夏休み明けなので今週は混んでしまいました。11月まであったかいそうですね。
~前回までのあらすじ~
中1の頃から川原のそばにいるドールの名前は「ムンク」。
テディベアの第一人者の作家さんにリペアをお願いしたら、川原の「守護」を祈るクマ「抱き熊スーティー」をくれる。名前をラスプーチンにする。
生まれ変わってムンクが帰って来た。
ムンク・川原・ラスプーチンのトリオ名は「SS♡T」。成長して行く「SS♡T」の成長譚「日刊ムンク」の第20弾。
・月曜日
中西先生と僕とサスガは不思議な縁で、高校と大学と医局が同じで、先輩後輩の仲なのです。
順番は、中西>川原>サスガです。
精神科は他大学との交流のため、毎年、野球のリーグ戦がありました。
僕らの医局は、中西・川原・サスガの3人が主力メンバー。
ある年の野球大会。僕は派遣病院に出向していて、そこの秘書さんが野球の応援に行きたいと言うから、3人くらいを自分の私設応援団員として帯同しました。
若い女の子の前ですから、ちょっと良い所を見せたいと思うじゃないですか?
僕は、サスガに、「おい、ピッチャーを変われ」と途中からマウンドに立ちました。
「ドカベン」の里中のように華麗なアンダースローから幾つかの変化球を投げ分けます。しかし、練習は裏切らない、というか、ボールは正直です。
1球として、ストライク・ゾーンに入りません。3者連続フォアボールで、あっと言う間に無死満塁。
風雲急を告げ、大ピンチ。400戦無敗で知られるヒクソン・グレーシーが最強の男であった1番の理由は、負けそうな相手とは戦わない、というからくりがありました。
これは良いアイデアです。そこで僕は、マウンドにサスガを呼び、「おい、ピッチャーを変われ」とリリーフを押し付けますと、
「嫌ですよ。自分で蒔いた種なんですから、自分で責任をとって下さい」
と言い放ち、自分の守備位置に戻って行きました。
体育会系は縦社会、上が「黒」って言ったら、「白」でも「黒」だろ。
などと僕がブツブツ文句を言ってると、マウンドに駆け寄ってきて優しい言葉をかけてくれたのが、その時のキャッチャーで、女房役とは良く言ったもので、キャッチャーマスクをとって、
「川原、切り替えて行こう!ピンチはチャンスだ。川原の得意のフォームは、スリークォータだったよな。あの投球を俺に見せてくれないか?」
と優しくなだめる人物こそが、中西先生だったのです。
そうして僕はマンガの真似をやめて、中西先生のおだてに乗って、このピンチを切り抜けようと思いました。
試合は中西先生が逆転タイムリーを打って、残りのイニングをサスガがピシャリと抑えて、我々の勝利。
試合後のミーティングで、「今日のMVPは誰か?」と僕が切り出して、「逆転打を打った中西先生では」とか「ピッチャーとして、先発とリリーフの両方の役割をしたサスガでは」との意見が出ました。僕がイマイチ不服そうな顔をしていたら、その時、中西先生がこう言いました。
「今日のMVPは川原だよ。こんなに試合を盛り上げてチームに一体感を抱かせたんがから」。
すると皆が「MVPは川原」、という意見になりまして、僕はその時、「中西先生って何て正しい意見の持ち主なんだ」と発言しました。
そうしたら中西先生は、わざとらしく頭をかいて照れるポーズをして、それを見て皆が笑って、僕も笑いました。
中西先生が急死したのは、2014年の8月18日、丁度今頃。仮に、前の日に「人間ドッグ」を受けてても分からない病気だったそうです。
・火曜日
今日から夏休み明けです。ムンクの髪の手入れから。
まずは帽子を外します。
ブラシをかけます。
2種類のブラシを使い分けます。
そして帽子を被せます。
リボンを結んで。
出来上がりです。
仕上げは、受付の羽田さんにやってもらいました。
・水曜日
診察室のポスターを貼り代えて模様替えする。
皆さんの正面。
入り口は、佳子さまコーナーに。
逆側は、ウルトラマン。
診察テーブル周りは、ゴジラ映画。
・木曜日
クリニックの待合室のBGMは、僕が選曲してシャッフルして流してますが、時々、曲を入れ替えます。アニソンやアニメのサントラや歌謡曲に混ぜて、この夏は大瀧詠一の特集をしてましたが、今日それらを変えてみました。
大瀧詠一から新たに吉田拓郎を入れてみました。皆さんは気付くでしょうか?
・金曜日
研修医に成り立ての頃、無断欠勤がバレて、ペナルティーで「2週間連続当直」になりました。
医者の当直は、翌日も勤務です。
当直室で仮眠して、呼ばれたらすぐ病棟や救急外来に行くのが仕事。
だから、運が悪ければ、2週間まともに寝れないのです。
でも僕は、へこたれたりしませんでした。それは、「2週間、当直室から家に帰れない泊り込み」という状況が、「日本一のホラ吹き男」の植木等みたいだと思ったからです。
映画で、臨時雇いで会社に入った植木等が配属された部署は、会社にとって何の意味もない古い書類の整理をやる場所です。
「ここじゃ、いくら頑張っても出世はないよ」と先輩から言われます。皆、やる気がありません。
しかし、植木等は、底抜けに明るいテンションで、張り切って、荷物をまとめて会社に泊まり込み、仕事をします。
「そんなにまでして残業代が欲しいのか」という皮肉にも、「いいえ、残業代はビタ一文、いりません」と言って、1人で、書類を全部、片付けてしまいます。
労働組合は残業して残業代を取らないことを問題視し、同じ職場の人間達は「仕事がなくなってしまった」と不満を漏らします。
会社は仕方なく、植木等を他の部署に係長待遇で異動させします。ここからホップ・ステップ・ジャンプ!
東京オリンピックの直後の映画で元・三段跳びの選手だったという設定の植木等は、三段跳びの様に出世して行きます。
僕も植木等のマネをして、家から色んな物を当直室に持ち込みました。
浅草のマルベル堂で、クレージーキャッツのブロマイドをオーダーメイドで引き伸ばしてもらいました。
それを当直室の壁に貼りました。
陰気な当直室が、まるで僕の1人暮らしの部屋みたいに衣替えしました。
評判を聞いて、看護婦さんや他科の研修医も覗きに来ました。皆、「お~」って感嘆しました。
この時の特注ブロマイドは、今もカワクリの待合室のテレビ側のソファの方に貼ってあります。
これは最大限に引き伸ばしたから、ラミネートが出来ない大きさで、結構、ボロボロになってしまいました。
それを当時の受付の大平さんが、補修してくれることになりましてポスターを一時、撤去。
処置室に移動して、テープで切れ目を丁寧に貼ってくれました。
綺麗に出来上がりました。
受付の仕事は多岐に渡りますね。
話を「2週間当直」に戻しますね。
丁度、半分の1週間が終った時点で、調子に乗った僕は、「トニー谷」のブロマイドの特注も発注しました。
そのニュースに異常に反応した人たちがいました。
それは誰だと思いますか?
正解は、病棟のナース達でした。
女性には、つらそうな姿をアピールするより、気丈に明るく振舞った方が母性本能をくすぐることもあるようです。
ナースは一丸となって、僕の味方をしてくれました。
彼女らのナイチンゲール精神は組織立って、医者や教授や医局長に「いくら何でも可愛そうだ」と意義を申し立てました。
「過重労働でミスが起きたらどうするつもり?」
「川原先生だから笑って仕事が出来ているのよ」
「いえ、ああ見えて、顔で笑って心で泣いているのよ」
「あぁ、いじらしい」
「それに比べて、他の医者は川原先生に仕事を押し付けて、楽をしてるのよ」
「他の医者は、ズルイわ」
などと、本来、僕が無断欠勤したのが問題なのに、矛先が他の医者に向いて、実際は、僕は研修医だったから、当直には必ず上級医の先生が日替わりで付いていて、「2週間当直」というのは、半分、洒落で、つまり、学生気分の抜けない僕に社会人の厳しさを教え込ませるための親心であり、問題を大きくしない配慮だったのです。
それは、2週間、日替わりで色んな先輩から、生の知識を吸収できるチャンスを用意してくれたものでもあったのです。
そんな内輪なはからいはナースには通じません。
彼女らは、川原先生を守るためにはストライキも辞さず、の構えです。
病棟でナースにストなどされたら、大変です。
医者が、検温や配膳や採血や保清など、駈けずり回らなければならなくなるからです。
ナース・コールも医者がとる事態になります。
これには上層部もあわてて急遽、僕のペナルティーは1週間で解除されました。
そして、医局長はナースの前で、僕を労う為の1席を自腹でもうける約束までさせられました。
憎憎しげに、医局長が、「川原君、何を食べたいんだ?」と僕に質問しました。
僕は、「うなぎ」と高級な鰻屋の名前を告げ、「個室で、コースにしてね」と答えました。
ナースを納得させるには、こういうのが最善の策でした。
そして、僕と医局長は週末、本当に二人きりで、鰻屋の個室でコースを食べたのでした。何を言いたいかと言うと、カワクリの空間作りのルーツは、この2週間連続当直に起源があったと思うのです。
・土曜日
高校の頃からつけていた夢日記に、時々、挿絵も添えていたから、それらをアトランダムにピックアップして、当時の受付スタッフの大平さんに塗り絵をしてもらい、コメントもつけてもらいました。
・カラス貝のマニキュア女vsトラディショナル・ブルー~瞳~少年風(1981.9月:川原少年19才の作品)
・手のひらを太陽に(1982.1月:川原少年19才の作品)
・小田急線のひとコマ(1982.2月:川原少年19才の作品)
・本厚ちゃん(1982.3月:川原少年19才の作品)
・伊代はまだ(1982.8月:川原青年20才の作品)
腕が長いですね。先生が20歳の頃、松本伊代が流行っていたんですかね。
・天才の誤算(1982.9月:川原青年20才の作品)
・テスト前日(1982.12月:川原青年20才の作品)
・カルピス(1983.5月:川原青年20才の作品)
・誕生日。小指と小指をつないで歩く、理科室でキス(1983.7月:川原青年20才の作品)
・夢見る年頃~36/38≒95(1983.8月:川原青年21才の作品)
・野球大会(1983.8月:川原青年21才の作品)
・クリスマス・イブ(1983.8月:川原青年21才の作品)
・恋人峠の昼下がりPart.2(1983.9月:川原青年21才の作品)
・すっかりトロピカル(1985.7月:川原青年22才の作品)
・明日のイブはRC(1985.12月:川原青年23才の作品)
・直ちゃん(1987.6月:川原青年24才の作品)
これは塗りやすい絵だったんですが、サインペンで色を塗るのは難しくて、
色鉛筆にすぐに戻しました。
・Hanesの白のTシャツに血を滴らせてしまった(1987.6月:川原青年24才の作品)
・元・日本軍の男と、ユキヒョウ(1987.7月:川原青年24才の作品)
「ユキヒョウはどこにいるんですか?」と塗っている時に不思議でしょうがなかった絵。
・大船観音がくずれた(1987.7月:川原青年24才の作品)
観音様のお顔だと気づかず、先生に言われて気づき塗り足しました。
・みつけてくれたらキスしてあげる(1987.7月:川原青年24才の作品)
真ん中の子にと左の子にかわいさをプラスしました。気づきましたか?
・甘くて冷たいアイスクリーム・ベイビー(1987.7月:川原青年24才の作品)
この絵のタイトルを知らない人から「31アイスみたいだね」と言われ
塗り絵レベルが上がったと実感し嬉しくなりました。
・気がつけば兵隊(1987.7月:川原青年24才の作品)
・アイスもハシャいでる、僕は日焼け(1987.8月:川原青年25才の作品)
・ダチョウ(クジャク)ともも焼き(1987.8月:川原青年25才の作品)
・僕は照れる(1987.8月:川原青年25才の作品)
・新宿地下の靴専門店(1987.8月:川原青年25才の作品)
この失明者用の靴は指の先が触覚の様に動くと先生が説明してくれました。
・念力(1987.9月:川原青年25才の作品)
・渡り廊下の窓から連中が手を振る(1987.9月:川原青年25才の作品)
渡り廊下だと気付かず、カラフルにしてしまいました。
ちなみにこの絵左側にいるのは川原先生で
研修?授業?かなにかをさぼって帰るところのだそうです。
手に持っているのは白衣だと言っていたのですが、
私には抱き枕かぬいぐるみに見えました。
・脳外科はじまる(1987.9月:川原青年25才の作品)
・お前はストーブの前でのびていた。あくびしかしなかった(1987.9月:川原青年25才の作品)
これ、色を塗っていたらよく分からないパーツがあって、そこだけ着色しませんでした。
・聴神経腫?すぐに手術(1987.10月:川原青年25才の作品)
・宙に浮く機械(1987.10月:川原青年25才の作品)
・すいみんやくが欲しい(1987.10月:川原青年25才の作品)
・明るく生きるコト(1987.10月:川原青年25才の作品)
・オバQが正ちゃんのクラスの記念写真に写ってしまった。皮膚科テスト、60点。(1988.7月:川原青年25才の作品)
・ウサギに乗って空を飛ぶ(1988.12月:川原青年26才の作品)
・すべては幻想である(1989.1月:川原青年26才の作品)
・柔道(着)一直線!激しい視線の火花が散る(1989.4月:川原青年26才の作品)
・世代交代の口約束(1995.3月:川原中年32才の作品)
・2002.8月6日からの夢日記の表紙:先生不惑の40才の作品
【塗り絵を終わって~大平さんの総評】
この夢の絵に色づけするとき『これは何だろ?、川原先生の夢だからこんな色でもいいかな』と、
タイトルを教えてもらうまで何の絵かも分からなかったり、
普段の私だったら使わないような色で塗ってみたりという絵がたくさんありました。
自分じゃない誰かの絵を塗るのって面白いですよね。
それが川原先生の描いたなんか可愛くて奇妙な夢の絵だからもっと面白い。
何ヶ月かのあいだ、受付業務の合い間のちょっとした楽しみの1つでした。
この夢の絵の中には
私より若い頃の先生が描いた絵もあるんですよ・・・。
なんだか不思議な気分になりますね。
次号へ続く。