僕が精神科医になった訳(コンパクト版)

25/Ⅰ.(金)2019 はれ、寒い かいせさん、髪を切る

以前に書いた記事だが、これはよく聞かれる質問なので、コンパクトに、短くして再録してみる。

僕の家は眼科の開業医で、僕は二人兄弟だったから、将来は、父と兄と3人で医院を大きくすることが刷り込まれていた。
周囲の誰もがそう思っていたし、それをやっかむ人もなく、暖かく見守られていた。
そういう時代だった。
それは仕方がなかった。
こればかりは個人の力ではどうしようもなく、僕は物心付いた時から、医者になることになっていた。
勿論、その後の人生で、思春期や反抗期で、それを修正する機会は平等に与えられた。
だけど、僕は医者になった。
それは医者になる、のではなく、精神科医になろうという強い意志があったのだ。
医者になるには医学部に入り、全教科を勉強して、全教科の国家試験をパスしないといけない。
だから、逆に言えば、医師免許があれば、何科にでもなれた。
僕にとっての将来の約束は、医者になることだった。
親の都合は、家の眼科を手伝うことだった。
しかし、拡大解釈をすれば、医者になれば何をやっても良いとも言えた。
僕の親族には医者が多かったから、僕は専門的に色んな科があることを知っていた。
ここまでが前置き、ね。
僕の生まれは湘南の茅ヶ崎の海側で、そこは別荘地の多い温暖なゆったりとした風土だった。
僕が幼稚園の頃、近所をブツブツと独り言を言いながら、乳母車を引いている貧しい老婆が徘徊していた。
老婆は乳母車に古い赤ん坊の人形を乗せていて、その人形を本当の赤ん坊だと思っているという噂だった。
すずめ、を捕まえて食べてるという噂もあった。
僕は母親やお手伝いさん達に、「タッちゃん、あの人に話しかけてはダメですよ」と教えられていた。
ある日、狭い路地で、乳母車の老婆と鉢合わせになった。
僕は思わず、<すずめ、って食べれるの?>と聞いた。
すると、老婆は「坊や、そんな可哀想なことをしてはいけないよ」とビックリするほど、優しい声で言った。
僕は一瞬で、この人は良い人だ、とピンと来た。
すると、そんな気持ちが以心伝心、彼女にも伝わったらしく、僕らは仲良くなった。
老婆は乳母車から赤ん坊を抱え上げて、「ほら、こうするとお日様が透けて見えて綺麗なんだよ」と僕に教えてくれた。
セルロイドの人形に夕陽が差し込んで、それはキラキラと反射して輝いて虹のように見えた。
しかし、僕はこの事は、親には秘密にしておいた。
同じ頃、似たような事件があった。
僕の実家は診療所の2軒隣りにワンブロックほどの広さを持っている大きな家だった。
だから、時々、「乞食」(←これは不適切な表現なのでしょうが、差別を助長する意図ではないので使用します)が来た。
母親やお手伝いさんは、「タッちゃん、乞食が来たら、食べ物をあげちゃダメですよ。クセになってまた来るから」と言った。
僕は言う通りにしていた。
ところが、ある日、僕しか家にいない時に、勝手口から、女の乞食が、「何か恵んで下さい」と入って来た。
僕は、<お前に、何かあげるとクセになってまた来るから、やらない>とピシャリと言い放った。
すると女の乞食は、「坊ちゃん、もう何日も何も食べてないのです。約束します。今日だけですから」と懇願した。
僕は女乞食の目をジッと観察して、僕にはこの人が嘘をつくようには見えなかった。
そこで、従業員がいつでも、食べれるように台所に置いてある塩むすびを持って来てあげた。
女乞食は何度も何度もお礼を言い、約束は守る、と言って帰って行った。
僕はこの事も、大人達には話さなかった。
代わりに、毎日、<ねぇ、今日、乞食、来なかった?>と聞くのが日課だった。
すると、親やお手伝いさん達は、「変な事を気にするのね。乞食なんか来ませんよ」と笑った。
女乞食は僕との約束をちゃんと守ったのだ。
僕はこれらの事を通じて、大人たちの言う事はなんていい加減なものだろうとあきれた。
そして、こういう「常識」とか「普通」は疑ってかかる必要があると思った。
当時の僕は幼稚園生だったから、実際はそんな風に言語化は出来なかったと思う。
今、振り返って、解説すると、そういうことだと言うことです。
僕はそれ以来、無批判にこの世を支配している「常識」とか「普通」とか「規則」とか「一般」とかを敵視するようになった。
それは、そういう事によって、無力な人が、抵抗する術もなく、不当に扱われてることに義憤を感じると同時に、
「常識」に縛られて、生きている大人たちも決して、自由に見えなかったからだ。
僕は将来、医者になったら、歪んだ「常識」や「普通」で窮屈をしている人達を助ける仕事をしたいと思った。
その頃の知識で、精神科という科があることを僕は知っていた。
僕は医者と言う権威を武器に、差別や誤解を受けてる人や、不自由に生きている大人たちの心を解放するために力を発揮しようと決めた。
そして、それは僕の性質上、とても向いているとも思った。
それが僕が精神科医になった訳で、この初心はブレることなく今に至っている。

BGM. よしだたくろう「今日までそして明日から」


お酒についての僕のルール

25/Ⅰ.(金)2019 はれ、寒い クリニックのバックヤードのカーテンを唯&憂に変える

高橋留美子が、フランスで、マンガの賞をとったというニュースで、昔書いた記事を思い出した。
長い記事で、言いたいことと連想が飛躍してゆくのだが、その中から「お酒についての僕のルール」の箇所だけを抜き出してアップしてみる。

珍しく、マサキから電話があって、この1年で同級生が2人死んだんだそうで。
2人は闘病日誌をフェイス・ブックにアップしてて、別の友人が、自分も癌で闘病中、とコメントしてるそうで。
<なんか壮絶だな>と僕が答えると、マサキはこう言った。
「だからさ、もう僕らの年は、普通に病死する年齢になったんだよ」って。
<まぁ、そうだな。で、だから何?>。
「ところで、君、まだ、酒呑んでから、風呂に入ったりしてるの?」。<もうしてないよ>。
マサキは、「病死なら良いんだよ。病気なら。只さ、君は酔って風呂で寝たりするから、変な死に方はやめて欲しいんだよ」。
<死に方に、普通とか変とかあるか?>と僕が言うと、
「あるよ!こっちが後悔するんだよ。『あぁ、注意しとけば良かった』ってさ。病気なら許すよ。事故死はやめてくれよ」と、
マサキは強い口調で言ってたな。

唐突に思われるかもしれないけど、それには一応、伏線があって。
この位の季節だったから。あの事件は。
それは最初に僕らがA病院に勤務してる頃の話。
僕は過酷な過重労働で肉体的に疲弊していて。
あまりに体調が悪いので、マサキのすすめで内科の先生に診てもらって。
内視鏡検査では異常がなかったけど、血液検査で、「多血症」の所見が出た。
臨床検査技師の話では僕の血の色が真っ黄色で、大変驚いたと、マサキから聞かされた。
「多血症」はストレスでもなるらしく、治療法は「血を抜く」しかないらしい。
なんて野蛮な治療法があるものだ。
その直後、僕は大学の精神療法センターの忘年会に参加した。
疲れていたし、僕の呑み方は破滅的な呑み方をするから、泥酔した。
運が悪いことにその時、僕は何か原稿の作成中でノートパソコンを持ち歩いていて。
会がお開きになり、その店は2階にあり、僕は足を踏み外し、両手をふさがれたまま、急な階段を顔面から落下した。
受け身が取れなかった。
その後の記憶はない。
後で聞いた話では、そのまま大流血したまま、走り出し、また転倒。
起き上がってフラフラしたところに、通りかかったタクシーにぶつかって行ったらしい。
幸い、そこの道は細い路地で、タクシーは徐行していたから、タクシーの運転手に過失はなかった。
僕はそのまま自分の出身大学であり、自分がかつて勤務していた救命センターに搬送されて、ICUに緊急入院となった。
ICUって言っても、国際基督教大学(International Christian University)じゃないですよ。
集中治療室(Intensive Care Unit)ね。
皆さんは、「ICU症候群」って知っていますか?
ICUのような特殊な医療環境に入る人は体も弱ってるため、一過性の精神症状を引き起こすことがあるのです。
僕はそれになりました。
「せん妄」という精神運動興奮を伴う意識障害です。
この間の記憶はまったくないのです。
ICUは基本的に重症の身体疾患の患者さんを診てる訳で、そこで「ICU症候群」が起きると精神科医が呼ばれます。
運悪く呼ばれた精神科医は僕の後輩だったため、僕に罵倒されて帰ったそうです。
その時の僕は暴れるから、ベッドに強力な紐で拘束されていたそうで。
仕方なく上級医の医者が呼ばれる訳ですが、僕は先輩に対しても、「俺より出来ないくせに出しゃばるな!」と悪態をついて。
先輩は、本当のことを言われて、ひどく傷ついたそうです。

そこでも、最後に登場したのは、マサキでした。
マサキは、僕を強力な精神安定剤で数日間、眠らせたそうです。
僕の家族は、後になって言うことには、このままもう僕が二度と目を覚まさないんじゃないかと心配したそうです。
意識障害の回復の仕方は独特です。
まるでトンネルから出るように、ある時からパッと記憶が戻ります。
その瞬間、僕の目の前には、マサキがいました。
マサキは、「起きた?おい、酒は呑むもので、呑まれちゃダメだぞ」と言いました。
<ば~か。『酒は、反省するために呑むものだ』って、立川談志が言ってるぞ!>と僕が言い返すと、
「良かった。君、正気に戻ったね」と答えるマサキの笑顔が見えました。
よく言うよね、てめぇで、セデーションかけといて。
僕の病状は大量の出血と顎の骨の骨折でした。
大量の出血は、僕の多血症の治療に役立ち、血液検査のデータは正常値に戻っていました。
僕は全身状態も回復し、意識も正常になり、拘束も解かれ、形成外科の病棟に移りました。
大学病院に入院したことがない人でも、ドラマなどで、見たことがあると思いますが、教授回診というのがあります。
主任教授を筆頭に医局員が全員大名行列のようにゾロゾロとベッドサイドを回るやつです。「白い巨塔」とかで見ませんか?
僕の部屋にも、教授回診はやってきました。
形成外科の教授はいかにも職人気質の融通のきかなそうな無愛想な男でした。
僕は学生時代にこの人の授業を受けたことがあるので、顔と名前は一致しました。
教授は、僕のレントゲンを見て、「う~む、見事な骨折線だ」と言って、一同が口を揃えて、「見事だ」と賛美しました。
骨折線を誉められても、別に嬉しくもないのですが、誉められて嫌な気分はしませんでした。
後になって知ったのですが、マサキが形成の先生に、「川原君は誉めながら、治療をして下さい」と頼み込んでいたらしく。
頭ごなしだと、治療意欲がそがれるタイプだからって。
僕の治療は、手術ではなく、顎間固定と言う、口が開かないようにワイヤーで上下の歯茎をくくりつける方針になりまして。
骨折線が、美しいから、ね。
顎間固定の期間は、3ヶ月だって。その間は口から物も食べれないので入院生活です。
僕は1ヶ月くらいで退屈な入院生活に我慢が出来ず、点滴を自己抜去し、病院を無断で離院して、家に帰りました。
家族があやまりに病院に挨拶に行き、僕は「傷病手当金」の給付を受けて自宅療養です。
家でなるべく液状のもので栄養がとれるような生活をしました。
しかし、暇でした。
「男はつらいよ」の全シリーズを1作目から全部観たり、太宰治の小説を年代順に読み直したりしました。
いよいよ、3ヶ月がたって、顎間固定が外れました。
まだ、顎の骨がずれるといけないので、頭のてっぺんと顎を包帯でグルグル巻きにして、僕は現場に復帰しました。
その姿は痛々しくて、無理に出なくても良いんじゃないか、という賛否両論も聞かれました。
最近で言えば、フィギュア・スケートの羽生選手のような姿ですね。一緒にしたら、怒られるか。
僕の外来患者さんは、3ヶ月間、マサキの外来で代診してもらって。
マサキは、「君の患者さんはすごいね。まるで手がかからなかったよ」と感心していて。
「薬も、川原先生の出したものをそのままで、って3ヶ月間、何も問題がなかったよ」と言ってましたが、僕は内心で、
<お前に言ってもしょうがない、と思ったんだろう>と思っていたんだ。
その証拠と言っちゃなんだが、復帰後、ある少女からもらったカセット・テープには参った。
彼女は、家族以外で口を利くのは僕くらいで、僕も彼女との診察時間を大切にしていて。
そんな彼女にしてみれば、いきなり僕が怪我で3ヶ月入院と聞かされた時にはショックだったことの予想は出来る。
彼女は気丈にも、僕と会えない日々を、本来なら診察時間が約束されてる時間帯にカセットにメッセージを吹き込んでいて。
初回は、DJ風に、「達二先生がいなくても、意外と私は大丈夫です。今日の1曲目は、Xの紅、です」って感じで。
そして、普段なら診察でお話するような他愛もない話を、明るい口調でユーモラスに独り語りしていて。
1ヶ月が4週とすると、3ヶ月×4週=12回分の収録があった。
最初の方は、そんな感じでDJ風のセッションなのだが、2ヶ月目になると、途端に無口になって行って。
そして、最後の1ヶ月は、泣き声と嗚咽で。
「私は達二先生に会いたいが、患者だから、お見舞いにも行けない。立場が違うから。今までそんなことにも気づかなかった。
そんな自分が馬鹿でくやしい。達二先生に、会いたい」と言って泣いていた。
これにはやられた。おそらく僕の担当の患者さんの代表の意見だと思った。
僕は人生で後悔することはしょっちゅうあるが、反省することは滅多にない。
だけど、さすがにこれを聞いた日には猛省した。
彼女がこのテープを吹き込んでいる頃、僕は家で<暇だ~暇だ~>と文句を言っていたのだから。
あかんたれ、だと思った。
そして、僕はそれから心に誓ったことがある。
翌日に診療のある日には酒を呑むのは、よそう。
酒が残って、患者さんの話を集中して聞けなかったらいけない、と思ったからで、それは今でも続けている。
実際には、ビールの1~2本や、日本酒の2~3合や、ワインの3~4杯が、明日の診療に影響を及ぼすことなどまずない。
でも、そういう決意をしたことで、皆さんに勘弁してもらおうと勝手に1人で決めたのです。
勿論、例外はあるけどね。
たとえば、お通夜に呼ばれて、「故人の為に今日は呑んでやって下さい」なんて遺族に酒を勧められた時とか。
そんなシチュエーションで、<いえ、明日は診療がありますから>なんて断れないだろう。だから、そういうのは例外ね。
僕は多分この時から心を入れ替えたのだと思う。
患者さんがいるから、勝手に死んだりしてはいけないと思っている。
皆を見送ってから、死のうと思っている。
あっ、そんなことを言って、今、思春期の新患をバンバンとってるけど、大丈夫か?俺の寿命。
ま、いいか。人生、成り行き、だ。

BGM.吉田拓郎「明日に向って走れ」


おしかけ女房

18/ⅩⅡ.(火)2018 はれ 寒い  髪色を村上春樹「ノルウェイの森」風にする

一つ前の記事や、くれたコメントの返信で、テッテ的に、アプリ拒否宣言をしましたが、人間とは両価的なものです。
嫌いと言えば言うほど好きになり、憎けりゃ憎いほど愛おしい。世界はアンビヴァレント・ワールド。てんでんバラバラです。
つまり僕はどこかで、アプリ、に惹かれてて、だけど、自分から告るのは癪だから、アプリ、の方からおしかけて来ないかな?
と夢想しています。

それと言うのも、今、コンビニで、あだち充の、みゆき、を雑誌っぽい装丁の単行本で安価で売っているから、気軽に買って、
酒の友に、読んでるのだけれど、ラブコメの王道も、男・主人公は何もしないのに、勝手に恋(女)が舞い込んでくる、という
まさに男にとって都合の良い設定だから、ウケたのでしょうね。
みゆき、はさらに、妹萌、というのを確立させた金字塔とも言えますが、ここでは多くは語りません、長くなるから。

で、みゆき、もそうなんですが、おしかけ女房、って日本の文化に根強くあって、雪女とか、鶴の恩返し、とか、うる星やつら、
とか、イイナ、と思います。響きが良い。
最近は草食系男子なんて聞きますが、おしかけ女房、って言葉がある限り、昔から男子は草食系だったのかもしれませんね。
健さん、とか、寅さん、とか男の代表みたいだけど、どっちも女には、めっきり奥手だし。
そこが男にウケてるかげのゆえんだったりして。
モテない言い訳になるでしょ。「俺って、不器用だから」。

おしかけ女房、で思い出すのは、はしだのりひことクライマックス、の「花嫁」。
はしだのりひこ、とは「帰ってきたヨッパライ」で有名なフォークルのメンバーで、作曲家でヒットメーカーでもあるが、
リサイタル音源を聴くと、お笑い担当でもある(フォークル自体が、お笑いであるが)。

僕の記憶では、「笑点」の本当の大喜利の前にやる、芸能人の大喜利に出てた。それも、円楽、の位置に。
はしだのりひこ、は去年の12月にパーキンソン病で死んだ。1年になる。合掌。

そのクライマックスの、花嫁、だが、作詞の北山修が当時のインタビューで答えていたのだが、
「あの歌は、おしかけ女房、の歌です」。

当時、僕は小学校高学年。「花嫁」はテレビの歌番組でよく聞けたし、その年の「紅白」にも出てた。
僕は子供ながらに、おしかけ女房、かぁ、と思ったものである。
恋に恋する思春期の前段階の世代で、複雑だった。
同じ年、加藤登紀子の「知床旅情」がヒットした。
父が、「この歌は、森繁(久弥)の歌だが、加藤登紀子が、この歌を歌わせてくれ、と森繁に直談判して、
実現した歌なんだ」と教えてくれたのを覚えている。
父は、女だってそのくらい出来るんだ、すごいなぁ、というリスペクトの意味で言っていたのだが、
僕は「花嫁」の北山修のインタビューを読んだ直後だったから、「こいつも、おしかけ女房、か」と思った思い出がある。

で、アプリ、である。
「花嫁」と「知床旅情」が流行ったのは、1971年だ。僕がはじめて好きになったアイドルの天地真理がデビューする1年前だ。
今は、平成30年12月。
嫌がる僕に根気強く、おしかけて、アプリを教えてくれる、‘女房’、を待つ。

BGM.はしだのりひことクライマックス「花嫁」


アプリ

14/ⅩⅡ.(金)2018 はれ、寒い 今年の漢字は「災」

思い返せば、昔から、メカ音痴だった訳ではない。
いつからだろうか。
やはり、LPがCDになったあたりからだな。
ビデオのダビングとか、コピーガードを飛ばす機械を秋葉原で買って持っていた。

最近は、同窓会の連絡もライン。僕は、アプリ、がわからない。
最初は皆、根気強く教えてくれたが、実際、僕のスマホを操作すると、魔法にかかったように、皆、訳わからなくなり、
いまだに、アプリ、は不通。
あげくは、ラインしか通信手段じゃなくなったかのように、メールには誰も返信が返ってこず、僕は陸の孤島にいるようだ。

テレビがつまらないからラジオが面白い。しかし、ラジオを聴く機械(機会)がない。ラジカセがない。
そうしたら、ラジオも、アプリ、で聴けるらしい。
熱心な(親切な)患者さんに、何度も何度もやり方を教わったが、さっぱりわからず仕舞い。
技術的には、「パスワード」がわからないということらしい。勿論、それがすべての問題ではない。

僕は多分、意識的・無意識的に、アプリ、を拒んでいるのだ。
新しい文明に媚を売る自分を抑止しているのだ。
それは懐古主義とか頑固と言ったものとは違う、自分の世代への強い自負と絶対的な正当性だ。

年長の従兄弟のヒーローは、鉄腕アトム、で、僕の4つ上の兄は、鉄人28号。
そして、ウルトラQを経て、僕のヒーローは、ウルトラマン、だった。そこからが、カラー放送!
そして僕は高度経済成長の子供だった。
僕の友人は学年は僕より1個上だが、兄弟がいないから、子供の頃のウルトラシリーズの思い出は、
ウルトラセブン、かららしい。1個上なのに、ダセェな、と思った。
こうして僕は僕より上のことを言う奴は「古い」、僕より下の話題をする奴は、「本物を知らない」奴と、
自分の世代に胸を張れる時代の寵児だった。

だから僕は僕の世代に対してものすごく優越感があり、それは僕より上の世代の人以上に新しい文化を拒む傾向がある。
あれだけ個性を尊重して、群衆にまみれる姿を醜いと軽蔑した世代のくせに。

しかし、よく考えたら僕は同年代の奴らにも文句を言ってた。
それはたとえば、同世代だからという理由だけで、十把一絡げ、にされて、まるでちびクロサンボの虎みたいに、
まざりあって、バターにされるのはご免だ、と思ったもので。

つまり、世代の団結力というのは語彙の時点で矛盾があって、意味の時点で破綻している。
現に、僕らの世代も、ラインをして同窓会のやりとりを難なくしてるし、僕はそこからはぶかれている。
アプリに、はじかれている。

BGM. 高橋美枝「ひとりぼっちは嫌い」


夢の因数分解

12/Ⅹ.(金)2018 くもり 心理部門、ブログ記事いきなりの予告にざわめく。

前の記事で、「夢」について心理部門が記事を書くことを勝手に発表したことで、心理は困っている。
僕は、面白くなって来たと思っている。
困ったら僕の夢日記を題材に使ったら?と親切心で提案したのが、またさらなる圧力になってるようで。
そんなに難しく考えないで、普段、どんな風に「夢」について考え、取り扱うかを書けばいいだけだと思ったのに。
だから、カワクリスタッフ陣には、緊張と困惑が走り、それは受付にも伝染している。
もっとも、受付は、「心理の人達、ちゃんとやれるかしら?」と母性のようなまなざしで心配している。

そこで、夢日記「地獄寿司」に登場するキーワードから僕が連想することをここに書いてみる。ヒントにしてね。

この夢をみたのは、彼岸の頃。
僕は寺の坊主と喧嘩して墓参りにさっぱり行かないが、なんとなく時期は意識してたと思う。
人はそれを罰当たりというのかもしれないと思ったけど、僕は元々、悪いことすると地獄に落ちるぞ、と脅して、
善行を強いる発想が嫌いだ。そもそも死んだら、天国も地獄も知ったこっちゃない。
昔、前世を占える人に、「あなたの前世はヒマラヤの修行僧で、修行が辛くて逃げ出したから、この世で修行をやり直し」
と言われ、「だったら、来世で修行すればいいから、今世は勝手に生きる」と言い返してやった。
どうせ死んだら、おしまいだ。

そんな僕は落語の「黄金餅」が好きだ。なんとも登場人物がみんな出鱈目で、感心しない人物の出した店がたいそう繁盛した、
というオチで、そこには勧善懲悪のかけらもない。地獄なんかをチラつかせて、偽善的な行為を推奨したりしないのである。
誰があんなすごい話を考えたのだろう?

僕は幼稚園と小学校がキリスト教の教えだったから、聖書や賛美歌になじみがある。
でも、天国が良い人の集まりならつまらなそうである。魅力を感じない。
そう思ってるから、都合よく、母やキヨシや談志を地獄に送り込んだのかもしれないな。

僕の実家は茅ヶ崎で海のそばだった。だから食卓にはよく刺身が出てた。
母は貝類が好きで、僕が医者になって母を寿司屋に連れてくと、きまって貝の盛り合わせを頼んだ。
地獄寿司はこの辺の、彼岸に対する僕のスタンスが生み出した妥協点なのかもしれない。

僕が前に務めてた病院では、「MSさん」というケースワーカーの卵が医者の「秘書」みたいについてくれた。
僕の「MSさん」は帰国子女で、可愛い人で、母性的で、面倒見が良かった。
僕が書類をためてると、隣に座って、一つづつ書類を目の前に開いて出してくれ、僕が記載するのをみててくれた。
僕が書き上げると、誉めてくれて、次の書類を開いて出して、またみててくれる。
僕は誉められると伸びるので、いくらでも仕事が出来て、わずか1日で全部の書類を終らせた。
彼女は、その時、アンパンマンのファイルを持っていた。
同じ病院で彼女の彼氏と噂の男がいて、奴の好きな食べ物が、サンマルクのチョコクロワッサンだった。

東神奈川は、丁度、東京と茅ヶ崎の中間地点で、僕が中学受験で東京進出を決めた時の最初の塾があった場所。
僕は親戚に「茅ヶ崎と東京とどっちが好きだ?」と聞かれ、迷わず「東京」と答えてビックリされた思い出がある。
多分、大人たちは、子供らしく「茅ヶ崎」と答えて欲しかったのがミエミエだったから、わざとそう言ってやった。

クネクネした線路で思いつくのは、「進路」だ。
そして、クネクネした線路といえば、つげ義春のマンガ「ねじ式」も思い出す。↓。

主人公は、メメクラゲに左腕を噛まれて医者を探すが、何故かその町には、目医者、しかなくイラつく。↓。

僕の実家は眼科で、父は将来的には、兄と僕と3人で医院を大きくしたいという夢があった。それが僕の「線路」だった。
線路とは、文字通りレールで、「親の敷いたレールを歩きたくない」などと使うそれだ。
僕は茅ヶ崎から東京の中学に通うのだが、片道2時間くらいかかった。電車はサラリーマンでギュウギュウだった。
中1の時、音楽の授業で「ドナドナ」という歌を習った。
牛が市場へ輸送されてゆく様子を歌った歌で、子牛は悲しい瞳をして抵抗も主張もしないという変な歌だった。
僕は行き帰りの満員の東海道線で、サラリーマンや自分のことを「ドナドナみたいだな」と思ったものだ。

その直後、国鉄がストになって学校が数日休みになった。
ニュースでは、それでも会社を休めないサラリーマンが線路を歩いて通う映像を流していた。
その頃、「およげ!たいやきくん」がテレビで流れてた。
この歌は大ヒットするが、その要因は一説によると、国鉄ストで家にいたお父さんたちの耳にもこの歌は入り、
歌詞の「毎日、毎日、僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」とたいやきくんが、
海に逃げ出す行動に共感したのではないかと解説された。
僕はこんな幼稚な歌より、東京に出て行き心が離れて行ってしまう恋人達の風景を歌った太田裕美の「木綿のハンカチーフ」
に夢中になっていた。
僕は中2から、東京へ兄と二人でマンション住まいをすることになったがそれはまた別の話。
父は僕が大学2年の時に死んだから、僕が精神科医になったことを知らない。

BGM. ザ・ローリング・ストーンズ「夜をぶっとばせ」


周期表の覚え方~受験生、必見!乙女、閲覧注意!

16/Ⅷ.(木)2018 はれ ぎぼむす・竹野内豊、死ぬ。

暑い夏の日は、青春の甲子園野球もいいですが、
夏と言えば、恋の手ほどき的な、「個人授業」や「プライベート・レッスン」と、ポップなオールディーズなBGMを思い出します。
皆さんはいかがお過ごしですか?
東京医大の女子受験生差別の問題は、なかなか世間にインパクトを与えましたね。
頑張れ!受験生!

と言うことで、追い込みの夏に、微力ながら尽力しようと、化学の周期表のエッチな覚え方を教えましょう。
これは、僕が高校生の夏に参加した、ある医学部専門予備校の夏期講座で、先生にではなく、
そこにいたエッチな女子浪人生に教えてもらったもので、後にも先にも、こんな卑猥な覚え方を口にしてる人を知りません。
ただ、丸暗記というものは、バカバカしいものや下品でくだらないものの方が忘れないものです。
30年以上、経ってるのに覚えているもの。

周期表の覚え方というと、元素番号1-20を横読みした「水兵リーベ、僕の船~」が有名ですね。
でも、これは一般的な分、全然エッチじゃないし、(エッチじゃなくてもいいんですが)意味不明ですね。
それに比べて、この後の、元素番号21以下と、つづいて、縦読みの「族」すごいですよ。
意味、判るし。むしろ、絵が思い浮かびます。
それでは、受験生、必見!乙女、閲覧注意!彼女の手ほどき開始です。

 

 

Sc Ti V Cr Mn Fe(鉄) Co Ni Cu(銅) Zn(亜鉛)

→少し、ちんこは、ヴァギナより黒い、まんこってコンドームにどう合うの?

1族・H Li Na K Rb Cs Fr

→変な淋病、何故痒い。ラブしすぎてフラフラ。

6族・Cr Mo W

→黒い物は、ワンダフル。

13族・B Al Ga In Ti

→ブーして歩いて我慢する、インテリ。

14族・C(炭素) Si Ge Sn(すず) Pb(鉛)

→たんすの下に現金、すずなり。

15族・N P As Sb Bi、これは「ニッポンの朝は酢豚にビール」が有名ですが、彼女は違います。

→ねぇ、パパ、あそこ、しゃぶってビンビンよ。

16族・O S Se Te Po

→お~、すげぇ~、世界は、てんで、ポルノブーム。

17族・ F Cl Br I At

→ふっくらブラジャー、私がアタック(Iを、英語の一人称として読みます)。

18族・He Ne Ar Kr Xe Rn

→変なねぇちゃん、歩いて狂って、セックス・ランニング。

 

 

僕は当時、高校生で、彼女は浪人生で年上で、だから仲良くしてもらって少し大人になった気がしてた。
彼女は不良で、今で言う、援助交際をしていたらしく、
しつこい相手だと「疲れる料」をとり、あっさりした相手からは「物たらん料」を巻き上げると、うそぶいていた。
ひと夏しかその塾に行かなかったから、その後彼女がどうしたのかを、僕はまるで知らない。

BGM. ロッド・スチュアート「胸につのる想い」


台風のフー子

31/Ⅶ.(火)2018 はれ ワイドナショーの、ワイドナ女子高生に、岡田愛(メグ)、が出演!

「川原・好きな子ランキング」というのを秘かにつけているのだが、6月は「ぺろりん先生」が独走だった。
2位は佳子さま、3位は藤澤五月、4位はアンゴラ村長だった。
ところが、7月の暑さとともに、「ぺろりん先生」の顔が可愛すぎて、飽きてしまったのと、アクが弱いから、

そこに佳子さまが留学から帰国されたので、佳子さまが一気にトップに躍り出たのも束の間、
心無い患者さんから、「佳子さまに婚約者がいる」というスキャンダルを聞かされた。
アイドルにスキャンダルはつきものだが、佳子さまの事務所は宮内庁だからしっかりしてるはずと油断してた。
ネットをみたら、いっぱい出てた。
まぁ、国民としては慶事は喜ばねばならないことなのだが…。

さらに、「カー娘」や「にゃんこスター」は近頃、全然、テレビに出ないため、トップは空位のままで、
そのため、繰上げ1位になったのは、「しずかちゃん」。理由は、スキャンダルがなさそうだから。
しかし、しずかちゃんはお風呂好きで、あまり、しずかちゃんをアピールすると、都条例にひっかかる恐れがある。

今はそんな季節だ。
カンカン照りの毎日に、いきなり台風が来るという予報が先週の土曜日。
最終土曜は、クリニックの定例会。東京地方は大雨警報。
だけど定例会のお弁当も頼んでしまっているので、今更中止じゃお弁当屋さんも困るだろうし、
早急にディスカッションしたい課題もあったし。
そこで僕はフー子にお願いした。
運動会程度なら、てるてる坊主でいいのだけれど、台風だから。

フー子とは、未来の気象台の学者が実験のために作った台風の卵から、のび太が育てた卵の名前。
のび太を慕う台風の子供で、巨大台風の接近を知り、のび太を守るため、
家を飛び出し、巨大台風にぶつかり、共に消えてしまう。
その自己犠牲の精神は、ジャイアント・ロボの最終回の感動に重なる。

そう言えば、第三期・川原暗黒時代に、フー子というナースの卵がいた。
フー子は、僕がつけたあだ名。
タバコ友達だった。
僕らは何故かウマがあい、一緒に水族館や、やくざ映画を観に行った。
フー子、元気かな?

土曜のミーティングは、フー子のおかげで(?)、台風は反れ、定例会は無事出来た。
そんな流れで、7月最終日の今日、「川原・好きな子ランキング」の1位に、台風のフー子、が輝きました。
ランキング史上初の人外(じんがい)です!

次回、ポテトサラダ編につづく。うそ。

BGM. ピンクレディー 「ピンク・タイフーン」


ともだち、が、いない…

17/Ⅴ.(木)2018 はれ&蒸し暑い  西城秀樹死ぬ、63才。

それはアウェーのような大ブーイングだった。
僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、
<いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー>と声をかけた。

 

 

イジメもなければ、ハブられることもなかった。どちらかと言えば、親切な人ばかりだった。

きっかけは新年度に体調をくずし、数週間学校を休んで、新しいクラスに行ったら、もうグループが出来上がっていたことだ。
班分けをする時も入れてもらえたが、特別に仲良くしたい人達でもなかったし、話題も合わなかった。
僕には友達がいなかった。

今、大人になるとどうってことないことが思春期には気になることがある。
友達がいない、というのは、その代表選手だ。

友達がいないというのは、さびしい奴と憐れに思われたり、
自分はそうなりたくない、と思ってる奴からは批判の対象になったりもする。そいつの自己正当化のために。
親は心配するだろうし、教師はしゃしゃり出そうだから、なるべく顕在化しないように気を回した。

万有引力とは引き合う孤独の力だ、と寺山修司は言っていたが、
僕と同じように友達のいない男は万有引力のように引かれあってつるむようになった。
そいつはガタイがデカく乱暴者でリアル・ジャイアンみたいな奴で加減を知らないから、皆から恐れられ敬遠されていた。

どういうきっかけでそうなったのかサッパリ覚えていないのだが、僕らは学校が終ると彼の家まで遊びに行った。
彼の家の近くには神田川が流れていて、彼は当時の流行の最先端のスケートボードを持っていた。
僕らはスケートボードに最適な坂まで通い、一人が坂の下で見張りをし、もう一人が坂の上からすべった。
もし車や自転車が来たら合図を送り、衝突しないように、途中で降りれるためである。
坂の下には神田川。
僕らは何度もスケートボードを神田川に落としては、長い棒で突っついて拾い上げ、またすべっては落としてを繰り返した。
何日も何日もひたすら同じことをやった。

そのうち、僕とジャイアンが仲良くなったことが学校で知れ渡り、僕の学校でのカーストは上がった。用心棒がついたから。

学内で柔道大会があり、ジャイアンは柔道部でもないし、最上級生でもないクセに、破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、
決勝戦まで行った。

決勝の相手は柔道部のキャプテンで最上級生の男だった。
体格はジャイアンがまさったが、キャプテンにもメンツはある。
試合は力と意地の攻防で、結局、足技か何かで、我・ジャイアンがよろけてポイントをとられ、逃げ切られ、準優勝だった。

表彰式。優勝者は圧倒的な声援を受けた。その半分は、よくぞ生意気な怪物を退治した、という判官贔屓な賞賛だった。
準優勝者も表彰されたが、それはアウェーのような大ブーイングだった。
僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、
<いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー>と声をかけた。

周りの上級生は、「なんだ、あのチビ」「誰だあいつ?」といぶかしい顔をしてこっちをにらみ、
クラスメートは空気を読んで、「おいやめとけよ」、と制止する者もいたが、僕はまるでシカト。拍手を送った。
ともだちは、僕の方を振り返って、はにかんで笑った。

その異様な光景を興味深そうにみてた奴が3人いて、彼らもやがて合流して、僕らは5人組のグループになった。

皆クラスはバラバラだったが、夏休みには海に行ったり、放課後は誰かの家に集まったり遊びに行ったり、
冬にはスキーにも行ったことがある。僕は旅館で一人寝てて、旅館のおばさんに、
「あんたも若いんだからすべって来なさい」と小言を言われた。
山口百恵が「初恋草紙」を歌ってる頃で僕はゲレンデに出ないで、旅館でラジオから流れてくるそれを聞いていた。

高校を卒業してからも、皆、進路は違ったが、年に1回は集まって旅行に行く関係が何年も続いた。
それは、ひとりが結婚して所帯を持って関係がバラけるまで続いて、僕としてはともだち関係の記録である。

BGM. 西城秀樹「ラストシーン」


欠点

9/Ⅴ.(水)2018 水曜日に雨は多くないか?雨も水だからか?

僕に出来ないことは色々あるが、男子として割と恥ずかしい欠点は、「泳げないこと」と「自転車に乗れないこと」だ。

泳げないことは、中学の時、吉田拓郎(よしだたくろう・当時)も泳げないと知って、<だったら俺もいいや>と、
早々に投げ出した。
日本のフォーク系ミュージシャンには泳げない人がたくさんいて、六文銭の及川恒平はお風呂も怖いらしい、
とラジオで拓郎が笑って話してたのを、僕も笑って聴いていた。

自転車に関しては、友達の後ろに乗っけてもらったり、僕は足が速かったから、伴走したりしていた。
茅ヶ崎から辻堂くらいの距離だったら、自転車と一緒に走れた。
今思うと、友達が随分加減して走ってくれてたのだと判るが、当時は、<俺は自転車より速い>と自慢してたのだから、
全然空気を読んでなかったのだなぁと思う。

そういうまわりに支えられてたから、自転車を乗るという場面は回避して生活して来れた。
女の子とサイクリングに行く時は、普通は男子の自転車に女子がつかまって乗るのだろうが、僕は逆だった。
これはちょっと恥ずかしい絵で、まぁ20才も過ぎると、皆、車に乗るから、自転車に乗るという機会は減るが、
僕は自転車に乗れないくらいだから、自動車も乗れる訳がなく、大抵、他の人の助手席に乗った。
女の子とドライブする時も、助手席に乗った。

そう言えば、こないだフィギュアスケートの羽生結弦が「自転車に乗れない」と告白したニュースを知った。
僕はもう大人だからいいが、僕と同じように自転車に乗れなくて肩身のせまい想いをしてる男の子がいるとしたら、
僕にとっての、よしだたくろう、と同じように免罪符としての効果があるのではないかと思った。
「羽生結弦と同じならいいや」的な。

僕が自転車に乗れない理由は、母のせいである。
いとこ達と自転車で遠くに行くという企画があった時、母は「達二は行かないわよね」と哀願した。
だから、僕はそれに応じた。

とは言え、うちの兄は自転車に乗れるし、その後も自転車に乗れるようになるチャンスはいくらでもあった。
いつの時代も練習を手伝ってくれる面倒見のいい友人はいるもので、
「タッちゃんは運動神経がいいから、すぐ乗れるよ」と励まし応援してくれたが、てんで乗れなかった。
まるで母への忠誠心を言い訳にしてるみたいだが、僕はやれることとやれないことが極端なのである。
これも母のせいにしてしまうのだが、いわゆる家事というものが一切出来ない。
これも多分、母が自分がいなければ何も出来ない子供に仕立てて、所有物みたいにしたせいだと思う。

こないだサランラップを切ろうとして、指を切った。
耳掃除は母が楽しみにする作業だったから、自分でやると加減がわからず必ず出血する。
このあいだ耳鼻科に行って耳掃除をしてもらったら、やんわりとお医者さんから、
「このくらいのことで来ないで下さい」と言われてしまった。
家に帰って、爪を切ったら、深爪した。

そんな僕にとって大学生になって家を出たことは、物理的に母と距離をとり、自立するチャンスだった。
しかし、悲しいかな人間は、同じようなことを相手をかえて繰り返す。
一人暮らしをしても家事など出来ないのを知ったクラスメートの女子が、医学部は面倒見のいい人が多いから、
ローテーションを組んで、掃除や洗濯をしに来てくれた。
さすがにそれは申し訳なさ過ぎたから、今でいうニートやひきこもりな男友達を自分のマンションに呼び寄せ、
家賃はとらない分、家事をしてもらった。

僕が学校に行ってる間、彼らが部屋の掃除や洗濯をして夕飯を作って待っていて、
夜は僕の録り溜めた歌謡曲やプロレスのビデオをみながら、人生や本の話をした。
朝は僕だけ起きて学校へ、彼らは寝てるが、僕が帰ってくるまでに家を綺麗にしてくれてるから、ギブ&テイクだった。
彼らは家に居場所がなかったから、僕が居場所を提供し、寄生させてたつもりだったが、僕の方が精神的に彼らに寄生していたのかもしれない。

その後も季節が変わるように関係性は変わるが、身の回りのことをしてくれる男女が途切れることなくいたから、
僕はいまだに食器の洗い方や洗濯機の回し方や衣替えやATMの使い方や小包の出し方を知らない。

よく結婚相手に母親と似たような人を選ぶというが、うちの奥さんと母は全然似てないと思う。
ただ、やはり家事という点においては、僕に何もさせないから、結果的に身の回りのことは完全に奥さんにやってもらってる。
そう言えば、マイナンバーとかも知らない。マイナンバーが何なのか、番号なのか、何桁の数字なのか、
あるいは保険証みたいなカードなのか、実物をみたこともない。何かの時に必要になるのかな?

こうやって考察してみると、奥さんと母は似てないが、僕と奥さんの関係と、僕と母の関係はとてもよく似ている。

移動手段として自転車に乗れない僕は自動車にも乗れないので、自家用車は奥さんが運転している。
僕はたまに助手席に乗るのだが、うちの車の車種が何だかも知らない。
車にまったく興味がないので、ポルシェとカローラの区別もつかない。

母はここ(ブログ)では美化されているが、光あるところに影がある。
今回の自転車の記事は、母の欠点の部分だと思う。あえて、母の日近くに、ぶち込んでみた。

BGM. RCサクセション「日隅くんの自転車のうしろに乗りなよ」


DIY

でんぱ組の新メンバー・ぺろりん、のオタク趣味が、DIYだと言い、100円ショップを物色する番組をみた。
DIY、って何だ?日曜大工かと思ったが、受付の大平さんに聞いたら、「DO IT YOURSELF」の略だそうで、
何かを素人が、自分で作ったり修繕すること、らしい。

それで思い出したのだが、僕が小~中の頃、文房具に新しい波が来て、
ノートがそれまでの大学ノートから、ルーズリーフへと潮目が変わった。
色んなデザインのバインダーが出たが、中でも「DO IT YOURSELF」というのは画期的で、半透明で、
自分の好きなアイドルの写真などを「明星」や「平凡」から切り抜いて、自分流のファイルを各自、作っていた。
僕が最初に作ったのは、アグネス・ラムで、次が山口百恵の花王シャンプーの広告。

それと前後して、ユーフーというチョコレート・ドリンクがアメフト(当時は、アメラグと言った)と提携して、
ニューヨーク・ジェッツのグッズをプレゼントしてくれた。
僕はアメラグはよくわからないが、ジェッツの白と明るい緑のロゴがかっこよくて、ユーフーを何本も飲んで、
バインダーを当てて使ってたことを思い出した。

その頃は、将来、有名になったらと、ペンネームを考えたりしていた。
かわはら・たつじ、という音をそのままに「川原多都児」とか「川原刺青Z(タトゥージィー)」などと走り書きを、
机の上に置きっ放しにしてたら母にみられ、
「達二、あなた、自分の名前が嫌いなの?」
と聞かれて、照れくさかった思い出がある。
その後も、好きな娘が「世良公則(せら・まさのり)」のファンだったから、「寺まさのり(てら・まさのり)」と、
空耳っぽくしたり、
石野真子がデビューした頃は「達二と真子」を並べ替え、「辻田マコト」という藤田まこと、みたいな芸名も
名乗っていた。それも、母にバレた。

3/19は、母の命日。去年は、こんな記事を書いた。

BGM.榊原郁恵「Do it BANG BANG」