夏休みの自由研究~川原達二の作り方 2024

19/Ⅶ.(金)2024 はれ、暑い トランプさんの銃撃事件のTシャツ早くも売り出される

母は2006年3月19日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもその墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこに寺があることもしらなかった、縁もゆかりもない場所です。何かの歌にあったけれど、墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのです。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月はお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は母に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。

(2)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

(3)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と現代そば事情を嘆いた。僕は、この親子はアベコベだな、と思った。

(4)ある日、母は僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来た。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいた。聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言っていた。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるのが、かわいそうで、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(5)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(6)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたのだが、そのシーズンは旅館も混んでて、サービスが悪く僕は不機嫌。口もきかないから、母は困って、結局、この旅行は一泊もしないで、わずか数十分で帰って来る。大学の入学式。大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていた。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて「こんな奴らと一緒にされたくない」と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰ってしまった。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑っていました。どっちの場面も怒って良かったんじゃないかと思う。

(7)兄の結婚式。僕は間に合うように家を出たのだが電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻。結婚式の途中で、バタバタと親族席に遅れて到着すると、母はホッとした顔をして、振り向いて笑っていました。

(8)母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないんですよね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも母の「ロースト・ビーフ」には劣ります。しかし、あの味は、もうこの世にないのです。母は、息子のお嫁さんたちに、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったからです。

(9)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出して、考えます。母は、僕の心の中にいると住んでいます。母はもう死んでいないから、美化されていて、お得です。

(10)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつけた。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいから。茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。

(11)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、という同じシーンがあった。その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、サザエとフネが青ざめるというものだった。僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」。母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(12)川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。そして、父が母に言いました。「達二の看病をしてあげなさい」。母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(13)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)あれは何だったのか、いまだに判らない。

(14)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。

(15)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥◎』とっくにつぶれてる。

(16)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(17)子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、どうでしょう?」と笑いながら答えた。

(18)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(19)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。カワクリは法人化して、医療法人綾枝会、になる。綾枝会の綾は、母の名前からとった。母はここのクリニックをみることなく死んでしまったが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(20)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。語呂合わせの巻。11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金<気持ち」である。僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(21)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。

(22)僕には、いじめられ体験がほぼない、が、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。男の子のプライドを大事にしたんだと思う。僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(23)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(24)母はバレンタインに毎年、それこそ死ぬまでチョコレートをくれた。皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなライン。中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。ま、僕は嘘もついてないし。しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(25)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、「俺も舐められたモンだぜ」と思った。結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。パ・チンコなのにね(笑)

(26)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、おれの形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(27)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。おしまい。アーメン。

BGM.  さくら学院「秋桜学園」


君にメロロン 2024

17/Ⅶ.(水)2024 くもり 真美子さんと「2人で楽しく歩きました」 手繋ぎエスコート、大谷が初の夫婦レッドカーペッドに笑顔

朝のワイドショーは大谷のデコピン裏地スーツで持ち切り。スーツの裏地にデコピンがいっぱい。

 

今月はお誕生日月なので、一部のファンから、焼き直し記事も掲載して欲しいとリクエストがあったという事で❣️、今回は「恋に恋する年頃」の記事です。さて、今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

うちに出入りしていたちょっと変わったお姉さん。その人の家によく遊びに行った。南湖のあたりのスーパーの店先で、焼き鳥を買ってくれた。ポップなフラワー・ムーブメントなシールもたくさんくれた。僕はそれを家中の窓ガラスに貼ったら、母とお手伝いさん達が必死にはがしていたっけ。その時、僕が思ったことは、「シールって貼るのは簡単だけど、はがすのは大変だな」、ってことだった。そのうち母は、その人と遊んではいけない、と言った。理由は、ふしだらな女、だからだとか。そんなことを小学校低学年生に言っても判んないだろうに。それに、仮にその人がふしだらでも、僕にとっては良い人だったから僕の評価は変えられないのに。「ふしだら」、で思い出したのだが、「だらしない」とは本来は「しだらない」という言い方だったらしい。いつの世も逆さま言葉は流行るらしく、「しだらない」が「だらしない」に取って代わったとか。

僕の小学校は女子高の付属で中高は女子校で、小学校だけ共学だった。道を一本挟んだ敷地に中高の校舎があった。そこの体育館倉庫のそばに、ミリンダの自販機があって、本当はいけないのだが、僕は休み時間に買いに行っていた。バレるとヤバイから、体育館倉庫の中で、ミリンダ、を飲んで小学校校舎に戻る、ということをこっそりしていた。すると、その体育館倉庫の中には、隠れてタバコを吸っている女子高生がいた。僕らは弱味を握り合い、ここはお互いのために秘密にしようと、共犯関係になった。僕らはほぼ毎日、体育館倉庫で落ち合った。彼女は何かの運動部に所属していて、その顧問の教師と内緒で付き合っているのだと打ち明けた。でも、それはリンリ的にイケナイことらしかった。僕はえらそうにミリンダを飲みながら、「ふ~ん、リンリ的ねぇ~」などと応えていた。彼女はあまり頭の良い生徒ではなかったようで、僕と彼女の年の差を、簡単な引き算なのに、指を折って数えていた。その数字が自分と教師の年の差より小さな数だったらしく、「よし!」と僕に乗り換えることにすると宣言した。そして僕は、「将来、この人と結婚するのかなぁ」とボンヤリと思った。それから数日後、彼女は体育館倉庫にパタリと姿を見せなくなった。おかしいな、と思って、放課後、正門でまちぶせしていたら、彼女がやって来た。明るい陽の下で逢うのは、初めてだった。僕は「最近、どうしたの?」と聞くと、彼女は「あんたのお父さん、PTA会長なんだって?」、「そうだけど」。「身分が違うよ!」と彼女は目を合わさずに、そう言った。僕はそんなこと関係ないじゃん、と言いながらも、「この人は障害付きの恋に恋する人なんだ」とも思った。だけど、風の噂で、彼女は卒業してから、その教師と結婚したと聞いて、「そいつは良かった」と思ったものだ。

うちの実家は眼科の開業医でたくさんの従業員がいて、僕は末っ子なので、大人たちから可愛がられていた。僕とよくキャッチボールをしていた男の人は野球とギターが上手な、ギッチョの好青年だった。僕が淡い恋心を寄せていた女性とその人が付き合っていると知った時には、お似合いだと思って、祝福した。だけど、彼女の国籍か家柄がネックで、結婚は出来ないという話を聞いた時にはショックだった。僕はもうハイティーンだったので、ある程度の事情も理解できるつもりだった。僕は彼女と茅ヶ崎の海岸を海水浴場から辻堂の方向に話しながら遊泳禁止区域まで歩いて来た。江ノ島が僕らに近寄って来る。僕は僕なりに良いアドバイスをしたつもりだったが、彼女は「タッちゃんは、まだ子供だから判らないのよ」と馬鹿にした。すると、急に雨が降り出して、まるで彼女の涙雨みたいで、僕らは濡れネズミみたいになったから、大慌て。海辺から近くのパシフィックホテルに駆け込んだ。家に帰ったら、父がパシフィックのことを、「昔は一流ホテルだったが、今は連れ込みホテルになった」と嘆いていて、少し焦った。後にサザンが「夏をあきらめて」で同じような光景を歌っていたから、僕は桑田にこのこと喋ったっけ?と頭をひねったものだ。茅ヶ崎の海には、潮から町を守るように松林が立っていた。そこのある区域に、ホモの浮浪者がいて、僕が通りかかると、「坊ちゃん、こっちへおいで」と自分の物を露出させて不気味に笑った。僕はムシャクシャしていたから、騙された振りをして、松林の中に入って、油断した男の顔面に膝蹴りして逃げた。そうしたら、その晩、複数のホモの浮浪者に追いかけられて蹂躙される夢にうなされた。どっからどこまでが夢なのか、判らない。

僕が東中野に住んでる頃。高校の先輩とたまたまご近所で出くわしたら、友好的で、「これから家に遊びにおいでよ」と豪華なマンションに招待された。地下の駐車場にはジャガーというアメ車があって、先輩はそれを乗り回してると言った。良いのか?高校生がジャガーに乗ってて。「巨人の星」の花形満じゃあるまいし。「僕はこれから家庭教師と勉強だから、彼女が来るから相手してて」と言い残して部屋に消えて行った。僕はだだっ広いリビングのソファに一人でいると、その彼女という人が入って来た。大理石のように冷たい表情の美人で、僕は軽く挨拶をした。彼女は、「隣に来ない?」と誘ったり、「吸う?」と吸いかけの薄紅いタバコを手渡そうとしたりした。「いえ、煙が目にしみるから」と僕はプラターズのヒット曲のように断った。が、何だ、これは?誘惑してるのか?
そもそも、あの先輩は何のつもりだ?家庭教師なんか来ないじゃないか。そうか、きっと俺たちのやりとりを部屋からこっそり見てて、こっちが女に手を出したら、「俺のスケに何してんだ?」って美人局みたいに出てくるつもりか?それとも、倦怠期のカップルが刺激を求めて、チェリー・ボーイを交えて倒錯的な趣味に走るつもりか。3Pとか。「ん~、弱ったものだ」と頭をフル回転させてると、先輩が部屋から出て来て、驚いたことに後ろに家庭教師がいた。「あれ?本当に勉強してたの??家庭教師、いつ部屋に入ったの?あっ、先にいたの?じゃ、3Pは?なし?」。よく聞いたら、ジャガーも父親が運転するのに同乗してるだけなんだって。普通じゃん。馬鹿みたい。

高3の塾の夏期講習は泊まり込み。そこの女子たちに誘われて夜中に女子寮に忍び込んだ。僕はその中の一番勝ち気な子と仲良しで彼女の布団に潜り込んで話をしていた。「初恋の相手はどんな人?」の質問に、「石野真子かな」、と答えたら、「それは恋じゃないでしょ?」と怒られた。うわ、面倒くさいパターンの奴だ。その女子はカリメロに似ていたが、石野真子の悪口を言うたびに、表情は邪悪に変化して、最終的にスターウォーズのヨーダに見えた。そして、他の間抜けが寮長に見つかった後は一網打尽。僕らはそれぞれ、呼び出されて怒られた。しかし、彼女は勝ち気で、怒られてる時に僕の片腕を閂の要領でギュっと自分の方に引き寄せて、講師たちを睨みつけた。「私達は付き合っているんだから、誰にも邪魔はさせない!」と啖呵を切った。彼女の胸が腕に当たる。「あぁ、僕は将来この子と結婚するのかな」と思った。顔はヨーダだけど。後で寮長に僕だけ呼び出され受験で恋愛すると、女は受かるが、男は落ちる、と言われた。頭ごなしに否定されると、恋の炎は逆に燃え上がる。西城秀樹じゃないけれど、やめろと言われても今では遅すぎた。亀の甲より年の功、大人の意見もたまには合っていることがあるから注意が必要だ、という意味だったと思う。その子は受験直前に、頭の良い浪人生の男子と付き合うことにした、と僕に一方的に通告した。それならそれでこっちは良いのだけれど、何が情けないって、「あれはないよな」と不細工な男どもに同情される現実だった。そっちの方がきついよ。で、寮長の予言通り、僕だけ大学に落ちるのである。そして、僕は予備校を代ゼミに変えて浪人生活をした。その時の様子は、受付カウンターのところに貼ってある「浪人の頃」に書かれています。

これは左側の上から下に読んで行くのが順番です。
「川原」の「川」の字の書き順と同じ要領で読む、と覚えると良いでしょう。

浪人の夏休み。高校の同級生のお姉ちゃんが美人だと言う噂を悪友から耳にした。冗談で、「ネェちゃんのパンティ盗んで来い」と命令したら実物を連れて来た。それは、ものすごく美人だった。アイシャドーがブルーでエンジェルフィッシュみたいだった。まぁ、浪人生が女子大生を見たら、誰でも、そう見えたのかもしれないけれど。「お姉様ですか?始めまして」と挨拶すると「弟から伺っていますわ」、「はて?何を?」、「パンティー」。そして、彼氏も連れて来ていた。その彼氏とやらは、衣紋掛けみたいな男だった。僕らは、ボーリング場に行くことになり、そこで僕は、ボーリング対決、を申し込んだ。スコアの良い方が彼氏になれる、と。姉はその話に乗った。衣紋掛けは、ぶつくさ文句を言っていたが、僕はまるでシカトした。そして、僕は川原史上最高点、自己ベスト216を叩き出した。衣紋掛けは、90くらいだった。だけど、それから先は、何もなかった。冷静に考えれば、球転がしで男を決める女もどうかと思うし、二年連続、女で受験に失敗したら馬鹿みたいだし。だからこの話しはここまでで、オチはない。受験生だけに。

大学に入り誰かの知り合いの女子高生と富士急ハイランドに4:4でピクニックに行った。富士急には迷路があって、あみだで決めたカップルでペアになって入った。僕らのカップルだけなかなか出れずかなり皆を待たせた。僕はもうこのまま迷路から抜け出せなかったら、「僕はこの子と将来結婚する羽目になるのかな」と思って焦ったがなんとか脱出出来た。僕らが最後に出て行くと、それぞれのカップルは良い感じになっていて、「ヒューヒュー」と僕らを冷やかした。それ以来、富士急はトラウマ。

大学に入って初めて行った合コンは人数合わせで、当日に誘われた。僕は合コンの作法を知らず、ガンガン呑んで、途中から記憶がない。翌朝、起きたら、左腕に見慣れぬゴールドのブレスレット。昨日の女の誰かのに違いない。そうしたら、その晩、女から電話があって、ブレスレットを取りに、僕の家まで来ると言う。それは嫌だから、なんとか中央線のどっかの駅のサテンで待ち合わせすることにした。女は別に怒っていなかったが、「合コンでああいう呑み方は駄目だ」とか「女の子の扱い方」をレクチャーし出した。途中から面倒くさくなったので、話は聞かないで、表情筋の動きだけを観察していた。感想は、「よく動くなぁ」。すると、女は僕が素直に話を聞いてると勘違いして、調子に乗って喋り続ける。僕はさらに目をこらし、皮膚の下の骨を透視して、そうしたら骸骨がガクガク動いてるように見えて、面白くなって来た。笑いをこらえるのに必死で、お尻をつねったりした。そんな僕の我慢が、真剣さと勘違いされて、好意を持たれてしまった。彼女は決して悪い人ではないが、僕の好みの外見ではなかった。何故か、僕と彼女とその妹の3人でボーリングに行くことになった。昔は中野の丸井の上にボーリング場があった。妹は、ションベンライダーの河合美智子にちょっと似ていた。僕らは仲良くなった。当時、僕は東中野にほぼ1人暮らしだったから、家は乱雑だった。その子は家に来て掃除をしてくれたりしたから助かった。お礼にデート。当時は千葉に東京ディズニーランドがオープンした頃だったが、僕は「ああいうのは愚民が行くものだ」、と思っていたから、東京タワーの蝋人形館とか目黒の寄生虫館をチョイスしたけれど、彼女は普通の女の子だったから、もうちょっとロマンティックな物を望んでいたのかもしれないな。その後、彼女と何があったか忘れたが、どこかから一切、連絡をとらなくなった。ケンカとかしてないと思うけど。でも、きっと原因があるとしたら、僕が悪かったんだろうな。

医学部の同期だったマリちゃんに、僕は猛アプローチをしたが、周囲からは「嫌われようとしてるとしか思えない」と言われた。僕の出した暑中見舞いをマリちゃんのお母さんが見たらしく、マリちゃんに「お母さんが気持ち悪がっていたよ」と言われた。頭に来たから、こけし、の形をした封筒で手紙を送った。案の定、マリちゃんより先にお母さんがそれを開いた。中の便箋には、「お母さん、見てる?」。とだけ書いておいた。マリちゃんに、「お母さん、恐がっていたよ」と言われた。そんなマリちゃんと僕は今じゃメル友です。こないだ何かの話の流れで、「マリちゃんは皆の心のマドンナだよ」と書いたら、「いまだにそんなことを言ってくれるのは川原君くらいよ」と返事を貰った。僕は、「あっ、ところで、このメール、旦那さん見てないよね?」と尋ねたら、「見てないよ。なんで?」って聞かれた。そうかぁ、何も覚えてないんだぁ。

大学の近所のフィリピンパブで勤めてた日本人の女の子について。店がはねてから、「自分の家で呑み直そう!」と誘われた。断る理由もないから付いて行った。すると、家に着くなり、彼女は「ちょっと待っててね」と言って、神棚を開いて、お経をあげ出した。それは簡素なものだった。それから彼女は、店からくすねて来たというウイスキーのボトルをバッグから出して、「呑もう!」と言った。僕は、「あなたの信じてる神様は、こういうことして怒らないの?」って聞いたら、黙り込んじゃった。次の日曜日、彼女は僕のアパートに来て、部屋を掃除してくれた。お礼に近くで、ビールでもおごるよ、と蕎麦屋まで歩く道すがら、彼女は「日曜の昼間に歩けるなんて嬉しい」と言った。僕はなんとなく「僕は、この人と結婚するのだろうか」、と思った。しかし、国家試験が近くなり僕は店に行かなくなったし、彼女からも何のアクションもなかったから関係は途絶えた。何年か経って、気になって、その店のあたりに行ってみたが、それっぽい店はいまだにあったが、店名も変わっているし、もうさすがにその子はいまいと思って、店には入らずに帰って来た。ただそれだけのこと。

僕の国試の勉強はアパートの近くのカフェテリアで開店から閉店まで。僕は朝からモーニング、昼はランチ、夜はハンバーグドリアを食べて勉強した。地元の奥様が通うような店。お店は3人の女性がいて、毎日、勉強に通う僕を暖かく迎えてくれた。僕は背中越しに、3人が見守ってくれてる気がして、1日中勉強を頑張れた。クリニックのカウンターテーブルはそのイメージで作った。勉強しに来る子を受付が見守ってあげるイメージにした。この店も気になっていて、何年か前に行ってみたら、もう区画整理にあって、その店の入っていたビル毎、消滅していた。

クリニックに飾るポスターのラミネートをしてくれる文房具屋の女の子は、最近、急に綺麗になった、と思っていた。そうしたら、先日、向こうから、「お酒は呑めますか?」と聞かれ、呑みに誘われた。その事を受付に話したら、「それは逆ナンですよ!まさか、行く気ですか?」とちょっとしたバッシング。彼女は僕がポールのコンサートに行った時のユニオン・ジャックのネイルに感激していて、「男の人のネイルって素敵ですよね。なのに全然浸透してなくって」と嘆いていた。文房具屋の上司が言うことには、彼女は来週でお店をやめてしまうのだそうだ。これからは、ネイリストを目指すそうで、それでずっと僕のネイルが気になってたらしいのだ。なるほどね。それで僕を誘ったのか。ネイルをする男に興味があったのね。そういう事か。植木等の「スーダラ節」ではないけれど、俺がそんなにモテるわきゃないよ、だ。でも、なんか清々しいオチだ。あまりに清々しいから、今度一緒に飲みに行く約束をした。男の上司も一緒に三人で。なんで文房具屋の女の子の送別会に僕が参加するのかという疑問も残るが。ま、細かいことは気にしない。人生、成り行きだ。

BGM. 中川翔子「君にメロロン」


僕が精神科医になった訳 2024

13/Ⅶ.(土)2024 久しぶりにはれ 今日22時よりABEMAにて「撫物語」第2話なでこドロー其の壹、無料独占配信開始!

フェリーに乗って帰宅途中。どこかの島で散々遊びつくしたのだろう。すっかり疲れて愚図った顔をしている、それなのに帰路の船の中「まだ帰りたくない」って泣いてわめいるのは子供の頃のボク。それを横でみてるのが大人になった今の僕。まわりには母や兄や親戚のおじさん&おばさん(共に教師)、いとこや従業員のお姉さんたちが10人以上。みんな小さなボクをなだめてて、大きな僕の存在には気付かない。見えないみたいだ。

僕は今でも飲み会で「はい、お開き」となっても「まだ帰りたくない。もう一軒行くぞ」と先輩や後輩たちを困らせる。みんな「明日は朝から用事がある」と。だから僕はすねて「もうあんな奴らと飲まない」と飲み会に参加しなくなった。フェリーのボクと何も変わらない。

季節は夏か。島で大きな浮き輪を持って大笑いしてはしゃいで走り回ってよく動いている。海の上で転覆して泳げないから誰かに救出され、泣いたカラスがすぐ笑って、走り出したかと思ったら転んでケガをして膝小僧から出血して、その血をみて兄が卒倒する。落ち着きのない子供だから怪我ばかりする。10人くらい大人がいるから何とかみれてる。これだけ動けばよく眠れるだろう。食べ物は好き嫌いがあって、玩具を買ってもらって夢中になるが結局うまく操作出来なくって放り投げる。教師であるおじがそれを拾って使い方を教えるが興味を失くしてるから見向きもしない。

ピアノとか絵画教室とか書道とか学習塾とか習い事もいくつかするが勘だけ良いから最初こそさっさと出来るが壁にぶち当たると投げてしまう。ちょっときつく言われるとヘソを曲げてもう何もしない。母は根気強く怒らないでボクが嫌だと言ったら無理強いせず次の物をあてがった。こんな育て方をしてたら将来こらえ性のないロクな大人にならないぞ。言う時はビシッと言って、怒る時は怒らないと本人のためにならないんじゃないか?

フェリーは島から離れどんどん港に近付いて行く。旅の終わり遊びの終わりだ。わめき疲れてボクはお姉さんの腕の中で寝息を立てている。この時分の性質や性格が奇跡的に矯正されないまま、今の僕になったかと思うとちょっとゾッとする。とはいえ人間は社会的な動物だから、福祉うんぬんではなく、何か弱ってる個体がいると周囲の個体が守ってあげようとするのか。ボクはそんな風に誰かに助けられながら甘やかされながら今日まで生きて来た。人間は支え合いだというが、それはギブアンドテイクしてる人が言うもので、ボクのような人間があまり偉そうに言うことでもないな、とフェリーの中で僕は思った。

 

以上、夢日記でした。さて、今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。今月はお誕生日月なので過去の記事を手直しして自己紹介の代わりです。

 

僕の家は眼科で二人兄弟だから、将来の親の希望は、父と兄と3人で眼科を大きくすること。そういうのを「是」とする時代だった。僕は物心付いた時から、医者になることになっていた。勿論、その後の人生で、思春期や反抗期はあったけど、僕は医者になった。それは眼科医になる、のではなく、精神科医になろうという強い意志があった。医者になるには医学部に入り全教科を勉強して全教科の国家試験をパスしないといけない。だから、逆に言えば、医師免許があれば、何科にでもなれる。僕に対しての約束は、医者になることだったから医者にさえなれば何をやっても良いとも言えた。
僕の生まれは茅ヶ崎の海側で、そこは別荘地の多い温暖な風土だった。幼稚園の頃、近所をブツブツと独り言を言いながら、乳母車を引いている貧しそうな老婆が徘徊していた。老婆は乳母車に古い赤ん坊の人形を乗せていて、その人形を本当の赤ん坊だと思っているという噂だった。すずめ、を捕まえて食べてるという噂もあった。僕は母親やお手伝いさん達に、「タッちゃん、あの人に話しかけてはダメですよ」と教えられていた。ある日、狭い路地で老婆と鉢合わせた。
僕は思わず、「すずめ、って食べれるの?」と聞いた。すると、老婆は「坊や、そんな可哀想なことをしてはいけないよ」とビックリするほど、優しい声で言った。僕は一瞬で、この人は良い人だ、とピンと来た。すると、そんな気持ちが以心伝心、彼女にも伝わったらしく、僕らは仲良くなった。老婆は乳母車から赤ん坊を抱え上げて、「ほら、こうするとお日様が透けて見えて綺麗なんだよ」と僕に教えてくれた。セルロイドの人形に夕陽が差し込んで、それはキラキラと反射して輝いて虹のように見えた。しかし、僕はこの事は、親には秘密にしておいた。
同じ頃、似たような事件があった。
僕の実家は広大な家だった。だから、時々、「乞食」(←これは不適切な表現なのでしょうが、差別を助長する意図ではないので使用します)が来た。母親やお手伝いさんは、「タッちゃん、乞食が来たら、食べ物をあげちゃダメですよ。クセになってまた来るから」と言った。僕は言う通りにしていた。ところが、ある日、僕しか家にいない時に、勝手口から、女の乞食が、「何か恵んで下さい」と入って来た。僕は、「お前に、何かあげるとクセになってまた来るから、やらない」とピシャリと言い放った。すると女の乞食は、「坊ちゃん、もう何日も何も食べてないのです。約束します。今日だけですから」と懇願した。僕は女乞食の目をジッと観察して、僕にはこの人が嘘をつくようには見えなかった。そこで、従業員がいつでも、食べれるように台所に置いてある塩むすびを持って来てあげた。女乞食は何度も何度もお礼を言い、約束は守る、と言って帰って行った。僕はこの事も、大人達には話さなかった。
代わりに、毎日、「ねぇ、今日、乞食、来なかった?」と聞くのが日課。すると、親やお手伝いさん達は、「変な事を気にするのね。乞食なんか来ませんよ」と笑った。女乞食は僕との約束をちゃんと守ったのだ。僕はこれらの事を通じて、大人たちの言う事はなんていい加減なものだろうとあきれた。
そして、こういう「常識」とか「普通」は疑ってかかる必要があると思った。
僕はそれ以来、無批判にこの世を支配している「常識」とか「普通」とか「規則」とか「一般」とかを敵視するようになった。それは、そういう事によって、無力な人が、抵抗する術もなく、不当に扱われてることに義憤を感じると同時に、「常識」に縛られて、生きている大人たちも決して、自由に見えなかったからだ。僕は将来、医者になったら、歪んだ「常識」や「普通」で窮屈をしている人達を助ける仕事をしたいと思った。その頃の知識で、精神科という科があることを僕は知っていた。僕は医者と言う権威を武器に、差別や誤解を受けてる人や、不自由に生きている大人たちの心を解放するために力を発揮しようと決めた。そして、それは僕の性質上、とても向いていると思った。
これが僕が精神科医になった訳で、その初心はブレることなく今に至る。

BGM.  薬師丸ひろ子「守ってあげたい」(ねらわれた学園・オープニング)


「くどう君」と「干しぶどう」の思い出 2024

今月はお誕生日月。この記事も「心のゴミ箱」兼用です。

11/Ⅶ.(木)2024 雨 2024サンリオキャラクター大賞いちご新聞ランキング(いちご新聞に届いた票だけを集計した)結果1位は「ハローキティ」。シナモンは4位。

昨日22時からAbemaTVの生放送で石丸伸二と成田先生が酒を呑みながら雑談してる番組が面白くてついつい夜更かしした。今朝、テレ朝の「グッドモーニング」で元アイドルの局アナがインタビューしてるコーナーでは冗談言ったりして。選挙後のキャラだと延命は難しいと思ってたら見事なキャラ変。「石丸構文」なるものまで出来て「小泉進次郎」に並ぶ人気者に。社会学者?古市氏とのやり合いをネタにされ「サブウェイで注文出来るの?」とネットで騒がれてるが、さすがネットを駆使した選挙戦術の石丸氏だけあって、昨日のリハック(アベマの番組)でも、「(酒の)つまみ買って来ますか?」に「サブウェイ行こうかな?僕よく行くんですよ」と自らネタにする柔軟性。それよりやはり問題は成田先生で一人でヨッパライ「乱入した」N国党の立花孝志と石丸氏のバチバチしたやりとりを茶化し、「紳士的ですね」「恫喝しないんですね」「常識人なんですね」「国民の皆さん、安心して下さい。常識人でも頑張れば、サイコパスのふりが出来ると分かりました」と普段の二人の姿勢と「今日の」態度の差をあざ笑った。面白いものをみせてもらった。

さて、突然ですが僕は「干しぶどう」が嫌いです。それには深い訳があります。
その理由は小学校の低学年の頃にさかのぼります。

「くどう君」が、お父さんの転勤で「ロンドン」に引っ越すことになった。僕の田舎は茅ヶ崎で海外に転校する子は珍しかった。「くどう君」と僕は仲が良くて、引越しが決まってから、僕は「くどう君」の家に遊びに行った。「くどう君」の両親は不在でおばあちゃんが家にいた。
僕と「くどう君」が遊んでいると、おばあちゃんが麦茶とおやつに「干しぶどう」を差し入れてくれた。「干しぶどう」は、白く丸い皿に並べてあった。時は、真夏。「くどう君」のおばあちゃんは、昭和40年代当時のおばあちゃんとして平均的だったと思うが、白いノースリーブの下着のような服を着ていて、かがんで皿を置く時に胸元から谷間が見えた。「くどう君」のおばあちゃんはノー・ブラだったから、垂れ下がった乳房とその先に萎んだ乳首が見えた。僕は、その垣間見えてしまった「くどう君」のおばあちゃんの乳頭と、皿の上の「干しぶどう」が同一の物に見えた。それで、「食べろ、食べろ」というババァに吐き気がして、それ以来、「干しぶどう」を見ると老婆の乳首に見えてしまい菓子パンに「干しぶどう」が乗っていたら食べれない。ピラフに「干しぶどう」が入っていたら顔をそむけた。
その頃の僕は、過敏になっていて、「干しぶどう」だけをよけて食べるのも無理だった。接触してるということは、汚染されてることを意味したから。それだけで、全部アウト!ちょっと高級なレストランに連れて行かれ、気の効いた料理に「干しぶどう」が入っていたら僕はそれに手をつけなかった。
僕はそういう子だったので、親は別に理由も聞かないで放っておいてくれたので、今思えば感謝してる。さすがに僕も大人になって、今では、何秒以内に「干しぶどう」をよけたらセーフ、という独自のルールを作り、おかげで食べれる料理の幅も広がった。
話を「くどう君」に戻そう。「くどう君」のお別れの会。女子たちは皆、泣いていて、中には、「くどう君、行かないで」と無責任なことを言う奴もいた。ま、子供だから仕方ないか。でも、担任は大人なんだから、しっかりして欲しい。クラスの空気は、「くどう君、行かないで」一色になりかけてたのに、あの先生は何もしなかった。そして、目で僕に「この場をなんとかしろ」みたいな合図を寄こした。僕は、<ここはお前の仕事だろ>と視線で返した。
でも、流れからしょうがない。僕は皆に向かって、<そんなこと言ったって、親の都合だからしょうがないだろ>と言った。一瞬で、「そりゃそうだ」という雰囲気になった。そして、僕は、<ロンドンには、ドンドン行け!>と「くどう君」の背中を叩いた。「くどう君」は、2・3歩、よろけてから、振り返った顔は涙まみれで、「タッちゃんは、大人びてるなぁ」と笑った。それが、「くどう君」の最後の笑顔だった。…って、「くどう君」、死んでないし!
真夏の「くどう君」と「干しぶどう」の思い出でした。

BGM. 石丸伸二氏とは?元乃木坂46とも「真剣勝負」【グッド!モーニング】(2024年7月11日)


KWAIDAN 2024

今月はお誕生日月なので過去のアーカイブスを。この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

9/Ⅶ.(火)2024 はれ 石丸伸二氏「腑抜けたインタビューさせるんじゃないよ」 日テレ古市憲寿氏とかみ合わず

真夏なので、定番の怖い話をお送りしようと思います。今回の記事のタイトルは、高校の時の英語の授業「ラフカディオ・ハーンのKWAIDAN」の表記から拝借。

近頃はAbemaTVの山本裕典のホストに挑戦企画から、軍神という山本裕典のホストの師のYouTubeを見入ってる毎日ですが、以前に歌舞伎町に連れて行かれホストとこんな会話をしたことがあります。

「こう見えて自分は子供の頃、体が弱くかかりつけの小児科医がとても良い先生で自分も将来はその先生のように小児科の先生になりたかった。しかし、自分が高2の時、その医者が児童ポルノの罪でつかまった。なんだ、あんなに良い先生だと思っていたのが、実はそういう目で子供を見てたのかと裏切られたと思って勉強をやめてしまった」、それが医者をめざした理由と辞めた理由のすべてだった。
医学部は6年間。その時間は、単に膨大な知識を吸収するためだけにかかる時間なだけではない。その間に気持ちが折れずにモチベーションを維持出来るかどうかが問われているのだと思う。そうやって、患者と向き合う覚悟が問われ、責任感が育まれるのだ。我々だって何度も、理想と現実のギャップをつきつけられ、ぐらつくことに耐えて、生き残った。サバイバルした。少なくとも、「尊敬する先生がロリコンだったから幻滅して、夢を放棄」なんて、責任転嫁な言い訳は通用しない。
ところが、こっちの世界(どっちだ?)では、通じちゃうみたいで逆に、有効でさえあるみたいなのだ。「その医者、サイテー」とか、「可哀想~、被害者だね~」なんて同情票が期待できる。とほほ、な話である。

医師国家試験のテスト範囲は膨大である。その全部を完璧にこなすのはなかなか難しく、また全部が出題される訳でもなくどこが出るかわからない。そこで、傾向と対策が必要になり情報戦が重要になる。僕らの頃の情報戦の主軸は、「~が出るらしい」という風の噂。それを聞くと、そこを集中的に取り組む。また別の噂を聞きつけると、そこを見直す。そんなことをしていた。
実際、情報内容よりも、そういうものを自分だけが知らない不安がプレッシャーを呼ぶから心理的効果の方が大だったのかもしれない。

クラスの頭の良い子が、学校にかけ合い、6年生のために皆で勉強をし情報を共有するためのスペースを確保してくれた。これは、大変助かる。0時とか1時まで解放してくれるのだが、その時間まで学校に残ると僕は家に帰れなくなってしまう。僕は、当時、へんぴな所に住んでいたので、交通手段がなくなってしまう。
大学6年にもなると、結構マイカーを持ってる人がいて乗り合わせたりして帰っていたが、僕は車を持ってなかったし他の友人に送ってもらうのは遠回りになるのでお願い出来ない。それも毎日毎日のことだから、とてもじゃないが頼めない。困っていると、これまで6年間、ひとことも喋ったこともない男が、「川原さん、僕、帰り送って行きましょうか?家は○×ですよね?うちもすぐですから」と言ってくれた。本当に?いいの?。「川原さんの所、帰り道なんでいつも通るんですよ。1度、見かけたこともありますよ」と言ってくれた。悪いなぁ。じゃ、お言葉に甘えて。ところで、君、誰?。すると彼は真面目な顔をして、「ナカクラです」と答えた。ナカクラ君、と呼ぶことにした。
ナカクラ君の車は紺色の丸味を帯びた地味な日本製の車だった。学校から僕の家までの間、車中で今日勉強した箇所を話し合った。ナカクラ君がどの位頭がいいのか僕は知らないが、きっと僕より成績はいいのだろう。「そこはこうだと思いますよ」「それと関連して、コレコレ、というのも覚えておくといいですよ」などと言ってくれたから。約束通り、国家試験が終わるまで、毎日、ナカクラ君は僕を家まで送り届けてくれた。国家試験の当日、僕の手応えはなかなか良かった。
ナカクラ君はどうかな?と少し気にしたが、広い会場だ、誰がどこにいるかなんてわからなかった。そして、国家試験の発表。テストは水物だから、受かる人もいれば落ちる人もいる。合格発表者の表にナカクラ君の名前はなかった。他のクラスの子に「ナカクラ君、駄目だったの?」と聞くと、「ナカクラ?誰?」と言われた。えっ?。…合格欄だけではない。卒業名簿にも「ナカクラ君」の名はなかった。
今でも、不思議に思う。ナカクラ君は、いなかった?。ただ一つ、はっきり言えるのは、もしナカクラ君がいなければ今の僕はいない、っていうことだ。

BGM. 誰でも使える!軍神こと1億円ホストのタメになるトークアドバイス集!


川原暗黒時代~中学生はつらいよ

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

3/Ⅶ.(水)2024 はれ 東京都知事選候補者、内野愛里の政見放送にびっくり

僕のルーツは湘南ボーイ・茅ケ崎生まれ。茅ケ崎は小6までいて(大学時代も父の死後帰る)それはまぁ楽しく過ごさせてもらっていた。小学校卒業が昭和49年で長嶋が引退した年。つまり茅ケ崎での少年時代は、巨人が「V9」し、大鵬が貴ノ花に負けて引退し、輪島vs北の湖、若三杉・麒麟児らの「花の二八組」の大相撲ブーム、アイドルは天地真理・新御三家・フィンガー5、お笑いはドリㇷ・コント55号に夢中になり、テレビは巨人の星・あしたのジョー・タイガーマスク・天才バカボン・ハレンチ学園、マンガはがきデカ、ドカベン、永井豪などなど、僕ら子供のカルチャーが時代を引っ張った。

僕は受験をして東京の中学へ。兄が同じ学校に行ってたから母と3人で東京のマンションに二重生活(土日は茅ケ崎に戻る)。中1は五反田、中2~東中野に住んだ。僕の中1は昭和50年。長嶋が引退したのが昭和49年で僕らの卒業の年。「僕は今年〇〇小学校を卒業しますが〇〇小学校は永久に不滅です」とおそらく日本中で卒業文集に書かれた唯一の学年でしょう。中1に上がるとすぐに国鉄がスト。それを暗喩した「およげたいやきくん」が流行り、たい焼きが売れて、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」のヒットで里心がつき小学校のクラスメートの女子に心が動いた。キャロルやダウンタウンブギウギバンドが流行ったから「非不良」の少年もオシャレでポマードを買ってリーゼントにした。僕もしてた。バルカンという整髪剤を使っていた。

中2の2学期、夏風邪をひいて、席替えのタイミングでしばらく学校を休んだ。久しぶりに登校したらもうグループが出来ていてどこにも所属出来なかった。いじめられたり無視されたりはなかたっが、話せる子がいず友達は出来なかった。おまけに中二病の年齢だから、自分から迎合して友達にしてもらおうなんて努力もしないし、「みんなバカだぜ」とか「金魚の中に鯉が一匹泳いでいる気分だ」とやせ我慢した。

運の悪いことにサブカルチャーも商業主義に走り共通の話題に乗れずプロレスも猪木が格闘技路線に入りビミョーだった。アメリカナイズされたカウンターカルチャーが表層上滑りなファッショナブルで好きな服を着る楽しみも減り、「UCLA」なんてプリントされた意味の分からないトレーナーを並んで買った。学校は不登校という選択肢もなかったから毎日学校に行って誰とも喋らず帰って来ることもあった。部活はブラバンでホルンを吹いてたから先輩が少し気をかけてくれて休み時間にゴムボールを投げプラスティックのバットで打つ野球に誘ってくれて救われたが本当につまらない時代だった。1975-1977年くらいで、お笑いもドリㇷが衰えてタモリやたけしはまだ登場しない時代で、伊東四朗と小松政夫が電線音頭をテレビでやってラジオで鶴光とせんだみつおを聞いていた。僕はリアルタイムの音楽より過去のものを掘り返しビートルズやよしだたくろうを買い漁り、漫画はつげ義春や手塚治虫や水木しげるに夢中になりちょうど中野ブロードウェイにそういうのを扱う古本屋があってそこに通った。小さな店だからそこの店主と仲良くなり色々教えてもらった。その店の名が「まんだらけ」。まだ今みたいに大きくなる前の。

僕には友達がいなかった。友達がいないというのは、さびしい奴と憐れに思われたり、親は心配するだろうし、教師はしゃしゃり出そうだから、なるべく顕在化しないように気をつけた。

万有引力とは引き合う孤独の力だ、と寺山修司は言っていたが、僕と同じように友達のいない男と万有引力のように引かれあってつるむようになった。そいつはガタイがデカく乱暴者でリアル・ジャイアンみたいな奴で加減を知らないから、皆から恐れられ敬遠されていた。

どういうきっかけでそうなったのかサッパリ覚えていないのだが、僕らは学校が終ると彼の家まで遊びに行った。彼の家の近くには神田川が流れていて、彼は当時の流行の最先端のスケートボードを持っていた。僕らはスケートボードに最適な坂まで通い、一人が坂の下で見張りをし、もう一人が坂の上からすべった。もし車や自転車が来たら合図を送り、衝突しないように、途中で降りれるためである。坂の下には神田川。僕らは何度もスケートボードを神田川に落としては、長い棒で突っついて拾い上げ、またすべっては落としてを繰り返した。何日も何日もひたすら同じことをやった。

そのうち、僕とジャイアンが仲良くなったことが学校で知れ渡り、僕の学校でのカーストは上がった。用心棒がついたから。

学内で学年無差別の柔道大会があり、ジャイアンは柔道部でもないし、中学生のクセに、破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、決勝戦まで行った。決勝の相手は高校柔道部のキャプテンで最上級生の男だった。体格はジャイアンがまさったが、キャプテンにもメンツはある。試合は力と意地の攻防で、結局、足技か何かで、我・ジャイアンがよろけてポイントをとられ、逃げ切られ、準優勝だった。

表彰式。優勝者は圧倒的な声援を受けた。その半分は、よくぞ生意気な怪物を退治した、という判官贔屓な賞賛だった。準優勝者も表彰されたが、それはアウェーのような大ブーイングだった。僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、「いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー」と声をかけた。

周りの上級生は、「なんだ、あのチビ」「誰だあいつ?」といぶかしい顔をしてこっちをにらみ、クラスメートは空気を読んで、「おいやめとけよ」、と制止する者もいたが、僕はまるでシカト。拍手を送った。
「ともだち」は、僕の方を振り返って、はにかんで笑った。

そんな中学生時代でした。

BGM. 阿部敏郎「あせるぜ」


大岡山アイドルフェスティバル~ブリキの看板

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。はじめてここを見て「ゴミ箱って何?」って方も「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。

27/Ⅵ.(木)2024 はれ 大谷翔平、キング独走25号で4連勝貢献、3冠王も射程圏3打点差

今回は「大岡山アイドルフェスティバル」略して「OIF」を開催します。最近は昭和風のブリキの看板に昔のアイドルのピンナップを印刷したものをよく目にします。クリニックの入り口に飾ってある(放置?)ので今回はそれをドドドンとご紹介しましよう。

昔のアイドルと言えばバックで「スクールメイツ」なるダンサーの踊りが付き物でしたから、今回はチアガールで華を添え、ブリキの看板と僕の個人的な思い出を語ろうという趣旨です。マニアックな回ですが、写真が多いので見やすいです。おつきあい願えれば。それでは行きましょう。

まずはエントリー№「1」三田寛子。応援のチアガールは、原型。

 

僕は三田寛子のことはデビュー曲から知っていて、CBSソニーから出たイメージ・ビデオ「映・像・少・女」(β)も持っています。3曲目の「駈けてきた処女(おとめ)」のクライマックスは、果物を並べたテーブルに、三田寛子がはんなりとうつぶせてて、視線だけはしっかりこちらを見てて、曲調が変わる瞬間に片手を払いのけるポーズで果物を一つ残らず、テーブルから落すシーンがインパクトがありました。さすが、井上陽水、という感じの名曲です。
三田寛子は「花の82年組」だから、頭角を現すのはちょっときついかな、と思っていました。
そんな彼女にとってのターニング・ポイントは、プロポーズ大作戦の正月特番で、フィーリングカップル5vs5、に出たことだと思います。美人歌手5人組と素人の大学生5人組の公開お見合いで、昔は松田聖子とかも出てました。
1枠がリーダー的に可愛い子(たとえば聖子)で2~4と好みを取り揃え、5枠で落す。主に、研ナオコとか和田アキ子がその位置にいました。
83年の正月、1枠は早見優、2枠は中森明菜、三田寛子は3枠で出場、4枠が堀ちえみ、5枠は中原理恵でした。中原理恵はもう欽ドンで新境地を定着させていたから、この時点での5枠は妥当。
番組的には、早見優で「かわいい~」を掴み、中森明菜、三田寛子、堀ちえみが加速させ、中原理恵で落す鉄板の布陣だった。…はずだ。
実は、この放送のビデオを僕はまだ持っているのですが、番組の流れをことごとく、三田寛子が止めるのである。
お正月だから艶やかな晴れ着を着て、おっとりした京都弁で男性陣からの質問に答えるのだが、<デートに誘われたらどうする?(あるいは、プロポーズされたら何と言う?)>に対して、「いや~ん」とか言って、照れて、振袖で顔を隠して答えない。
司会者は、とにかく中原理恵で落したいから、<ちゃんと答えて>とせっつく。
すると、三田寛子は、「じゃ~、お月さんが来たー、って言って空を指差して、その隙に逃げます」と答える。
終始、こんな感じで、中原理恵は完封されてしまった。
ウブというのか、まだ世間が「天然」という共通語を持たない時代だった。
翌週くらいに、三田寛子は「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングに呼ばれ、そこでもスパーク!
その翌月くらいから、月曜レギュラーになって「寛子のお菓子大好き」というコーナーを結構長くやっていた。僕は学校があったから、毎週、録画して見ていた。このコーナーは人気があって、同じタイトルのお菓子のレシピ本も発売された。僕も買った。まだ持ってる。

そんな彼女が今ピンチで、なんかしみじみとしている。僕は三田寛子のホップ・ステップ・ジャンプの瞬間の空気と同時代を生きてきたとも言えるから。

 

エントリー№「2」原田知世。応援は、チアガール川原Ver.1。

 

昔、12チャンネルの朝に、「おはようスタジオ」という新人アイドルの出る番組があって、そこにゲスト出演する新人アイドルは新曲情報などを「たぬきインタビュー」というコーナーで紹介してもらうのですが、「たぬきインタビュー」とは文字通り、質問の答えから「た」を抜いて答えねばならず、失敗して、「た」と言ってしまうと顔にタヌキの絵のシールを貼られて行くという罰ゲームが見所でした。
皆、最初こそ警戒するのですが、インタビューが進むに連れ、ついつい1つ2つ「た」と言ってしまい、そこが愛嬌なのですが、僕が今尚、忘れられないのは原田知世で、原田知世はショッパナから、「た」の字を連発して、インタビュー半ばにして、タヌキシールで顔が見えなくなっていました。途中からチャンネルをつけたら誰だか判らないぞ。僕はその映像もβビデオで持ってる。
原田知世を有名にしたのは映画「時をかける少女」ですが、実はその前にTVで「セーラー服と機関銃」や「ねらわれた学園」を主演していました。

この時代は、原田知世でさえ水着姿を披露してたのですね。

 

エントリー№「3」薬師丸ひろ子。応援は、チアガール川原Ver.2。

 

「セーラー服と機関銃」や「ねらわれた学園」と言えば、本家は映画版の薬師丸ひろ子ですね。ちょっと話はそれますが、小学校の頃、少年野球チームに入った僕は背番号を何番にしたいか?、と聞かれ、「666」と「ヨハネの黙示録」の数字を希望に出したら、「3桁は駄目だ!」、と却下された思い出があります。
ところが、薬師丸ひろ子は映画「探偵物語」の公開記念の野球大会に登場した時、背番号「8940」をつけていました。
「8940」はヤクシマルの語呂合せですが、僕はそれをTVで観た時、思わず、「4桁、ありかよ!」とツッコミを入れたものです。
その野球大会の映像も、僕のβビデオのコレクションにあります。

 

エントリー№「4」山口百恵。応援は、チアガール川原Ver.3。

 

中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、絶望的な気分で毎日を送っていた。きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。その頃、僕の生活を支えたのは、一枚のアイドルのポスターだった。そのアイドルとは、山口百恵だ。
山口百恵はシングル盤では、「秋桜」を歌ってる頃で、もうアイドルというより賞レースの本命になる王道の歌手で、「横須賀ストーリー」以来の本格派ポップス路線から、「百恵神話」へと移行してゆく途上だった。僕は、「中3トリオ」の3番手の頃の山口百恵が好きで、その後の売れ線路線にはあまり好感を抱いていない。

それでも、僕を支えてくれたその時の山口百恵のポスターとは、当時の山口百恵としても、当時のアイドルのポスターとしても、少し風変わりだった。
それは、白いブラウスに茶色のスカートをはいた普段着の格好で、ポスターのくせにこちらの目を見ずに脇の方を向いている。その視線の先に何があるかは、ポスターに写っていないので想像するしかないのだが、おそらく他愛も無いものにちがいない。それは近くのキレイなお姉さんみたいな風体だった。
東中野のレコード屋で、『花ざかり』というお花をテーマにした歌ばかりを集めたアルバムを買ったら特典としてもらった。僕は、毎日、このポスターに見守られ、中3の一年間を皆勤賞で過ごした。

 

エントリー№「5」。応援は、チアガール川原Ver.4。

 

高校生の頃、夜のプロ野球ニュースをみるのが日課でした。そこで突然、飛び込んできたのが、ビーチで人目を気にしながら、思い切りよく、無地のグレーのトレーナーとジーパンを脱いで、青いビキニ姿になって、カメラに向って微笑むお姉さん。ミノルタ・カメラのCMの、宮崎美子も一世を風靡しました。ちょっと、おなかがぽっこりしてる所がいい!、とクラスでは評判でした。男子高校生には女子大生は憧れの的でしたよ。

 

エントリー№「6」。応援は、チアガール川原Ver.5。

 

長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。ある日、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。フランク永井だってしない。古いか。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。その数ヶ月後に2人は結婚する。真子はトップアイドルの座を捨て引退。ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。泣き出す真子。観ているこちらもつられて泣き出す。「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」という名言を残し、コマーシャル。僕は涙が止まらなかった。ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。

 

エントリー№「7」。応援は、チアガール川原Ver.6。

 

ドリス・トロイの「ジャスト・ワン・ルック」。心弾ませる軽快なイントロのピアノ・ソロが、一目惚れの鮮烈さを見事に表現している。ドリス・トロイという人は、いわゆる一発屋だったそうだ。だからこそ、この曲の主題である、「一目惚れ」の純度を高めてるような気がする。大学の頃、中森明菜で大儲けしたワーナー・パイオニアが、その収益を社会に還元すべく、あまり売れるとも思えない全8集からなる「ATRANTIC RHYTHM AND BLUES 1947-1974」を発売してくれた。ドリス・トロイの「ジャスト・ワン・ルック」は、その第5集に収められている。

 

エントリー№「8」。応援は、チアガール川原Ver.7。

 

キャンディーズのスーちゃんが亡くなった時にはビックリ。
スーちゃんは、中学の時の友達で少年院みたいなところに行った子がファンだったな。彼は、ランやミキのことを敵対視して、でも一番、ピンク・レディーのことを悪く言ってた。「やつら、うんこ食べるらしいぜ」とか言ってた。あきれた。吉田拓郎は、キャンディーズに何曲か楽曲提供していて、自身のアルバムでカバーして歌ってる。『ぷらいべいと』で「やさしい悪魔」、『大いなる人』で「アン・ドゥ・トロワ」を全然違うアレンジで歌ってる。後者では、♪さよなら~、キャンディーズ♪というフレーズが入っていたから、『大いなる人』は、キャンディーズ解散の直後に出たアルバムだったと記憶する。僕は、あまりキャンディーズのレコードは持ってないが、「年下の男の子」と「哀愁のシンフォニー」だけ買った。
1986年ころ、サザンやユーミンや吉川晃司や明石家さんまが「メリー・クリスマス・ショー」という番組をイブに生放送でやった。ユーミンが、アン・ルイスと原由子と3人で女ポリスみたいなコスプレをして「年下の男の子」を歌い踊って、僕は悪趣味だなぁとテレビの前で辟易していたら、司会のさんまがユーミンに、「ユーミンさんの場合は、ほとんどが年下の男の子ですよね」と茶々を入れて、さんまに救われた思い出がある。

 

エントリー№「9」。応援は、チアガール川原Ver.8。

 

ピンクレデイ―の人気は尋常じゃなかった。1978年に「サウスポー」で日本歌謡大賞をとって、「UFO」で日本レコード大賞を受賞した。その年にこの二つの賞を同時に獲得する歌手は過去にもたくさんいたが、同一年にひとりの歌手が別の曲で二つの賞をもらうというのは後にも先にもピンレディー以外に知らない。下は、何かの授賞式。珍しく山口百恵とスリーショットで写ってる。

という訳で、大岡山アイドルフェスティバル(OIF)企画いかがでしたか。順位付けはしません。みんながオンリーワンです。戦争をやめろ!選挙に行こう!

BGM. 三田寛子「駈けてきた処女」


売れっ子キャバ姫はウルトラマン

15/Ⅵ.(土)2024 はれ 大岡山北口商店街でワークショップ、スイカも売っていた。

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。はじめてここを見て「ゴミ箱って何?」って方も「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

「愛のハイエナ」がYouTubeでもみれるようになって、山本裕典がホストになるシリーズがより身近に見られます。このシリーズは歌舞伎町編から始まり、大阪ミナミ編へと展開します。主役は山本裕典なのですが、ライバルの先輩ホスト(年下)や彼らを取り仕切る「軍神」こと、心湊一希(みなと いつき)の存在なしには再生回数がここまで伸びなかったでしょう。

今回お話したいのは、僕は「ミナミ編」の最終回を10回以上みてるのですが、それは最終回を大いに盛り上げるドラマを生む「売れっ子キャバ姫」のカッコ良さゆえです。何かノスタルジーのようなものさえ感じていて、「この感覚に似た体験が有る」と自分史を振り返ったほどです。

ミナミ編最終回は並み居るホストが、自分の指名客は店に呼ぶのはなしにして、初回客だけを相手に誰が1番売り上げを出せるかを競う真剣勝負です。ライバルたちが各々売り上げを伸ばす中で苦戦する山本裕典。もう閉店まで時間がないラストチャンス、山本裕典についた客が「売れっ子キャバ姫」。歌舞伎町で人気ナンバー1の「ノア」がテキーラの観覧車を入れてもらうなどその差が広がると、姫は山本裕典をその細く長い人差し指で指さして「負けてるじゃん」と励まします。ノアとの差は「20万円以上」ついています。山本裕典はもはや敗北感で姫の前でもやけになっています。すると姫は「勝って欲しい」「頑張れよ」と声を掛けますが、山本裕典はもう試合放棄をしてるかのような顔。そこで姫が動きます。「じゃ、お酒入れてあげるよ、2個ね」とその細長い指でVサインを作ります。まさかの逆転勝利を暗喩するかのような「Vサイン」。「炭酸」と姫は言い放って、それをワイプで見てるニューヨークの屋敷が「缶酎ハイか?」と食い入る中、画面に飛び込んで来た「炭酸2個」とは「高級シャンパン2本」だったのです。ここでシャンコ(シャンパンコールのこと)が起きます。姫はマイクを握り「指名したホストが負けるのが嫌だから、勝たせにきました」と言い、お約束の接尾語「ヨイショ!」と言いました。「私も稼いでいますから」って、なんてカッコE女でしょう。山本裕典はこのおかげで30万超の売り上げを上げ優勝します。周りのホストは本気で悔しがります。ノアにいたっては「なんですか?最後のシャンパン2本って」と唖然とします。

そこで思い出したのです。僕の既視感を。それはウルトラマンです。

幼稚園の頃、兄の横で白黒の特撮空想テレビ番組をみてた。それが「ウルトラQ」。その後、マーブル模様の白黒の不気味な音楽が吹っ飛んで総天然色カラー真っ赤な背景に白抜きの文字で「ウルトラマン」。僕らの時代の到来だった。テレビの時代。ウルトラマンはベムラーという怪獣がやってくるのを追って来て地球に不時着。自分とはまったく関係ない惑星に次々と現れる怪獣を僕らのためにやっつけてくれる。なぜ、わざわざM78星雲から無償で地球の平和のためにやってきたのかはよくわからないが、僕は幼児体験として、本当に困ったらそのことを解決できるもの(ウルトラマン的なもの)が僕の前にやってきて僕を救ってくれると信じて疑わなかった。ウルトラマンはピンチの時に颯爽と現れて物事を解決するとササッと帰ってしまう。そんな姿がまぶたに焼き付いていて、そんなウルトラマンの既視感を、夏の売れっ子キャバ姫にみてとったのでした。

今は待遇が改善したと聞いたが僕らの頃は、研修医の2年間の給料は月給5万円だった。あとは夜勤代などで生活した。家賃6万円弱のアパート代を払うと手元に何も残らず、酒なども安い酒(電気ブランなど)を買って一気にあおって、町内をランニングして酔いを回したりした。飲み会は先輩が出してくれるから当直以外は毎日誰かに呑みに連れてってもらっていた。看護婦さんもみんな一緒に呑みに行き、解散後、同じ方面の帰り道ラーメンが食べたいと同じ方向の看護婦さんにおごってもらっていた。一度、餃子も追加で食べたくて騒いでいたら看護助手の男の子が「僕におごらせて下さい」と300円位する餃子を奢ってくれた。それはさすがにいけないらしく、翌日先輩に「看護助手の給料はお前と変わらないんだからおごってもらっちゃダメだ」と怒られた。これは有名な話になり僕は同期からも「看護助手に餃子を奢らせた男」とちょっとした伝説になった。

当時は看護婦さんたちが優しくてお菓子やおにぎりなどの軽食をくれた。「RCサクセションの新しいビデオが出るんだけど3500円もするんだ」と飲み会で看護婦さんに話したら、数日後に、そのビデオをプレゼントしてくれた。そのうち僕はお金を稼げるようになるのだが彼女らに何かを要求されたことはない。今なら寿司や鰻やしゃぶしゃぶくらい奢れるのに。ウルトラマンみたいに見返りを求めないんだよなぁ。言ってこないんだよなぁ。

BGM. 山本裕典ホストになる大阪編最終章


大岡山デート~メメント・モリを笑え~

30/Ⅳ.(火)朝は雨 GW中もカレンダー通りにやります!

徳田さんからマックのハッピーセットのオマケをもらいました。

何が入ってるでしょうか?ハサミを入れます。

徳田さんは、クロミが当たるように、と貰ってきてくれたそう。

さて、中身は~

クロミの友人のマイメロの名札でした。

僕のニックネームである、川原達二と大谷翔平のあいの子の、川谷達平、と名前を書きました。

「達」だけ赤字がオシャレでしょう。リュックに付けます、お出かけ準備の一つです。

ゴールデンウイークの予定はありますか?僕は20才の頃からの友人たちと会います。男女混合のグループ。女子は「7つ下の学年」。それというのもひとり(♂)がひとり(♀)の家庭教師をしていたところから「集団で文通」が始まり仲良くなって、僕らは医大生で彼女らが女子高生で女子高の文化際に招待されたり(当時は招待券がないと入れなかった)代々木公園にピクニックに行ったりした思い出があります。その時の写真。受付の羽田さんにトレーナーが「おしゃれ」と褒められました。

再会のために新しいCrocsを準備しました。

ハローキティなだけに、ジビッツ・チャームはサンリオのキャラ。

しかし、穴が片方8個×2=16しかないので、4つ没です。可哀そうに選出されなかったのがこの子たち。

ジビッツをCrocsに付けて行きます。

履くとこんなです。

 

さて当日、会った瞬間は年月を感じるし僕など「お腹出たね」と言われるけれど、劇画オバQのように、そんなの5分の我慢です。見た目なんて脳が補正して5分で、代々木公園の昔の姿に戻ります。だから人は見た目じゃない。…意味が違うか。

今回は皆忙しい中、慌ただしくも同窓会が出来たのは、ひとりが病気で医者にも見放されて、それでも生きてる、というから、じゃ皆で応援しようとその子の病気も全然食欲がなかったのに、回に合わせるように食欲がアップして来たというから、今しかないですね。ひとぐすり、というのはあるんだな、と思いました。

場所は大岡山の日本料理・さとう。大岡山デートでも何度か紹介したし、テレビの「ラヴィット」に店主が出たり、「ぽかぽか」ではハライチの岩井が口が大きく開くということから始まったワンスプーン勝負のサバ缶対決で勝利しているミシュランガイドにも掲載されてるお店です。

行きつけだから多少のわがままは効きます。昼の待ち合わせだけど夜のメニューにしてもらい、折角だからメニューにないけど余興にワンスプーンも作ってもらうことにしました。

病気の子がたまたま大岡山に縁があり昔さとうに来たことがあり「とてもおいしかった」と何度も言ってたから、僕はさとうの主人に「きっと最後の晩餐ならぬ、最期のランチ、になるから、その子のリクエストなんだよ」と直談判すると、「それは料理人として光栄です」と張り切ってくれた。

下がその日のメニュー。

・百合根の揚げ物。

・サバ缶のミニ丼。

これを岩井はかき回して一口で食べたのだと。

その特大スプーンが店にはないから普通のスプーンで。大きな口を開いても三口はかかりますよ。芸能人ってすごいですね。

・イサキと珍しいカレイ(名前忘れた)のお造り。

・ハマグリとワカメの吸い物。

・イチボと新たまねぎを新たまねぎのソースで。

・キンキの煮付け。

・ご飯はサクラエビの揚げたてを和えたおこげのご飯。皆の漬物はキュウリで、僕だけ昆布。

・赤出汁。

・デザートはフルーツ。

食べ終わったあと、うちのクリニックに寄り待合室のソファに皆座ってしゃべってました。「病状」とか「死」という話題はあえてふれないけど、精神科とは言え、場所が「病院」だからところどころに口にしなくても病気を想起させる文言が散らばる空間の中にいました。

ペストが流行った時に病院はお手上げで死んで行く人の面倒をみたのは教会の修道女だったといいます。修道女たちの合言葉が「メメント・モリ」で、死を忘れるな、という意味で、明日は我が身だっていう意味です。そりゃそうで、その子に同情してる僕らが実は今日の帰り道に交通事故に遭ったり、脳卒中や心臓病で前触れもなく突然死する可能性だって「ゼロ」じゃないです。メメント・モリは、こんな時だけでなくいつも考えていないといけないことだと、コロナの頃には思わされたのに、コロナが収まったら(?)もう忘れてます。

その子は今日の回が終ったら、5/6の井上尚弥のボクシングがあるから「それまでは生きよう」と目標を少しづつ立てて生きていると言いました。

誰ともなくだったら「5月中にまた集まろう」って言うけどそれはもはや誰のため?「残される(予定のはず)」ものが後悔しないように段階的に心の準備をするために、当人を含めて「お別れの会」を前倒ししてるみたいです。などと、今はこんなことを思っている僕だけど、きっと馬鹿だからしばらくすると忘れてしまいのうのうと生きていくのだと思います。そんなことを1日考えてたら、考え過ぎて、「うつ」で寝込んじゃいました。

あなたがデートに誘い出してくれるのを空想しながら近所を散歩。昔からある酒屋の前に「夢グループ」のガチャガチャをみつけた!今年の正月の清水ミチコの武道館ライブにビデオでゲスト出演した二人です。

酒屋のレジで両替して2000円分ガチャガチャすることに。

コンプリート。

デザイン1.

デザイン2.

デザイン3.

デザイン4.

デザイン5.。DVDは「デーブイデー」。CDは「シーデー」。

メメント・モリを笑い飛ばしてみました。クリニックの前の「カプセル楽局」を覗いたけどさすがにこれはなかったです。あなたには酒屋の場所を教えてあげますね!

BGM. 夢グループ 夢ポータブル多機能プレーヤーCM


心の護美箱(81)~夏のジョー

30/Ⅳ.(火)2024 GW中もカレンダー通りにやります!

田園コロシアムはもうないですが、スタン・ハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの伝説のシングルマッチが行われた場所と言えば、馴染みもあるでしょう。僕はそこで榊原郁恵の「夏のお嬢さん」の新曲発表会を友人に誘われて観に行きました。中3の頃です。紫の半袖のシャツで白い襟が付いた服をヘビーローテーションしてた頃です。

家族旅行。

榊原郁恵はロバに乗って登場したのですが、ものすごい歓声にロバが驚いたのか躓いて、榊原郁恵が落馬して、でも演出通りイントロが流れるから、片膝つきながら、郁恵ちゃんが「夏のお嬢さん」を歌い出したのが僕のこの曲との出会いです。その時の写真が月刊明星に掲載されて、写真の隅に「あ~」という口を開けた表情の僕が写っていました。切り抜いてとっておいたのですが、もう50年近く前なので、捨ててはいないのですが、どこにあるか分かりません。

当時は榊原郁恵、大場久美子、石野真子が3人娘で僕は石野真子が好きでした。郁恵ファンの会に付き合う代わりに、石野真子の「失恋記念日」の新曲発表握手会を新宿小田急デパートの屋上で友人に付き合ってもらう交換条件をしてた時期です。

 

心の護美箱(80)がいっぱいになったから、(81)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

少し暑い日が増えて、榊原郁恵夏のお嬢さん田園コロシアム落馬、というフレーズが考えるでもなく頭に浮かぶともう夏はそこまで来ています。

BGM. 榊原郁恵「夏のお嬢さん」