大岡山デート~パリ五輪の中

6/Ⅷ.(火)2024 はれ 須崎優衣がまさかの初戦敗退。僕のパリ五輪が終わる。大谷翔平34号ソロ、ベース踏み忘れ?一塁に戻る場面も。

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

久しぶりの「デート記事」です。何をしましょうか?「つまんない顔で写真をとろう」という展覧会が横浜そごうでやってるらしく面白いらしいので、つまらない顔、で写真をとってみましょう。

つまらない、の「記号」と言えば、頬杖。

「あー、つまらない」と叫んでみる。

つまらなさ過ぎて頭を抱える。まるで二日酔いのよう。

つまらないから扇子で扇ぐ。

つまらない顔を隠す。

鼻の下にはさむ。

うまく行かない。つまらない。

落語家みたいにくわえてみる。

曲芸師みたいに物を乗っけてみよう。

ヤドンのソファーは、ひとをダメにする。それほど、リラックス出来るソファー。

つまらない、と、リラックスは別物だ。つま先をピンとするけど、つまらない。

新聞読んでもつまらない。代表選手がタバコと飲酒で辞退だって。

そんなパリ五輪も真っ最中の大岡山北口商店街は夏祭りの雰囲気です。

何を食べに行きますか?候補に最近僕が食べたもの。

塩ラーメン屋の「冷やし中華」キュウリ抜き。

お好み焼き屋「佐竹」の「佐竹スペシャル」。

大岡山から徒歩でも行ける奥沢の中華料理屋。青島ビールと紹興酒。

クラゲの前菜キュウリ抜き。

ピリ辛腸詰。

アワビの醬油煮込み。

麻婆豆腐。

誕生日の寿司屋。

ウニ。

この季節は、小肌の子供、新子。

 

新子は出世魚。なかずみ、と食べ比べ。新子2個分に対し、なかずみ半身。

長良川の天然アユの塩焼き。

これは三つ葉。

0時の位置から時計回りに、ブリ・クジラの尾の身・カツオ。この時期にしては脂が乗っています。

じゅんさい。夏の野菜。寒天みたいです。

石垣貝。口の中に入れると、ほわっと溶けます。食感は、アワビの真逆。

本マグロ。

穴子の甘いツメで食べるものシリーズ。デザート感覚。

家系ラーメン屋でやっていた「7日限定」冷やしネギチャーシュー麺。

実物。

にんにくと生姜を入れると美味しくなります。あと、酢。

デートにファッションも大事ですね。リュックサックを新調しました。これは今まで使ってた「山口百恵」柄。

しょこたんのファンクラブ限定の福袋で当てたリュックに、サンリオのキャラ達をつけてみました。

ヘアスタイルは夏らしく「ひまわり」にしました。頭頂部が茶色で、もみあげと襟足は葉っぱの緑。

横からみるとこうです。

パリ五輪の季節だから応援Tシャツ(水色)で。

真夏のデート気分を作ってみました。ひとりにでもウケる限り、企画は続きます。

BGM. 伊藤咲子「ひまわり娘」


文化部通信~その伍拾陸~

こんにちは、文化部通信56弾。文化部長のスーです。
暑い日が続きまますね。外を少し歩いただけで汗が止まらないので、水分・塩分補給が大事です。カワクリでは熱中症対策として、ポカリが大流行!

こんなに暑い日に必要不可欠なのは、”アイス”ですね。
暑い日にぴったりの「サクレ 梨味」がファミマから限定発売されてます。
私が毎年楽しみにしているアイスの1つです。

サクレは店舗限定で他の味も出てるようです。探しにいかなくては。
そんな暑い夏を乗り越えるための、夏にぴったりアイスランキングを私が考えてみました。

1位 スイカバー
2位 サクレ 梨
3位 アイスボックス

やっぱり夏にはさっぱりするアイスを選んでしまいますね。
みなさんは好きなアイスありますか??おすすめのアイスがありましたらぜひ教えて下さい。

さて、前回の文化部通信では、カワクリのポリシーについて触れましたね。
それと同時に今までのなぞなぞを紹介しました。探してみたら8月分もたくさんみつかったので前回に続いて なぞなぞ を紹介します。
今回は答え合わせをすぐ出来るように、問題のすぐ下に答えを書いてみました。ぜひ解きながら読み進めてみてください。

なぞなぞ過去作 8月ver

2017年

答え
① 1.チーズ
② 2.お寿司
③ 1.王様

2018年

答え
① 10
② りょうて
③ 1人

2018年 先生作

答え

2019年 先生作

答え
① ハスキー
② 童謡(同様)
③ 20才(ハタチ=歯タッチ)
④ 血管(欠陥)
⑤ 造花(増加)
⑥ シー(sea)
⑦ 聴診器(長身・き)

2021年

答え
① MOON
② 口(くち)
③ 回転(開店)

2023年

答え
① ハンガー
② ふうせん
③ メイク

いかがでしたか?
今までのなぞなぞとちょっとテイストが違う先生作の”ダジャレクイズ”もありましたね。それにしても、11万円もするキャンディーってなんだ??

なんだか問題を解いているうちに頭が熱くなってきました・・。
早急にアイスを食べて冷やすことにします。

 


7月最期の頁は「上手な川原達二の作り方~男親編」

31/Ⅶ.(水)2024 はれ パリオリンピック、日本、金メダル総数は1位。

 

父は1984年11月8日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その寺を父は知りません。縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてません。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月は僕のお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は父に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理でした。カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、堂々と好きになっても許される安心感がありました。天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」だという噂があったが、真偽の程は定かではないです。僕の父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうように頼んでやるから」と勉強をするようにと交換条件をチラつかせました。

(2)森昌子が「せんせい」でデビューした。僕と一緒に歌謡番組を観ていた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。父は堅物だが、時々おかしなことを云う。僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、「今日からタッちゃんのお姉さんよ」、などと言われても困ると思った。その頃、モンチッチ、まだいなかったけど。茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。「マミー」は「くれんの?」と答えた。「あげるよ」と僕は言い、こいつらはお似合いだな、と森昌子は「マミー」にまかせた、と思い、気を楽にした。

(3)僕が小さい頃、父は頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようにすぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えていた。ひどいと言われれば、ひどいものだ。小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。

(4)父の歴史はよく知らない。北海道にいたというが生まれはどこか知らない。北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに何故か医者になると言い、満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。

(5)父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、ということを常に考えている子供だった。父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、スポンサーになった。子供の学校にものすごい寄付をしていた。たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、自分の家族に味あわせたかったのだと思う。それはまるで質の良いマスターベーションのように思う。

(6)父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、気になってしょうがない。

(7)母方の祖母は、「タッちゃんのお父さんは、トリ年生まれだから、夜明けを告げる人で、だから立派に一代で財を築いた」と幼い僕に説明した。僕は、「じゃ、僕は大人になっても働かなくていいね」と言ったら、祖母は狼狽して、「タッちゃんはトラ年で一番強いんだから、お医者さんになって、お兄ちゃんと一緒にお父さんと3人で病院を大きくしないと」と言った。昭和40年代の医者の子供は皆、「後を継ぐのが当然」のように育てられて、良い悪いではなくて、そんな時代だったのだと思う。

(8)小4の時、手の骨を骨折して、父の知り合いの整形外科の医者にかかり、その家族と付き合うようになる。クラスに医者の子は僕だけだったので、よその医者の家の様子を知るのは、自分の家と比較して自分を客観視する上で参考になった。父の知り合いの病院は茅ヶ崎の南湖という海岸の方にあって、これで治療が全部、おしまいという日に、父の友人のお医者さんは車で家まで送ってくれた。家族総出で。僕の家は両親とも運転免許証をもっていなかったから、家族が一台の自家用車で移動するという空間にお邪魔するのは新鮮だった。その家のお父さんが運転手をして、僕が助手席に座り、後部座席に奥さんと子供が2人いた。「人生ゲーム」みたいだと思った。子供は、僕より年少の人見知りをしない騒々しい男の兄弟だった。道中、彼らは父親に向かって、「ねぇ、このお兄ちゃんを治したのは、パパ?」と後ろから話しかけていた。父の知り合いの医者は、ハンドルを握りながら、子供たちに、「違うよ。タッちゃんが一生懸命、自分で治したんだよ」と答えた。僕は、この家では子供は自分の父親を誇りに思うんだ、と思って、自分にはそういう気持ちが欠けてるな、と思った。僕は自分の両親に車内でのやりとりの一部始終を報告した。「お父さんの友人の医者は、自分が治したと自慢してもいいのに、治療は患者の治そうとする気持ちが大事だと教えてたよ。なかなか大したものだよ。あの兄弟は、将来医者になって、あの病院を大きくすると思うよ」と僕は言った。すると、僕の父と母は、顔を見合わせて、困ったような顔をして黙り込んだ。僕は、その瞬間の「間」をよく覚えている。その後、僕は疲れて、居間でそのままうたた寝をした。母が僕に毛布を掛けた拍子に目を醒ましたが、同時に両親の会話が耳に入って来た。父「さっきの達二の言い分を聞いたか?」。母「ええ」。父「達二は、将来、駄目かもしれないな」。母「あの子は、難しいから」。その後、父母、沈黙。僕は、重い空気を読んで、タヌキ寝入りを続行。

(9)父は、僕が二十歳の頃、胃癌が見つかって、医者をリタイアした。子供の頃は、あまり父と話さなかったが、父が死ぬまでの1年弱はよく話した。父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、揃いで着て喫茶店に行ったりした。医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。本当は病気にタバコはイケナイけれど、不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。

(10)父が死ぬ直前。兄はもう医者になっていて僕は医大生だった。僕は毎日、学校の実習を終えるとお見舞いに通った。父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、ある日、2人きりの時にすべてを教えた。父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」と言われた。

(11)父は家族旅行には一切参加しなかった。足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし自分が楽しむよりは家族が楽しむことが目的だったのだろうけど、きっと、経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったからだと思う。医学部じゃ教えないから。大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。

(12)父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。AZもその1人だった。AZは僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。藤巻が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。

(13)いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。しかし、僕は本当に実感がなかったから、「いや、本当に悲しくないんですよ~」と軽く(明るく?)答えたら、「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。

(14)うちの父は顔が広いから色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。でも、僕は思った。「この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、今日のところは譲ってやろう」。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。それは、家庭用のカラオケの機械だった。父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことがある。そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、1から医学校に入り直したらしい。詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」ってインプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、ふとカラオケを購入したのかもしれない。カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、「チッ!」と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。おそらく父が好きな歌なのだろう。しかし、おそろしく丸印が少ない。僕は、「い」のページで目と手が止まった。二つ、丸印が並んでいる。一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる 誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。

(15)子供に何かを教わるというのは、親として喜ぶべきことなのだろうか。そういえば、小3の頃、父に「医師会の忘年会」でやる出し物の相談をうけたことがあった。父は短‘歌’や‘芸’術には明るかったが、流行‘歌’や‘芸’能界には暗かった。そこで、その分野では、父の知り合いの中では最も長けてると思われる人物=我が子の知恵を拝借しようというわけだ。僕は、「医師会の忘年会」という響から、堅物の年寄りのヨッパライの集まりだと即座に判断し、当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」のB面の「大変歌い込み」を教えてあげた。これは、♪エンヤートット、エンヤートット♪という掛け声で始まる民謡「大漁歌い込み」の替え歌で、♪大漁だよ~♪という所が♪大変だよ~♪という風になっている。シャイで下戸で音痴な父が、いくら酔っ払いの前とはいえ、歌を披露するとなると、一つ間違えれば、「ジャイアン・リサイタル」だ。(当時、ドラえもん、まだないけど)。それでも本人自らが、♪大変だよ~♪、と歌い上げてしまえば、先手必勝である。周囲も納得せざるをえまい。大変なんだから。ドキュメンタリーともいえる。演じる方も大変だが、聞く方だって大変だ。指名した人に責任がある。そんな、「大変歌い込み」。実況中継に近い。同情と共感が入り混じって、拍手さえ起こるかもしれない。そんな目論みだ。父は、僕の指導の下、なんとか1番だけを覚えた。会のあと、父は上機嫌でご帰還し、大変感謝された。父親の役に立ったというこの体験は、その後の僕の性格形成に、なんらかの影響を及ぼしたと思う。

BGM. ザ・ドリフターズ「大変歌い込み」


専門外来〜幸せになる?!〜

こんにちは、とくだです。これまで心理部門では、様々な専門外来をご提案してきました。元々は、川原先生の斬新な発想から生まれた専門外来の数々。

例えば、『花嫁になる君に〜虐待防止カウンセリング』では、愛情があるのに子育てのうまくいかなさから叱りすぎてしまう、虐待が疑われる、そういうケースが時折ありますが、そこに焦点を当てた外来でした。親自身の幼少期の体験が現在の子育てにもオーバーラップする(いわゆる世代間伝達する)場合も多いので、子育て中の方だけでなく、これから母親(父親も)になる人に向けての外来でした。

他にも、なかなか人には言えないけれど、不倫をしてしまった側の人への支援を考えた『不倫外来』や、『精神科的懺悔室』、過去にカウンセリングを受けたけれど、うまくいかなかったという人に向けての『リベンジ・カウンセリング』・・・等です。

これらは大きく括るとすれば、支援の必要性に焦点が当たる立場は言わずもがなですが、焦点の当たりにくい立場でもケアは求められる、という視点が強かったかもしれません。あまり公に語ることが難しい、言葉にしにくいというようなことでも、様々な立場から、個人のニーズに光を当てようという視点で、診察という場もそうですが、じっくりと時間をかけて語ることのできる場としてカウンセリング(心理療法)を、なるべく入りやすく、キャッチーなフレーズで知っていただきたいというところから生まれた専門外来の数々。(ちなみに、今考えている最新版の専門外来は、個人の視点よりも、もう少し社会的な視点が入った専門外来として、またご提案したいと思っていますが、それは近日公開予定です。ご興味あったらぜひご覧になってください。)

さて、そんな経緯があった専門外来でしたが、川原先生からまた別のご提案が。

「また別の専門外来思いついたんだよ・・・今までは困っているということに向けての専門外来だったけど、もう少し座標軸を変えてみた視点が必要だと思うんだ」と。「題して、『幸せになろう外来』というのはどうか」と。

たぶん、これまで私はわりと川原先生のおっしゃるキャッチーなフレーズやその意図を自分なりに理解していると思っているけれど、今回の『幸せになる外来』を理解するまでに結構時間がかかり、どういうことか何度も尋ねてしまいました・・・

幸せ??どういう視点??よくある女性雑誌の「愛されコーデ」みたいなこと??などと勘繰ってしまって、混乱・・・。

『幸せ』というワードの持つ曖昧さや、こちらが勝手にちょっと黒い気持ちでその言葉を捉えてしまい、隣にいた原さんにも尋ねてしまいました。松井さんにも聞いてみたいところだわと思いつつも。

精神分析の創始者のフロイトは、「痛ましい状況」を「ありきたりの不幸」に変えることができれば、困難や苦しみにもう少し立ち向かえる、といった主旨のことを言ったそうですが、困っていることや苦しいことをどのように理解して、自分が立ち向かえるところを見出そうとすること、苦しい中でもいかに考えられる心を持つか、ということを考えたいと思っているものの、シンプルに『幸せになる』と言われるとなんでこんなに理解が遠くなったのだろうか、、、と不思議です。

少しやり取りを重ねて、新専門外来については、

そもそも『幸せ』の定義とは何かということになる、そこにその人の歴史あり。そういった個人史をカウンセリングで紐解いていこうということです。病気だから、問題があるから、ではない視点。幸せになるために自分は何を求めているのかを考えてみようというカウンセリング(心理療法)。それは確かにちょっとこれまでの専門外来の視点とは違うかもしれません。よりよく生きるには、生きづらさについて考える、というよりももっと積極的に幸せについて考えてみる。

皆さんにとっての『幸せ』はどういうものですか・・・?

もし私のように、腑に落ちない、という感覚に陥ったり、

言われてみれば自分は何を欲しているのだろう?と思ったり、

ご興味をお持ち方はどうぞこの専門外来に一度いらしてみてはいかがでしょうか?

P.S.原さんと松井さんにもこのテーマについて記事を書いてもらいました!続いては、原さんです。その後に松井さんと続きます~。


こんにちは。心理士の原です。

「幸せになろう外来」をやろう!と発表する川原先生と徳田さんのやりとりをそばで聞いてました。

幸せになろう外来は

「幸せとはなにか」を知ることから始まる

 

みなさんにとっての幸せはどういうものですか。

・おいしいものを食べる

・恋人と一緒にいる

・ペットと過ごす時間

・推しのライブが始まる直前

・新しいゲームを全ステージクリア

・ミステリー小説のラスト10ページ

・釣りに出かける前日に持っていく道具を確認する

・スポーツジムで汗をかいた後のシャワー

・社長へのプレゼンで手ごたえを感じた

・予定いっぱいのスケジュール

・家族のいない家にひとりでいる

・子どもが小さかった頃のアルバムを眺める

それぞれの人にとって「幸せとはなにか」はそれぞれ違うもの。持っている価値観や感じ方が十人十色で違うから。

 

そこでカウンセリング(心理療法)です。

自己理解を通して自分の価値観を知ること、日常生活で自分の気持ち(感情)に意識を向けることは、自分だけの「幸せとはなにか」を知ることに役立ちます。

隣の芝生は青く見え・・・ない!

「どうして自分はいつもうまくいかないんだろう」

「自分が生きている意味ってなんだろう」

こんな考えが湧いた時は、幸せになろう外来の絶好の機会です。

相談室でお待ちしています。

 


こんにちは。心理の松井です。

 

「幸せ」と聞いて、素直にスッと心に入ってくる人とは、果たしてどれくらいいるのでしようか。幸せというワードは、どうかすると暴力的になることすらあると私は思います。

なぜなら「幸せ」とは、幸せになりたい幸せとは何か自分は幸せなのかといったように、自分の内から生まれてくるものであって、外から提示されるようなものではないと思っているからです。幸せとは、常にプラスアルファ、通常よりも素晴らしく最上位の状態であり、無敵のような圧を内包していると思います。なので、自発的に「幸せになろう!」と行動を起こすのはともかく、「幸せになろうよ!」と突然投げかけられるのは、結構酷なことだなと思うのです。

 

創作物のジャンルに「メリバ」というものがあります。これは「メリーバッドエンド」の略で、受け手にハッピーエンドかバッドエンドか解釈が委ねられたり、結末を選んだ主人公にとっては幸せと定義されても、周囲から見るとバッドエンドである作品のことを言います。

例を調べると「マッチ売りの少女」や「幸福な王子」などが出てきます。現代だと「まどマギ」がそうでしょう。体感でしかないですが、メリバはなかなか根強い人気を誇るジャンルのひとつだと感じます。

 

メリバで描かれる幸せ悲劇であるにも拘わらずという要素があって成り立つと言えるので、手放しの幸せとは違うでしょう。むしろ、幸せは定義ができるか?という「幸せ」に対する皮肉的な感情から、メリバというジャンルが生まれたようにも感じます。

 

個人的な好みではありますが、自分は少なからずそこに共鳴し、一定数刺さる人がいて、ジャンルを通して「幸せ」に構え気味な人々がいることを思うと、幸せというプレッシャーから少し解放される気持ちになります。

「幸せ」について考える時、そういったややこしさや難しさ、複雑さは、人々の心のどこかにあるものではないでしょうか。だからこそ、「幸せ」を投げかける時、慎重であって悪いことはないと思うのです。

 

幸せが何かというのは捉えるのが難しく、人それぞれ、結局はどう生きるか、どう生きたいか、それを模索し進む過程で、結果的に「これか」と気づくようなものなのだと思います。ですので、私は「幸せとは何か外来」の方がいいなあと、密かに思っています。


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24/Ⅶ.(水)2024 はれ 手越祐也、国家独唱を辞退 RIZIN運営謝罪、SNSは同情の声

今日は土用の丑の日。鰻じやなくても、「う」のつくものならなんでも食べれば良いんだって知ってました?たとえば、うどん、とか、卯の花、とか、ウインナーなど。

今日のお昼は暑いから熱い天ぷら「う」どんにしよう。

受付に、「う」まい棒明太子味を買ってきました🤣

自分用の朝に、「ウ」インナーロール

新しい本棚リスト。東口宜隆は、さらば青春の光、の東ブクロの本名です。彼の卒業文集をYouTubeの企画で幻冬舎が手作りで製本化(商品化)した限定品。東ブクロは先輩芸人のお嫁さんと不倫して干された問題児。「不道徳ロック講座」の帯と並べるとイカしてますね。何気に「力道山未亡人」の帯も興味をそそります。

トランプのTシャツも飾りました。カワクリにあると政治色が薄まるとお褒めの言葉をいただきました。テクノポップが流行しても、歌謡曲に使われると結局、「テクノも歌謡曲になっちゃう」的な。或いは、新興格闘技団体UWFが一世風靡した時でさえ、「シューティング(真剣勝負)も含めてプロレスなんだよ」と語ったジャイアント馬場の含蓄を思い出します。

Tシャツと言えば、「パリ五輪」応援Tシャツが届きました。

女子レスリングの須崎優衣さんに注目です。

あとは柔道。

BGM. RCサクセション「エミちゃん、おめでとう」


夏休みの自由研究~川原達二の作り方 2024

19/Ⅶ.(金)2024 はれ、暑い トランプさんの銃撃事件のTシャツ早くも売り出される

母は2006年3月19日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもその墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこに寺があることもしらなかった、縁もゆかりもない場所です。何かの歌にあったけれど、墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのです。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月はお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は母に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。

(2)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

(3)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と現代そば事情を嘆いた。僕は、この親子はアベコベだな、と思った。

(4)ある日、母は僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来た。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいた。聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言っていた。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるのが、かわいそうで、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(5)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(6)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたのだが、そのシーズンは旅館も混んでて、サービスが悪く僕は不機嫌。口もきかないから、母は困って、結局、この旅行は一泊もしないで、わずか数十分で帰って来る。大学の入学式。大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていた。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて「こんな奴らと一緒にされたくない」と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰ってしまった。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑っていました。どっちの場面も怒って良かったんじゃないかと思う。

(7)兄の結婚式。僕は間に合うように家を出たのだが電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻。結婚式の途中で、バタバタと親族席に遅れて到着すると、母はホッとした顔をして、振り向いて笑っていました。

(8)母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないんですよね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも母の「ロースト・ビーフ」には劣ります。しかし、あの味は、もうこの世にないのです。母は、息子のお嫁さんたちに、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったからです。

(9)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出して、考えます。母は、僕の心の中にいると住んでいます。母はもう死んでいないから、美化されていて、お得です。

(10)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつけた。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいから。茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。

(11)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、という同じシーンがあった。その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、サザエとフネが青ざめるというものだった。僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」。母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(12)川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。そして、父が母に言いました。「達二の看病をしてあげなさい」。母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(13)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)あれは何だったのか、いまだに判らない。

(14)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。

(15)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥◎』とっくにつぶれてる。

(16)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(17)子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、どうでしょう?」と笑いながら答えた。

(18)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(19)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。カワクリは法人化して、医療法人綾枝会、になる。綾枝会の綾は、母の名前からとった。母はここのクリニックをみることなく死んでしまったが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(20)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。語呂合わせの巻。11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金<気持ち」である。僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(21)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。

(22)僕には、いじめられ体験がほぼない、が、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。男の子のプライドを大事にしたんだと思う。僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(23)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(24)母はバレンタインに毎年、それこそ死ぬまでチョコレートをくれた。皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなライン。中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。ま、僕は嘘もついてないし。しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(25)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、「俺も舐められたモンだぜ」と思った。結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。パ・チンコなのにね(笑)

(26)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、おれの形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(27)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。おしまい。アーメン。

BGM.  さくら学院「秋桜学園」


君にメロロン 2024

17/Ⅶ.(水)2024 くもり 真美子さんと「2人で楽しく歩きました」 手繋ぎエスコート、大谷が初の夫婦レッドカーペッドに笑顔

朝のワイドショーは大谷のデコピン裏地スーツで持ち切り。スーツの裏地にデコピンがいっぱい。

 

今月はお誕生日月なので、一部のファンから、焼き直し記事も掲載して欲しいとリクエストがあったという事で❣️、今回は「恋に恋する年頃」の記事です。さて、今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

うちに出入りしていたちょっと変わったお姉さん。その人の家によく遊びに行った。南湖のあたりのスーパーの店先で、焼き鳥を買ってくれた。ポップなフラワー・ムーブメントなシールもたくさんくれた。僕はそれを家中の窓ガラスに貼ったら、母とお手伝いさん達が必死にはがしていたっけ。その時、僕が思ったことは、「シールって貼るのは簡単だけど、はがすのは大変だな」、ってことだった。そのうち母は、その人と遊んではいけない、と言った。理由は、ふしだらな女、だからだとか。そんなことを小学校低学年生に言っても判んないだろうに。それに、仮にその人がふしだらでも、僕にとっては良い人だったから僕の評価は変えられないのに。「ふしだら」、で思い出したのだが、「だらしない」とは本来は「しだらない」という言い方だったらしい。いつの世も逆さま言葉は流行るらしく、「しだらない」が「だらしない」に取って代わったとか。

僕の小学校は女子高の付属で中高は女子校で、小学校だけ共学だった。道を一本挟んだ敷地に中高の校舎があった。そこの体育館倉庫のそばに、ミリンダの自販機があって、本当はいけないのだが、僕は休み時間に買いに行っていた。バレるとヤバイから、体育館倉庫の中で、ミリンダ、を飲んで小学校校舎に戻る、ということをこっそりしていた。すると、その体育館倉庫の中には、隠れてタバコを吸っている女子高生がいた。僕らは弱味を握り合い、ここはお互いのために秘密にしようと、共犯関係になった。僕らはほぼ毎日、体育館倉庫で落ち合った。彼女は何かの運動部に所属していて、その顧問の教師と内緒で付き合っているのだと打ち明けた。でも、それはリンリ的にイケナイことらしかった。僕はえらそうにミリンダを飲みながら、「ふ~ん、リンリ的ねぇ~」などと応えていた。彼女はあまり頭の良い生徒ではなかったようで、僕と彼女の年の差を、簡単な引き算なのに、指を折って数えていた。その数字が自分と教師の年の差より小さな数だったらしく、「よし!」と僕に乗り換えることにすると宣言した。そして僕は、「将来、この人と結婚するのかなぁ」とボンヤリと思った。それから数日後、彼女は体育館倉庫にパタリと姿を見せなくなった。おかしいな、と思って、放課後、正門でまちぶせしていたら、彼女がやって来た。明るい陽の下で逢うのは、初めてだった。僕は「最近、どうしたの?」と聞くと、彼女は「あんたのお父さん、PTA会長なんだって?」、「そうだけど」。「身分が違うよ!」と彼女は目を合わさずに、そう言った。僕はそんなこと関係ないじゃん、と言いながらも、「この人は障害付きの恋に恋する人なんだ」とも思った。だけど、風の噂で、彼女は卒業してから、その教師と結婚したと聞いて、「そいつは良かった」と思ったものだ。

うちの実家は眼科の開業医でたくさんの従業員がいて、僕は末っ子なので、大人たちから可愛がられていた。僕とよくキャッチボールをしていた男の人は野球とギターが上手な、ギッチョの好青年だった。僕が淡い恋心を寄せていた女性とその人が付き合っていると知った時には、お似合いだと思って、祝福した。だけど、彼女の国籍か家柄がネックで、結婚は出来ないという話を聞いた時にはショックだった。僕はもうハイティーンだったので、ある程度の事情も理解できるつもりだった。僕は彼女と茅ヶ崎の海岸を海水浴場から辻堂の方向に話しながら遊泳禁止区域まで歩いて来た。江ノ島が僕らに近寄って来る。僕は僕なりに良いアドバイスをしたつもりだったが、彼女は「タッちゃんは、まだ子供だから判らないのよ」と馬鹿にした。すると、急に雨が降り出して、まるで彼女の涙雨みたいで、僕らは濡れネズミみたいになったから、大慌て。海辺から近くのパシフィックホテルに駆け込んだ。家に帰ったら、父がパシフィックのことを、「昔は一流ホテルだったが、今は連れ込みホテルになった」と嘆いていて、少し焦った。後にサザンが「夏をあきらめて」で同じような光景を歌っていたから、僕は桑田にこのこと喋ったっけ?と頭をひねったものだ。茅ヶ崎の海には、潮から町を守るように松林が立っていた。そこのある区域に、ホモの浮浪者がいて、僕が通りかかると、「坊ちゃん、こっちへおいで」と自分の物を露出させて不気味に笑った。僕はムシャクシャしていたから、騙された振りをして、松林の中に入って、油断した男の顔面に膝蹴りして逃げた。そうしたら、その晩、複数のホモの浮浪者に追いかけられて蹂躙される夢にうなされた。どっからどこまでが夢なのか、判らない。

僕が東中野に住んでる頃。高校の先輩とたまたまご近所で出くわしたら、友好的で、「これから家に遊びにおいでよ」と豪華なマンションに招待された。地下の駐車場にはジャガーというアメ車があって、先輩はそれを乗り回してると言った。良いのか?高校生がジャガーに乗ってて。「巨人の星」の花形満じゃあるまいし。「僕はこれから家庭教師と勉強だから、彼女が来るから相手してて」と言い残して部屋に消えて行った。僕はだだっ広いリビングのソファに一人でいると、その彼女という人が入って来た。大理石のように冷たい表情の美人で、僕は軽く挨拶をした。彼女は、「隣に来ない?」と誘ったり、「吸う?」と吸いかけの薄紅いタバコを手渡そうとしたりした。「いえ、煙が目にしみるから」と僕はプラターズのヒット曲のように断った。が、何だ、これは?誘惑してるのか?
そもそも、あの先輩は何のつもりだ?家庭教師なんか来ないじゃないか。そうか、きっと俺たちのやりとりを部屋からこっそり見てて、こっちが女に手を出したら、「俺のスケに何してんだ?」って美人局みたいに出てくるつもりか?それとも、倦怠期のカップルが刺激を求めて、チェリー・ボーイを交えて倒錯的な趣味に走るつもりか。3Pとか。「ん~、弱ったものだ」と頭をフル回転させてると、先輩が部屋から出て来て、驚いたことに後ろに家庭教師がいた。「あれ?本当に勉強してたの??家庭教師、いつ部屋に入ったの?あっ、先にいたの?じゃ、3Pは?なし?」。よく聞いたら、ジャガーも父親が運転するのに同乗してるだけなんだって。普通じゃん。馬鹿みたい。

高3の塾の夏期講習は泊まり込み。そこの女子たちに誘われて夜中に女子寮に忍び込んだ。僕はその中の一番勝ち気な子と仲良しで彼女の布団に潜り込んで話をしていた。「初恋の相手はどんな人?」の質問に、「石野真子かな」、と答えたら、「それは恋じゃないでしょ?」と怒られた。うわ、面倒くさいパターンの奴だ。その女子はカリメロに似ていたが、石野真子の悪口を言うたびに、表情は邪悪に変化して、最終的にスターウォーズのヨーダに見えた。そして、他の間抜けが寮長に見つかった後は一網打尽。僕らはそれぞれ、呼び出されて怒られた。しかし、彼女は勝ち気で、怒られてる時に僕の片腕を閂の要領でギュっと自分の方に引き寄せて、講師たちを睨みつけた。「私達は付き合っているんだから、誰にも邪魔はさせない!」と啖呵を切った。彼女の胸が腕に当たる。「あぁ、僕は将来この子と結婚するのかな」と思った。顔はヨーダだけど。後で寮長に僕だけ呼び出され受験で恋愛すると、女は受かるが、男は落ちる、と言われた。頭ごなしに否定されると、恋の炎は逆に燃え上がる。西城秀樹じゃないけれど、やめろと言われても今では遅すぎた。亀の甲より年の功、大人の意見もたまには合っていることがあるから注意が必要だ、という意味だったと思う。その子は受験直前に、頭の良い浪人生の男子と付き合うことにした、と僕に一方的に通告した。それならそれでこっちは良いのだけれど、何が情けないって、「あれはないよな」と不細工な男どもに同情される現実だった。そっちの方がきついよ。で、寮長の予言通り、僕だけ大学に落ちるのである。そして、僕は予備校を代ゼミに変えて浪人生活をした。その時の様子は、受付カウンターのところに貼ってある「浪人の頃」に書かれています。

これは左側の上から下に読んで行くのが順番です。
「川原」の「川」の字の書き順と同じ要領で読む、と覚えると良いでしょう。

浪人の夏休み。高校の同級生のお姉ちゃんが美人だと言う噂を悪友から耳にした。冗談で、「ネェちゃんのパンティ盗んで来い」と命令したら実物を連れて来た。それは、ものすごく美人だった。アイシャドーがブルーでエンジェルフィッシュみたいだった。まぁ、浪人生が女子大生を見たら、誰でも、そう見えたのかもしれないけれど。「お姉様ですか?始めまして」と挨拶すると「弟から伺っていますわ」、「はて?何を?」、「パンティー」。そして、彼氏も連れて来ていた。その彼氏とやらは、衣紋掛けみたいな男だった。僕らは、ボーリング場に行くことになり、そこで僕は、ボーリング対決、を申し込んだ。スコアの良い方が彼氏になれる、と。姉はその話に乗った。衣紋掛けは、ぶつくさ文句を言っていたが、僕はまるでシカトした。そして、僕は川原史上最高点、自己ベスト216を叩き出した。衣紋掛けは、90くらいだった。だけど、それから先は、何もなかった。冷静に考えれば、球転がしで男を決める女もどうかと思うし、二年連続、女で受験に失敗したら馬鹿みたいだし。だからこの話しはここまでで、オチはない。受験生だけに。

大学に入り誰かの知り合いの女子高生と富士急ハイランドに4:4でピクニックに行った。富士急には迷路があって、あみだで決めたカップルでペアになって入った。僕らのカップルだけなかなか出れずかなり皆を待たせた。僕はもうこのまま迷路から抜け出せなかったら、「僕はこの子と将来結婚する羽目になるのかな」と思って焦ったがなんとか脱出出来た。僕らが最後に出て行くと、それぞれのカップルは良い感じになっていて、「ヒューヒュー」と僕らを冷やかした。それ以来、富士急はトラウマ。

大学に入って初めて行った合コンは人数合わせで、当日に誘われた。僕は合コンの作法を知らず、ガンガン呑んで、途中から記憶がない。翌朝、起きたら、左腕に見慣れぬゴールドのブレスレット。昨日の女の誰かのに違いない。そうしたら、その晩、女から電話があって、ブレスレットを取りに、僕の家まで来ると言う。それは嫌だから、なんとか中央線のどっかの駅のサテンで待ち合わせすることにした。女は別に怒っていなかったが、「合コンでああいう呑み方は駄目だ」とか「女の子の扱い方」をレクチャーし出した。途中から面倒くさくなったので、話は聞かないで、表情筋の動きだけを観察していた。感想は、「よく動くなぁ」。すると、女は僕が素直に話を聞いてると勘違いして、調子に乗って喋り続ける。僕はさらに目をこらし、皮膚の下の骨を透視して、そうしたら骸骨がガクガク動いてるように見えて、面白くなって来た。笑いをこらえるのに必死で、お尻をつねったりした。そんな僕の我慢が、真剣さと勘違いされて、好意を持たれてしまった。彼女は決して悪い人ではないが、僕の好みの外見ではなかった。何故か、僕と彼女とその妹の3人でボーリングに行くことになった。昔は中野の丸井の上にボーリング場があった。妹は、ションベンライダーの河合美智子にちょっと似ていた。僕らは仲良くなった。当時、僕は東中野にほぼ1人暮らしだったから、家は乱雑だった。その子は家に来て掃除をしてくれたりしたから助かった。お礼にデート。当時は千葉に東京ディズニーランドがオープンした頃だったが、僕は「ああいうのは愚民が行くものだ」、と思っていたから、東京タワーの蝋人形館とか目黒の寄生虫館をチョイスしたけれど、彼女は普通の女の子だったから、もうちょっとロマンティックな物を望んでいたのかもしれないな。その後、彼女と何があったか忘れたが、どこかから一切、連絡をとらなくなった。ケンカとかしてないと思うけど。でも、きっと原因があるとしたら、僕が悪かったんだろうな。

医学部の同期だったマリちゃんに、僕は猛アプローチをしたが、周囲からは「嫌われようとしてるとしか思えない」と言われた。僕の出した暑中見舞いをマリちゃんのお母さんが見たらしく、マリちゃんに「お母さんが気持ち悪がっていたよ」と言われた。頭に来たから、こけし、の形をした封筒で手紙を送った。案の定、マリちゃんより先にお母さんがそれを開いた。中の便箋には、「お母さん、見てる?」。とだけ書いておいた。マリちゃんに、「お母さん、恐がっていたよ」と言われた。そんなマリちゃんと僕は今じゃメル友です。こないだ何かの話の流れで、「マリちゃんは皆の心のマドンナだよ」と書いたら、「いまだにそんなことを言ってくれるのは川原君くらいよ」と返事を貰った。僕は、「あっ、ところで、このメール、旦那さん見てないよね?」と尋ねたら、「見てないよ。なんで?」って聞かれた。そうかぁ、何も覚えてないんだぁ。

大学の近所のフィリピンパブで勤めてた日本人の女の子について。店がはねてから、「自分の家で呑み直そう!」と誘われた。断る理由もないから付いて行った。すると、家に着くなり、彼女は「ちょっと待っててね」と言って、神棚を開いて、お経をあげ出した。それは簡素なものだった。それから彼女は、店からくすねて来たというウイスキーのボトルをバッグから出して、「呑もう!」と言った。僕は、「あなたの信じてる神様は、こういうことして怒らないの?」って聞いたら、黙り込んじゃった。次の日曜日、彼女は僕のアパートに来て、部屋を掃除してくれた。お礼に近くで、ビールでもおごるよ、と蕎麦屋まで歩く道すがら、彼女は「日曜の昼間に歩けるなんて嬉しい」と言った。僕はなんとなく「僕は、この人と結婚するのだろうか」、と思った。しかし、国家試験が近くなり僕は店に行かなくなったし、彼女からも何のアクションもなかったから関係は途絶えた。何年か経って、気になって、その店のあたりに行ってみたが、それっぽい店はいまだにあったが、店名も変わっているし、もうさすがにその子はいまいと思って、店には入らずに帰って来た。ただそれだけのこと。

僕の国試の勉強はアパートの近くのカフェテリアで開店から閉店まで。僕は朝からモーニング、昼はランチ、夜はハンバーグドリアを食べて勉強した。地元の奥様が通うような店。お店は3人の女性がいて、毎日、勉強に通う僕を暖かく迎えてくれた。僕は背中越しに、3人が見守ってくれてる気がして、1日中勉強を頑張れた。クリニックのカウンターテーブルはそのイメージで作った。勉強しに来る子を受付が見守ってあげるイメージにした。この店も気になっていて、何年か前に行ってみたら、もう区画整理にあって、その店の入っていたビル毎、消滅していた。

クリニックに飾るポスターのラミネートをしてくれる文房具屋の女の子は、最近、急に綺麗になった、と思っていた。そうしたら、先日、向こうから、「お酒は呑めますか?」と聞かれ、呑みに誘われた。その事を受付に話したら、「それは逆ナンですよ!まさか、行く気ですか?」とちょっとしたバッシング。彼女は僕がポールのコンサートに行った時のユニオン・ジャックのネイルに感激していて、「男の人のネイルって素敵ですよね。なのに全然浸透してなくって」と嘆いていた。文房具屋の上司が言うことには、彼女は来週でお店をやめてしまうのだそうだ。これからは、ネイリストを目指すそうで、それでずっと僕のネイルが気になってたらしいのだ。なるほどね。それで僕を誘ったのか。ネイルをする男に興味があったのね。そういう事か。植木等の「スーダラ節」ではないけれど、俺がそんなにモテるわきゃないよ、だ。でも、なんか清々しいオチだ。あまりに清々しいから、今度一緒に飲みに行く約束をした。男の上司も一緒に三人で。なんで文房具屋の女の子の送別会に僕が参加するのかという疑問も残るが。ま、細かいことは気にしない。人生、成り行きだ。

BGM. 中川翔子「君にメロロン」


僕が精神科医になった訳 2024

13/Ⅶ.(土)2024 久しぶりにはれ 今日22時よりABEMAにて「撫物語」第2話なでこドロー其の壹、無料独占配信開始!

フェリーに乗って帰宅途中。どこかの島で散々遊びつくしたのだろう。すっかり疲れて愚図った顔をしている、それなのに帰路の船の中「まだ帰りたくない」って泣いてわめいるのは子供の頃のボク。それを横でみてるのが大人になった今の僕。まわりには母や兄や親戚のおじさん&おばさん(共に教師)、いとこや従業員のお姉さんたちが10人以上。みんな小さなボクをなだめてて、大きな僕の存在には気付かない。見えないみたいだ。

僕は今でも飲み会で「はい、お開き」となっても「まだ帰りたくない。もう一軒行くぞ」と先輩や後輩たちを困らせる。みんな「明日は朝から用事がある」と。だから僕はすねて「もうあんな奴らと飲まない」と飲み会に参加しなくなった。フェリーのボクと何も変わらない。

季節は夏か。島で大きな浮き輪を持って大笑いしてはしゃいで走り回ってよく動いている。海の上で転覆して泳げないから誰かに救出され、泣いたカラスがすぐ笑って、走り出したかと思ったら転んでケガをして膝小僧から出血して、その血をみて兄が卒倒する。落ち着きのない子供だから怪我ばかりする。10人くらい大人がいるから何とかみれてる。これだけ動けばよく眠れるだろう。食べ物は好き嫌いがあって、玩具を買ってもらって夢中になるが結局うまく操作出来なくって放り投げる。教師であるおじがそれを拾って使い方を教えるが興味を失くしてるから見向きもしない。

ピアノとか絵画教室とか書道とか学習塾とか習い事もいくつかするが勘だけ良いから最初こそさっさと出来るが壁にぶち当たると投げてしまう。ちょっときつく言われるとヘソを曲げてもう何もしない。母は根気強く怒らないでボクが嫌だと言ったら無理強いせず次の物をあてがった。こんな育て方をしてたら将来こらえ性のないロクな大人にならないぞ。言う時はビシッと言って、怒る時は怒らないと本人のためにならないんじゃないか?

フェリーは島から離れどんどん港に近付いて行く。旅の終わり遊びの終わりだ。わめき疲れてボクはお姉さんの腕の中で寝息を立てている。この時分の性質や性格が奇跡的に矯正されないまま、今の僕になったかと思うとちょっとゾッとする。とはいえ人間は社会的な動物だから、福祉うんぬんではなく、何か弱ってる個体がいると周囲の個体が守ってあげようとするのか。ボクはそんな風に誰かに助けられながら甘やかされながら今日まで生きて来た。人間は支え合いだというが、それはギブアンドテイクしてる人が言うもので、ボクのような人間があまり偉そうに言うことでもないな、とフェリーの中で僕は思った。

 

以上、夢日記でした。さて、今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。今月はお誕生日月なので過去の記事を手直しして自己紹介の代わりです。

 

僕の家は眼科で二人兄弟だから、将来の親の希望は、父と兄と3人で眼科を大きくすること。そういうのを「是」とする時代だった。僕は物心付いた時から、医者になることになっていた。勿論、その後の人生で、思春期や反抗期はあったけど、僕は医者になった。それは眼科医になる、のではなく、精神科医になろうという強い意志があった。医者になるには医学部に入り全教科を勉強して全教科の国家試験をパスしないといけない。だから、逆に言えば、医師免許があれば、何科にでもなれる。僕に対しての約束は、医者になることだったから医者にさえなれば何をやっても良いとも言えた。
僕の生まれは茅ヶ崎の海側で、そこは別荘地の多い温暖な風土だった。幼稚園の頃、近所をブツブツと独り言を言いながら、乳母車を引いている貧しそうな老婆が徘徊していた。老婆は乳母車に古い赤ん坊の人形を乗せていて、その人形を本当の赤ん坊だと思っているという噂だった。すずめ、を捕まえて食べてるという噂もあった。僕は母親やお手伝いさん達に、「タッちゃん、あの人に話しかけてはダメですよ」と教えられていた。ある日、狭い路地で老婆と鉢合わせた。
僕は思わず、「すずめ、って食べれるの?」と聞いた。すると、老婆は「坊や、そんな可哀想なことをしてはいけないよ」とビックリするほど、優しい声で言った。僕は一瞬で、この人は良い人だ、とピンと来た。すると、そんな気持ちが以心伝心、彼女にも伝わったらしく、僕らは仲良くなった。老婆は乳母車から赤ん坊を抱え上げて、「ほら、こうするとお日様が透けて見えて綺麗なんだよ」と僕に教えてくれた。セルロイドの人形に夕陽が差し込んで、それはキラキラと反射して輝いて虹のように見えた。しかし、僕はこの事は、親には秘密にしておいた。
同じ頃、似たような事件があった。
僕の実家は広大な家だった。だから、時々、「乞食」(←これは不適切な表現なのでしょうが、差別を助長する意図ではないので使用します)が来た。母親やお手伝いさんは、「タッちゃん、乞食が来たら、食べ物をあげちゃダメですよ。クセになってまた来るから」と言った。僕は言う通りにしていた。ところが、ある日、僕しか家にいない時に、勝手口から、女の乞食が、「何か恵んで下さい」と入って来た。僕は、「お前に、何かあげるとクセになってまた来るから、やらない」とピシャリと言い放った。すると女の乞食は、「坊ちゃん、もう何日も何も食べてないのです。約束します。今日だけですから」と懇願した。僕は女乞食の目をジッと観察して、僕にはこの人が嘘をつくようには見えなかった。そこで、従業員がいつでも、食べれるように台所に置いてある塩むすびを持って来てあげた。女乞食は何度も何度もお礼を言い、約束は守る、と言って帰って行った。僕はこの事も、大人達には話さなかった。
代わりに、毎日、「ねぇ、今日、乞食、来なかった?」と聞くのが日課。すると、親やお手伝いさん達は、「変な事を気にするのね。乞食なんか来ませんよ」と笑った。女乞食は僕との約束をちゃんと守ったのだ。僕はこれらの事を通じて、大人たちの言う事はなんていい加減なものだろうとあきれた。
そして、こういう「常識」とか「普通」は疑ってかかる必要があると思った。
僕はそれ以来、無批判にこの世を支配している「常識」とか「普通」とか「規則」とか「一般」とかを敵視するようになった。それは、そういう事によって、無力な人が、抵抗する術もなく、不当に扱われてることに義憤を感じると同時に、「常識」に縛られて、生きている大人たちも決して、自由に見えなかったからだ。僕は将来、医者になったら、歪んだ「常識」や「普通」で窮屈をしている人達を助ける仕事をしたいと思った。その頃の知識で、精神科という科があることを僕は知っていた。僕は医者と言う権威を武器に、差別や誤解を受けてる人や、不自由に生きている大人たちの心を解放するために力を発揮しようと決めた。そして、それは僕の性質上、とても向いていると思った。
これが僕が精神科医になった訳で、その初心はブレることなく今に至る。

BGM.  薬師丸ひろ子「守ってあげたい」(ねらわれた学園・オープニング)


「くどう君」と「干しぶどう」の思い出 2024

今月はお誕生日月。この記事も「心のゴミ箱」兼用です。

11/Ⅶ.(木)2024 雨 2024サンリオキャラクター大賞いちご新聞ランキング(いちご新聞に届いた票だけを集計した)結果1位は「ハローキティ」。シナモンは4位。

昨日22時からAbemaTVの生放送で石丸伸二と成田先生が酒を呑みながら雑談してる番組が面白くてついつい夜更かしした。今朝、テレ朝の「グッドモーニング」で元アイドルの局アナがインタビューしてるコーナーでは冗談言ったりして。選挙後のキャラだと延命は難しいと思ってたら見事なキャラ変。「石丸構文」なるものまで出来て「小泉進次郎」に並ぶ人気者に。社会学者?古市氏とのやり合いをネタにされ「サブウェイで注文出来るの?」とネットで騒がれてるが、さすがネットを駆使した選挙戦術の石丸氏だけあって、昨日のリハック(アベマの番組)でも、「(酒の)つまみ買って来ますか?」に「サブウェイ行こうかな?僕よく行くんですよ」と自らネタにする柔軟性。それよりやはり問題は成田先生で一人でヨッパライ「乱入した」N国党の立花孝志と石丸氏のバチバチしたやりとりを茶化し、「紳士的ですね」「恫喝しないんですね」「常識人なんですね」「国民の皆さん、安心して下さい。常識人でも頑張れば、サイコパスのふりが出来ると分かりました」と普段の二人の姿勢と「今日の」態度の差をあざ笑った。面白いものをみせてもらった。

さて、突然ですが僕は「干しぶどう」が嫌いです。それには深い訳があります。
その理由は小学校の低学年の頃にさかのぼります。

「くどう君」が、お父さんの転勤で「ロンドン」に引っ越すことになった。僕の田舎は茅ヶ崎で海外に転校する子は珍しかった。「くどう君」と僕は仲が良くて、引越しが決まってから、僕は「くどう君」の家に遊びに行った。「くどう君」の両親は不在でおばあちゃんが家にいた。
僕と「くどう君」が遊んでいると、おばあちゃんが麦茶とおやつに「干しぶどう」を差し入れてくれた。「干しぶどう」は、白く丸い皿に並べてあった。時は、真夏。「くどう君」のおばあちゃんは、昭和40年代当時のおばあちゃんとして平均的だったと思うが、白いノースリーブの下着のような服を着ていて、かがんで皿を置く時に胸元から谷間が見えた。「くどう君」のおばあちゃんはノー・ブラだったから、垂れ下がった乳房とその先に萎んだ乳首が見えた。僕は、その垣間見えてしまった「くどう君」のおばあちゃんの乳頭と、皿の上の「干しぶどう」が同一の物に見えた。それで、「食べろ、食べろ」というババァに吐き気がして、それ以来、「干しぶどう」を見ると老婆の乳首に見えてしまい菓子パンに「干しぶどう」が乗っていたら食べれない。ピラフに「干しぶどう」が入っていたら顔をそむけた。
その頃の僕は、過敏になっていて、「干しぶどう」だけをよけて食べるのも無理だった。接触してるということは、汚染されてることを意味したから。それだけで、全部アウト!ちょっと高級なレストランに連れて行かれ、気の効いた料理に「干しぶどう」が入っていたら僕はそれに手をつけなかった。
僕はそういう子だったので、親は別に理由も聞かないで放っておいてくれたので、今思えば感謝してる。さすがに僕も大人になって、今では、何秒以内に「干しぶどう」をよけたらセーフ、という独自のルールを作り、おかげで食べれる料理の幅も広がった。
話を「くどう君」に戻そう。「くどう君」のお別れの会。女子たちは皆、泣いていて、中には、「くどう君、行かないで」と無責任なことを言う奴もいた。ま、子供だから仕方ないか。でも、担任は大人なんだから、しっかりして欲しい。クラスの空気は、「くどう君、行かないで」一色になりかけてたのに、あの先生は何もしなかった。そして、目で僕に「この場をなんとかしろ」みたいな合図を寄こした。僕は、<ここはお前の仕事だろ>と視線で返した。
でも、流れからしょうがない。僕は皆に向かって、<そんなこと言ったって、親の都合だからしょうがないだろ>と言った。一瞬で、「そりゃそうだ」という雰囲気になった。そして、僕は、<ロンドンには、ドンドン行け!>と「くどう君」の背中を叩いた。「くどう君」は、2・3歩、よろけてから、振り返った顔は涙まみれで、「タッちゃんは、大人びてるなぁ」と笑った。それが、「くどう君」の最後の笑顔だった。…って、「くどう君」、死んでないし!
真夏の「くどう君」と「干しぶどう」の思い出でした。

BGM. 石丸伸二氏とは?元乃木坂46とも「真剣勝負」【グッド!モーニング】(2024年7月11日)


KWAIDAN 2024

今月はお誕生日月なので過去のアーカイブスを。この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

9/Ⅶ.(火)2024 はれ 石丸伸二氏「腑抜けたインタビューさせるんじゃないよ」 日テレ古市憲寿氏とかみ合わず

真夏なので、定番の怖い話をお送りしようと思います。今回の記事のタイトルは、高校の時の英語の授業「ラフカディオ・ハーンのKWAIDAN」の表記から拝借。

近頃はAbemaTVの山本裕典のホストに挑戦企画から、軍神という山本裕典のホストの師のYouTubeを見入ってる毎日ですが、以前に歌舞伎町に連れて行かれホストとこんな会話をしたことがあります。

「こう見えて自分は子供の頃、体が弱くかかりつけの小児科医がとても良い先生で自分も将来はその先生のように小児科の先生になりたかった。しかし、自分が高2の時、その医者が児童ポルノの罪でつかまった。なんだ、あんなに良い先生だと思っていたのが、実はそういう目で子供を見てたのかと裏切られたと思って勉強をやめてしまった」、それが医者をめざした理由と辞めた理由のすべてだった。
医学部は6年間。その時間は、単に膨大な知識を吸収するためだけにかかる時間なだけではない。その間に気持ちが折れずにモチベーションを維持出来るかどうかが問われているのだと思う。そうやって、患者と向き合う覚悟が問われ、責任感が育まれるのだ。我々だって何度も、理想と現実のギャップをつきつけられ、ぐらつくことに耐えて、生き残った。サバイバルした。少なくとも、「尊敬する先生がロリコンだったから幻滅して、夢を放棄」なんて、責任転嫁な言い訳は通用しない。
ところが、こっちの世界(どっちだ?)では、通じちゃうみたいで逆に、有効でさえあるみたいなのだ。「その医者、サイテー」とか、「可哀想~、被害者だね~」なんて同情票が期待できる。とほほ、な話である。

医師国家試験のテスト範囲は膨大である。その全部を完璧にこなすのはなかなか難しく、また全部が出題される訳でもなくどこが出るかわからない。そこで、傾向と対策が必要になり情報戦が重要になる。僕らの頃の情報戦の主軸は、「~が出るらしい」という風の噂。それを聞くと、そこを集中的に取り組む。また別の噂を聞きつけると、そこを見直す。そんなことをしていた。
実際、情報内容よりも、そういうものを自分だけが知らない不安がプレッシャーを呼ぶから心理的効果の方が大だったのかもしれない。

クラスの頭の良い子が、学校にかけ合い、6年生のために皆で勉強をし情報を共有するためのスペースを確保してくれた。これは、大変助かる。0時とか1時まで解放してくれるのだが、その時間まで学校に残ると僕は家に帰れなくなってしまう。僕は、当時、へんぴな所に住んでいたので、交通手段がなくなってしまう。
大学6年にもなると、結構マイカーを持ってる人がいて乗り合わせたりして帰っていたが、僕は車を持ってなかったし他の友人に送ってもらうのは遠回りになるのでお願い出来ない。それも毎日毎日のことだから、とてもじゃないが頼めない。困っていると、これまで6年間、ひとことも喋ったこともない男が、「川原さん、僕、帰り送って行きましょうか?家は○×ですよね?うちもすぐですから」と言ってくれた。本当に?いいの?。「川原さんの所、帰り道なんでいつも通るんですよ。1度、見かけたこともありますよ」と言ってくれた。悪いなぁ。じゃ、お言葉に甘えて。ところで、君、誰?。すると彼は真面目な顔をして、「ナカクラです」と答えた。ナカクラ君、と呼ぶことにした。
ナカクラ君の車は紺色の丸味を帯びた地味な日本製の車だった。学校から僕の家までの間、車中で今日勉強した箇所を話し合った。ナカクラ君がどの位頭がいいのか僕は知らないが、きっと僕より成績はいいのだろう。「そこはこうだと思いますよ」「それと関連して、コレコレ、というのも覚えておくといいですよ」などと言ってくれたから。約束通り、国家試験が終わるまで、毎日、ナカクラ君は僕を家まで送り届けてくれた。国家試験の当日、僕の手応えはなかなか良かった。
ナカクラ君はどうかな?と少し気にしたが、広い会場だ、誰がどこにいるかなんてわからなかった。そして、国家試験の発表。テストは水物だから、受かる人もいれば落ちる人もいる。合格発表者の表にナカクラ君の名前はなかった。他のクラスの子に「ナカクラ君、駄目だったの?」と聞くと、「ナカクラ?誰?」と言われた。えっ?。…合格欄だけではない。卒業名簿にも「ナカクラ君」の名はなかった。
今でも、不思議に思う。ナカクラ君は、いなかった?。ただ一つ、はっきり言えるのは、もしナカクラ君がいなければ今の僕はいない、っていうことだ。

BGM. 誰でも使える!軍神こと1億円ホストのタメになるトークアドバイス集!