川原暗黒時代~中学生はつらいよ

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

3/Ⅶ.(水)2024 はれ 東京都知事選候補者、内野愛里の政見放送にびっくり

僕のルーツは湘南ボーイ・茅ケ崎生まれ。茅ケ崎は小6までいて(大学時代も父の死後帰る)それはまぁ楽しく過ごさせてもらっていた。小学校卒業が昭和49年で長嶋が引退した年。つまり茅ケ崎での少年時代は、巨人が「V9」し、大鵬が貴ノ花に負けて引退し、輪島vs北の湖、若三杉・麒麟児らの「花の二八組」の大相撲ブーム、アイドルは天地真理・新御三家・フィンガー5、お笑いはドリㇷ・コント55号に夢中になり、テレビは巨人の星・あしたのジョー・タイガーマスク・天才バカボン・ハレンチ学園、マンガはがきデカ、ドカベン、永井豪などなど、僕ら子供のカルチャーが時代を引っ張った。

僕は受験をして東京の中学へ。兄が同じ学校に行ってたから母と3人で東京のマンションに二重生活(土日は茅ケ崎に戻る)。中1は五反田、中2~東中野に住んだ。僕の中1は昭和50年。長嶋が引退したのが昭和49年で僕らの卒業の年。「僕は今年〇〇小学校を卒業しますが〇〇小学校は永久に不滅です」とおそらく日本中で卒業文集に書かれた唯一の学年でしょう。中1に上がるとすぐに国鉄がスト。それを暗喩した「およげたいやきくん」が流行り、たい焼きが売れて、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」のヒットで里心がつき小学校のクラスメートの女子に心が動いた。キャロルやダウンタウンブギウギバンドが流行ったから「非不良」の少年もオシャレでポマードを買ってリーゼントにした。僕もしてた。バルカンという整髪剤を使っていた。

中2の2学期、夏風邪をひいて、席替えのタイミングでしばらく学校を休んだ。久しぶりに登校したらもうグループが出来ていてどこにも所属出来なかった。いじめられたり無視されたりはなかたっが、話せる子がいず友達は出来なかった。おまけに中二病の年齢だから、自分から迎合して友達にしてもらおうなんて努力もしないし、「みんなバカだぜ」とか「金魚の中に鯉が一匹泳いでいる気分だ」とやせ我慢した。

運の悪いことにサブカルチャーも商業主義に走り共通の話題に乗れずプロレスも猪木が格闘技路線に入りビミョーだった。アメリカナイズされたカウンターカルチャーが表層上滑りなファッショナブルで好きな服を着る楽しみも減り、「UCLA」なんてプリントされた意味の分からないトレーナーを並んで買った。学校は不登校という選択肢もなかったから毎日学校に行って誰とも喋らず帰って来ることもあった。部活はブラバンでホルンを吹いてたから先輩が少し気をかけてくれて休み時間にゴムボールを投げプラスティックのバットで打つ野球に誘ってくれて救われたが本当につまらない時代だった。1975-1977年くらいで、お笑いもドリㇷが衰えてタモリやたけしはまだ登場しない時代で、伊東四朗と小松政夫が電線音頭をテレビでやってラジオで鶴光とせんだみつおを聞いていた。僕はリアルタイムの音楽より過去のものを掘り返しビートルズやよしだたくろうを買い漁り、漫画はつげ義春や手塚治虫や水木しげるに夢中になりちょうど中野ブロードウェイにそういうのを扱う古本屋があってそこに通った。小さな店だからそこの店主と仲良くなり色々教えてもらった。その店の名が「まんだらけ」。まだ今みたいに大きくなる前の。

僕には友達がいなかった。友達がいないというのは、さびしい奴と憐れに思われたり、親は心配するだろうし、教師はしゃしゃり出そうだから、なるべく顕在化しないように気をつけた。

万有引力とは引き合う孤独の力だ、と寺山修司は言っていたが、僕と同じように友達のいない男と万有引力のように引かれあってつるむようになった。そいつはガタイがデカく乱暴者でリアル・ジャイアンみたいな奴で加減を知らないから、皆から恐れられ敬遠されていた。

どういうきっかけでそうなったのかサッパリ覚えていないのだが、僕らは学校が終ると彼の家まで遊びに行った。彼の家の近くには神田川が流れていて、彼は当時の流行の最先端のスケートボードを持っていた。僕らはスケートボードに最適な坂まで通い、一人が坂の下で見張りをし、もう一人が坂の上からすべった。もし車や自転車が来たら合図を送り、衝突しないように、途中で降りれるためである。坂の下には神田川。僕らは何度もスケートボードを神田川に落としては、長い棒で突っついて拾い上げ、またすべっては落としてを繰り返した。何日も何日もひたすら同じことをやった。

そのうち、僕とジャイアンが仲良くなったことが学校で知れ渡り、僕の学校でのカーストは上がった。用心棒がついたから。

学内で学年無差別の柔道大会があり、ジャイアンは柔道部でもないし、中学生のクセに、破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、決勝戦まで行った。決勝の相手は高校柔道部のキャプテンで最上級生の男だった。体格はジャイアンがまさったが、キャプテンにもメンツはある。試合は力と意地の攻防で、結局、足技か何かで、我・ジャイアンがよろけてポイントをとられ、逃げ切られ、準優勝だった。

表彰式。優勝者は圧倒的な声援を受けた。その半分は、よくぞ生意気な怪物を退治した、という判官贔屓な賞賛だった。準優勝者も表彰されたが、それはアウェーのような大ブーイングだった。僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、「いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー」と声をかけた。

周りの上級生は、「なんだ、あのチビ」「誰だあいつ?」といぶかしい顔をしてこっちをにらみ、クラスメートは空気を読んで、「おいやめとけよ」、と制止する者もいたが、僕はまるでシカト。拍手を送った。
「ともだち」は、僕の方を振り返って、はにかんで笑った。

そんな中学生時代でした。

BGM. 阿部敏郎「あせるぜ」


6 Replies to “川原暗黒時代~中学生はつらいよ”

  1. 阿部敏郎の「あせるぜ」、大好きな曲ですよ。「小学校の時に席を並べてたあいつが」で始まって、3番か4番までその歌詞でスタートして、それぞれが「あせるぜ」というフレーズで終わる曲。阿部さんは、当時、TBSテレビ、月から金曜、午後5時からの「ぎんざNOW!」の後期の司会してましたね。
    中学校時代の私は、暗いんだか、明るいんだか、よくわからない感じでした。折しも当時は、流行り言葉だった「受験戦争」と、ツッパリがえばる、校内暴力時代の前夜。いじめが横行、色々ありました。
    私は、76年、小学校6年あたりから高まった音楽熱が更に上がり、当時の渋谷陽一さんのやってた「ヤング・ジョッキー」、大貫憲章さんの「若いこだま」といったラジオ番組、雑誌「音楽専科」と、TVKテレビ、今のテレビ神奈川の「PIP」(本当はこれ、略称で、本来の番組名があるのですが、いくら検索しても出てきません)などを聞いて、見て、フル稼働させて情報収集、少ない小遣いで、LPレコードを買ったり、エアチェックしたテープを聞いたり。
    厳しい現実を音楽で回避していた時代でした。
    色々なことがありましたが、先生の言うとおりの文化にひたってましたね。マンガ熱も高まりました。まんだらけは、さすがに知りませんでしたが。
    あの中学校は、いやだったな。無理してでも、私立中学へ入るべきでしたよ。そこには、大していじめも、校内暴力もなかったと聞いて。
    疲れ果てて、ようやく卒業、担任の先生の勧めもあって、ついに精神科デビュー。以後、40年以上通って、今に至る。
    まあ、つらい時代を通り抜けて、今でも同期の誰かと酒飲むと、その時代の話は出ないけど、色々と話しますね。
    高校は入ったものの、不登校して、何十回も「ジョンの魂」聞いて、80年代が始まります。あれから44年。あと2か月で還暦。早いもんだな。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      まさか「あせるぜ」を知ってる人がいるとは思いませんでした。時代的には、「どおくまん」の「嗚呼!!花の応援団」が流行ってる頃でした。みんな真似してましたが、僕は気にくわない派でした。「1969年でRockは死んだ」というロマンを愛する僕は「ミュージシャンは27才で死ぬべき」でその証拠に「4J」=ジミヘン、ジャニス・ジョプリン、ジムモリソン、ブライアンジョーンズは皆、27才で「1969~1971年に死んだ」と記憶していて、そこで「Rockは死んだ」からビートルズも解散するし、あとは商業ロックだと見下してました。クラスの奴らはキッスやエアロスミスとかクイーンとかベイシティローラーズなどの「分かりやすい」洋楽を歌謡曲の延長で聞いてましたよ。だからクラスメートと話は合わなかったですね。関西フォークやエレックレコードなんて言っても伝わらないし(笑)
      TVKはとにかく映らなかった。映りが悪かったですね。プロ野球の民放の放送の前後を放映してくれてたからよくみてたけど画像が悪くて。

      中学はオシャレでみんながポマードでリーゼントしてました。サタデーナイトフィーバーが流行るくらいまではみんなそうでした。生徒会長もそうでした。変な時代ですね。
      6年くらい「非リーゼント」時代が来て、本当の不良やこだわりのある人のみリーゼントを貫き僕らは撤退、その後、横浜銀蝿でまた「ポマード&リーゼント」が流行ります。流行は繰り返すですね。さすがに横浜銀蝿の時は僕は高3~浪人生だったのでそんな真似はしませんでした。確か吉田拓郎が篠島のアイランドコンサートをしてた時代なので、拓郎のマネをして「カーリーヘア」にしてました。リーゼントとカーリーが川原髪型黒歴史ですね。
      僕は中学時代の知人は誰とも交流がないんです。同窓会にも呼ばれたことがないから、まったくその頃を話す相手はいません。ただ一人でレコードを聴くだけです。意外とキッスなんていまだに聴きますよ。僕の暗黒時代の幕を閉じるのは「1978年」。石野真子のデビューです。世界が総天然色に変わりました。でもそれはまた別の話なので、ではまた~

      下はよく聴くキッスの歌。ドラムのピータークリスがリードヴォーカルをとっています。

      https://www.youtube.com/watch?v=GUFuJQATLZA

  2. 日本政府も、GDP2パーセントも削減して、軍事拡張をしていますね。アメリカに対して歯向かうことが出来ず、ぺこぺこして、相も変わらず。この先、どうなるのかなと不安にもなりますよ。
    トランプが「第三次世界大戦」というフレーズを使って、バイデンに歯向かっていましたが、「あなたにそんなフレーズが吐けるんですか」と言いたくなりましたね。無神経というか・・・・。
    多くの昔を生きてきた日本人が、「昔の戦局に向かっていった様子に似ている」と危機感を抱いているようですが、今の沖縄の人たちを見ていると、気の毒になります。
    こんな暑い、疲れる時に、こんなシビアな話題を出してすみません。でも、今日の東京新聞見て、不安になってしまって。
    国民の意志を無視したことだけはやめて、と思いますね。
    キッスの「ハードラック・ウーマン」を聞きながら、見ながら、「まだこの頃のアメリカのほうがよかったな」と思って、こういうコメント出しました。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      いみじくも明日は選挙ですね。
      岡林信康に「アメリカちゃん」という歌がありますが、その頃ともまた今のアメリカは変わってる気がしますね。
      南沙織は沖縄出身ですが、記憶ではデビュー当時はまだ沖縄は返還前だった気がします。フィンガー5は返還後ですね。わずか1-2年ですが。

      キッスのピータークリスのペイントは「猫」ですが、何故猫か?、という問いに「昔乗ってた飛行機が落ちたが下に猫の大群がいて、クッションになってくれて助かった。それから猫のペイントをしてる」と何かのインタビュー記事で読みました。僕は「キュウリが嫌い」です。「何故、キュウリ?」と聞かれた時、ピータークリスのマネをして「昔飛行機に乗ってたら~下にキュウリ畑があって~」と食べない理由を作ってたことがあります。中学生時代の思い出であります。ピータークリスのソロでは「ベス」も好きです。

      https://www.youtube.com/watch?v=1LE6ON9ROzE

  3. ジミヘンとジム・モリソンが共演したセッションのCDがありますよ。正確に言えば、ジムは、酔っぱらって、叫びまくるだけなんですが。「ファック・ミー、イエース!」「ファッキン・フェイバリット」「ファック・ユー、ベイベー」とか、へべれけ状態で叫びまくってます。ジミヘンのプレイは、すごいです。他の競演人も、有名な人らしいです。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      それは知らないです。でもありそうですね。その時代に青春時代だったらどんなに楽しかったでしょう。毎週毎週レコードが出るのが楽しみで。
      ピーターバラカンの若い頃の話なんか聞いてると羨ましいですよ。

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