12/Ⅱ.(火)2019 はれ少しあたたかい 猪木、ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~に登場!
平成も終るという。昭和・平成・●×の3つの元号を生きることになるのか。
父は、大正と昭和しか知らない。
母は、大正・昭和・平成を生きた。
親を抜いたり、肩を並べたりで、感慨深いものである。
僕が医者になったのは平成元年で、だから、精神科の経験年数を聞かれたら、今が平成何年かの数字を
そのまま言えばよくて、楽させてもらっていた。たとえば、今なら「31」年目である。
これからは足し算を駆使しないといけなくなるのか。
平成という時代は、精神科の中でも色んなことがおきた。
法律が改正されたり、アメリカの診断基準が大流行してドイツの伝統的な診断学が鳴りをひそめた。
「分裂病」「躁うつ病」「痴呆」という疾患名が「統合失調症」「双極性障害」「認知症」にとって変わった。
「痴呆」の進行を防ぐのに役立っていた薬たちが追跡調査で全部「効果なし」と判定されて市場から消えた時は驚いた。
アリセプトが出る前の、薬たちである。
うつ病の仮説も、モノアミンからセロトニンにかわってSSRIが登場した時、革命が起きたように思った。
「トラウマ」の概念も僕が研修医の頃と今では、180度ちがう。
当時は「心的現実」を重視するあまり、「外的現実」にはノータッチだったが、「いじめ」や「虐待」が深刻になり、
治療は「外的現実」の調整に重きを置く必要が出て、精神科医のケースワーカー化、などと揶揄された。
今後も医学の進歩や、社会の運動で、精神医学の「常識」は覆って行くのかもしれない。
それを発展と言うなら、それに対応して行かなくてはならないが、それに振り回されるだけでなく、
変わらぬ精神科医のアイデンティティーを持っていたいものだ。
昔、立川談志が、ざこば、と芸談をした時の話を聞いたことがある。
談志が「落語とは人間の業の肯定」と言ったら、ざこば、は、「うけりゃいいおまへんか」と答え、
それに対して、談志が「うけなくなったら、どうするの?」と返すと、ざこば、は、「何が言いたいねん?」。
談志は「うけりゃいいと思っていると、うけてるうちはいいけれど、うけなくなったら困るでしょ?」、ざこば「…」。
談志「だから、落語とはこういうものだと定義しておけば、うけなくなった時に困らないでしょ?」
ざこば「そんなもんでっしゃろか」だって。
話は変わるが、昭和の爆笑王・林家三平さん(今の笑点に出てる三平のお父さん)は、私生活でも人を笑わせることを生き甲斐にしてたようで、
キラ星のようにエピソードがたくさんある。
その中でも有名なのは、三平さん(さん、まで入れて呼び名。今の、所さん、と同じシステム)が脳梗塞で倒れて、
救急車で病院に運ばれた時、意識の覚醒水準を確認するため、看護婦さんが「お名前は?」と尋ねたら、
「加山雄三です(当時の2枚目俳優)」と答えたという。命がけで人を笑わしてる。
太宰治が、晩年(遺書代わりに書いたから、タイトルが処女作なのに、晩年)、で、自分の事を、道化、といって、
もし自分が死んだら、「この人は一生涯、ひとを笑わせるために生きた人です」と墓石に刻んで欲しい、というようなことを言ってたと思うが、
それは三平さんにこそピッタリだと思うし、僕もそういう生き方をしたいと思う。
三平さんのことを書くと長くなっちゃうから、この辺にしとくが、談志が、
「もし、三平さんが、皆さん、真面目に生きなきゃダメですよ、なんて言う時代が来たらそれは末世だ」と言っていた。
もう三平さんも談志も死んでるけど、今の世の中って、そういう意味じゃ「末世」かな?なんて時々思う。
僕は談志の説く「落語論」と、精神科医の仕事って似てるな、と折に触れ思うことがある。
たとえば、忠臣蔵の四十七志は英雄として語られるが、家来はおそらく300人以上いて、その中の47人だから、250人以上は逃げちゃってるのである。
でも落語は実際そうなったら、死ぬのを覚悟で討ち入りに行くより、逃げた人間にスポットを当てて、
「本来、人間って逃げちゃうでしょ?」というのが、歌舞伎や講談との違いはそこで、それを談志は、
「落語とは人間の業の肯定」と初期に定義した。
精神科はと言えば、根性論や、気の持ちようだという精神論で追い詰められた人に、
「いい加減」をすすめ、「テキトーに」やろうとアドバイスし、決して「がんばれ」とは言わない。そういう仕事だ。
そして、そういうことを患者に言うには、そういう価値観を持ってる必要があるが、お医者さんは総じて頑張り屋が多いけど、僕は例外で、性分として精神科向きだと思っていた。
ところが世は末世である。
三平さんが「皆さん、真面目に生きましょう」と言わなければならないように、我々の臨床でも、
困難があらわれると避けることで自分を守る「回避性パーソナリティー障害」や、
やりたくないことに対して、いやだ、という代わりにわざとゆっくりやったり忘れたフリをする「受動攻撃性パーソナリティー障害」と言う人が、
訪れて来るようになって、「ちょっとがんばった方がいいんじゃない?」とアドバイスすることもたまにある。
精神科医がそんなとことを言うようになったら、それこそ世も末だ。
ましてや僕がそんなことを仕事とはいえ言ってるなんて知ったら、教師や親戚は一斉に「お前が言うな!」とツッコミを入れると思う。
そうなると、精神科医のアイデンティティーというのも難しくなってくる。
そこで参考になるのは、やはり談志で、談志は「落語とは人間の業の肯定」が通じなくなった現代で、落語とは「イリュージョン」だと言った。
これは弟子たちの中でもよくわかってない人が多かったそうだが、これも精神科領域と近い関係にある。
イリュージョンは、こっち側から説明した方がわかりやすいと思う。カワクリのHP「クリニック紹介」から抜粋。
心にとって、「病気と健康」や「異常と正常」などに明確な境界線があるものではなく、中間の領域がある。
多くの精神の病気は、この領域がやられてしまい、保てなくなっているようだ。
病気を発症する時には必ずこの中間領域を通過するし、回復期にも同様に中間領域を通って良くなる。
川原クリニックでは、この中間領域を大切に考えている。
中間領域は、他にも「日常と非日常」や「常識と非常識」や「夢と現実」や「赤ちゃんと大人」の間にもある。
そこがうまく機能すると、「遊び」が生まれる。
日本語の「遊び」にはplayという意味の他に「ブレーキのあそび」のように余裕という意味がある。
このような言葉遊びやなぞなぞやジョークやナンセンスが中間領域の代表で、芸術の世界にも発展して行く。
クリニックの空間が遊びに溢れていて、始めはビックリしても、次第に居心地が良くなるのは、そんな計算もある。
僕のアイデンティティーは今の所、そんなところで落ち着いているのだが、一つ心配なことがある。
それは、談志が死ぬ直前に、「落語とは江戸の風が吹く」と言ったことだ。
江戸の風、については、談志はあまり説明してないから、僕もあまりピンと来ないのだ。
それに今は、「イリュージョン」で事足りているから。
でも、この先、また悩むことがあるかもしれないから、少しだけ考えてみるか。
ここでヒント。
晩年の談志は小さん師匠のネタをかけたりしていた。原点回帰か?
さらにヒント。
志の輔は、追善落語会の最後のゴタゴタの中で、「俺は富山の風だ」と言っていたこと。
そうやって考えるとなんとなく、その出自というか、ルーツのようなものの雰囲気が伝わる、あるいはそんな空気感になるってことかと想定できる。
僕の生まれ故郷は、湘南の茅ヶ崎。
東京からみると、藤沢、と、平塚、にはさまれた別荘地で、海水浴場で有名だ。
しかし、藤沢や平塚が区画整理されて綺麗な道路があるのに、茅ヶ崎はクネクネした道がとても多い。
まれに真っ直ぐな道があると、よほど珍しいのか、逆に、鉄砲道(てっぽう・みち)なんて通称がついたりする。
それは茅ヶ崎は、戦争の時に、ほとんど空襲を受けてないからだそうだ。
僕の思い出の中の茅ヶ崎も、温暖で平和なイメージだ。ちなみに僕の出身小学校の名前は、「平和学園」だ。そこに6年通った。平和な小学生だった。
僕の誕生日は、7月24日で、母がよく言っていたが、僕の生まれた日は、とてもお天気のいい、真夏の昼間だったらしい。
だから僕の最終(?)目標地点は、暫定的にここに決めておこう。
つまり、何もしなくても、何も言わなくても、クリニックに来てくれた人が、暖かい気分になってくれること。
お日様を浴びたような風を感じてもらうこと。とりあえず、そうしてみた。だから僕は、くよくよなんかしてられないのさ。
BGM. ヒカシュー「20世紀の終わりに」
こんばんは。
私の母は生まれも育ちも辻堂で、小中高と平和に通っていたそうです。
先生とは世代が異なるため、実はクラスメイトでした…というようなことはないのですが(笑)
あの学校の当時の校風や、エリザベスサンダースホームとのつながりの話などを聞かされて育ったため、幼稚園時代の先生とホームレス女性とのエピソードとともに、ひとりの男の子が先生になってゆく過程をなんとなく想像してしまいました。
暖かな居場所は普通の人たちにとっても得難いものですが、精神を病んだ人間にとっては自分の内側(あるいは少数の友人との間)に温かな居場所を作り上げられたら上々、と結論づけざるを得ないくらい、この世界に居ることは困難極まりないです。
でも、なぜ病院に精神的拷問を受けに通ってるんだろうと思わずにすむ、暖かい気持ちになれる精神科があったなら。
それはたぶん、北風と太陽のような気持ちになるでしょう。
でもどうか、先生もご自愛くださいませ。
忙し過ぎると、人は心をなくしますから。
もふもふもふもさん、OHA!
僕はちょっと端折ったのです。東海道線は、正確には、藤沢→辻堂→茅ヶ崎→平塚の順なのですよね。
藤沢には、さいか屋があり、辻堂はSMAPの中居くんの地元で、茅ヶ崎は加山雄三とサザンオールスターズの出身地で、
馬入川を渡ると平塚で、たなばた祭りで有名です。
僕の小学校の頃は、付属の女子中高はちょっと不良の子もいて、僕はそういうお姉さんに可愛がられて、意気投合して、生意気に人生の話などしてました。
僕はボンヤリと、この人と結婚するのかな?と思ったりしてました。恋に恋するお年頃でした。
小学校でちょっとエッチな「北風と太陽」のパロディのマンガを読んだのを覚えてます。
女の旅人に北風が雨風を吹きつけて服をビチョビチョになり、女の人は上着やスカートを脱ぐのですが、「下着だけは脱がないわよ」と意地になります。
そこにお日様がポカポカ照ると、女の人は、下着を乾かそうと、裸になって、太陽が勝つ、というマンガでした。
僕が平和学園に通ってる頃に読んだ、ちょっと成人向けのマンガで読みました。
どうして、こういうどうでもいいことは覚えているのでしょう?
>忙し過ぎると、人は心をなくしますから。
その通りですね。僕も人間だから、ムラッ気もあるから、気がついたら教えて下さいね。
せっかく精神科に来て、嫌な思いはさせたくないから、よろしくお願いします。
こんな狭い世界で隠してもしょうがないからネタ元を書くと、BSの「アメリカの今を知るTV」でこの間見たのですが、「ファーリー」の特集でした。
動物の着ぐるみを着て外に出て活動する人たちの事で、たまにメンタル系の特集をやるんです。着ぐるみに入っている人達は、社会不安障害の人とか、PTSDになって人里離れて暮らしている人とか、体に障害を負った人とか。
レポーターと話すと手が震えていた人が、着ぐるみを着ると堂々と外に出られるようになったり、面白いのが、人里離れて暮らしていた人がセミナーの壇上で言った言葉が「不安のある人はそのエネルギーを他に向けることなんです」って言っていて、これは先生の言っていることと似ている気がする。そして僕は不安だとここによく書き込んでいる。
この人が最初にやったことは、子供のころ好きだった「ゴーストバスターズ」のコスプレらしくて、コスプレすると外に出ることがそんなに苦痛じゃなかったんだそうです。
2次元とか擬人化とかアニメとかってもしかしたら、人を救う力があるのかなあと思いました。
タイムマシンにお願い ホームカミングさん、OHA!
ファーリー、調べましたよ、初めて知りました。
ちょっと違うけど、動物の毛皮をまとう、で、僕は手塚治虫の「火の鳥・太陽編」を思い出しました。
太陽編は、火の鳥シリーズの中でもっともロマンティックで、僕は大好きで、心が弱ってる時によく読みます。
ところで、今日は、バレンタイン・デーですね。木曜ですね。
チョコだけもらいに来たら?大平さん、早番ですよ。前に「ここ」で約束してなかったっけ?
どうも。
この精神科、つまり川原クリニックに来て、不愉快になったことはないですよ。たまーにありますが、それは、本当にたまーにです。
皆さん、もう昼ごはんかな? 今日は午前中に目覚めたんですが、朝食は暖かいご飯に茶漬けと、フルーツでした。
昼時になると、大岡山のマックは並んでますね。味には定評があるし、安いこともあるんでしょう。
こないだ、先生が、かつカレーの話をしていましたが、今の私には無理です(笑)おなか痛くなっちゃう。お医者さんって、タフじゃなきゃ出来ない仕事なんだなあと思います。
papaさん、こんにちは。
「たまーに」って気になりますね(笑)あっ、例の2人組の時かぁ。
僕は今日のお昼は、直前まで「ココイチ」に行くつもりが、店先で、急遽、中華を食べたくなり、中華に行くと休みでした。
近くに新しく出来た「魚●」という刺身のノボリの出てる店があったから、入ってみると、普通の魚屋でした。
そしたら、その近くの鰻屋がまだ開いてたから、そこで鰻重と焼き鳥を食べました。
鰻屋の焼き鳥が美味しいのは、鰻のタレで焼くからだと思ってたら、鰻屋にたまり醤油の業社が来てて、
おやじさんが「たまり醤油は、焼き鳥に使うんですよ」と言ってるのが、聞こえて、ちょっと驚きました。鰻屋豆知識でした。
はい、カワクリに行くといつもお日様をあびたようにあったかい感じになります。
是非この感じをいつまでも感じられるようにしてもらえればうれしいです。
sinさん、こんにちは。
そう言ってくれると俄然、やり甲斐になります。
僕らはどこに向うかわかりませんが、植物のつるのように、いつもその先には、お日様が照ってると思います。