とうに涅槃をすぎて

 

21/Ⅲ.(木・祝)2019 はれ、風が強い 東京の桜開花宣言

お彼岸に近い時分に亡くなると極楽に行けるという。
母が死んだ時、誰かがそう言ってた。浄土真宗のお坊さんだったかもしれないな。

母は死んで何年経つんだろうか。
クリニックが開業したのが平成19年1月で、その時にはもう死んでたから少なくとも12年は経ってるな。
僕はお墓参りには一切行かないし、実家にも寄り付かないから、いわゆる慣習的な行事をまるでしない。
それには個人的な事情があって、ここで長々書くようなことでもないから、毎年、そうしてるように、
母の事を思い出して記事にして、供養にしたいと思う。
しかし、もう母のことは散々書き尽くしたので、今更書くと言っても、出がらしのようなものしかない。

なので、前に書いた記事を再録しようと思う。
あきらかな手抜きだが、意外と昔の記事を遡って読んでくれる人も少ないと思うし、それはそれで意味もあろう。
ずっと読んでくれてる人には申し訳ないから、最後にいくつかのエピソードを、おまけとして付け加えてみた。
昔のアイドルのベスト盤のLPに未発表の誰かの曲のカヴァー曲を入れておく商法みたいな手法である。
石野真子だと、「夢見るシャンソン人形」とか。

それでは元の記事は、2017年3月の「上手な川原達二の作り方」です。
そのままコピペしますよ。スタートです。ナンマイダー。

 

19/Ⅲ.(日)2017 母の命日
※今回はこれまでのブログ記事から母の思い出をピックアップして加筆・修正して編集した企画です。
(1)母は2006年3月19日に死去していますが、僕はろくにお墓参りなどしていません。
そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。
でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。
それは、あの寺の坊主がひどい人相をしていて、態度もふてぶてしい。おまけに、その嫁も。
あいつらと喧嘩して、お墓参りをしなくなった。
そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった。縁もゆかりもない場所だ。
何かの歌にあったけれど、お墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのだ。
僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。
そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。
こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれない。
なので名誉挽回に、今日は母の誕生日なので、母の思い出を綴ろうという訳だ。
形式にとらわれない、供養の仕方を模索しよう。母に語りかける口調で。
・お母さん、小学校の頃、僕は背が小さかったですね。
ある日、お母さんは僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ましたね。
「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいましたね。
聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言ってましたね。
僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど。
お母さんが悔しがってるのが、かわいそうでね。
僕はお母さんを馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。
それで、家に帰って、その報告をしたら、お母さんは嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてたね。
・もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きましたね。
僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血しましたね。
すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しましたね。
・箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。
お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって。
口もきかないから、お母さんは困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいましたね。
・大学の入学式です。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。まだ反抗期ですね。
僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。
お母さんは、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってましたね。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。
あれが正解だったのかも。
・そう言えば、兄の結婚式の時も。
僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。
結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、お母さんはホットした顔をして、振り向いて笑っていましたね。
・僕は、お母さんの作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。
高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。
それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。お母さんは、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったですね。
・こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。
僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。
その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。
多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。
だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、<お前、意地でも喋るな!>と気合いをこめて合図を送った。
しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。
僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、お母さんのことを思い出して、考えますよ。
お母さんは、僕の心の中にいると思ってますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だね。
(2)山口百恵は、まだ中3トリオの一番地味な子、っていう括りからやっと抜けたかどうかが僕のイメージだった。
ここから山口百恵は大きく軌道を修正して‘神話’や‘伝説’というおかしな方向に進むのだが、
『百恵白書』はその第一歩で、中でも一番、食あたりしたのは「いた・せくすありす」という、A面の3曲目の歌だ。
タイトルは森鴎外の性欲史みたいな小説をモジったことからもわかるよに、
百恵の性的なことに関する告白みたいなものが録音されていた。
あの下品な鶴光のオールナイト・ニッポンよりも、聴いてるところを母親に聞かれたくなかった。
畑中葉子の「後から前から」の方がまだマシだ。何を言ってるんだ?
(3)母は働き者で浮かれたとこはなかった。
だから芸能人で誰が好きかなんて話も聞いたことがない。
唯一、歌舞伎の坂東玉三郎を贔屓にしていたくらいか。
晩年は、兄がアリスの堀内孝雄に似てると誰かに言われたらしく、2か月半くらい堀内孝雄を応援していた。
(4)僕は子供の頃、あまり大きい方ではなかった。
背の高さなんてどうでもいいと思うのだが、他人に「タッちゃんは小さいからね」と言われると、
母はよく、「サンショは小粒でピリリと辛い!」と怒っていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。


(5)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。
だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、
母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。
僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。
中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、
掲載されてるマンガがシュールで面白かった。
誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、
いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。
(6)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓


(7)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。
(8)山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む。23歳の医学生だった風太郎の、昭和20年1月から12月までの日記。
始めは文語体だった日記が、だんだん口語体に変わっていく。
母は山田風太郎のことを「プー太郎」と呼んでいた。プー太郎、って結構、古い単語みたいだぞ。
(9)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。
祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。
それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。
帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と
現代そば事情を嘆いた。
僕は、この親子はアベコベだな、と思った。
(10)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。
Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。
僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。
亡き母を偲び、語呂合わせの巻、でした。
(11)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。
その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。
僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。
鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、
それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。
ちなみに、今、『鳥◎』はない。
(12)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。
子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。
さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。
「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。
それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。
だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。
「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。
それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は<なるほど>と思った。
(13)母はバレンタインに毎年、死ぬまでチョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、
「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思うなぁ。
(14)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。
母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、
「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。
(15)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。
母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。
母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。
ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、
「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。
僕が、<今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ>と指摘したら、
「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、
「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。
<お釣りの件は?>とたずねると、「う~ん、どうでしょう?それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。
(16)立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、というのは女性を美人だとおだてる時に使う文句だ。
美人とお花といえば、子供の頃、母が観てたので一緒に見てた、「花ははなよめ」というドラマを思い出す。
主題歌が、メロディーに乗っけてただただ花の名前を並べるだけで、途中に「いよー」とか「よーい」とかお座敷っぽい合いの手が入る。
それは、主演の吉永小百合が芸者なのだが、3人の子連れの花屋にお嫁に行くという設定だったからだろう。
僕がよく覚えてるのは、吉永小百合が「母親」であることに悩んで、自分のお母さん(この人も芸者)の淡島千景に相談に帰ると、
淡島が吉永小百合に「ただの子供好き」と「母親」の違いをたとえ話で言って聞かせるシーンだ。
それによると、子供がご飯を食べながらボロボロこぼしてたら、
「ただの子供好き」はこぼすたびに「まぁ、こんなにこぼして」と一々、拭いて面倒をみるのだが、
「母親」は笑ってそれを眺めていて子供が食べ終わったら黙って拭いてあげるのだという。
吉永小百合は何かを悟り花屋に走って帰り、それを淡島が優しく見送るのである。名シーンだ。
後日、茅ヶ崎の北口にある西友というスーパーで僕は母と買い物をして、その帰りに上のレストランで何かを食べた。
僕と母は対面に座り、僕が何かをこぼしたら、母が「あら、こぼしてる」と手を出そうとしたので、
僕は母に上に書いた「花ははなよめ」の淡島千景のセリフを言ってやった。母は、即、ダマった。
母は負け惜しみで、「嫌な子ね…」というから、僕は負けじと、<親の顔がみたい?>と言い返した。圧勝で終わった。
(17)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、
茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。
(18)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。
それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、
キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。
僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。
要は、「お金<気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。
プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、
「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。
(19)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。
母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。
僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、
母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。
そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
(20)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。
「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。
(21)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。
だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。
神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。
1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。
すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。
僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。
「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。
母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。
(22)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。
OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。
僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。
その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。
僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>
と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。
当然、母は聞き出そうとする。
<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)
(23)ワニが死んだ日のこと。
僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。
しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。
その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。
カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
<ワニの肉は言われた通り、本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや>
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。
(24)母で思い出すのは、中学1年の時の「サングラス事件」。
僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。
担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」
と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。
担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」
に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、
「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。
じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。
職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。
これは指導じゃない、お願いだ」と言った。
(25)僕の小学校は女子校の付属で、小学校時代は、バレンタインに軽トラック1台分くらいのチョコをもらった。
それが、中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。
こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。
(26)喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。
母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。
すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)
あれは何だったのか、いまだに判らない。
(27)僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
(28)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。
僕は、正直、女子ってバカだと思ってたけど、そんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。
すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。
(29)親心で思い出したのだが、僕が小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、
ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、
そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまったことがある。
電話口に向って、母は、
「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、<このままじゃマズイな>と思ったものだ。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。
(30)皆さんこんにちは、大平です。
本日はクリニックの模様替えをお知らせいたします。
バレンタインも終わりましたが、カワクリはひな祭りです。
これは先生のお母様がプレゼントをして下さったもののようです。
男の子に雛人形をあげるのは珍しいですね。桃も飾りました。↓。


(31)カワクリは、6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。
(32)子供の頃でした。今頃の季節です。川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。
応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。
でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。
そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。
目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。
でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノックしました。
まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。
母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。
母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。
すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。
そして、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
(33)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。
おしまい。アーメン。

 

おまけ。

①母と一緒にお風呂に入ってる頃、2人で湯舟に入ると、お湯があふれた。
母は幼い僕に、「これはアルキメデスの原理だ」と教えた。よく言ってた。
大人になって、アンルイスのCMで、お湯を入れないカップ麺「アルキメンデス」という、あんかけ焼きそば、みたいのが出たから、
母に買って行ったら、「おいしい」と言ってた。

②僕の嫌いな家庭教師は、なんとか反抗的な僕をやりこめようと、揚げ足をとるように「達二君はこんなことも知らない」と母に毎回報告した。
ある日、「いぶせ・ますじ」のことを「いぶせ・たらじ」と読んだら、鬼の首をとったように、そいつは母にそれをチクった。
母は、「あら?達二は、いぶせ・ますじ、知ってますよ。ユーモアじゃないですか?」と笑って、
サザエさんの、「マスオ」と「タラちゃん」を引っ掛けたことを見破った。

③小学校の夏休みに小説の1シーンを絵にする宿題があり、母のアイデアで、芥川龍之介の「鼻」を描いた。
母は、大変その絵が気に入り、学校に提出するのを渋っていた。
母は僕の画く絵が好きで、何枚も絵を保管していた。そのうちの1枚が診察室にある、ニワトリの油絵。

④僕は野球が好きで暗くなるまで友達を引き止めて学校に残っていた。
すると何人かの保護者から「帰りが遅い」とクレームが来て、「達ちゃんが皆を帰らせない」ということになった。それは事実だった。
すると母は翌日から人数分、ハイヤーを呼んで、それぞれの家まで子供を車で送らせ、保護者の文句を完封した。

⑤僕は偏食で給食が食べれないと食べ終わるまで遊ばせてくれなかった。
すると母は父をPTA会長にして、給食を廃止させた。

⑥休み時間にとなりの中高のグランドに野球をやりに行くのだが、そこでチャイムを聞いて戻るとタイムロスして必然的に授業に遅れた。
それも、「達ちゃんのせいだ」ということになったが、僕が野球をするグランドがないんだ、というと、母は父に相談して、
小学校の松林を伐採して、そこにグランドを作らせた。

⑦中学の時、東中野の駅前のゲームセンターで1人でスペースインベーダーをやってたら、不良グループにからまれ、
「変われ」と順番を横入りされた。
僕は家にいったん戻り、何か武器になるものを探し、(お風呂の栓にしたと思う)、ゲームセンターに乗り込もうとしたら、
母がそれに気付き、ゲームセンターに乗り込み、不良たちを蹴散らした。
母が見守る中で、スペースインベーダーを何ゲームかして、僕はそれからゲーセンを卒業した。

⑧父が死に、兄がボストンに留学して、母と大学生の僕はしばらく2人で暮らした。
しかし、茅ヶ崎から大学や病院へ通うのは遠く、しょっちゅう、僕は友達の家に無断外泊した。
母は賑やかなのが好きだから、さびしかっただろうなと今思う。

⑨母の死期がもうそろそろ近いから、母は食欲がなくて、メロンを食べたいと言うから、千疋屋で食べ頃のメロンを買っては、
ほぼ毎日、茅ヶ崎にお見舞いに通った。良い所取りをしてるから、普段、面倒をみてくれてる兄嫁には申し訳なく思ってた。

⑩母がいよいよ死ぬ時、大船の病院に入院していた。僕は死に目に間に合ったが、「何か声をかけてあげて」という儀式に、
そこにいた家族は思い思いに声をかけるが、僕はそういう時、おしのように何も言えなくなってしまうのだ。
感情は鈍麻して悲しみは麻痺していて泪は出なかった。
精一杯、母の死という現実に無駄な抵抗をしていたのだと思う。僕に出来た精一杯が、離人症。

⑪お葬式には、たくさんのお花が届いた。僕は当時、長谷川病院に勤めていたから、マサキの計らいで、その病院関連だけで20くらいのお花が来て、
兄も医者だから同じくらいあって、親戚は「あやこさんは、誇らしいわね」と泪を浮かべて泣き笑い。
告別式には友人もたくさん茅ヶ崎くんだりまで駆けつけてくれ、親友のF.がご焼香の順番で、僕と目が合うと、彼は人情もろくてすぐ泣くから、
人んちの親なのに肩を震わせて泣いてるから、オーバーな奴だな、と呆れた瞬間、僕もはじめて泪が1粒、2粒と頬をつたった。

⑫母は、その昔、ロア六本木の角にあったアントンリブというアントニオ猪木のスペアリブの店の前にある、青野、という和菓子屋の団子が好きで、
ついでがあったら買っていってやると大層喜んだ。
高2の時、学校帰りに和菓子を買ってやろうと六本木を歩いていると、きっとディスコか何かに行く、数名の上級生とすれ違った。
「お前、何やってんの?」と驚かれ、「団子屋で団子、買った」と言ったら、それから学校で一目置かれる存在になった。

BGM. 吉田拓郎「悲しいのは」


夢日記~バーサス。美術館と製薬会社の美人プロパー。

19/Ⅲ.(火)2019 はれ 内田裕也、死ぬ。

製薬会社の美人プロパー。美術館で口汚くののしられて、言い返したら負けだから、
「私、薬剤師、やめそうです」と言って帰って来たという武勇伝を聞く。

オレだったら絶対キレてるのに、そういう返しが出来るのは、特別な研修やトレーニングを受けてるの?と聞くと、
真顔になって、
「先生、今度はきちんと来て下さいね」と、こないだの会の僕の不在をとがめた。

その美術館は先着777人に、ルドンの壁掛けポスターをくれるといい、僕は彼女の手を引いて、
<これこれ、これをくれるんだよ>と言うと、「私はもう持っています」。
<えっ?まだ美術展はこれからだよ>に、「だって、今、手を握っているではありませんか。だから私は持っているのと同じです」。

彼女と彼女を侮辱した美術館員の雑学対決をそばで聞く。

①<富士山のすぐ横を通る旅人と、富士山のこちら側を登る男の子では、どちらが高い?>、「男の子」。
<いかにして?>、「おとがある」。<正解!>。

②<富士山と、富士山によく似た山。どちらが高い?>、「富士山」。
<いかにして?>、「絵になるから」。<正解!>。

③<富士山の見える食卓の上にあるオムレツと、富士山のちょっと斜めにみた、のではどちらが高い?>、「オムレツ」。
<いかにして?>、「おいしいから」。<正解!>。
五分五分だ。

美術館は他にも、畜人コーナーや、妖怪コーナーがある。
畜人は、未来、人間は激しい貧富の差があり、金持ちは裸で暮らし、身に付ける防寒服や直接肌に触れる便器などは貧乏人間を改良して使った。
僕は彼女を裸にして、自分も裸になって、畜人の説明をしてるところを知人にみられ、
<何も裸になることはなかった。普通に服を着たまま説明しても良かった>と恥ずかしくなった。

それに現代アートの畜人展は僕の想像してた絵柄と違い、猿ぐつわと目隠しをした人間がフルーツをナイフとフォークで切ってるようなもので、
よく目が見えないのにナイフとフォークが使えるな、とか、もし切れても口が開かないから食べれないだろうに、これじゃ誰かのために奉仕する、
まるで奴隷じゃないか、と思ったものだ。

彼女は、「私はヤプールという歌は岩崎宏美の歌で知っています」と言った。
岩崎宏美にそんな歌あったっけ?

ヤプーは、ジャップ、日本人の蔑称だろうけど、
ヤプールは、ウルトラマンAに出てくる地球侵略の野望を企てる敵の宇宙人の名前じゃなかったっけ?
彼女の記憶は、もつれっぱなし、だ。

そこに長老が現れて、今回の美術展の総括をしてくれた。それは、つまり、レキニティ。
新宿にあるレストランは焼いた肉と生肉を出して、どっちがうまいか食べ較べさせるらしく、それを好んでそこに集まる肉好きな著名人を、
批判する言葉は、カツレツの、レツ、がなまって、レキニティ、になったという。
レキニティは思想で、でも悪口、レキニティをかかげる人達を、レキニストと言う。でも悪口。

何かのエッセンスを持って来て自分の意見みたいに言うのが、レキニティ。
経済学者に多いと言う。
と、このように知ったように言う僕もレキニスト。

追伸:Mへ。
卓球の話、したんですって?セカイさんに聞きました。良い話ですね。聴きたかったです。
ネクタイもピンクにしてくれたんですってね、泪。セカイさんに聞きました。
僕はちょっとクリニックがゴタゴタしてましたが、もう大丈夫です。
卓球と言えば、電気グルーヴも大変ですね、30周年なのに。
相方が捕まった時のコメントって、大概、無言か謝罪なのに、「だとよ」はカッコイイですね。そういう訳で、BGMは…

BGM. 人生「オールナイトロング」


がんばれ!!照ノ富士!!(仮題)

13/Ⅲ.(水)2019 はれ ダイナマイト・キッド追悼興行の全カード決定!

アニメ「からかい上手の高木さん」の二期が決定したのと、今、10巻を買うと、卓上日めくりカレンダーがついてくる、
何かと話題の高木さん。

コミックス「からかい上手の高木さん」5巻に「クリティカル」という回があって、これがちょっと面白い。

いつも高木さんにからかわれるクラスメートの西片は、その日の朝の情報番組の占いでは超ラッキー運。
それで、「今日こそは高木さんを逆に、からかい返してやる」と意気込んで登校中、高木さんに会う。
見透かされたように、「何かいいことあった?」。
<な、ないよ>。
「もしかして、今日のラッキー運、かに座とか」
<ちょ…ちょ…なんで知ってるの?>
「あと、O型も1位だったから?」と図星。

それでも、西片は占いを信じ下校時に、高木さんをからかってやろうと思う。

高木さんと、首尾よく二人で帰ることになったところ、級友に、「ゲームやろうよ」と誘われるが、断る。
頭は高木さんをからかう作戦のことでいっぱいだ。しかし、これがまた何も思い浮かばない。

二人で並んで歩く帰り道。高木さんが、「ゲーム、よかったの?」ときくと、西片は作戦で気もそぞろだから、
<あぁ、うん。高木さんと一緒に帰りたかったし>と答え、また考え事。
高木さんに、じーっとみられ、やっと我に返り、

<今、俺、変なこと言わなかった?>と自問自答。
あわてて、<占いなんだよ。占いで、クリティカルが出る、って言ってたから、今日こそ高木さんに勝てると思って…>
<だから、別にそういう意味じゃないから。…今のないことにして>と言うと、
高木さんはいつもの高木さんで、「しょうがないなぁ。もう1回言ったら聞かなかったことにしてあげる」。
西片<言うワケないだろ。じゃ、俺、こっちだから。バイバーイ>と走って逃げる。1人残る高木さんのアップ。

唇の真一文字がかすかにふるえ、ごくんと何かをのみこんだような描写。
曲がり角を曲がって、「ハーっ」と胸をおさえる高木さん。こんな高木さん、みたことない。
最後のコマで「クリティカルってこわいなぁ」とつぶやく高木さん。
からかい上手の高木さん、で語り継がれる名場面と言っていいだろう。そんなクリティカル。
どういう意味か、わかりますか?

我々がよく施行する、エゴグラム、という心理テストの尺度に、CP、というのがあって、それは、クリティカル・ペアレントの略で、
「批判的な親」という意味です。でも、それと、このマンガの、クリティカルのフィーリングは違いますよね?

それで僕はうちのスタッフや友人やその方面で有名な心理業界の人にもメールして、クリティカル、の意味を聞いてみました。
学術的な意見や、英単語の意味を解説してくれる答えがいっぱい来ました。

でも、僕が知りたいのは、そういうことではなくて、そういう英単語の意味とこのマンガを結びつける「カギ」です。

そこで存在感をふるったのが、受付のうかいさんでした。
彼女は多分、そんなに英語が得意な方でもないのに、
ゲームで「クリティカル・ヒット(会心の一撃!)」という用語があるのを手がかりに、色々と調べてくれました。
ネットで、英語や心理学の知識はけっこう得られますからね。
高木さんの、「クリティカル」の回の動画もみてくれて、彼女が出した結論は、

「ここでいう、クリティカル、は、会心の一撃、のクリティカルです」。

よく自分は「勉強が出来ないから頭が悪い」と思っている中高生が結構、多くいます。
今の学校教育は、ほとんど丸暗記ですむ記憶力の勝負で、それで良い学校にも行けるし、良い会社にも入れるし、
医師国家試験だってパス出来るけど、人生はそこからがスタートです。
‘成功’した人が社会に出て困っていることが多いのです。
人生って、テストみたいに、‘正解’がないからでしょうか。

学校教育が広く浅く知識を身に付けさせるせいか、1つのことを深く掘り下げる習慣がないのも問題でしょう。
その点、オタクはすぐれてます。掘り下げますから。

吉田拓郎から入ったのに、ボブ・ディランの曲、全部、知ってたりするから。
ルーツをさぐる、ってことなんでしょうね。学問の基本ですね。

勉強と学問は違うと言われます。
勉強は漢字で、むりにしいる、と書きます。これはやらされてる訳です。
でも、学問はオタクに近いです。
興味があること、探究心が、知らないでいることを放っておかないのです。
意味のないことはまるでやる気ないのは、モチベーションが湧かないとパフォーマンスが極端に下がるからで、
逆に言えば、意味さえ見い出せばやる気が出てパフォーマンスもアップするということです。
だから、中高生で成績の悪い人は、何も腐ることはなくて、「自分は勉強は不向きで学問向きだ」と思うといいです。

僕の好きな立川談志は中卒で、落語家になりましたが、
「自分は学歴がある。落語を通して色んなことを学んでいるから。ないのは、学校歴だ」と言っていました。
僕の好きなフレーズです。

おまけ。

からかい上手の高木さん、には、からかい上手の元・高木さん、というスピンオフもあります。
ちょっとだけ紹介しましょう。こんな感じです。

元・高木さんは結婚して娘がいます。
娘との会話。
<ねぇ、ねぇ、お母さんってどんな子供だったの?>
「う~ん。好きな人をからかっていたかな」
<ははは。今と変わらないじゃん>
「そうだね。変わらないね。好きな人も」
<え~??…ってことは??>
そこに、玄関の音がガチャガチャとして、<ただいま~>とスーツの男の人が帰ってくる。顔は見えない。
コマ割りは、アパートの廊下にうつり、その家の表札に書かれていたのは、西片。

BGM. よしだたくろう「知識」


さよなら こんにちは

11/Ⅲ.(月)2019 はれ

久し振りの、からだをみてくれる場所に行った。昔、エネルギー療法といって紹介したことがある女性のセラピスト。
新しい場所に移転して、初めての来日でした。
そこは線路際のアパートの一室で、まるで彼女の家に呼ばれたみたい。冷奴とビールが出てくれば、まるで「彼女」だ。
「これまでどこかでみてもらってましたか?」と聞かれたので、
「どこにも行ってない」と嘘をついた。ちょこちょこ、町のマッサージとかに単発で行っているのに。

僕にはこういうどうでもいい嘘をつく癖がある。
久し振りに行った美容院で、今までどうしてました?と聞かれ、よそに行ってたと言いづらく「自分で切ってた」と言ったり、
「もう行くのよそう」と思って遠のいてた焼き鳥屋には、他の店に色々行ったが、やはりそこの味が恋しくて、久し振りに行った時、
「焼き鳥、全然食べてない。むしろ、鶏肉が久し振り」なんて、どうでもいい嘘をつく。
心のどこかで少し間の空いた気まずさを誤魔化してる罪悪感が、しょうもない嘘を作り上げてるのかもしれない。

だから、クリニックに何年かぶりで、来た人に、純粋に「これまでどうしてたの?」と聞くと、皆、「どこにも行ってなかった」と答えるけど、
中には、言いづらいからそう言ってる人もいるのかな。皆は、僕と違うかな。

そんなこともあり、施術の後は、中野のタコシェで、「死人の声をきくがよい」の新刊のサイン本があると言うから、
買いに行こうと思った時、5時からクリニックで、アポを入れてるのを寸前で思い出した。

急いで行けば、間に合うと、電車に飛び乗って、大岡山駅で降りたら、改札口で、電車に乗ってた、警察官に職質された。
こっちは急いでいる。走って逃げたら、3人に取り囲まれて騒動になった。

結果、奴らは、大岡山とか関係ない巡査で、たまたま巡回してたらしく、俺を直感で不審者と思ったそうだ。
俺も俺で、税理士さんと打ち合わせしてたから「何の用か?」と聞かれ、「商談だ」と答えたのが不味かったらしい。
「ヤク」とか持ってると思われたのかな?
それとも、大岡山の派出所の人なら、顔見知りだけど、巡回してるポリスだから、電車の中で俺を不審に思ったのかも。
でも、平日の昼間だ。
痴漢もスリも出来ないだろうに。
ということは、俺は、ポリスに、何を疑われたのか?
消去法で言うと、これしかない。
女心を盗む、恋の大泥棒。絶賛、指名手配中!

そんな訳で、2020の東京オリンピックも近くなると、サリン事件とか警戒が厳しくなるから、日本はいい国だから、職質が増えると思う。
だから、皆さんは、職質を受けても、ムカつくかもしれませんが、相手(ポリ公)を殴ったり、写メをとったりしてはいけないそうですよ。
警察関係者から教わった。
なんとか罪になるらしい。グッと我慢してね。

でも、警察官は誠意があって、「てめぇ、これで何も出なかったらどうするつもりだ?!」とすごんだら、
「その時は謝りに行きます」と言ってて、僕はその通り、何も怪しいものは出ないから、シロで、
税理士さんを待たせてたから、3人を引き連れてクリニックに行って、謝らせて、潔白を証明しようと思ったら、
税理士さんも5分くらい遅刻してたかた、僕がクリニックの無人の鍵をあけ、しばらく誰も来ないから、
警察とはさよならしたんだけど、何だか僕が嘘をついてるみたいな雰囲気になって、大人気なかった。

僕の今年の「占い」は、あまり「良くないらしい」。
昔、六星占術の細木数子が、「同じ星座占いで、当たる人と当たらない人がいるのは、当たる人は、運が強い、のだ」と言ってた。だから、運勢が悪い年には悪い事が起きた方がいいらしい。
僕の今年の運気は良くない。

昔の人は、運の悪い事は、年始にすませておいた方がよい。だから、今時分に、そういうことが起きたほうが、「かえって運がいい」と強がったそうだ。

ポリ公事件であらためて、そんなことを思う、僕なのである。はじめに、アンラッキーを使いきったみたいな。

BGM. 伊藤つかさ「さよなら こんにちは」


髪の未来を選べるうちに(仮題)

6/Ⅲ.(水)2019 くもり 世界ハンド女子大会、垂れ幕、制作担当は女性?

クリニックのBGMで、昔の特撮の主題歌が流れてるのだが、勧善懲悪の世界観は、
「我は正義の味方で、悪い奴らをやっつける」と歌う。
それで思い出したのだが、サンリオ・ピューロランドはすごいことになってるらしい。

行った人に聞いたのだが、ピューロランドのショーに出てくる悪者はすごく「怖い」らしい。
そして、そこにキティちゃんの恋人のダニエルが出てきて、
「皆で力を合わせて、あの悪者をやっつけよう!さぁ、声を合わせて~」と呼びかけると、
そこに大天使・キティ様が登場なされる。
キティちゃんは、「ちょっと待って。どんな悪い人だって、そうなった生い立ちや理由があるはずよ」。
すると、悪者が改心し、子供たちにも良い影響を与える。
しかし、問題は、ダニエルの立場だ。

これを杉山さんに話したら、「ダニエル、かませ犬」と笑った。
かませ犬?
久し振りに聞いた単語だ。
実際に会話で使ってるのを聞いたのは、長州力の「かませ犬発言」以来、川原史上2人目だ。
杉山さんは、時々、面白い言葉使いやイントネーションを使う。笑い声は小鳥みたいで。

ところで僕は今週の土曜日、研究会があるので、早目に出ます。
そこでは2人の演者が発表するのを聞くだけのはずが、主催者のリクエストで、討論会の場で、
司会者から僕に質問が来るから、「これこれこんなことを言ってくれ」と頼まれている。

それをスタッフに打ち明けたら、「サクラじゃないですか」と指摘され、なるほど、と思ったので、髪色をサクラにしてみた。↓。

美容院の帰り道、自由ヶ丘の本屋で、「今の時代こそ力道山」という本を立ち読みしていたら、
たまたま居合わせた患者さんから、「センセーじゃないですか」と挨拶された。びっくり。

でも、読んでた本が、力道山、で良かった。恥ずかしい本じゃなくて。って、こういう場合、恥ずかしい本って何だ?

BGM. さくら学院(中元すず香)「 桜色のアベニュー 〜from SUZUKA〜」


狐祭りと、びっくりアート

2/Ⅲ.(土)2019 はれ 花粉症、はやる。

クリニックのインテリアに今日、二つ仕掛けを作った。カワクリお得意の、遊び心だ。

まずは、診察室にある、偽物語の月火ちゃんのポスター。↓。

さて問題です。この中に、狐は何匹いるでしょう?5匹ですか?不正解ですよ。ヒント。↓。

ここにも隠れています。だから正解は、6匹です。↓。

ついで、診察室前の通路にある美術館コーナーより、デルボーの絵画のポスター。↓。

この中に裸体の女の人は何人いるでしょう?3人ですか?不正解です。ヒントはここ。↓。

何かが飛び出てますね。これを引っ張ってみましょう。↓。

1人隠れていました。正解は、だから4人です。この絵は、受付の大平さんが作って仕込んでくれました。面白いでしょう?クリニックに来た時、みてみて下さいね。

BGM.P-MODEL「美術館で会った人だろ」


悩殺ダンサー・まりやの喜劇(仮題)

26/Ⅱ.(火)2019 くもり少しあたたかい

ラインをはじめまして、色んなスタンプを大人買い。
週末には、ポール・マッカートニーが日本語を喋るスタンプを買った。
「マイドー」、「オヤスミー」、「チョー、スバラシイ」などと話しかけてくれる。

不思議と僕らはラインが好きな世代みたいで、これまではメールをしても2-3日返信が来なかった奴らが、即レス。
「やっと、連絡、とりやすくなったね」だって。

大学時代に好きだった女の子。
当時、大原麗子がCMで、「愛は恋より少し大き目」と言っていたから、
原宿のキディランドで、牛乳パックのデザインの、バカデカイサイズの抱えるくらいの大きさのゴミ箱を買って、
誕生日に、「愛は恋より少し大き目…というから、少し大き目のプレゼントをします」というメッセージを添えてあげたら、
大層、いやがられた。
彼女も捨てたいだろうが、大き過ぎて捨てるに捨てられない。入るゴミ箱がないから。それに、そもそもゴミ箱だし。

そんなことばかりしてるから、好きな子からは必要以上に嫌われる青春でしたが、時は魔術師ですね、
猪木が馬場の追悼興行に出たように、今は彼女とラインでやりとりしています。

こないだなんて、2人して昔のアルバムを引っ張り出してきて、それを見ながらアレコレ話して、気付いたら深夜2時。
翌朝は心地よい寝不足で、コンビ二で「メガシャキ」を買って飲んだら、ジンジャーの風味が爽やかな味わい。
「エスタロンモカ」系の体ごと持っていかれるような力づくの覚醒感とは、ぜんぜん違いました。

そんなこともあって、「ザ・ヒストリー・オブ・かわはら」という写真集(アルバム)が増補されまして、なかなか好評です。
さすがに、ネットにアップは出来ないので、来た時、みたい人は言って下さいね。
若い、って、どんなジョークより破壊力がある、オモシロ、ですよ(笑)

今更ついでですが、最近、ウィキィペディアを覚えました。あれは便利ですね。色んなことを調べています。
今日は俳優の「宅麻伸(たくま・しん)」について調べました。

宅麻伸は、芸名で、宅麻、は本名で、伸、は「七人の刑事」の主演の「芦田伸介から、いただいたんじゃないかな」とされていて、
「逞しい~ん」のダジャレではないことが判明した。
我ながら、何やってんだか。

最後に、最近気になったテレビネタ。
アッコにおまかせ、で紹介してた週刊文春の最新号に、「結婚したい男ランキング」が出てて、衝撃の結果でした。
下は13才から上は80才まで、2300人にアンケートしたそうです。

さて、その結果は、

10位が、山P。
5位が、嵐の相葉くん。嵐は5人中4人が30位以内ランクイン。匂わせ恋人の二宮くんだけ圏外。

4位が、ムロツヨシ。ドラマで、若年性アルツハイマーの妻を愛す夫役が受けたそうですよ。

3位が、堂本剛くん。
パニックや突発性難聴にも負けず前向きな姿勢と、抜群な歌唱力が人気。

2位は、高橋一生。
タレントCM起用ランキング2位で、料理好きでポイント稼いで、恋愛スキャンダルの影響で1位になれなかったらしい。

1位は、

竹野内豊

です。
大岡山が舞台になったドラマ、義母ムス、の父親イメージが陽だまりのようで良かったようです。

カワクリ受付陣も喜んでいました。

BGM. RCサクセション「2時間35分」


人生はバレンタイン・デー~あの時君は若かった

14/Ⅱ.(木)2019 寒い 平成最後のバレンタイン、ぺろりんのチョコは目玉焼きチョコ

最近、面白いと思ったのは、トシちゃんの「キミに決定!」。
レッツゴー・ヤングの収録で会場の女の子がノリノリで映るんだけど、その目がスターを見る目でキラキラさせてる。
トシちゃんの生歌は確かに下手なんだけど、踊りというか、とにかく運動量が多く動き回るのである。
スケボーで登場したり、途中でジャパニーズというバックダンサーに囲まれて姿が見えなくなったかと思ったら、
その輪の中から足をおっぴろげたジャンプで飛び出るのだが、その跳躍力がすごい。
まるでトランポリンでも使ってるみたい。
そしてカメラは会場の女の子にパーンし、女の子の目はキラキラ2倍増。楽しい動画で何回もみてしまう。

それと、ナイツ、の、話を盛れない男、という漫才。これも何度もきいている。
どっちもユーチューブでみれます(きけます)。

今日はバレンタイン・デーだけど、こうみえて僕は昔はものすごくモテて、軽トラック1台分もチョコをもらった。
いつの世もセンスのある子はいて、1人だけ、歯ブラシをくれた。

「チョコ、食べ過ぎて、虫歯にならないように」というジョーク。
そういう面白い子がいたと言ったら、翌年は、皆、それがインパクトあったらしく、歯ブラシが山のように来た。
近所の歯医者がもらいにやって来た。

最近は、呑めない人にお酒をすすめるのはアルコール・ハラスメントと言うらしくダメなそうだが、
バレンタインに義理チョコをあげる(もらう)のもパワハラに該当しないかと国会で論議されたとか、しないとか。

毎年々々、チョコをくれる最長の人は僕が研修医の頃からずっとで28年連続の人がいる。
これは川原史上、母に次ぎ、第2位。母は41年。

BGM. よしだたくろう「Have a nice day 天然色写真編」


風景の起源

13/Ⅱ.(水)2019 はれ少しあたたかい 「ラテンの黒豹」ペドロ・モラレス、死ぬ。76才。

お恥ずかしい話だが、研修医に成り立ての頃、無断欠勤がバレて、ペナルティーで「2週間連続当直」の刑になった。
今でもそうだが、医者の当直は、翌日も勤務である。
当直は当直室で仮眠して、呼ばれたらすぐ病棟や救急外来に行くのが仕事。
だから、運が悪ければ、2週間まともに寝れないのだ。
でも僕は、へこたれなかった。勿論、自業自得だと反省した、のではない。
2週間、当直室から家に帰れない泊り込みという状況が、「日本一のホラ吹き男」の植木等みたいだと思ったからで。

映画で、臨時雇いで会社に入った植木等が配属された部署は、会社にとって何の関係もない古い書類の整理。
皆、やる気がない。

「ここじゃ、いくら頑張っても出世はないよ」と先輩から言われる。
すると、植木等は、底抜けに明るいテンションで、張り切って、荷物をまとめて会社に泊まり込み、仕事をする。
「そんなにまでして残業代が欲しいのか」という皮肉にも、<いいえ、残業代はビタ一文、いりません>。
そして、1人で、書類を全部、片付けてしまう。

労働組合は残業して残業代を取らないことを問題視し、同じ職場の人間達は「仕事がなくなってしまった」と不満を言う。
そうして、会社は仕方なく、植木等を他の部署に係長待遇で異動させる。ここからホップ・ステップ・ジャンプ!
東京オリンピックの直後の映画で元・三段跳びの選手だったという設定の植木等は、三段跳びの様に出世して行く。
高度経済成長の時代のサラリーマンに元気を与えたと言われる映画だが、今、観ても色褪せないパワーだ。

なので、僕も植木等のマネをして、家から色んな物を当直室に持ち込んだ。
浅草のマルベル堂で、クレージーキャッツのブロマイドをオーダーメイドで引き伸ばしてもらった。
それを当直室の壁に貼った。
陰気な当直室が、まるで僕の1人暮らしの部屋みたいに衣替えした。
評判を聞いて、何人もの看護婦さんや他科の研修医も覗きに来た。皆、「お~」って言ってた。
精神科の先輩には、「川原、やりすぎ!」と注意されたが、怒られはしなかったから、スルーした。

クレージーの特注ブロマイドは、今もカワクリの待合室のテレビ側のソファの方に貼ってあります。僕が医者になったのが平成元年だから、今年、31才になるポスター。↓。

これは最大限に引き伸ばしたから、ラミネートが出来ないので、結構、ボロボロになっていた。
それを受付の大平さんが、補修してくれることになったので、カメラマンとして同行する。
まずは、ポスターを一時、撤去。↓。

処置室に移動して、そこでテープで切れ目を丁寧に貼ります。↓。

綺麗に出来上がりました。大平さんの髪も綺麗です。↓。

元に戻しに行きましょう。↓。

話を、2週間連続当直、に戻そう。

丁度、半分の1週間が終った時点で、調子に乗った僕は、「トニー谷」のブロマイドの特注も発注した。
そのニュースに異常に反応した人たちがいた。
それは誰だと思いますか?
正解は、病棟のナース達でした。

意外と女性には、つらそうな姿をアピールするより、平気の平左、で明るく振舞った方が母性本能をくすぐるみたいだ。
ナースは一丸となって、僕の味方をした。
彼女らのナイチンゲール精神は組織立って、医者や教授や医局長に「いくら何でも可愛そうだ」と意義を申し立てた。

「過重労働でミスが起きたらどうするつもり?」
「川原先生だから笑って仕事が出来ているのよ」
「いえ、ああ見えて、顔で笑って心で泣いているのよ」
「あぁ、いじらしい」
「それに比べて、他の医者は川原先生に仕事を押し付けて、楽をしてるのよ」
「他の医者は、ズルイわ」

などと、本来、僕が無断欠勤したのが問題なのに、矛先が他の医者に向いた。
実際は、僕は研修医だったから、当直には必ず上級医の先生が日替わりで付いていてた。
「2週間当直」というのは、半分、洒落だった。

つまり、学生気分の抜けない僕に社会人の厳しさを教え込ませるための親心であり、問題を大きくしない配慮だった。
そして、2週間、毎日、日替わりで色んな先輩から、生の知識を吸収できるチャンスを用意してくれたのだった。
僕は、ゴールデン・ルーキーで、精神科医として期待されていたのだ。

そんな内輪な洒落は、ナースには通じない。
彼女らは、川原先生を守るためにはストライキも辞さず、の構えだ。
病棟でナースにストなどされたら、大変だ。
医者が、検温や配膳や採血や保清など、駈けずり回らなければならなくなる。
ナース・コールも医者がとる事態になる。
これには上層部もあわて、急遽、僕のペナルティーは1週間で解除された。

そして、医局長はナースの前で、僕を労う為の1席を自腹でもうける約束までさせられた。
憎憎しげに、医局長が、「川原君、何を食べたいんだい?」と僕にだけ見える角度で恐ろしい顔をして質問した。
僕は、<●●のうなぎ>と高級な鰻屋の名前を告げ、<個室で、コースにしてね>と答えた。
ナースを納得させるには、そうとでも言うしかない。それが最善の策だった。
そして、僕と医局長は週末、本当に二人きりで、鰻屋の個室でコースを食べたのでした。
さすが、名店!、うまかったですよ。
もう皆さん、ご承知かもしれませんが、僕はこういう空気、全然、平気なんだ。

えーと、何を言いたいかと言うと、カワクリの空間作りのルーツは、この2週間連続当直に起源があったのかも、と今思う。

BGM. 植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)「無責任一代男」


くよくよするなよ

12/Ⅱ.(火)2019 はれ少しあたたかい 猪木、ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~に登場!

平成も終るという。昭和・平成・●×の3つの元号を生きることになるのか。
父は、大正と昭和しか知らない。
母は、大正・昭和・平成を生きた。
親を抜いたり、肩を並べたりで、感慨深いものである。

僕が医者になったのは平成元年で、だから、精神科の経験年数を聞かれたら、今が平成何年かの数字を
そのまま言えばよくて、楽させてもらっていた。たとえば、今なら「31」年目である。
これからは足し算を駆使しないといけなくなるのか。

平成という時代は、精神科の中でも色んなことがおきた。
法律が改正されたり、アメリカの診断基準が大流行してドイツの伝統的な診断学が鳴りをひそめた。
「分裂病」「躁うつ病」「痴呆」という疾患名が「統合失調症」「双極性障害」「認知症」にとって変わった。

「痴呆」の進行を防ぐのに役立っていた薬たちが追跡調査で全部「効果なし」と判定されて市場から消えた時は驚いた。
アリセプトが出る前の、薬たちである。

うつ病の仮説も、モノアミンからセロトニンにかわってSSRIが登場した時、革命が起きたように思った。

「トラウマ」の概念も僕が研修医の頃と今では、180度ちがう。
当時は「心的現実」を重視するあまり、「外的現実」にはノータッチだったが、「いじめ」や「虐待」が深刻になり、
治療は「外的現実」の調整に重きを置く必要が出て、精神科医のケースワーカー化、などと揶揄された。

今後も医学の進歩や、社会の運動で、精神医学の「常識」は覆って行くのかもしれない。
それを発展と言うなら、それに対応して行かなくてはならないが、それに振り回されるだけでなく、
変わらぬ精神科医のアイデンティティーを持っていたいものだ。

昔、立川談志が、ざこば、と芸談をした時の話を聞いたことがある。
談志が「落語とは人間の業の肯定」と言ったら、ざこば、は、「うけりゃいいおまへんか」と答え、
それに対して、談志が「うけなくなったら、どうするの?」と返すと、ざこば、は、「何が言いたいねん?」。
談志は「うけりゃいいと思っていると、うけてるうちはいいけれど、うけなくなったら困るでしょ?」、ざこば「…」。
談志「だから、落語とはこういうものだと定義しておけば、うけなくなった時に困らないでしょ?」
ざこば「そんなもんでっしゃろか」だって。

話は変わるが、昭和の爆笑王・林家三平さん(今の笑点に出てる三平のお父さん)は、私生活でも人を笑わせることを生き甲斐にしてたようで、
キラ星のようにエピソードがたくさんある。
その中でも有名なのは、三平さん(さん、まで入れて呼び名。今の、所さん、と同じシステム)が脳梗塞で倒れて、
救急車で病院に運ばれた時、意識の覚醒水準を確認するため、看護婦さんが「お名前は?」と尋ねたら、
「加山雄三です(当時の2枚目俳優)」と答えたという。命がけで人を笑わしてる。

太宰治が、晩年(遺書代わりに書いたから、タイトルが処女作なのに、晩年)、で、自分の事を、道化、といって、
もし自分が死んだら、「この人は一生涯、ひとを笑わせるために生きた人です」と墓石に刻んで欲しい、というようなことを言ってたと思うが、
それは三平さんにこそピッタリだと思うし、僕もそういう生き方をしたいと思う。
三平さんのことを書くと長くなっちゃうから、この辺にしとくが、談志が、
「もし、三平さんが、皆さん、真面目に生きなきゃダメですよ、なんて言う時代が来たらそれは末世だ」と言っていた。
もう三平さんも談志も死んでるけど、今の世の中って、そういう意味じゃ「末世」かな?なんて時々思う。

僕は談志の説く「落語論」と、精神科医の仕事って似てるな、と折に触れ思うことがある。
たとえば、忠臣蔵の四十七志は英雄として語られるが、家来はおそらく300人以上いて、その中の47人だから、250人以上は逃げちゃってるのである。

でも落語は実際そうなったら、死ぬのを覚悟で討ち入りに行くより、逃げた人間にスポットを当てて、
「本来、人間って逃げちゃうでしょ?」というのが、歌舞伎や講談との違いはそこで、それを談志は、
「落語とは人間の業の肯定」と初期に定義した。

精神科はと言えば、根性論や、気の持ちようだという精神論で追い詰められた人に、
「いい加減」をすすめ、「テキトーに」やろうとアドバイスし、決して「がんばれ」とは言わない。そういう仕事だ。
そして、そういうことを患者に言うには、そういう価値観を持ってる必要があるが、お医者さんは総じて頑張り屋が多いけど、僕は例外で、性分として精神科向きだと思っていた。

ところが世は末世である。
三平さんが「皆さん、真面目に生きましょう」と言わなければならないように、我々の臨床でも、

困難があらわれると避けることで自分を守る「回避性パーソナリティー障害」や、
やりたくないことに対して、いやだ、という代わりにわざとゆっくりやったり忘れたフリをする「受動攻撃性パーソナリティー障害」と言う人が、
訪れて来るようになって、「ちょっとがんばった方がいいんじゃない?」とアドバイスすることもたまにある。

精神科医がそんなとことを言うようになったら、それこそ世も末だ。
ましてや僕がそんなことを仕事とはいえ言ってるなんて知ったら、教師や親戚は一斉に「お前が言うな!」とツッコミを入れると思う。
そうなると、精神科医のアイデンティティーというのも難しくなってくる。

そこで参考になるのは、やはり談志で、談志は「落語とは人間の業の肯定」が通じなくなった現代で、落語とは「イリュージョン」だと言った。
これは弟子たちの中でもよくわかってない人が多かったそうだが、これも精神科領域と近い関係にある。
イリュージョンは、こっち側から説明した方がわかりやすいと思う。カワクリのHP「クリニック紹介」から抜粋。

心にとって、「病気と健康」や「異常と正常」などに明確な境界線があるものではなく、中間の領域がある。
多くの精神の病気は、この領域がやられてしまい、保てなくなっているようだ。
病気を発症する時には必ずこの中間領域を通過するし、回復期にも同様に中間領域を通って良くなる。
川原クリニックでは、この中間領域を大切に考えている。
中間領域は、他にも「日常と非日常」や「常識と非常識」や「夢と現実」や「赤ちゃんと大人」の間にもある。
そこがうまく機能すると、「遊び」が生まれる。
日本語の「遊び」にはplayという意味の他に「ブレーキのあそび」のように余裕という意味がある。
このような言葉遊びやなぞなぞやジョークやナンセンスが中間領域の代表で、芸術の世界にも発展して行く。
クリニックの空間が遊びに溢れていて、始めはビックリしても、次第に居心地が良くなるのは、そんな計算もある。

僕のアイデンティティーは今の所、そんなところで落ち着いているのだが、一つ心配なことがある。
それは、談志が死ぬ直前に、「落語とは江戸の風が吹く」と言ったことだ。
江戸の風、については、談志はあまり説明してないから、僕もあまりピンと来ないのだ。
それに今は、「イリュージョン」で事足りているから。
でも、この先、また悩むことがあるかもしれないから、少しだけ考えてみるか。

ここでヒント。
晩年の談志は小さん師匠のネタをかけたりしていた。原点回帰か?
さらにヒント。
志の輔は、追善落語会の最後のゴタゴタの中で、「俺は富山の風だ」と言っていたこと。

そうやって考えるとなんとなく、その出自というか、ルーツのようなものの雰囲気が伝わる、あるいはそんな空気感になるってことかと想定できる。

僕の生まれ故郷は、湘南の茅ヶ崎。
東京からみると、藤沢、と、平塚、にはさまれた別荘地で、海水浴場で有名だ。
しかし、藤沢や平塚が区画整理されて綺麗な道路があるのに、茅ヶ崎はクネクネした道がとても多い。
まれに真っ直ぐな道があると、よほど珍しいのか、逆に、鉄砲道(てっぽう・みち)なんて通称がついたりする。
それは茅ヶ崎は、戦争の時に、ほとんど空襲を受けてないからだそうだ。

僕の思い出の中の茅ヶ崎も、温暖で平和なイメージだ。ちなみに僕の出身小学校の名前は、「平和学園」だ。そこに6年通った。平和な小学生だった。
僕の誕生日は、7月24日で、母がよく言っていたが、僕の生まれた日は、とてもお天気のいい、真夏の昼間だったらしい。

だから僕の最終(?)目標地点は、暫定的にここに決めておこう。
つまり、何もしなくても、何も言わなくても、クリニックに来てくれた人が、暖かい気分になってくれること。
お日様を浴びたような風を感じてもらうこと。とりあえず、そうしてみた。だから僕は、くよくよなんかしてられないのさ。

BGM. ヒカシュー「20世紀の終わりに」