7月最期の頁は「上手な川原達二の作り方~男親編」

31/Ⅶ.(水)2024 はれ パリオリンピック、日本、金メダル総数は1位。

 

父は1984年11月8日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その寺を父は知りません。縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてません。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月は僕のお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は父に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理でした。カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、堂々と好きになっても許される安心感がありました。天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」だという噂があったが、真偽の程は定かではないです。僕の父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうように頼んでやるから」と勉強をするようにと交換条件をチラつかせました。

(2)森昌子が「せんせい」でデビューした。僕と一緒に歌謡番組を観ていた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。父は堅物だが、時々おかしなことを云う。僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、「今日からタッちゃんのお姉さんよ」、などと言われても困ると思った。その頃、モンチッチ、まだいなかったけど。茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。「マミー」は「くれんの?」と答えた。「あげるよ」と僕は言い、こいつらはお似合いだな、と森昌子は「マミー」にまかせた、と思い、気を楽にした。

(3)僕が小さい頃、父は頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようにすぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えていた。ひどいと言われれば、ひどいものだ。小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。

(4)父の歴史はよく知らない。北海道にいたというが生まれはどこか知らない。北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに何故か医者になると言い、満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。

(5)父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、ということを常に考えている子供だった。父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、スポンサーになった。子供の学校にものすごい寄付をしていた。たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、自分の家族に味あわせたかったのだと思う。それはまるで質の良いマスターベーションのように思う。

(6)父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、気になってしょうがない。

(7)母方の祖母は、「タッちゃんのお父さんは、トリ年生まれだから、夜明けを告げる人で、だから立派に一代で財を築いた」と幼い僕に説明した。僕は、「じゃ、僕は大人になっても働かなくていいね」と言ったら、祖母は狼狽して、「タッちゃんはトラ年で一番強いんだから、お医者さんになって、お兄ちゃんと一緒にお父さんと3人で病院を大きくしないと」と言った。昭和40年代の医者の子供は皆、「後を継ぐのが当然」のように育てられて、良い悪いではなくて、そんな時代だったのだと思う。

(8)小4の時、手の骨を骨折して、父の知り合いの整形外科の医者にかかり、その家族と付き合うようになる。クラスに医者の子は僕だけだったので、よその医者の家の様子を知るのは、自分の家と比較して自分を客観視する上で参考になった。父の知り合いの病院は茅ヶ崎の南湖という海岸の方にあって、これで治療が全部、おしまいという日に、父の友人のお医者さんは車で家まで送ってくれた。家族総出で。僕の家は両親とも運転免許証をもっていなかったから、家族が一台の自家用車で移動するという空間にお邪魔するのは新鮮だった。その家のお父さんが運転手をして、僕が助手席に座り、後部座席に奥さんと子供が2人いた。「人生ゲーム」みたいだと思った。子供は、僕より年少の人見知りをしない騒々しい男の兄弟だった。道中、彼らは父親に向かって、「ねぇ、このお兄ちゃんを治したのは、パパ?」と後ろから話しかけていた。父の知り合いの医者は、ハンドルを握りながら、子供たちに、「違うよ。タッちゃんが一生懸命、自分で治したんだよ」と答えた。僕は、この家では子供は自分の父親を誇りに思うんだ、と思って、自分にはそういう気持ちが欠けてるな、と思った。僕は自分の両親に車内でのやりとりの一部始終を報告した。「お父さんの友人の医者は、自分が治したと自慢してもいいのに、治療は患者の治そうとする気持ちが大事だと教えてたよ。なかなか大したものだよ。あの兄弟は、将来医者になって、あの病院を大きくすると思うよ」と僕は言った。すると、僕の父と母は、顔を見合わせて、困ったような顔をして黙り込んだ。僕は、その瞬間の「間」をよく覚えている。その後、僕は疲れて、居間でそのままうたた寝をした。母が僕に毛布を掛けた拍子に目を醒ましたが、同時に両親の会話が耳に入って来た。父「さっきの達二の言い分を聞いたか?」。母「ええ」。父「達二は、将来、駄目かもしれないな」。母「あの子は、難しいから」。その後、父母、沈黙。僕は、重い空気を読んで、タヌキ寝入りを続行。

(9)父は、僕が二十歳の頃、胃癌が見つかって、医者をリタイアした。子供の頃は、あまり父と話さなかったが、父が死ぬまでの1年弱はよく話した。父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、揃いで着て喫茶店に行ったりした。医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。本当は病気にタバコはイケナイけれど、不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。

(10)父が死ぬ直前。兄はもう医者になっていて僕は医大生だった。僕は毎日、学校の実習を終えるとお見舞いに通った。父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、ある日、2人きりの時にすべてを教えた。父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」と言われた。

(11)父は家族旅行には一切参加しなかった。足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし自分が楽しむよりは家族が楽しむことが目的だったのだろうけど、きっと、経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったからだと思う。医学部じゃ教えないから。大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。

(12)父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。AZもその1人だった。AZは僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。藤巻が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。

(13)いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。しかし、僕は本当に実感がなかったから、「いや、本当に悲しくないんですよ~」と軽く(明るく?)答えたら、「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。

(14)うちの父は顔が広いから色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。でも、僕は思った。「この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、今日のところは譲ってやろう」。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。それは、家庭用のカラオケの機械だった。父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことがある。そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、1から医学校に入り直したらしい。詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」ってインプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、ふとカラオケを購入したのかもしれない。カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、「チッ!」と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。おそらく父が好きな歌なのだろう。しかし、おそろしく丸印が少ない。僕は、「い」のページで目と手が止まった。二つ、丸印が並んでいる。一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる 誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。

(15)子供に何かを教わるというのは、親として喜ぶべきことなのだろうか。そういえば、小3の頃、父に「医師会の忘年会」でやる出し物の相談をうけたことがあった。父は短‘歌’や‘芸’術には明るかったが、流行‘歌’や‘芸’能界には暗かった。そこで、その分野では、父の知り合いの中では最も長けてると思われる人物=我が子の知恵を拝借しようというわけだ。僕は、「医師会の忘年会」という響から、堅物の年寄りのヨッパライの集まりだと即座に判断し、当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」のB面の「大変歌い込み」を教えてあげた。これは、♪エンヤートット、エンヤートット♪という掛け声で始まる民謡「大漁歌い込み」の替え歌で、♪大漁だよ~♪という所が♪大変だよ~♪という風になっている。シャイで下戸で音痴な父が、いくら酔っ払いの前とはいえ、歌を披露するとなると、一つ間違えれば、「ジャイアン・リサイタル」だ。(当時、ドラえもん、まだないけど)。それでも本人自らが、♪大変だよ~♪、と歌い上げてしまえば、先手必勝である。周囲も納得せざるをえまい。大変なんだから。ドキュメンタリーともいえる。演じる方も大変だが、聞く方だって大変だ。指名した人に責任がある。そんな、「大変歌い込み」。実況中継に近い。同情と共感が入り混じって、拍手さえ起こるかもしれない。そんな目論みだ。父は、僕の指導の下、なんとか1番だけを覚えた。会のあと、父は上機嫌でご帰還し、大変感謝された。父親の役に立ったというこの体験は、その後の僕の性格形成に、なんらかの影響を及ぼしたと思う。

BGM. ザ・ドリフターズ「大変歌い込み」


28 Replies to “7月最期の頁は「上手な川原達二の作り方~男親編」”

  1. 最近は、地方は知りませんが、都会では、お通夜のあとの酒盛りって、しなくなりましたね。以前からそういう傾向はありましたが、コロナが拍車をかけました。私が子供のころは、もうしょっちゅうでした。
    最近は、関係者の弔問客も、お通夜が終わると、バラバラに帰るか、女性たちだったら、近くのファミレスで、ドリンク・バイキングとか、その程度だけだと聞きます。酒盛りは、お酒代や、部屋のお金も払わないといけないから、それも理由でしょう。私としては残念な気もします。
    私の父も、若い頃、結核にかかったことがありました。療養している所で、窓から外の道を見ると、自分たちの建物の前だけ、人が小走りに去っていく。「ああいうのを差別って言うんだ、って思ったよ」って、生前言ってました。
    私、今日の風呂で、鼻血を出したんです。バスルームの中で。湯船につかり、早めに出て、顔を1回洗って、右耳を洗ってたら、片方の腹に血が落ちてる。鏡を見て、すぐ鼻血とわかりました。動脈から出る鼻血は、喉にすごい血が流れるので、それがないと確認し、鼻を押さえると、すぐ血は止まり、頭を洗って、外に出て鏡を見るとまだ止まってない。ティッシュを入れて、身体を拭き、外へ出て、麦茶。単なる鼻血とも思えず。ここのところの無理もあったと。気の病み過ぎ。暑さ。
    恐くて、タバコも吸ってません。昔、動脈から鼻血を出し、救急外来へ行って、担当の若い女医から「禁煙!」と言われたことを思い出しました。
    「そろそろ頃合いかな」と思いつつ、やめられない。色々なことを思いつつ、ブログを読ませていただきました。

    1. ぴぴさん、おっはー

      7月は誕生月だったので両親の思い出の記事をそれぞれ書いてみました。これが、2弾目。
      最初の母の記事は評判が良く、自分としても生きる前向きな愛情を感じながら書きました。一方、今回の父の記事は、白鳥の歌のように、孤独や人生の悲哀あるいは戦争というものを感じざるを得ません。男親と女親の差でしょうか?シングルレコード盤のA面の曲とB面の曲の関係のようなカップリング。キャッチーな代表曲はA面にあり、玄人好みの名曲はB面に多いという、みたいな。

      昨日、愛用してたリュックが壊れました。山口百恵のデザインだったのですが、今日から中川翔子の物に詰め替えました。百恵ちゃんのがバツタモンだったのに対し、しょこたんのは公式のだから、きっと丈夫でしよう。
      ではまた〜

  2. 私も、リュックの中の物を分ける部分が外れて壊れたので、新しいのに変えました。
    アマゾンのどこに行っても、しょこたんも山口百恵のも見当たりませんね。特に欲しいとは思いませんが、先生には似合います。

    香港や中国では、三浦友和や山口百恵が有名です。テレビの「赤い~」シリーズをやって、大ヒットしたらしく、よく知られています。「恋する惑星」という香港映画でも、長い香港の階段を、主人公の男が「三浦友和のバカヤローッ!」と広東語で言って、走って駆け上がるシーンがあります。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      山口百恵のリュックは「アマゾン」で買ったバッタモンです。アマゾンには、時々、気をつけてみてるとバッタモンが現れます。芦田愛菜のリュックもありました。
      他方、しょこたんのはファンクラブの特典なので一般販売はされてないでしょう。

      さすが香港・中国映画詳しいですね。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      先週の「笑点」が岩手からやってました。明日の消印有効で、「笑点」の観覧募集をやってるから、受付の羽田さんに頼んで、ど派手なポストカードで申し込みをしてもらいました。
      当たれば観に行きます!場所は都内某所。

  3. …あ、どうもこんにちは。
    『こんなモンチッチみたいな奴』です。
    ホント、毎日アツぃですね(汗

    さて、告知です。

    次回(4週間後)にお伺いした時、少々報告があります。正確には、要点や概要をお伝えすればそれで済んでしまう?お話だとの自覚はあります。…んが、トータルで語ると一晩ほど掛かる見通しです。さらに?私の語る見通しとは『通常の1.5倍』らしいぜと、ホワイトカラー時代から同僚たちの間で評判でしたから、そ~りゃもぅ!気が抜けやしません。

    …まぁその、気を取り直して進めます。

    今日のエピソードについては中途半端に序盤のみをツマミ食いしてしまいましたので。機会に恵まれましたならば続きを。

    なので、ちょっと文化部長さんに出所後のアイサツをして来ますね。
    …では、また。

    1. 散文気分さん、こんにちは。

      茅ケ崎は詳しいですか?暑いですね。
      報告、原さんにも伝えました。
      我が・文化部長は、今日、新しい記事をアップする予定です。8月だから。そちらの方もよろしくどうぞ。
      ではまた~

  4. こんにちは。

    育児と家事はどのくらい頑張れば、自分が壊れず尚且つ怠惰にもならないラインなのか、
    ちょうど良い匙加減が今だに分からずにいます。

    気付けば頑張りすぎていていつか誰かに爆発するか、手を抜いて休息を増やして逆にモヤモヤするか。

    自分で加減をできる環境に感謝しようと、文字を打っていて感じました。
    一杯一杯になるとキレやすくなるのは何故でしょう。

    森に、山に行きたいです。
    自然に行きたい と思った時、関東近郊でおすすめはありますか?

    1. Mさん、こんにちは。

      小児の精神科で「グッド・イナフ・マザー」という用語があります。育児においては、母は「100点満点」より「65点」くらいがいいと言われてます。
      そのくらいの方が、お母さんが気楽って意味、と「100点」の親だと子供がやってられないって意味とあるようです。まぁ、育児を評点化するのはどうだってのがありますが。
      とにかくワンオペにならないように「密室の育児」にならないように外部に助けを求めて下さい。昔より、声を出しやすい世の中にはなりましたね。

      僕はインドア派なので自然はしりません。ただ、ユング心理学では深層心理を「森」にたとえることがあって、「森」に入りたい=自分の心の奥をみつめたい=本音を解放したい、があるのかもしれませんね。そんなMさんにおすすめの「山」はやはり「大岡山」ではないでしょうか。いつでもどうぞ、ウエルカム。ではまた~

  5. 大谷さんの生まれた、岩手県の水沢市というところは、あの小沢一郎も出ているんですよ。義兄もそこの出身です。
    私も、姉の結婚式で、水沢へ行ったことがありますが、わびしいながら、素朴なところでしたね。本当に静かで。帰りの電車に乗った時も、中学生の皆さんが乗ってきたんですが、すれてない感じで、思わず、太田裕実の「木綿のハンカチーフ」の歌詞とメロディが浮かんできました。
    窓からは、畑だらけの田園風景。いいこんころもちでした。
    でも、もはや大谷さんに出身地は、関係ないですね。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      大谷の出身とそんなに近いですか。
      「木綿のハンカチ」は僕が中1の頃です。
      松本隆をメジャーに押し上げた歌ですが、当時のヤンソン(月刊明星の付録)で、初めて太田裕美のこの歌が紹介された時の寸評はひどい物で「ありきたりの詞」だなどで、僕はこの歌を始めて聞いて一目(?)惚れだったから、この評論家の書いてることは信じないようにしようと心に決めたのですが、今やその人の名前は忘れてしまいました。覚えててもしょうがないからいいのですが。ではまた~

  6. 「日本経済新聞」を申し込みました。知り合いだった人が、円安ドル高以降の日本、ドル資産や、ハイパーインフレのことについて書いてきて、そろそろ経済の勉強を始めようか、と思って。
    この先の日本は不透明ですから、経済については、毎日動いている。だったら、経済週刊誌より安くついて、情報の早い新聞のほうがいいと思ったわけです。
    日本も、ロシアがドルを持てなくなって、ルーブルしか持てなくて、じゃあルーブルが換金できない円はどうなるのか。例えばロシアの石油は? アメリカほかの国の原油に頼るしかないのか。
    問題は色々ありますね。そこらへんで、日経を取ろうと。
    まあ、色々です。日々、考える毎日です。

    1. ぴぴさん、こんにちは。

      鈴木宗男の「大地塾」で佐藤優が「アメリカのトランプ襲撃をみてると、政治学者や国際政治学者では何もわからない。わかるとしたら、占い師か修行を積んだお坊さんや陰陽師に聴くべきだ」と言ってました。そう考えると、経済も同じようなもので、日経を読むより、占い師に聞いた方がいいかも?
      僕は「東スポ」を家に宅配しています。東スポは、パリ五輪の開会式の日の一面も「開会式に、ひょうきん族の懺悔の神様あらわる?」でした。「?」は折り返しの部分で普通だとみえない仕組みになっていて笑えます。要約すると、マリーアントワネットがひょうきん族の懺悔の神様に見えた、という人もいたという少数意見です(笑)
      ま、色々ありますが、人生予測不可能、それが醍醐味と強がりますか。ではまた~

  7. 今日は所用を済ませ、さっき帰宅。いや、まいった。椅子に座り続けること、2時間半でしたから。
    今度の心理テスト、2時間ということで、「身が持つかいな」という心配が出てきました。その前が先生の診察ですし。
    でも、受けるしかないですね。何とかなるでしょう。
    そろそろ、文化部通信のコメント入れ、考えてます。これだけ、カワクリに行くスパンが空くと、受付の方の表情も忘れがちに・・・。この前、私が行ったの7月4日??? もう1か月。無理もないというか、何というか・・・・。

    1. ぴぴさん、こんばんは。

      クリニックは、今まさに外で盆踊りの最中で大音量で「東京音頭」が流れてます。バンドで大事なのはリズムセクション(ベース・ドラム)だというのがよく分かる、太鼓の調子っぱずれぶりな音頭です(笑)
      心理テストは普段の様子をみるものだから気負わなくて大丈夫!
      スーちゃんへのコメントも無理せずよろしく。ではまた~

  8. こんばんは。
    勤務中ですが皆さん落ち着かれていて静かな宵の口なのです。
    よって?タイクツでもあり、このような書き込みをしでかします。
    さて、今回は非公開を希望します。

  9. 暑いし、オーディオも壊れてるし、何故か音楽も、読書もしたくないので、横になって過ごしてます。土曜日は、クリニック、混むんでしょう? 大変ですよね。
    昨夜の大岡山のお祭り、ウチも、最近、ドンドコやってましたよ。
    軒並み業績の上がらない企業が多い中、サンリオがかなり伸びているみたいですね。外国人観光客とかが、ハローキティほかを買うので、その影響もあるとか。サンリオの革命は、キティちゃんの口をなくしたこと。それが可愛い。すごい発明です。
    フジ・ロック・フェスティバルも、去年に比べて、2万人減。あれ、昔、友人に聞いたら、行って、聞くとしたら、すごいお金がかかるらしいですね。だから行きたくてもいけないって。
    まあ、色々あります。これからまた横になります。ゴメンナサイ。

    1. ぴぴさん、こんばんは。

      僕もテレビが壊れ?ラジオのように音だけ聴いています。
      キティちゃんは「いちご新聞」によると、「仕事は選らんでる」そうです。選んであの量です。「よく猫派と言われますが、犬派」だそうです。
      フジロックは初期にキヨシが出てました。ああいうフェスにも寛容でした。矢野顕子と歌った「ひとつだけ」という矢野顕子の持ち歌が絶品でした。

      https://www.youtube.com/watch?v=qS9tn8QeMw0

      ではまた~

  10. 川原先生、こんばんは。
    最近のわたしは生ける屍です…涙
    夏なのに、なかなかシャワーも浴びれず、
    孤独死したらどうしよう…

    1. 佐保さん、こんばんは。

      とても心配になるコメントです。
      大丈夫ですか??心配です。
      お久しぶりだから、コメントくれて安心しました。

      脱水とか熱中症とか気をつけてね。いつも気にかけてますよ。あなたの主治医・川原達二

  11. 非公開希望・『その2』

    前回の投稿について。
    【原本の控えを取りそびれておりました(汗】

    …要するに自らが【それ】を振り返ることが出来ない境遇です。

    何か方法がありますか? 実現が可能でかつ、楽ちんな。

    一つには、当初の希望を撤回し【公開】でも大丈夫です。
    …が、そちらの方は検閲の動向次第?でもあるのでしょうから、委ねざるを得ません。…まぁ とにかく、業務外で煩わせてスミマセン。

    草々

    P.S.
    狙っていた本厚木『あゆまつり』には行けませんでした。
    もちろん、花火目当てではありましたが。

    決して、その限りでもありませんでした。 へぇ~っへっへっへ。
    …! うぃっくしゅ、(じゅる) はぁ。ブツブツ…(汗

    1. 散文気分さん、OHA!

      「非公開」の時は、文章を削除しないといけないので原則こちらにも控えがなく、復元不能です。
      ただ、それに関しては、原さんと共有したので、一時的に保存してあります。それでよければ。

      僕は川魚では鮎が1番好きです。昔、広島東洋カープの三村という内野手のニックネームが「若鮎」だったので少し応援してたことがあります。カルビーのプロ野球スナック全盛の時代です。

  12. 先生こんにちは。
    夏休みは忙しすぎて通院する時間が取れず、今度の受診も延期させていただきました。
    お盆の頃は少し時間が取れたのですがその頃は川クリが夏休みになってしまうのです。
    夏休みもう疲れました。
    一日中寝ていられる日があればいいのにと思います。

    1. あざらしさん、こんにちは。

      僕は夏休みは多分どこにも行きません。ひょっとしたら東中野の映画館で「イエスの方舟」をまだやっていたらみたいですが、そうでなければ中野ブロードウェイの探索や新宿にカレーを食べに行くくらいしかノー・アイデアです。
      そう考えると親戚付き合いや家族と過ごしたり友人と遊んでた頃は、相手のペースや要求に合わせないといけないから、人気のスポットやお店に何時間待ちの行列なんてのも付き合わされて、とても大変でした。とは言え、今も日本のどこかでそんな奉仕活動!をしている人がいるのでしょうから大変だろうなぁと同情します。
      昨日は二の丑だったので、鰻を食べました。今日のお昼はどうしようかな?暑いから熱い天麩羅うどんにしようかな。ではまた~

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