第1弾の5パック分のかぶりカードがこちら↓

横から見るとまるでタワー

圧巻です。

その後追加で5パック届き

かぶったカードは、一部は先生の知り合いの方へプレゼントし、残りはカードケースに収納されました。
圧を感じますね(笑)

ダンダダンのサウンドトラック

これについてきたカードも可愛いんです。アニメのオープニングのカット。

せっかくなので、全部のカード1種類ずつを並べてクリニックに飾っております。

1枚スーパーウルトラレアの”ツチノコ”カード(川原先生作)も、一緒に掲示してるのでぜひ待ち時間にゆっくり見てみて下さい。可愛いです。
2025年は巳年。ツチノコのカードは縁起が良さそうですよね♪

 

~文化部通信アーカイブス~
掘り起こしのイラストをどうぞ。

1月生まれの10人のイラストです。

1「Mr.マリック 1/1」

2「坂本龍馬 1/3」

3「マリリン・マンソン 1/5」

4「イモトアヤコ 1/12」

5「ベンジャミン・フランクリン 1/17」

6「片桐はいり 1/18」

7「北野武 1/18」

8「西郷隆盛 1/23」

9「きゃりーぱみゅぱみゅ 1/29」

10「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1/27」

先生作のマリックさんが言ってるみたいに今年もみなさんに幸せがきますように♪

今年の私の抱負は「何か1つ成し遂げる」です。
ふわっとした抱負もたまにはいいでしょう!今年も1年よろしくお願いいたします。


ラッキー・デー

18/Ⅻ.(水)2024 はれ 「涼宮ハルヒの消失」で長門有希が時空間改変した日

今日は「ラッキー・デー」です。突然の贈り物が届きました。

サンリオの箱です。

宛名はクリニックで、名前は「羽●●●」㊞です。この「羽●●●」とは受付3人の名目を合体させた仮名だそうです。当人たちはそれが恥ずかしいそうなので「●」で一部を隠しました。何が恥ずかしい、かは人それぞれですね。

上の宛名に「いちご新聞12月号プレゼント①」とあります。いちご新聞の懸賞に当たったみたいです。下が、いちご新聞12月号。

プレゼント①のページをめくってみましょう。ダイナマイトプレゼントと書いてありますね。

下は僕の持ってる「いちご新聞」のバックナンバーを収納したバインダー。

バインダーの表表紙。

バインダーの裏表紙。

それでは箱を開封して「ダイナマイトプレゼント」を一緒にみましょう。

横からカッターを入れます。

次は縦に。

上から下へと。

箱を開封します。

出ました!ダイナマイトプレゼント、ご当選おめでとう、のお知らせ。

やったー!クリスマスプレゼントみたいです!!

封をほどいてみましょう。

中を見てみましょう。

中の物を取り出します。

ジャジャーン!

ぬいぐるみの詰め合わせですね。

その奥に入っていたのは、これでした。

クロミのマシュマロみたいな抱き心地のぬいぐるみ、です。

可愛いですね。

これは本当に抱き心地が良いのですよ。

マシュマロみたいです。

カメラマンの羽田さんにあまりギュッと抱くと、センセーの手が太く見えます、と言われたから、カーディガンを着て、抱っこしてみました。

これは良い写真に仕上がったから年賀状のプリントにしようかな。

 

BGM. サンリオピューロランド公式「Lucky Happy Everyday」