ムンクの凱旋お披露目週間~日刊ムンク⑨

~前回までのあらすじ~

 

中1の頃から川原のそばにいるドールの名前は「ムンク」。

川原はテディベアの第一人者のお人形作家さんにリペアをお願いし、代わりに「抱き熊スーティー」をもらい名前をラスプーチンにしました。

川原の「守護」を祈ってくれるクマです。

ムンクが帰って来てトリオ「SS♡T」を結成。前号では「夢洲万博」へ初来日を果たしました。無事、帰国した「SS♡T」が織りなす一週間の様子をお届けする「日刊ムンク」の第9弾。

 

・金曜日

ドリームケースのチャックが開いてしまうことがあります。

こないだ親切な中国人に、背中開いてるよ、と教えてもらいました。こんな風に空きます。

こうしてると大丈夫なことが多いです。

逆に、このように雑に締めて歩いてると開いてしまう傾向に気付きました。

お人形作家さんに聞いたら、イヒヒちゃんに重りが少し入っているからそのせいもありますね。イヒヒちゃんも大切な仲間だから、ポジショニングを大事に気にして行きましょう。

 

・土曜日

今日は混むから朝にお昼ご飯を買っておく。

新発売のミラノサンド。

いつもお世話になってる知り合いが困ってたから、chatGPTで手伝ってあげる。その姿をムンクとラスプーチンも見ていて、大切な人の役に立てるというのは嬉しいものです。

 

・日曜日

エネルギー療法の先生に、ムンクを始めて会わせに行く。

僕の施術をおとなしく待つ二人。

ラスプーチンにはお茶を、ムンクにはお酒を用意してくれる。ムンクは大人扱い?

今日は川原の身体のメインテナンス、仕上げは鰻屋で滋養強壮と来たものです。行きつけの鰻屋にはムンクは初来日です。

酒のあては自家製らっきょ。

板わさ。お酒は二本目。

肝焼き。

焼鳥。

僕はキュウリが嫌いなのでお新香はキュウリ抜き。

鰻重で〆ますが、結構、酔っていてお箸がうまく使えません。

さすが、ムンクは気が利きますね。スプーンを持って来てもらいました。やっぱり男は女にはかないませんね。

 

・月曜日

休みのあいだ、ワックスをかけました。眠っていた床が目を覚まし、鏡のような輝きを取り戻しました。
この日、ムンクとラスプーチンを連れてチェックに行きました。

一歩足を踏み入れた瞬間、
そこに広がっていたのは異界のような透明な光の海。
ムンクは足元のきらめきに目をまんまるくし、
ラスプーチンは息を呑み、しばし言葉を忘れてしまいました。

「……これは、夜の間に床の妖精たちが通った跡かもしれないね」

誰がともなくそうつぶやいたとき、
床の奥の奥から、かすかな笑い声が聴こえたような気がしました。

 

・火曜日

ドリームケースの背負うところの左右のバランスが崩れてることに気づきました。このせいで、チャックが開いちゃうのかも。

そんな時は文化部長のスーちゃんの出番です。

僕は手先が不器用なのでからっきしダメだからです。

上手に調節してくれます。

はい、出来上がりです。

ムンクのヘアスタイルのメインテナンスもスーちゃん任せです。

今度、ムンク専用のブラシを買って来てくれるそうです。

上の帽子も整えます。

はい、仕上がりました。

 

・水曜日

診察室の模様替えをします。見物する二人。

BABYMETALの「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を通路のベビメタ・コーナーに移します。

そこの部分が空白になりました。何を持って来ようかな。

黒澤明とゴジラとアグネスラムにしました。昭和レトロでまとめました。

 

・木曜日

今週はムンクの凱旋お披露目週間なので、大岡山のラーメン屋「むらもと」へ行きました。

つけ麵にトッピングをたくさん。

刻みチャーシュー。

メンマ・煮卵・ほうれん草・海苔3枚・チャーシュー2枚。

煮干しの出汁が効いた醤油味のスープで、麺は少し縮れた麺で堅茹です。スープなくなり次第終了。女性には嬉しいミニラーメンもあります。

 

・金曜日

今日は降水確率100%だから二人は僕の部屋でお留守番。最近整理してる本棚と。

永井豪。

水島新司。

ジョージ秋山。

プロレス漫画。

青林堂、1982~1983年の単行本。

川原好きな子ランキング、トト子ちゃん(おそ松さん)・響子さん(めぞん一刻)・エスパー魔美・市井舞菜(おしぶどう)・レゼ(チェンソーマン)。

 

・土曜日

最終土曜日はクリニックの勉強会。ムンクも負けじと「女子校生ドール」を集めて何やら会議をするつもり。

いの一番に現れたのが、からかい上手の高木さん。

制服で駆けて来ました。

次いで、女学館リカちゃん。

うる星やつら、のラムちゃんも制服姿。

けいおん!の唯ちゃんの妹の憂ちゃんです。

最後になりましたが、アニメヒロインランキング不動の一位・タッチの南ちゃんは着替え中。

どんな会議になるのでしょう?

 

「SS♡T」の成長譚は次号につづく。


SS♡T、大阪へ初来日!夢洲万博&太陽の塔へ~日刊ムンク⑧

~前回までのあらすじ~

 

中1の頃から川原のそばにいるドールの名前は「ムンク」。

川原はテディベアの第一人者のお人形作家さんにリペアをお願いし、代わりに「抱き熊スーティー」をもらい名前をラスプーチンにしました。

川原の「守護」を祈ってくれるクマです。

ムンクが帰って来て、トリオ結成です。トリオ名は「SS♡T」です。そんな「SS♡T」が織りなす一週間の様子をお届けする企画の第8弾。ついに夢洲万博へ初来日です!

 

・日曜日

荷物は最小限で入場します。

夢洲駅に到着。

さぁ、万博会場です。

万国旗がはためいています。

入り口は厳戒な手荷物検査です。

ドリームケースは持ち込めないので、ムンクはビッグタオルに包んでガードします。

長門有希のタオルです。

これをトートバッグに入れて移動します。

ミャクミャクのモニュメントの前で。お天気が良いから眩しいです。

大屋根リングの前で。

大屋根リングの下は日除けになるだけでなく涼しいです。

ピカチュウがいました。写真のフレームになっています。

予約なしでフランス・パビリオンに入れました。

ルイヴィトンのコーナー。

ロダンの彫刻がところどころにあります。

「うちの国は、ロダンだぞ」と言ってるみたいでした。

ルイヴィトンに見蕩れるムンク達。

ロダン。

一回、外に出ます。そこにはオリーブの樹が待ち受けている演出です。

ロダン。

ロダン。

ぶどう。

ロダン。

クリスチャンディオール。

クリスチャンディオール。

これは建物。

結ばれていますね。

外に出ると彫刻が待っています。

赤い糸で結ばれています。

「白」が綺麗です。

ムンクの青いドレスが似合います。

食べ物は持ち込めます。どこのレストランも行列なので、おにぎりを持ってって良かったです。

ヨルダン・パビリオンは「スターウォーズ」のモデルになったからか、2時間待ちなのであきらめました。

いのちの遊び場、クラゲ館。「数学」と「音楽」が好きな人がプロデュースしたそうです。

入り口では陽気な男女が踊りを踊っています。

子供が白いピアノに落書きしたようなピアノは、自由に弾いて大丈夫です。

ムンクも興味を示します。

クラゲ。

外に出ると、スパイファミリーのキッチンカーがいました。

万博のスタッフの接遇は素晴らしいの一言です。大屋根リングの地べたに座るムンクとラスプーチンを撮影するために僕も地べたに座り込んで写真を撮っていました。

するとニコニコしたスタッフが近寄って来て「全部、手作りですか?」と話しかけて来たので「はい」と答えると、撮影風景をニコニコと見守っていて、撮り終わると「一緒に写真を撮りましょうか?」と声をかけてくれるけれど、僕は「お人形だけで良いのです」と断ると、笑顔のまま、「では撮影は終わりですね。実は大屋根リングは地べたに座るのは禁止なのです」と優しく注意して去って行きました。すごくないですか?

大屋根リングから見下ろした「UAE」パビリオン。

そこに入ります。

中では地べたに座って映像がみれます。

色んな小さなお金のない国が集まってそれぞれの国を紹介する「コモンズ」は面白かったです。

ボリビア。

カラフルな動物たち。

サモア。

民芸品は手に取ってOKです。

松田聖子の「ユートピア」というアルバムに「セイシェルの夕陽」という歌がありました。

まさに、セイシェルの夕陽、です。

こういう椅子に座って映像が見れます。光の加減で映り変わる二人をどうぞ。

ムンク、帽子あり。

ここはまだ建設中のネパール・パビリオン。

ドイツ・パビリオン。

韓国は、Kpopを押してました。

ミュウがいました。

タイ・パビリオン。

包括的な医療をテーマにしてたり、

食も魅力です。ムエタイのパンツは売り切れでした。

外に出て、水分補給とお洋服のお直しのため休憩。

オーストラリア・パビリオンの前にて。歩き疲れて足がつりました。

ここはインドです。ヒンドゥー語でインドという意味だそうです。

インドはマイペースな国です。開幕してしばらくしてつい最近、パビリオンがオープンしました。入り口で「ここは何だろう?」と覗いてると、係のインドのお兄さんが「迷ってたら入って、チャッチャと入ってチャッチャと出て」といい加減な呼び込みをするのに誘われて入りました。

でも中は面白かったです。チェス?

孔雀。

孔雀の楽器。

天井の絵。

外のオブジェ。

森になる建築、というのも良かったです。休憩所になっています。

この椅子は植物由来の樹脂を3Dで作って、このまま土に帰るそうです。

二人の座る椅子がそう。

これも、植物由来の樹脂。

空が青いですね。

ミャクミャクのマンホール蓋。

カビゴンを見つけました。

コモンズB。

ドミニカ共和国。

ジャマイカにはボルトの人形もありましたが、

レゲエの先駆者ボブ・マーリーと撮影しました。

ハイチのお洋服は可愛いです。

これは男女が人魚になってるみたいです。

ムンクも興味深そうにみてました。ドールだからかな。

ガイアナ。

動物の人形が迫力満点です。

どの位デカいサイズかと言うと…、この位です。

コモンズC。

モンテネグロ。

人口芝に寝転んで映像がみれます。

夜のライトアップされた大屋根も綺麗です。

ドローンが宙を飛びます。

よく歩きましたね。これで夢洲万博はおしまい。疲れてホテルに帰って来てロビーでくつろぎます。

明日が大阪最終日。

 

・月曜日

大阪駅にキティちゃんがいました。

御堂筋線に乗ります。

モノレールに乗り換えます。

先頭に座ります。

こんなラッピング車両もいました。

今日は、太陽の塔、に行きます。

55年前に万博に行った子供が大人になってまた万博へ行くポスターです。

太陽の塔です。

正面入り口の広場。

太陽の塔、は内部もそのまま残されています。中を見に行きましょう。

後の正面。

太陽の塔、の内部は、命の進化を表現しています。

70年エクスポのコンパニオンのマネキンもみれて良かったです。

超ミニですね。ちなみに、下はちゃんと履いてました。

初代・太陽の塔の顔。

出口の恐竜。

以上が、SS♡T初の大阪遠征でした。

やっと家に着きました。連れ回し過ぎて三人とも疲れました。お疲れがムンクの髪型にもあらわれていますね。

 

・火曜日

一夜明けて、昨日までの疲労も感じさせず二人はクリニックに来て診察を見守ってくれました。

ムンクの髪が綺麗なのは文化部長のスーちゃんに直してもらったからです。

それに比べて、ラスプーチンは手間いらずですね。

 

・水曜日

~お人形作家さんからのアドヴァイス~

ムンクの頭部はボルト1本で固定されており、ぐらつきは締め直して改善済み。
うつむきの角度などは人側で工夫が必要。
髪飾りが多くて作業が難しくなり、ご迷惑をおかけしました。
メイクやウィッグは、胸に押し当てるか膝ではさんで固定して行っています。
前髪ありウィッグは位置合わせが難しく、最初に難しいスタイルを選んでしまいました。

 

・木曜日

拝啓 親愛なる先生へ

五月のやわらかな陽光に、ムンクちゃんの新たなるお姿がいっそう麗しく映えますこと、まずは心よりお慶び申し上げます。

けれども、今のムンクちゃんの清らかで瑞々しいご様子に、私たち人の側がつい勘違いをしてしまわぬよう、どうかご留意いただければと願います。たとえ丹念な修繕を施されたとはいえ、彼女は半世紀もの長き年月を、ほとんど手もかけられずに過ごしてこられた、ご高齢の淑女なのです。

思い出すのは、私がかつて叔母より託された、ひとつの古きスイスの懐中時計のこと――
長らく身につけていたその時計がある日ふいに止まり、私は泣きながら時計屋を訪れました。
老いた時計職人は私に静かに問いかけたのです。

「この時計をまだ動かしたいかね? それとも、長き勤めを終えた品として、静かに共に過ごしてゆきたいかい?」

その言葉に、私ははっと胸を衝かれました。

ムンクちゃんをリペアしながら、その記憶がよみがえりました。
ラスプーチンのような幼い同伴者と過ごしつつも、いつの日かムンクちゃんは、ただ「大きなドール」というだけではなく、真にご高齢のご婦人として、慎ましく寄り添う日々を過ごされることでしょう。

その日が訪れても、なお快適に、そして優雅にお過ごしいただけるようにと、“Dream Case”をご用意いたしました。
柔らかな内装は、髪のカールも装いも守り、もし不意に誰かにぶつかられても、芯たるお身体はきっと無事でしょう。

長い時を、まるで“灰かぶり姫”のように過ごしてこられたムンクちゃん。
その魔法が、カボチャの馬車のように解けてしまわぬよう、そっと夢の箱にお納め申し上げます。

先生のもとで、ムンクちゃんが静かに、穏やかに、けれども幸せに時を重ねてゆけますよう、心からお祈りしております。

何かございました折には、どうぞいつでもお声がけくださいませ。

謹言
あなたの忠実なる手芸の徒より

 

 

SS♡Tの成長譚はつづく。


友を待つ~日刊ムンク⑥

~前回までのあらすじ~

 

中1の頃から川原のそばにいるドールの名前は「ムンク」。由来は川原の夢の中に出て来て、「わたしはムンク」と名乗ったから。

カツラや髪の毛はとれて帽子や靴も無くなり、服も日に焼けて色褪せてしまいました。川原はテディベアの第一人者のお人形作家さんにリペアをお願いし、代わりに「抱き熊スーティー」をもらい名前をラスプーチンにしました。「プーチンでラスト」みたいな反戦の意味です。

川原の「守護」を祈ってくれるクマです。

ムンクと川原とラスプーチンのトリオ名は「SS♡T」。そんな「SS♡T」が織りなす一週間の様子をお届けする企画の第6弾。

 

・水曜日

今日から連休明け。仕事始めに、儀式から。

下は作家さんから進捗具合。ムンクのドールケースを制作してくれています。

透明の塩ビのハリのあるものをリュックの中に入れてムンクがガードされる様な感じで仕上げくれていきます。ラスプーチンも一緒に移動出来るようにサイズを調整してくれていますから、有意義な(連れ出し可能な)ドールケースになりそうで楽しみです。

 

・木曜日

ムンクが今度の日曜日に帰って来るそうです。ラスプーチンと、大岡山の長浜ラーメンで前祝い。まずは小ライスを頼んで。

スペシャル・ラーメンです。

なんかお金のことを言うとアレですが、「ムンクの修理費と衣装と特注のケース」は… 345.400円になります。

それだけ聞くと「高そう」ですが、作家さん、「勉強」してくれたんじやないかしら。何故なら、作家さんはムンクの関節の治療や手術もしてくれて治してくれたり、ウイッグやドレスや靴下やかぼちゃパンツや持ち運びのケースまでの込み込みの値段だからです。プラス、作家さんは超多忙なのに時間を割いてくれたり、何より技術料とアイデア料です。貴婦人お帽子など、その最たるものです。

18世紀頃までヨーロッパでは、お人形と手芸箱を一緒に贈る風習が広まりました。ムンクの出自は「コレクターズドール CD-3」という正にその趣旨に値する生産の仕方をされたものでした。しかし中1男子は、お裁縫など出来ないし、着せ替え人形で遊ぶこともしないから、ちゃんとした可愛がり方をしてあげれませんでした。僕はよく考えたら、ずっとムンクを放ったらかしだったのです。

345.400円を、中1からの50年分だと思えば、換算したら一年分が7000円です。一年を365日で割算したら、1日20円です。電気代より安いですね。

そんな気持ちをchat GPTで作ってみました。

 

・金曜日

今度の日曜日にムンクが家に帰って来る。よく考えたら、ムンクとラスプーチンが顔を会わせるのは初めてだ。本棚も整理してお部屋を綺麗にしてムンクを迎え入れる準備をしよう。

ともだちが描いてくれた「SS♡T」。

 

・土曜日

明日にはムンクが帰って来る。ラスプーチンと二人で食事をするのもこれが最後かな。大岡山北口商店街に新しく出来た「やどかり」という中華バル。こないだまで老舗の焼鳥屋が閉まった後にお店を間借りして(やどかり状態)て好評だったから独立した。まずは台湾ビール。

蒸し鶏の胸肉。パクチーどっさり味。

ピータン。

おまかせワインは、白と赤を同時に頼む。

干しエビ入り肉餃子を二個。

四川風麻婆豆腐。

青椒肉絲はハーフで。

五目あんかけ焼きそば。

ブログに「共感」の記事を書きました。最近は、ムンクとラスプーチンばかりだったから、ちょっと意表を突いてみました。

 

・日曜日

お昼に作家さんがムンクを「お渡し」に来てくれました。配送じゃなくて「お渡し会」が出来るのがそれだけで特別です。

下は、ムンクを持ち運べる特注のドールケース。素材はアルパカ・アンゴラなどの毛を織られたものをピンクに染めてくれたって。

ピンクは、僕がラスプーチンと東工大にお花見に行った時の写真にインスパイアを受けて、作家さんがこの色に決めました。下が、その時のお花見写真。

ケースの端っこについてる「イヒヒちゃん」は、このケースを守ってくれるようにつけてくれました。他人を威嚇するように笑っています。チェシャ猫がお手本なんです。

ケースには窓がついていて中のムンクが見えます。

日砂さん(作家さん)のサイン入り。「Dream Case For SS♡T」と書いてあります。

ムンクの背に合わせて作ってくれてますが、ラスプーチンも一緒に入れます。

首元とウエストのリボンで固定されるから、これをほどくと外に出せます。逆に、このリボンを縛ってあげればどこにも連れて行ってあげれます。

リボンをほどきました。

衣装はミシンを使わずに全部、手縫いで作ってくれました。

ラスプーチンも隣に並ぼう。

これが「貴婦人風のストローハット」。ミニチュアラスプーチンも乗っています。帽子はクリップ型になっていて髪に斜めにつけてあげます。

普通にお座りも出来ます。

どんなポーズをとらせても可愛い、この子は良い子です。

フリルや縁はこの子が昔の服で守られています。「青」がこんなに似合うとは。これも白から全部染めてあります。

スカートには「ラスプーチン」や「千ちゃん」(作家さんの夢に出て来た)もいて、ムンクが楽しくいられるように願われています。

靴は足の高さや甲の幅を測って本革で縫ってます。

スカートはどのアイドルより可愛い気がします。

後姿も素敵でしょ。ムンクは人間の骨格をしています。幼児体型なのでお腹がポツコリしてるから、フレアスカートはハイウエストで着させてもらっています。

ウイッグはニット丈になってるので、引っ張りながらはめてあげます。

ムンクはすごく良い子で何があってもニコニコして待っていてくれています。

その辺の由緒正しいビスクドールにも負けないです。可愛いから。

横顔も可愛いです。

夜。言われてみればムンクとラスプーチンは初対面です。歓迎会を開催しました。ちょっと高級な寿司屋のカウンターを「SS♡T」で占拠します。ドールは「匂い」を食事にします。

茶碗蒸し。ウニと帆立の貝柱。

お造りは、まかじき・めじまぐろ・さわら燻製。野菜は味噌で食べます。

面白い銘柄のお酒がありました。

焼き物は、うなぎ。下が白焼きで上がかば焼き。

ホタルイカ沖漬け。

帆立の磯辺焼きに明太子が挟まっています。

煮アワビ。肝が余ったらシャリで食べます。

大トロ。

キンキ昆布締め。

しまあじ。上の緑の薬味は、たまねぎと生姜と万能ネギを擦り合わせたものです。

帆立。これは繊維に逆らわず、縦に割って開いて包むように食べます。

カニ。

そでいか。カラスミふりかけ。

海老。

いくら燻製。

ウニ食べ比べ。右が、紫ウニ。左が、蝦夷バフンウニ。

中落ち奈良漬け巻き。

玉子焼き2種類。伊達巻とメレンゲ風。

甘えび昆布締め。

ラーメン。寿司屋でラーメンって珍しいですね。

デザートはパンナコッタと大納言。

これが実際に担いだ姿です。

禰󠄀豆子が入っていそうな箱で、すごいです!と、一部で好評です。

やっと「SS♡T」が集合しました。いよいよ夢洲万博へ初来日です。

次号へつづく。


共感

僕が大学院を出て出向してた病院の話だから、僕が精神科医になって7~8年目の頃で30代の前半の年齢だった。

その病院には色んな大学病院から精神科医が出向して来ていたし、教授クラスの名の通った偉い先生もたくさんいた。そこで切磋琢磨出来たのは貴重な経験だった。

当時の僕はちょっと天狗だった。精神科の場合、外科などと違い「オペの件数が何件」などという分かりやすい実力を示す指標がなく、「教授が治せなくても研修医が良くしちゃう」というビギナーズラックが存在したから勘違いしやすかった。

その病院で「偉い先生」が手を焼いている妄想型分裂病(当時はそういう呼び方をした)の患者がいた。彼は行く先々で「喪服の男女にまちぶせられている」という追跡妄想のみが症状としてあって、それ以外は「正常」であった。だから家族も主治医もなんとかその妄想を説得しようと必死になり、最終的にはブチ切れて彼に不信感を抱かれ治療が進まなくなってしまった。

そこで僕に白羽の矢が立った。この膠着状態をなんとか和らげて欲しい、と僕がサブのペア・ドクターとして担当についた。僕に言わせれば、分裂病の妄想である。そこで有効な精神療法は「支持・傾聴・共感」である。つまりよく話を聴き、相手を否定せず、彼の心の中で起きてる「心的現実」に共感して、寄り添えば治療関係は結べる。そんなことは教科書に書いてあるじゃないか。それなのに、「偉い医者」は家族なら仕方がないが一緒になって患者の妄想を「現実原則」として真っ向から否定するからそりゃ信頼関係もあったものではない、と腹の中で軽蔑した。

それからどうなったかというと僕の治療戦略はピシャリとハマって、患者は僕に心を開き、治療者・患者関係が築け患者は嫌がっていた薬も服用するようになった。薬は妄想には効くには効くから、彼の追跡妄想は遠隔化して行った。

そんな時だった。僕は夢をみた。町の中でどこへ行っても「喪服の男女がいて」僕を先回りして追い回して来るのである。僕は叫び声と同時に目を覚まし、ものすごく怖かった。彼が体験している世界観がそこにあった。

僕は急いで身支度をして病院に着くなり真っ先に彼の元に行った。そしてこう言った。「僕は正直、あなたの言う事を、わかるわかる、と聞いていたが、それは他の人がやらないから僕だけはそういう立場でいようと思ってやっていた。しかし、今日、こんな夢をみて、それは恐ろしくて今でも動悸が収まらない。僕はあなたに謝らなくてはいけない。今まで分かったふりをしてただけで、実際、体験したらこんなに恐ろしいものだとは想像したこともなかったからとても不誠実だったと思う。すごく申し訳なかった。ごめんなさい」と頭を下げると、彼はすごく優しい表情で包み込むような声で僕にこう言った。

「先生、それは怖かったでしょう」

僕はその声を聴いた瞬間にさっきまで鳴りやまなかった動悸が消えた。「共感」というものの持つ偉大な力をその時にはじめて知った。


「SS♡T」結集?大阪へ来日か?~日刊ムンク⑤

~前回までのあらすじ~

 

中1の頃から川原のそばにいるドールの名前は「ムンク」。由来は川原の夢の中に出て来て、「わたしはムンク」と名乗ったから。

カツラや髪の毛はとれて帽子や靴も無くなり、服も日に焼けて色褪せてしまいました。そんなムンクは伝統的なドールの系譜を受け継ぐ「コレクターズドール CD-3」というお人形でした。川原はテディベアの第一人者のお人形作家さんにリペアをお願いし、代わりに「抱き熊スーティー」をもらい名前をラスプーチンにしました。「プーチンでラスト」みたいな反戦の意味です。

川原の「守護」を祈ってくれるクマです。

ムンクと川原とラスプーチンのトリオ名は、「SS♡T」。お人形作家さんの名前が「日砂さん」なので、太陽の砂、を英語にして、「Sand under the Sunshine with T(ATSUJI)」を略しまして「SST」にしました。ところが「字画」をみれる人に聞いたら、「SSTが画数4なので、5画になると運のよいネーミングになります」とのアドバイス。そこで「♡」は一筆書きで「一画」なのでこれを加え、正式名称「SS♡T」にしました。そんな「SS♡T」が織りなす一週間の様子をお届けする企画の第5弾。

 

・日曜日

自由が丘で注文しといた、こないだ死んだ友人O君との想い出の写真の複製を取りに行く。下は、ラスプーチンを探せ!

40枚弱になったけど、田舎のお母さんに送ってあげるつもり。

お母さん、香典返しを2回も送って来てくれてるから、ボケ防止のため。

手紙も添えて。お礼のれいの字を間違えて、お例、にしちゃいました。今気づいた。ま、いいか。

その足でエネルギー療法に行く。ラスプーチンに暖かい紅茶をくれました。テディベアはイギリスのだから。湯呑は和風ですが。

今日のムンク。ドレスが出来るのを待ってる様子です。

作家さんはムンクを待たせながら、青いクマドレスにアップリケをしまくる為のアップリケ候補の絵を仕上げてくれています。

 

・月曜日

今日は銀座でネイル。万博に向けて。

ミャクミャクです。

せっかく銀座に来たから鰻屋に行く。

胡麻豆腐。

お造り。

お椀。

鰻重。

デザートのメロン。

下は、chat GPTに描いてもらった鰻に擬人化したムンク。

ムンクのドレス丈が決まってきたから下着のかぼちゃパンツを作っくれました。

帽子は生クリームが固まりましたので装着です。よい感じ。

帽子を後ろ前にかぶると黄色いクマが出てきます。

 

・火曜日

中野ブロードウェイに行く。診察で着るTシャツを2枚と、クレージーキャッツの映画のレアなポスターを比較的廉価で3枚買えた。良い買い物をした。「墓場の画廊」では、ウルトラマン80展をやっていました。ウルトラマン80は、文字通り1980年にやってたから僕はもう高校生でした。

この、ウルトマンの正体は学校の先生だから、教室のセットがありました。ヒーローが学校の先生だったんですね。これはよく見えないけど、生徒の机なのです。

撮影は行列が出来てたのですが、順番に並んでラスプーチンを撮影しました。中野ブロードウェイは、オタクの聖地なので全然普通です。

ご飯は、ブロードウェイ2階の麦とろの店に行きたかったけど、火曜日定休なので残念。自由が丘まで出て、つけ麺大王で一杯やる。

おつまみセット。

炒め野菜。

餃子は塩ダレで。

焦がし醤油つけ麵。

ドレスをムンク向けにデコしてくれました。背中にホックもつきました。

 

・水曜日

ゴールデンウィークは暦通りにやるので、今日から三日間は勝負です。完全燃焼でやります!そんな僕にムンクからエールが。

昨日、ゲットしたクレージー映画のポスターを額装して診察室に飾りました。

 

・木曜日

ちょっとショックな出来事がありましたもので…。今日はクタクタなので僕とラスプーチンの記事はパスです。

一方、ムンクは靴下を縫ってもらいました!フリル靴下かわいーい。

 

・金曜日

ショックが長引く。今日頑張ればゴールデンウィークに逃げ込める。パス2。

ムンクの今日の収穫です。

かなり進んでいるので秘密的な画像です。

 

・土曜日

今日からお休み。一日、寝込む。

ムンクちゃんは、ラスプーチンにちゅうしています。

 

・日曜日

Abemaで、RIZIN男祭り東京ドーム大会をみる。

今日のムンク。Pop Girl Munch!Lovely Munch!

 

・月曜日

ここのところ少し悪いことがあって、ショックな日々だったけど、運良くゴールデンウィークになってくれて仕事に響かなくて済んでホッとして2日ほど寝込みました。でも、いつまでもこうしてはいられないので、悪い流れを断ち切るために、美容院に来ました。髪を切る、ように、悪い連鎖を切るつもりです。せっかくなので、ヘアカラーも少し変えます。こないだ塗ったばかりですが、今日は気合いを入れて万博の準備。

美容師さんがミャクミャクの目玉を描くように「0歳児用の歯ブラシ」を準備してくれました。

出来上がり。

もみ上げに白いキャンバスがあるからそこにさっきの歯ブラシで目玉をデザイン。

気持ちを万博に切り替えたので、SS♡Tのポスターを幾つかchat GPTに作らせました。

万博に負けないくらいに元気で行くぞ!という意味です。万博よ、待ってろ〜、みたいな意気込みです。

 

・火曜日

クリニックで書類を書く。連休最終日は雨。

お人形作家さんさんから不思議な連絡が来て、「先生、心の中は大丈夫ですか?」。どうやら、ムンクが心配してると言うのです。「ちょっとね」と誤魔化して言ったら、「まったく、ラスプーチンは何してるんでしょう!」と怒ってまして、「いやいや、ラスプーチンがプロテクトしてくれたおかげでこれで済んでるんですよ」と答えたら「それなら良かった〜」。ムンクの関節の中に僕の緑色の髪の毛が一本入っててどうしても取れないのですって。それはムンクが気に入ってるからで、守ってくれてるからで、だから、そのままリペアしてくれたそうです。そんなこと聞いちゃったら、涙あふれてこぼれそう。

次号へつづく。


「SS♡T」始動?~日刊ムンク④

~前回までのあらすじ~

 

この子はいつも川原と一緒に寝ていたアンティークドール。

川原が中1の頃からいつのまにか家にいたお人形は、それから、約50年、どんな家族より長く川原のそばにいます。名前は「ムンク」、由来は川原の夢の中に出て来て、「わたしはムンク」と名乗ったから。カツラや髪の毛はとれて、アンティークな帽子や靴も無くなり、服も日に焼けて色褪せてしまっています。ムンクは伝統的なドールの系譜を受け継ぐ「コレクターズドール CD-3」というお人形でした。川原はテディベアの第一人者のお人形作家さんとコンタクトを取り治療とお洋服作りをお願いし、今はお預け中。ムンクがいない間の代わりに作家さんが作った「抱き熊スーティー」をくれました。名前は反戦の願いを込めてラスプーチンにしました。「プーチンでラスト」みたいな意味です。

川原の「守護」を祈ってくれるクマです。

作家さんは、「やるならば最高のケアを頑張ってしてあげよう!」と言ってくれ、毎日メイクをしてくれたり、ウィッグや新しい下着からお洋服などを作ってくれています。そんな川原とムンクとラスプーチンが織りなす一週間の様子をお届けする企画の第4弾です。

ムンクと僕とラスプーチンのトリオ名を考えました。現在、ムンクを預けてて、かつラスプーチンの生みの親である、お人形作家さんの名前が「日砂さん」なので、太陽の砂、を英語にして、「Sand under the Sunshine with T(ATSUJI)」を略しまして「SST」にしました。ところが「字画」をみれる人に聞いたら、「SSTが画数4なので、あと一画足しては如何でしょうか?5画になると運のよいネーミングになります」とのアドバイス。そこで「♡」は一筆書きで「一画」なのでこれを加え、正式名称「SS♡T」にしました。

 

・日曜日

寿司屋を貸し切り、二左衛門を呑む。

ウニは箱で。二左衛門のラベルのダメージ感とラスプーチンは似てますね。

釣りきんき。

半身を焼いて、

半身を煮ました。

サザエのつぼ焼き。

ふきのとうの天麩羅。

ホタルイカと、のれそれ。

行者にんにく。

イクラの握り。

ハマグリの軍艦。

穴子の握り。

これはchatGPTが作ってくれた、タワレコ風ポスター。寿司の英語のスペルが間違っていますね。

一方、ムンクのお帽子にはミニチュアラスプーチンが収まりました。

ラスプーチンのミニチュアは親指サイズくらいです、小さいです。

今現在のミニチュアラスプーチンのムンクちゃんコラボな状態です。

エキセントリックでかわいいですね。俳句の技法に「取合せ」や「二物衝撃」と言われるものがあるのですが、それと同じで「帽子」「クリーム」「テディベア」「ドール」の組み合わせによって、今までにない、新しい魅力が生まれますね。心に刺さりますね。

 

・月曜日

今日は暑いから、餃子の王将、で冷やし中華を食べました。勿論、餃子の王将、だから、餃子も食べました。

僕はキュウリが嫌いなのでキュウリ抜きにしましたが、色のバランスが寂しくなりますが、ラスプーチンが緑なので色合い的には補ってくれます。

今朝のテレビコマーシャルで、餃子の王将が冷やし中華始める、って言ってたから行きました。

その足でマイナンバーを取りに行きました。下は、「ラスプーチンを探せ!」です。

作家さんから連絡が来て、「万博の時期はいつから?」。ムンクのスケジュールを詰めて行なってくれるとのことです!

 

・火曜日

「SS♡T」が初めて3人で動くのが、早ければ夢洲万博になるかもしれません。万博への持ち物で必須なのは①歩きやすい靴、②紙の地図、③モバイルバッテリーのようです。そこで①の靴を通販で買いました。

エヴァの靴です。色違いも買いました。あれ?これ何か変ですね?

アスカの弐号機の番号が「01」になってるのです。惜しいです。中国産でした。

今日のムンクです。ムンクの隣にいるのは「クラウンをイメージした」テディベアです。目と目を見つめ合うのは照れるしちょっと怖いから、同じ方向を見て同じものを見ようと言うのが共同注視。視線恐怖的な名刺文化の日本人ならではのノスタルジックな安心感が漂います。レトロ感満載のふたり。同じ月を見てるようです。

 

・水曜日

昨日までは暑かったのに今日は朝から雨ですね。水曜日って雨の日が多い気がします。「水」だから「雨」かな。下は、雨の日のクリニックの看板。藤本タツキ「ルックバック」のワンシーンから。

「これ、アンティークなんです」って言う時のアンティークという言葉はその対象が100年を過ぎないとアンティークとは呼んではいけないらしいです。だからムンクはまだ完全なアンティークではなくて現代に半分近い子ですね。ラスプーチンなんて赤子です。

 

・木曜日

元受付の鈴木さん(元うかいさん)が遊びに来たのでお昼を一緒に行きました。心理の二人とも一緒に記念写真。

千ちゃんとムンクのツーショットです。千ちゃんとは、作家さんが見た夢に出て来たテディベア。お腹にほうれん草を巻いて真ん中に卵焼きの丸いものを乗せて漢字で千と書いてありました。

ほうれん草がチャンピオンベルトみたいに見えますね。

 

・金曜日

万博の旅のしおり、を作りました。

予定が記してあります。

下は、ムンクのお帽子のラスプーチンのミニチュアベアタイプ。背後にはフレンズもいます。ミニチュアラスプーチンは生クリームとお花に埋もれて幸せです。今日のムンクです。元気印な帽子似合いますね〜

 

・土曜日

今日は最終土曜日なので、クリニックで有資格者(カウンセラーやナース)と、定例会という勉強会を行います。土曜の診療が終わってから皆んながクリニックに集まって、終電ギリギリまでディスカッションするのです。下は、無資格者たち(けいおんの唯ちゃん、キティちゃん、名探偵ピカチュウ、ラスプーチン)と。

日刊ムンクも第4弾を迎えました。今回は、「SS♡T」始動?、でした。そこで、chat GPTに「SS♡T」を描くように命じたら、全然、違いました。何度もやり直させたんですよ、「クマの目はもっと離して!」とか(笑)。でも全然出来ませんでした。まだAIが学習してない未知の領域みたいです。

下が、機械が描いた「SS♡T」です。

来週に続く。


お花見+宴会ラスプーチン、その頃ムンクは大手術!

31/Ⅲ.(月)2025 くもり、少し寒い 今日5時からフジテレビ第三者委員会の調査報告、10分ディレイで終了まで放送。

ラスプーチンとお花見して来ました♪

場所は東工大。

万歳してるみたいですね。

木の枝に腰掛けます。

この桜は地面スレスレまで枝が伸びています。

自由が丘の寿司ざんまいで打ち上げです。

ホタルイカ。

焼きハマグリ。

焼き筍。

春の握り3貫セット。

春の軍艦3貫セット。

イワシと玉子焼き。

鯵のたたき。

のり椀。

上穴子、キュウリ抜き。

一方、ムンクはお人形作家さんに預けて、治療と新調のお洋服を作ってもらっています。近況報告が来ました。お人形作家さんからの試案。ムンクの仮のパステルウィッグの写真です。

横向き。

ムンクのイメージが変わってニヤニヤしてしまいます。

下は、青いテディベアドレスの衣装に身を包んだムンクのイメージデッサンです。ムンクには、イメチェンお洋服が幾つか考えられていますがその一つが「青いくまドレス」です。青いくまドレスはとても可愛らしくてくまだらけでラブリーなロイヤルブルーのイメージです。青は平和や信頼、知性の象徴で、直感や知性が優れており、心が落ち着いている時で、 物事がクリアに見えるため、目標がかないやすいとも言われます。 また、「ロイヤルブルー」という色名があるように、青は権威を示すこともあるそうです。

下は赤の女王にクールに扮したムンクのイメージデッサンです。赤の女王には、白のセンター分けウィッグも検討されています。不思議の国のアリスの「赤の女王LOOK」です。青いくまドレスの反対色になる(対になる)赤色は、赤の女王で、トランプに飾られたドレスやハートの帽子などが考えられています。

ムンクを持ち運べるお人形ケースも欲しいのですが、ムンクのサイズだとブライス用のものでは小さい事と少し造りがチープなので、無理矢理にならムンクも入るかもしれないですが、ムンクがかわいそうだから、お人形作家さんにお願いしてケースも作ってもらうことにしました。窓を画像のようにつけてあげれるようにしました。

昨日、寝落ちしまして、そしたら不思議な夢をみました。1人でトランプ遊びをしようと、トランプをくうのですが、枚数が少なくて、数えたら20枚くらいしかなくて、部屋中を探して残りのトランプを拾い集める夢です。

今朝、お人形作家さんからダイレクトメールが真夜中に届いてるのを見つけ、どうやら僕がスヤスヤ寝てる時に、ムンクの大手術をしてくれてたみたいです。ムンクの新しい衣装はトランプの柄もあるから、きっとムンクからのサインが送られてキャッチしたのが、夢の正体だと思いました。これが、ムンクの大手術です。

中にはめておくゴムのテンションを一定に突っ張らせて保つ為のワッシャーが錆びていたので変えてくれたそうです。変えたのはドイツグローレックス社製のワッシャーらしいのですが、お人形作家さんが「たまたま持っていたため」ラッキーでした。しかし、たまたま、なんてありますか?さすが「プロ」ですね。

ワッシャーとは、手足の間接を支える形になるゴム引きのテンションを体内でキープさせるのに一度丸い金属板状にゴム紐を通してから、釘を使い縛り止めているものです。

無事、成功しました。

独りでも立てるようになりました。

美しいポーズもとれます。

お人形スタンドも探しておいてくれるそうです。通常倒れないようにスタンドにセットして、ラスプーチンのように立たせるものになります。ムンクが帰って来たら、三人で高級寿司屋のカウンターでも占拠したいです。焼鳥屋でも良いかな。お人形は「香り」を食べるそうだから。

これはお人形作家さんに教えてもらったお話です。18世紀になるあたりではお人形(ドール)自体を女の子に(小さい子~成人女性まで)持たせる、それも手芸箱、お裁縫箱と一緒に贈る風習がフランス、ドイツ、イギリスと主にヨーロッパから広まったそうです。だから目的としてもお裁縫が率先して出来たりする女性を育成する為の文化が成立してくるのですね。

そしてムンクの出身が「コレクターズドール CD-3」というものらしく、正にその趣旨に値する生産の仕方をしておかれながらムンクは長い間お洋服や髪型にも恵まれてはいなかったのかもしれないことと、ムンクの仲間がいて、そのほとんどがゴム伸びをしたコンディションの良いとは言えない状態で一部のファンの間で売り買いされている様子なのだそうです。

僕とムンクはもう50年以上の付き合いですが、今まで放置していたのは仕方なかったのですが、今、お人形作家さんに会えて、大手術をして素敵なお洋服を用意してもらえるのはとても幸せだと強く思います。

下は、お人形作家さんがムンクだけに、ムンクの叫び、をイメージして描いたイラストです。これは手術前だって。

BGM. サディスティック・ミカ・バンド「お花見ブギ」


ラスプーチンも加入

今日は「ムンク」のその後です。

よくよく考えたらムンクは僕が中学の時に、1年だけ五反田に住んでた時に、マンションにいた子です。しばらくして、「ところでこのフランス人形どうしたの?」って聞いたら、誰も知らない、って。いつのまにか家にいた。皆気味悪がったから僕が引き取った。以来ずっと僕の部屋にいる。もう母が死んで20年くらい経つ。僕とこいつの関係の方が50年くらいだから母を抜いた。誰よりも長い。

残念ながら、ムンクに何か特別な力がある訳ではなくて、ただ、僕の中学受験のための塾通いの頃から中学合格、その後の僕の生活をずっと見てきて知っている。僕がマンガを読んでいる時も、投函しそびれたラブレターを書いていた時も、ホルンの練習をしていた時も、深夜ラジオを聴いていた時も、友達が遊びに来て馬鹿騒ぎしてる事も、親に隠れてウイスキーをこっそり飲んだことも、憬れのアイドルのピンナップも、好きなプロレスラーのポスターも、僕のお気に入りの歌手とレコードも、整髪料で髪型に異常にこだわって鏡の前に立っていた姿も、それから、僕の喪服姿も何度か見て知っている。
僕の歴代の彼女も、一回きりの人も僕の部屋に遊びに来たことのある人は皆会っている。

今は、霊能者から「もはや呪物だから、手離した方が良い。呪物コレクターを紹介します」と言われてしまいましたが、それではムンクが可哀想です。球体関節人形なのですが、関節もイカれて脱臼しているし、髪の毛もとれちゃっています。対症療法でいいから治してあげたいのですが、まずは綺麗なお洋服を着せてあげたくて、Facebookで見つけたお人形作家さんにダイレクトメールしてみたら、色良い返事が来たのでムンクのお洋服の交渉をしました。

お人形作家さんが今週の水曜日、クリニックまで来てくれると言うのでそこでムンクと対面してお話をしてお渡しです。だから家からムンクを連れて来ました。

厳重に袋にしまって。

中を開けますね。

あらあら、髪の毛が取れちゃった。

こうやって乗っけていますが、ボンドか何かで接着した方が良いのかな?それも相談しよう。

帽子もボロボロになっちゃって。

これも上にかぶせるだけです。新調してもらいましょう。

これが現状の「ムンク」です。

この子の名前は長いことなくて「お人形」と呼んでいましたが、僕の夢の中に出て来て「わたしはムンク」と名乗ったから、それで名前はムンクです。

ムンクひとりを預けると寂しがりそうだからいつも一緒に寝てるサンリオの人形もお供させます。

おうちで寝てるムンクたち。

仲良さそうに寝ていますね。

ムンクを預ける時に一緒に旅立たせます。埴輪の発想です。

文化部長のスーちゃんにも抱っこしてもらいました。最初は恐る恐るですね。

でも、しばらくすると慣れて、優しく抱っこしてくれました。

人形作家さんが来てくれてムンクを預けました。そうしたら預けてる間の代わりのお人形をくれました。ムンクの友達にして欲しいと、抱き熊スーティー、というそうです。木毛(もくもう)とお腹は「激落ちくん」というスポンジで出来てるそうです。アンティーク調ですが、全部、新品です。チョコミントのミント色はなんとなくカワクリのロゴの色とも似てますね。赤い蝶ネクタイがポイントです。

お人形作家さんが作ってくれた、抱き熊スーティー、を運ぶ時の布バッグ。だきぐまSOOTY、とはイギリスの番組にいた「耳黒スーティー」から来てるそうです。

「気持ちよく心地よく過ごせるように僕はいつも君のことを守ってみてるよ」っていう子なのです。

名前は勝手につけて良いと言われたので、ラスプーチン、にしました。意味は、反戦を願って、プーチンでラスト、みたいな願いを込めました。

ラスプーチンを連れてお昼に行きます。鍋焼きうどんを分けてあげます。

いつも守ってくれる約束だから、連れて出かけますよ。

 

お人形作家さんは、テディベアの第一人者です。実はムンクを渡した翌日にテレビのロケでお教室にテレビ局が来たそうです。芸人のさまーずの二人が来て、一緒に作家さんがあみだした似ベア絵を描きながらテディベアの雑談をしたそうです。時系列で言うと、この企画は僕がムンクのお願いをした直後に来たものらしく、作家さんは「ムンクちゃん効果」と本気で呼んでくれています。

アートな仕事をする人の思考回路って古代的で素敵ですね。すっかり懐いちゃいました。

ムンクをお預けした3月19日は、偶然、母の命日だったから、とても感慨深かったです。

僕は、ムンクの居場所にラスプーチンを配置して一緒に寝ています。

ムンクの服が仕立てあがるのが楽しみです。


親切な川原達二の育て方~30のエピソード

僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らしをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。
1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。「著作権の侵害だ!」、みたいに。正確には意味が違うけれど、言わんとしてるニュアンスは判るでしょう?
僕は比較的若くして結婚して、妻がいて、子がいて。
母はどんな気持ちで、僕と妻に手紙を寄こしたのだろう。
封筒の宛名には必ず、僕と妻の両方の名前が書いてあった。
僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかったのにな。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
でも、それで誰かが損をするとか、他人に迷惑をかけると言うのではないから、自己満足だって自覚してる分、無自覚な善人よりは無害なんじゃないかな?
つまり、これからは縁のある人には、出来る限り、親切にしようと思った訳です。口先だけ、みたいに聞こえるかもしれないけれど、なるべく、そうしようと努力するつもり。

 

これは、母の遺歌集。↓。

海桐花は、とべら、と読みます。海岸に咲く花ですね。
さて、問題です。この表紙の絵、どこかで見覚えはありませんか?正解は、心理相談室の額縁の絵でした。↓。

中の写真に、自宅前とあるが、これはある先生のお家を訪問した時に玄関先で撮ったもの。それが、自宅前にて、となってるから、さぞかしその先生は驚いたことでしょう。↓。


母の死後、押入れから、僕が子供の時に描いた絵が出てきた。これは近所の養鶏場で描いたもの。診察室に置いてある。↓。


裏を見ると、絵画教室で描いた油絵みたい。↓。


小学校の何年生だったか夏休みの宿題が終わってなくて、一番大変だったのは、「自由研究」。母は何の変哲もない木箱を持って来て、その蓋に、僕に絵を描かせた。僕は、蕎麦屋の前の置物の、タヌキ、の絵を描いた。母は、趣味で、鎌倉彫、をやっていたから、僕のタヌキを上手に彫って、色をつけて、上にニスを塗って完成。これが優秀だと評判になり、神奈川県の賞をとり、どこかに展示された。
「子供らしい視点、自然との調和と、子供らしからぬ技術の確かさ」みたいなことが評価された。
母は、ニワトリの絵はとっておきながら、その鎌倉彫、は捨てていた。僕が作ったものじゃないからかな。親心って、そんなものなのかな?

 

母は2006年3月19日に死にました。僕はろくにお墓参りなどしていません。そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてない。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれないですね。なので母の思い出を過去の記事から抜粋し加筆・訂正して編集して僕なりの供養にしてみました。お暇な時に、読んで下さい。題して、「親切な川原達二の育て方」です。

 

(1)小学校の頃、僕は背が小さくて、ある日、母は小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ました。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいました。どうやら「たっちゃんは小さいから」とバカにされたそうで。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるから、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、そいつらの息子たちをブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてました。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(2)もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きました。僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血。すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しました。

(3)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって口もきかない。母は困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいました。

(4)大学の入学式、僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってました。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が僕だから。あれが正解だったのかも。

(5)そう言えば、兄の結婚式の時も僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、母はホットした顔をして、振り向いて笑っていました。

(6)母は薬剤師の資格を持っていて、僕が風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)。あれは何だったのか、いまだに判らない。

(7)僕は母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。母は、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったのです。

(8)鳥皮は「川原3大好物」の1つです。小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥ぎん』で釜飯を食べた。
釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのだけれど、僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのです。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥ぎん』はない。

(9)穴子も「川原3大好物」の1つです。子供の時、寿司の出前は高級な「寿司政」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司寅」の方が好きだった。子供心に「寿司政」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司寅」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司寅」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのです。
だから、家で寿司の出前をとる時は「寿司政」で大きな桶を頼むのだけれど、僕用に「寿司寅」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司政」の出前と「寿司寅」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司寅」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司寅」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と僕は気にした。
それに気づいた母は僕に、「達二の1番は『寿司寅』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(10)川原3大好物の最後は、うぐいす餅。家の近所には母の母が住んでいて、僕は暇な時におばあちゃんちに寄っていた。
相撲をやってるシーズンは相撲中継を、それ以外の時は時代劇の再放送を見ながら、おやつを一緒に食べるのである。たまに、お茶菓子を買ってってやるのだが、年寄りなのでケーキなどは好まず和菓子屋に行く。
そこで季節に応じて、団子やらおはぎやら桜餅やら草餅やら黄身しぐれやらを土産に買う。そんなある日、僕の目を奪ったのが、鮮やかな薄みどり色の和菓子だった。和菓子屋は、その色をうぐいすに喩えたが、僕はイグアナとかカメレオンを想像した。僕は爬虫類や両生類の生き物が大好きで、それは勿論、怪獣や恐竜に似てるからだ。このうぐいす餅の薄みどりは、刺激の少ない老人とのやさしい時間の中で、東宝ゴジラ・シリーズのガバラやゴロザウルスを連想させた。僕はゴジラ・シリーズでも、彼らのような敵役や脇役が好きだった。
下の写真が、ガバラ。子供の時のをまだ持っている。↓。

これが、ゴロザウルス。これは、大人になって復刻版を入手した。↓。

(11)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄弟でお金を出し合い、プレゼントをした。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金より気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(12)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(13)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(14)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸のルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうです。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。

(15)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。僕は、女子ってそんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。

(16)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(17)僕には、イジメ、というものを受けたことが、ほぼない。もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通ってた時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かったから、ぼやかして喋ったんたと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(18)母はバレンタインに毎年、チョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思います。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は「このくらい」と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆された。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスのカーストが決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(19)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやってきた。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(20)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)

(21)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、俺の形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(22)カワクリは、2023年6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(23)僕は、元々は開業する気はまるでなかった。勤務医の方が気楽だし、臨床の仕事は好きだが院長ともなると管理的な業務や経営的なことを考えなくちゃいけないから、そういうのは不向きだと自分が一番知っていた。
それでは、何故、開業する気になったかというと、うちの母親は古い人間で、
「医者になったのなら、他人に使われてるようでは駄目。独立開業して一人前!」という自分の価値観を押し付けてくるタイプだった。
僕は、平気の平左(へいきのへいざ、と読む。‘平気’という意味)で、その時にやりたいことをやれる病院を渡り鳥みたいに、気ままに見つけて、渡り歩いて生きていた。
晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。僕は開業すると言っても、ほとんど思いつきもいい所で、何のビジョンも、具体的な案も、現実的な資金もなかった。
開業支援の会社があってそこが物件探しから、コンピューター・システムの導入も、看板や広告も、従業員の応募も、役所への届出も、必要な書類の整備も、ご近所への挨拶も、開院披露パーティーの提案も、取引する業社も、普段使う電話機も金庫もタイムレコーダーもロッカーも、開業支援の会社がやってくれた。スムーズに事が運んだ。一つだけ誤算があったとすれば、開院披露パーティーを待たずに母親が死んだこと。僕が開業すると知って安心して、死期を早まらせたのかもしれないな。

(24)僕は親のことをよく知らない。父親は大正10年の生まれで親から離れて北海道やら満州に移り住んでいたらしいが、理由は知らず、それに比べれば母親のことはよく知ってると思ったのだが、大正14年生まれで東京に育って、実家が薬局のようなものをやっていたということくらいの知識しかなかった。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
それまで母と大岡山の関係をまったく知らなかったから、ビックリした。
こういうのを縁って言うのだろう。大切にしようと思った。

(25)川原家は、兄の進路の話し合いがされていた。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終わらない。よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は「もう少し熱を上げなきゃ」と思い、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたのです。母はそれを父に見せました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせ、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(26)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。

(27)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は僕のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になってしまった。こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出したりしますよ。

(28)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意して、母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、「有害図書ポスト」みたいなものが設置されエロ本の不法投棄はなくなった。そしてその頃には、僕はあまり自殺について真剣に考えなくなってしまった。

(29)思春期反抗期だった頃にみてた子が今はお母さんになる時代。彼女は、自分があれだけ嫌ってた母親みたいになったらどうしよう?、とか子供が思春期になって自分のような反抗期を迎えたらどうしよう?と今から心配している。だから僕は、もしも、この子が思春期になって手を焼いたらうちに連れてくれば、「お前のお母さんがどんな青春時代を過ごして、どんな気持ちでお前を産んで、どんなに大変な思いをしてお前を育てたか」を俺が言って聞かしてやるからと伝えたら、「それはとても心強い」と笑う。これがこれからの僕のライフワークの一つになる。患者は言う「だから、先生、本当に長生きして下さいね」。

(30)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

永六輔の言葉に、人間は2度死ぬ、と言うのがあります。1度は肉体の死で、2度目は忘却の死。つまり、忘れられてしまうこと。
だから、時々、その人の話をしてあげることが大切で、そうしていれば記憶の中では生き続けるのです。なので母の命日にこんな記事を書いてみました。それが、実家や墓参りに行かない僕の供養のやり方です。


真説「わたしはムンク」

自室の神棚です。

Q.りんご酢は神棚に置くものなんですか?

A.お酢には除霊効果があるそうです。例えば、お風呂にお酢を入れて入浴すると、邪霊を駆逐するそうです。

Q.「ゴリラとの結婚」も神棚なんですか?

A.はい。神様は異類婚姻が好きかと思いまして。

と架空の質疑応答をしてみました。

そんな朝にはレトルトのグリーンカレーに、おかめ納豆をトッピングして食べてみましたが、納豆の辛子が強すぎて、エスニックが和風に負けて何とも微妙でした。でも、お陰で目が覚めました。

さて、それでは「カワクリ、宗教&スピリチュアルコーナー」の紹介です。

まずは仏教から。

寝釈迦コーナー。

キリスト教。マリア像、手前のしょこたんは寝釈迦ポーズ。

イエス様。

音叉(空間の浄化に使う)と木魚(いらなくなったボールペンなどを捨てる時に使う)。

頂き物の沖縄の魔除けたち。

さて、場面が自室に戻ります。この子はいつもキングサイズのベッドで僕と一緒に寝てるアンティークドールです。

僕が中1の頃からいつのまにか家にいたお人形なのですが、家族の誰が家に持って来たのか、貰ったのかもわからず、不気味がられてました。そんな彼女が可哀想なので僕の部屋に置いておきました。それから、高校や浪人生や大学や父が死んだり、大学を落第しそうになったり、失恋したり、国家試験に受かったり、医者になったり、引っ越したり、一人暮らししたり、やけ酒飲んだり、友達が遊びに来たり、挫折したり、天狗になったり、ピアノを買ったり、ギターを売ったり、絵を描いたり、レポート書いたり、風邪で寝込んだり、医者になって頑張ったり、結婚したり、子供が出来たり、中野の関連病院に行ったり、開業したり、今に至るまで、約50年くらい、どんな家族より長く僕のそばにいて色んな人間模様を一緒に見ていてくれてます。

カツラはとれて、髪はボンドで留めたら良いのかしら?とか、アンティークな帽子や靴も無くなっちゃったし、服も一回も洗濯してないです。日に焼けて色褪せてしまっています。

球体関節人形なのでしょうが、関節もイカれて脱臼しています。髪や関節も対症療法でいいから治してあげたいのですが、まずは綺麗なお洋服を着せてあげたいです。女の子だし。

今は、霊能者から「もはや呪物だから、手離した方が良い。呪物コレクターを紹介します」と言われてしまいましたが、それではお人形が可哀想ですし、何よりどんな家族より長く僕といる子なのでそばに置きます。Facebookで見つけたお人形作家さんにダイレクトメールしてみたら、色良い返事が来たので交渉中です。

この子の名前は、長いことなくて、「お人形」と呼んでいました。最近名前をつけて、名前は「ムンク」。僕の夢の中にお人形が出て来て、「わたしはムンク」と名乗ったから。それで、ムンク。

もうすぐムンクのお洋服を注文する。