ラスプーチンも加入

今日は「ムンク」のその後です。

よくよく考えたらムンクは僕が中学の時に、1年だけ五反田に住んでた時に、マンションにいた子です。しばらくして、「ところでこのフランス人形どうしたの?」って聞いたら、誰も知らない、って。いつのまにか家にいた。皆気味悪がったから僕が引き取った。以来ずっと僕の部屋にいる。もう母が死んで20年くらい経つ。僕とこいつの関係の方が50年くらいだから母を抜いた。誰よりも長い。

残念ながら、ムンクに何か特別な力がある訳ではなくて、ただ、僕の中学受験のための塾通いの頃から中学合格、その後の僕の生活をずっと見てきて知っている。僕がマンガを読んでいる時も、投函しそびれたラブレターを書いていた時も、ホルンの練習をしていた時も、深夜ラジオを聴いていた時も、友達が遊びに来て馬鹿騒ぎしてる事も、親に隠れてウイスキーをこっそり飲んだことも、憬れのアイドルのピンナップも、好きなプロレスラーのポスターも、僕のお気に入りの歌手とレコードも、整髪料で髪型に異常にこだわって鏡の前に立っていた姿も、それから、僕の喪服姿も何度か見て知っている。
僕の歴代の彼女も、一回きりの人も僕の部屋に遊びに来たことのある人は皆会っている。

今は、霊能者から「もはや呪物だから、手離した方が良い。呪物コレクターを紹介します」と言われてしまいましたが、それではムンクが可哀想です。球体関節人形なのですが、関節もイカれて脱臼しているし、髪の毛もとれちゃっています。対症療法でいいから治してあげたいのですが、まずは綺麗なお洋服を着せてあげたくて、Facebookで見つけたお人形作家さんにダイレクトメールしてみたら、色良い返事が来たのでムンクのお洋服の交渉をしました。

お人形作家さんが今週の水曜日、クリニックまで来てくれると言うのでそこでムンクと対面してお話をしてお渡しです。だから家からムンクを連れて来ました。

厳重に袋にしまって。

中を開けますね。

あらあら、髪の毛が取れちゃった。

こうやって乗っけていますが、ボンドか何かで接着した方が良いのかな?それも相談しよう。

帽子もボロボロになっちゃって。

これも上にかぶせるだけです。新調してもらいましょう。

これが現状の「ムンク」です。

この子の名前は長いことなくて「お人形」と呼んでいましたが、僕の夢の中に出て来て「わたしはムンク」と名乗ったから、それで名前はムンクです。

ムンクひとりを預けると寂しがりそうだからいつも一緒に寝てるサンリオの人形もお供させます。

おうちで寝てるムンクたち。

仲良さそうに寝ていますね。

ムンクを預ける時に一緒に旅立たせます。埴輪の発想です。

文化部長のスーちゃんにも抱っこしてもらいました。最初は恐る恐るですね。

でも、しばらくすると慣れて、優しく抱っこしてくれました。

人形作家さんが来てくれてムンクを預けました。そうしたら預けてる間の代わりのお人形をくれました。ムンクの友達にして欲しいと、抱き熊スーティー、というそうです。木毛(もくもう)とお腹は「激落ちくん」というスポンジで出来てるそうです。アンティーク調ですが、全部、新品です。チョコミントのミント色はなんとなくカワクリのロゴの色とも似てますね。赤い蝶ネクタイがポイントです。

お人形作家さんが作ってくれた、抱き熊スーティー、を運ぶ時の布バッグ。だきぐまSOOTY、とはイギリスの番組にいた「耳黒スーティー」から来てるそうです。

「気持ちよく心地よく過ごせるように僕はいつも君のことを守ってみてるよ」っていう子なのです。

名前は勝手につけて良いと言われたので、ラスプーチン、にしました。意味は、反戦を願って、プーチンでラスト、みたいな願いを込めました。

ラスプーチンを連れてお昼に行きます。鍋焼きうどんを分けてあげます。

いつも守ってくれる約束だから、連れて出かけますよ。

 

お人形作家さんは、テディベアの第一人者です。実はムンクを渡した翌日にテレビのロケでお教室にテレビ局が来たそうです。芸人のさまーずの二人が来て、一緒に作家さんがあみだした似ベア絵を描きながらテディベアの雑談をしたそうです。時系列で言うと、この企画は僕がムンクのお願いをした直後に来たものらしく、作家さんは「ムンクちゃん効果」と本気で呼んでくれています。

アートな仕事をする人の思考回路って古代的で素敵ですね。すっかり懐いちゃいました。

ムンクをお預けした3月19日は、偶然、母の命日だったから、とても感慨深かったです。

僕は、ムンクの居場所にラスプーチンを配置して一緒に寝ています。

ムンクの服が仕立てあがるのが楽しみです。


親切な川原達二の育て方~30のエピソード

僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らしをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。
1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。「著作権の侵害だ!」、みたいに。正確には意味が違うけれど、言わんとしてるニュアンスは判るでしょう?
僕は比較的若くして結婚して、妻がいて、子がいて。
母はどんな気持ちで、僕と妻に手紙を寄こしたのだろう。
封筒の宛名には必ず、僕と妻の両方の名前が書いてあった。
僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかったのにな。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
でも、それで誰かが損をするとか、他人に迷惑をかけると言うのではないから、自己満足だって自覚してる分、無自覚な善人よりは無害なんじゃないかな?
つまり、これからは縁のある人には、出来る限り、親切にしようと思った訳です。口先だけ、みたいに聞こえるかもしれないけれど、なるべく、そうしようと努力するつもり。

 

これは、母の遺歌集。↓。

海桐花は、とべら、と読みます。海岸に咲く花ですね。
さて、問題です。この表紙の絵、どこかで見覚えはありませんか?正解は、心理相談室の額縁の絵でした。↓。

中の写真に、自宅前とあるが、これはある先生のお家を訪問した時に玄関先で撮ったもの。それが、自宅前にて、となってるから、さぞかしその先生は驚いたことでしょう。↓。


母の死後、押入れから、僕が子供の時に描いた絵が出てきた。これは近所の養鶏場で描いたもの。診察室に置いてある。↓。


裏を見ると、絵画教室で描いた油絵みたい。↓。


小学校の何年生だったか夏休みの宿題が終わってなくて、一番大変だったのは、「自由研究」。母は何の変哲もない木箱を持って来て、その蓋に、僕に絵を描かせた。僕は、蕎麦屋の前の置物の、タヌキ、の絵を描いた。母は、趣味で、鎌倉彫、をやっていたから、僕のタヌキを上手に彫って、色をつけて、上にニスを塗って完成。これが優秀だと評判になり、神奈川県の賞をとり、どこかに展示された。
「子供らしい視点、自然との調和と、子供らしからぬ技術の確かさ」みたいなことが評価された。
母は、ニワトリの絵はとっておきながら、その鎌倉彫、は捨てていた。僕が作ったものじゃないからかな。親心って、そんなものなのかな?

 

母は2006年3月19日に死にました。僕はろくにお墓参りなどしていません。そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてない。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれないですね。なので母の思い出を過去の記事から抜粋し加筆・訂正して編集して僕なりの供養にしてみました。お暇な時に、読んで下さい。題して、「親切な川原達二の育て方」です。

 

(1)小学校の頃、僕は背が小さくて、ある日、母は小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ました。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいました。どうやら「たっちゃんは小さいから」とバカにされたそうで。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるから、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、そいつらの息子たちをブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてました。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(2)もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きました。僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血。すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しました。

(3)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって口もきかない。母は困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいました。

(4)大学の入学式、僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってました。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が僕だから。あれが正解だったのかも。

(5)そう言えば、兄の結婚式の時も僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、母はホットした顔をして、振り向いて笑っていました。

(6)母は薬剤師の資格を持っていて、僕が風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)。あれは何だったのか、いまだに判らない。

(7)僕は母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。母は、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったのです。

(8)鳥皮は「川原3大好物」の1つです。小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥ぎん』で釜飯を食べた。
釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのだけれど、僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのです。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥ぎん』はない。

(9)穴子も「川原3大好物」の1つです。子供の時、寿司の出前は高級な「寿司政」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司寅」の方が好きだった。子供心に「寿司政」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司寅」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司寅」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのです。
だから、家で寿司の出前をとる時は「寿司政」で大きな桶を頼むのだけれど、僕用に「寿司寅」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司政」の出前と「寿司寅」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司寅」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司寅」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と僕は気にした。
それに気づいた母は僕に、「達二の1番は『寿司寅』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(10)川原3大好物の最後は、うぐいす餅。家の近所には母の母が住んでいて、僕は暇な時におばあちゃんちに寄っていた。
相撲をやってるシーズンは相撲中継を、それ以外の時は時代劇の再放送を見ながら、おやつを一緒に食べるのである。たまに、お茶菓子を買ってってやるのだが、年寄りなのでケーキなどは好まず和菓子屋に行く。
そこで季節に応じて、団子やらおはぎやら桜餅やら草餅やら黄身しぐれやらを土産に買う。そんなある日、僕の目を奪ったのが、鮮やかな薄みどり色の和菓子だった。和菓子屋は、その色をうぐいすに喩えたが、僕はイグアナとかカメレオンを想像した。僕は爬虫類や両生類の生き物が大好きで、それは勿論、怪獣や恐竜に似てるからだ。このうぐいす餅の薄みどりは、刺激の少ない老人とのやさしい時間の中で、東宝ゴジラ・シリーズのガバラやゴロザウルスを連想させた。僕はゴジラ・シリーズでも、彼らのような敵役や脇役が好きだった。
下の写真が、ガバラ。子供の時のをまだ持っている。↓。

これが、ゴロザウルス。これは、大人になって復刻版を入手した。↓。

(11)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄弟でお金を出し合い、プレゼントをした。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金より気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(12)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(13)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(14)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸のルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうです。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。

(15)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。僕は、女子ってそんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。

(16)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(17)僕には、イジメ、というものを受けたことが、ほぼない。もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通ってた時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かったから、ぼやかして喋ったんたと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(18)母はバレンタインに毎年、チョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思います。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は「このくらい」と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆された。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスのカーストが決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(19)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやってきた。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(20)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)

(21)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、俺の形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(22)カワクリは、2023年6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(23)僕は、元々は開業する気はまるでなかった。勤務医の方が気楽だし、臨床の仕事は好きだが院長ともなると管理的な業務や経営的なことを考えなくちゃいけないから、そういうのは不向きだと自分が一番知っていた。
それでは、何故、開業する気になったかというと、うちの母親は古い人間で、
「医者になったのなら、他人に使われてるようでは駄目。独立開業して一人前!」という自分の価値観を押し付けてくるタイプだった。
僕は、平気の平左(へいきのへいざ、と読む。‘平気’という意味)で、その時にやりたいことをやれる病院を渡り鳥みたいに、気ままに見つけて、渡り歩いて生きていた。
晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。僕は開業すると言っても、ほとんど思いつきもいい所で、何のビジョンも、具体的な案も、現実的な資金もなかった。
開業支援の会社があってそこが物件探しから、コンピューター・システムの導入も、看板や広告も、従業員の応募も、役所への届出も、必要な書類の整備も、ご近所への挨拶も、開院披露パーティーの提案も、取引する業社も、普段使う電話機も金庫もタイムレコーダーもロッカーも、開業支援の会社がやってくれた。スムーズに事が運んだ。一つだけ誤算があったとすれば、開院披露パーティーを待たずに母親が死んだこと。僕が開業すると知って安心して、死期を早まらせたのかもしれないな。

(24)僕は親のことをよく知らない。父親は大正10年の生まれで親から離れて北海道やら満州に移り住んでいたらしいが、理由は知らず、それに比べれば母親のことはよく知ってると思ったのだが、大正14年生まれで東京に育って、実家が薬局のようなものをやっていたということくらいの知識しかなかった。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
それまで母と大岡山の関係をまったく知らなかったから、ビックリした。
こういうのを縁って言うのだろう。大切にしようと思った。

(25)川原家は、兄の進路の話し合いがされていた。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終わらない。よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は「もう少し熱を上げなきゃ」と思い、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたのです。母はそれを父に見せました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせ、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(26)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。

(27)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は僕のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になってしまった。こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出したりしますよ。

(28)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意して、母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、「有害図書ポスト」みたいなものが設置されエロ本の不法投棄はなくなった。そしてその頃には、僕はあまり自殺について真剣に考えなくなってしまった。

(29)思春期反抗期だった頃にみてた子が今はお母さんになる時代。彼女は、自分があれだけ嫌ってた母親みたいになったらどうしよう?、とか子供が思春期になって自分のような反抗期を迎えたらどうしよう?と今から心配している。だから僕は、もしも、この子が思春期になって手を焼いたらうちに連れてくれば、「お前のお母さんがどんな青春時代を過ごして、どんな気持ちでお前を産んで、どんなに大変な思いをしてお前を育てたか」を俺が言って聞かしてやるからと伝えたら、「それはとても心強い」と笑う。これがこれからの僕のライフワークの一つになる。患者は言う「だから、先生、本当に長生きして下さいね」。

(30)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

永六輔の言葉に、人間は2度死ぬ、と言うのがあります。1度は肉体の死で、2度目は忘却の死。つまり、忘れられてしまうこと。
だから、時々、その人の話をしてあげることが大切で、そうしていれば記憶の中では生き続けるのです。なので母の命日にこんな記事を書いてみました。それが、実家や墓参りに行かない僕の供養のやり方です。


真説「わたしはムンク」

自室の神棚です。

Q.りんご酢は神棚に置くものなんですか?

A.お酢には除霊効果があるそうです。例えば、お風呂にお酢を入れて入浴すると、邪霊を駆逐するそうです。

Q.「ゴリラとの結婚」も神棚なんですか?

A.はい。神様は異類婚姻が好きかと思いまして。

と架空の質疑応答をしてみました。

そんな朝にはレトルトのグリーンカレーに、おかめ納豆をトッピングして食べてみましたが、納豆の辛子が強すぎて、エスニックが和風に負けて何とも微妙でした。でも、お陰で目が覚めました。

さて、それでは「カワクリ、宗教&スピリチュアルコーナー」の紹介です。

まずは仏教から。

寝釈迦コーナー。

キリスト教。マリア像、手前のしょこたんは寝釈迦ポーズ。

イエス様。

音叉(空間の浄化に使う)と木魚(いらなくなったボールペンなどを捨てる時に使う)。

頂き物の沖縄の魔除けたち。

さて、場面が自室に戻ります。この子はいつもキングサイズのベッドで僕と一緒に寝てるアンティークドールです。

僕が中1の頃からいつのまにか家にいたお人形なのですが、家族の誰が家に持って来たのか、貰ったのかもわからず、不気味がられてました。そんな彼女が可哀想なので僕の部屋に置いておきました。それから、高校や浪人生や大学や父が死んだり、大学を落第しそうになったり、失恋したり、国家試験に受かったり、医者になったり、引っ越したり、一人暮らししたり、やけ酒飲んだり、友達が遊びに来たり、挫折したり、天狗になったり、ピアノを買ったり、ギターを売ったり、絵を描いたり、レポート書いたり、風邪で寝込んだり、医者になって頑張ったり、結婚したり、子供が出来たり、中野の関連病院に行ったり、開業したり、今に至るまで、約50年くらい、どんな家族より長く僕のそばにいて色んな人間模様を一緒に見ていてくれてます。

カツラはとれて、髪はボンドで留めたら良いのかしら?とか、アンティークな帽子や靴も無くなっちゃったし、服も一回も洗濯してないです。日に焼けて色褪せてしまっています。

球体関節人形なのでしょうが、関節もイカれて脱臼しています。髪や関節も対症療法でいいから治してあげたいのですが、まずは綺麗なお洋服を着せてあげたいです。女の子だし。

今は、霊能者から「もはや呪物だから、手離した方が良い。呪物コレクターを紹介します」と言われてしまいましたが、それではお人形が可哀想ですし、何よりどんな家族より長く僕といる子なのでそばに置きます。Facebookで見つけたお人形作家さんにダイレクトメールしてみたら、色良い返事が来たので交渉中です。

この子の名前は、長いことなくて、「お人形」と呼んでいました。最近名前をつけて、名前は「ムンク」。僕の夢の中にお人形が出て来て、「わたしはムンク」と名乗ったから。それで、ムンク。

もうすぐムンクのお洋服を注文する。


ラジオごっこ~うお座の君

2月20日は、ミスター長嶋茂雄とアントニオ猪木と志村けんの三大スターの誕生日。ちなみに、志村と一緒にコントをやってた石野陽子の誕生日も2月20日。その数日ちがいが、うちの娘の誕生日。みんなうお座。

娘は最近では家のリフォームの際、僕の地下室の部屋の模様替えをしてくれて本棚を入れて雑誌やマンガ本を作者別、コミックスの巻数順に綺麗に並べてくれた。中には「エロマンガ」とかそれっぽいのもあるけど、今更、みる方(娘)もみられる方(僕)も慌てたりしないのが歴史の強みだ。

娘と僕は普段は滅多に口をきかないが、彼女が大きくなってから2人きりで海外旅行に2回行ったことがある。香港・マカオとシンガポール。

娘が予定や準備や段取りを全部して、僕は金を出すだけ。シンガポールはコナンの映画の舞台になった屋上にプールがあるホテルに泊まって、観光は僕の好きそうな教会や寺院や郷土の言い伝えみたいな場所を組み込んでくれ、後は娘の買い物に付き添ってお金を出して荷物を待つ。香港・マカオも同じような行程なのだが、不思議だったのは、2人とも好きでない「カジノ」がコースに入ってる。僕はパチンコもしないし、ルーレットもバカラも興味がないので、2人で只の飲み物を飲んでブラブラ歩いてカジノの雰囲気だけ味わって、「もう出るか?」と言っておしまい。これはシンガポールでもそうだった。

なんで娘との旅行に「カジノ」が入ってるのかと言うと、母親が教えてくれたのだが、娘が小学校の頃は僕は仕事が忙しく家族旅行などまるで行ったことがなかった。娘が通ってた学校は私立だったから夏休み明けには、夏はどこへ行ったという話で持ちきりになるらしい。娘と仲の良かった女の子のお父さんは海外旅行で「カジノ」に行ってとっても楽しそうだった、という話を聞いてたらしく子供心に「家族旅行」=「カジノ」=「父、喜ぶ」とインプットされたらしく、三つ子の魂百までも、で、とりあえず、海外旅行では父をカジノに連れてってみる、と言う予定を入れてみたのだそうだ。そうだったのか、失敗した。だったら、もっと楽しそうな演技をすれば良かった。

田舎に引っ越した患者さんが挨拶に来てくれて、お土産に、もなかの詰め合わせ、をくれた。「皆さんでどうぞ」というのは色んな味のもなかが一口サイズで食べれる詰め合わせなんだという。ここで言う皆さんとはクリニックのスタッフだろう。でも、娘の誕生日だ。「皆さん」=「ご家族」と拡大解釈し、家に持って帰ってやろう。娘が和菓子を好きかどうかは知らないが。

山口百恵 お菓子職人

 

さて、問題です。箱の中身は何だろな?

ヒントは、大谷翔平ではない、野球の功労者です。

しかし毎日、寒くて寒くて。寝ても疲れが取れないですから、朝からカレーに納豆を入れて食べたら少し元気になりました。粘り強いイチローみたいな狙いです。下は大谷翔平投手とイチロー野手の揃い踏み。

続いてはこの曲を。僕が大学1年の時に流行りました。

三好鉄生 『涙をふいて』 1982年

 

朝のニュースで、ワカサギ、が豊漁だと言っていた。ワカサギは冬のイメージだが、山中湖では6月まで釣れるらしい。ワカサギは初心者でも簡単に釣れるらしく、そう言えば、ゴーゴーキッチン戦隊クックルン、でもクックルン3人がワカサギを釣りに行く回があった。まだブルーレイのハードディスクに残ってるかもしれないから探してみる。クックルンはEテレの15分番組で子供向けで短いから、脳が疲れてアニメを見るのもしんどい時の娯楽に丁度良い番組でした。僕はクックルン・イエローのファンでした。

3曲目は、俊ちゃんのナンバー。

田原俊彦 ラブ・シュプール

 

旦那が倒れて奥さんだけで店を開けて旦那の帰りを待つ、そんな店を応援したい。メニューは「焼かない物」ばかり。

おにぎりを頼みました。さて、問題です。中身は何と何でしょう?

正解は「しらすと明太子」なのですが、何故か来たのは「しらす2個」でした。本当は平日は呑みたくないのです。翌日の集中力が落ちるからね。でも、義を見てせざるは勇無きなり、でお店を助けに行きましたよ。あの食べ物の値段だとドリンクを注文しないときびしそうだからウーロンハイも頼んで。

お店は不規則的に営業するらしい。店の前を通ってみないとやってるかどうかわからない。店は助けたいけど、平日はやはり呑みたくない葛藤がある。カフカの「転落」という小説で主人公は寒い夜に川のそばを通ると溺れてる人がいる。この寒空に川に入るのは嫌だけど、助けないとひとでなしだと噂されてしまう。そこで主人公はどうしたかというと、決して川のそばを歩かないことにしたという。気持ちが分かるなぁ。僕も焼鳥屋の前を通らないようにしよう。

Tシャツに口紅(ラッツ&スター) – YouTube

 

寒い日の帰り道は回鍋肉定食を食べたくなり奥沢の店に寄る。でも、着いたのが遅かったため、ご飯がおしまい。仕方ない、五目あんかけそば、を食べました。

こんな感じのお店です。

寒い毎日ですが、明日くらいから暖かくなるらしい。僕は獅子座だから寒い冬は苦手なのです。春よ来い。

新田恵利 (Eri Nitta) – 冬のオペラグラス


ラジオごっこ~白鳥の歌なんか聞こえない

高1の時、学習塾で知り合った女の子にやたら長電話をする子がいた。
その子は電話魔で、一時期、毎日のように電話がかかってきた。
当時は、携帯電話などない時代で、家の電話にかかってきた。それで、平気で2~3時間、喋るのだ。内容は、どうでもいいことばかり。たとえば、世良公則&ツイストの新曲について、とか。
僕はその子と塾の友達たちで海水浴に行ったことがある。
その子は、高1のくせに真っ赤なビキニを着ていて、それがまた何とも色っぽくなかったことを、真夏の強烈な日差しとともに思い出す。
その子は、僕をそのグループで「1番可愛い子」とくっつけようと色々とおせっかいを焼いては、すべてを台無しにした。「私に任せておきなって~」みたいなことを言って、すべて台無し。悪気はないんだよなぁ。
その子のお兄ちゃんは小さな暴走族のリーダーをしていて、その子は、それをとても嫌がっていた。
僕は、「そんなことはどうでもいいことさ」、と電話越に言ったことがある。本当にそう思ったし。珍しくその子は、黙り込んでいた。
今、思うと僕は、その子のことが好きだったのだと思う。今日の1曲目は「紫のハイウエイ」。

クールス / 紫のハイウェイ

 

東中野の近所のマンションに高校の先輩が住んでいた。ある日、「これから遊びにおいでよ」と招待された。地下の駐車場にはジャガーというアメ車があって、先輩はそれを乗り回してると言った。良いのか?高校生がジャガーに乗ってて。「巨人の星」の花形満じゃあるまいし。
先輩は「俺はこれから家庭教師と勉強。彼女が来るから相手してて」と言い残して部屋に消えて行った。僕はだだっ広いリビングのソファに一人でいると、その彼女という人が入って来た。大理石のように冷たい表情の美人で、僕は軽く挨拶をした。彼女は、「隣に来ない?」と誘ったり、「吸う?」と吸いかけの薄紅いタバコを手渡そうとしたりした。何だ、これは?誘惑してるのか?
そもそも、あの先輩は何のつもりだ?家庭教師なんか来ないじゃないか。
そうか、きっと僕たちのやりとりを部屋からこっそり見てて、こっちが女に手を出したら、「俺のスケに何してんだ?」って美人局みたいに出てくるつもりか?
それとも、倦怠期のカップルが刺激を求めて、チェリー・ボーイを交えて倒錯的な趣味に走るつもりか。3Pとか。「ん~、弱ったものだ」と頭をフル回転させてると、先輩が部屋から出て来て、驚いたことに後ろに家庭教師がいた。
「あれ?本当に勉強してたの??家庭教師、いつ部屋に入ったの?あっ、先にいたの?じゃ、3Pは?なし?」よく聞いたら、ジャガーも父親が運転するのに同乗してるだけなんだって。普通じゃん。馬鹿みたい。2曲目はこれ。

多岐川裕美 酸っぱい経験

 

ポケモンセンター限定で、ロコンの「サイコソーダ・リフレッシュ」のぬいぐるみが発売された。つぶなら瞳が魅力でどうしても欲しくて、そうしたら友達がポケセンに行くついでがあるからと買って来てくれた。ロコンをゲット出来てすごく嬉しい。

3曲目はジューシーフルーツで。

燃ゆる瞳

 

寺山修司の詩に「肖像画に間違って髭を描いてしまったから髭を生やすことにした。門番を雇ってしまったから門を作ることにした」というあべこべの理論があるけど、「生まれてしまったから生きることにしてる」って人が多いと思う。お墓が出来たらそろそろ死ぬつもり、と言いそうだが、お墓って早く作ると長生きするみたいですね。4曲目はトノバン。

Moshimo, Moshimo, Moshimo

 

ネットに載ってた日高屋のアレンジメニューを真似してみた。中華そばとレバニラ炒めを注文する。

中華そばの上に

レバニラ炒めを

乗っけます。すると、レバニララーメン。

これで1000円ジャスト。5曲目は、かぐや姫おんすてーじ、から。

田中君じゃないか (LIVE)

 

鰻屋で聴いた噂。新しく、中華料理店(キックボクシングジムの上)の横に、夫婦で中華料理店が出ると言う。おかみさん曰く、「良い人だからよろしくね」だって。

商店街の入り口の、焼き芋屋の前は、おばあちゃんがやってる「洋服屋さん」だったんだって。…あえて、ブティックと言わない。その屋号「きくや」をそのままに焼き芋屋をやってるから、「きっとお孫さんがやってるんじゃない?」だって。だったら良い話ですね。

今日の6曲目は「えんだん」。

五つの赤い風船「えんだん」

 

「OL、って今、差別用語なの?」「レディとかウーマンって言葉を嫌う人がいるってだけでしょ。無難なのはキャリア」「キャリアウーマンは❌?⭕️?」「ウーマンが付くから❌かな?」。OLは「会社員」とか?今どきはテレビのインタビューとかで20代会社員と書いてある気がする。ジョンレノンの、ウーマン、って良い歌なのにな。今日の7曲目はジョンの「ウーマン」。

WOMAN. (Ultimate Mix, 2020) – John Lennon (official music video HD)

 

帰り道。奥沢にある、焼鳥屋。

昔、徳田さんと2人で飲みに行ったこともある店。今、こんならしい。

奥沢は地元なんだけど、10年前にあった店が次々となくなってて、ちょっとセンチメンタルなのです。まあ、なんとか助けますよ。今日は寝るけど。

待ちぼうけ(井上陽水 “氷の世界” LPアルバムより)

 

10代の頃に読んだ庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」という小説の中で、主人公が知り合いの女の子の家に呼ばれ、老人(もう死ぬ間際)の部屋に通され、そこに聳え立つ書棚と本に圧倒されるというシーンを、僕は強く印象に残っている。
僕の父は僕が大学2年の時に胃癌で死んで、当時、僕は東中野で自由に暮らしていたのだが、母が一人になってしまうとか、色々な理由で茅ヶ崎に帰った。
実家の庭には、父の書庫があり、それは小さな一軒屋くらいあるプレハブ小屋で、中には、「白鳥~」の老人のように、天井に届かんばかりの本棚が図書館のように隣接して立ち、夥しい数の書籍が几帳面に本棚に並べられていた。
それは、医学書や短歌の歌集やら文学全集や何かの資料集だったりするのだが、手当たり次第に選んだ本のどれもに何らかの読んだ形跡があり、「こんな膨大な知識を持っても、死んでしまったら無になるのかな」などと思ったりしたものだ。
僕は、医学部の試験の勉強をこの書庫でした。背中に沢山の本に見守られ勉強をした。それはとても心強かった。文字通り、父がバックアップしてくれている感覚を抱いていた。そして、それは僕に実力以上の物を引き出させた。
診察室に座られた方は判ると思うが、他人の本棚って興味あるものですね。近くに寄って、見ても良いですよ。

お別れの曲は、ラジオごっこだけに、ラジオっ娘にしました。

茅ヶ崎サンライズ – ラジオっ娘 (Lady, oh!)


呑み会→ファッション→呑み会→ファッション

12/Ⅱ.(水)2025 はれ 連休明けだから激混み。待ちきれず帰っちゃった人、ごめんね。

土曜は、心理部門の新年会。行きつけの寿司屋で。

カワハギの活け造り。肝ポン酢で。

この日に特注したのは、伊勢海老。4連写で。

サヨリの皮の竹串を持ってポーズ。

日曜日は美容院。今回は大阪万博にちなんで万国旗をイメージ。

サランラップで巻いて温めます。

サランラップを取ります。

ベターってしてますね。

これをシャンプーして綺麗にして乾かしたら出来上がり。

色んな色があってキレイですね。

ワックスを使って仕上げます。

月曜はこないだ死んだ友人を偲ぶ会。

彼が好んだ赤坂のしゃぶしゃぶ屋で。

肉のアップ。

二次会はカラオケ。僕は森進一の「おふくろさん」と大瀧詠一の「幸せな結末」を歌いました。

火曜日は銀座でネイル。二日酔いだから施術中は寝入る。

親指は「ダンダダン」から、セルポ星人とターボババァ。

アップにするとこんなです。

せっかくの3連休なのでゴロゴロしてたかったのですが、呑み会→ファッション→呑み会→ファッション、の4日間でした。

BGM. 森進一「おふくろさん」


ラジオごっこ~Listen To The Music

今日は寒いからサボりたいです。学生時代ならふけてますよ。そんな時はこの曲で気分を無理矢理盛り上げました。撫物語のオープニングテーマです。

『caramel ribbon cursetard』「撫物語」ノンクレジットOP映像|『〈物語〉シリーズ オフ&モンスターシーズン』

 

僕がもしも大学生で、僕らがもしも同級生で、僕が車でも持ってたらドライブに誘って湘南にでも連れていけるのに。大学生でもなければ、同級生でもないし、自家用車も持ってないから。大滝詠一の「雨のウェンズデイ」を。

大滝詠一 雨のウェンズデイ

 

2月と言えば僕の時代は医学部の受験シーズン。

高校時代は塾に通ってたもので、僕は男子校だったからそこで知り合った他校の女子と話すのが楽しみでそのために塾に通ってたくらい。

高1では7人くらいの男女で仲良くなって夏は海水浴に行こうと、僕のウチが湘南の茅ヶ崎だったからウチを海の家代わりにして集まった。同年代の女子の水着姿を初めてみた。僕がちょっと好きだった子は赤いビキニを着ていて、僕は不思議と全然いやらしい気分にならなかったのをよく覚えてる。当たり前か。ブライアン・ハイランド の「 ビキニスタイルのお嬢さん」を。

ブライアン・ハイランド – ビキニスタイルのお嬢さん(和訳付き)

 

高2の冬に塾で仲良くなった子と映画を見に行った。アメリカのコメディ映画だった。僕はその子のことが好きだったらしく、今でもその子の名前と同じ銘柄の日本酒を好んで呑んだりする。グループサウンズの名曲です。

ザ・ランチャーズ The Launchers/真冬の帰り道 Mafuyu No Kaerimichi (1967年) 視聴No.31

 

高3の秋に塾で付き合うことになった女子は手慣れた女で僕の家に誰もいない時に「遊びに来たい」とやって来た。僕の部屋に初めて同年代の女子が来た。僕はステレオのコンポを部屋に持ってたから、何かレコードを掛けようとPPMを選んだら、掛けて「秒」で、こっちにしようよ、と僕のレコードラックから別のLPを取り出して僕の選曲にNGを出した。

僕のチョイスがこれ。

ピーター・ポール&マリー(PPM)/虹と共に消えた恋(Gone The Rainbow)

彼女のチョイスがこれ。

Blue Lagoon

 

僕の学校は目白にあったから帰り道にカッコつけて高田馬場のJAZZ喫茶に寄ったことがあり、その時にノートを広げて散文を書いてたのだけれど、それは後々大学生になった時にエピソードを付け足してマンガに「昇華」するのだけれど、そのきっかけになった店で掛かってたJAZZがセロニアスモンク。そして、出来上がったマンガは大学生の時に描いたこれ。読み方は「川原」の「川」の書き順みたいに左上から下へと読んで行きます。

二枚目の読み順は「三」とう漢字のように一番上の左から右に読んで上から下に進めます。

それでは、曲はセロニアスモンクの「煙が目にしみる」をどうぞ。

Thelonious Monk Piano Solo – Smoke Gets in Your Eyes

 

高1の時、母が家庭教師を見つけて来た。東大の芸術学科の8年生だと言っていた。僕が、「なんで、そんなに長く大学にいるの?」と聞くと、「なるべく長く大学にいたいんだ」と答えた。僕は心の中で、「お前はモラトリアムかっ!」とツッコんだものだ。僕らは勉強の為の契約を交わしていたはずなのだが、勉強以外のことばかりしていた。スパゲティー・ミートソースを本格的に作るとか、東大のグラウンドで知らない人に声を掛け、4人対4人くらいの草野球をするとか。音楽の話をしたり、レコードを持ち寄って鑑賞会をしたり。カテキョーの音楽は主にクラッシックばかりで退屈だった。僕は、日本コロムビアから出たばかりの10枚組みのフォークソング大全集を持って行った。カテキョーは、その中のフォー・クローバース「冬物語」をとても気に入っていた。カセット・テープを持参し、「冬物語」を録音してくれとリクエストされた。僕はとんちを利かせ、こっそり別の曲に差し替えて録音しカセットを渡した。次に会った時のカテキョーの第1声は、「何だい?あの曲は?」だった。僕は石野真子のピンナップをチラつかせ、「春ラ!ラ!ラ!」と答えた。すると、カテキョーはマジマジと石野真子の写真を見て、「あなたに似てるね」と言った。頭の悪い人じゃない。きっと目が悪いのだろう。うちの父は眼医者だ。今度、父に診察させようと思った。カテキョーは大学8年生だったが、ついに就職が決まった。大手広告代理店だった。カテキョーは髪を切り、スーツをきめていた。カテキョーは、モラトリアムを卒業するんだと実感した。就職祝いに今度こそ、本当に、「冬物語」を録音してカセットをあげた。この歌のサビは、♪春は近い~春は近い~足音が近~い~♪というフレーズだから、うってつけだと思ったものです。それでは、「冬物語」と「春ラ!ラ!ラ!」を。

冬物語   フォークローバース

【HD】 石野真子/春ラ!ラ!ラ! (1980年)

 

ちょっとラジオっぽい遊びをしてみました。お別れの曲は、DJにちなんだこの2曲。サザンと真子ちゃんの共通点はどっちも1978年デビュー。僕が高1の時でした。

サザンのDJ

サザンオールスターズ-お願いD.J. – YouTube

真子ちゃんのDJ

私のD.J.


川原ルネッサンス

1/Ⅱ.(土)2025 はれ 「でーぶいでー」でおなじみ夢グループ、フジテレビへのCM出稿継続。

 

今年の抱負というかキャッチコピーは、「川原ルネッサンス」。臨床スタイルを研修医の頃のような初心に戻ろうと言う宣言です。

数学で半径「1」の円を単位円、という。
x座標とy座標がともに、「0」の位置を、角度を「0」とすると、その座標は下の黒丸だ。これは研修医の頃の「実力」で、経験値も知識も薬の使い方も知らないから、精神科医としての臨床能力値は「ゼロ」に等しい。従って出来ることと言えば、①患者を思うこと②困った人に親切にする③自分はラッキーだっただけなのだから不運だった人に力を貸すのが使命だと考える、などで使える「武器」は「己のパーソナリティーだけ」という時代で、医は仁術なり、と思っていた。↓。

これを反時計周りに、90度動かすと、こういう座標になる。↓。

さらに、90度動かすと、90+90で180度動いたことになる。
これまでと大幅に方向を変えることの表現として、180度の方向転換、などと言ったりするが、図示するとこうだ。↓。

そして、グルっと一回転すると、360度。
360度は、0度と同じ座標になる。
つまり、ものすごく考え抜いた人と何も考えない人が同じ立場だったりすることを数学的に意味しているのだと思う。違うのは、そこに至った「運動量」。僕はこれまで30年以上経験して来た臨床技術や知識はそのままに、「己のパーソナリティーしか武器が無かった」研修医の心境に戻って、患者さんの話をよく聴くようにしようと考えてる。それが「川原ルネッサンス」。下の黒丸。↓。

昨日のランチは、蕎麦屋に心理の徳田さんと原さんと3人で行きまして、寒いから「鍋焼きうどん」を食べたい気持ちと、日替わり定食が「ネギトロと真鯛のづけ丼+揚げ出し豆腐」でその「真鯛のづけ」に惹かれて迷いました。
そうしたら2人もそうだったので、店主に「鍋焼きうどん」と日替わりの「真鯛のづけ」だけを特別にセットで出してくれと頼みこんだら、「特別にOK」してくれてラッキーでした。3人でそれを食べました。真鯛のづけが酒のつまみみたいで旨かったです。

そして夜がまたしてもココ壱に。

またまた連続でスプーンが当たりました。

景品。

この写メを前に務めてた元・受付のうかいさんにLineで送ったら、「先生、もしやCoCo壱の店員さんにお気に入りがいますね!?✨」だって。なんで彼女がそんな発想になったかというと、かつてこんなことがありました。以下は昔の記事からの抜粋。↓。

僕は、カフェにはまっている。
皆さんは、アニマル・プラネットってチャンネルをみたことがあるだろうか?
文字通り、野生動物の生態を追うドキュメンタリー番組が多く、「チーターの親子」の回が面白かった。
チーターは子供(2-3匹)が生まれると父親はいなくなり、母だけで子供を育てます。チーターの獲物は主に草食動物のインパラです。チーターの武器は足の速さです。逃げるインパラの喉元にかぶりついて、仕留めます。
その時の、インパラの表情が、まるでスナックのチーママによくいるような泣き顔で、「無念…」と言って息絶えるのですが、その瞬間、笑ってるようにも見えるのです。サバンナで命をまっとうした満足感のようなものでしょうか。

さて、カフェです。僕が毎朝、そのカフェに通うようになったきっかけは、ある朝、早起きしたから、朝食を食べようと寄った時、応対してくれたレジの女の子が、「何番でお待ち下さいね」と笑顔でレシートをくれた、その表情が、
チーターに仕留められたインパラの最期の「無念…」の泣き笑いにとてもよく似ていたのです。
僕はそのカフェ特製のサンドィッチを食べながら、その子のインパラ顔のとりこになってしまったのです。もう1度、あの「無念…」の笑顔がみたくって、サンドィッチをテイクアウトで注文して、彼女の「ありがとうございました。無念…」みたいな挨拶をもらってウキウキとクリニックに行き、サンドィッチは早番の受付にあげます。受付はちゃんと朝食をとって来てるのに、想定外のお土産を朝っぱらからもらってカロリーオーバーになってしまうのですが、皆、性格がいいから、「ありがとうございます」と受け取って、そのサンドィッチを3つに分けて受付3人で食べてたそうなのです。そんな僕の心のオアシスだった「カフェのインパラ娘」みたいのが今はココ壱にいると睨んだようなのです。女の勘は怖いですね。でも大丈夫、CoCo壱は男の店員しかいないから、カフェの二の舞ではありません。

川原ルネッサンス、というスローガンを掲げてから、サンリオの懸賞から始まって、蕎麦屋の「特別メニュー」の希望が通ったり「ココ壱のスプーンが連続で当たったり」くじ運がめちゃ良いです。これは、きっと神様が、その方針でいいぞ、という印をくれたみたいで、「風向きはいいぞ。風に逆らわずに行こう!」と僕はこのメッセージを大事に頑張ろうと思うのです。

BGM. よしだたくろう「まにあうかもしれない」


寿司で友を偲ぶ

28/Ⅰ.(火)2025 はれ 大谷翔平の首振り人形が届く。

昨日は休診日だったのでフジテレビの会見をずっと見ちゃいました。4時から「イット!」に始まり予定を変更して放送が続く。日を跨いで1時までCMが一切なく、まるでNHKの国会中継みたいで民放じゃないみたいでした。僕はトイレに2回行っただけでずっと見てました。東京新聞の女・記者がガヤで騒いでたり、怒号が飛び交ったり質問者の質が悪かったり動物園のようでした。10時間やってましたよ。バカみたいですよ。それをずっと見てた僕が一番バカですね(自爆)。

落語の「野ざらし」の枕にこんなのがあります。「バカと言っても色々ありますが、バカの番付というのがあるらしく、西の横綱が『醤油を一升飲んだ奴』。確かに醤油を一升も飲むなんてバカですね。それを抑えて東の横綱に輝いたのが『つり、をする奴』。なんで、つりをする奴?ですって。つれるかつれないか分からなにのに何時間も糸を垂らしてるからバカだということだそうです。『おい、あいつ、バカだよ。釣れもしないのに10時間もああやってやんの』『確かにバカだな。しかし、なんであいつが10時間もやってるなんてわかるんだ?』『だって、俺、ずっと見てたもん』『あっ、お前が一番バカだ』」ってのと同じですね。

僕がそんなテレビを観覧してる最中、スマホのグループLineは稼働しっぱなしで、それと言うのもこないだ死んじゃった旧友の「偲ぶ会」をやろうという集まりで、①彼(死んだ奴)の死因の病気は何だったのか~病状をあまり誰にも喋ってなかったから断片的に皆が知ってる情報を拾い集めてパッチワークのようにして分析してた~、②彼はどんな生活をしてたのかという家族背景など~孤独だったようだ~、③彼は死ぬ間際どんな話をしていたのか~これも人によって話してる時期や内容が違うから繋ぎ合わせて~、結局、彼のことを皆んな「何も知らなかったなぁ」と共有しまして。

僕は彼が死を宣告されて医者にも見放され一時退院した時に行きつけの寿司屋に連れて行ったのが一緒に呑んだ最期。高級な寿司屋はどこも今は予約制でコース限定で自分の好きなペースで自分の好きな物だけ食べる(例えば、いきなりウニを食べたい、とか、穴子だけ20貫)って訳にはいかないから。大岡山の寿司屋ならワガママが言えるので、彼は色々食べたいけど病気でたくさんは食べれないから、連れて行った訳です。

 

その寿司屋にこないだ行きまして、世話になったから「死んだ」ことを話したら彼が最期に呑んでたものと同じのを「献杯」してくれました。ホットウヰスキー。「一緒に呑んでる気分で」だって。

僕は楽器正宗。福島のお酒。

自家製塩辛をつまみに。

ハマグリ焼き。

のれそれは、穴子の稚魚。

だったら「親」の穴子もつまみで。

彼は寿司をつまみながら呑むのが好きだったから今日は「握り」で呑もう。ながざる貝。フルーティな味。

とろさわら。

これはブランド物らしい。タグがついてる。三重県の物。

ぶどう海老は、幻の海老、と言われています。

頭もバリバリ。

ヒラメ。

鬼かさご。

ほんま赤身。

中トロ。

青柳。青柳は土地の名前で正式名称は「バカ貝」。

本ミル。

白イカ。

サヨリ。

炙りホッキ。

小肌。

数の子。

5日熟成カンパチ。よく噛んで食べるとトロッとした味わいになります。

カツオはニンニクで。

クジラの尾の身。

イクラとウニ。

甘エビの味噌汁。

 

立川談志がよく言ってたジョークをひとつ。ある男がひとりで店に来るが必ず「ふたつ」酒を注文する。誰かと吞んでるように「ふたつ」頼むから、バーテンが気になって「失礼ですが、いつもふたつ、頼まれていますが」。「あっ、いやこれは遠く離れた友人を想って一緒に呑んでる気分に浸っているんです。いえ、彼は遠くでちゃんと生きています」。ある日、その客が来て今日は「ひとつ」しか酒を頼まない。バーテンが気になって「ご友人に何か?」と尋ねると、その男、「いや、彼は元気です。ただ、私が禁酒したのです」だって。

BGM. よしだたくろう「おきざりにした悲しみは」


談志の命日

21/Ⅺ.(木)2024 雨 きのうの午後休んだせいで今日は混む。

もう今年は大々的に談志の追善興行はやらないらしい。という訳で、ここでは談志の供養の記事に。まずは昔の記事の抜粋から。

①6/Ⅲ.(日)2011
新百合ヶ丘で、立川流一門会。
新百合で談志をみるのは、2度目だ。1度目は、談志に癌がみつかった直後の落語会で、ワイドショーのレポーターがいっぱい取材に押し寄せて来てた。その日の談志の演目は、「居残り佐平次」だった。


「居残り佐平次」を、ある落語評論家は「落語の品位を落としている」作品だというが、談志は、これこそが落語の料簡だ、という。
佐平次は、人生成り行きと決めつけ、金もないのに何人も引き連れ女郎屋でさんざん飲み食いし、夜中のうちに連れを帰し、自分が居残りをする。居残った後もまるで反省の色はなくいい加減の限りを尽くすが、これが全部うまく行く。
川島雄三という人気の映画監督が、フランキー堺・主演で「幕末太陽傳」という映画にしている。「幕末太陽傳」でも、落語の原作でも、佐平次は肺病を患っている、設定になっている。しかし談志は、佐平次を肺病にしなければいけない理由が判らない、と、談志の落語では、佐平次が肺病だという描写はない。
ところが、談志は癌になった。癌を患った談志が、「佐平次」を演じる。命をかけて悲壮なまでに「いい加減」を演じる談志。まるで、ジグソーパズルの最後のピースがおさまったみたいで、談志は、この日のために佐平次を病気にしないでとっておいたのではないかとさえ勘繰りたくなった。その日に立ち会えたのは、僕にとっては今では勲章のように思っている。

②23/ⅩⅠ.(水)2011 勤労感謝の日 寒い、少し雨
夕方、寝ていたら息子に「談志が死んだ」と起こされた。
寝ぼけて、「ダンス・ハ・スンダ?」とミカ・バンドの歌かと思い聞き返すと、「立川談志が死んだんだよ」と大声で言われた。そりゃ、大変だ、とあわててTVをつけると、4チャンが特集みたいにしてやっていたから、それを観ていた。談志は「笑点」の初代司会だから、4は力を入れたのかな?ゲストが始めは「きくぞう」だったが、後半に円蔵(昔の円鏡)が加わったのは良い人選だと思う。円鏡は何度も、「洒落じゃないの?なさけないなぁ。生きてなきゃ。洒落じゃないの?」と画面越しにもガッカリしてみえた。
談志と円鏡と言えば、「談志・円鏡の歌謡合戦」という番組が伝説だ。
談志の言うイリュージョンの世界だ。今はCDで聴ける。↓。


談志はおととい亡くなったらしい。
息子が、夜の9時から「ニコニコ生放送」が独占で遺族による記者会見をするという情報をゲットしたので、8時半くらいから2人で、パソコンの前に椅子を並べ、中継を待った。すると、8時51分に、「ご遺族の意向により、中継中止となりました」というテロップが流れた。
ここに一冊の手帳がある。これは、1999年8月10日から2000年11月30日までの、談志の「ひとり会」や「独演会」に行った時に用いたものだ。↓。


爆笑問題の太田光が何かで談志と落語について語っていたことがある。
落語には‘まくら’と言って本題の前にウォーミングアップみたいな小話が入る。
そこで談志は漫談のようなことを長々と言うのだが、そのジョークの数々がウイットに富み、毒を含み、社会に切り込み、そして爆笑をさらう。
それは自分たちの漫才よりもすごいものを見せつけ、その立川談志が談志よりも落語はすごいのだと言って見せ付けられる「落語」にはかなわない、という様な趣旨のことを言っていた。

僕はこの手帳に、その‘まくら’のジョークを走り書きでメモした。
その日の着物の様子も後で思い出せるようにスケッチした。↓。


国立演芸場の「ひとり会」は毎月欠かさず通ったし、その他の「独演会」もほぼ追っかけた。99年8月10日の「ひとり会」の前座は、アンジャッシュと底ぬけエアラインが出演。NHKの「オンエアバトル」の審査員を談志がして、目をかけた彼らを「ひとり会」の舞台にあげたのである。12月9日の「ひとり会」の前座は志の輔がつとめ、談志は「もったいない前座。今度は、小さんを使おう」と自分の師匠である小さんの名前をあげたりしていた。2000年になると、談志の体調は悪くなり、落語が出来ず、テリー伊藤や毒蝮や山藤章二が舞台にあがりトークをしたりした。ファンは、それで十分だった。ただ、そこに座って、お茶を飲んだり、居眠りしてるのを見てるだけで十分だった。しかし、談志自身が一番それを嫌った。ファンに満足行く落語を見せれない葛藤を吐露していた。
1月11日の「ひとり会」は前座の後、談志が出るかと思いきや、何と突然、円楽(笑点の司会をしてた、もう死んだ人の方)が登場して「蒟蒻問答」を一席演じた。
談志は、普段から「笑点は俺が作ったんだ。あいつらは、俺のおかげで食えてるんだ」みたいなことを言い、円楽のこともバカにしたりしてたのに、談志のピンチに円楽が駆けつけるとは思わなかった。
皆、ビックリして、そして歓迎した。円楽が舞台を下りると、談志が登場し、
「風邪で今、ボーっとしてんだよ。それで、俺よりもボーっとしてる奴、前に出しゃいいと思ってね」と憎まれ口を叩いて、友情への感謝の表現としていた。
そして毒蝮や山藤章二や西丸震哉も壇上に上がり、座談会をしようということになり、円楽も呼ぼう、ということになったら、楽屋から「円楽師匠、お帰りになっちゃいました」という声。
ヒーローは颯爽と登場し、ピンチを救うと、姿を消す、みたいな感じだった。
だけど、円楽の方が、先に死んだんだよな。
久しぶりに、「ひとり会」のビデオでも観てみるかな。↓。


二期のサインには、「遺言がわりに…」と書いてある。
2000年正月だから、上記の円楽が助っ人に来た頃だ。↓。


せっかくだから、メモ帳に書かれてる中味を少し紹介しましょう。
・野球好きの2人。先に死んだ方が、天国にも野球があるか知らせようと約束。
1人が死んで、約束通り(幽霊になって)やってくる。
「良い知らせと悪い知らせがある。良い知らせは、天国にも野球がある」。
生きてる方は喜び、<で、悪いのは?>、「来週の火曜、お前が先発だ」。
・「あなた!変なことすると妹を呼ぶわよ!」。
<じゃ、俺も弟を呼ぼうか?>。
・酒は人間を駄目にするのではなく、酒は人間が駄目だということをわからせるためのもので、呑んで後悔するためにあるもの。
・「人生は真面目に生きなさい」って言うけど、「そうはいかないよね。いいんだよ、ちゃんとしなくって」というのが落語だった。それが、近頃、みんな、ちゃんとしなくなって、落語家が「ちゃんとしよう」と言わなくちゃいけなくなった。これを「末世」という。
・「芸人ってのは、どんなにつらくても客にサービスをして」って言うでしょう?
オレ、そういうのないから。
嫌でしょ?オレがそんなことしても。お互い、嫌な思いしても。
・(横山ノックが訴えられた時)芸能界では、女の人が来たら、お尻触ってやるのが礼儀ですよ。触り方に、センスがいるんですよ。
・オレん所に来る客は一筋縄でも二筋縄でもいかない連中。良く言えば、マニアック。社会から認められてない連中。傷を舐め合ってるんだ。
・(国立演芸場での「ひとり会」は今日でおしまい。毎回「ひとり会」の券を買うのが大変だったという話から)。「もう走らなくっていいから。ごめんね、苦労かけてるって知らなかった。でも、知ってると、心配したり、変に優越感にひたったりするから。また、どこかでやる。引退なんて言ってないし、できない」。
2000年3月9日。
・酔っ払って、最後にチンポコ出して踊ってるんだ。一緒に連れてった、(ビート)たけしも出すよ。小朝は出さないんだ。ここに差がある。下品ね、って言われりゃ、それまでだけど。円楽は出さないね。志ん朝は出すかな。勘九郎は出すね。意外に、染五郎は出すと思うよ。鶴瓶は出すね。
ざこばは、言う前に出すよ。こういうところに差が出るんだよ。

ここからは、カワクリでみれる談志関連のものの紹介です。

まずは化粧室を出た正面にある談志コーナー。談志の訃報を伝える新聞紙の一面は「談志が死んだ」。

これはチケット。

談志の「志」が週刊誌の「誌」にミスプリされてる珍しいチケット。

診察室の本棚から。

談志がアメリカに落語を布教させようとデーブ・スペクターに監修させて作った英語字幕のビデオ。

診察室の本棚2。

談志のCD「アメリカ」。

「談志の遺言」という新刊が販売された時に、娘の弓子さんがいたのでサインを頼むと、それは謙虚に、「私でいいの?」と聞いて、「人生成り行き、立川談志byゆみこ」と書いてくれました。クリニックにも1冊買って来たので、見てみて下さい。


談志とたけしと太田の対談本。談志の言う「落語とは人間の業の肯定」とか「イリュージョン」とか「江戸の風が吹く」などの意味がわかります。クリニックにも置いておきますが、自分で買ってもいいかも。

サイン色紙。診察室から。

待合室から。

以上こんなもので、今日はおしまい。

BGM. 太田上田「人生で一番緊張した瞬間について語りました」