キテイちゃんは11月クライシスを救えるか?

9/Ⅺ.(土)2024 やや曇り ダンダダン第5話の、たらいを頭に落とされた女子が第6話で主要キャラだと判明(某スタッフ曰く、だいたい髪がピンクのキャラはサブキャラにならない)

よくひとは「酒は呑むもので呑まれちゃダメだ」と言いますが、冗談言っちゃぁいけねぇ、立川談志は「酒は反省するために呑むものだ」と言っておりました。

その年の冬は僕は過酷な過重労働で肉体的に疲弊しており、あまりに体調が悪いので、内科の先生に診てもらったら「多血症」の所見が出ました。「多血症」はストレスでもなるらしく、治療法は「血を抜く」しかないらしい。なんて野蛮な治療法があるものでしょう。
その直後、僕は大学の精神療法センターの忘年会に参加。疲れていたし破滅的な呑み方をするから、泥酔しました。運が悪いことにその時、原稿の作成中でノートパソコンを持ち歩いていて、僕は急な階段で足を踏み外し、両手をふさがれたまま顔面から落下。受け身が取れなかった~その後の記憶なし。
そのまま自分の出身大学であり、自分がかつて勤務していた救命センターに搬送されて、ICUに緊急入院となりました。ICUと言っても国際基督教大学じゃないですよ。集中治療室。僕の病状は大量の出血と顎の骨の骨折でした。大量の出血は、僕の多血症の治療に役立ち、血液検査のデータは正常に戻りました。その後全身状態も回復し形成外科の病棟に移りました。大学病院に入院したことがない人でも、ドラマなどで、見たことがあると思いますが、教授回診というのがあります。主任教授を筆頭に医局員が全員大名行列のようにゾロゾロとベッドサイドを回るやつです。「白い巨塔」とかで見ませんか?僕の部屋にも、教授回診はやってきました。形成外科の教授はいかにも職人気質の融通のきかなそうな無愛想な男でした。教授は、僕のレントゲンを見て、「う~む、見事な骨折線だ」と言うと、一同が口を揃えて、「見事ですね」と賛美しました。骨折線を誉められても、別に嬉しくもないのですが、誉められて嫌な気分はしませんでした。後になって知ったのですが、精神科の医者たちが形成外科の先生たちに、「川原君は誉めながら治療をして下さい」と頼み込んでいたそうです(笑)。
僕の治療は、手術ではなく、顎間固定と言う、口が開かないようにワイヤーで上下の歯茎をくくりつける方針になりました。顎間固定の期間は、3ヶ月だって。その間は口から物も食べれないので入院生活です。僕は1ヶ月くらいで退屈な入院生活に我慢が出来ず、点滴を自己抜去し、病院を無断離院して、家に帰りました。家族があやまりに病院に挨拶に行き、僕は「傷病手当金」の給付を受けて自宅療養です。家でなるべく液状のもので栄養がとれるような生活をしました。
しかし、暇でした。「男はつらいよ」の全シリーズを1作目から全部観たり、太宰治の小説を年代順に読み直したりしました。いよいよ、3ヶ月がたって、顎間固定が外れました。まだ、顎の骨がずれるといけないので、頭のてっぺんと顎を包帯でグルグル巻きにして、僕は現場に復帰しました。その姿は痛々しくて、無理に出なくても良いんじゃないか、という賛否両論も聞かれました。
僕の外来患者さんは、3ヶ月間、他の医者の外来で代診してもらって、「君の患者さんはすごいね。まるで手がかからなかったよ」と感心されました。「薬も、川原先生の出したものをそのままで、って3ヶ月間、何も問題がなかったよ」と言われました。僕は内心で、「お前に言ってもしょうがない、と思ったんだろう」と思っていました。その証拠と言っちゃなんですが、復帰後、ある少女からもらったカセット・テープです。
彼女は、家族以外で口を利くのは僕くらいで、僕も彼女との診察時間を大切にしていて、そんな彼女にしてみれば、いきなり僕が怪我で3ヶ月入院と聞かされた時にはショックだったことの予想は出来ます。彼女は気丈にも、僕と会えない日々を、本来なら診察時間が約束されてる時間帯にカセットにメッセージを吹き込んでいまして。
初回は、DJ風に、「達二先生がいなくても、意外と私は大丈夫です。今日の1曲目は、Xの紅、です」って感じで。そして、普段なら診察でお話するような他愛もない話を、明るい口調でユーモラスに独り語りしていて。1ヶ月が4週とすると、3ヶ月×4週=12回分の収録がありました。最初の方は、そんな感じでDJ風のセッションなのだが、2ヶ月目になると途端に無口になって行き、そして、最後の1ヶ月は、泣き声と嗚咽で。「私は達二先生に会いたいが、患者だから、お見舞いにも行けない。立場が違うから。今までそんなことにも気づかなかった。
そんな自分が馬鹿でくやしい。達二先生に、会いたい」と言って泣いていた。
これにはやられた。おそらく僕の担当の患者さんの代表の意見だと思った。
僕は人生で後悔することはしょっちゅうあるが、反省することは滅多にない。
だけど、さすがにこれを聞いた日には猛省した。彼女がこのテープを吹き込んでいる頃、僕は家で「暇だ~暇だ~」と文句を言っていたのだから。あかんたれ、だと思った。それから心に誓ったことがある。「翌日に診療のある日には酒を呑むのは、よそう」。酒が残って、患者さんの話を集中して聞けなかったらいけない、と思ったからです。それが僕のマイ・ルール。

うちのクリニックは日・月休みなので、呑めるのは、土曜と日曜です。下は日曜の昼によく行く近所の蕎麦屋。そば焼酎をロックで。

つまみは、シュウマイともつ煮。「シュウマイはウマイから毎週(マイシュウ)食べたいのだ」←バカボンのパパのフレーズです。

つまみと〆を兼ねて、生姜焼き定食たぬき蕎麦付き。

生姜焼きはつまみでも行け、なんならライスもつまみで行けます。「用心棒」で三船敏郎がどんぶり飯に酒をかっ食らってる姿がカッコ良かったから。

うどんもつまみになります。伸びないし。

いよいよ11月ですね。11月は亡き両親の誕生日があったり父の命日やらなんやら、なんなら立川談志の命日まであってこの空気感や季節感が当時にタイムスリップさせるから苦手なのですが、なんとか胡麻化したいものです。

11/1はキティちゃんの誕生日ですし、今年は50周年のアニバーサリーです。キティちゃんで乗り切ろうかしら。

11/1はキティちゃんの誕生日。

サンリオの「いちご新聞11月号」の付録もキティちゃんのポスターでした。

久々にザギンに行き、ネイルをして来ましたよ。キティちゃんをイメージしたクリスマス風なデザインです。

キティちゃんの寝そべり抱き枕を注文したから、11月になったら順次送られて来るそうで、届いたら置く場所を確保しないと。鬼滅の刃のこの子たちに場所を譲ってもらいましょう。

ここのソファです。

だから、この子たちは欲しい人にあげます。デカいけど。

後はキティを待つばかり。11月9日午後3時現在、気配なし。

キティちゃんよ早く来い!

BGM. ダンダダン第5話で「白鳥 愛羅(しらとり あいら)」登場!


嘘と善悪とビデオテープ

1/Ⅺ.(金)2024 くもり ハローキティの誕生日。50周年。

昨日は寝落ちしたので、今日は早起きしました。昨日は鰻を食べたので写メを送ろうかと思ったのですが、朝から鰻の気分じゃないといけないからやめときます。大谷翔平が優勝しましたね。怪我が心配で僕まで左肩が痛くなりましたが(笑)、一安心ですよ。皆さんはご機嫌いかがでしょう?

子育てしてる人は、毎日、大変ですね。僕も子供の頃、どうでもいい嘘(誤魔化したり、得をするためじゃない嘘)をついてました。だのに、自分の子育ての時に、子供が嘘をつくと「なんで嘘をつく?嘘はつくな!」とマジギレしてました。あれは何だったんでしょうね?今思うと、そんなに大したことでもないし、自分のことを棚に上げてますから、親や教師が聞いてたら「お前が言うな!」って総ツッコミされてましたよ(笑)。きっと、勝手に「馬鹿にされた気がして」キレてたんだと思います。今ならもっとうまくやれると思うけど、あの時は忙しかったし若かったから仕方なかったんだと思います。現在進行形の方は、65点の育児を目指しましょう。100点満点は無理ですからね。

しかし、台風が近づいてきているらしく気圧が変ですね。天候が悪いと体調が悪くなり、体調がすぐれないと気分が落ちて、気分が落ちるとネガティブな思考パターンになりますね。逆に、秋晴れだったりすると体調もよく、体調が良いと気分も良く、気分が良いとポジティブシンキングになるから「環境」「身体症状」「気分」「思考」は循環しているものなのですね。好循環な時はあまり考えませんが、悪循環にハマると潜伏している「人間不信」や「ひと嫌い」がムクムクと寝た子を起こすように目覚めます。個別にみるとみんな良い奴なのに、集合体としてみると「人類なんて破滅してしまえ~」などという呪詛がうっかり口からこぼれます。

よく「あなたは性善説を支持しますか?性悪説ですか?」などと言い合いますが、僕は初等教育が「キリスト教」なので「性善説」です。小さい頃は道を歩いてても「地面さんが踏まれて痛くないかな?地面さん、ごめんね」って言いながら歩いてる子でした。バカですね(笑)。思春期になって「知識」に目覚めると「性善説」ってウソっぽい感じがして「性悪説」に惹かれました。落語(談志)を好きなのも岸田秀(唯幻論)に傾倒したのもそういう理由です。
でも60になって人生が360度一回転すると、また元の位置に戻るようで今は「性善説」が好きです。それは幼い頃に戻ったというより、これまでの運動量を抱えたまま、「性善説って馬鹿っぽいけど、性悪説だと人生はつまらない。可能性は低いけど、不完全な人間同士が接する時に生じる摩擦は、善、だったらいいな、という儚い希望」なのです。こういう仕事をしてると、自分はそういう立ち位置でいたいな、と思うのです。…偽善的に聞こえるかもしれませんが。

それでは、ここのところ2回続けて「お家デート」で昔のビデオテープを紹介しましたが、同時に発掘して懐かしかったものがあるから一緒にみましょう。これは1984夏-1985夏くらいまでの女性アイドルの歌ばかりをコレクションしたものです。ちょっと解説すると、中森明菜・松本伊代・早見優・堀ちえみ・石川秀美・シブがき隊・三田寛子などがデビューしたのが1982年でその豊作ぶりから「花の82年組」と呼ばれました。その反動か翌年は、松本明子・大沢逸美・森尾由美・徳丸純子・吹田明日香・小林千絵・桑田靖子らがいましたが「不作の83年組」と呼ばれまして、このテープはその翌年の物です。84年-85年にデビューした人もいますし、その前のひともいます。ただし、「花の82年組」は3年目ですから、アイドルとしては鮮度が落ちているから三田寛子を除いては今回採用しませんでした。参考までに、当時、どんな感じだったかというと、中森明菜「十戒1984」・松本伊代「流れ星が好き」・早見優「ミスターセーラーマン」・堀ちえみ「東京シュガータウン」・石川秀美「熱風」・シブがき隊は収録していませんでした(男だから)。

という訳で、まずは三田寛子から。

この子はデビュー曲こそ井上陽水が作ってポップでしたが、後は地味目でしたから、なんかこの曲は脱皮した感じでした。

これはフジテレビのCM。

宇佐美ゆかりは、あだち充の「みゆき」を実写化した時に主人公の「みゆき」の役をしました。ちなみにもう一人の「みゆき=鹿島みゆき」役は三田寛子でした。

この頃のフジテレビはノッていましたよ。

この子は「欽どこ」から生まれたユニット「わらべ」にいた「可愛い子」です。

僕はこの歌の新曲発表&握手会に行ったことがありますよ。

ドレスの裾がお花柄になっていて清楚だけど可愛いですね。

岡田有希子のセカンドシングルです。

後で曲も聞かず何かをいじってる黄色い眼鏡とパンツの男は司会の片岡鶴太郎です。

可愛い子でしたね。

不作の83年組から森尾由美。この子はデビュー当時から、僕の周囲では人気がありました。僕もデビュー曲から連続5枚くらいはシングルを持っていました。

ね、可愛いでしょう?

歌のバックにお料理を作る映像が流れます。「アイドル・パンチ」ならではの演出です。

これで出来上がりました、のOKサイン。

最後は自分で試食します。

この番組は「レッツゴー・アイドル」ですね。

教室コントの流れですからセーラー服で歌います。

後で手拍子をして応援する河合奈保子。

同じく三原順子。ちょっとリズム感が悪いです。っていうか、ヤンキーっぽいですね。

僕は菊池桃子のファンクラブにも入っていました。

森尾由美の爽やかなCMです。

海辺でDJをやってる80年代に実際にあったシチュエーションです。

ニキビ専用の治療クリーム、クレアラシルのコマーシャルです。

ニキビは青春のシンボルですからね。

武田久美子は中学生でデビューしてこの時まだ15才くらいですよ。

全身の衣装ががうつる鏡が背景です。

この子は大人っぽい、というかエロいですね。

貝殻ビキニを最初につけて有名になったのもこの子ですよ。

フルーツシャワーのCM。

横の二人の共演者は、森尾由美と田中律子です。

真ん中は工藤夕貴です。井沢八郎の娘であることを内緒にデビューしました。

もっとも若者は、工藤夕貴を知って井沢八郎の存在を知る訳ですが。

すごく事務所がお金をかけてプロモーションしてデビューしましたが、可愛かったから別にどっちみち売れてたと思う。

間下このみちゃん。ガンバレ玄さんのCMです。

何者だかわからない玄さんに幼女がエールを送るCMが受けました。

インスタントのお粥です。

夜のヒットスタジオ、で演歌にチャレンジする原田知世。

この頃は「天国に一番近い島」の映画に主演して同名の主題歌を歌ってました。

演歌を歌う原田知世。

感情を込めます。

ん?音程が難しいか?

嘘をつくと目が泳ぐ子みたいですね。

なんとか難所は乗り越えました。

最後は笑顔で、「長崎は今日も雨だった」の元歌を歌う内山田洋とクールファイブにバトンを渡します。

原田知世の出身地は長崎です。これも縁ですね。

出ました。1億人のクラスメイト・伊藤麻衣子。

この子は美少女なのにあまり売れませんでしたね。美少女過ぎたのかな?

さっきのフジテレビのCMに起用されていた宇佐美ゆかり。

この子は、可愛くスタイルもよく歌も上手でした。

引き際もあっさりしてた気がします。

続きまして、荻野目ちゃんの歌。

これは深夜テレビで「歌う天気予報」と言って、歌手のPVに天気予報のテロップを入れるファンにとっては邪魔な文字情報でした。

東京の天気。

埼玉の天気。

神奈川の天気。

千葉の天気。

茨城の天気。

この子は、NHK教育テレビ「YOU」の二代目アシスタントを務めた河合美智子です。

「さかなかな」というスナック菓子のCMです。

河合美智子は「本日晴天、さかなかな」というシングルも出しましたが、ジャケットが僕的にはあまり良くなかった気がします。あまり売れなかったし。河合美智子の顔をアップにしたアイドル風のジャケットにすれば良かったと思うのに、現物は背伸びをしてる全身の写真でした。一応、買いましたが。

CMではさかなが出ると、

河合美智子が大きく口を開けて笑うのが可愛かったです。

商品説明です。

不作の83年組の中では美人でしたね、吹田明日香。彼女が何故か「マドンナ」の曲のカバーをします。意表をつかれた感じでした。

美人なのはわかるのですが、決してお色気ムンムンな子じゃなかったから、あまりしっくり来ませんでした。

こんなカメラアングルや、

こんな唇のアップを映しますが、

吹田明日香は吹田明日香でした。美人なんですが。

原田知世の「時をかける少女」のパロディで、セーラー服姿でやかんを持ってカップラーメンのお湯を走って届けてくれる「お湯をかける少女」で衝撃デビューした工藤夕貴。さっきのシャンプーのCMの子のレコードデビューです。

工藤夕貴も可愛いのですが、「野生」というイメージは皆無なのでどうしてこの曲なのか不思議でした。

案の定、売れませんでした。もっとポップな曲にすれば良かったのに。地方で生玉子ぶつけられたりしたらしく可哀想でした。

角川3人娘で一番美人だった渡辺典子。

「あこがれ座」というアルバムも出しました。僕は持っていてよく聴きました。

この子もなんでいまいちブレークしなかったのでしょう。顔が整いすぎてたのでしょうか。

このCMが出た時、この子の名前を知りませんでした。

わかりますか?今井美樹です。

こうやって彼氏っぽい男子に寄りかかり、

そう言えばこの頃はラグビー部の男子がモテました。

女子がこんなにしても揺るがない男らしさ、らしいッスよ。

お味噌汁のCMでした。

僕らの間では「あの子、誰?」って話題になって、名前がわからないから、

とりあえず、「ハナマルキ・ベイビー」って呼んでました。

この子も可愛いのにデビュー曲がサスペンス調で僕は「?」でした。

でも衣装は可愛いというか艶やかですね。スタイルも良いし、

可愛いです。あっ、名前言ってなかったですね。本田美奈子です。

この子は笑顔が可愛くて器用な頭のいい子です。

高田文夫が「ラジオビバリー昼ズ」をやるに当たって「アシスタントは?」と聞かれこの子を指名したのは有名な話。でも現場の人が間違えて「松本典子」じゃなく「松本明子」を呼んじゃった、というのはもっと有名な話。

志村けんのだいじょうぶだぁ、にも出てましたね。

志村けん、つながりで石野陽子を。

志村けんとの就寝コントで、この曲を本番で流されて赤面する彼女がいました。

その位、照れ屋なのか、歌手が嫌だったのか、

とにかく視線が一回もカメラに向かない珍しいアイドルです。

この頃、バスケットシューズネタが流行ってたのでしょうか?ミッチョンです。

おはようスタジオは当時はデビューしたてのアイドルがよく出てました。

曲名通り、白いバスケットシューズを履いてますね。

この子らを知ってますか?

セブンティーンクラブと言います。

おニャン子に加入する前の工藤静香がいました。

こんなキスのふりとか、

ボーイッシュなキャップ姿をみせます。

オフショットでお菓子を食べさせてもらってますね。

雑誌「セブンティーン」のコンテストから作られたグループでした。

アニメ「タッチ」の主題歌です。

岩崎宏美の妹・岩崎良美の代表作ですね。

番組は、レッツゴーアイドルです。「レッツゴーアイドル」が土曜で、「ヤンヤン歌うスタジオ」が日曜にやってました。

この番組は不明ですが、曲紹介と自己紹介をしてから歌う珍しい手法です。

好きなタイプは、頼れてスポーツマン、だそうです。

佐野量子ちゃん。武豊の奥さんになりました。理想の人ですね。

井森美幸のデビュー第2作目。

ホリプロスカウトキャラバン・グランプリ。当時のキャッチフレーズは、「井森美幸16歳、まだ誰のものでもありません」。

先にも解説しましたが、このテープは1984夏-1985夏くらいまでのものをコレクションしています。僕が医学部の2年生から3年生にかけての時期で、最後の井森美幸が1985年7月発売で、同じ年の同じ月におニャン子クラブが「セーラー服を脱がさないで」でデビューしますから、芸能史的に言うと、「花の82年組以降」&「おニャン子前夜」という位置づけになると思われます。

BGM.  間下このみ、ガンバレ玄さんCM「間違えちゃった」バージョン


大岡山デート~おうちデート・ヒーローいっぱい

29/Ⅹ.(火)2024 小雨 大谷翔平、先発出場!ドジャース、WS王手!!

今回も、おうちデートです。

まずは寿司屋に行って軽くつまもうか。お通しの、牡蠣。

冬らしく、白子ポン酢。

生ししゃも。普段僕らが「ししゃも」だと思って食べてるのは「カペリン」という別の魚でネーミングがうまい人が「樺太ししゃも」と付けて、うやむやにしてるそうです。味も値段も全然違います。

筋子をご飯に乗せて。

穴子握り。

ハマグリの味噌汁。

あとは、シャンパンやワインやコカ・コーラとケンタッキー・フライド・チキンとかマックのフィレオフィッシュとかミスタードーナツとかレディーボーデンのアイスクリームを買い込んで家でビデオをみよう!

という訳で今回のデートも、おうちデートシリーズで、一緒にビデオをみましょう企画第2弾です。用意したのは僕が大学生になった年の1982-1983年の主に1983年お正月辺りを中心にコレクションしたものです。あなたは生まれてないかもしれませんけど、時間旅行を一緒にしましょう。

当時はロマンポルノを卒業しテレビタレントとして成功した美保純ちゃんが人気で、明智小五郎シリーズなどの推理ドラマにも体当たりで出演してました。美保純ちゃんがレズビアンの役です。何か秘密を握りました。

警告の「黒いバラ」におびえるネグリジェ姿の美保純。

でも明智小五郎にチクろうとして殺されます。当時のサスペンスドラマは必ず女性の全裸死体が出て、それを家族団らんで見てて(一家に一台しかテレビがないから)気まずい雰囲気が流れたものです。

こういう場面のことです。美保純ちゃんのサービスショット。隠すべきところは加工して隠しておきました。

さて、続いては、1983年お正月特番の「YOU」が、教育テレビから総合テレビにやってきました。

オープニングの曲は、「YMO」の坂本龍一。

絵は、「AKIRA」の大友克洋です。

風船ガムを膨らます少女。

一枚絵ですが、動きがありますね。

テーマは「ヒーローいっぱい」です。500人の観客を会場に呼びました。

ゲストは、RCサクセション・アントニオ猪木・ビートたけし。超豪華ですね!

控室にいる猪木。

坂本龍一や美保純ちゃんも出ます。美保純、NHKにも出れるんですね、すごい!

猪木とキヨシローのツーショット。

番組の始まりです。

司会はこの3人。青島美幸は、青島幸男の娘。

今日のテーマは「ヒーロー」です。男が選ぶベスト10.

女は、歌謡バスト10と順位が似てますね。

総合だと、たけしです。「ちびまる子ちゃん」にも出て来るし人気ありましたね。少なくともこのアンケート調査では1位。

これは「YOU」に寄せられた出演依頼のハガキの束。

その中で「YOU出演依頼№1」は(ヒーローランキングでは、13位の、何故だ?)RCサクセション!

これが有名な放送禁止用語(NHKの自主規制)を歌って、歓声でその部分がかき消される曲です。正しい表記は「キモちE」です。

熱い若者たち。

舞台にかぶりつきです。

それを客席の後方から見届ける坂本龍一と美保純。

曲は2曲目に。スローバラード。

バラードなので騒いでいた客が静かに聴き入ります。泣きそうになりながら口ずさむ子もいます。

それをみつめる美保純。

RCサクセションの曲は一回終了で、メインコーナーへ、という流れで欲求不満な観客たち。

「後でまた出るから!」と怒鳴りつけたり誘導する司会者たち。

座談会に登場するのは、「ヒーローランキング1位」のビートたけし。

みんなから頭を叩かれます。

「痛ぇ~な~。RCサクセションが引っ込んだ腹いせだぜ」と、たけし。

「1位に選ばれた感想は?」に「たまたまでしょ」と謙虚なたけし。

客席から何か言われて「うるさい!ブス!」と言い返します。

そう言われて女の子たちは喜ぶんだから、たけしは人気者でしたね。

美保純ちゃんも晴れ着で登場。

たけしと同じ順路を通って舞台へ上がります。

歓声に手を振る美保純。

いや~、美保純がお正月のNHK特番に出るなんて感慨深かったです。NHKってなんだかんだ言って「アナーキー」ですね。

座談会のテーマ1,ヒーローの条件は?男女で違いがくっきりしますね。女性の2位「性格がいい」って「ペットを飼う条件」みたいですね(笑)

たけしが、女性の条件をみて、「不屈の魂を持ってて、どこか光ってて、主張が一貫してる、って、空手チョップしか使わないハゲのプロレスラーだぜ」と言って、空手チョップのポーズをします。

そこに「男性の答、かっこいい&強い」の条件を満たすアントニオ猪木が登場です。

たけしと違い猪木を叩く客はいません。

壇上からたけしが「叩け!叩いてみろ!」と客を煽ります。

猪木も登壇。

猪木とたけしのツーショット。

坂本龍一は小学生の頃「尊敬する人は、いない、と答えたら、問題児だ」と言われたそうです。さらに坂本龍一は「好きなアイドルもいなかったし、サインが欲しいと思ったこともない」とカッコいいことを言います。

すると司会の糸井重里から「さっき美保純ちゃんにサインをお願いしてたじゃん」とバラされて照れます。

たけしに「写真集も持ってる」と告げ口されて横を向きます。

さらにたけしに「写真集に3500円出してんの」って言われてへたり込みます。

たけしがとどめに放った「鼻血出してんの」に門松に頭をぶつけます。

それをみて客席から美保純が笑っています。

RCサクセションの舞台の再開です。曲は「つ・き・あ・い・た・い」。

出演者全員が舞台に上がります。

晴れ着の女子は照れてます。

チャボがたけしを引っ張ります。

コーラスに参加させます。

男はここに集まります。

そうすると、猪木が心配ですね、ボッチになってしまわないか。

そこはキヨシローが気が利きます。猪木にこっそり耳打ちをしてますね。

猪木がかがみます。

キヨシローを肩車しました。そうです、さっきキヨシローが猪木に耳打ちしてたのは、「僕を肩車して」というアドリブだったのです。

これで猪木もボッチじゃないですね。猪木の顔に笑みがこぼれます。

客席は大喜びです!

女性陣も見とれています。

ギターが猪木の顔を直撃しないように、キヨシローが自分のギターを抱え込むように固定しています。キヨシローはこういう細かいところにも気が利くロックンローラーなのです。そしてさりげないので、誰にも気づかれないところがいかにも照れ屋なキヨシローらしさですね。

ステージは大盛り上がりです!!

そこに「生活向上委員会」というホーンセクションが、こちらも肩車でやってきました。

観るものを興奮させる肩車の競演です。

満足げな猪木の横顔。

これが猪木の肩車。

みんな大満足でエンディングです!!!

さて最後はしっとりと坂本龍一のピアノソロです。

「YOU」のエンディング曲は坂本龍一の作曲です。後ろに見える、RCサクセションのステージの看板が興奮の余韻を伝えますね。

番組のエンディングは大友克洋の絵です。これがグラデーション。

これが絵です。

おしまいです。

テープはまだ続きます。サザンの桑田が同じ事務所の後輩ミュージシャンを紹介します。イリアです。

歌は、夢見るシャンソン人形、のリメイク。

ジューシー・フルーツの演奏です。

テープはさらに続きます。今度は、落語。誰だと思いますか?

進行役は高田文夫先生。若いですね。

演者は、ビートたけしです。林家彦六のマネをしています。

これから出番です。

舞台に向かう後姿にライブ感がありますね。

俳優座でやっています。

演目は「わッ道具屋だ!」。ツービートのベストセラー本「わッ毒ガスだ!」と、古典落語「道具屋」をかけたものです。

オチは、「抜けるものはないか?」「タケちゃんマンの~」。

「首が抜けます」。

次はプロレスですが、あなたは流血戦は嫌いだろうからこれは飛ばしましょう。ちなみに、試合はリック・フレアーにブルーザー・ブロディが挑戦です。

日刊アルバイトニュースのCMです。

斉藤慶子はこれで人気が出ましたね。

わずか15秒くらいです。

欽ちゃんバンドのゲストは誰だと思いますか?ヒントは、ミュージシャンです。

吉田拓郎でした。この頃は、木曜のオールナイトニッポンがビートたけしで、金曜のオールナイトニッポンが吉田拓郎でした。

拓郎の登場に喜ぶ観覧席の女子校生たち。

拓郎は欽ちゃんと一緒にマリンバ担当で、「オー・シャンゼリーゼ」を合奏します。

首をかしげながら初見で参加する拓郎。大丈夫か?

間違えたのは、欽ちゃんの方でした。

その後、ドラが出て来て、ドラを叩きながら「旅の宿」を一節、歌います。

「こんなの合わないよ~」と拓郎。ちゃんとバラエティー対応が出来ています。

客席は大喜びです。

テープは、タモリ俱楽部に続きます。

お馴染みのパンティのお尻ふりふりダンスからです。

僕らが高校生の頃には、「この中の一人は男だ」という都市伝説がありました。

その後、お尻のモデルをリニューアルするオーディション企画をみたことがあります。

しかし、その時は応募者は全員、女性でしたからやはり都市伝説ってウソなんですね。

流浪の番組・タモリ俱楽部、今回はどこへ行くのでしょう?

なんと新日本プロレスの興行先でした。

タモリ。まだ若いです。

ワールドプロレスリングの実況は、当時まだ古舘伊知郎が局アナでした。

タモリと古舘伊知郎が絡みます。

リングに上がります。

ロープの硬さをみるため、タモリが古舘伊知郎にロープに振られます。

インタビューに答える新日本プロレスの選手たち。笑っていいとも、出演経験もある、のちのドン荒川。

炎の飛龍・藤波辰巳。まだ、藤波辰爾、になる前です。

タイガーマスクの控室に。マスクを発見。正体が素顔でいるのか?

と思ったら出て来たのは、山本小鉄、というミニ・コント。

本物が登場。この頃のタイガーマスクはまだ国籍も不明ですから、「日本語を喋っています」とビックリされています。

猪木とタモリのツーショット。

試合を終えた猪木。

そこにタモリとリングドクターの姿が。こういう展開が初期のタモリ俱楽部にはありました。

このナースがタモリの運命の人…という設定です。

プロレス会場で再会して、

ドラマに入ります。名作「愛のさざなみ」。

主演はタモリ。

さっきのナースです。

この二人のメロドラマが始まります。

タモリの回想シーン。

タモリは、女医さん・看護婦・給食のおばさんなど白衣を着る職業の人が好みでした。うちの受付はこないだ制服を白衣から現代的なチャコール色のものにチェンジしたからタモリのハートは射止められないかも。

以上がビデオでした。

せっかくのデートですから美容院に行っておめかししておきますね。今回の髪色は何をテーマにしましょう?クリスマスは早いし、ハロウィンは後わずかだし、ということで「なんとなく秋っぽい色」にしました。眉毛の左右も色を変えてみます。

紫とオレンジです。

見えないところ、もみあげも左右の色を変えました。紫。

オレンジ。

髪の毛を上にあげると分かりやすいですね。

どうでしたか?「おうちデート」。ムンクと一緒に待っていますね。

BGM. 沢田研二「コバルトの季節の中で」


お父さんのための子育て支援カウンセリング

24/Ⅹ.(木)2024 暑くて曇りの天気二刀流。 ヤンキース・ジャッジ、大谷を絶賛。

長嶋茂雄と大谷翔平の二人の現役時代をみた、が最近の自慢話ですがそういう僕も大学生の頃は医学部と野球部の二刀流でした。僕は「野球は個人競技」だと思っていて、試合が終わると円陣を組んでその日の反省をひとりづつ言うのですが、僕は口にこそしませんでしたが、試合に負けても自分が4打数3安打なら満足したし、試合に勝っても自分の個人成績がふるわなかったら不機嫌でした。だから大谷がどんなにすごい記録を出しても「チームの勝利が最優先」という発言をしてるのを聞くと穴があったら入りたい気分です。そんな非の打ち所がない大谷翔平ですが一番すごいと思うのは「メンタル力」ですね。パドレスとのプレーオフで大手をかけられた時の記者会見で「もう後がないですが」と記者から質問が飛ぶと、普通なら「背水の陣でのぞみます」とか「目の前の試合に集中します」とか「悔いのないように全力を尽くします」と言うのが日本人のボキャブラリーの限界じゃないですか。(例外的に、アントニオ猪木が試合前のインタビューで「負けたら世代交代ですか?」との質問に「戦う前に負けることを考える奴があるか!」とビンタして生放送で局アナをぶっ飛ばした。これが「闘魂ビンタ」の起源である)大谷は何て答えたかと思います?「先に2勝した方が勝ちのゲームだと思っています」だって。カッコよくないですか?こんな子どもにどうやったら育つんでしょうね。

そういう僕もメンタル面では負けておらず(?)、僕の野球での売りは「ここぞという時に力を発揮する」勝負強さでした。言霊思想ってあるでしょう?いつもそう言ってると本当にそうなります。僕が自分で「俺はここぞに強い」と言うからチームメイトも「川原は勝負強い」と洗脳されてそう口にするから、その言葉が僕の耳から脳に伝わって上書き&強化されるので、すっかりその気になってしまいます。僕が「ここぞという時に力を発揮する」タイプなのは本当で、もしチャンスで打てなくても「今がここぞじゃなかったんだ」と思いますし、チームの昇格がかかった試合で打てなくても「この試合は、ここぞという試合じゃなかったのだ」と自分の判定が下ります。

それは人生全般にも広がって、僕は「ここぞという時に強い」運の持ち主だから、何かで失敗しても「今はここぞという時ではなかった」と切り替えられ、仮に人生が不幸な結末に終わったとしても、きっと僕は「今世はここぞという人生じゃなかったのだ」と来世を見据えるでしょう。どうですか?こんな子どもに育てたいですか?

まぁ、子どもにも自我がありますから親の思うように、自分の手足のように子供は育ちませんが、そうとは言え一番影響力があるのは親だと言えるでしょう。

NHKのEテレでやってる育児番組ではコロナ前は「お母さんのワンオペ大変。お父さん、手伝って」が主流でしたが、啓蒙が成功したのとコロナのステイホームでお父さんの育児参加が増えたからでしょう。番組も「両親で協力する育児」に軸が移り、最近では「こんなにやってるのに評価されない」というお父さんの苦悩を特集してました。このように、育休をとったり、積極的に育児参加するお父さんも増えていますが、お母さんに比べてお父さんは頑張ってる割に誉められにくいのがジレンマだったりしますね。

「クヴァ―ド症候群」と言ってパートナーの妊娠中に男性が「つわり」をする病気があって、そのくらい共感性の高い男性が増えています。今の世の中は「密室の育児」ではいけません。全員の大人で全員の子どもを育てる社会です。とは言え柱になるのはやっぱり親になりますね。子育ての主役は母親と思われがちですが、そんな今だからこそお父さんの育児参加のあり方(育児参加のタイミングや役割分担)をあらためて考えたいですね。

子育てには自分の受けた養育体験が「寝た子を起こす」ように影響してきます。妻や子どものために「何かをしたいけど何をしたらいいのかわからない」お父さんや、自分の過去と対峙して自分の問題を整理したいお父さんのためのカウンセリングプログラムを開発しました。1回7700円です。

BGM. ビートルズ「ヒア・カムズ・ザ・サン」


大岡山デート~おうち時間旅行

21/Ⅹ.(月)2024 寒い ドジャース、ワールドシリーズ進出!

先日、ファミマに行ったらたまたまジャンボフランクが売り切れで、「1-2分待ってくれたら作ります」と言ってくれたので出来立てを食べた。

皆さんはケチャップやマスタードはどうしてますか?

僕は最初からかけちゃう派です。

さて今回のデートは、僕のうちにおいでよ、おうちデートで、一緒にビデオをみましょう。用意したのは僕が浪人時代にコレクションした1981-1982年のものです。あなたは生まれてないかもしれませんね?時間旅行をしましょう。

まずは、柏原よしえのコロゲントローチのCM。

続いてはプロ野球ニュース。

「´81ことしの顔」から。

女子バレーボールの広瀬美代子。

とにかくレシーブがすごいです。下の場外の球を拾い上げます。

これはビートたけしがロックを歌い、応援に同じ太田プロの鶴太郎と山田邦子がステージに上がります。皆、若いですね。

勿論、漫談もやります。ジャムジャム´81、とあるから浪人中です。

日曜日の朝に「西城秀樹=兄&伊藤つかさ=妹」という設定でやってた「モーニングサラダ」のお正月特番に薬師丸ひろ子(高2)がゲスト出演した際のスリーショット。つかさちゃんは緊張してるのかすぐジュースを飲みます。

薬師丸ひろ子は「セーラー服と機関銃」の番宣です。

´81年2月の聖バレンタインデー(当時はそう呼んでいた)。女性陣から男性陣にチョコが配られます。

伊代ちゃんは真隣にいるのにキヨシローになかなかチョコを渡せません。

仕方なくキヨシローが手を出してもらいます。

「これが聖バレンタインチョコか」とでも言わんばかりにマジマジとチョコをみるキヨシロー。

この頃のRCサクセションは初の武道館公演を終えたばかりでノリにノッてましたが、まだ風呂なしアパートに住んでたはずです。キヨシロー。

ギターのチャボ。

ヒットスタジオでした。

代わって聖子ちゃん。手作りのお弁当を持って来ます。おにぎりの中味は何でしょう?皆で考えるけれど当たりません。

正解は「何も入ってない」でした。「ごめんなさい」と謝る聖子ちゃん、可愛いです。赤いスイートピーを歌うのでスイートピーのような赤い衣装にポシェットを斜め掛けしてます。後ろで歌い終わったキヨシローがリラックスしています。ってか参加していませんね(笑)

日曜のお昼のバラエティー番組。ツービートが司会で、ゲストに「シャワー」という資生堂のシャワーコロンのCMのために寄せ集められたモデルたちのユニットが出てます。

たけしは「綺麗なおねえちゃんたちを見て鼻血が出た」というギャグをやって、たのきんトリオのよっちゃんが一生懸命ツッコんでいます。

たけしはずっと鼻血を抑えるポーズ。

やり続けます。

よっちゃんも困っています。

歌紹介の時です。右端のアシスタントは笑っちゃっていますが、よく見るとたけしの隣に黄色い服を着た「相棒」ビートきよしがいるではないですか!本当に、ビートきよしは何もしませんね(笑)

シャワーの「Do Up 愛 ing」です。スカート短いですね。これが鼻血の訳ですね。

前日、15才になったばかりで夜の番組に出れるようになった、つかさちゃんがヒットスタジオに初登場。

あがってしまい歌詞が飛びます。

ひな壇の八神純子が隣の五木ひろしに「まちがえたわね」と囁くところをカメラに抜かれてしまいます。

司会の芳村真理と「のっぽのお兄さん」西城秀樹が心配して「つかさちゃん、緊張した?」とフォローします。つかさちゃんは、胸を押さえて「ハイ」。可愛いです。

これは、ピーターポール&マリー(PPM)。僕は武道館公演を観に行きました。曲は「パフ」。

「風に吹かれて」。

いつまでも仲のいい秘訣は「頭が禿げあがっても、LOVE」だそうです。テレビでそう言っていました。

RCサクセションの忌野清志郎とYMOの坂本龍一のユニット。資生堂のCMソングです。

演奏は、はにかむず、ギターはチャボです。

キヨシローがカメラに向かってアッカンベーします。

資生堂の提供だからセットとしてモデルが起用されます。

ルージュマジックしてる訳です。

82年と言えば、花の82年組、堀ちえみ「潮風の少女」。デビュー曲です。

この歌が出た頃、大学の合格が決まり、浪人生活とオサラバになります。

松本伊代の「TVの国からキラキラ」。「ドリㇷの8時だよ全員集合」から。バックは、キャプテン。

大学生活が始まった頃です。

こっちは「ザ・ベストテン」。

ニューヨークで買ったという私服で歌います。ハートにチャックが付いています。

ベストテン名物、ここから移動です。

車がついて出発です。だからステージ衣装じゃなかったのですね。

乗り込んで出発。

黒柳徹子が「お布団も積んでありましたよ」と言います。

河合奈保子は僕と誕生日が同じ7月24日生まれ。彼女のコンプレックスは「顔が日焼けしないこと」。

だから機械で日焼けさせてあげます。

当時のアイドルは夏は真っ黒で日焼け対策とかしませんでしたね。河合奈保子「夏のヒロイン」。

ダイナミックな振り付けですね。

吉田拓郎作詞作曲の「旧友再会フォーエバーヤング」を歌うのは山本山田。

元ウィークエンドの山本コータロー。

元かぐや姫の山田パンダ。

このビデオは友達が家に来たら一緒に観ながら酒を呑んでた定番で、「あれ、みせてよ」と評判のよいコレクションでした。その頃、うちに来てた仲間で今でも付き合いがあるのはわずか2-3人です。

女子も何人かいたけれど、それをずっと知ってるのがお人形の「ムンク」です。この子の名前はなくて「お人形」と呼んでいたのですがある日夢の中で「わたしはムンク」と言って自分で名乗ったからムンクにしました。

 

それではご飯にしましょう。イタリアンに久々に行きましょう。あなたはお酒が飲めないならウーロン茶で。

暖かいコーンスープ。

これはサービスでくれたイカとキュウリ?僕はキュウリは食べれないから良かったら食べて下さい。

ミートソーススパゲティ。時々、食べたくなります。

これは松茸のピザ。

Tボーンステーキ。

 

以上です。どうでしたか、大岡山デート。今回はインドアにしました。いつも言っていますが、ひとりにでも好評だったら続ける企画です。ではまた~

BGM. RCサクセション「去年の今頃」


症例T・K  高校生男子 「離人症」

27/Ⅸ.(金)2024 雨 受付&NSの新制服の試着、始まる

映画「ベルリン天使の詩」で、広場にいる「天使の像」は退屈です。それを表現するように映画は中盤まで白黒で風景が流れます。みてるお客さんにも「天使の退屈さ」を共有させる狙いか?と思うような退屈さです。それが急展開、「空中ブランコの美女」が出てから映画の世界はカラーになります。このように、男の子のモノクロームの世界を総天然色に代えてくれるのは古今東西、女子の存在だというお話です。

高校の時の教室は校舎の1番上の階で、僕の席は窓際の1番後ろだったから、授業中にぼんやりと眺める無人の校庭は殺風景だった。僕は、ある日、その風景が白黒に見えて、体育の授業で走ってる生徒達もカラクリ人形みたいに見えた。今思うと、「離人症(りじん・しょう)」だったのだと思う。

 

離人症:現実感が失われること。①内界意識離人症。自分は変わってしまった。自分だという実感がない。②外界意識離人症。周囲のものに実感がない。外界と自分の間にベールがあるようだ。景色や花を見ても美しいと感じない。③身体意識離人症。自分の身体、手足、顔が自分のものだと感じられない。自分の身体が生きていないようだ。(精神科ポケット辞典、弘文堂。より一部引用)

離人症は、精神科の症状の中で唯一と言っていいのではないか、自己申告の症状なので、誰からも気付かれなかった。むしろ、僕は明るく騒がしい人気者だったし。そんな頃、僕が考えたのは、この世はひょっとすると、猿山のちょっと頭の良い一匹の猿がみている夢で、その猿が目を覚ますと、僕も友人も家族も総理大臣も、みんないっぺんにこの世から消えてしまう、人類とは猿の夢の中の登場人物で、猿が目を覚ますと、跡形もなく消えてしまう世の中かもしれない、などと考えたりしていた。
そんな時代の話である。
僕は離人症を抱えてはいたが、授業中はうるさかったから教師達が参ってしまい、僕は島流しのように、教室の1番後ろの廊下側に移された。右側には真っ白い壁があった。僕は、授業は半分上の空で聞いていて、ふと頭によぎった考えや、思いついた発想を、その白い壁に書いて行った。ポエムや4コマ漫画や不条理な絵で、クラスメートからは「面白い!」とか、「もっと書いて!」と言われ、休み時間には皆が僕の周りに集まって、授業が始まると、皆は席について前を向き、僕1人、横を向いて壁にずっと何かを書いていた。これは他のクラスの生徒の間でも評判になって、見学に来る人も増えた。僕の学校は中高一貫校で、僕の中学の時の担任が噂を聞きつけ様子をみに来た。そして、「次の授業中、川原は授業を聞かなくていいから、落書きを全部、消すように」と砂消しゴムを2個渡した。仕方ないので、僕は言われた通り、消していたのだが、折角書いたのに、勿体ないなと思った。今みたいに携帯電話がある時代なら、写メとかに記念に撮っておけたのに。授業では、何とか文明の遺跡が発掘されたとか、パピルスがどうとかで、当時の古代人の生活ぶりを解説していた。僕は壁の落書きを消しながら、たった今、隕石が地球にぶつかって一瞬で、人類が滅亡して、偶然、僕の書いた白い壁だけが何億年後かまで残って、未来の歴史学者に発見されて、
「当時の地球人はこんな生活や思想だったらしい」
と推理され、未来人の歴史の教科書に僕の絵が載って、学校で教えられるようになったらいいな、と空想して、そうして、今、ここで一生懸命、勉強しているクラスの連中の努力も水の泡になればいいのにと思ったものです。

その頃の離人症をライカで再現してみました。

離人症の表情。カメラマン・心理の松井さん&監修・心理の徳田さん。

シウマイを食べるが味気もしない。カメラマン・心理の松井さん&演技指導・心理の徳田さん。

美味しい御馳走も砂を噛むようだ。

原因は名探偵ピカチュウでもわからない。ここからのカメラマンは受付の羽田さん。

心配して寄って来るシロウサギ。

2大会連続で金メダルをとったスケボーの堀米くんのマネをしてメダルをかけてもらったカビゴンを抱いても何も感じない。

人の心を見抜くエスパーニャンコに言わせれば、「それは心が虚しいからにゃ」。

ポチタを抱いても、

キメラ長官を抱いても、世界は白黒。

そんな中、未来を予知できる「スパイファミリー」のボンドは、天然色の未来をみせる。

ジャジャーン。それが石野真子でした。

石野真子の登場で僕の離人症はケロッとよくなりました。

下はほぼ当時の僕です。

調べてみたら、石野真子のデビュー曲「狼なんか怖くない」は、1978年3月25日の発売で、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」が1978年6月25日。真子ちゃんとサザンってどちらも、1978年デビューの同期なんですね。

BGM. サザンオールスターズ「わすれじのレイドバック」


大岡山デート~江夏の夏

2/Ⅸ.(月)2024 台風去る 晴れ

さてお騒がせののろのろ台風も去り、ここのところ一部で評判の大岡山デートの新作です。男も身だしなみです。あなたとデートに行く前に美容院に行く。

今日の髪色のテーマは「焼き芋🍠」。

ジョンの眼鏡をかけて、

出来立てのホヤホヤ(ホカホカ)であなたを迎えに行きます。(これはあくまで架空の妄想デートです)

ご飯は何を食べましょう?最近僕の食べたリストから候補があれば言って下さい。次の5つから選んで下さい。

①大岡山からも頑張れば歩ける自由が丘の天麩羅屋。目の前で揚げてくれます。コース料理ですね。下は、若鮎。

②大岡山から歩いて行ける奥沢のイタリアン。ワインをボトルで頼んだら、アイルトン・セナのTシャツをくれました。下は、冷製コーンスープ。

ボンゴレビアンコ。

イカ墨のピザ。

ベスコングルメ(TBS)で紹介されたTボーンステーキはひとりじゃ多いから二人で分けて丁度ですね。

③寿司屋では一足先に秋の味覚を。新さんま刺身。

松茸土瓶蒸し。まだ中国産ですが。

④昼から呑むなら蕎麦屋ですね。蕎麦屋は「アテ」が多くて昼呑みには好都合。下は、賑わい天丼。海老天が2本です。

⑤鰻屋。肝焼きから行って、

鰻重。

肝吸いも付けます。僕は「お子様」みたいにスプーンをつけてもらいます。あなたも欲しければ頼んであげます。

と、ご飯はいいとして何をしましょう。

今回の大岡山デートは何にしようかと考えて思ったのですが、カップルで「共通の好き」があればそれに行くと楽しいでしょうね。情報も共有出来るし補完も出来るし、何より同じ「好き」の話題で盛り上がるし。

でも、相手の好きに付き合うのも乙な物ですね。彼女が好きなビリー・ジョエルのコンサートに行った友人を横目でみていた大学生時代を思い出します。そう言えば、ユーミンが好きな子に誘われて葉山マリーナにライブを彼女の運転する車で(僕は運転が出来ない)行ったこともありました。

今回は逆のパターンにしようかと思います。彼氏が波乗りが趣味な女の子は自分はしないから彼が海にいる時、自分は砂浜で本を読んだりサーフィンする姿をみたりして待ってると聞いて「大和撫子だなぁ」と感心してちょこっと憧れた気がして、そう言えば、舘ひろしや岩城滉一が在籍していた暴走族バンド「クールス」の曲「ミスターハーレーダビッドソン」は、彼女目線の歌で、私の素敵な彼ったら私とのデートの時も夢中でハーレーダビッドソンの話をして憎らしいけど好きよ、だったり、90年代「アイドル冬の時代」に活躍したCoCoの「はんぶん不思議」の歌詞でも、図書館の帰り道に夕日のにじむ川べりに肩を並べてしゃがんで草野球をみてるとあなたはルールの説明ばかりして私はちょっぴりすねていつも喧嘩になるのよ馬鹿みたい、というラブコメ感も捨てがたいですから、今回はあなたの好きなことを考慮せず、僕の好きなことに付き合ってもらうデートプランです。ビデオを一緒にみます。

広島vs近鉄の日本シリーズの第7戦、勝った方が日本一。広島1点リードで迎えた9回裏近鉄が無死満塁と江夏を追い込む。この両チームの攻防を当時「ナンバー」という雑誌に山際淳司が「江夏の21球」という文を書いた。その映像化。

試合のポイントは、江夏が追い込まれた場面で古葉監督がブルペンで北別府と池谷に投球練習をさせるのであるが、これにはプライドの高い江夏が腹を立てる。「1年間、自分を抑えの切り札として使っておきながら、最後の最後で信用していないのか!」と。これも実に江夏らしい。マウンドで怒りが収まらない江夏のもとに衣笠が近付き、「俺もお前と同じ気持ちだ」と耳打ちしてグラブで江夏の尻をポンと叩く。それで冷静になった江夏は、この絶体絶命のピンチを抑えるのである。江夏はサウスポーだから、三塁走者が見えない。そこで同点スクイズを試みる近鉄の作戦に対し、江夏はなんとカーブでウエストしてスクイズバントを失敗させるのだ。

 

・江夏で思い出すのは、他にもあって、延長11回をノーヒットノーランに抑え、延長11回の裏に自らの決勝サヨナラホームランで試合を決めて、「野球は1人でもできる!」という名セリフを放った。僕は、この試合はよく覚えている。巨人戦のラジオが途中から、甲子園の阪神vs中日に変わったからだ。江夏のサヨナラホームランはまさに劇的で、僕はその後に発売された「週刊ベースボール」の江夏がバンザイしてホームインするピンナップ写真を部屋に貼った。記録に残る選手より記憶に残る選手になりたい、とよく人は言うが、江夏は記憶にも記録にも残る劇的な選手だった。当時は、巨人・大鵬・玉子焼きの時代だったが、江夏は阪神タイガースのエースで生意気でふてぶてしく不良っぽいから好きだった。ギッチョっていうのも、何か不良っぽくみえたな。江夏の劇的なシーンといえば、他に以下のようなものが有名。

・オールスターの9連続奪三振。
オールスターは、1人の投手の投げれるイニングの上限が3回だから、対戦打者全員を三振に斬ってとった。これは、オールスター史上、江夏しかいない。

・江川がはじめてオールスターに選出された時は8奪三振をとった。その試合は、2-0とセ・リーグがリードした9回裏、パ・リーグは1点を返し、尚も無死満塁。そこで、リリーフ・江夏が登場。1人でもランナーを出したら「セ・リーグの勝ち」はなくなる。そんな大ピンチを江夏はここでも、3者連続三振に斬ってとり、またもや伝説を作る。この試合の「プロ野球ニュース」は、βビデオの時代だけど今でも持ってる。

・そんな輝かしいエピソードのどれよりも、僕が一番、江夏らしくて好きなエピソードがある。それは、TV中継が途中で終り、ニッポン放送のショーアップ・ナイターに切り替えた直後に起きた。審判の「ボール!」の判定を不服とした江夏が、アンパイヤを殴ったのである。それが、ラジオで実況中継されるのだが、映像がない分、想像力を掻き立てる。江夏がゆっくりとマウンドを降り、肩で風切るようにアンパイヤを睨みつけながら距離をつめ、アンパイヤは何故、面を外しちゃったんだろう?つけとけば良かったのに。至近距離から的確に審判の顔面にパンチをお見舞いした。江夏、退場。湧き上がる会場のコールに興奮した。その試合の結果がどうなったのかの記憶はない。ただただ、江夏が審判を殴る姿だけを何パターンも頭の中で想像した。左ストレートかな?フックかな?それともアッパーかな?野球で、パンチをするシーンって滅多にないもの。田淵は止められなかったのかな?

江夏は、ピークを過ぎた頃、メジャーに挑戦するが、惜しいところまで行って駄目だった。江夏は、あれだけの選手だったのに、監督もコーチもやっていないと思う。一度だけ、12チャンネルで野球解説をしてるのを聞いたことがあるが、あまり面白くなかった。その後、覚せい剤でパクられたりした。「英雄失格」という梶原一騎世代の僕らにとっては滅びの美学というのだろうか、江夏の生き様に哀愁を感じた。ONを擁して9連覇中のジャイアンツに対して、真っ向から向かっていったタイガースのエース・江夏に、少年時代、心を惹かれた。それは反骨の象徴で、ロックのスピリッツにも通じるものがあった。「江夏の21球」は、野村克也の解説でNHK特集で放送され、今はDVDが販売されているが、この番組でも江夏は実にふてぶてしい。NHKの番組なのに、チンピラみたいなシャツで登場して、インタビューに答え、煙草をプカプカ吸って回想する江夏。これは、必見です。

今日のデートプラン、100点満点で何点ですか?

BGM. CoCo「はんぶん不思議」


僕の夢(寝ている時の)

29/Ⅷ.(木)2024 台風のろのろ 大谷&愛犬デコピンが始球式

「橋」をテーマにして、笹公人が妄想で書いた短歌「念力図鑑」にこんなものが載ってます。

・処女にしか渡れぬ橋がありましてC組の女子だれも渡れず

・童貞しか渡れぬ橋もありましてC組の男子つぎつぎ渡る

面白いですね。下のは「橋」の夢。

見覚えのある川。地元の人はそこにかかった橋を上手に渡るのだが危なっかしい。「急がば回れ」で迂回する道もある。僕は器用にピョンピョンと橋を渡る。渡り切ったあたりで後ろを振り向くと幼い少女が橋を渡ろうとしてる。見るからに危なっかしい。僕は橋を反対方向から戻って少女に「危ないからあっちから行きな」と指をさし、ついでだから一緒に迂回路を歩く。少女は紅いおべべを着てて、髪の毛は文金高島田。(随分、古臭いファッションの子だな)と心で思う。少女は何かの話題を僕に話しかける。どうやら僕のことを知っているらしい。僕が(何故、知ってるんだ?)と不思議に思ってると、「兄から聞いてませんか?」と言われて、ちょっと考えて僕は慌てて飛び起きた。

ここまでが夢。何故慌てて起きたかというと、実は、その二日前、僕の大学の後輩の友人だと名乗る男に川のそばで話しかけられる夢をみていたから。川が見覚えあるのはその川だったからで。僕は「君のこと知らないよ」と言うと、男は「そうでしょう。川原さんは精神科のお医者さんですよね。頼みがあります。妹をみて欲しいのです」。僕は、「いいよクリニックに予約の電話をして」、と夢の名で答えたからです。その妹というのが少女だ、とわかったからひやりとしたのです。

つまり夢がパラレルワールドになってシリーズ化してる。「現実」が1枚の葉っぱだとしたら、「夢」は無意識の産物でもう1枚の別の葉っぱ。同じ「僕」という樹の幹で繋がってる。そう「知性化」して処理していた。月曜までは。

月曜日。それは「現実」の話。夕方5時ごろ小学生の下校時間。最近は防犯意識か集団で下校したり、自転車で迎えにきてるお母さんもいる。月曜は休診日だから僕は近所を散歩。向こうから一人の少女が紅いランドセルを背負って歩いてくる。あれ?なんでこの子は一人なんだろう。そう思ってすれ違いざまに顔をみて驚いた。夢でみた紅いおべべの子と同じ顔をしてる。僕が驚いている姿は傍からみたら不審者に思われるかもしれない。それなのにその少女は僕の顔をじっとみて「こんにちは」と挨拶してすれ違って行った。見ず知らずの人に挨拶するか??僕は「夢の少女」が「現実」に侵入して来たような妄想に恐怖した。一体なんだったんだろう?来週の月曜日も同じ時間に同じルートを歩いてみるか?いや、やめておくべきか。最近、「お護り」をなくしたり、ロザリオがちぎれたりしてるから、君子危うきに近寄らず、か。

スピリュチュアル的には夢は、守護霊が違うパラレルを見せることで何かを気付かせようとしてる考えるのだそうです。

 

という訳で今日は夢の話。

以下は昔、掲載した「夢の展覧会」。僕の夢日記のイラストを、当時の受付の大平さんが色塗りして「つぶやきコメント」を寄せてくれています。下が、現存する最古の夢日記ノート。1981年ということは…43年前のもの。43年前と言えば、大平さんはまだ生誕してないですね。この夢日記を書いてた僕は、10代後半~20才そこそこですから、大平さんにとっては、年下の男の子の絵です。そんなタイム・パラドックスも味わいの一つとして、どうぞご賞味下さい。↓。

・カラス貝のマニキュア女vsトラディショナル・ブルー~瞳~少年風(1981.9月:川原少年19才の作品)


カラス貝は黒?色っぽいは何色?紫かな・・・

・伊藤つかさは、トマソンがお好き(1982.1月:川原少年19才の作品)


左下の謎のポーズをしてる3人組みがお気に入りです。

・貪婪(どんらん)…非常に欲が深いこと(1982.1月:川原少年19才の作品)


魔法の書を読み始めた感じで色を塗ったんですが、タイトルは貪婪だったのですね・・・

・手のひらを太陽に(1982.1月:川原少年19才の作品)


こういうポスター学校とかに貼ってありましたよね。

・もう君に逢うこともない、心は揺れても(1982.2月:川原少年19才の作品)


北京のバッグが気になると川原先生に話したら、本当に先生が持っていたバッグらしいです。

・小田急線のひとコマ(1982.2月:川原少年19才の作品)


この絵、座ってるとこ上手くかけてますよね。

・本厚ちゃん(1982.3月:川原少年19才の作品)


かわいくしたかったのに無理でした・・・。

・キヨシローのまね(1982.3月:川原少年19才の作品)


カラフルにすればそれっぽく見えないですか?

・川守田(1982.4月:川原少年19才の作品)


川守田さんは先生のお友達です。

・一人になりたい…ううん、一人がいやだから。(1982.7月:川原少年19才の作品)


後ろにいるのはサメなのでしょうか?・・・えぼし岩だそうです。

・伊代はまだ(1982.8月:川原青年20才の作品)


腕が長いですね。先生が20歳の頃、松本伊代が流行っていたんですかね。

・天才の誤算(1982.9月:川原青年20才の作品)


靴が素敵なんですよ。

・テスト前日(1982.12月:川原青年20才の作品)


こういうよく分からない絵を塗るのって楽しいです。

・物理ダメ(1983.2月:川原青年20才の作品)


これ,左側にスイーツ隠れてたんです。

・ダルなboyは、Love is Real.(1983.3月:川原青年20才の作品)


『Maiこ』ちゃんは先生の好きだった子ですかね?私には『Maiこ』に見えたんですが、
『Maiこ』じゃなくて『Mari』だったんですね・・・

・マリン・スポーツ(1983.5月:川原青年20才の作品)


ドラえもん、オバQ、いしのまこ、カバ・・・なぜかカバ。

・カルピス(1983.5月:川原青年20才の作品)


カルピスのボトルに書いてある帽子をかぶったやつが可愛い!!

・誕生日。小指と小指をつないで歩く、理科室でキス(1983.7月:川原青年20才の作品)


理科室のガイコツ懐かしいですね~

・夢見る年頃~36/38≒95(1983.8月:川原青年21才の作品)


夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第3位。

・野球大会(1983.8月:川原青年21才の作品)


先生の書くドラえもんは丸くない!

・クリスマス・イブ(1983.8月:川原青年21才の作品)


夢の絵の中で1番かっこいい絵だと思います。

・恋人峠の昼下がりPart.2(1983.9月:川原青年21才の作品)


夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第1位。

・すっかりトロピカル(1985.7月:川原青年22才の作品)


陽気な感じと南国な感じが夏にピッタリの絵です。

・明日のイブはRC(1985.12月:川原青年23才の作品)


8時42分に何が起こったんでしょう。

・オキドキの古着で遊園(1986.5月:川原青年23才の作品)


「オキドキ」って川原先生はお店の名前と言っていましたが、私はマリオが思い浮かびます。

・直ちゃん(1987.6月:川原青年24才の作品)


これは塗りやすい絵だったんですが、サインペンで色を塗るのは難しくて、
色鉛筆にすぐに戻しました。

・Hanesの白のTシャツに血を滴らせてしまった(1987.6月:川原青年24才の作品)


私も白い服にシミができた時こんな顔します。

・元・日本軍の男と、ユキヒョウ(1987.7月:川原青年24才の作品)


「ユキヒョウはどこにいるんですか?」と塗っている時に不思議でしょうがなかった絵。

・大船観音がくずれた(1987.7月:川原青年24才の作品)


観音様のお顔だと気づかず、先生に言われて気づき塗り足しました。

・みつけてくれたらキスしてあげる(1987.7月:川原青年24才の作品)


真ん中の子にと左の子にかわいさをプラスしました。気づきましたか?

・甘くて冷たいアイスクリーム・ベイビー(1987.7月:川原青年24才の作品)


この絵のタイトルを知らない人から「31アイスみたいだね」と言われ
塗り絵レベルが上がったと実感し嬉しくなりました。

・気がつけば兵隊(1987.7月:川原青年24才の作品)


みんなの表情がいい。

・眠れ。ライオネル・リッチーの墓の上(1987.7月:川原青年24才の作品)


どんな色で塗っていいかもわからなくなってしまった絵。

・スタン・バイ・ミー(1987.8月:川原青年25才の作品)


暑い日は海辺でのんびり、いいですよね。

・ニース予想図(1987.8月:川原青年25才の作品)


ニースってフランスのニースですかね?噴水あるんですか?

・アイスもハシャいでる、僕は日焼け(1987.8月:川原青年25才の作品)


また、アイス!後ろの2人は羨ましがってるのかな。

・ダチョウ(クジャク)ともも焼き(1987.8月:川原青年25才の作品)


ダチョウ(くじゃく)って全然違う鳥だけど・・・

・僕は照れる(1987.8月:川原青年25才の作品)


川原先生はいったい何に照れたのか?

・新宿地下の靴専門店(1987.8月:川原青年25才の作品)


この失明者用の靴は指の先が触覚の様に動くと先生が説明してくれました。

・過ぎ行く夏を惜しんで~絵を描く2人の少女(1987.9月:川原青年25才の作品)


最初に先生が少しだけ色を塗っている絵は色を塗るのがラクです。

・念力(1987.9月:川原青年25才の作品)


念力は見えないから何色にしようか迷いました。

・さっきまでの競争のつづきだ(1987.9月:川原青年25才の作品)


人を緑色で塗ったらハルクみたいにみえますね。

・渡り廊下の窓から連中が手を振る(1987.9月:川原青年25才の作品)

渡り廊下だと気付かず、カラフルにしてしまいました。
ちなみにこの絵左側にいるのは川原先生で
研修?授業?かなにかをさぼって帰るところのだそうです。
手に持っているのは白衣だと言っていたのですが、
私には抱き枕かぬいぐるみに見えました。

・脳外科はじまる(1987.9月:川原青年25才の作品)


これは一体何でしょう???

・お前はストーブの前でのびていた。あくびしかしなかった(1987.9月:川原青年25才の作品)


これ、色を塗っていたらよく分からないパーツがあって、そこだけ着色しませんでした。

・聴神経腫?すぐに手術(1987.10月:川原青年25才の作品)


わかめ・・・

・宙に浮く機械(1987.10月:川原青年25才の作品)


宙に浮く機械!夢っぽいですね。

・すいみんやくが欲しい(1987.10月:川原青年25才の作品)


夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第2位。

・明るく生きるコト(1987.10月:川原青年25才の作品)


川原先生はカラフルなボーダーが好きらしいです。

・サンボのジャケット(1988.7月:川原青年25才の作品)


サンボってなんですか?っと聞いたら格闘技の雑誌を川原先生が見せてくれました。

・オバQが正ちゃんのクラスの記念写真に写ってしまった。皮膚科テスト、60点。(1988.7月:川原青年25才の作品)


記念写真にオバQ写ってたらおもしろいですよね。

・ウサギに乗って空を飛ぶ(1988.12月:川原青年26才の作品)


いい夢ですね~。ウサギに乗ったらもふもふなのか。

・うその固まり(1989.1月:川原青年26才の作品)


「きみだけに話すんだけど・・・」て誰かに話すと皆に知られていた小学生の時を思い出しました。

・すべては幻想である(1989.1月:川原青年26才の作品)


ヒョーロン家が怪しい。

・柔道(着)一直線!激しい視線の火花が散る(1989.4月:川原青年26才の作品)


三角関係ですかね!!!

・世代交代の口約束(1995.3月:川原中年32才の作品)


先生の描く力士はなんだか可愛い。

・2002.8月6日からの夢日記の表紙:先生不惑の40才の作品


この夢の絵に色づけするとき『これは何だろ?、川原先生の夢だからこんな色でもいいかな』と、
タイトルを教えてもらうまで何の絵かも分からなかったり、
普段の私だったら使わないような色で塗ってみたりという絵がたくさんありました。
自分じゃない誰かの絵を塗るのって面白いですよね。
それが川原先生の描いたなんか可愛くて奇妙な夢の絵だからもっと面白い。
何ヶ月かのあいだ、受付業務の合い間のちょっとした楽しみの1つでした。
川原先生が最初にかいていましたが、この夢の絵の中には
私より若い頃の先生が描いた絵もあるんですよ・・・。
なんだか不思議な気分になりますね。
BGM.OH MY GIRL「Coloring Book」

BGM. シーナ&ザ・ロケッツ「ユーメイドリーム」


7月最期の頁は「上手な川原達二の作り方~男親編」

31/Ⅶ.(水)2024 はれ パリオリンピック、日本、金メダル総数は1位。

 

父は1984年11月8日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その寺を父は知りません。縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてません。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月は僕のお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は父に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理でした。カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、堂々と好きになっても許される安心感がありました。天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」だという噂があったが、真偽の程は定かではないです。僕の父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうように頼んでやるから」と勉強をするようにと交換条件をチラつかせました。

(2)森昌子が「せんせい」でデビューした。僕と一緒に歌謡番組を観ていた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。父は堅物だが、時々おかしなことを云う。僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、「今日からタッちゃんのお姉さんよ」、などと言われても困ると思った。その頃、モンチッチ、まだいなかったけど。茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。「マミー」は「くれんの?」と答えた。「あげるよ」と僕は言い、こいつらはお似合いだな、と森昌子は「マミー」にまかせた、と思い、気を楽にした。

(3)僕が小さい頃、父は頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようにすぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えていた。ひどいと言われれば、ひどいものだ。小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。

(4)父の歴史はよく知らない。北海道にいたというが生まれはどこか知らない。北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに何故か医者になると言い、満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。

(5)父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、ということを常に考えている子供だった。父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、スポンサーになった。子供の学校にものすごい寄付をしていた。たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、自分の家族に味あわせたかったのだと思う。それはまるで質の良いマスターベーションのように思う。

(6)父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、気になってしょうがない。

(7)母方の祖母は、「タッちゃんのお父さんは、トリ年生まれだから、夜明けを告げる人で、だから立派に一代で財を築いた」と幼い僕に説明した。僕は、「じゃ、僕は大人になっても働かなくていいね」と言ったら、祖母は狼狽して、「タッちゃんはトラ年で一番強いんだから、お医者さんになって、お兄ちゃんと一緒にお父さんと3人で病院を大きくしないと」と言った。昭和40年代の医者の子供は皆、「後を継ぐのが当然」のように育てられて、良い悪いではなくて、そんな時代だったのだと思う。

(8)小4の時、手の骨を骨折して、父の知り合いの整形外科の医者にかかり、その家族と付き合うようになる。クラスに医者の子は僕だけだったので、よその医者の家の様子を知るのは、自分の家と比較して自分を客観視する上で参考になった。父の知り合いの病院は茅ヶ崎の南湖という海岸の方にあって、これで治療が全部、おしまいという日に、父の友人のお医者さんは車で家まで送ってくれた。家族総出で。僕の家は両親とも運転免許証をもっていなかったから、家族が一台の自家用車で移動するという空間にお邪魔するのは新鮮だった。その家のお父さんが運転手をして、僕が助手席に座り、後部座席に奥さんと子供が2人いた。「人生ゲーム」みたいだと思った。子供は、僕より年少の人見知りをしない騒々しい男の兄弟だった。道中、彼らは父親に向かって、「ねぇ、このお兄ちゃんを治したのは、パパ?」と後ろから話しかけていた。父の知り合いの医者は、ハンドルを握りながら、子供たちに、「違うよ。タッちゃんが一生懸命、自分で治したんだよ」と答えた。僕は、この家では子供は自分の父親を誇りに思うんだ、と思って、自分にはそういう気持ちが欠けてるな、と思った。僕は自分の両親に車内でのやりとりの一部始終を報告した。「お父さんの友人の医者は、自分が治したと自慢してもいいのに、治療は患者の治そうとする気持ちが大事だと教えてたよ。なかなか大したものだよ。あの兄弟は、将来医者になって、あの病院を大きくすると思うよ」と僕は言った。すると、僕の父と母は、顔を見合わせて、困ったような顔をして黙り込んだ。僕は、その瞬間の「間」をよく覚えている。その後、僕は疲れて、居間でそのままうたた寝をした。母が僕に毛布を掛けた拍子に目を醒ましたが、同時に両親の会話が耳に入って来た。父「さっきの達二の言い分を聞いたか?」。母「ええ」。父「達二は、将来、駄目かもしれないな」。母「あの子は、難しいから」。その後、父母、沈黙。僕は、重い空気を読んで、タヌキ寝入りを続行。

(9)父は、僕が二十歳の頃、胃癌が見つかって、医者をリタイアした。子供の頃は、あまり父と話さなかったが、父が死ぬまでの1年弱はよく話した。父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、揃いで着て喫茶店に行ったりした。医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。本当は病気にタバコはイケナイけれど、不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。

(10)父が死ぬ直前。兄はもう医者になっていて僕は医大生だった。僕は毎日、学校の実習を終えるとお見舞いに通った。父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、ある日、2人きりの時にすべてを教えた。父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」と言われた。

(11)父は家族旅行には一切参加しなかった。足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし自分が楽しむよりは家族が楽しむことが目的だったのだろうけど、きっと、経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったからだと思う。医学部じゃ教えないから。大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。

(12)父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。AZもその1人だった。AZは僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。藤巻が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。

(13)いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。しかし、僕は本当に実感がなかったから、「いや、本当に悲しくないんですよ~」と軽く(明るく?)答えたら、「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。

(14)うちの父は顔が広いから色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。でも、僕は思った。「この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、今日のところは譲ってやろう」。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。それは、家庭用のカラオケの機械だった。父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことがある。そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、1から医学校に入り直したらしい。詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」ってインプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、ふとカラオケを購入したのかもしれない。カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、「チッ!」と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。おそらく父が好きな歌なのだろう。しかし、おそろしく丸印が少ない。僕は、「い」のページで目と手が止まった。二つ、丸印が並んでいる。一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる 誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。

(15)子供に何かを教わるというのは、親として喜ぶべきことなのだろうか。そういえば、小3の頃、父に「医師会の忘年会」でやる出し物の相談をうけたことがあった。父は短‘歌’や‘芸’術には明るかったが、流行‘歌’や‘芸’能界には暗かった。そこで、その分野では、父の知り合いの中では最も長けてると思われる人物=我が子の知恵を拝借しようというわけだ。僕は、「医師会の忘年会」という響から、堅物の年寄りのヨッパライの集まりだと即座に判断し、当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」のB面の「大変歌い込み」を教えてあげた。これは、♪エンヤートット、エンヤートット♪という掛け声で始まる民謡「大漁歌い込み」の替え歌で、♪大漁だよ~♪という所が♪大変だよ~♪という風になっている。シャイで下戸で音痴な父が、いくら酔っ払いの前とはいえ、歌を披露するとなると、一つ間違えれば、「ジャイアン・リサイタル」だ。(当時、ドラえもん、まだないけど)。それでも本人自らが、♪大変だよ~♪、と歌い上げてしまえば、先手必勝である。周囲も納得せざるをえまい。大変なんだから。ドキュメンタリーともいえる。演じる方も大変だが、聞く方だって大変だ。指名した人に責任がある。そんな、「大変歌い込み」。実況中継に近い。同情と共感が入り混じって、拍手さえ起こるかもしれない。そんな目論みだ。父は、僕の指導の下、なんとか1番だけを覚えた。会のあと、父は上機嫌でご帰還し、大変感謝された。父親の役に立ったというこの体験は、その後の僕の性格形成に、なんらかの影響を及ぼしたと思う。

BGM. ザ・ドリフターズ「大変歌い込み」


夏休みの自由研究~川原達二の作り方 2024

19/Ⅶ.(金)2024 はれ、暑い トランプさんの銃撃事件のTシャツ早くも売り出される

母は2006年3月19日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもその墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこに寺があることもしらなかった、縁もゆかりもない場所です。何かの歌にあったけれど、墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのです。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月はお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は母に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。

(2)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

(3)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と現代そば事情を嘆いた。僕は、この親子はアベコベだな、と思った。

(4)ある日、母は僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来た。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいた。聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言っていた。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるのが、かわいそうで、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(5)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(6)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたのだが、そのシーズンは旅館も混んでて、サービスが悪く僕は不機嫌。口もきかないから、母は困って、結局、この旅行は一泊もしないで、わずか数十分で帰って来る。大学の入学式。大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていた。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて「こんな奴らと一緒にされたくない」と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰ってしまった。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑っていました。どっちの場面も怒って良かったんじゃないかと思う。

(7)兄の結婚式。僕は間に合うように家を出たのだが電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻。結婚式の途中で、バタバタと親族席に遅れて到着すると、母はホッとした顔をして、振り向いて笑っていました。

(8)母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないんですよね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも母の「ロースト・ビーフ」には劣ります。しかし、あの味は、もうこの世にないのです。母は、息子のお嫁さんたちに、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったからです。

(9)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出して、考えます。母は、僕の心の中にいると住んでいます。母はもう死んでいないから、美化されていて、お得です。

(10)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつけた。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいから。茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。

(11)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、という同じシーンがあった。その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、サザエとフネが青ざめるというものだった。僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」。母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(12)川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。そして、父が母に言いました。「達二の看病をしてあげなさい」。母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(13)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)あれは何だったのか、いまだに判らない。

(14)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。

(15)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥◎』とっくにつぶれてる。

(16)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(17)子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、どうでしょう?」と笑いながら答えた。

(18)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(19)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。カワクリは法人化して、医療法人綾枝会、になる。綾枝会の綾は、母の名前からとった。母はここのクリニックをみることなく死んでしまったが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(20)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。語呂合わせの巻。11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金<気持ち」である。僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(21)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。

(22)僕には、いじめられ体験がほぼない、が、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。男の子のプライドを大事にしたんだと思う。僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(23)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(24)母はバレンタインに毎年、それこそ死ぬまでチョコレートをくれた。皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなライン。中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。ま、僕は嘘もついてないし。しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(25)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、「俺も舐められたモンだぜ」と思った。結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。パ・チンコなのにね(笑)

(26)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、おれの形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(27)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。おしまい。アーメン。

BGM.  さくら学院「秋桜学園」