僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らしをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。
1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。「著作権の侵害だ!」、みたいに。正確には意味が違うけれど、言わんとしてるニュアンスは判るでしょう?
僕は比較的若くして結婚して、妻がいて、子がいて。
母はどんな気持ちで、僕と妻に手紙を寄こしたのだろう。
封筒の宛名には必ず、僕と妻の両方の名前が書いてあった。
僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかったのにな。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
でも、それで誰かが損をするとか、他人に迷惑をかけると言うのではないから、自己満足だって自覚してる分、無自覚な善人よりは無害なんじゃないかな?
つまり、これからは縁のある人には、出来る限り、親切にしようと思った訳です。口先だけ、みたいに聞こえるかもしれないけれど、なるべく、そうしようと努力するつもり。
これは、母の遺歌集。↓。
海桐花は、とべら、と読みます。海岸に咲く花ですね。
さて、問題です。この表紙の絵、どこかで見覚えはありませんか?正解は、心理相談室の額縁の絵でした。↓。
中の写真に、自宅前とあるが、これはある先生のお家を訪問した時に玄関先で撮ったもの。それが、自宅前にて、となってるから、さぞかしその先生は驚いたことでしょう。↓。
母の死後、押入れから、僕が子供の時に描いた絵が出てきた。これは近所の養鶏場で描いたもの。診察室に置いてある。↓。
小学校の何年生だったか夏休みの宿題が終わってなくて、一番大変だったのは、「自由研究」。母は何の変哲もない木箱を持って来て、その蓋に、僕に絵を描かせた。僕は、蕎麦屋の前の置物の、タヌキ、の絵を描いた。母は、趣味で、鎌倉彫、をやっていたから、僕のタヌキを上手に彫って、色をつけて、上にニスを塗って完成。これが優秀だと評判になり、神奈川県の賞をとり、どこかに展示された。
「子供らしい視点、自然との調和と、子供らしからぬ技術の確かさ」みたいなことが評価された。
母は、ニワトリの絵はとっておきながら、その鎌倉彫、は捨てていた。僕が作ったものじゃないからかな。親心って、そんなものなのかな?
母は2006年3月19日に死にました。僕はろくにお墓参りなどしていません。そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてない。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれないですね。なので母の思い出を過去の記事から抜粋し加筆・訂正して編集して僕なりの供養にしてみました。お暇な時に、読んで下さい。題して、「親切な川原達二の育て方」です。
(1)小学校の頃、僕は背が小さくて、ある日、母は小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ました。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいました。どうやら「たっちゃんは小さいから」とバカにされたそうで。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるから、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、そいつらの息子たちをブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてました。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。
(2)もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きました。僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血。すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しました。
(3)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって口もきかない。母は困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいました。
(4)大学の入学式、僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってました。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が僕だから。あれが正解だったのかも。
(5)そう言えば、兄の結婚式の時も僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、母はホットした顔をして、振り向いて笑っていました。
(6)母は薬剤師の資格を持っていて、僕が風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)。あれは何だったのか、いまだに判らない。
(7)僕は母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。母は、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったのです。
(8)鳥皮は「川原3大好物」の1つです。小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥ぎん』で釜飯を食べた。
釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのだけれど、僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのです。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥ぎん』はない。
(9)穴子も「川原3大好物」の1つです。子供の時、寿司の出前は高級な「寿司政」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司寅」の方が好きだった。子供心に「寿司政」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司寅」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司寅」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのです。
だから、家で寿司の出前をとる時は「寿司政」で大きな桶を頼むのだけれど、僕用に「寿司寅」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司政」の出前と「寿司寅」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司寅」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司寅」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と僕は気にした。
それに気づいた母は僕に、「達二の1番は『寿司寅』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。
(10)川原3大好物の最後は、うぐいす餅。家の近所には母の母が住んでいて、僕は暇な時におばあちゃんちに寄っていた。
相撲をやってるシーズンは相撲中継を、それ以外の時は時代劇の再放送を見ながら、おやつを一緒に食べるのである。たまに、お茶菓子を買ってってやるのだが、年寄りなのでケーキなどは好まず和菓子屋に行く。
そこで季節に応じて、団子やらおはぎやら桜餅やら草餅やら黄身しぐれやらを土産に買う。そんなある日、僕の目を奪ったのが、鮮やかな薄みどり色の和菓子だった。和菓子屋は、その色をうぐいすに喩えたが、僕はイグアナとかカメレオンを想像した。僕は爬虫類や両生類の生き物が大好きで、それは勿論、怪獣や恐竜に似てるからだ。このうぐいす餅の薄みどりは、刺激の少ない老人とのやさしい時間の中で、東宝ゴジラ・シリーズのガバラやゴロザウルスを連想させた。僕はゴジラ・シリーズでも、彼らのような敵役や脇役が好きだった。
下の写真が、ガバラ。子供の時のをまだ持っている。↓。
これが、ゴロザウルス。これは、大人になって復刻版を入手した。↓。
(11)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄弟でお金を出し合い、プレゼントをした。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金より気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。
(12)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。
(13)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。
(14)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸のルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうです。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。
(15)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。僕は、女子ってそんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。
(16)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。
(17)僕には、イジメ、というものを受けたことが、ほぼない。もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通ってた時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かったから、ぼやかして喋ったんたと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
(18)母はバレンタインに毎年、チョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思います。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は「このくらい」と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆された。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスのカーストが決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。
(19)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやってきた。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。
(20)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)
(21)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、俺の形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。
(22)カワクリは、2023年6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。
(23)僕は、元々は開業する気はまるでなかった。勤務医の方が気楽だし、臨床の仕事は好きだが院長ともなると管理的な業務や経営的なことを考えなくちゃいけないから、そういうのは不向きだと自分が一番知っていた。
それでは、何故、開業する気になったかというと、うちの母親は古い人間で、
「医者になったのなら、他人に使われてるようでは駄目。独立開業して一人前!」という自分の価値観を押し付けてくるタイプだった。
僕は、平気の平左(へいきのへいざ、と読む。‘平気’という意味)で、その時にやりたいことをやれる病院を渡り鳥みたいに、気ままに見つけて、渡り歩いて生きていた。
晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。僕は開業すると言っても、ほとんど思いつきもいい所で、何のビジョンも、具体的な案も、現実的な資金もなかった。
開業支援の会社があってそこが物件探しから、コンピューター・システムの導入も、看板や広告も、従業員の応募も、役所への届出も、必要な書類の整備も、ご近所への挨拶も、開院披露パーティーの提案も、取引する業社も、普段使う電話機も金庫もタイムレコーダーもロッカーも、開業支援の会社がやってくれた。スムーズに事が運んだ。一つだけ誤算があったとすれば、開院披露パーティーを待たずに母親が死んだこと。僕が開業すると知って安心して、死期を早まらせたのかもしれないな。
(24)僕は親のことをよく知らない。父親は大正10年の生まれで親から離れて北海道やら満州に移り住んでいたらしいが、理由は知らず、それに比べれば母親のことはよく知ってると思ったのだが、大正14年生まれで東京に育って、実家が薬局のようなものをやっていたということくらいの知識しかなかった。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
それまで母と大岡山の関係をまったく知らなかったから、ビックリした。
こういうのを縁って言うのだろう。大切にしようと思った。
(25)川原家は、兄の進路の話し合いがされていた。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終わらない。よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は「もう少し熱を上げなきゃ」と思い、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたのです。母はそれを父に見せました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせ、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
(26)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。
(27)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は僕のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になってしまった。こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出したりしますよ。
(28)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意して、母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、「有害図書ポスト」みたいなものが設置されエロ本の不法投棄はなくなった。そしてその頃には、僕はあまり自殺について真剣に考えなくなってしまった。
(29)思春期反抗期だった頃にみてた子が今はお母さんになる時代。彼女は、自分があれだけ嫌ってた母親みたいになったらどうしよう?、とか子供が思春期になって自分のような反抗期を迎えたらどうしよう?と今から心配している。だから僕は、もしも、この子が思春期になって手を焼いたらうちに連れてくれば、「お前のお母さんがどんな青春時代を過ごして、どんな気持ちでお前を産んで、どんなに大変な思いをしてお前を育てたか」を俺が言って聞かしてやるからと伝えたら、「それはとても心強い」と笑う。これがこれからの僕のライフワークの一つになる。患者は言う「だから、先生、本当に長生きして下さいね」。
(30)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓
永六輔の言葉に、人間は2度死ぬ、と言うのがあります。1度は肉体の死で、2度目は忘却の死。つまり、忘れられてしまうこと。
だから、時々、その人の話をしてあげることが大切で、そうしていれば記憶の中では生き続けるのです。なので母の命日にこんな記事を書いてみました。それが、実家や墓参りに行かない僕の供養のやり方です。
川原先生、おはようございます。
自分に置き換えてみると、自分の死後、命日に、息子がこんなにもお母さんとの思い出をを思い返してくれたら、嬉しいだろうなぁと思いました。お墓参りも良いけれど、供養の形はそれぞれで、大事なのは「気持ち」ですね。
いずみさん、OHA!
やさしいコメントありがとうございます。
先週ダウンした口腔内の痛みは、内科では胃腸炎と診断されましたが、エネルギー療法の先生が言うには、霊だそうです。邪気がいつもの100倍くらいついてるそうで、施術の前に、祝詞をあげてお香を焚いてお祓いをして、除霊をしてからたっぷり施術してもらったので3時間くらいかかりました。
昔からの言い伝えで、歯の痛みは先祖の供養と関係するそうで、母の命日がもうすぐだと話すと、そのせいかもしれないと言ってました。
母の命日は19日ですが、僕は実家にも墓にも行かない方針なので、1週間の間、先生が代行して、供養をしてくれることになりました。無料です(笑)
友人に聞いたのですが、お墓参りの代行業者が流行っているみたいですね。依頼者の代わりにお墓に行って、リモートでお参りして、お墓掃除までしてくれるみたいです。僕はお墓参りに行きませんが、代行業者は使わずに、自分なりの供養をしてみました。今日は雪ですね。ではまた~
先生、おはようございます。
昨日、「耳をすませば」の「カントリーロード」が流れてましたが、どのバージョンなのか、YouTubeで確かめても、はっきりしません。先生のiPodに入っているCDには、何が入れてありますか? お手間かけますが、教えていただくと助かります。
ぴぴさん、こんにちは。
多分、映画「耳をすませば」のサウンドトラックです。♪コンクリート・ロード♪が欲しかったのですが、それは入ってなかったのです。
何パターンか入ってましたよ。そのどれかでしょうね。答えになってるかしら?
先生こんにちは。
今日はすごい雪が降っていますね。
お母様の命日にこんな雪が降るなんて、お母様が先生に会いに来たのでしょうか。
最近体調が悪かったとのこと、大丈夫ですか?
私も最近体調が悪く帯状疱疹になってしまい、毎日体が痛いです。お互い気をつけましょうね。
お母様の素敵なエピソードありがとうございました。
あざらしさん、こんにちは。
2・26事件や忠臣蔵の義士の討入などが雪だったように、母の命日に雪が降るのはそれっぽいなと思います(笑)
今は体調が悪い人が多いから、我々も労い合いましょうね!
さっき、人形作家さんが来て、ムンクを預かって行ってくれました。髪や靴も作ってくれるって。大リニューアルになりますよ。ムンクも喜ぶでしょう。それが母の命日だっていうのも単なる偶然とは思えません。出来たら見せますね。ではまたね~