この記事も「心のゴミ箱」兼用です。はじめてここを見て「ゴミ箱って何?」って方も「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。
27/Ⅵ.(木)2024 はれ 大谷翔平、キング独走25号で4連勝貢献、3冠王も射程圏3打点差
今回は「大岡山アイドルフェスティバル」略して「OIF」を開催します。最近は昭和風のブリキの看板に昔のアイドルのピンナップを印刷したものをよく目にします。クリニックの入り口に飾ってある(放置?)ので今回はそれをドドドンとご紹介しましよう。
昔のアイドルと言えばバックで「スクールメイツ」なるダンサーの踊りが付き物でしたから、今回はチアガールで華を添え、ブリキの看板と僕の個人的な思い出を語ろうという趣旨です。マニアックな回ですが、写真が多いので見やすいです。おつきあい願えれば。それでは行きましょう。
まずはエントリー№「1」三田寛子。応援のチアガールは、原型。
僕は三田寛子のことはデビュー曲から知っていて、CBSソニーから出たイメージ・ビデオ「映・像・少・女」(β)も持っています。3曲目の「駈けてきた処女(おとめ)」のクライマックスは、果物を並べたテーブルに、三田寛子がはんなりとうつぶせてて、視線だけはしっかりこちらを見てて、曲調が変わる瞬間に片手を払いのけるポーズで果物を一つ残らず、テーブルから落すシーンがインパクトがありました。さすが、井上陽水、という感じの名曲です。
三田寛子は「花の82年組」だから、頭角を現すのはちょっときついかな、と思っていました。
そんな彼女にとってのターニング・ポイントは、プロポーズ大作戦の正月特番で、フィーリングカップル5vs5、に出たことだと思います。美人歌手5人組と素人の大学生5人組の公開お見合いで、昔は松田聖子とかも出てました。
1枠がリーダー的に可愛い子(たとえば聖子)で2~4と好みを取り揃え、5枠で落す。主に、研ナオコとか和田アキ子がその位置にいました。
83年の正月、1枠は早見優、2枠は中森明菜、三田寛子は3枠で出場、4枠が堀ちえみ、5枠は中原理恵でした。中原理恵はもう欽ドンで新境地を定着させていたから、この時点での5枠は妥当。
番組的には、早見優で「かわいい~」を掴み、中森明菜、三田寛子、堀ちえみが加速させ、中原理恵で落す鉄板の布陣だった。…はずだ。
実は、この放送のビデオを僕はまだ持っているのですが、番組の流れをことごとく、三田寛子が止めるのである。
お正月だから艶やかな晴れ着を着て、おっとりした京都弁で男性陣からの質問に答えるのだが、<デートに誘われたらどうする?(あるいは、プロポーズされたら何と言う?)>に対して、「いや~ん」とか言って、照れて、振袖で顔を隠して答えない。
司会者は、とにかく中原理恵で落したいから、<ちゃんと答えて>とせっつく。
すると、三田寛子は、「じゃ~、お月さんが来たー、って言って空を指差して、その隙に逃げます」と答える。
終始、こんな感じで、中原理恵は完封されてしまった。
ウブというのか、まだ世間が「天然」という共通語を持たない時代だった。
翌週くらいに、三田寛子は「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングに呼ばれ、そこでもスパーク!
その翌月くらいから、月曜レギュラーになって「寛子のお菓子大好き」というコーナーを結構長くやっていた。僕は学校があったから、毎週、録画して見ていた。このコーナーは人気があって、同じタイトルのお菓子のレシピ本も発売された。僕も買った。まだ持ってる。
そんな彼女が今ピンチで、なんかしみじみとしている。僕は三田寛子のホップ・ステップ・ジャンプの瞬間の空気と同時代を生きてきたとも言えるから。
エントリー№「2」原田知世。応援は、チアガール川原Ver.1。
昔、12チャンネルの朝に、「おはようスタジオ」という新人アイドルの出る番組があって、そこにゲスト出演する新人アイドルは新曲情報などを「たぬきインタビュー」というコーナーで紹介してもらうのですが、「たぬきインタビュー」とは文字通り、質問の答えから「た」を抜いて答えねばならず、失敗して、「た」と言ってしまうと顔にタヌキの絵のシールを貼られて行くという罰ゲームが見所でした。
皆、最初こそ警戒するのですが、インタビューが進むに連れ、ついつい1つ2つ「た」と言ってしまい、そこが愛嬌なのですが、僕が今尚、忘れられないのは原田知世で、原田知世はショッパナから、「た」の字を連発して、インタビュー半ばにして、タヌキシールで顔が見えなくなっていました。途中からチャンネルをつけたら誰だか判らないぞ。僕はその映像もβビデオで持ってる。
原田知世を有名にしたのは映画「時をかける少女」ですが、実はその前にTVで「セーラー服と機関銃」や「ねらわれた学園」を主演していました。
この時代は、原田知世でさえ水着姿を披露してたのですね。
エントリー№「3」薬師丸ひろ子。応援は、チアガール川原Ver.2。
「セーラー服と機関銃」や「ねらわれた学園」と言えば、本家は映画版の薬師丸ひろ子ですね。ちょっと話はそれますが、小学校の頃、少年野球チームに入った僕は背番号を何番にしたいか?、と聞かれ、「666」と「ヨハネの黙示録」の数字を希望に出したら、「3桁は駄目だ!」、と却下された思い出があります。
ところが、薬師丸ひろ子は映画「探偵物語」の公開記念の野球大会に登場した時、背番号「8940」をつけていました。
「8940」はヤクシマルの語呂合せですが、僕はそれをTVで観た時、思わず、「4桁、ありかよ!」とツッコミを入れたものです。
その野球大会の映像も、僕のβビデオのコレクションにあります。
エントリー№「4」山口百恵。応援は、チアガール川原Ver.3。
中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、絶望的な気分で毎日を送っていた。きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。その頃、僕の生活を支えたのは、一枚のアイドルのポスターだった。そのアイドルとは、山口百恵だ。
山口百恵はシングル盤では、「秋桜」を歌ってる頃で、もうアイドルというより賞レースの本命になる王道の歌手で、「横須賀ストーリー」以来の本格派ポップス路線から、「百恵神話」へと移行してゆく途上だった。僕は、「中3トリオ」の3番手の頃の山口百恵が好きで、その後の売れ線路線にはあまり好感を抱いていない。
それでも、僕を支えてくれたその時の山口百恵のポスターとは、当時の山口百恵としても、当時のアイドルのポスターとしても、少し風変わりだった。
それは、白いブラウスに茶色のスカートをはいた普段着の格好で、ポスターのくせにこちらの目を見ずに脇の方を向いている。その視線の先に何があるかは、ポスターに写っていないので想像するしかないのだが、おそらく他愛も無いものにちがいない。それは近くのキレイなお姉さんみたいな風体だった。
東中野のレコード屋で、『花ざかり』というお花をテーマにした歌ばかりを集めたアルバムを買ったら特典としてもらった。僕は、毎日、このポスターに見守られ、中3の一年間を皆勤賞で過ごした。
エントリー№「5」。応援は、チアガール川原Ver.4。
高校生の頃、夜のプロ野球ニュースをみるのが日課でした。そこで突然、飛び込んできたのが、ビーチで人目を気にしながら、思い切りよく、無地のグレーのトレーナーとジーパンを脱いで、青いビキニ姿になって、カメラに向って微笑むお姉さん。ミノルタ・カメラのCMの、宮崎美子も一世を風靡しました。ちょっと、おなかがぽっこりしてる所がいい!、とクラスでは評判でした。男子高校生には女子大生は憧れの的でしたよ。
エントリー№「6」。応援は、チアガール川原Ver.5。
長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。ある日、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。フランク永井だってしない。古いか。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。その数ヶ月後に2人は結婚する。真子はトップアイドルの座を捨て引退。ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。泣き出す真子。観ているこちらもつられて泣き出す。「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」という名言を残し、コマーシャル。僕は涙が止まらなかった。ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。
エントリー№「7」。応援は、チアガール川原Ver.6。
ドリス・トロイの「ジャスト・ワン・ルック」。心弾ませる軽快なイントロのピアノ・ソロが、一目惚れの鮮烈さを見事に表現している。ドリス・トロイという人は、いわゆる一発屋だったそうだ。だからこそ、この曲の主題である、「一目惚れ」の純度を高めてるような気がする。大学の頃、中森明菜で大儲けしたワーナー・パイオニアが、その収益を社会に還元すべく、あまり売れるとも思えない全8集からなる「ATRANTIC RHYTHM AND BLUES 1947-1974」を発売してくれた。ドリス・トロイの「ジャスト・ワン・ルック」は、その第5集に収められている。
エントリー№「8」。応援は、チアガール川原Ver.7。
キャンディーズのスーちゃんが亡くなった時にはビックリ。
スーちゃんは、中学の時の友達で少年院みたいなところに行った子がファンだったな。彼は、ランやミキのことを敵対視して、でも一番、ピンク・レディーのことを悪く言ってた。「やつら、うんこ食べるらしいぜ」とか言ってた。あきれた。吉田拓郎は、キャンディーズに何曲か楽曲提供していて、自身のアルバムでカバーして歌ってる。『ぷらいべいと』で「やさしい悪魔」、『大いなる人』で「アン・ドゥ・トロワ」を全然違うアレンジで歌ってる。後者では、♪さよなら~、キャンディーズ♪というフレーズが入っていたから、『大いなる人』は、キャンディーズ解散の直後に出たアルバムだったと記憶する。僕は、あまりキャンディーズのレコードは持ってないが、「年下の男の子」と「哀愁のシンフォニー」だけ買った。
1986年ころ、サザンやユーミンや吉川晃司や明石家さんまが「メリー・クリスマス・ショー」という番組をイブに生放送でやった。ユーミンが、アン・ルイスと原由子と3人で女ポリスみたいなコスプレをして「年下の男の子」を歌い踊って、僕は悪趣味だなぁとテレビの前で辟易していたら、司会のさんまがユーミンに、「ユーミンさんの場合は、ほとんどが年下の男の子ですよね」と茶々を入れて、さんまに救われた思い出がある。
エントリー№「9」。応援は、チアガール川原Ver.8。
ピンクレデイ―の人気は尋常じゃなかった。1978年に「サウスポー」で日本歌謡大賞をとって、「UFO」で日本レコード大賞を受賞した。その年にこの二つの賞を同時に獲得する歌手は過去にもたくさんいたが、同一年にひとりの歌手が別の曲で二つの賞をもらうというのは後にも先にもピンレディー以外に知らない。下は、何かの授賞式。珍しく山口百恵とスリーショットで写ってる。
という訳で、大岡山アイドルフェスティバル(OIF)企画いかがでしたか。順位付けはしません。みんながオンリーワンです。戦争をやめろ!選挙に行こう!
BGM. 三田寛子「駈けてきた処女」