カワクリ・カウンセリングキャンペーン復活礼賛

6/Ⅸ.(金)2024 はれ 先週の台風の余波で今日も激混み。

今週は先週の台風の影響で激混みなので、こんな気分のTシャツで出勤。カメラマンは文化部長(部員ゼロ)のスーちゃん。

Tシャツの文字をアップ。

お昼休みは昨日と同様、蕎麦屋へ。ライカのカメラのアプリで撮ってもらう。カメラマンは心理の松井さん。

カメラマンから「おそ松らしく、シェーのポーズを」と指示が飛ぶ。

お昼ご飯のサイドオーダーは鶏の唐揚げ。3人いるから(もう一人は心理の徳田さん)「一粒づつ」分ける。

メインはカレーうどん。これもライカのカメラで。

さて、今日は近頃、多い傾向のお悩みを専門ジャンル別に紹介。カウンセリング部門の啓蒙記事です。「あっ、これ!」と思い当たる方は診察や電話や受付で申し込んで下さい。

 

・「花嫁になる君に外来」(花婿でもオッケー)

世代間伝達という言葉があります。これは部活のしごきの悪しき風習が受け継がれていくように、自分が下級生の時に上級生にされて嫌だったのに、自分が上級生になったら、「伝統だ」などと言って、やってしまうのと同じで、世代から世代へと伝達されてしまうことを言います。

ロンブーの淳さんが言ってましたが、自分が嫌だなと思った風習は自分が上級生になった時に終らせた、というように、世代間伝達はどこかで止めることが出来ます。多分、必要な条件は、自分が嫌だったことをしっかり受け止め、言語化し、整理して、論理的に再構成出来ること、だと思います。この作業を一人でやるのはなかなか大変です。

世代間伝達は、子育てでもよく起きます。情緒豊かに育った子は、情緒豊かな親になる反面、虐待を受けて育った子はやがて虐待をする親になってしまう、負のスパイラルが起きることが残念です。子育てには、自分の受けた体験が影響する訳です。不幸な体験をした人は無意識にそれを繰り返すのです。幼少期に未解決な問題を抱えて大人になってる人がたくさんいます。なんとかかんとかやっていても、自分が親になった時、寝た子が起きるように、潜在化していたテーマが我が子に投影されて、子育ての中で蒸し返されるのです。そうやって「育児ノイローゼ」として受診される方はたくさんいます。我々はそれを手助けする方法を持っています。

でも思うのです。それをそうなる前に未然に防げたらいいのに、と。子育ては、誰でも例外なく、自分の問題と向き合う作業ですし、多かれ少なかれ、世代間伝達の問題を持っていない人はいません。現代は、幸せと不幸の基準があいまいです。ものすごく不幸ではないけれど、すごく幸せでもない、という人がほとんどです。ですから花嫁になる君へ、母になる前に、自分の問題と対峙して、整理しておきませんか?花嫁修業の一環として。ま、でも、結婚したからって、必ず、母親になる必要なんてないんだけどね…。

 

・不倫専門外来

19世紀末ロンドンでは、裏表が綺麗に峻別されていて、その世界観が、「ジキル博士とハイド氏」のような交代人格を産んだ。社会が腐敗すると少年犯罪が増えるように、児童や思春期の子供はその空気感に敏感に反応する。マスコミが偽の正義感みたいに本質をみないで不倫問題を表面的に扱ってると、そのうち若年層で解離とか多重人格が頻発するぞ。数が増えれば増えるほど、病気か仮病か見分けられなくなる。俺は知らないからな。(誰に宣言してる?)
という訳で、そうならない為にも、「不倫専門外来」を作ろうかと思います。不倫は、相方への裏切り行為です。しかし、日常的には氾濫しています。それにより心の傷を負った人のケアは通常どおり行って行きます。今回の提案は、そうではなくて、「不倫をしてしまった人」のための専門外来を指します。
①性の暴走、②特殊な性的趣向性、③罪悪感、④わかっちゃいるけどやめられない、⑤配偶者への不満、⑥幼少期からの屈折した歴史、⑦やり直すにはどうしたらいいか、などにスポットを当ててみます。カウンセリングと心理テストで評価して、5回くらいをメドに行う、コース・メニューです。

 

・いじめ、DV、ハラスメント専門外来

これは、いじめをうけた人ではなく、「加害者」、のためのものです。いじめた人の心の闇にスポットライトを当てます。DV、モラハラも同様です。これらの行為は決して許されることではありません。しかし、結果だけを咎めて、「なぜ、そうしてしまうのか」、にFOCUSしないと、相手を変えてまた同じことを繰り返しますね。校医で、いじめの相談を受けたことがあります。それは「被害者」ではなく、「加害者」の面接でした。その子は、親の呼び出しや、生徒指導、校長譴責(けんせき)など、こっぴどくやられて、ふってくされて、投げやりでした。「どうせ、あんたも同じだろう」という態度でしたが、何度か会っているうちにバターのようにとろけてくれました。いじめは何があってもいけないことですが、いじめる側にも事情や都合があるでしょうから、その辺を聴いてみたのです。パワハラを受けた人を助けるために事実関係を診断書に書いて提出したら、パワハラしてる人から自身のカウンセリングを求めて来られたけれど、まさか二人を同時にみる訳にも行かないので断りました。今思うと、主治医は無理でも、カウンセラーにまわしてあげれば良かったです。これらが専門外来を作ろうと思ったきっかけです。
専門外来では、加害者の①ブレーキの効かなさ、②相手のどこがムカつくのか(それは自分が抑圧してる部分と重なるからか?)③反省してもまたやってしまう愚かさと自己嫌悪、などをカウンセリングと心理テストで、歴史を振り返り、原因を探り、解決のお手伝いをする、コース・メニューです。いやな自分とさよならしましょう。加害者側の心のケアについて皆さんはどう思いますか?

 

・安楽死専門外来

9/1は、18才以下の自殺者数が1年で一番多い日だそう。自殺、は仕事柄、常に向き合っている問題だが、いつも思うのは、命かけてまで行く価値のある学校なんてないってことで、行きたくなけりゃ行かなきゃいい。いまどき、「すべての人間が平等だ」、と本気で信じ込んでる人は少ないと思うが、人間誰しも、「自分の意志で生まれて来たんじゃない」、という点と、「自分の望むタイミングでは死ねない」、という点のみにおいては平等だ。そんな宿命に抵抗する手立は自殺くらいしかないのだとしても、失敗して生き残るとかえって面倒だったりするし、成功するにせよ、死ぬまでは生きてないといけない訳で、決意してから死ぬまでの時間は恐怖だろう。自殺をする勇気がないのなら、せめて安らかに死なせて欲しいものだ。
研修医の頃、精神科の主任教授に、「川原君、今後の高齢化社会で重要なことは何だと思う?」と質問された。僕は少し考えてから、「安楽死ですか?」と答えたら、教授は、真顔で「惜しい!」と、うなった。ちなみに、正解は、「安心してボケられる世の中作りだ」って。
自殺と安楽死って、ニュアンスが似てる部分があると思う。僕の通ってた医学部の教養課程では、「医療倫理」という講座があって、主に、①「安楽死」と「尊厳死」の違い、とか②ヒポクラテスの誓い、などがテストのヤマ、だった。安楽死は、医者が末期患者などに薬を用意して自殺幇助(ほうじょ)することで医者が関与したケースで、一方、患者が同じ薬を自分で手に入れて使用したら、それは自殺になる。尊厳死は、患者の意志によって延命治療を止めて自然に死を迎えること。つまり、安楽死と尊厳死の違いは、医者が手を加えるかどうかの差。ちなみに「ヒポクラテスの誓い」では、医者は誰に頼まれても決して死に至る薬を与えない、という項目があり、安楽死は認めていない。
時代の移り変わりで価値観は多様化し、安楽死を認めている国もある。スイス・ベルギー・ルクセンブルグ・オランダ・アメリカの一部・オーストラリア・カナダ・コロンビア。この中でも、スイスだけが外国人の安楽死を行ってる。末期癌の疼痛や、痛みの激しい不治の病の安楽死は、了解しやすい。問題は、精神的な苦痛をどこまで考慮するかだ。ステージは末期ではないが独り身でゆくゆくは老人ホーム、これまで幸せに生きて来たがこれからは不幸になるだけ。それならば不幸になる前に逝きたい、という人が安楽死を希望したら?何十年も連れ添った配偶者が末期癌で、本人は病気ではないが、配偶者のいない人生は考えられないと、夫婦同時安楽死、が論争になったこともある。ベルギーでは精神疾患や重症の「うつ病」などにも、安楽死、が認められたケースがあるという。一昔前は、うつ病患者に自殺をしない約束をしたものだ。うつ病の病前性格は真面目だから、「約束は守る」とか、「医者に迷惑がかかる」、ことがブレーキになると考えられていた。随分と、性善説だ。電車に飛び込むと賠償金とか、飛び降りは誰かをまき沿いにするからとか、が自殺を食い止めている場合もある。しかし、本当にヤケになって、死ぬしかない人は、死んだ後の心配など知ったこっちゃない、のであるのも確かで、精神科医がそんな浅い性善説に頼っていては、患者に見透かされて、「何もわかってないな」と見限られてしまう。
10代からODやリスカを繰り返し、精神病院に強制入院になり、病棟で首吊り自殺をする、なんてケースはよくある。だから閉鎖病棟の持ち物検査は厳格で、ベルトや紐靴もNGだ。それでも本気で死のうと思ったら、入院させても100%は防げない。シーツを破ったり、舌を噛んだりするから。もし、こういう人に、安楽死、を認めてあげたら、逆に抑止力にならないだろうか?自殺が出来ない自殺願望のある人の最大の苦しみは、死ねない、という事実で、「この薬さえ飲めばいつでも自分のタイミングで楽に逝ける」と思えば、結局死なないで済むケースも出て来ないか?ただ難しいのは、自殺の意志や本気度は今日言ってることと5年後に言うことが全く違うことがあることだ。「うつ状態」の時と、薬を飲んで「良くなった」時では言ってることが、180度違い、そのどっちが「本気」なのかはわからない。安楽死はまだ日本では認められていないが、今後の動向はわからない。早いうちから、「安楽死専門外来」、を立ち上げておくと、その道のオーソリティーになって、認可されやすいかもしれない。だから、自殺を今考えてる人は、もう少し待てるなら、「安楽死専門外来」、に通ってみたらどうか。医者が手助けして、無痛で20分くらいで苦しまずに死ねて、事故物件とか残された人にも文句を言われないで済む。
この間、自殺願望の強い女の子に、「安楽死専門外来」を考えてるんだとフライング気味に話してしまった。すると驚いたことに彼女は、「私はスイスに行きたいんです」と教えてくれた。彼女は、どんなビザをとったらいいか、とか、手続きとかを一生懸命調べていた。思わず僕は、「あなた、よく勉強してるね」って感心すると、彼女は照れ笑いして、「そんなの皆、知ってますよ」と謙遜した。
彼女の言ってる「皆」がどの辺りのグループをさしているのかは疑問だが少なくとも「自殺」をあきらめて、「安楽死」に希望を託す人たちがいる空間がこの世に存在してるようだ。僕が、「色々と難しい問題はあるが、そういうことも考えているんだ」と告白したら、彼女は、「それはとても安心しました」、「もう少し生きててもいいかな」、と言った。
繰り返しになるが、一番難しいのは、人間は状況に依存しているから、状況次第でコロコロ考えが変わったり、衝動的になったりする点だ。だから、一時の勢いで重要な決断をしない方が良い。安楽死、もそうだ。人間は信用出来ないが、中でも一番信用おけないのが「自分」だったりするものだ。一生懸命生きてる人は一瞬一瞬を大切にしてる分、発言に一貫性がないのと似ている。だから賢明なのは、自分のことをよく知っていてくれる人を身近に置いておくことだ。家族や友人でもいいが彼らは思い入れがある分、ノイズが入るであろう。だから、専門家に定期的に通い、そういうことにブレない恒常的な外部オプションを作っておくのが良いと思う。それが、安楽死専門外来、の設立の理念。ブラックジョークみたいに思うかもしれないけれど、「自殺」がこれだけ問題になっているのだから何かしなきゃね。
膣内に一度に射出される精子の数は、数千万~数億個で、それが日本の人口と同じ位で、それで精子の時点で競争に勝って受精したのだから、生まれて来ただけで人間は「勝ち組」って言う人もいるけれど、そういう人が数千万~数億人いるのだから、その理屈で自分を「特別」と思えるほど、お気楽にはなれない。生きること死ぬこと、を考えるのは難しいですね。「安楽死」はとりあえず、脇に置いておいて、「生きる意味」とか、「自殺は何故悪い」とか、「人殺しは悪いのに戦争だと英雄になる矛盾」とか、このご時勢もふまえて皆さん、どうお考えになりますか?「なんで頼んでもないのに生んどいて勉強しなきゃいけないの?」とか。

 

・休職中、復職準備・短期集中カウンセリング

オーバーワークやハラスメントで心身が疲れた人は、燃えつき症候群になる前に、早目に休むのも手です。ストレスから距離をとり休息をとることが、「くすり」になる場合もあります。ただし、不慣れな休暇は、将来の不安を煽ることもあります。そんな不安の源になるものを見つめ直し、働き方や生き方、本来の自分を見失っていないかを考えるカウンセリングは、復職準備として有効です!

 

・アイデンティティーを考える

アイデンティティーと言えば、みうらじゅん、のマンガ「アイデン&ティティ」が面白いですね。①でボブ・ディラン、②でジョン・レノンが主人公の前にあらわれて、メッセージ(彼らの歌詞の引用)を送り、主人公(バンドマン)が商業主義的な「ロック」の流れに抗って、社会にプロテスト・ソングを発表してゆく成長物語。ちなみに、ディランとジョン&ヨーコは主人公にしか見えないし、その声は彼にしか届かない設定。下が、みうらじゅん、の「アイデン&ティティ」の載ってた雑誌。↓。


カワクリでは、今、アイデンティティーを考えるキャンペーンをやっています。
しあわせの基準がわからない現代、不幸の基準もわからない。高学歴の人がバカなことをやっているニュースが毎日、聞こえる。勉強だけ出来てもダメなことは、もはや国民に啓蒙されたのではないか。それなのに、勉強しろ、と言う。わけがわからない。青春はどうなる?利口の基準もバカの基準もわからない。自分が利口かバカかもはっきりしない。中途半端もつらいぞ。いっそのこと、ぐうの音も出ない理論で、お前はバカだ、と納得させられたら、むしろ楽に生きられそうだ。自分はバカだと思っても、バカの考えだから反対なのかも。じゃ、自分は利口か!やったー。こんなことを毎日考えている。多かれ少なかれ、みんなも同じじゃないか?自分とは何者か?それを、ここではアイデンティティーと呼んでみる。
イジメやハラスメントなどの外的なストレスは、耐えたり、逃げたり、工夫してしのぐのだが、内面的なアイデンティティーは、外的なストレスと同じくらいやっかいだ。アイデンティティーには身分証明の意味もあるが、自分が所属する準拠集団(学校・会社・家族・都会・男/女役割etc.)の求めるものと己の価値観に差がありすぎて、しっくりこない。昨日や今日に始まったことでもない。そういう意味では、逆説的だが、アイデンティティーがわからない人生こそが自分のアイデンティティーだ。これじゃ、禅問答か言葉遊びで、まるで答えになってない。世間はそんなに甘くない。そこで、お待たせしました、今回のキャンペーン!自分の歴史やルーツや生い立ちや風土や文化を専門家と一緒に見つめ直し、アイデンティティーを考える。そういう作業がカウンセリングなのだと考えている。

 

・リベンジ・カウンセリングの提案

過去にカウンセリングを受けたが、「効果がなかった」「ただ一週間の報告をするだけだった」「話すことがなくなった」という理由で中断したというカウンセリングへの不満を聞くことがある。彼らの言い分は、事前に心理テストを受けたり、自分史まで用意して、一大決心して、やる気まんまんだったのに、もうカウンセリングはこりごりだと言う。言わんとしてる意味は痛いほど判る。しかし、だからこそ、そんな人に、言ってみたい。リベンジ・カウンセリングの提案、を。言いたかないけど、「相性」や「カウンセラーの技量不足」だったのかもしれないから。人によって傷ついた心は、人でしか癒されないように、カウンセリングで負った心の傷はカウンセリンが請け負いたい。良かったら、別の治療者、とやり直してみませんか?

 

・人生脚本

「劇的」というとドラマティックというイメージが思い浮かびますが、テレビでは一体何本のドラマが流れているのでしょう。きっとつまらないドラマも五万とあるのでしょうね。我々の人生を「劇」にたとえる場合もあります。主人公は「自分」です。精神療法的に考えると、人生には本人でも気づいていない「台本」を各々が持っていて、配役が決まると周りの人にその台本を配り役を演じさせるのです。シチュエーションは違えど、大体、同じ結末になります。それはそうですね。台本が同じだから。この台本の曲者なところは無意識に書かれているところです。人生が悲劇なのか喜劇なのかはその人の台本によるのです。そこでは脇役・登場人物の個性はあまり重要視されません。「監督=脚本」にはさからえませんからね。あんまり無茶なことをする役者だと、「影武者」の「勝新太郎」のようにおろされてしまいます。だから多くの場合、どんなに善人でも「その人の台本」が「どうせ人間はみんな最後には私を見捨てる」というものだとそうします。選ばれた役者が「冷たい人」ならまだマシですが、「根は優しい」なんて場合は悲劇の度合いが増しますね。上げて下げて、ですから。同様に、「男は結局、体が目当てなだけだ」って脚本に選ばれると、本当は紳士なのに、非道なことをさせられるのです。そして主人公の台本だけが勝ち残り、「どうせ~なんて~だから」という人生のテーマが太塗りされて行くのです。

我々精神療法をする人間は時として、この台本に着目します。それは反復的に同じことをその人が繰り返している場合、その台本を読み解き、可能なら書き換える作業を提案します。これは無意識が作ってるので過去の人生を紐解いて、どうしてこんな台本が作られたのか、を分析して行く訳です。なぜそんなことをするかというと、書き換えられるものならそうした方がいいかもしれないからです。別にそれが分かったからって書き換えなくてもいいのです。「書き換える/そのままで生きる」その選択は患者さん自身がすればいいのです。ただし、選択肢は多い方が良いというのが我々の考え方です。台本で割とよくあるテーマに、「成功しそうになると破滅する人」というのがあります。ここぞという時に無意識下で親を乗り越えてはいけない、という遠慮のような親孝行のような忠誠心が働く訳です。これも無意識の仕業なので、意識化していればいい訳です。「いつもダメな男を引いてしまう女性」も相手にそういう台本を渡してしまっているのかもしれません。その男の人は「あなた」じゃなければまともな男だったのかもしれません。人生は難しいですね。

手塚治虫の「どろろ」に白面不動という妖怪が出てきます。自分の顔を持たないために、次々に人の顔を欲しがります。白面不動によってかりそめの命を与えられた手下の女は白面不動の言いつけで人間をだまして谷に落として殺します。殺す時、この女は、相手が心に思う人間の顔に成りすませるのです。これではひとたまりもないですね。「どろろ」の前にあらわれた女は「どろろ」の母親の顔になり近づきます。いつものように生贄にしようとしたのに自分のことを「おっかちゃん」と慕う「どろろ」に情を抱いてしまい、白面不動の命令に背いて、「この子だけは助けて下さい」と逆らってしまうのでした。このように我々の好きな話は、こういう「台本」が書き換えられる時なのかもしれません。それは二つの「台本」がぶつかってどっちの台本が生き残るのか、という見方も出来ますね。それこそ劇的ですね。

うちには3人の臨床心理士がいます。彼女らの仕事は精神療法です。彼女らがその仕事を選択したのには彼女らの「台本」があってのことでしょう。そこは一括りには出来ませんが、共通するのは、専門的なトレーニングと実践的な理論と戦略的な方法論を持って、カウンセリングに臨んでいることです。数いる臨床心理士の中から何故、この3人がうちにいるのかと言えば、それは僕が面接して選んだからです。選んだ基準は、僕の臨床的価値観に近いからという理由です。どうですか?安心ですね。

 

・専門外来〜幸せになる?!〜

そして、1番新しいのが心理のスタッフが書いた記事「幸せになる外来」です。これはリンクで飛べるようにしたから良かったらみてやって下さい。下は僕が中学の卒業文集に載せたイラスト。「幸福の定義」付けをしていますね。身もふたもないですが、ま、そこはひとつ、子どものやったことなので。

 


26 Replies to “カワクリ・カウンセリングキャンペーン復活礼賛”

    1. 佐保さん、上記コメントとまったく同じ内容なので、おそらく謝って2回書かれたものと思われます。趣旨は「了解しました」

  1. 何度も連投失礼致します。

    川原先生、すみません…
    (こちらの判断で部分的に非公開にします)スーちゃんの優しいお声が聴きたいと神様にお祈りしながら、お電話差し上げたら、本当にスーちゃんが出てくださって、すごく優しいお声がけをしてくださいました。
    誤解と伝達ミスの丁寧な説明もしてくださり、スーちゃんのミスではないのに、すごく謝ってくれました。
    すごく嬉しいです…スーちゃんには何かご褒美差し上げてください。

    P.S.
    (こちらの判断で部分的に非公開にします)
    もし、わたしが診察に伺える体調になったら、伺っても大丈夫ですか?

    1. 佐保さん、スーちゃんから報告を受けました。大岡山北口商店街は今日はお祭りなので「何か」をおごっておきましょう。

      PS.ご無理をなさらずに、こちらは大丈夫です。

  2. 川原先生、こんにちは。

    今病院に来ていますが、ブログを読むのが待ち時間の良い暇つぶし?になっています。激混みの中、ひたすら働いて暮らしている先生が、真逆のメッセージ性のTシャツを来て仕事をしているのは、なんだか面白いですね。応援しています。

    1. いずみさん、こんにちは。

      カワクリは先週の台風の影響で(先週がガラガラ)今週は激混みです。そんな中、大岡山北口商店街はお祭りをやっているので、疲れもお祭り気分で「ええじゃないか」のようなマニックディフェンスの様相を呈しています。
      そんな自分へのご褒美は今日の夜の好きなアニメをリアタイで同好の友人と会話しながらみることです。
      アニメの始まりが遅い時間なので、その前にイタリアンでワインでも吞むつもりでして、つまみ(?)をピザとパスタで選べないから両方頼もうと思って、ボリューミーになるので、お昼は抜きにして「空腹感」をこさえて行きます。これから試練の午後の部は何も食べずに臨みます。
      いずみさんは、病院ですか?疲れるでしょう。お疲れ様です。そんな空き時間にブログ記事を読んでくれてありがとう。応援もありがとう。いずみさんも「何か」ご褒美があるといいですね!

  3. 川原先生、激混みの中、色々ありがとうございます。
    夏祭り、行きたかったです…

    来年は行けるといいな。

    川原先生やスーちゃん、皆様が楽しくすこやかな週末を満喫できますように。

    1週間、本当にお疲れ様でした。

    1. 佐保さん、こんばんは。

      ねぎらいのお言葉、ありがとうございます。
      今週は空いてるかと思いきや今日も結構、混んでました。どうなっているのでしょう?
      来院される日を待っていますね。ではまた~

  4. ずっと読んでみましたが、不明の部分もありました。
    とにかく、「人を生かす」「生きさせるためのカウンセリングなのか」とおもったのが、「安楽死専門外来」でした。
    これだけ色々あり、長い文章だと、色々と考えさせられます。とても私の筆力で、まとめるのは無理。
    もうカウンセリングをやっているので、それでいいのかなと思ったりはしましたが・・・・・。

    1. ぴぴさん、こんばんは。

      長いのにちゃんと読んでくれてありがとう。昨晩BS-TBSの「X年後の関係者たち」という番組に、ぺろりんが出るらしく留守録しました。「ムー」の特集です。今日、家に帰ったらそれをみるつもりです。ムーと、ぺろりんの接点はいかに?ではまた~

  5. お久しぶりです。
    先週はお忙しかったのですね。
    ボヤキを書かせてください。

    先生は、人はどのタイミングで子供を授かると思いますか?
    神様の気まぐれだと思いますか?
    何歳で産むのかは、遅くても早くても、きっと隣の芝は青いと思います。
    きっと、うまく行っていれば気にならないけど、少し陰っていると気になるような話です。

    落ち込んでいる時、外に出たくなくなったり、人に会いたくなくなるのは何故でしょうか?
    人を見たり人と話したりするのは刺激ですよね。外に出れば、家の中では感じない刺激があります。暑いとか眩しいとか。

    良い年なのに、
    何者にもなれず嘆く若者を遠い目でみていたはずなのに、
    自分の何者でも無さと至らなさに目が向けられません。

    元気で調子よければそんなこと忘れるのに、何かが折り重なって気持ちが一度大きく滅入ると立ち直れない。

    子供には幸せに生きていってほしいし、幸せな子供の姿に安堵する一方で、
    自分は果たして幸せを感じ続けられているのだろうかと疑問に思います。
    簡単な言葉で言えば、子育ては難しい。
    生きることは難しい。

    どこかの国の人のように、生きることは喜び!と本心で言えたら違うのでしょうか。

    1. Mさん、こんばんは。

      僕は岸田秀の「唯幻論」を支持します。つまり動物は「種の保存」が本能に刷り込まれてるのに、生理的早産で脳が肥大化して本能が壊れてしまったから、種の保存も発情期もなく、「何か」「幻想」がないと「子供を産めない」のだと思います。その「幻想」は「愛」でも「民主主義」でも「自由思想」でも「信仰」でも「国家」でもなんでもいいのでしょう、本人が信じられる「幻想」なら。僕は「すべては幻想である」という「幻想」を持っていますから、「神様」が授けるなんて思いませんし、隣人をうらやむこともないです。
      でも、Mさんが言いたいことはすごく理解出来るし難しいことだし大事なことだと思います。えてして、人間は調子が悪い時に真理と向き合うみたいで、元気な時にはそんなことを忘れてしまうみたいです。本当は元気な時にも忘れてはいけないことだと思うのですが。
      子供に幸せになって欲しい、は親のエゴですかね??まず、「幸せ」の定義から決めないといけませんね。

      子供を計画的に産むのは親の勝手だと思います。良い/悪いの問題ではなくて。1番美しいかたちは「授かっちゃった」っていう偶然ではないでしょうか?親のエゴがもっとも少ないからです。ではまた~

  6. 川原先生、こんばんは。
    わたしのライフはゼロです…
    また新しく問題が…

    ここから非公開でよろしくお願い致します。

    1. 佐保さん、こんばんは。

      ひどいこともあるものですね。同情しますよ。人生、きっといいことありますよ。そう願います。ではまた~

  7. こんにちは。連投すみません。
    以下途中まで非公開で。

    (非公開)
    ここから公開で。

    この歳になると、風邪で寝込む人と風邪で寝込まない人がいるのが分かります。
    違いは分かりません。
    寝込んでいると、身体が痛くて仕方なくて寒気がして心細くなってきて、私何やっているんだろうとなってきて、このまま死ぬのかなって思います。結局治るんですけどね。

    最近、身体の痛みが堪えます。ここ数年の度重なる体調不良をこえて、またあの痛みが襲ってくるのか、と。

    気持ちの悩みだって、自分で作り上げているのです。
    本当はそんなに悩むことでもないのに、悩んでみる。
    今の私に必要なものは何でしょうか。
    ボヤかせてもらってありがとうございます。
    ここでぼやくのが自分には良いのです。

    1. Mさん、こんばんは。

      僕は風邪をひくと両手が痛くなります。子供の頃、近所のお医者さんが鍼もやっていて、必ず、手の指の間に鍼を打ってくれました。そうすると邪気が指の間から出て行くのがわかったものです。
      あと仕事で疲れると皮膚が弱くなるというか肌が荒れます。きっと、皮膚は「自分」と「外界」の境界線の最後の1枚だから、そこに症状を出して、「他人との線引きをしなさい」と体が教えてくれてるんだと考えていますよ。
      人間には悪い病気やひどい具合にならないために、人質のように違う体調不良を出してバランスをとることがありますから、体の「痛み」は心や精神力に体がついていけない、というSOSサインのような気がしますね。痛みをどうにかしながら(対症療法)頑張った自分をねぎらってあげたらどうでしょう。
      風邪の時に熱や下痢をする人は「解毒」してるのでしょうから、無理に解熱剤や下痢止めを使わず、葛根湯で熱を放出してあげるとか整腸剤で整えるくらいの方がいいと思います。
      あと、意外と多いのは喉が痛くなる人です。喉は「感情をつかさどる」チャクラだから、喜怒哀楽、どこかで無理をしてる限界なのでしょうね。喜や楽の訳ではないから、きっと怒じゃないでしょうか。
      怒ってるのに我慢する人ってやたら咳払いするのもそうですね。そう言う人は、安全な場所でボヤいたり愚痴ったりすべきでしょうね。
      ここのゴミ箱を使うのも良いですね!話が少し脱線しました。ではまた~

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