「くどう君」と「干しぶどう」の思い出 2024

今月はお誕生日月。この記事も「心のゴミ箱」兼用です。

11/Ⅶ.(木)2024 雨 2024サンリオキャラクター大賞いちご新聞ランキング(いちご新聞に届いた票だけを集計した)結果1位は「ハローキティ」。シナモンは4位。

昨日22時からAbemaTVの生放送で石丸伸二と成田先生が酒を呑みながら雑談してる番組が面白くてついつい夜更かしした。今朝、テレ朝の「グッドモーニング」で元アイドルの局アナがインタビューしてるコーナーでは冗談言ったりして。選挙後のキャラだと延命は難しいと思ってたら見事なキャラ変。「石丸構文」なるものまで出来て「小泉進次郎」に並ぶ人気者に。社会学者?古市氏とのやり合いをネタにされ「サブウェイで注文出来るの?」とネットで騒がれてるが、さすがネットを駆使した選挙戦術の石丸氏だけあって、昨日のリハック(アベマの番組)でも、「(酒の)つまみ買って来ますか?」に「サブウェイ行こうかな?僕よく行くんですよ」と自らネタにする柔軟性。それよりやはり問題は成田先生で一人でヨッパライ「乱入した」N国党の立花孝志と石丸氏のバチバチしたやりとりを茶化し、「紳士的ですね」「恫喝しないんですね」「常識人なんですね」「国民の皆さん、安心して下さい。常識人でも頑張れば、サイコパスのふりが出来ると分かりました」と普段の二人の姿勢と「今日の」態度の差をあざ笑った。面白いものをみせてもらった。

さて、突然ですが僕は「干しぶどう」が嫌いです。それには深い訳があります。
その理由は小学校の低学年の頃にさかのぼります。

「くどう君」が、お父さんの転勤で「ロンドン」に引っ越すことになった。僕の田舎は茅ヶ崎で海外に転校する子は珍しかった。「くどう君」と僕は仲が良くて、引越しが決まってから、僕は「くどう君」の家に遊びに行った。「くどう君」の両親は不在でおばあちゃんが家にいた。
僕と「くどう君」が遊んでいると、おばあちゃんが麦茶とおやつに「干しぶどう」を差し入れてくれた。「干しぶどう」は、白く丸い皿に並べてあった。時は、真夏。「くどう君」のおばあちゃんは、昭和40年代当時のおばあちゃんとして平均的だったと思うが、白いノースリーブの下着のような服を着ていて、かがんで皿を置く時に胸元から谷間が見えた。「くどう君」のおばあちゃんはノー・ブラだったから、垂れ下がった乳房とその先に萎んだ乳首が見えた。僕は、その垣間見えてしまった「くどう君」のおばあちゃんの乳頭と、皿の上の「干しぶどう」が同一の物に見えた。それで、「食べろ、食べろ」というババァに吐き気がして、それ以来、「干しぶどう」を見ると老婆の乳首に見えてしまい菓子パンに「干しぶどう」が乗っていたら食べれない。ピラフに「干しぶどう」が入っていたら顔をそむけた。
その頃の僕は、過敏になっていて、「干しぶどう」だけをよけて食べるのも無理だった。接触してるということは、汚染されてることを意味したから。それだけで、全部アウト!ちょっと高級なレストランに連れて行かれ、気の効いた料理に「干しぶどう」が入っていたら僕はそれに手をつけなかった。
僕はそういう子だったので、親は別に理由も聞かないで放っておいてくれたので、今思えば感謝してる。さすがに僕も大人になって、今では、何秒以内に「干しぶどう」をよけたらセーフ、という独自のルールを作り、おかげで食べれる料理の幅も広がった。
話を「くどう君」に戻そう。「くどう君」のお別れの会。女子たちは皆、泣いていて、中には、「くどう君、行かないで」と無責任なことを言う奴もいた。ま、子供だから仕方ないか。でも、担任は大人なんだから、しっかりして欲しい。クラスの空気は、「くどう君、行かないで」一色になりかけてたのに、あの先生は何もしなかった。そして、目で僕に「この場をなんとかしろ」みたいな合図を寄こした。僕は、<ここはお前の仕事だろ>と視線で返した。
でも、流れからしょうがない。僕は皆に向かって、<そんなこと言ったって、親の都合だからしょうがないだろ>と言った。一瞬で、「そりゃそうだ」という雰囲気になった。そして、僕は、<ロンドンには、ドンドン行け!>と「くどう君」の背中を叩いた。「くどう君」は、2・3歩、よろけてから、振り返った顔は涙まみれで、「タッちゃんは、大人びてるなぁ」と笑った。それが、「くどう君」の最後の笑顔だった。…って、「くどう君」、死んでないし!
真夏の「くどう君」と「干しぶどう」の思い出でした。

BGM. 石丸伸二氏とは?元乃木坂46とも「真剣勝負」【グッド!モーニング】(2024年7月11日)


KWAIDAN 2024

今月はお誕生日月なので過去のアーカイブスを。この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

9/Ⅶ.(火)2024 はれ 石丸伸二氏「腑抜けたインタビューさせるんじゃないよ」 日テレ古市憲寿氏とかみ合わず

真夏なので、定番の怖い話をお送りしようと思います。今回の記事のタイトルは、高校の時の英語の授業「ラフカディオ・ハーンのKWAIDAN」の表記から拝借。

近頃はAbemaTVの山本裕典のホストに挑戦企画から、軍神という山本裕典のホストの師のYouTubeを見入ってる毎日ですが、以前に歌舞伎町に連れて行かれホストとこんな会話をしたことがあります。

「こう見えて自分は子供の頃、体が弱くかかりつけの小児科医がとても良い先生で自分も将来はその先生のように小児科の先生になりたかった。しかし、自分が高2の時、その医者が児童ポルノの罪でつかまった。なんだ、あんなに良い先生だと思っていたのが、実はそういう目で子供を見てたのかと裏切られたと思って勉強をやめてしまった」、それが医者をめざした理由と辞めた理由のすべてだった。
医学部は6年間。その時間は、単に膨大な知識を吸収するためだけにかかる時間なだけではない。その間に気持ちが折れずにモチベーションを維持出来るかどうかが問われているのだと思う。そうやって、患者と向き合う覚悟が問われ、責任感が育まれるのだ。我々だって何度も、理想と現実のギャップをつきつけられ、ぐらつくことに耐えて、生き残った。サバイバルした。少なくとも、「尊敬する先生がロリコンだったから幻滅して、夢を放棄」なんて、責任転嫁な言い訳は通用しない。
ところが、こっちの世界(どっちだ?)では、通じちゃうみたいで逆に、有効でさえあるみたいなのだ。「その医者、サイテー」とか、「可哀想~、被害者だね~」なんて同情票が期待できる。とほほ、な話である。

医師国家試験のテスト範囲は膨大である。その全部を完璧にこなすのはなかなか難しく、また全部が出題される訳でもなくどこが出るかわからない。そこで、傾向と対策が必要になり情報戦が重要になる。僕らの頃の情報戦の主軸は、「~が出るらしい」という風の噂。それを聞くと、そこを集中的に取り組む。また別の噂を聞きつけると、そこを見直す。そんなことをしていた。
実際、情報内容よりも、そういうものを自分だけが知らない不安がプレッシャーを呼ぶから心理的効果の方が大だったのかもしれない。

クラスの頭の良い子が、学校にかけ合い、6年生のために皆で勉強をし情報を共有するためのスペースを確保してくれた。これは、大変助かる。0時とか1時まで解放してくれるのだが、その時間まで学校に残ると僕は家に帰れなくなってしまう。僕は、当時、へんぴな所に住んでいたので、交通手段がなくなってしまう。
大学6年にもなると、結構マイカーを持ってる人がいて乗り合わせたりして帰っていたが、僕は車を持ってなかったし他の友人に送ってもらうのは遠回りになるのでお願い出来ない。それも毎日毎日のことだから、とてもじゃないが頼めない。困っていると、これまで6年間、ひとことも喋ったこともない男が、「川原さん、僕、帰り送って行きましょうか?家は○×ですよね?うちもすぐですから」と言ってくれた。本当に?いいの?。「川原さんの所、帰り道なんでいつも通るんですよ。1度、見かけたこともありますよ」と言ってくれた。悪いなぁ。じゃ、お言葉に甘えて。ところで、君、誰?。すると彼は真面目な顔をして、「ナカクラです」と答えた。ナカクラ君、と呼ぶことにした。
ナカクラ君の車は紺色の丸味を帯びた地味な日本製の車だった。学校から僕の家までの間、車中で今日勉強した箇所を話し合った。ナカクラ君がどの位頭がいいのか僕は知らないが、きっと僕より成績はいいのだろう。「そこはこうだと思いますよ」「それと関連して、コレコレ、というのも覚えておくといいですよ」などと言ってくれたから。約束通り、国家試験が終わるまで、毎日、ナカクラ君は僕を家まで送り届けてくれた。国家試験の当日、僕の手応えはなかなか良かった。
ナカクラ君はどうかな?と少し気にしたが、広い会場だ、誰がどこにいるかなんてわからなかった。そして、国家試験の発表。テストは水物だから、受かる人もいれば落ちる人もいる。合格発表者の表にナカクラ君の名前はなかった。他のクラスの子に「ナカクラ君、駄目だったの?」と聞くと、「ナカクラ?誰?」と言われた。えっ?。…合格欄だけではない。卒業名簿にも「ナカクラ君」の名はなかった。
今でも、不思議に思う。ナカクラ君は、いなかった?。ただ一つ、はっきり言えるのは、もしナカクラ君がいなければ今の僕はいない、っていうことだ。

BGM. 誰でも使える!軍神こと1億円ホストのタメになるトークアドバイス集!


川原暗黒時代~中学生はつらいよ

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

3/Ⅶ.(水)2024 はれ 東京都知事選候補者、内野愛里の政見放送にびっくり

僕のルーツは湘南ボーイ・茅ケ崎生まれ。茅ケ崎は小6までいて(大学時代も父の死後帰る)それはまぁ楽しく過ごさせてもらっていた。小学校卒業が昭和49年で長嶋が引退した年。つまり茅ケ崎での少年時代は、巨人が「V9」し、大鵬が貴ノ花に負けて引退し、輪島vs北の湖、若三杉・麒麟児らの「花の二八組」の大相撲ブーム、アイドルは天地真理・新御三家・フィンガー5、お笑いはドリㇷ・コント55号に夢中になり、テレビは巨人の星・あしたのジョー・タイガーマスク・天才バカボン・ハレンチ学園、マンガはがきデカ、ドカベン、永井豪などなど、僕ら子供のカルチャーが時代を引っ張った。

僕は受験をして東京の中学へ。兄が同じ学校に行ってたから母と3人で東京のマンションに二重生活(土日は茅ケ崎に戻る)。中1は五反田、中2~東中野に住んだ。僕の中1は昭和50年。長嶋が引退したのが昭和49年で僕らの卒業の年。「僕は今年〇〇小学校を卒業しますが〇〇小学校は永久に不滅です」とおそらく日本中で卒業文集に書かれた唯一の学年でしょう。中1に上がるとすぐに国鉄がスト。それを暗喩した「およげたいやきくん」が流行り、たい焼きが売れて、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」のヒットで里心がつき小学校のクラスメートの女子に心が動いた。キャロルやダウンタウンブギウギバンドが流行ったから「非不良」の少年もオシャレでポマードを買ってリーゼントにした。僕もしてた。バルカンという整髪剤を使っていた。

中2の2学期、夏風邪をひいて、席替えのタイミングでしばらく学校を休んだ。久しぶりに登校したらもうグループが出来ていてどこにも所属出来なかった。いじめられたり無視されたりはなかたっが、話せる子がいず友達は出来なかった。おまけに中二病の年齢だから、自分から迎合して友達にしてもらおうなんて努力もしないし、「みんなバカだぜ」とか「金魚の中に鯉が一匹泳いでいる気分だ」とやせ我慢した。

運の悪いことにサブカルチャーも商業主義に走り共通の話題に乗れずプロレスも猪木が格闘技路線に入りビミョーだった。アメリカナイズされたカウンターカルチャーが表層上滑りなファッショナブルで好きな服を着る楽しみも減り、「UCLA」なんてプリントされた意味の分からないトレーナーを並んで買った。学校は不登校という選択肢もなかったから毎日学校に行って誰とも喋らず帰って来ることもあった。部活はブラバンでホルンを吹いてたから先輩が少し気をかけてくれて休み時間にゴムボールを投げプラスティックのバットで打つ野球に誘ってくれて救われたが本当につまらない時代だった。1975-1977年くらいで、お笑いもドリㇷが衰えてタモリやたけしはまだ登場しない時代で、伊東四朗と小松政夫が電線音頭をテレビでやってラジオで鶴光とせんだみつおを聞いていた。僕はリアルタイムの音楽より過去のものを掘り返しビートルズやよしだたくろうを買い漁り、漫画はつげ義春や手塚治虫や水木しげるに夢中になりちょうど中野ブロードウェイにそういうのを扱う古本屋があってそこに通った。小さな店だからそこの店主と仲良くなり色々教えてもらった。その店の名が「まんだらけ」。まだ今みたいに大きくなる前の。

僕には友達がいなかった。友達がいないというのは、さびしい奴と憐れに思われたり、親は心配するだろうし、教師はしゃしゃり出そうだから、なるべく顕在化しないように気をつけた。

万有引力とは引き合う孤独の力だ、と寺山修司は言っていたが、僕と同じように友達のいない男と万有引力のように引かれあってつるむようになった。そいつはガタイがデカく乱暴者でリアル・ジャイアンみたいな奴で加減を知らないから、皆から恐れられ敬遠されていた。

どういうきっかけでそうなったのかサッパリ覚えていないのだが、僕らは学校が終ると彼の家まで遊びに行った。彼の家の近くには神田川が流れていて、彼は当時の流行の最先端のスケートボードを持っていた。僕らはスケートボードに最適な坂まで通い、一人が坂の下で見張りをし、もう一人が坂の上からすべった。もし車や自転車が来たら合図を送り、衝突しないように、途中で降りれるためである。坂の下には神田川。僕らは何度もスケートボードを神田川に落としては、長い棒で突っついて拾い上げ、またすべっては落としてを繰り返した。何日も何日もひたすら同じことをやった。

そのうち、僕とジャイアンが仲良くなったことが学校で知れ渡り、僕の学校でのカーストは上がった。用心棒がついたから。

学内で学年無差別の柔道大会があり、ジャイアンは柔道部でもないし、中学生のクセに、破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、決勝戦まで行った。決勝の相手は高校柔道部のキャプテンで最上級生の男だった。体格はジャイアンがまさったが、キャプテンにもメンツはある。試合は力と意地の攻防で、結局、足技か何かで、我・ジャイアンがよろけてポイントをとられ、逃げ切られ、準優勝だった。

表彰式。優勝者は圧倒的な声援を受けた。その半分は、よくぞ生意気な怪物を退治した、という判官贔屓な賞賛だった。準優勝者も表彰されたが、それはアウェーのような大ブーイングだった。僕は一瞬、気圧されしたが、覚悟をきめて、拍手を送り、「いいぞー、よくやったぞー、惜しかったー」と声をかけた。

周りの上級生は、「なんだ、あのチビ」「誰だあいつ?」といぶかしい顔をしてこっちをにらみ、クラスメートは空気を読んで、「おいやめとけよ」、と制止する者もいたが、僕はまるでシカト。拍手を送った。
「ともだち」は、僕の方を振り返って、はにかんで笑った。

そんな中学生時代でした。

BGM. 阿部敏郎「あせるぜ」


大岡山アイドルフェスティバル~ブリキの看板

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27/Ⅵ.(木)2024 はれ 大谷翔平、キング独走25号で4連勝貢献、3冠王も射程圏3打点差

今回は「大岡山アイドルフェスティバル」略して「OIF」を開催します。最近は昭和風のブリキの看板に昔のアイドルのピンナップを印刷したものをよく目にします。クリニックの入り口に飾ってある(放置?)ので今回はそれをドドドンとご紹介しましよう。

昔のアイドルと言えばバックで「スクールメイツ」なるダンサーの踊りが付き物でしたから、今回はチアガールで華を添え、ブリキの看板と僕の個人的な思い出を語ろうという趣旨です。マニアックな回ですが、写真が多いので見やすいです。おつきあい願えれば。それでは行きましょう。

まずはエントリー№「1」三田寛子。応援のチアガールは、原型。

 

僕は三田寛子のことはデビュー曲から知っていて、CBSソニーから出たイメージ・ビデオ「映・像・少・女」(β)も持っています。3曲目の「駈けてきた処女(おとめ)」のクライマックスは、果物を並べたテーブルに、三田寛子がはんなりとうつぶせてて、視線だけはしっかりこちらを見てて、曲調が変わる瞬間に片手を払いのけるポーズで果物を一つ残らず、テーブルから落すシーンがインパクトがありました。さすが、井上陽水、という感じの名曲です。
三田寛子は「花の82年組」だから、頭角を現すのはちょっときついかな、と思っていました。
そんな彼女にとってのターニング・ポイントは、プロポーズ大作戦の正月特番で、フィーリングカップル5vs5、に出たことだと思います。美人歌手5人組と素人の大学生5人組の公開お見合いで、昔は松田聖子とかも出てました。
1枠がリーダー的に可愛い子(たとえば聖子)で2~4と好みを取り揃え、5枠で落す。主に、研ナオコとか和田アキ子がその位置にいました。
83年の正月、1枠は早見優、2枠は中森明菜、三田寛子は3枠で出場、4枠が堀ちえみ、5枠は中原理恵でした。中原理恵はもう欽ドンで新境地を定着させていたから、この時点での5枠は妥当。
番組的には、早見優で「かわいい~」を掴み、中森明菜、三田寛子、堀ちえみが加速させ、中原理恵で落す鉄板の布陣だった。…はずだ。
実は、この放送のビデオを僕はまだ持っているのですが、番組の流れをことごとく、三田寛子が止めるのである。
お正月だから艶やかな晴れ着を着て、おっとりした京都弁で男性陣からの質問に答えるのだが、<デートに誘われたらどうする?(あるいは、プロポーズされたら何と言う?)>に対して、「いや~ん」とか言って、照れて、振袖で顔を隠して答えない。
司会者は、とにかく中原理恵で落したいから、<ちゃんと答えて>とせっつく。
すると、三田寛子は、「じゃ~、お月さんが来たー、って言って空を指差して、その隙に逃げます」と答える。
終始、こんな感じで、中原理恵は完封されてしまった。
ウブというのか、まだ世間が「天然」という共通語を持たない時代だった。
翌週くらいに、三田寛子は「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングに呼ばれ、そこでもスパーク!
その翌月くらいから、月曜レギュラーになって「寛子のお菓子大好き」というコーナーを結構長くやっていた。僕は学校があったから、毎週、録画して見ていた。このコーナーは人気があって、同じタイトルのお菓子のレシピ本も発売された。僕も買った。まだ持ってる。

そんな彼女が今ピンチで、なんかしみじみとしている。僕は三田寛子のホップ・ステップ・ジャンプの瞬間の空気と同時代を生きてきたとも言えるから。

 

エントリー№「2」原田知世。応援は、チアガール川原Ver.1。

 

昔、12チャンネルの朝に、「おはようスタジオ」という新人アイドルの出る番組があって、そこにゲスト出演する新人アイドルは新曲情報などを「たぬきインタビュー」というコーナーで紹介してもらうのですが、「たぬきインタビュー」とは文字通り、質問の答えから「た」を抜いて答えねばならず、失敗して、「た」と言ってしまうと顔にタヌキの絵のシールを貼られて行くという罰ゲームが見所でした。
皆、最初こそ警戒するのですが、インタビューが進むに連れ、ついつい1つ2つ「た」と言ってしまい、そこが愛嬌なのですが、僕が今尚、忘れられないのは原田知世で、原田知世はショッパナから、「た」の字を連発して、インタビュー半ばにして、タヌキシールで顔が見えなくなっていました。途中からチャンネルをつけたら誰だか判らないぞ。僕はその映像もβビデオで持ってる。
原田知世を有名にしたのは映画「時をかける少女」ですが、実はその前にTVで「セーラー服と機関銃」や「ねらわれた学園」を主演していました。

この時代は、原田知世でさえ水着姿を披露してたのですね。

 

エントリー№「3」薬師丸ひろ子。応援は、チアガール川原Ver.2。

 

「セーラー服と機関銃」や「ねらわれた学園」と言えば、本家は映画版の薬師丸ひろ子ですね。ちょっと話はそれますが、小学校の頃、少年野球チームに入った僕は背番号を何番にしたいか?、と聞かれ、「666」と「ヨハネの黙示録」の数字を希望に出したら、「3桁は駄目だ!」、と却下された思い出があります。
ところが、薬師丸ひろ子は映画「探偵物語」の公開記念の野球大会に登場した時、背番号「8940」をつけていました。
「8940」はヤクシマルの語呂合せですが、僕はそれをTVで観た時、思わず、「4桁、ありかよ!」とツッコミを入れたものです。
その野球大会の映像も、僕のβビデオのコレクションにあります。

 

エントリー№「4」山口百恵。応援は、チアガール川原Ver.3。

 

中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、絶望的な気分で毎日を送っていた。きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。その頃、僕の生活を支えたのは、一枚のアイドルのポスターだった。そのアイドルとは、山口百恵だ。
山口百恵はシングル盤では、「秋桜」を歌ってる頃で、もうアイドルというより賞レースの本命になる王道の歌手で、「横須賀ストーリー」以来の本格派ポップス路線から、「百恵神話」へと移行してゆく途上だった。僕は、「中3トリオ」の3番手の頃の山口百恵が好きで、その後の売れ線路線にはあまり好感を抱いていない。

それでも、僕を支えてくれたその時の山口百恵のポスターとは、当時の山口百恵としても、当時のアイドルのポスターとしても、少し風変わりだった。
それは、白いブラウスに茶色のスカートをはいた普段着の格好で、ポスターのくせにこちらの目を見ずに脇の方を向いている。その視線の先に何があるかは、ポスターに写っていないので想像するしかないのだが、おそらく他愛も無いものにちがいない。それは近くのキレイなお姉さんみたいな風体だった。
東中野のレコード屋で、『花ざかり』というお花をテーマにした歌ばかりを集めたアルバムを買ったら特典としてもらった。僕は、毎日、このポスターに見守られ、中3の一年間を皆勤賞で過ごした。

 

エントリー№「5」。応援は、チアガール川原Ver.4。

 

高校生の頃、夜のプロ野球ニュースをみるのが日課でした。そこで突然、飛び込んできたのが、ビーチで人目を気にしながら、思い切りよく、無地のグレーのトレーナーとジーパンを脱いで、青いビキニ姿になって、カメラに向って微笑むお姉さん。ミノルタ・カメラのCMの、宮崎美子も一世を風靡しました。ちょっと、おなかがぽっこりしてる所がいい!、とクラスでは評判でした。男子高校生には女子大生は憧れの的でしたよ。

 

エントリー№「6」。応援は、チアガール川原Ver.5。

 

長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。ある日、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。フランク永井だってしない。古いか。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。その数ヶ月後に2人は結婚する。真子はトップアイドルの座を捨て引退。ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。泣き出す真子。観ているこちらもつられて泣き出す。「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」という名言を残し、コマーシャル。僕は涙が止まらなかった。ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。

 

エントリー№「7」。応援は、チアガール川原Ver.6。

 

ドリス・トロイの「ジャスト・ワン・ルック」。心弾ませる軽快なイントロのピアノ・ソロが、一目惚れの鮮烈さを見事に表現している。ドリス・トロイという人は、いわゆる一発屋だったそうだ。だからこそ、この曲の主題である、「一目惚れ」の純度を高めてるような気がする。大学の頃、中森明菜で大儲けしたワーナー・パイオニアが、その収益を社会に還元すべく、あまり売れるとも思えない全8集からなる「ATRANTIC RHYTHM AND BLUES 1947-1974」を発売してくれた。ドリス・トロイの「ジャスト・ワン・ルック」は、その第5集に収められている。

 

エントリー№「8」。応援は、チアガール川原Ver.7。

 

キャンディーズのスーちゃんが亡くなった時にはビックリ。
スーちゃんは、中学の時の友達で少年院みたいなところに行った子がファンだったな。彼は、ランやミキのことを敵対視して、でも一番、ピンク・レディーのことを悪く言ってた。「やつら、うんこ食べるらしいぜ」とか言ってた。あきれた。吉田拓郎は、キャンディーズに何曲か楽曲提供していて、自身のアルバムでカバーして歌ってる。『ぷらいべいと』で「やさしい悪魔」、『大いなる人』で「アン・ドゥ・トロワ」を全然違うアレンジで歌ってる。後者では、♪さよなら~、キャンディーズ♪というフレーズが入っていたから、『大いなる人』は、キャンディーズ解散の直後に出たアルバムだったと記憶する。僕は、あまりキャンディーズのレコードは持ってないが、「年下の男の子」と「哀愁のシンフォニー」だけ買った。
1986年ころ、サザンやユーミンや吉川晃司や明石家さんまが「メリー・クリスマス・ショー」という番組をイブに生放送でやった。ユーミンが、アン・ルイスと原由子と3人で女ポリスみたいなコスプレをして「年下の男の子」を歌い踊って、僕は悪趣味だなぁとテレビの前で辟易していたら、司会のさんまがユーミンに、「ユーミンさんの場合は、ほとんどが年下の男の子ですよね」と茶々を入れて、さんまに救われた思い出がある。

 

エントリー№「9」。応援は、チアガール川原Ver.8。

 

ピンクレデイ―の人気は尋常じゃなかった。1978年に「サウスポー」で日本歌謡大賞をとって、「UFO」で日本レコード大賞を受賞した。その年にこの二つの賞を同時に獲得する歌手は過去にもたくさんいたが、同一年にひとりの歌手が別の曲で二つの賞をもらうというのは後にも先にもピンレディー以外に知らない。下は、何かの授賞式。珍しく山口百恵とスリーショットで写ってる。

という訳で、大岡山アイドルフェスティバル(OIF)企画いかがでしたか。順位付けはしません。みんながオンリーワンです。戦争をやめろ!選挙に行こう!

BGM. 三田寛子「駈けてきた処女」


売れっ子キャバ姫はウルトラマン

15/Ⅵ.(土)2024 はれ 大岡山北口商店街でワークショップ、スイカも売っていた。

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。はじめてここを見て「ゴミ箱って何?」って方も「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

「愛のハイエナ」がYouTubeでもみれるようになって、山本裕典がホストになるシリーズがより身近に見られます。このシリーズは歌舞伎町編から始まり、大阪ミナミ編へと展開します。主役は山本裕典なのですが、ライバルの先輩ホスト(年下)や彼らを取り仕切る「軍神」こと、心湊一希(みなと いつき)の存在なしには再生回数がここまで伸びなかったでしょう。

今回お話したいのは、僕は「ミナミ編」の最終回を10回以上みてるのですが、それは最終回を大いに盛り上げるドラマを生む「売れっ子キャバ姫」のカッコ良さゆえです。何かノスタルジーのようなものさえ感じていて、「この感覚に似た体験が有る」と自分史を振り返ったほどです。

ミナミ編最終回は並み居るホストが、自分の指名客は店に呼ぶのはなしにして、初回客だけを相手に誰が1番売り上げを出せるかを競う真剣勝負です。ライバルたちが各々売り上げを伸ばす中で苦戦する山本裕典。もう閉店まで時間がないラストチャンス、山本裕典についた客が「売れっ子キャバ姫」。歌舞伎町で人気ナンバー1の「ノア」がテキーラの観覧車を入れてもらうなどその差が広がると、姫は山本裕典をその細く長い人差し指で指さして「負けてるじゃん」と励まします。ノアとの差は「20万円以上」ついています。山本裕典はもはや敗北感で姫の前でもやけになっています。すると姫は「勝って欲しい」「頑張れよ」と声を掛けますが、山本裕典はもう試合放棄をしてるかのような顔。そこで姫が動きます。「じゃ、お酒入れてあげるよ、2個ね」とその細長い指でVサインを作ります。まさかの逆転勝利を暗喩するかのような「Vサイン」。「炭酸」と姫は言い放って、それをワイプで見てるニューヨークの屋敷が「缶酎ハイか?」と食い入る中、画面に飛び込んで来た「炭酸2個」とは「高級シャンパン2本」だったのです。ここでシャンコ(シャンパンコールのこと)が起きます。姫はマイクを握り「指名したホストが負けるのが嫌だから、勝たせにきました」と言い、お約束の接尾語「ヨイショ!」と言いました。「私も稼いでいますから」って、なんてカッコE女でしょう。山本裕典はこのおかげで30万超の売り上げを上げ優勝します。周りのホストは本気で悔しがります。ノアにいたっては「なんですか?最後のシャンパン2本って」と唖然とします。

そこで思い出したのです。僕の既視感を。それはウルトラマンです。

幼稚園の頃、兄の横で白黒の特撮空想テレビ番組をみてた。それが「ウルトラQ」。その後、マーブル模様の白黒の不気味な音楽が吹っ飛んで総天然色カラー真っ赤な背景に白抜きの文字で「ウルトラマン」。僕らの時代の到来だった。テレビの時代。ウルトラマンはベムラーという怪獣がやってくるのを追って来て地球に不時着。自分とはまったく関係ない惑星に次々と現れる怪獣を僕らのためにやっつけてくれる。なぜ、わざわざM78星雲から無償で地球の平和のためにやってきたのかはよくわからないが、僕は幼児体験として、本当に困ったらそのことを解決できるもの(ウルトラマン的なもの)が僕の前にやってきて僕を救ってくれると信じて疑わなかった。ウルトラマンはピンチの時に颯爽と現れて物事を解決するとササッと帰ってしまう。そんな姿がまぶたに焼き付いていて、そんなウルトラマンの既視感を、夏の売れっ子キャバ姫にみてとったのでした。

今は待遇が改善したと聞いたが僕らの頃は、研修医の2年間の給料は月給5万円だった。あとは夜勤代などで生活した。家賃6万円弱のアパート代を払うと手元に何も残らず、酒なども安い酒(電気ブランなど)を買って一気にあおって、町内をランニングして酔いを回したりした。飲み会は先輩が出してくれるから当直以外は毎日誰かに呑みに連れてってもらっていた。看護婦さんもみんな一緒に呑みに行き、解散後、同じ方面の帰り道ラーメンが食べたいと同じ方向の看護婦さんにおごってもらっていた。一度、餃子も追加で食べたくて騒いでいたら看護助手の男の子が「僕におごらせて下さい」と300円位する餃子を奢ってくれた。それはさすがにいけないらしく、翌日先輩に「看護助手の給料はお前と変わらないんだからおごってもらっちゃダメだ」と怒られた。これは有名な話になり僕は同期からも「看護助手に餃子を奢らせた男」とちょっとした伝説になった。

当時は看護婦さんたちが優しくてお菓子やおにぎりなどの軽食をくれた。「RCサクセションの新しいビデオが出るんだけど3500円もするんだ」と飲み会で看護婦さんに話したら、数日後に、そのビデオをプレゼントしてくれた。そのうち僕はお金を稼げるようになるのだが彼女らに何かを要求されたことはない。今なら寿司や鰻やしゃぶしゃぶくらい奢れるのに。ウルトラマンみたいに見返りを求めないんだよなぁ。言ってこないんだよなぁ。

BGM. 山本裕典ホストになる大阪編最終章


大岡山デート~メメント・モリを笑え~

30/Ⅳ.(火)朝は雨 GW中もカレンダー通りにやります!

徳田さんからマックのハッピーセットのオマケをもらいました。

何が入ってるでしょうか?ハサミを入れます。

徳田さんは、クロミが当たるように、と貰ってきてくれたそう。

さて、中身は~

クロミの友人のマイメロの名札でした。

僕のニックネームである、川原達二と大谷翔平のあいの子の、川谷達平、と名前を書きました。

「達」だけ赤字がオシャレでしょう。リュックに付けます、お出かけ準備の一つです。

ゴールデンウイークの予定はありますか?僕は20才の頃からの友人たちと会います。男女混合のグループ。女子は「7つ下の学年」。それというのもひとり(♂)がひとり(♀)の家庭教師をしていたところから「集団で文通」が始まり仲良くなって、僕らは医大生で彼女らが女子高生で女子高の文化際に招待されたり(当時は招待券がないと入れなかった)代々木公園にピクニックに行ったりした思い出があります。その時の写真。受付の羽田さんにトレーナーが「おしゃれ」と褒められました。

再会のために新しいCrocsを準備しました。

ハローキティなだけに、ジビッツ・チャームはサンリオのキャラ。

しかし、穴が片方8個×2=16しかないので、4つ没です。可哀そうに選出されなかったのがこの子たち。

ジビッツをCrocsに付けて行きます。

履くとこんなです。

 

さて当日、会った瞬間は年月を感じるし僕など「お腹出たね」と言われるけれど、劇画オバQのように、そんなの5分の我慢です。見た目なんて脳が補正して5分で、代々木公園の昔の姿に戻ります。だから人は見た目じゃない。…意味が違うか。

今回は皆忙しい中、慌ただしくも同窓会が出来たのは、ひとりが病気で医者にも見放されて、それでも生きてる、というから、じゃ皆で応援しようとその子の病気も全然食欲がなかったのに、回に合わせるように食欲がアップして来たというから、今しかないですね。ひとぐすり、というのはあるんだな、と思いました。

場所は大岡山の日本料理・さとう。大岡山デートでも何度か紹介したし、テレビの「ラヴィット」に店主が出たり、「ぽかぽか」ではハライチの岩井が口が大きく開くということから始まったワンスプーン勝負のサバ缶対決で勝利しているミシュランガイドにも掲載されてるお店です。

行きつけだから多少のわがままは効きます。昼の待ち合わせだけど夜のメニューにしてもらい、折角だからメニューにないけど余興にワンスプーンも作ってもらうことにしました。

病気の子がたまたま大岡山に縁があり昔さとうに来たことがあり「とてもおいしかった」と何度も言ってたから、僕はさとうの主人に「きっと最後の晩餐ならぬ、最期のランチ、になるから、その子のリクエストなんだよ」と直談判すると、「それは料理人として光栄です」と張り切ってくれた。

下がその日のメニュー。

・百合根の揚げ物。

・サバ缶のミニ丼。

これを岩井はかき回して一口で食べたのだと。

その特大スプーンが店にはないから普通のスプーンで。大きな口を開いても三口はかかりますよ。芸能人ってすごいですね。

・イサキと珍しいカレイ(名前忘れた)のお造り。

・ハマグリとワカメの吸い物。

・イチボと新たまねぎを新たまねぎのソースで。

・キンキの煮付け。

・ご飯はサクラエビの揚げたてを和えたおこげのご飯。皆の漬物はキュウリで、僕だけ昆布。

・赤出汁。

・デザートはフルーツ。

食べ終わったあと、うちのクリニックに寄り待合室のソファに皆座ってしゃべってました。「病状」とか「死」という話題はあえてふれないけど、精神科とは言え、場所が「病院」だからところどころに口にしなくても病気を想起させる文言が散らばる空間の中にいました。

ペストが流行った時に病院はお手上げで死んで行く人の面倒をみたのは教会の修道女だったといいます。修道女たちの合言葉が「メメント・モリ」で、死を忘れるな、という意味で、明日は我が身だっていう意味です。そりゃそうで、その子に同情してる僕らが実は今日の帰り道に交通事故に遭ったり、脳卒中や心臓病で前触れもなく突然死する可能性だって「ゼロ」じゃないです。メメント・モリは、こんな時だけでなくいつも考えていないといけないことだと、コロナの頃には思わされたのに、コロナが収まったら(?)もう忘れてます。

その子は今日の回が終ったら、5/6の井上尚弥のボクシングがあるから「それまでは生きよう」と目標を少しづつ立てて生きていると言いました。

誰ともなくだったら「5月中にまた集まろう」って言うけどそれはもはや誰のため?「残される(予定のはず)」ものが後悔しないように段階的に心の準備をするために、当人を含めて「お別れの会」を前倒ししてるみたいです。などと、今はこんなことを思っている僕だけど、きっと馬鹿だからしばらくすると忘れてしまいのうのうと生きていくのだと思います。そんなことを1日考えてたら、考え過ぎて、「うつ」で寝込んじゃいました。

あなたがデートに誘い出してくれるのを空想しながら近所を散歩。昔からある酒屋の前に「夢グループ」のガチャガチャをみつけた!今年の正月の清水ミチコの武道館ライブにビデオでゲスト出演した二人です。

酒屋のレジで両替して2000円分ガチャガチャすることに。

コンプリート。

デザイン1.

デザイン2.

デザイン3.

デザイン4.

デザイン5.。DVDは「デーブイデー」。CDは「シーデー」。

メメント・モリを笑い飛ばしてみました。クリニックの前の「カプセル楽局」を覗いたけどさすがにこれはなかったです。あなたには酒屋の場所を教えてあげますね!

BGM. 夢グループ 夢ポータブル多機能プレーヤーCM


心の護美箱(81)~夏のジョー

30/Ⅳ.(火)2024 GW中もカレンダー通りにやります!

田園コロシアムはもうないですが、スタン・ハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの伝説のシングルマッチが行われた場所と言えば、馴染みもあるでしょう。僕はそこで榊原郁恵の「夏のお嬢さん」の新曲発表会を友人に誘われて観に行きました。中3の頃です。紫の半袖のシャツで白い襟が付いた服をヘビーローテーションしてた頃です。

家族旅行。

榊原郁恵はロバに乗って登場したのですが、ものすごい歓声にロバが驚いたのか躓いて、榊原郁恵が落馬して、でも演出通りイントロが流れるから、片膝つきながら、郁恵ちゃんが「夏のお嬢さん」を歌い出したのが僕のこの曲との出会いです。その時の写真が月刊明星に掲載されて、写真の隅に「あ~」という口を開けた表情の僕が写っていました。切り抜いてとっておいたのですが、もう50年近く前なので、捨ててはいないのですが、どこにあるか分かりません。

当時は榊原郁恵、大場久美子、石野真子が3人娘で僕は石野真子が好きでした。郁恵ファンの会に付き合う代わりに、石野真子の「失恋記念日」の新曲発表握手会を新宿小田急デパートの屋上で友人に付き合ってもらう交換条件をしてた時期です。

 

心の護美箱(80)がいっぱいになったから、(81)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

少し暑い日が増えて、榊原郁恵夏のお嬢さん田園コロシアム落馬、というフレーズが考えるでもなく頭に浮かぶともう夏はそこまで来ています。

BGM. 榊原郁恵「夏のお嬢さん」


ダメなパラレルの味方をしたい。

23/Ⅳ.(火)2024 はれ 「しじみ」の日。「4」=し、「2」=じ、「3」=み、のダジャレ。

近頃もらったコメントで印象に残ってて懐かしくなったもの。タカノフルーツパーラー。コロナ禍で新宿へ行くことをやめた失われた3年。それまでは毎週新宿か中野へ出かけて行ってたのに。

GUCCIの上ではなくて、高島屋タイムズスクエアです。

僕は本店よりこっちが好きなのです。

お昼ご飯も兼ねてなので、ローストビーフサンドを頼みました。

ヨーグルト付き。

ホットティーを頼みました。

今は苺のシーズンのようです。

が、マスクメロンパフェにしました。

折角新宿に来たから「世界堂」でラミネートやコピーをしようと行ったが、もうコピーコーナー自体が廃止でビックリ。コロナ禍3年の空白を恨む。上の階でバルテュスやゴーギャンの複製画をみる。

その足で紀伊國屋書店へ。

エレベーターで最上階のマンガ売り場へ。

コミックコーナーは、黄色いビルのアドホックがなくなって本館の8階に移動。藤子F不二雄のSF短編集の豪華特装版のセットを買うとそれを入れる箱がついてくるらしいが、アマゾンだとそのサービスがないから店員さんに調べてもらったが、「各巻が豪華特装版なので、さらに10巻セットで買ってもBOXが付くわけではないです」とのこと。それではアマゾンと同じだ。僕が見たのは藤子F不二雄の特設ホームページだったから違ったのかも。

 

二つ階段を下って医学書のコーナーへ。

ここのところ毎晩夢で医学部を卒業出来なくて留年する「ダメなパラレル」の夢をシリーズで見る。そのパラレルは誰も助けてくれる人がいないから、僕はもう医者以外の道を考える。ある晩は女のヒモになろうとしたり、ある晩は南国へ逃避行し類人猿と結婚したり。昨晩は一人の少年と犬を助ける使命のもとに国家に魂を売り「まぼろしパンティ」と「ナショナルキッド」に変身出来る力を手に入れたが残念ながらどちらも知らないからどんな時にどんな能力を発揮出来るのかわからずにいる。敵もいるが何が正義か分からないこんな世界で僕は「ヒーロー」になっていいのか?

僕の「今のパラレル」はうまく行き過ぎです。きっと神様や守護霊たちが僕を「精神科医」にするべく、ピンチやくじけそうになった時に、「誰かに力を委ねて」僕を助けてくれたおかげだと思っています。僕はその時その人に依存して難所を乗り切った。そんな「恩人」たちと今はなんの交流もなく、僕が恩知らずや薄情というよりも相手の去り際が見事で連絡先を残さないのです。

僕はラッキーな人間で何故そこまでして成功して医者になれたのかは、その力をアンラッキーな人たちに使えという神様からの指名で、僕にしか出来ない「常識に縛られない」援助も積極的にしなさい、ということだと思っています。

手塚治虫の「火の鳥」や楳図かずおの「わたしは真悟」で読んだことがあるが、神様や超越的な存在は直接、人間に助力を出来ないから、その場の誰か(場合によっては動物とか)に力を与えサポート係に配役してくれる。困った時のレポートを隣の子が書いてくれたり、期限が明日までに英語の全訳の論文を提出しないといけない時は「2つやって1つ出さないから」という子がそれを無償でくれたり、はたまたフィリピンパブの女の子が「タツジ、勉強しなさい」と店への出入りを禁止したり、家だと集中出来ないからと近所の喫茶店に一日こもって勉強してる後姿を見守ってくれる3人でやってる店の奥さまたちの優しい視線など有形無形の応援がそれでした。今回の夢シリーズは「もう一度やり直せ」と言われた時に同じ手助けがある保証はなくて、自分一人で乗り切らねばならない。そっちの僕はやる前から「もう無理だ…」とあきらめて逃げる方法ばかり考えて。僕は何か大事なことを忘れている気がします。

だけど、思い出した。国試の時の勉強法。1冊テキストを選び、過去問を解いて出て来た箇所を蛍光ペンで塗って行く。1回だと黄色、2回だと緑、3回だと青、4回だとオレンジ、5回だとピンク、6回だと赤、と「デル順」に上塗りして行く。こうしたテキストを科目ごとに10冊もっていて、時間割を作って毎日毎日やった。このやり方だけは自分で編み出し自分ひとりでやれた。その後も色々大変なことはあった。でもそれはその時。ひとつづつ目の前のことをやるしかない。先取り不安や、取り越し苦労しててもしょうがない。

こうして僕は、毎日夢に出て来る「助けてくれる人がいなくて逃げ出しそうなダメなパラレルの僕」にこっちのパラレルからエールを送ろうと、僕に合った国試の勉強法を、ひとりで出来るやり方を教えてあげるのです。そう思ったら僕は紀伊國屋の医学書コーナーでテキストと過去問集を探します。

しかし、もう30年以上経ってるから随分と変わっていて僕は店員さんを呼び、色々質問しながら「これを買え」というアドヴァイスのメモを作成しました。

これをあっちのパラレルにどう渡すかだ。潜在意識が繋がっているとは言っても物理的なメッセージのやりとりは難しい。う~む。

あっ、そうだ!「ムンク」がいた。彼女なら中学以降の僕の時間軸ならすべてに関わってるから「ムンク」にこのメモを渡しておけばなんとかしてくれる。世界堂で買った6色蛍光マーカーを添えて一緒に。

後は、「ムンク」、まかせた。

紀伊國屋の1階にはサンリオショップがあります。キティちゃんのポップコーンは、林原めぐみさんの声でした。変わってなかったです。良かったです。

今はサンリオキャラクター大賞の季節で、店頭でグッズを買うと、それ用のチップをくれます。

店頭のチップの途中経過。

キティちゃん50周年だけありますね。ダントツ1位でした。

プリンの誕生日ぬいぐるみが完売&まるまるのグッズも完売で、買うものなしでチップはもらえず投票出来ず。でも、心はキティ様に一票。

BGM. ハローキティ ミュージックビデオ


我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?

10/Ⅳ.(水)2024 はれ 4/11、2024年サンリオキャラクター大賞OPEN!

まずは夢日記。先日みた夢。「医師免許の継続可能試験があって、それに落ちた。何の仕事をしよう?看護助手をするも、流れ流れて南国のペットショップの類人猿の娘に貝殻のビキニをあげたら、恋に落ちて、懐かれて、禁じられたのにSEXしたら、子供が出来た。人間が生まれるらしい」。

日曜に、裏金問題で離党する世耕さんのニュースをサンジャポでみてたら世耕さんが「ゴーギャンの絵の気持ちだ」と言って、爆笑問題の太田が「絵を見せてくれ」と言ってたのが頭に残り、そんな夢の題材になったのでしょう。

下は、「世紀末の美と夢6(非在の地)」、「夢想への逃亡」。

この本の「見返し」がゴーギャンの「我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?」。

僕が高校の頃、adidasから世界の島シリーズというスニーカーが出て、僕は友人の誘いで「タヒチ」というスニーカーをお揃いで買い、お揃いで履いて通学してました。僕の学校の制服は上下黒の詰襟だったので、全身黒に足元だけネイビーブルーというのが自分でもお気に入りで、「川原お気に入りスニーカーランキング」歴代2位です。1位は、中学の時、石野真子がニューバンのコマーシャルで履いてた蛍光色のような黄緑のナイキのスニーカー。これも、黒の上下に映えました。

ファッションの話になったから、今日のおめかしはイヤリング。片耳が麻雀牌の「中」。

もう片方は同じ赤でも「薬のカプセル」。

宝石箱。

今、NHKの100分de名著で、フロイトの夢判断、をやってるのはタイムリーです。「夢判断」というと「夢占い」を連想させ、「ヘビ=SEX」みたいな辞典形式に思う人も多いでしょうが違います。フロイトのそれは患者が夢を報告し、連想して行くうちに「自分で気付く」のです。無意識の発見です。

一方、スピリチュアル的には、夢は、違うパラレルを見せられたか、もしくは、違うパラレルを見せること守護霊(?)が何かを気付かせようとすると考える訳です。だから「医師免許剥奪」は「今」の「薬一辺倒な医療」や「診断学に合わせすぎ」な自分のやり方を反省し本来目指していたのはそっちでいいのか?と立ち止まるチャンスをくれているのかもしれません。Eテレ100分de名著、「フロイトの夢判断」好評放送中。

無意識にたどる王道は「夢」かもしれませんが、日常の色んなものが無意識と関係しています。僕は色々と模様替えをしますが、今回は「からかい上手の高木さん」を整えました。何故数ある中からこれを選んだのでしょう?また、模様替えはしょっちゅうしてて、全部を記事にはしてません。何故、今回に限り、記事にしたのでしょう?これも無意識への接近に有効な問いですね。

「1月」~「12月」。どれが「何月」か分かりますか?並べてくれたのは、受付羽田さんの「無意識」。

ここには観光地巡りと、僕の顔写真のコラージュという「意識」も混ぜて。

何年か前のクリアファイル型ミニカレンダーは「1月」「4月」「7月」「10月」。An=1+(n-1)×3。

さて、ここにも「無意識」への切り口が。最近僕が「何故か」購入したものです。それは「新聞紙ストッカー」です。捨てられない新聞をとっとく台車です。

たとえば、WBC日本優勝。

安倍さん死亡。

この日のビッグニュースはこれなのに、デイリーは愚直なまでに「一面」は「阪神」。「安倍元首相銃撃され死亡」が端っこに書いてありますね。デイリーにとっては「青柳完封」の方が「一大事」なのです。ケネディ大統領が暗殺されて各新聞の一面がそれだった時、東スポだけが「銀髪鬼・場外悶絶」という、フレッド・ブラッシーが力道山の空手チョップで場外リングアウト負けになった事件を報告したのと同じ主張ですね。でも、こういう風潮はいいことで色んな価値観がある訳で、何より全体主義にならないのは「戦争」を防ぎそうで良いことでしょう。

戦争と言えば、ロシアはいつまで続けるのかしら?

僕が好きな女子アスリート第1位は、須崎優衣です。

アマレスが須崎さんなら、いつのまにかフワちゃんが…。

この新聞紙も捨てられません。

何故、その新聞?と思われたでしょう。それが僕の無意識。というより、何故この記事?という東スポの意識に反応してるのですが。数ある中でなぜこれを選んだ?というのも無意識。

どうでしたか?無意識を集めた記事にしてみました。そんな僕が皆さまに紹介したい映画です。

ルイス・ブニュエルの「自由の幻想」は、冒頭で女の子たちが公園で遊んでいると怪しげなトレンチコートの男が近寄り子供らに数枚の写真を見せます。子供たちがそれを見入っている横で男はニヤニヤ。それに気づいたお母さんたちが、「どうしたの?」と叫んで走り寄ると、男は一目散に逃げてしまいます。残された写真を母親たちが見ると、思わず「まぁ!!」とビックリして口々に「いやらしい」「お下劣な」「破廉恥」と嘆きます。カメラが母親たちの手元の写真をアップに映すとそれは「夕焼け」や「青く澄んだ海」や「虹」だったりします。場面が変わり、皆大人たちは正装して談話を楽しんでいます。その中に小さい少女を連れたご婦人がいるのですが、少女は皆の前で「ママ、おなか空いた」と言います。すると全員が話を止め、少女と母を睨みつけます。母親はペコペコ皆にお辞儀しながら謝って、「すみません、すみません」と平身低頭、少女を連れ出し、個室に一緒に入ります。トイレのような個室です。母親は少女に、食べ物を差し出し、「はい。食べなさい」と言い、少女はそこで物を食べます。カメラはさっきの社交場を映すのですが、正装した紳士淑女はカメラが引いて分かるのですが、みんな下半身をおろして便器に座っていたのです。そうです、ここはこの世とあべこべの世界だったのです。

僕の紹介する映画は「面白そう!」と飛びつく人が多いのですが、僕の古い友人に言わせると「君が紹介してくれた映画は面白そうなので観るんだけど、大抵、筋が違うんだ。悪いことに君の説明の方が面白いから、観て損した気分になるんだ」ですって(笑)。

どうして数ある映画の中からこれを選んだのでしょうね?無意識の現実世界への支配は際限なく興味深いですね。

BGM. 石野真子「ワンダーブギ」


青春プレイバック〜東中野編(R6年3/31)

2/Ⅳ.(火)2024 はれ 大谷翔平、第3打席で“超速”二塁打。打球速度186・3キロは「球団最速」の安打!

 

青春プレイバックは、80年代に「3チャンネル」で糸井重里が司会でやってた「YOU」のコーナーのひとつ。毎回ゲストが、自分が青春時代を過ごした街を今、「YOU」のアシスタントと一緒に歩き思い出を語る。今回はそれをパクって、僕が中2~大2まで住んでいた東中野をプレイバックします。アシスタントはあなた。

 

大岡山から東中野は30分以内です。渋谷で山手線に乗り換え。渋谷で大谷翔平の看板たちと遭遇。

渋谷はコロナ禍で工事が終わったんですね。山手線が内回りと外回りが同じホームになって便利になりました。

新宿に着いたら、目の前の電車に乗ればいいです。15番線側の人は山手線だから「みどり」で、16番線側の人は総武線の「黄色」でプライバシーを保護。

中野に行くときは中央線に乗っちゃうから東中野駅に降り立つのは何十年ぶりの来日です。外タレ気分です♪

東中野ホームからみんなに見せたいのは、骨法、の道場です。これは僕が中3の頃に出来ました。「なんだろう?」と思っていたら、「UWF」や新日本プロレスの山田(獣神サンダーライガー)や船木が通い出しました。

ここの3階の塾は僕の頃は「東大進学塾」と言いました。僕も通っていました。母がおっちょこちょいで「ここに通えば東大に入れる」と思ったらしいが、先生に聞いたら「東大生が教えてる塾」だそう。僕の先生は東大を落第しまくってる8年生でした(笑)

僕の住んでたのは北側ですが、まずは逆側に降りてみましょう。ちょっとだけ。

東中野と言えば「日本閣」は今や昔。派出所で若いおまわりさんに「日本閣はどっちですか?」と聞いたら、「日本閣??」って3人くらいおまわりさんがいるのに誰も知りませんでした。これが派出所。

僕は東中野と言えば「つけ麺大王」です。しかし、僕の同期には「両国予備校」の全寮制に通ったいた一派がいて、やつらの寮は東中野にあり、この店がうまい、と言って譲らないから「どっちがうまいか」でつかみ合いになったものです。

勿論僕は「つけ麺大王」派ですが、ここもよく利用しました。鉄板で焼いた肉とラーメンセットが売りでした。確か、少年マガジンとヤンジャンとヤンマガを置いてありましたね。「花平バズーガ」とか毎週ここで読んでた。

僕の友人が一時期モデルと付き合っていて、3人でちゃんこ鍋を食べに来たことがある。その後、僕のマンションに寄るのだが、彼女は短期間、モデルばかりを寄せ集めた「アイドルグループ」にいて、シングル2枚とLP1枚を出していた。僕はそのグループがテレビで歌ってるビデオを録画してたからみせたら、彼氏も知らない過去だったらしく「今すぐ消して。レコードも今すぐ捨てて」と照れてて可愛かった。その後、彼女は友人と別れて、そこそこ名の知れた芸能人と結婚したから、今やちゃんこ鍋など奢っても有難くも思わないのだろうな。

僕が住んでた北側に出ましょう。はじめて降り立った日に、最初に目に入った中華料理屋に入ったのですが、今は「ケバブ」の店になってました。

駅前に本屋がありました。健在でした。

ここは喫茶店もやってたケーキ屋。

つぶれちゃうみたい。

僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、おれの形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

駅から僕の住んでたマンションまで歩こう。

そうそう、こんな三叉路があった。

微かに色気づく桜を見つけた。

持ってたバツ丸&グッドはな丸と。

こんな店が出来ていた。

欽ちゃんのTシャツが売ってたから、夏フェスみたく、着替えて街歩きへ。

ここら辺に古本屋があった。そこにはすっぴんで簡素な服を着た薄幸そうな痩せた未亡人(勝手にそう思っていた)が正座して、会計をしていた。その店はエロい本も売っていてドキドキした。僕はわざとエロ本を手に取って、未亡人に出した。未亡人は本を紙袋にしまい代金を払うと丁寧に三つ指ついて「ありがとうございます」と無表情なままお辞儀した。僕はそれがクセになり未亡人が店番の時にはエロ本を必ず買った。「ありがとうございます」と丁寧に礼を言われたいために。僕はどんどんエロくなり買う本も「人妻もの」とか「喪服の女」とかばかりで、お金を払って「ありがとうございます」と言われると、目的は8割以上かなってるから本などロクに読まないで隠し場所に困った。僕が中2か中3の頃で、川原史上最もターゲットが高年齢な時だった。

ここら辺には喫茶店があり、そこのインディアントーストが僕の好物で、野菜嫌いの僕もここのサラダはドレッシングが野菜に流れてひたひたしてしなるから好きだった。ある日、めちゃくちゃ可愛い子が1日アルバイトという日があって、これから芸能人になるという。僕が天地真理以来たくさんのアイドルを見て来たから好みはともかくその子が芸能界で生き残れるかどうかの直感には自信があった。僕のアンテナでは彼女は「生き残る」。その子は誰かというと、デビュー直前の島崎和歌子でした

東中野は脇道や坂道が多くて、僕はまっすぐ家に帰ったことはまずなく、だからこんななんでもない横道たちがなつかしい。名前でも付けとけば良かったな。

さぁ、ついにお見えになったレンガのマンション、ここが僕が住んでたマンション。

一階にレストランとスーパーマーケットがついてました。三越東中野マンション、と言います。まだあった。

正面にマンガがたくさん置いてある喫茶店があって、当時は「漫画喫茶」などはないけれど、僕はよくここでドライカレーを食べてマンガを読んだ。カワクリにいっぱいマンガを置く発想の原点はここかも。よく覚えてるのは、柳沢きみおの「スクランブルエッグ」。僕にしては珍しく、決して自分で買わず、何回もこの店で読み返した。今は沖縄料理屋になってましたが、面影は残っていますね。

三越マンションには当時の横綱・輪島もいて、付き人の相撲取りがたくさんいました。僕は母から「お金がなかったらここでツケにしてもらいなさい」と言われてた目の前の寿司屋で一人で穴子や納豆巻ばかり食べてたのですが、ある日の寿司屋のカウンターは僕(中2)と相撲取りだけという異様な組み合わせでした。そして、その寿司屋、まだありました!

スーパーは、まいばすけっと、になってました。

マンションの横道もレンガ。

これはマンションの正面ののぼり坂。

僕の1番好きな坂道は、その一本隣のこの道。

急勾配を上がるとまるで分度器のカーブのようにすぐ下り坂。

脇に登る階段がありそこをあがるとテニスコートでした。

僕は学校をサボっては天気の良い日に、ダブルスでテニスをする近所の奥さんのテニスの試合を見物してました。当時はまだ世の中に変質者がいるという認識が少なかったから、僕は友好的に見物させてもらい、白いテニスウエアと白いスコートでラケットをスマッシュする瞬間に見える見せパンツも白で、僕はめぞん一刻の音無響子さんを見るまなざしで健康的に日光浴をしながら不健康に不登校をしていた。奥様方は途中からわざと、意図的にパンツを見せてくれてたような。白昼夢ですね(笑)。今は駐車場。

その階段を戻って、坂を下ると、そこは思い出の場所。何度かすれ違った母に連れられてバイオリンのお稽古に行く少女。顔なじみなので、お母さんの方が僕と会釈する。でも、少女はいつも僕の目を見て訴えた。「助けて」。彼女が無理矢理、バイオリン教室に連れて行かれ、どんな破廉恥な「試練」を受けてるのかは知らないが、中学生になんとか出来る問題でもなかったから助けられなかったこと、許してくれ。

坂を下りきると小学校だったはずが。

現在工事中。日傘をさした黄色いブラウスを着たおばあさまがいたから声をかけた。僕はもう何十年も前にこの辺に住んでおり懐かしくなってここに来たものです。ここは小学校ではありませんでしたか?するとおばあさまは、僕を怪しく思わず、色々とここがどういう風に変わってどうなって行く計画なのかを教えてくれた。そして派出所のおまわりさんは「日本閣」を知らなかったとチクると、日本閣ならあそこよ、と背の高い3つの塔を指さした。冒頭の派出所からみえた奴ではないか。

僕はここまで友好的に話してくれるおばあさまにちょっとピンときて、あなたはもしかしてテニスをしてた方ですか?と尋ねると、「私はテニスはしないわ。日本閣のプールなら入ったけど。水の冷たいプールでね」。

なにやら障害児の施設か何かになるらしい。

この坂も思い出深い。

公園もあった。

真夜中に遊具で遊んだ。

月夜にブランコをした。

この坂も好き。

この石段は駆け上げるのは得意だが、駆け降りる時によく転んだ。一段の石段の幅が広いから普通の感覚で走ると日本基準じゃないから調子が狂っちゃう。

イチゴの家のような不思議な店があって水森亜土を太らせたようなオーバーオールを着て茶色いカーリーヘアーの女の人が店の前にいていつも何かしていた。僕はここは何をするところだろう、といつも不思議で、時々目が合うと、その女性(年齢不詳)に呼び寄せられるのが怖いから目を合わせないように、なんならちょっと走って前を通ってた。少年の直観として、何か誘い込まれて青い果実をむさぼり食われてしまうような被害妄想におびえていて、毎日毎日、店の前を走って逃げた。行かなくて済む場所なのに。今はマンションみたい。

この坂の長所は素直なこころ。

この道を進むと、

下り坂になっていて、

急な勾配を注意しないと、

転ぶぞ、なぜなら、

見晴らしが良いから見蕩れてしまうのもあるが、

この坂は石段のひとつひとつのスペースが大きく、リズムが狂わされてしまう、

さっきの坂を下った坂だから。

ここさえ転ばなければ、

あとは道なりに、

正面にはこんな飯屋があった。僕が高2の時に、とんかつ屋があり、僕はうっかりとんかつ屋なのに、「焼肉定食」を頼んでしまった。メニューにあったから。しかし、そこで出されたのは、ただ肉を焼いただけのものでそれとご飯。僕は仕方なくお醤油をかけて肉を食べた。そのことを学校で話したら笑い話になったから良かったが、ただで置かなかったのは唐川君のお母さんだ。唐川君は亀有に住んでる江戸っ子だが、お母さんは「川原君が可哀想だ」と家に呼んでくれ家庭料理を食べさせてくれた。気持ちはありがたいが、僕は偏食なのと、ひとの作ったものは余程の例外(心を許したものが作ったもの)以外は食べれないから苦心した思い出がある。人情には心を打たれたが、舌は別だ。

ここを進むとマンションの裏に出る。

この平坦の道を僕はズックをひきづって歩いていた。この道に面した家の2階に女学生の自室があり、夏には窓が開け放しだから中が丸見え。ただし、彼女の部屋には全身が映る姿見があり、部屋を見上げて覗く僕と彼女が鏡越しでよく目が合った。彼女の家の一階はお風呂で今考えるとこんな物騒な間取りもあるまい。

カノジョは入浴中には必ず歌を歌っていて、窓を少し開けていた。当時、寺山修司がお風呂を覗き捕まったニュースがテレビで騒ぎになっていたから、多分、僕は自制出来たのだと思う。そう思うと、有名人が見せしめに捕まるのは一定の社会的意義はあるのだと思う。

僕はカノジョの歌が聞こえるとざわとズックの音を大きくひきづった。するとカノジョは窓は開けっ放しで歌をやめた。

僕はカノジョのお母さんと顔見知りになり、確かカノジョが一個下だったから、どこかへデートにいったことがあるが、それが映画だったか遊園地だったかは全く記憶にない。そもそも、カノジョは僕の部屋にきたことあるのかな?近いから来ててもおかしくないけど。健康な高校生男女ってもし二人っきりでひとつ部屋にいたらどうなるのだろう?

答えは、ムンクだけが知っている。

この先を曲がると広い駐車場。

僕は夜に行き詰まると何故かここに来た。四方から、知らない家族の会話やテレビの音や喧嘩などが開け放たれて聞こえて来ると、僕はずっとここにいたんだ、と、生まれる前からここにいたんだ、とヘンテコな呪文を唱えて自分を落ち着かせた。

道を戻り、最後の上り坂。

高校時分は毎朝、ここをダッシュ!

すると東西線落合駅。学校にすぐだった。

そこをまっすぐ行くと大通り。

この辺に「つけ麺大王」があった。高校生の頃、兄貴に彼女が出来たらしく、「達二、何時間か外にいてくれ」と千円札を渡された。そんな夜中に行く場所もなし。仕方なく「つけ麺大王」で野菜つけ麺を食べながら、少年チャンピオンを読んでたら、1時間もしないのに兄貴が隣に座り、ギョーザとビールを頼み、僕の分のコップとギョーザを分けてくれるから、二人とも無言でつけ麺とギョーザでビールを飲み、一緒に家に帰った。ネットでは「つけ麺大王」は現存するが移転したらしく、探してみたが見つからなかった。まぁ、そういうことならそれでいいのだろう。

ぐるっと回って東中野に戻りました。

スタンプラリー企画では、「東」が櫻になっています。

折角だからスタンプするか。

そう言えば、近所のマンションに高校の先輩が住んでいた。ある日、「これから遊びにおいでよ」と招待された。地下の駐車場にはジャガーというアメ車があって、先輩はそれを乗り回してると言った。良いのか?高校生がジャガーに乗ってて。「巨人の星」の花形満じゃあるまいし。
先輩は「俺はこれから家庭教師と勉強。彼女が来るから相手してて」と言い残して部屋に消えて行った。僕はだだっ広いリビングのソファに一人でいると、その彼女という人が入って来た。大理石のように冷たい表情の美人で、僕は軽く挨拶をした。彼女は、「隣に来ない?」と誘ったり、「吸う?」と吸いかけの薄紅いタバコを手渡そうとしたりした。「いえ、煙が目にしみるから」と僕はプラターズのヒット曲のように断った。が、何だ、これは?誘惑してるのか?
そもそも、あの先輩は何のつもりだ?家庭教師なんか来ないじゃないか。
そうか、きっと僕たちのやりとりを部屋からこっそり見てて、こっちが女に手を出したら、「俺のスケに何してんだ?」って美人局みたいに出てくるつもりか?
それとも、倦怠期のカップルが刺激を求めて、チェリー・ボーイを交えて倒錯的な趣味に走るつもりか。3Pとか。「ん~、弱ったものだ」と頭をフル回転させてると、先輩が部屋から出て来て、驚いたことに後ろに家庭教師がいた。
「あれ?本当に勉強してたの??家庭教師、いつ部屋に入ったの?あっ、先にいたの?じゃ、3Pは?なし?」よく聞いたら、ジャガーも父親が運転するのに同乗してるだけなんだって。普通じゃん。馬鹿みたい。

BGM. 杉田二郎「君住む街」

岡田奈々「青春の坂道」