心の護美箱(75)~川原を支えた女たち

26/Ⅺ.(日)2023 くもり、寒い 日本レコード大賞、大賞候補からYOASOBI「アイドル」除外で物議

 

池田氏というカリスマを失った今、その「団結」には綻びの気配が漂っている、東大閥エリートVS創価大叩き上げ、の骨肉の内部抗争が始まった!…と今週号の週刊文春に載っていた。池上彰と佐藤優の対談もあり、池上彰の祖母が学会員で新聞少年だった池上彰は朝日新聞と聖教新聞を毎日読んでいたが聖教新聞は「立正佼成会の悪口ばかり書いていて、立正佼成会信者が仏壇を運んでて交通事故にあった、とか。仏教団体が他の団体の悪口を書くってどういうことなんだ」と子供心に思ったと語り、僕は「こんな記事載せて良いのか?」とびっくりしたが、対談相手の佐藤優もそれに便乗して話を膨らませてるから良いのか。結局、全部、自主規制で言論の自由はあるんだなと知りました。他にも宝塚花・雪・星組トップが「イジメなしウソ会見に激怒」宝塚幹部に改善要求、や、ジャニーズ問題「ジュリーさん、本当に補償する気ある?」、羽生結弦105日離婚「羽生推し精神科医のコメント」、アンビリーバボー「ギャラ12億よこせ」「昔の写真使うな」北野武が暴走中、原色美女図鑑には市川團十郎と小林麻央の娘・12歳が初登場などとにかく「買い」の号です。

 

さすがに大学6年にもなると、皆、目の色をかえてラスト・スパートをかける。
ただ、なんとなく、ひとこと、「さぁ、俺達も頑張ろうぜ!せーの」みたいなワンシーンが欲しかっただけなのだ。こないだまで一緒にバカをしてた友達がいきなり国試モードになったので戸惑った。本当に、戸惑った、という言葉がピッタリだ。僕は最終電車に乗り遅れたヨッパライのようで、おきざりにされた気分に浸った。こういう時には、人の心に隙間ができる。そこに悪魔がやってくるのだ。あまり親しくはなかった1年後輩の遊び人が「川原さん、一緒に遊びましょうよ」と誘ってきた。学校のそばの繁華街のフィリピン・パブへ行こうという。
「Black&White」とか「おしゃれ泥棒」とかいう名前だったと思う。
そのお店は、ステージが1つあり、あとは広いフロアにテーブルが幾つかあって、各々のテーブルに艶やかな色のチャイナドレスをまとったフィリピン人の女の子がつき、水割りを作ってくれたり、カラオケをしたり、会話を楽しむ、そういう雰囲気。馴染客には目当ての子がいる。
後輩は「川原さんは、マイラがいいでしょう」とマイラをあてがわれた。マイラは、華奢で背格好もそんなに大きくなく、端正な顔立ちをしているフィリピン美人だ。彫が深いというのか、鼻筋がピンと伸び、肉厚のある唇をいつもツンととがらせているから、ちょうど顔面の中央部分が穏やかに隆起しているような造りだった。黄色いドレスを着ていたせいもあり、第一印象は、ひよ子みたいな顔をしてるなぁ、と思った。
マイラは他の子と少し違った。マイラ以外の子は率先して場を盛り上げたり、客とデュエットしたり、それを囃したてるため変な拍子の掛け声をかけたりしてふざけているが、マイラはそれを見て笑ったり手拍子を合わせているだけだった。
僕はそういうところで盛り上がる社交性に欠けていたから、「担当・マイラ」は疲れなくて助かった。後輩のチョイスが正しかった、ということなのだろう。
それから僕はフィリピン・バーに通った。学校帰りに一人で寄って、ビールを一本だけ飲んで帰る日もあった。僕の生活はすさんでいた。クラスはピリピリした雰囲気だし、水は低きに流れる、というのか、どうしても楽な方へ逃げたくなるのが人情だ。僕の足は、フィリピン・バーに流れた。ある日マイラが、明日の日曜日、自分の家に遊びに来い、とこっそり僕に言った。マイラは、真剣な目をしていて、後輩には内緒で一人で来い、と言った。了解した。
翌日、指定されたところで待ち合わせ。彼女らは、7~8人でタコ部屋みたいなところに雑居していた。「お~、タツジ!」皆、顔見知りだから、口々に歓迎してくれた。いつもの仲間、いつもの笑顔、という感じだが、いつもと違うのはノーメイク&私服だということだ。普段の華やかさはまるでなく、なぜフィリピン人はくすんだ色の服を好むのだろうか。仕事で原色ばかり着させられるから、反動形成なのかもしれないな。センス的には野暮ったいが、この方が街に同化して目立たずに生活出来るメリットもあろう。僕らは近所のホカ弁でからあげ弁当を買って食べた。そのあと、川の方に出て、子供たちがするような遊びをして時間を浪費した。川沿いのコンクリートの部分に、僕とマイラは並んで座った。
マイラは正面の川を見ながら、僕の方を一切見ず、「タツジ、もう明日からお店、来ない方がいいよ。勉強しなさい」と言った。僕は「わかった」とか「そうする」とか阿呆みたいな返事をした。どうしてこういう時、もっと気の効いたセリフが出ないのだろう?。いつもいつもそう思う。それから僕は勉強した。
狂ったように勉強した。テレビも東スポも一秒も見なかった。本当に狂っていたのかもしれない。とにかく寝てる時間以外は勉強しかしなかった。そして、そのペースは国試の当日まで持続した。結果、僕は試験に合格して医者になった。
後日談。僕は一度だけ、マイラに会ったことがある。
医局の先輩が、うまい焼肉屋を見つけたからと連れて行ってくれたのだ。店主と奥さんの2人で切り盛りしてる小さな店だ。常連なのか、巨人軍の選手のサイン色紙が壁に飾ってある。その隣りに先輩のサイン色紙がちゃっかり並べて貼ってあり、笑った。お会計の時、奥さんらしき人は、サービスでガムとヤクルトをくれた。顔を見て、僕はビックリした。マイラだった。
「あっ…」と僕が絶句するのを、先輩は不思議そうに見ている。僕が「マイ…」と言いかけて「ラ」の音を発音する瞬間に、マイラは「元気?」と言葉をかぶせて、「ラ」の音を消した。マイラは軽く微笑んでいて、相変わらず、ひよ子みたいな顔だった。

 

心の護美箱(74がいっぱいになったので、(75)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

フィリピンパブには、何故か日本人の子も勤めていた。当時は不思議に思わなかったが何故なんだろう?ある日、その子に店がはねてから、「自分の家で呑み直そう!」と誘われた。断る理由もないから付いて行った。すると、家に着くなり、彼女は「ちょっと待っててね」と言って、仏壇を開けて、お経をあげ出した。それはルチーンでこなしてる感じの簡素なものだった。
それから彼女は、店からくすねて来たというウイスキーのボトルをバッグから出して、「呑もう!」と言った。僕は、「あなたの信じてる神様は、こういうことして怒らないの?」って聞いたら、黙り込んじゃった。
次の日曜日、彼女は僕のアパートに来て、部屋を掃除してくれた。お礼に近くで、ビールでもおごるよ、と蕎麦屋まで歩く道すがら、彼女は「日曜の昼間に歩けるなんて嬉しい」と言った。僕はなんとなく「僕は、この人と結婚するのだろうか」と思った。
しかし、マイラの禁止令が出て、僕は店に行かなくなったし、彼女からも何のアクションもなかったから関係は途絶えた。何年か経って、気になって、その店のあたりに行ってみたが、それっぽい店はいまだにあったが、店名も変わっているし、もうさすがにその子はいまいと思って、店には入らずに帰って来た。ただそれだけのこと。

BGM. 新かぐや姫「湘南 夏」


芦田愛菜への伝言~退行期うつ病

19/Ⅹ.(木)2023 くもり 50代の男性にわいせつ行為、62歳の男を逮捕 

退行期うつ病という言い方をしたものだ。中年から老人にさしかかる時点で発症するうつ病。区切りを「60才」にするか「65才」にするかで揉めてた議論もみてた。自分は「30才」代だったから、ひとごとというか、研究対象だった。

しかし、自分が「60才」になってみて感じた1番の衝撃体験は、「若い頃の思い出が改変される」のだ。僕は結構お気楽に生きて来たし幸せ者だったし母からも愛されて来たと思っていたがある朝起きたら「全然違うストーリー」になっていて、たとえば「母は兄の方を愛していた」などという実感と根拠がいっぱい頭に浮かんでくる。ある種、一晩にして革命である。死ぬかと思った。「60才」を馬鹿にしちゃいけない。危険がいっぱいだ。嘘だと思うなら生きてみるといい。

 

今日の記事はこれまでに書いたものの切り抜きで寄せ集め。

・11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄弟でお金を出し合い、プレゼントをした。おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけ僕は素早く、その指輪を抜き取った。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金<気持ち」である。僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

・母は薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息には、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。あれは何だったのか、いまだに判らない。

・小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。
僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。

・僕は子供の頃から小さいが背の高さなんてどうでもいいと思うのだが、他人に「タッちゃんは小さいからね」と言われると、母はよく、「サンショは小粒でピリリと辛い!」と怒っていた。写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。僕の方が、少し背が高く設計されているのが味噌。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。


・下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

・子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。
帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と現代そば事情を嘆いた。僕は、この親子はアベコベだな、と思った。

・小学校の頃、母の買い物の付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥ぎん』で釜飯を食べた。
その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、『鳥ぎん』は割とすぐつぶれた。

・子供の時、寿司の出前は高級な「寿司まさ」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司寅」の方が好きだった。
子供ごころに「寿司まさ」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司寅」に寄っていた、常連気分も手伝った。だから家で寿司の出前をとる時は「寿司まさ」で大きな桶を頼み、僕用に「寿司寅」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司まさ」の出前と「寿司寅」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司寅」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司寅』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は<なるほど>と思った。

・小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまったことがある。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、<このままじゃマズイな>と思ったものだ。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

・兄の進路か何かの話し合いがされていた。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者。しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはず。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしたが、話は終りません。いよいよ、どうにも我慢ならず親の気をひくため水銀計をガスコンロであぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノック。母は体温計を見て仰天。どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいでした。母は、それを父に見せました。すると、父は母に言いました。「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事はしなくなりました。

・僕はイジメを経験したことがない。もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、とか何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

・中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

・その担任が卒業生を家庭教師にと僕に振って来た。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しに、<俺も舐められたモンだぜ>とムカついたが、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木の異種格闘技路線で僕は猪木から目が離せなかった。毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任に文句をつけて、そいつをクビにした。パ・チンコなのにね(笑)

・中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆された。男子校だったから皆も、チョコなんかもらってなかったから。ま、嘘でもないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

・大学の入学式。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていた。まだ反抗期ですね。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいました。母は遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってました。あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。あれが正解だったのかも。

・兄の結婚式。僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻。結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、母はホットした顔をして、振り向いて笑っていました。

・僕は母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。母は、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったですね。

・父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。僕が医者になると、兄はアメリカに留学し、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。

・こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、<お前、意地でも喋るな!>と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出して、考えますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だね。

・晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。

・カワクリが法人化して、名称を「医療法人綾枝会」にしました。綾枝会の綾は、母の名前からとりました。母はここのクリニックをみることなく死んでしまいました。

 

芦田愛菜ちゃんに最近は注目してるのですが、日本郵便 2021年度 手紙 新コミュニケーション発表会にて、彼女は「母の存在があるから頑張ろうと…」と思うと母は「絶対的な味方」だと語っています。芦田愛菜ちゃんに誰かあったら伝えて欲しい。「60才になったら変わるぞ」と。

 

BGM. 近田春夫&ハルヲフォン「あの頃~ジョカへ」


今日は母の話

21/Ⅸ.(木)2023 小雨 最高の教師、涙のクランクアップ

 

中二から僕は東中野に住んでいたが、大学2年の時に父が胃癌で死んだので茅ケ崎の実家に戻った。大学の5年生になるとまるまる1年病院実習でそれは夜中まで病院にいる訳でいよいよ茅ケ崎から通うのが無理になり、こっちでひとり暮らしした時の話。

お化けが出た。川のそばの物件だからだと思った。母に相談したら、知り合いの有名な歌舞伎役者のつてで「お札」を貰ってきてくれ、それを部屋に飾ったらお化けが出なくなった。

その後、僕は無事に医者になり今がある訳だが、母は僕が勤務医であること(誰かに雇われてること)を嫌っていた。母の肝癌の予後が告知された時、「生きてるうちに安心させてやるか」と魔が差して開業を決意したのが誤りで、それを聞いて安心した母はすぐに死んだ。だから母はここを知らない。教訓。皆さん、親に長生きして欲しいなら心配かけといた方がいいですよ。

 

その時の「お札」がこないだどうした具合か出て来ました。捨てた記憶はないから有っても不思議じゃないのですが、3~40年見なかったものがいきなり出て来たから懐かしいやら驚くやら。神の見えざる手、的に言えば、今は除霊が必要との事か?と悪ノリしてサンリオで腹巻を購入したことは前に話しましたね。

ちゃんと真面目に腹巻に「お札」を入れて肌身離さず暮らしていたのですが、腹巻というのは構造上、油断するとスポンと中の物が落ちてしまうものでして、案の定、どっかに落としてしまい紛失してしまいました。

そしたら途端に具合が悪くなってしまい、心にポカンと穴が開いた気がしたのです。

母はとうに死んでるのですが、僕は墓参りもしないし実家にも寄らないので、心の中で母は実家でまだ生きてるような妄想の余地を残していたのです。

それが「お札」の消失で、「母の形見」がなくなって、時期外れに、母を亡くした喪失感が現実感として押し寄せてきたのです。不思議ですね。「外的な現実」と「心的な現実」ってこんなにも乖離してるものなのですね。我ながら呆れました。

 

そんなこともあり、YouTubeで「母」を題材とする歌を選んで聞いています。皆さんも良かったらどうぞ。

さだまさし(グレープ)「無縁坂」

遠藤ミチロウ(スターリン)「お母さんいい加減にあなたの顔は忘れました」

森進一の「おふくろさん」は、もはやロックです。

・三善英史は花街、円山町で育ったシングルマザーの子です。苦労を知ってるからひとにも優しいです。自分も候補者だった新人賞を森昌子が受賞した時、森昌子が泣いて歌えなくなった時に、やさしくエスコートして、代わりに歌ってあげる姿は小学生ながら感動しました。山口百恵もこれをみてデビューのきっかけにしたとか。この年には麻丘めぐみもデビューしています。

森昌子「せんせい」

三善英史「雨」

 

僕はかねがね、「自立」とは輸入された概念ではないか?と疑っています。なぜなら家屋の問題もあり、欧米は子供部屋にはおばけが出るなど小さい頃から独立した空間がありますが、日本は「川の字・文化」です。欧米ではいい年しても実家にいると「おかしな奴」と思われるそうですが、日本では「親孝行」だと思われます。地盤が違うのです。

それが急激なグローバル化で欧米化した日本は生活様式やライフスタイルやメンタリティーまでそっちに寄せたから色んなところで歪が出てる気がします。

とにかく「自立」すりゃいい、と思ってる人も多いですね。良し悪しは別として、「まず自立の定義を決めろ」と言いたいです。そのくらい一人暮らし=自立、と思ってる人が多く、親元から離れればいいから、男の所に転がり込む、という依存対象を変えてるだけって人も多いです。それが悪いと言ってるのではなく、事実を言ってるのです。

心理的な自立とは、心理的に親殺しをすることなら、たとえば僕などは60になってやっと出来たのだからそんなもので、若い人はまだまだ慌てることはないのでは?と思うのでした。

BGM. 桜田淳子「ひとり歩き」


心の護美箱(72)~特撮ヒーローを披露

2/Ⅸ.(土)2023 はれ 鵜久森(芦田愛菜)を失った九条(松岡茉優)が再び立ち上がる 、今夜「最高の教師第7話」

 

コロナの3年間を取り戻すつもりでしょうか、夏祭りが終ったと思ったら、大岡山北口商店街は、秋祭りです。

謎なヒーローもいます。オリジナルでしょうか?

カワクリの提灯はここにあります。見つけられますか?

正式名称はこんなお祭り。

 

さて最近のファッションをチェックしましょう。まずは、あのちゃんのピアス。「ゲロ」と「チュー」です。vomiting、と、kiss。

新しいTシャツ。これは「スキップとローファー」の主人公が劇中で着てます。

最近の好きな子ランキング1位の芦田愛菜。

これは「誰かのもしかしたらあるかも?」のお祝いに中野で買ったボード。煉獄さんはお芋が好きだそうです。何か口癖があるそうです。

スリッパも新調。

 

心の護美箱(71がいっぱいになったので、(72)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

古いアルバムから。思い出はモノクローム。

お洒落なポーズ。

おどけた子供。

なんだこれは?という外人のポーズ。

外で遊ぼう。

庭に怪獣をばらまく。1番手前でえばってるのはジャイアントロボです。最終回が泣けます。

綺麗に整理してもらって、カラー写真で。

これが初恋の人。カワクリでいう、「受付」の従業員の人。遊び相手をしてくれました。ヒロコちゃん。

ベルリン天使の詩、では空中ブランコの美女が出てからカラーになりますね。

同じころ、ウルトラセブンが街にやって来ました。

普段は部屋で引き籠って外の遊び相手は、ヒロコちゃんだけでした。

BGM. ジャイアントロボのテーマ


立ちどまるな ふりむくな

26/Ⅶ.(水)2023 はれ きのうの井上尚弥は強かったですね!

前回の記事で小1の文集を載せてサイコパスぶりをご披露した訳ですが、患者さんはあたたかく「もしセンセーが猟奇事件の犯人になっても私が味方をします」「良い先生だったと庇います」と言ってくれる人が多数で安心したのもつかの間、札幌すすきのの首切断殺人事件は犯人の父親が娘の片棒を担いでいたと逮捕。この父親が精神科医で地元では「温厚そうで人当たりが良かった」との評判。そうだった!こういう事件のいくつかは「まさかそんなことをする人には見えなかった」と言う物件が多いのは定説で、つまり、やはり、「事件を起こす前提で印象操作する作戦」は無意味ですね。

昔、エビスさんのマンガで「今や誰でも殺人犯になる可能性がある時代だ」として、「あらかじめ1年刑務所に入っておく」と、「罪を犯しても許されると言う保険があったら便利だな」という相変わらずサイコパスな作品があって、妙に心に残っています。

しかしロクなニュースがありませんね。終わらぬ戦争。プーチンは殺人イルカ部隊まで投入するらしい。東スポらしい記事ですが。

芸能人の不倫報道はもういい加減によせばいいのに。

唯一、大谷翔平の活躍だけが明るいニュースで、リハビリ中の長嶋さんも同じです。こないだ、たけしもTVタックルで「大谷が打たないとガッカリきちゃう。体に悪い」と言ってましたが、同感です。

そんな中、飛び込んで来た超飛び切り仰天ニュースがこれ。今日の記事はこれを紹介したばかりに書いたようなものです。

カーリングの藤沢五月がムキムキボディに。新聞紙の下の広告に「五月みどり熟女ヌード」の文字がサブリミナルに有難味のなさを押し付けてくる。モグモグしてる方が可愛いのにな。

 

今回は中学と大学の卒アルをみつけたのでそれを紹介しましょう。

中学はまともですね。ローマ字がヘボン式と非ヘボン式がごちゃ混ぜになってますが。

大学の卒業年次全体写真です。

どこにいるかわかりますか?右から4人目。一人だけはすに構えて、昭和歌謡グループ・内山田洋とクールファイブ、のコーラスを気取っています。

野球部

ヨット部

どちらも副主将でした。僕が不真面目な部活態度なので「責任を持たせよう」と幹部が仕組んだのですが、逆効果。「なんであいつがキャプテンで俺が副なんだよ」と気に食わず幽霊部員に。だからどっちも団体写真に乗っていません。

大学の卒アルには、「バストアップ写真と、ひとこと」が掲載できます。僕はシャレで文字通り、シャツにタオルを入れて胸をふくらませ=バストアップ写真とふざけています。隣の真面目な人とのコントラストが眩しいですね。直視出来ません。悲しくて。

皆さんならどっちの医者を選びますか?自爆。(泣)

BGM. 沢田研二「立ちどまるな ふりむくな」


夏の回想

15/Ⅶ.(土)2023 暑い 耳が聞こえづらい。昨日寝る前に「耳なし芳一」の絵をみたからか?

最近の僕のプロフィールから幼少期の茅ケ崎時代が抹消されたため僕は「江戸っ子」になっていますが、経歴詐称の証拠品が発掘された。

奥付によると1970年です。大阪万博の年ですね。

僕の作文が載ってました。小1夏休みの日記。

うさぎが午前中に死んで埋葬して、午後に、四谷怪談、化け猫、牡丹灯籠の怪談映画3本立てを見に行ってます。サイコパスですね🤣。

これ、もし僕が何か猟奇事件とか犯したら、この文集が週刊誌に載って、「犯人は小学生の頃から血も涙もなかった」、なんて報道されるのだ。そうなったら皆さん、かばって下さいね。「確かにサイコパスかもしれませんが、私(僕)には良い医者でした」と。って、捕まる事前提で話してるのはおかしいですね。

夏は怪談のシーズンなので、幽霊ヌードを紹介しましょう。

こういう特集の美術雑誌がありました。

足がありますね。幽霊に足がないって設定は、円山応挙、が作ったとか。妖怪には「足」だけのものもいます。べとべとさん。

僕の子供時代は、妖怪(ゲゲゲの鬼太郎・妖怪百物語)から怪獣(ゴジラ・ガメラ・ウルトラマン)そしてスポ根(巨人の星・タイガーマスク・あしたのジョー)へと発展し、その後、「天才バカボン」などのギャグマンガを経由して早熟な僕は1番カッコいいのは「お笑い」だと気付きます。志村けんが加入する前のドリフターズが人気でした。だから同級生が「仮面ライダー」をみる頃には僕はそういうのから「卒業」してて裏番組の「お笑い頭の体操」をみてました。月の家円鏡、が人気でした。それが僕の茅ケ崎時代でした。

合掌。

 

そんな僕にこんなものが配達されました。箱の中身は何だろな?クイズです。

開けてみましょう。

正解は、チェンソーマンの1/1ポチタ。完全受注生産。

足が動きポージング出来ます。

ここに飾りました。

きっさきに注意して下さい。

ポチタを武器にみたてましょう。

連休はさらに猛暑になるそうです。そう言えば「妖怪百物語」と同時上映してた「ガメラ対バイラス」は茅ケ崎が舞台でした。バイラス星人が子供を操る時に白い粉のついたドーナッツをくれたから、白い粉のついたドーナッツには用心していたものです。そんな僕も大人になって、いつのまにやら白いドーナッツも平気で食べれるようになってしまいました。

BGM. サザンオールスターズ「茅ケ崎に背を向けて」


心の護美箱(68)~目印

13/Ⅴ.(土)2023 雨 佳子さま、「みどりの感謝祭」式典にご臨席。

コロナが終わったと思ったら、せっかく忘れようとしてた地震が起きる。かと思うと、雷が落ちて東急線が止まった。大岡山の駅には入れない人が列をなし、サンドラッグまで並んでいたとか。コロナの初期にマスクを買うためにサンドラッグの前から大岡山の駅前まで行列が出来てたのを思い出す。まったく神は我々に何をしたいのか。神も仏もない世の中だ。生きてるうちに富士山の噴火を見てみたいものだ。うそ。でも、もし富士山が噴火したらどうなるのだろう?日本人のメンタリティーにすごい影響を与えると思う。戦争に負けようと津波が来ようと「富士山がある!」と思ってた人はいる気がする。だからとんでもないことになりそうだ。

 

と、さほど興味もないことを心配してみた。ところで皆さんは、民俗学とか興味がありますか?柳田國男とか折口伸夫とか。僕は10代の頃にものすごくハマって、中でも、神の使いは、他と区別するために、奇形である、という説が好きで。白蛇とかホワイトタイガーとか、確かに白子ですし、あと、ふた首の犬とか、怪獣と似ててワクワクしました。

でも、根底には、うちの母が乳がんで片方のおっぱいしかなかったことや、父が結核でびっこだったことへのご都合主義な説明がついた気がしたのです。「それが普通だ」と思ってたのに小学校に入ったら、「どうやら他の親は違うらしい」、と知って愕然としたものです。それへのアンサーとして。

 

そこから転じて僕は「選ばれし者」は、皆と違う印があるものだと思ってます。僕はあからさまな障害はないですが、社会不適合者で何も出来ないです。自転車にも乗れないし、泳げないし、キュウリは食べれないし、ウソが上手だし。

 

心の護美箱(67がいっぱいになったので、(68)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

「ドグラマグラ」で有名な夢野久作のデビュー作は「白髪小僧」です。白髪小僧は、馬鹿のように描かれてますが、神様です。あれ?逆かな。神様のように描かれてるけど、馬鹿です、かな?

爆笑問題の事務所の名前「タイタン」の由来である「タイタンの妖女」の作者のカート・ボネガット・ジュニアの「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」に出てくる大富豪は、善人で慈善事業をしてますが、浮浪者でアル中で、馬鹿です。

太宰治の「人間失格」は意外とちゃんと覚えてない人が多いですね。あの話は面白いです。まず、筆者が3枚の写真を説明して「その子がうす気味悪い」と言います。そしてその子の話になりますが、ま、太宰自身の話になりますが、弱虫でダメな男ですぐ逃げ出してクスリに溺れて女にだらしなく、心中に誘い、女だけ死んで自分は生き残り、家族から見離され、田舎の一軒家に幽閉され60歳過ぎの婆やを身の回りの世話にあてがわれるのですが、毎晩、その婆やに犯される、という地獄図絵です。あとがきで、筆者が「その子」を知ってるマダムを訪れ写真をみせると安否はわからないと言いつつも、「まるで神様みたいないい子でした」と語るオチです。

 

なんか意外と神様って役立たずなのかもしれないな、と、そう言えばキヨシも「ロックンロールショー」の中で「役立たずの神様、ハードロックが大好き」って歌ってたのを思い出しました。

BGM. RCサクセション「ロックンロールショー」


心の護美箱(67)~反復強迫を笑え

29/Ⅲ.(水)2023 くもり、のち雨 オードリー春日、ペンギンの池に落ちるも謝罪なし。

 

 

最近やたらと昔の頃を思い出す。WBCをやってたせいか、小学校の時に少しだけ入ってた少年野球チームのこととか。今はお母さんたちも総出で当番があるようで大変そうだが、僕らの頃は親が楽をしたいから休みの日に子供を早朝野球に追い出して家でくつろいでいた。僕が思い出したのは、小4の時の草野球。バッターボックスに入った時、バットでホームベースをスイカ割のようにバン!と叩いたら、ホームベースが固定されてないから、その勢いでホームベースがふわふわと飛んで行ってしまった。審判は「チッ。余計なまねをして」と嫌味を言った。僕はその時にどんな反応をしたのか覚えてないが、すぐにその野球チームをやめた。その光景のことはよく覚えていて、不思議とその後も似たようなことが人生では起きるのである。僕は相変わらず、ホームベースをバットでスイカ割するのだが、その都度、同じような現象が起き、たいてい人は同じような反応をするのである。僕にとってはそれは「想定内」だから、待ってましたとばかり、アンパイヤを睨みつけたり、「なんだ?」って口答えしたり、もう一度同じことしたり、臨戦態勢なのである。これは空想なのだが、原体験の小4の時に何も言い返せず、家で母に話したのかもしれない。母は馬鹿だから、きっと、「それは達二は悪くない。そんなチームはこちらから願い下げだ。やめておしまい。その前に審判に文句を言いましょう」などと言って、その頃はそんな表現はなかったが、モンスターペアレントのように文句を言って、僕も子供だからそれを真に受けて「おれは悪くない。今度、似たようなことがあったら、母のように言い負かしてやる」とリベンジを心に誓ったのかもしれない。だって小さい子が一人で自己正当化なんて出来る訳ないから。しかしスポーツマンシップもフェアプレー精神もあったものではない母子である。

僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。僕の家はその頃、東中野のマンションに仮住まい、東中野の駅前にもゲームセンターが出来た。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られた。「順番変われ」と脅されたのだ。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、おれの形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

 

心の護美箱(66)がいっぱいになったので、(67)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

格闘家というよりユーチューバーや実業家になりつつある朝倉兄弟の兄・朝倉未来が数年前、「ボッタくりバーに潜入」という動画をYouTubeに出した。これは後にたくさんの後追いモノマネの企画が出されるが、本家・朝倉未来の内容を超えるものはない。朝倉未来は昔、ボッタくりバーに引っかかって当時は社会勉強だと思ってお金を払ったが今回は戦うと企画にチャレンジした。このように我々の人生は結局、相手や場所やシチュエーションを変えるだけで同じテーマの問題にぶち当たる。一つの出来事を「もう過ぎたこと」として気にしないのも生き方だが、江戸の仇を大阪で討つ、つもりで、今度同じことがあったらもっとうまくやるぞと思うことは大切な処世術になると思う。

男の子は(女の子も)戦いの連続だ。戦いに勝つコツはいくつかあるが、WBC予選で大谷翔平が散々ファンに向けて送ったメッセージは「もっと応援を!」だった。誰かに応援されると力が湧く。逆に一人じゃ何も出来ない。赤塚不二夫のお母さんは売れない頃の赤塚不二夫にとにかく「お前は天才なんだから。お前は天才なんだから」と言って励まして甘やかしたと聞く。それが「天才バカボン」を生み、「タモリ」を生む。そんな無茶苦茶な親であっても良いと思う。世間体など考えなくて良い。どうせコロコロかわる価値観だ。親が味方してやらなくて、どうして子供が自分を応援してやれようか。自己肯定感や自尊心とか承認欲求などの流行の言葉は、そこから育まれると思う。どうせこんな世の中だ。誰の目を気にする?カッコつけてもしょうがないではないか。

 

最近、偶然にも「子供の心」関係の本を3冊買った。僕は飽きっぽいので3冊くらいの本を併行して読むのだ。下が、その3冊。

 

BGM. 朝倉未来チャンネル・ボッタくりバーに潜入の回


旧友再会フォーエヴァーヤング

21/Ⅱ.(火)2023 はれ まさかの成田先生大炎上。「老人集団切腹」発言に波紋、なんで今更??

 

ニッポン放送では今、オールナイトニッポンの55周年記念で特番づくし。まだラジコで聞けると思いますが、中でも「小泉今日子のオールナイトニッポン」が面白かったです。キョンキョンのアイドルオタクぶりが炸裂。電話で視聴者のクリス松村ならぬデブリ松村(松村邦洋)とアイドル談義をしますが、松村が言ったあまり有名でないアイドルの曲をそらでフルコーラス歌えました。松村もビックリ。番組でかける80年代アイドルの曲のチョイスがシブイです。三田寛子の「夏の雫」とか、高橋美枝の「ひとりぽっちは嫌い」など。名曲ですがメガヒットはしていません。

そして次いでキョンキョンの口から出てきた仲良しは芳本美代子で妹みたいに可愛がってたそうでここで曲紹介、普通みっちょんなら「白いバスケットシューズ」か「プライベートレッスン」で来るはずが、サザンの曲をカバーした「海」をチョイス。これにはビックリ。まさかみっちょんがサザンをやってるとは知らなかった。結構、うまかったし。下が、みっちょん。

 

そんなラジオが熱い今ですが、今日こんなものが届きました。

通販です。さて中身は何だと思いますか?

正解は、パワーちゃんのTシャツです。

早速クリニックに吊るして飾ってもらいました。

背面はこうなっています。

 

そんな僕は土曜日に医局の仲間(先輩や後輩)と飲みました。久しぶりです。昔、うつ病の大家の先生から習ったのは「うつ病の回復期に避けるべきなのは、冠婚葬祭・同窓会・昔の友人との集まり」だそうで「共通点は、頼まれもしないのに昔の元気だった頃の自分を演じてしまう」からで二日間寝込むそうです。僕は幸い大丈夫でした。久しぶりにあった友人の一人は僕の青春時代に一緒に遊んでたやつで、彼は「吉田拓郎」が好きでした。今回のオールナイトニッポンも拓郎は担当してますが、いまいち評判がよくないですが、もう引退した人ですから、出てくれただけで感謝です。

 

そういう訳で今週のレコードは「吉田拓郎」です。今回は絞り切れず、8枚になりました。下が、先週の7枚。

 

吉田拓郎特集です。まずはこれ。

右は「広島フォーク村」のレコードで長ったらしいタイトルは「イメージの詩」の一節です。左の「唄の市」では拓郎が一曲だけ「ハイライト」という歌を歌っています。ハイライト、は長らくこのLPでしか聞けませんでしたが、僕がライブに行った時、拓郎が「ハイライト」を歌ってくれ歌い終わってからボソッと「今はマイルドセブンを吸っています」と言ったから、僕は翌日から自分の好みのタバコの銘柄を「ハイライト」から「マイルドセブン」に代えました。

続いてエレックレコード時代の2枚。

青春の詩、は日活映画「女子学園ヤバい卒業」の挿入歌として本編とは関係なく拓郎が登場して歌っているから面白いですよ。エレキバージョンなのでこのLPに収録されてるのではなくシングルバージョンですね。左の「ともだち」は初期のフォークっぽく拓郎のおしゃべりが面白いです。一方で硬派の「イメージの詩」の盛り上がりが異常です。このLPでは六文銭の及川恒平の「面影橋」もカバーしてますが、これがもう拓郎の歌になっちゃってるのがすごいです。録音では「今度は岡林にも挑戦してみようかと思っています」という挑発的な宣言も聞かれ背筋がぞくっとする迫力でした。もう勝負はついてましたが。

これもエレック時代の2枚。

「人間なんて」はライブの終わりに延々と何十分もやる定番ですがLPでは生ギターつで静かに「人間なんてララ~ラ、ラララ~ラ」と歌う短いバージョンです。「結婚しようよ」も実はここに収録されてて、シングルで大ヒットしたのはCBSソニーに移ってからですから、引っかけ問題になりますね。右の「たくろうオンステージ2」はCD化されてません。これは拓郎に無許可でエレックがレコード発売したからだそうで、後にフォーライフからエレック時代のアルバムが再発された時もこれだけは該当しませんでした。僕らの世代で唯一正規のルートで買えたのは、ミュージックカセットだけで僕はそれを聴いてました。後に所ジョージが自分の曲を全部あげるからこの曲と交換してとおねだりして拓郎から譲り受けた「恋の歌」も最初に音源されたのはここです。

CBSソニーから2枚を。

明石家さんまが「踊るさんま御殿」で「せんこ~う花火が欲しいんです」って自分の顔のついた棒をギターに見立てて「せんこう花火」を歌ってたことがあってビックリしました。ひな壇にいる誰もそれを拓郎の曲だとわかってる様子がなく誰も突っ込まなかったから。さんまのすごさってこういう時に、一人で強引に進行できちゃうところで、「すごいなぁ」と感心したのを覚えてます。「せんこう花火」は左の「元気です」のA面の2曲目です。ちなみに「元気です」という曲はここには入っていません。

右の「人生を語らず」はレコード大賞曲(森進一歌唱)の「襟裳岬」も入ってるなど話題性もメッセージ性も強い、もはやロック?てな出来栄えの名盤なのですが、A面1曲目の「ペニーレインでバーボンを」が音源化されません。一度、「人生を語らず-1」という復刻版が出ましたが、その-1が「ペニーレイン」です。この曲に差別用語「つんぼ桟敷」が使われてるからと言われてますが、ジャックスの「からっぽの世界」が許されてるのに府に落ちません。

そもそも「ペニーレイン」とは原宿のキディランドの手前の道を右に折れたところにあるバーでした。僕らは高校生の頃、よくペニーレインに行きました。店もよく入れてくれましたね。時代ですね(笑)、ペニーレインは自分が呑むために拓郎が作った店で、ビートルズの曲から命名しました。僕はそこの店のトレーナーを持っていましたが、さすがにもう捨ててしまいました。

3-4年前ですが、急にペニーレインのトレーナーが欲しくなりウロウロしてたら、もうとっくにペニーレインはつぶれてます。でもひたすら原宿を歩いていたら「ペニーレイン」というバーを違う場所にみつけ、開店準備中でしたが入って、「トレーナーないですか?」と聞いたらキョトンとされて。拓郎のペニーレインの説明をしましたが、そのバイト君はやはりキョトンだったから、そういう店の営利につながるようではと思い発売を許可しないのでは?と邪推したものです。それからしばらくしてコロナだから、その店がどうなってるのかも僕はしりません。

BGM. 山本山田「旧友再会フォーエバーヤング」


親との関係が楽になる断捨離

26/Ⅰ.(木)2023 寒い 三浦瑠璃、「めざまし8」お休み。「朝生」はどうする?

こないだの記事で紹介した「うる星やつら」の復刻コミックスを倉庫にしまう。ついでに掃除もする。開業当時に流していたクラッシックやジャズやアニソンのCDを「宝箱」に出しました。お好きにどうぞ。

倉庫からみつけた「けいおん」の紙製のCD収納箱。

ここに入れます。

何を入れようか?丁度、志の輔のVHSがあります。

すると、あらまぁ、ピッタリ。

最近は寒くて、着ぶくれラッシュのように皆さん荷物が多いから、ソファの位置を移動させ、荷物を置けるようにしました。利用して下さい。

後部座席に「デデデデ」の二人がウサギの格好をして並んでいるから、まるで、スペースマウンテンのようにみえませんか?

断捨離を敢行しましたが、今回のポイントは、僕が居なくなった時に、残されたものが困るものを処分する、です。その筆頭が母の直筆の原稿。

これは遺歌集として出したものです。

そして父のカラオケ本。父は長いこと孤独な生活をしてて、こんな本を買って歌ってたのかと思うと切なくなり、とっておいたもの。だって、音痴なんですよ。切ないでしょう?

断捨離のいいところは思い出は残しながら、未練のようなものを断ち切れることでしょうか。呪縛から逃れられるような解放感です。

BGM. RCサクセション「ぼくはぼくの為に」