31/Ⅷ.(火)2010 はれ
日本の3大TKといえば、「高倉健」「タクヤ・キムラ(キムタク)」「タツジ・カワハラ」である。などと、暑さに乗じて言ってみた。
左右に短冊状に無関係の名言を持ってきて、あたかもつながりがあるかのように見せるのが、今のマイ・ブーム。
↑(右) 『雪が降った。けれど、地面が血に染んでいるので積らなかった』。アントン・チェーホフ「手帖」。
↑(左) 『喧嘩のいいところは仲直りができることね』。「ジャイアンツ」。
そういえば、最近、義理・人情なんて言葉、聞かなくなったなぁ。
『日本社会の基本的な行動原理は集団であり、その原則に疑問を抱くと集団から徐々に外れ、ドロップアウトして行ってしまう。「個」を認めない日本の社会システムにおいて、その集団の中で、「個」を背負ったのが高倉健であった。
彼は映画の中では、戦争や刑務所から帰って来ると周囲がすっかり様変わりしていた…、という集団には属しながら、 どこかしら客分的な存在を演じた。組織の中にいながら、その組織に馴染めない。所属はしているが、帰属意識はない。 なおかついざという時には力がある。日本人の帰属意識の裏返しを、高倉健はスクリーンの中で演じてみせた。
高倉健は、決してアグレッシブではない。寡黙で、悪どい相手に対しても耐える姿は、マゾキスティックでさえある。 観客はスクリーンに向かって「健さん、やっちまえ~」と声をかける。それでも耐える。耐えに耐える。 そして、ついに最後の最後に怒りを爆発させる。カタルシス~。
高度経済成長の時代、高倉健が任侠映画で演じてみせた美学は、決して生産的とはいえない。 しかし、それ故、アウトロー的な精神・美学に憧れを持つ日本人の心を魅きつけたのだろう』。 というような趣旨のことを映画評論家の品田雄吉が言っていたのを、少し脚色してみた。
僕は、昔、大橋巨泉のクイズ番組での「三田寛子の落書き」に応募葉書きを書くが、10枚書いてあきた。 小田林は、昔、「高倉健のポスター」をあてるため、100枚ハガキを出したらしい。
「男らしい、というにはあまりにもストイックな生き方」。これは卒業アルバムの小田林の自己紹介コメント。僕が考えてあげた。彼は本当にそんな人で僕とは真逆の立ち位置だが、不思議と気が合い今でもたまに呑んだりする。
8月も終りかぁ。小田林、8月、誕生日じゃなかったっけ?
BGM. 杉田二郎「男どうし」
T・Kと言えば小室哲也、高坂剛でしょう。
私も高倉健は大好きです。
自分不器用ですから。
コメント、ありがとうございます。器用より不器用の方が嘘が少なそうで、僕も好きです。