14/ⅩⅠ.(月)2016
昨日の、さくら学院祭、のオープニングは、まさかの夏にやった舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」のパロディの寸劇で
始まりました。
これは、さくら学院の制服ではなく、セーラー服だから新鮮です。
11月3日にDVDが発売されていますが、今は売り切れで追加生産中です。
秋桜学園は、人里離れた田舎にある由緒正しいお嬢さん学校で、規律の厳しい寮生活を送っています。
そこに破天荒な少女が転校してから巻き起こるドラマで、「イジメ」が原因で廃校の危機にある学校を、
女生徒達が合唱部を立ち上げ、コンクールを勝ち進むことで学校を救うというストーリーです。
僕はこの舞台を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。
それはこんな話です。
その街にやって来た風来坊を、始めは教会のシスターは嫌っていました。
ところが教会が何かの圧力で潰れされそうになった時に、その男が中心になってシスター達と合唱団を作り、
人々の関心を集め、歌で教会を守るというお話です。
11月3日が「秋桜学園合唱部」DVDの発売日、11月5日が母の誕生日です。
今日の休みを利用して、「秋桜学園合唱部」と「野のユリ」を2本続けて観てみようと思いました。
ところが、うちには2台ブルーレイ・レコーダーがあるのですが、なんと2台ともディスクの再生が出来ません。
ケルト民族やアメリカ・インディアンは、先祖の魂は亡くなった後でも、身近な者のそばにいて、
身近な物に宿って、しるし、を送ってくれると信じていたと聞きます。
母が、何かを伝えているのでしょうか?
現代は昔のように足で映画館を回ったりしなくていいような便利な時代になりました。
その分、「いつでもみれる」、と、「その瞬間」を大切にしなくなったのかもしれません。
母は、「その時その時を大切にしなさい」、ということを伝えたいのでしょうか?
そう言えば、中学でブラバンに入ったら、先輩から最初に教わったのは課題曲のレコードの聴き方で、
「いいか、川原、これを1回しか聴けない、と思って聴けよ」とレコードを渡された時に言われて、
僕は今でも言いつけを守って、そうやってアイドルのCDの新譜などを聴いています。
「野のユリ」ですが、機械が動かないので仕方がないから、ネットであらすじを調べてみたら、
僕の記憶と全然ストーリーが違っていました。
だから上に書いた「野のユリ」の筋は間違っています。「秋桜学園合唱部」も違うかも…。
こういう間違いは、何故起こるのでしょう?
多分、フィーリングで覚えてるからで、細部は自分の知ってる他の作品を組み合わせて構成してるからなのでしょう。
人間の心の営みではよくあることなので、あまり気にはしないようにしています。
それより、ブルーレイを直さなきゃ。
11月はおとなしくしてよう⑭~さくら学院祭
13/ⅩⅠ.(日)2016 今日は舞浜
クリニックは今、カードキャプターさくらフェア展開中です。↓。
さくら、と言っても、さくら違い、今日は、さくら学院の文化祭に行ってきました。舞浜アンフィシアター。
ここは、しょこたんの30才のバースディをやった僕にとっては聖地です。
円形のコロシアムで、どこからでも見やすいです。
僕は、しょこたんの4公演を(2日間2公演づつ)別の席から観てるので実証済みです。
そんな僕の席は、A2列。しょこたんの時もそうでしたが、1列目には人を入れないので「2列」というのは最前列。
日頃の行いが良いのだ。運はこういう所で使いたいものだ。↓。
さくら学院のライブはスタンディングは禁止。皆、着席したまま応援用のフラッグを振る。下が、フラッグ。↓。
僕は最前列だから一生懸命に旗を振ろう。
こないだ友人(女)が好きなアーティスト(男)のライブへ行ったら最前列だったそうだ。
彼女はレアなグッズやTシャツで完全装備して行って一心不乱に応援したら、それにエキサイトしたアーティストが、
ステージ上から手を伸ばして彼女の頭を抱えてギュッと自分の胸に抱き寄せてくれた、という話を聞いたばかりだ。
あわよくば僕も同じ目に…?
さくら学院のステージはメンバーが動き回るから、全員のメンバーが交代で目の前に来てパフォーマンスをしてくれる。
外タレのコンサートなどでは座った席運で、「ずっとベーシストしか見えない」なんて悲劇もあるが、それがない。
至近距離で全員のメンバーを観たのだが、中でも、さすが、倉島 颯良、と、岡田 愛、のオーラは別格だった。
彼女らはステージ上からのぞきこむような姿勢でこちらを見て、目と目が合ったら、ニコリと微笑む。
手を伸ばせば届きそうな距離だ。嬉しさ(?)を通り越した。と・ま・ど・い。ドキドキ。
少女には無条件に「正義」があるらしく、彼女らは絶対的な自信を持っている。正直、ちょっと怖かった。
山道で熊に遭遇したら、下に逃げるのではなく、上に登れという。
そうすると熊より目線が上になり、熊は自分より大きいと勘違いして逃げて行くそうだ。
そんなエピソードを思い出して、後日、大平さんに話したら、「じゃ、センセーが、熊ですか?」と笑われた。
スタンディングは禁止、にはそういう効果もありそうだ。
太宰治の「女生徒」の一節ではないが、もしこの中から誰か一人を選んで結婚しなくてはならない、としたら…、
などと考えたら、僕は、新谷 ゆづみ、にします。
彼女は僕の好みの風貌で、かつ、前に立たれても心に非侵襲的だったからです。
下は、当日の販売グッズの生写真。左から、2番目が、新谷 ゆづみ。↓。
文化祭は、寸劇で始まり全員での歌の他、部活ごとの歌もあったが、中でも、面白かったのは、「さくらデミー女優賞」。
6人のメンバーがエントリーされていて、ラブコメっぽいシチュエーションに合わせて、男がグッと来るセリフを
(女でも可)各自が考えて、女優になりきってセリフを言う大喜利風の好評企画だ。
ちなみに男役のセリフは会場の観客が全員で声を揃えて(揃わない)担当する全員参加型。
お題のシチュエーションは、
ヤンキーにからまれてるところを先輩が助けてくれる。ところが先輩はヤンキーにボコボコにされる。
そこに駆け寄って、「センパイなんでそんなに無茶をするんですか?」とメンバーが言う。
すると先輩(観客)が、<それは、俺はお前のことが、す…す…なんでもねぇよ>と答える。
ここまでがシナリオ。
それを受けて、どんな歯の浮くようなフレーズを言うかを競い合うのだ。
そこで何が面白かったかと言うと、コンテストの形式をとっているから、一人づつが前に出て演じる時に、
残りのメンバーは後ろで待機して、順番の子のセリフを聞いているのである。
僕は席がステージに近かったので、センターで演じてる子より、残りの5人のリアクションがよく見えた。
後ろに控えてる彼女たちは、「off」で、スクリーンにも、セリフを言う順番の子のアップしか映らない。
つまり、後ろの彼女らの「素の顔」が見えたのだ。
それは、たとえば、ある者は「キャー」って叫んで嬉々として両手で自分の頭を抑える、とか、
ある者は、凍えるように自分で自分を抱きしめるようなポーズで目を閉じたまま俯いて顔を左右に振る、とか、
ある者は隣の者と手を取り合って地団駄を踏む、とか、
ある者は幼稚園のお遊戯の小鳥のダンスのように両手を羽の様にして、チュンチュンと飛び跳ねる、とか。
しかし、彼女らは、アイドルだ。
だからファンに見られてることを意識してステージに上がってる訳だから、その時点で「素」とは言えない、とも言える。
しかし、そこは反論したい。
お笑い芸人の誰かが(フジモン?)、アイドル全盛期の小倉優子のことを回想して、こんなエピソードを言っていた。
それは公開番組の収録で、お笑い芸人が下ネタを言ったら、小倉優子は大笑いしたのだが、
カメラが小倉優子の顔をとらえた瞬間に、不機嫌そうな表情に切り替えたそうで、そのタイミングがバッチリで、
「この子は、プロやわぁ」と思ったそうだ。
そんな、「公開番組の収録中に小倉優子が下ネタで笑う」、を「素」だとカウント出来るのなら、
さくらデミー女優賞のこの子らのリアクションも同じ次元のものとして「素」と呼んでも許されるのではないだろうか?
つまり何を言いたいかと言うと、「素」の顔が見れて良かった、というお話でした。
BGM.さくら学院「目指せスーパーレディー2016」
11月はおとなしくしてよう⑬~カワクリスマス
12/ⅩⅠ.(土)2016 あたたかい
ディズニーランドはもうX’MASらしく、カワクリもX’MAS仕様に。サンタ達のディスプレイは受付が担当。
受付カウンターの寝釈迦コーナー。↓。
エヴァのコーナー。受付カウンター。↓。
かんなぎ、の3人娘も受付カウンター。↓。
けいおん、のサンタ達は、オイル時計にまぎれて。。↓。
これは、けいおん、の澪ちゃん。イエス様の隣に。↓。
あれ、この澪ちゃんは、サンタの帽子をかぶっていたはずだけど、ないな。
去年、しまう時にどこかへやっちゃったのかな?
なんて思っていたら、「かっこいいドラえもん」にかぶせてありました。
ソネさんのいたずら。↓。
最初の写真の寝釈迦コーナーのサンタの寝釈迦は、カエルの寝釈迦ポーズの上にいます。
これもソネさんのいたずら。
大平さんによると、「まだX’MASには早いので、徐々に前に出して行きます」。↓。
今年の天候や季節は、「徐々に」という言葉を忘れてしまっているみたいだったから、
「徐々に」作戦は良いアイデアだと思いました。
ただし、X’MASソングは毎年「どこへ行ってもそれ」と不評なので、今年のX’MASシーズンののBGMは、
リア充を敵視して、ハワイアンや夏の歌を中心に、苦手な季節も否認して、
「今年の夏は暑いバイ」と暖房を効かせた部屋で半袖のTシャツで気取っています。
「~バイ」は熊本弁だと思っていましたが、方言に詳しいソネさんに聞いたら、
「熊本とは限りません。~バイ、を使うのは、地域より、年齢による差の方が大きいです」
と言ってました。
BGM.KUWATA BAND「MERRY X’MAS IN SUMMER」
11月はおとなしくしてよう⑫~疾病利得(しっぺい・りとく)
12/ⅩⅠ.(土)2016 あたたかい
今年はインフルエンザが早目に流行っているらしく、保育園とかでは学級閉鎖もあるとか。
クリニックでも、スタッフの予防接種はしています。
患者さんにはしてないので、あしからず。
インフルエンザと言えば高熱ですが、今回は高熱の話。ただし仮病。
今回のタイトルは、疾病利得(しっぺい・りとく)、です。
疾病とは病気のことで、利得は得をすることで、「病気で得するの?」って少し不思議に思うかもしれませんね。
これは難しいから専門的なことは最後に書きます。
これから書くのは、仮病の話です。仮病って厳密には疾病利得には含まれないかもしれないですが、そこは雰囲気で。
子供の頃でした。今頃の季節です。
川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。
応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。
それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。
でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。
平熱でした。
そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。
目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。
でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノックしました。
まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。
母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。
母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。
すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。
そして、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
心の芯からの思いやりとか、思いをやる、とか、見透かしてるけど見逃してくれる、とか、親身になるとか、
愛情を感じられる体験だったから、そこに固着せず、仮病を繰り返さなかったのではないかという体験をしてるから、
すぐ「疾病利得」うんぬん、って言う人は、仮病を使う人の気持ちや、したくて仮病をしてるんじゃないよ、って
核の部分の気持ちを感じ取れてないせいで、そこが本当に共鳴すれば、案外こじれないんじゃいかと思うのだけれど。
でも、それはやっぱり、甘いかな?
プロのいうことじゃないですね。
専門家仲間から、「病気をなめてる!」って怒られるのかな。嫌だな、大人になって怒られるの。
参考文献、弘文堂「精神科ポケット辞典」より、P148「疾病利得」。
「患者が精神的あるいは身体的な疾患であることにより得る意識的ないし無意識的で心理的・現実的な利益。
病態や不適応が患者にとり心理的な安定維持の手段になっている場合を第一次疾病利得、
疾病の結果二次的に得られる現実的利益(例えば学校へ行かなくて済む、補償金をもらえる、家族に大事にしてもらえる)
を第二次疾病利得という。
本人にとっては無意識であることが多く、意図的・作為的である詐病(さびょう)とは異なる。
疾病利得はしばしば患者の病態化を促進したり、治療を困難にさせる」
11月は、父の命日と、両親二人の誕生日があるから感傷的になるのです。反省、反省。
11月はおとなしくしてよう⑪~11月の図書&休部のおしらせ
11/ⅩⅠ.(金)2016 冷たい雨
11月の新刊を紹介しましょう。
ここでも紹介した「聲の形(こえ・の・かたち)」です。
映画を観て原作を読んでいない人は是非、読んで下さい。映画の謎が解けるかも。↓。
それに伴って、押見修造「ぼくは麻理のなか」はフィギュアケースの横の本棚に移動。↓。
そこの一番下の段に横に積んであります。↓。
前にここで紹介した「日本妖怪大全」は診察室の本棚、アグネス・ラムの横にあります。
どうしても観たい人は、声をかけて下さい。えっ?アグネス・ラムをみたい?ど…どうぞ、それも。↓。
昔、こういう記事は、「図書委員」とか「文化部」というものを作り、その人に任せていました。
アイデアは、「さくら学院」。
受付のスタッフにそれぞれ部活を作って、個性をアピールし、患者さんに親しみやすい受付にしていたのです。
僕の精神科治療のイメージは、
<精神科は、治療の道具が少ない。
人によって傷ついた人は、人によってしか癒されない。
だから、カワクリのスタッフは自分のパーソナリティーも治療の武器として大いに活用して欲しい>、です。
しかし、これには根強い反対意見があります。
前の病院で副院長をしていた友人には、
「何もトレーニングしてない人に勝手なことをされたら大変だよ。
君がそういうのを一番経験してるからよく知ってるでしょ?」
別の精神科のクリニックの院長をしてる友人は、
「受付に、話なんかさせないよ。変な事を言われたら、こっちの仕事が増えるだけじゃない?」、
とほぼ同意見。
患者さんの中からも、苦情はありました。
「受付とのコミュニケーションなんて要りませんよ。それより会計や予約をちゃんとやって欲しい」
「先生やカウンセラーに会いに来てるんだから、受付なんて誰でも一緒ですよ」
「ベラベラとずっと喋ってるのがうるさい」
「若い男の患者にばかりチヤホヤしてる」
などなど。
これらの意見はごもっともなのだが、それでも僕の主張は変わらない。
それは僕が医学部の臨床実習の時に、それは灰色の青春生活だったが、唯一、白衣を出しに行って、受け取る時の、
クリーニング屋のバイトの娘の笑顔に支えられて頑張れた恩がある。
彼女はそんなことを知らないだろうけれど、世の中ってそんな風にして回ってる面もあると思うのだ。
受付の仕事は医療の分野だ。医療の分野で大切なことは、…色々ある。
時々、「可愛い女の子」とお話したいならキャバクラへ行け、という意見も聞く。
なんとなく哀しい気分になる。
キャバクラが悪いと言っているのではない。
職業に貴賎はないし。
夢を売ったり買ったりするのも経済だし。
だけど、おべっかやお世辞はコミュニケーションに不可欠だが、それだけで済むと思うのは甘い。
どんな職種でも接客対応にはある程度、共通した王道があると思う。
それは、「ウソが少ない」ことではないかと思いたい。
下は、「俺はまだ本気出してないだけ」の③巻から、
あるキャバクラ嬢が、お客の前ではプレゼントをもらって、喜ぶ顔をして、↓、
客が帰ったら、「処分して」と冷たく言い放つ。人相が悪くなってますね。↓。
寒い日の雨より冷たいですね。
そもそも論ですが、受付に、なぞなぞ、やブログの記事を書いてもらったのは、僕が<楽したい!>という思惑でした。
しかし、それで受付の仕事が増えてしまい、特に今は受付の入れ替わりも激しく、カワクリは過渡期で大変な時だから、
受付が肝心の受付業務や医療事務がおろそかになる方が患者さんには打撃だから、今はそちらに重点を置かせて下さい。
だから、しばらくは受付の、お知らせの記事、や、なぞなぞ作成、は休部です。
下は、そんな心象風景、町並みの冷たい雨で濡れてはがれかかったポスターのような、今はもう誰も解かない、なぞなぞ。↓。
冬来たりなば春遠からじ。もうじき余裕が出来て、受付に皆さんとのコミュニケーションを任せられる日がやって来ます。
それまでもう少し待っていて下さい。僕もあきらめずにやります。
クリーニング屋のバイトの娘のおかげで今の僕があると思っているから。
BGM.ハイ・ファイ・セット「冷たい雨」
11月はおとなしくしてよう⑩~おしゃべり大将
11/ⅩⅠ.(金)2016 冷たい雨
精神療法のテクニックで、「ヒア&ナウ」(今ここ)というのがあります。
カウンセリングでは、「何を喋ってもいいですよ」と自由に喋ってもらいます。
すると、例えば、「あの時の、誰々は、話が通じてるのかどうか判らなくて不気味だった」とか、
逆に、「あの時の、彼々は、みんなが自分の敵だったのに、味方をしてくれて嬉しかった」など、
とその場で思いついたことを語ります。
「ヒア&ナウ」では、数ある話題の中から、わざわざそれを選んだには、無意識的な意味があると考えるのです。
大抵は、「ゼァ&ゼン」(あの時、あそこで)の話題です。
それを「ヒア&ナウ」(今ここ)で考えてみるというのは、こういうことです。
つまり患者さんは意識では、「昔」とか「どこか」の話をしていますが、
無意識的には(今ここ)での治療者との関係を語っているのでは?、と仮定してみる技法です。
そうすると、先にあげた例文の前者は、治療者に話が通じてるのか?と不安になっているのでは?となり、
後者は、ここでは味方をして貰っているとお礼を述べているのだとか、
或は、味方をしてくれますよね?とそう釘をさしている、となり、
治療関係を関わりを持ちながらも俯瞰的に観察してみよう、という第三者的な視点を持つことの推奨なのです。
「ヒア&ナウ」が上手になるためには、トレーニングも必要です。
コツは、相手の他愛もない話を一々「被害関係妄想」的に<自分のことを言っているのでは?>と勘繰ってみることです。
「ヒア&ナウ」は厳密な設定をした上で有効な物なので、皆さんは日常生活に取り入れない方が良いでしょう。
たとえば、デート中に、「あの映画のセリフはうそ臭い」などと言われて、一々、<俺がうそ臭いのか?>
なんてハラハラしてたら、身がもたないですからね。
なんでいきなり、こんな話をしてるかと言うと、話は数日前に遡ります。
しばらくご無沙汰をしてるお店の大将とバッタリ外で会いました。「お久し振り」みたいな挨拶をしました。
そんなことがあると、お店に顔を出さないと気まずいじゃないですか?
それで、今日のお昼に受付のソネさんを連れて大将の店にランチに行きました。
大将は、陽気で楽しい人物です。
しかし、時々、<そんなこと聞くか?>という侵襲的な質問をして来ます。
僕は少し、苦手だったりします。良い人なんですけどね。
案の定、大将はソネさんに質問攻撃です。
以下、「」が大将のセリフ。<>がソネさんのリアクションです。
「休みの日は何をしています?」、<家にいます>
「ひきこもり?」、<ひきこもり、です>
「今日は家にいたいって時に、友達に誘われたら?」、<断ります>
「グイグイ来る友達だったら?」、<グイグイ来る人は友達じゃありません>
「電話でグイグイ来られたら?」、<切ります>
と、大将の包丁さばきも見事だが、大将の質問攻撃をいなせにさばくソネさんも牛若丸のように見事でした。
っていうか、大将、気付けよ。これ、「ヒア&ナウ」だろ。
BGM.ビートルズ「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」
11月はおとなしくしてよう⑨~おはよう
11/ⅩⅠ.(金)2016 冷たい雨
今朝はアラームの代わりに、雨音で目が覚めた。
毎朝、大岡山北口商店街を通るのだが、必ず、果物屋のおじさんが「おはようございます」と大きな声で挨拶をしてくれる。
都会に住み慣れると、人と朝の挨拶をするなんて、滅多にないから、僕も「おはようございます」と挨拶を返す。
これは大岡山にクリニックを開いて良かったことだ。
おじさんの挨拶のバリエーションは果物のように季節によっていくつかあって、シンプルだが味がある、ベテランのいぶし銀。
「寒いですね」、「雨ですね」、「暑いですね」などと、書き出してみると、そのまんまだ(笑)
フルーツは、加工しない方が良いという、あきんど、のポリシーなのか?
それが今朝の冷たい雨の挨拶では、おじさんは「たまらんですね」と言った。
解説すると、「今日の天気は雨でおまけに寒いから、今年は秋がなくて急激に寒くなったから、たまらんですね」
の略だろう。
僕は、「たまらん」というフレーズは、
性的に興奮するが我慢を強いられる時に発する男の発情のエモーショナルな記号だとばかり思っていた。
「辛抱たまらん!」、みたいに使う。
だから、今朝のおじさんの挨拶の、「たまらんですね」、は新鮮!
まるで、もぎたて果実!
BGM.RCサクセション「多摩蘭坂」
11月はおとなしくしてよう⑧~ストーブ
10/ⅩⅠ.(木)2016
朝刊に、トランプ氏が米大統領に世界が動揺、と書いてあったが、よしだたくろうの歌ではないが、
まつりごと、など、もう問わないさ。気になることと言えば今をどうするかだ。
僕が指示をした覚えはないのだが、受付は契約された時間より早く出勤してるみたいだ。
それは歴代の人がそうだからで、そう申し送られているみたいで。
多分、患者さんの中にうんと早く着く人がいて、その人が外で待っていたのがきっかけみたいだ。
そう言えば、うちの父も似たようなことをしていた。
ある冬の日、クリニックの開業時間前に患者さんが外で行列してると噂を耳にした父は、
外は寒いだろう、と、扉を開けて患者を中に入れて、ストーブを点けて、自分は一旦家に帰って、開業時間まで家にいた。
小学生の僕は、<勝手に早く来てるのだから、従業員が来るまで外で待っていれば良いんじゃない?>と言ったが、
父は、寒そうだから、と中に入れてあげてた。結構、朝の早い時間だったと思う。
冬休み、僕は代わりに、扉を開けに行く係りを変わってあげた。
そうしたら、父からも、患者さんたちからも、大変感謝された。
僕は、こういうことは大切なんだと思ったものだ。
そういうことをスタッフに言ったことはないはずなのに、自然とそうやってくれているから不思議だ。
しかし、それには不都合なこともあって、例えば、朝の掃除がしずらいとか。
時間通りに来る患者さんが、すごく待たされるとか。
つまり、早く来てる人は受付時間前に受付を済ませている。それは、厳密にはルール違反だ。
きちんとルールを守っている人が損をして、それなら自分も次から早く来よう、という悪循環を呼び、
受付時間と言うルールが、あってないようになってしまった。
午後の受付も、2時半からなのに、午前中に診察券だけ出しに来る人もいて。
たまにならいいが、毎回だと、ちょっと。
午後の受付時間を守っている人の診察が午後4時とかになるのは、さすがに不公平だ。
だから、これは近いうちに是正するつもりだ。
あまり規則・規則とうるさく言うのは好きではないが、これは患者さんを守るために仕方ない。
と言う訳で、近いうちに受付時間の厳守の徹底をお知らせするチラシを配布します。
手書きの文をコピーします。その方が説得力があるでしょう?
その原稿も早く作らなきゃだ。
父はどうしていたのかな?
11月はおとなしくしてよう⑦~定例会
9/ⅩⅠ.(水)2016 木枯らしが吹く
そろそろ飲み会のシーズンで、落語も「芝浜」の季節が近付いて来ましたね。
診察でも、お酒の失敗談の後悔が聞かれることが多くなりそうです。
クリニックを開業する際に、昔の師匠に、<チーム医療をまとめるコツは何ですか?>と聞きました。
すると、その答えは、「月に1回、呑み会をすること」でした。これは師匠が実践されていることでした。
効能は、普段一緒に働くお互いの人柄を知り、コミュニケーションをとりやすくなることや、
普段は言えないスタッフの不満を聞いたりするはけ口にするためだそうです。
師匠は、一滴も酒を呑めませんが、それなのに朝まで酔っ払い達に付き合っていました。
カワクリでも、月に1回「定例会」というミーティングに、受付・ナース・心理の総勢9名が集まります。
カワクリの方向性や問題点の洗い出しや意見交換を目的にします。
この時、お酒は普段言えない事や、普段話しにくい相手に意見を言うためのツールに使われるものです。
師匠の言いつけを僕は守っているのですが、師匠の意図と違うのは、カワクリで本気で呑むのは、僕だけなのです。
僕は一人で酔っ払い、途中から意識がなくなります。
まるでスタッフが僕の普段のお疲れを労うために、貴重な時間を割いて、僕の酒に付き合う会になってないか?
大抵、翌日、後悔します。<ヤバイ、記憶がない。何かまずいこと言ってないかな?>って。
師匠が言ってた会の趣旨と随分、かけ離れたものになってしまっていますが、なってしまうも何も、はなから、
師匠と僕では人間の基礎条件が違うのだから、真似しようとしたことがそもそもの間違いでした。
「定例会」の意味も考え直さないといけないですね。勤務時間外の時間を拘束するのはよくないですからね。
基本は、自由参加ですが、断りにくいですからね。
大学病院の教授に聞いたら、最近の若い医者は、忘年会や新年会も来ないそうで、自分の時間を大事にするそうです。
僕は、<それは大学病院に栄光がみえないからでは?>と言ったのですが、教授は嫌そうな顔をして、
「川原が若い頃とは、時代が違うんだよ」と言っていました。そんなものだそうです。
時代が違うと言いますが、よく考えたら、いつの世も、酔っ払った者勝ちじゃないですか?勝ち負けの問題じゃないか。
ノミニケーション、って死語だしな。
無理に呑みに誘うのって、なんとかハラスメントって言うのでしょう?
パワハラ?モラハラ?カワハラ?
他人に気を使わせて呑むってのは、呑む方も、付き合う人と同じくらいに疲れるから、誰にも良い事ないな。
考え直すか、「定例会」。
全然、話は変わるけれど、断酒会、の人に聞いたのだけれど、酒飲みが酒を止めにくい季節は圧倒的に冬だそうだ。
夏の生ビールの爽快感はまだ我慢できるらしい。
だけど、独り身に人肌の熱燗はやめられないのだって。
そう考えると、「芝浜」ってよく酒やめれたね。まるで、人間の業の「否定」、みたいですね。
とりあえず、「定例会」、春までは続けるか。
BGM.ザ・ランチャーズ「真冬の帰り道」
11月はおとなしくしてよう⑥~家族
8/ⅩⅠ.(火)2016
ボブ・ディランがノーベル賞をとったことにビックリしている僕はボブ・ディランに詳しくない。
泉谷しげるが「家族」というLPを出した時に、何かのレビューで、これは製作期間を考えると、
ほぼボブ・ディランのなんとかというアルバムと同時期の発想で、つまり泉谷はディランに影響されたのではなく、
同じ時期に、同じような事を考え、同じような作品を発表したのだ、ということを読んで興味を持ったくらいだ。
その頃、中学生だった僕は、何か人間の文明とか、比較文化人類学的なことを考える時の良い素材ではないか、と思った。
恐山のイタコと、沖縄のユタが、似たような側面を持っていても、地理的にも遠いし接点もなさそうなのに、
「イタ」と「ユタ」の発音が似てる、のと同じように、泉谷しげるの「家族」とディランの何かが似てるそうだ。
肝心のディランの方を覚えてなくて恐縮だが、そんな「家族」が、今日のテーマ。
僕は、たとえばコカコーラのCMのように、仲間が集まって、美味しいものを食べて、(バーべQでも可)、そういう‘場’を、
自分の家庭に作りたいと、Xmasでも盆暮れでも、行き場のない人がウチに来て、楽しめればいいな、と
ずっと小さい頃から思っていた。
こんなことを言っては、しょってるが、そういう素質はあるし、サービス精神はあるし、そういうことは好きだし努力もするから、
将来、結婚して子供を作ったら、そういう家族を作りたいな、と思っていた。
そういうお手本になるホームパーティーにも招待されたことがあるから、イメージ・トレーニングは出来ている。
結論から言うと、僕が思い描いていたものに近い形になっているのが、「カワクリ」だと思う。
まだ努力は必要だし、スタッフの熱量も大切だ。
それには、まずスタッフをその気にさせないといけないのだが、まぁ、それはいいとして。
どうして僕がそんなことを思うようになったかと言うと、僕の家は茅ヶ崎の眼科の開業医で、僕が幼い頃から周囲には、
お手伝いさんも含め、たくさんの従業員がいて、昭和40年くらいは住み込みとかあったし、常に同じ屋根の下に3~4人の
若いお姉さんと一緒に暮らしていて、僕はたくさんの大人に囲まれて育った。
その中には、19才とか20才の人もいて、僕が浪人してる頃には、そんなに年も違わないし、シチュエーション的には、
恋におちてもおかしくなかった。落ちなかったけど。受験生だけに。
愛くるしかったあの人達が今は、50~60才なんだと思うと、年齢なんて関係ないな、と思う。
ご対面番組で芸能人が子供の頃、世話になった「お姉さん」に会うという企画で、相手はもうヨボヨボなのに、
泣いて抱き合うシーンに、僕は最近、違う意味を見い出したりして、<まぁ、良いものだな>と思ってる。
僕が同窓会に参加するようになった心持ちとも共通するのだろう。
きっと死期が迫っているのだ。朝からカラスがうるさい。
さて、うちの父は、大正10年生まれの酉年だった。酉年は夜明けを告げる干支で、初代運が強いと祖母が言っていた。
父の歴史はよく知らない。
北海道にいたというが生まれはどこか知らない。
北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?
その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに、父は何故か医者になると言い、
満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。
戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は
戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。
そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。
父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。
結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、
ということを常に考えている子供だった。
父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、
従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、
スポンサーになった。
子供にも教育費ばかりでなく、学校にものすごい寄付をしていた。
たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。
今と違って当時は節税とか開業医の経費の優遇とかあったのだと思うが、だから出来たのだとも言えるが、
別にそこにお金を使わなくてもいいのに、純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、
自分の家族に味あわせたかったのだと思う。
それはまるで質の良いマスターベーションのように思える。
なぜなら、父は家族旅行には一切参加しなかったから。
足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし、主目的は自分が楽しむよりは家族が楽しむ事で、
家族の家族や友達が楽しむことが主眼で、眼科医だけに、そこには自分がいるのは照れがあったのかもしれないし、
経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったのかもしれない。
医学部じゃ習わないしね。
大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。
夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。
周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、
父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。
しかし、そんな父の性格は大正生まれだし、頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようだ。
すぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「こいつは金だけ稼いで、死ねばいいのに」とか思っていた。
ひどいと言われれば、ひどいものだ。
小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。
その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。
あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。
僕は末っ子だったから、結構、俯瞰的に家のことを見れていて、父の葛藤もみていたと思う。
兄は父の跡を継ぎ眼科医になって医者としてのアイデンティティーを引き受ける重責だ。
僕は父の願いである、兄弟で眼科医になって、父と3人で医院を大きくする願いを無視した。
つげ義春の「ねじ式」じゃあるまいし、そんなに目医者ばかりいてもしょうがない。↓。
父は僕が浪人してる頃に胃癌が発覚して、リタイアを余儀なくされた。
僕が父とまともに喋れるようになったのは、その1年で、父は仕事に出れない体力で、僕は所属する学校がないから、
顔を突き合わす時間が出来たのだ。
その後、父は死ぬから、現役で大学に受からなくて良かったと思う。
現役で受かってたらどう思っていたかは判らないが。
「癌とは、未練の整理に良い物だ」、と言ったのは立川談志で、僕と父はその1年は色々な話をしたものだし、
父は僕の服を真似したり、僕のタバコの銘柄を真似したり、本当は病気にタバコはイケナイけれど、
不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。
僕は精神科医になった分、家庭人としての父が出来なかったリベンジを任されてるような気になっていた。
しかし、実際蓋を開けてみたら、DNAとは怖いものだ。
僕の子供が子供だった頃、僕は子供専門の病院に勤めた。
すると、自分の子供の運動会と、病院の行事の運動会が同じ日で、僕は病院(仕事)をとってしまったり、
家族と離れて病院で生活してる子供(患者)たちのために、1年365日、病院に出て行った。5年くらい続けた。
結果として、僕は父と同じだ。ひょっとしたら、父の悲哀をいつも近くでみていたから、心のどこかで父を乗り越えると、
父が一人ぽっちになってしまうと情けをかけたのかな。
つまり、父が成し遂げられなかった、心の豊かな生活とは何かをみつけて成就することを躊躇したのかな。
父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、
そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、
気になってしょうがない。
クリニックの開業当時は10年前だから、今の僕とでは体力が全然違う。
初期設定で昼休みを1時間としたのは、仮に午前の診療が長引いて昼休みがなくなっても大丈夫、という自信。
<ノンストップで12時間は働ける>、と豪語していた。
気の狂った発言だが、当時誰もそれをおかしいと言わなかった。
仮に、「無茶ですよ~」、とやさしい人が言ってくれても、僕は平気で無視してたと思うが。
それが最近、体にこたえるようになった。
身近な同業者は、「きっちり2時間昼休みをとる。その間、入口は閉める」、と忠告をする。
<なるほどなぁ>、と近頃思うのだが、開院当初にそんな事を言われてもバカにして相手にしてないのだから、
今更、宗旨替えも出来ないし。
季節の変わり目もあるし、天候の寒暖差もある。年のせいもあるし、体力にひびく。
開院時と同じペースでやってるのは、さすがにこたえてくる。
だけど幸い頭はまだ回る。あと10年はもつと思う。
アントニオ猪木がストロング小林戦の試合後に、
「こんな戦いを続けていたら10年もつ選手生命があと3年で終わるかもしれない。それでも私は戦う!」と言った。
燃える闘魂だ。それに結局、猪木以外は皆死んでるし、猪木だけ長生きだし。これでいいのだ。
しかし、先週は本当に疲れて、診察の合間に<このまま死ぬんじゃないか>と思った。
大和言葉では、「疲れる」と「憑かれる」は語源が一緒だというから、何か悪い者に「つかれた」のかと思い、
エネルギー療法の先生に、重点的に手当てをしてもらい、何とかしのいだ。
堺正章のお父さんの堺駿二はコメディアンの鑑で、舞台の上で死んだ、という幻聴が診察の合間ごとに聞こえてきて、
<俺はここで死ぬのか…>と覚悟を決めた一週間でした。
11月8日は、父の命日。こんな記事を書いたりするのも、季節のせいならいいんだけれど。
BGM. よしだたくろう「風邪」