8/Ⅹ.(火)2024 雨でちょっぴり憂鬱 地球平面論者(フラットアーサ―)が増えてるらしい。
先週号の「FRIday」に磯山さやかが出てる。
2025年のカレンダーから3枚の写真を特別にみせてくれている。
先週の金曜ビバリーは、高田文夫・松村邦洋・磯山さやかで、磯山さやかのカレンダーの話題でひとしきり盛り上がった。松村邦洋は「磯山ちゃんの足の裏がいいね」とラジオで言ってたけどどれかな?と思ってたらこれですね。
足の裏が好きな人のためにクローズアップ。
ひとしきり磯山さやかのカレンダーで盛り上がりましたね。さて、前回の記事は「川原がエスパー魔美に救われた」という記事でしたが、今回はそのお礼をしたい。つまり、エスパーの相談を受けようという外来の新設です。
昔、12チャンネルの朝に、「おはようスタジオ」という新人アイドルの出る番組があって、そこにゲスト出演する新人アイドルは新曲情報などを「たぬきインタビュー」というコーナーで紹介してもらうのですが、「たぬきインタビュー」とは文字通り、質問の答えから「た」を抜いて答えねばならず、失敗して、「た」と言ってしまうと顔にタヌキの絵のシールを貼られて行くという罰ゲームが見所でした。皆、最初こそ警戒するのですが、インタビューが進むに連れ、ついつい1つ2つ「た」と言ってしまいそこが愛嬌なのですが、僕が今尚、忘れられないのは原田知世で、原田知世はショッパナから、「た」の字を連発して、インタビュー半ばにして、タヌキシールで顔が見えなくなっていました。途中からチャンネルをつけたら誰だか判らないです。今なら放送事故です。そんな原田知世が「時をかける少女」で映画デビューした時のキャッチフレーズが「恋の予感のジュブナイル」でした。僕は当時、受験生でしたが、「ジュブナイル」という単語を知らなくて辞書を引きましたよ。「10代」って意味でした。
ジュブナイルといえば、過去のジュブナイル作品にリスペクトをはかった「君の名は。」を思い出します。さすがにまだ観てない人はもう見ないと思うので多少ネタバレしますが、僕の印象的だったシーンを話します。主人公の少女が巫女さんで、口噛み酒、を造る儀式です。口噛み酒、とは、神様に奉納する神聖なお酒のことで、少女がお米をよく噛んで、液体状になったら吐き出すのです。当時の受付の大平さんと一緒にお昼を食べに行った時、「君の名は。」を観て泣いた、と言ったら「どこでですか?」と聞かれたから、「口噛み酒」と答えたら、ドン引きされました。↓。
主人公の少女は、この儀式を同級生にみられるのを嫌がっいてましたが、おませな妹が、励ましのように、「いっそ、生写真とメイキング映像もつけて、口噛み酒、を売り出せば良い」と発言してました。僕は、「商品化したら買おう」と一瞬、思いましたが、昔、ブルセラというのが社会問題になっていた頃、摘発された店主(おっさん)が、女子高生の「つば」、と偽って、自分の唾液を売っていたというニュースを思い出し、産地を見極める、とか、食の安全、ということにあらためて思いをめぐらせたものでした。↓。
この映画は、我々の世代には受けると思いました。それは、大林宣彦の尾道三部作のジュブナイル映画を彷彿させ、監督のちょっとした洒落っ気なのですかね?、ちょっとオマージュしてる場面もあってニヤニヤします。「ある!ない!」と自分のオッパイをもんだり、上半身裸で姿見に映るのは、「転校生」の小林聡美ですね。↓。
小林聡美は念のため、「下」も確認します。「ない!」。↓。
小林聡美は「転校生」の冒頭で大胆にもオッパイを見せましたが、「君の名は。」では光の加減で隠していました。これは映倫とか都条例とかの影響ですかね?コミケ関係でも、結構、問題になってましたね。「女子高生はヤバイから、女子校生にしよう」とか。つまり、女子高生は18歳以下でアウトだけど、女子校生なら専門学生とか短大も含むからOKみたいな、議論を聞いたことがあります。↓。
原田知世の「時をかける少女」のエッセンスもありました。「君の名は。」でも、タイムトラベルは重要なテーマですからね。原田知世の「時をかける少女」では、未来人・深町くん、が未来へ帰る時に、原田知世の質問に答えてこう言います。「時は過ぎるのではなく、やってくるものだ。だから、また会える。でも、その時、2人とも記憶はないんだ」と。それに答えて、原田知世は「また会えるの?私にはわかるわ」と本来なら絶対的な力を持つ「時間」に対して、私は忘れない、というピュアで強い意志の力のみで抗おうとする決意表明をします。↓。
この時に、意味は判りませんが、深町くんは、原田知世のほっぺに墨のようなもので、まるで落書きのようにします。上の写真の、原田知世の画面左側のほっぺが黒いのはそのせいです。「君の名は。」でも、ほっぺに落書き、はコミカルなシーンとして登場してますね。↓。
顔に落書きと言えば、劇場版「涼宮ハルヒの消失」の終盤でも、キョンが意識を失い入院してる時、「団長の責任」として、病室の床に寝袋で泊まり込んでいたハルヒが、意識を回復してキョンに起こされた時に発したセリフが「私の顔にイタズラ書きとかしてないでしょうね」というツンデレで、キョンも「したかったけどな」と返しています。こちらは、コミック9巻から。↓。
「涼宮ハルヒの憂鬱」でも、「時をかける少女」や「なぞの転校生」などには敬意を払っていますから、これらのテーマは世代を越えて青春には鉄板で、寝顔に落書きはラブコメの王道なのかもしれませんね。あっ、すみません。話が、「涼宮ハルヒの憂鬱」になってしまいました。
「君の名は。」で、大林宣彦の映画を連想した話に戻します。「時をかける少女」のラストの方で、大きくなった原田知世は、大学の薬学部に勤めていて、図書をいっぱい抱えて廊下を歩いていると、大人になった深町くんらしき人とぶつかって道を聞かれます。道を教えて、別方向に歩いて行くのですが、お互い記憶がないけれど、何かを感じたのでしょうね、まずは、深町くんが振り返って、原田知世は気づかずです。↓。
そして、深町くんが歩いて行くと、今度は原田知世が振り返りその背中を見送ってすれ違いのまま…。↓。
これは「君の名は。」では、歩道橋の上みたいなところで、よく似たすれ違いのシーンがみれました。↓。
「時をかける少女」は、原田知世と深町くんの二人の強い意志が運命を手繰り寄せる予感をさせて終ります。何年も心に引っ掛かっていた、青春の忘れ物の続編を、映画「君の名は。」で、みせてくれたような気がしました。
ジュブナイル作品にはエスパーものが多いです。そういうエスパーものを見てていつも思うのは、我々・精神科医への「世間の偏見」と「あるべき役割」です。こういうエスパーものは、決まって、ある日突然、主人公が超能力に目覚め、最初は「自分が狂ってしまったのでは?」と不安になり、やがて本当に超能力があるらしいと納得すると、今度は「自分の存在理由は何なのか?」と悩み、そして同様の仲間が集まり、共通の目的のため(敵を倒す、とか)に活躍します。中には、自分がおかしくなったと思う始めの段階で、精神科やカウンセリングをたずねる場合もあります。しかし、決まって、精神科医やカウンセラーは、「ノイローゼですね」とか「薬を出しておきましょう」としか言わず、役に立ちません。エスパー達への、社会の「無理解」の象徴として描かれているのが精神科医で、偏見ですね。
ある日、突然に超能力に目覚めたら、自分はおかしくなった?と思うのは当然であり、そういう人が精神科やカウンセリングを訪れる可能性はあります。そんな時、僕らはどうしたらいいのだろう?と常に考えます。
彼らの身に起きたことを、「常識」という物差しだけで判断せずに耳を傾け、不安や悩みや孤独感で押し潰れそうな心を支え、いつしか時が来れば、仲間や目的が見つかり活躍する、という希望を信じて、「その時まで」寄り添うことですね。不安な彼らが、「あそこに行けば、いてくれる」と思えるような「定点」になることだ。「わたしはここにいる」。固定観念に囚われない「非常識」さと、人としての誠実さが必要条件で、それから自分が病気をしない健康管理も大切だ。でも、実はこれは、普段の診療やカウンセリングでも同じなのです。心理部門もエスパー対応OKです。僕はと来たら、怪我に用心して、200歳まで生きよう。
BGM. 忌野清志郎「Baby何もかも」