心理部門「エスパー専門外来」

8/Ⅹ.(火)2024 雨でちょっぴり憂鬱 地球平面論者(フラットアーサ―)が増えてるらしい。

先週号の「FRIday」に磯山さやかが出てる。

2025年のカレンダーから3枚の写真を特別にみせてくれている。

先週の金曜ビバリーは、高田文夫・松村邦洋・磯山さやかで、磯山さやかのカレンダーの話題でひとしきり盛り上がった。松村邦洋は「磯山ちゃんの足の裏がいいね」とラジオで言ってたけどどれかな?と思ってたらこれですね。

足の裏が好きな人のためにクローズアップ。

 

ひとしきり磯山さやかのカレンダーで盛り上がりましたね。さて、前回の記事は「川原がエスパー魔美に救われた」という記事でしたが、今回はそのお礼をしたい。つまり、エスパーの相談を受けようという外来の新設です。

昔、12チャンネルの朝に、「おはようスタジオ」という新人アイドルの出る番組があって、そこにゲスト出演する新人アイドルは新曲情報などを「たぬきインタビュー」というコーナーで紹介してもらうのですが、「たぬきインタビュー」とは文字通り、質問の答えから「た」を抜いて答えねばならず、失敗して、「た」と言ってしまうと顔にタヌキの絵のシールを貼られて行くという罰ゲームが見所でした。皆、最初こそ警戒するのですが、インタビューが進むに連れ、ついつい1つ2つ「た」と言ってしまいそこが愛嬌なのですが、僕が今尚、忘れられないのは原田知世で、原田知世はショッパナから、「た」の字を連発して、インタビュー半ばにして、タヌキシールで顔が見えなくなっていました。途中からチャンネルをつけたら誰だか判らないです。今なら放送事故です。そんな原田知世が「時をかける少女」で映画デビューした時のキャッチフレーズが「恋の予感のジュブナイル」でした。僕は当時、受験生でしたが、「ジュブナイル」という単語を知らなくて辞書を引きましたよ。「10代」って意味でした。

ジュブナイルといえば、過去のジュブナイル作品にリスペクトをはかった「君の名は。」を思い出します。さすがにまだ観てない人はもう見ないと思うので多少ネタバレしますが、僕の印象的だったシーンを話します。主人公の少女が巫女さんで、口噛み酒、を造る儀式です。口噛み酒、とは、神様に奉納する神聖なお酒のことで、少女がお米をよく噛んで、液体状になったら吐き出すのです。当時の受付の大平さんと一緒にお昼を食べに行った時、「君の名は。」を観て泣いた、と言ったら「どこでですか?」と聞かれたから、「口噛み酒」と答えたら、ドン引きされました。↓。


主人公の少女は、この儀式を同級生にみられるのを嫌がっいてましたが、おませな妹が、励ましのように、「いっそ、生写真とメイキング映像もつけて、口噛み酒、を売り出せば良い」と発言してました。僕は、「商品化したら買おう」と一瞬、思いましたが、昔、ブルセラというのが社会問題になっていた頃、摘発された店主(おっさん)が、女子高生の「つば」、と偽って、自分の唾液を売っていたというニュースを思い出し、産地を見極める、とか、食の安全、ということにあらためて思いをめぐらせたものでした。↓。

この映画は、我々の世代には受けると思いました。それは、大林宣彦の尾道三部作のジュブナイル映画を彷彿させ、監督のちょっとした洒落っ気なのですかね?、ちょっとオマージュしてる場面もあってニヤニヤします。「ある!ない!」と自分のオッパイをもんだり、上半身裸で姿見に映るのは、「転校生」の小林聡美ですね。↓。

小林聡美は念のため、「下」も確認します。「ない!」。↓。


小林聡美は「転校生」の冒頭で大胆にもオッパイを見せましたが、「君の名は。」では光の加減で隠していました。これは映倫とか都条例とかの影響ですかね?コミケ関係でも、結構、問題になってましたね。「女子高生はヤバイから、女子校生にしよう」とか。つまり、女子高生は18歳以下でアウトだけど、女子校生なら専門学生とか短大も含むからOKみたいな、議論を聞いたことがあります。↓。

原田知世の「時をかける少女」のエッセンスもありました。「君の名は。」でも、タイムトラベルは重要なテーマですからね。原田知世の「時をかける少女」では、未来人・深町くん、が未来へ帰る時に、原田知世の質問に答えてこう言います。「時は過ぎるのではなく、やってくるものだ。だから、また会える。でも、その時、2人とも記憶はないんだ」と。それに答えて、原田知世は「また会えるの?私にはわかるわ」と本来なら絶対的な力を持つ「時間」に対して、私は忘れない、というピュアで強い意志の力のみで抗おうとする決意表明をします。↓。


この時に、意味は判りませんが、深町くんは、原田知世のほっぺに墨のようなもので、まるで落書きのようにします。上の写真の、原田知世の画面左側のほっぺが黒いのはそのせいです。「君の名は。」でも、ほっぺに落書き、はコミカルなシーンとして登場してますね。↓。


顔に落書きと言えば、劇場版「涼宮ハルヒの消失」の終盤でも、キョンが意識を失い入院してる時、「団長の責任」として、病室の床に寝袋で泊まり込んでいたハルヒが、意識を回復してキョンに起こされた時に発したセリフが「私の顔にイタズラ書きとかしてないでしょうね」というツンデレで、キョンも「したかったけどな」と返しています。こちらは、コミック9巻から。↓。



「涼宮ハルヒの憂鬱」でも、「時をかける少女」や「なぞの転校生」などには敬意を払っていますから、これらのテーマは世代を越えて青春には鉄板で、寝顔に落書きはラブコメの王道なのかもしれませんね。あっ、すみません。話が、「涼宮ハルヒの憂鬱」になってしまいました。
「君の名は。」で、大林宣彦の映画を連想した話に戻します。「時をかける少女」のラストの方で、大きくなった原田知世は、大学の薬学部に勤めていて、図書をいっぱい抱えて廊下を歩いていると、大人になった深町くんらしき人とぶつかって道を聞かれます。道を教えて、別方向に歩いて行くのですが、お互い記憶がないけれど、何かを感じたのでしょうね、まずは、深町くんが振り返って、原田知世は気づかずです。↓。


そして、深町くんが歩いて行くと、今度は原田知世が振り返りその背中を見送ってすれ違いのまま…。↓。


これは「君の名は。」では、歩道橋の上みたいなところで、よく似たすれ違いのシーンがみれました。↓。


「時をかける少女」は、原田知世と深町くんの二人の強い意志が運命を手繰り寄せる予感をさせて終ります。何年も心に引っ掛かっていた、青春の忘れ物の続編を、映画「君の名は。」で、みせてくれたような気がしました。

ジュブナイル作品にはエスパーものが多いです。そういうエスパーものを見てていつも思うのは、我々・精神科医への「世間の偏見」と「あるべき役割」です。こういうエスパーものは、決まって、ある日突然、主人公が超能力に目覚め、最初は「自分が狂ってしまったのでは?」と不安になり、やがて本当に超能力があるらしいと納得すると、今度は「自分の存在理由は何なのか?」と悩み、そして同様の仲間が集まり、共通の目的のため(敵を倒す、とか)に活躍します。中には、自分がおかしくなったと思う始めの段階で、精神科やカウンセリングをたずねる場合もあります。しかし、決まって、精神科医やカウンセラーは、「ノイローゼですね」とか「薬を出しておきましょう」としか言わず、役に立ちません。エスパー達への、社会の「無理解」の象徴として描かれているのが精神科医で、偏見ですね。

ある日、突然に超能力に目覚めたら、自分はおかしくなった?と思うのは当然であり、そういう人が精神科やカウンセリングを訪れる可能性はあります。そんな時、僕らはどうしたらいいのだろう?と常に考えます。
彼らの身に起きたことを、「常識」という物差しだけで判断せずに耳を傾け、不安や悩みや孤独感で押し潰れそうな心を支え、いつしか時が来れば、仲間や目的が見つかり活躍する、という希望を信じて、「その時まで」寄り添うことですね。不安な彼らが、「あそこに行けば、いてくれる」と思えるような「定点」になることだ。「わたしはここにいる」。固定観念に囚われない「非常識」さと、人としての誠実さが必要条件で、それから自分が病気をしない健康管理も大切だ。でも、実はこれは、普段の診療やカウンセリングでも同じなのです。心理部門もエスパー対応OKです。僕はと来たら、怪我に用心して、200歳まで生きよう。

BGM.  忌野清志郎「Baby何もかも」


症例T・K  高校生男子 「離人症」

27/Ⅸ.(金)2024 雨 受付&NSの新制服の試着、始まる

映画「ベルリン天使の詩」で、広場にいる「天使の像」は退屈です。それを表現するように映画は中盤まで白黒で風景が流れます。みてるお客さんにも「天使の退屈さ」を共有させる狙いか?と思うような退屈さです。それが急展開、「空中ブランコの美女」が出てから映画の世界はカラーになります。このように、男の子のモノクロームの世界を総天然色に代えてくれるのは古今東西、女子の存在だというお話です。

高校の時の教室は校舎の1番上の階で、僕の席は窓際の1番後ろだったから、授業中にぼんやりと眺める無人の校庭は殺風景だった。僕は、ある日、その風景が白黒に見えて、体育の授業で走ってる生徒達もカラクリ人形みたいに見えた。今思うと、「離人症(りじん・しょう)」だったのだと思う。

 

離人症:現実感が失われること。①内界意識離人症。自分は変わってしまった。自分だという実感がない。②外界意識離人症。周囲のものに実感がない。外界と自分の間にベールがあるようだ。景色や花を見ても美しいと感じない。③身体意識離人症。自分の身体、手足、顔が自分のものだと感じられない。自分の身体が生きていないようだ。(精神科ポケット辞典、弘文堂。より一部引用)

離人症は、精神科の症状の中で唯一と言っていいのではないか、自己申告の症状なので、誰からも気付かれなかった。むしろ、僕は明るく騒がしい人気者だったし。そんな頃、僕が考えたのは、この世はひょっとすると、猿山のちょっと頭の良い一匹の猿がみている夢で、その猿が目を覚ますと、僕も友人も家族も総理大臣も、みんないっぺんにこの世から消えてしまう、人類とは猿の夢の中の登場人物で、猿が目を覚ますと、跡形もなく消えてしまう世の中かもしれない、などと考えたりしていた。
そんな時代の話である。
僕は離人症を抱えてはいたが、授業中はうるさかったから教師達が参ってしまい、僕は島流しのように、教室の1番後ろの廊下側に移された。右側には真っ白い壁があった。僕は、授業は半分上の空で聞いていて、ふと頭によぎった考えや、思いついた発想を、その白い壁に書いて行った。ポエムや4コマ漫画や不条理な絵で、クラスメートからは「面白い!」とか、「もっと書いて!」と言われ、休み時間には皆が僕の周りに集まって、授業が始まると、皆は席について前を向き、僕1人、横を向いて壁にずっと何かを書いていた。これは他のクラスの生徒の間でも評判になって、見学に来る人も増えた。僕の学校は中高一貫校で、僕の中学の時の担任が噂を聞きつけ様子をみに来た。そして、「次の授業中、川原は授業を聞かなくていいから、落書きを全部、消すように」と砂消しゴムを2個渡した。仕方ないので、僕は言われた通り、消していたのだが、折角書いたのに、勿体ないなと思った。今みたいに携帯電話がある時代なら、写メとかに記念に撮っておけたのに。授業では、何とか文明の遺跡が発掘されたとか、パピルスがどうとかで、当時の古代人の生活ぶりを解説していた。僕は壁の落書きを消しながら、たった今、隕石が地球にぶつかって一瞬で、人類が滅亡して、偶然、僕の書いた白い壁だけが何億年後かまで残って、未来の歴史学者に発見されて、
「当時の地球人はこんな生活や思想だったらしい」
と推理され、未来人の歴史の教科書に僕の絵が載って、学校で教えられるようになったらいいな、と空想して、そうして、今、ここで一生懸命、勉強しているクラスの連中の努力も水の泡になればいいのにと思ったものです。

その頃の離人症をライカで再現してみました。

離人症の表情。カメラマン・心理の松井さん&監修・心理の徳田さん。

シウマイを食べるが味気もしない。カメラマン・心理の松井さん&演技指導・心理の徳田さん。

美味しい御馳走も砂を噛むようだ。

原因は名探偵ピカチュウでもわからない。ここからのカメラマンは受付の羽田さん。

心配して寄って来るシロウサギ。

2大会連続で金メダルをとったスケボーの堀米くんのマネをしてメダルをかけてもらったカビゴンを抱いても何も感じない。

人の心を見抜くエスパーニャンコに言わせれば、「それは心が虚しいからにゃ」。

ポチタを抱いても、

キメラ長官を抱いても、世界は白黒。

そんな中、未来を予知できる「スパイファミリー」のボンドは、天然色の未来をみせる。

ジャジャーン。それが石野真子でした。

石野真子の登場で僕の離人症はケロッとよくなりました。

下はほぼ当時の僕です。

調べてみたら、石野真子のデビュー曲「狼なんか怖くない」は、1978年3月25日の発売で、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」が1978年6月25日。真子ちゃんとサザンってどちらも、1978年デビューの同期なんですね。

BGM. サザンオールスターズ「わすれじのレイドバック」


月曜日はエネルギー療法

11/Ⅸ.(水)2024 はれ 紀子さま、58歳の誕生日。佳子さまと「源氏物語」テーマの刺繡展を観覧

都の救急当番が回ってくると「トリアージ」という仕事を任せられる。夜間や休日など精神科救急に寄せられた情報から優先順位をつけて治療の緊急性を選別するのだ。

今でも時々新聞でみることがあるのは「沖縄の学校でユタが祈祷をしたら、生徒が一斉に何十人も倒れた…」なんていうニュース。「沖縄に詳しい」人に聞いたら、ユタはシャーマンのようなもので今でも日常的に住民の生活に関わっていて、悩み事や相談事があって困っていたらまずはユタに相談に行き、「医者へ行くべき」か「ユタが祈祷をする」かを選別してくれるらしい。これはとてもいいトリアージだと思う。ちょっと違うかもしれないが僕の仕事も、患者の相談事を「脳の問題」として薬を使うか、「心の問題」としてカウンセリング的なアプローチにするか、またまたそれを自分でやるか、心理スタッフにゆだねるか、あるいは外部のより専門的に特化した機関にリファ―するかを選別するから、ちょっと似てると思っている。

脳と心の問題を大脳生理学や精神分析学をはじめとする様々な心理学などで最新の知見を勉強するのだが、ひとの心、というのはますます「わからない」ということが「わかって」くる。研究や実験や理論が発展すればするほど、未知なるものの存在がくっきりしてくる。それは「神の領域」にも近く、どうしても科学でわからないことで、ある種の心理学者が最終的に「オカルト」や「スピリュチュアル」とかに走るのもわからないことではない。

僕の立ち位置は「医者」なので一応そういうものの存在は「あるんだろうなぁ」と認めつつ、治療には積極的には取り入れない。再現性や客観性が立証出来ないから「科学」とはみなせないから。でも、周期的に根強い「オカルト」や「スピリュチュアル」や占いや心理ゲームへの関心は「科学」への不信感ともセットのようで二つがうまく補完されれば沖縄のユタみたいになるのかな?と思ったりする。

僕のこのブログ記事に時々出て来る「エネルギー療法とは何ですか?」とたまに聞かれる。カワクリは、火~土が診療日で日・月が休みなので僕は大抵、土曜の夜に浴びるように呑み、日曜は寝て、毎週「月曜」は体のメインテナンス・デーにしていて、色んな病院や美容院に通っていて、その主軸にあるのがエネルギー療法です。ちなみに下は、こないだの土曜に呑んだイタリアンでのつまみ。

サービスでくれた、タコ。

パスタ。ボンゴレビアンコ。

ピザ。イカと海老とトマトのジェノベーゼ。ジェノベーゼってどういう意味でしょう?べーゼってフランス語で「接吻」。ジェノは、「ジェントルマンの」の略かな?つまり「紳士の口づけ」みたいな、魔女の魔法をとく薬草でも使うのかしら?

話を戻しますが、エネルギー療法の基本は整体です。細かく言うとストレッチや内臓調整、エネルギー調整もします。その時の相談によって、邪気祓いや厄払いや除霊をしてくれます。場合によっては、僕はしたことないですが、前世療法までするみたい。しかし、整体などの前者はともかく前世療法などの後者は非科学的なので信用しない人はダメですね。恐山のイタコがこちらが一生懸命だと降霊してくれるが、「ジョンレノンを呼んで」なんて茶化しても津軽弁のジョンしか「降りない」のと似ています。あくまで当事者と施術者の共同作業で「作業同盟」が結べないと十分な力を発揮できないそうです。

僕は自分のジャンルに足りないところのヒントになるかなと思って、時々、スピリュチュアルや神道や気功や前世や地獄のことやカタカムナや宇宙人や次元上昇のことなどを教えてもらってメモっています。エネルギー療法の先生にはもう10年近くみてもらっています。若いハーフのような女性です。余計な物(怪しげなエネルギーのこもった水、とか、開運グッズ、とか、パワーストーン、など)を売りつけて来たりもせず施術代しかとりません。費用は相場(そんなものあるのか?)よりうんと安いので「もっと値上げしたら?」と勧めてるのですが、「自分のご飯が食べれればいい」らしくあまりお金をとりません。僕の祖母もちょっとシャーマンみたいなことを子供の頃にやっていて、そう言えば「金もうけに使おうとすると能力は落ちる」と言っていました。

ホームページも看板もありません。完全な紹介制。1回紹介すると責任と覚悟を持って引き受けてくれるます。昔のシャーマンとか陰陽師とかエクソシストの系譜なのでしょうか、彼らって医者と似てるなと思ったりするのは命懸けで、それはきっといつかの時代まで「救済者」って意味では両者にそんなに差がなかったからなのでしょう。

何でもそうですが「万能」なものはありません。「病態水準」によっては「適応外」の人もいるから、やっても大丈夫かどうかは僕がトリアージします。興味があれば診察で聞いて下さい。

BGM. 石野真子「日曜日はストレンジャー」


カワクリ・カウンセリングキャンペーン復活礼賛

6/Ⅸ.(金)2024 はれ 先週の台風の余波で今日も激混み。

今週は先週の台風の影響で激混みなので、こんな気分のTシャツで出勤。カメラマンは文化部長(部員ゼロ)のスーちゃん。

Tシャツの文字をアップ。

お昼休みは昨日と同様、蕎麦屋へ。ライカのカメラのアプリで撮ってもらう。カメラマンは心理の松井さん。

カメラマンから「おそ松らしく、シェーのポーズを」と指示が飛ぶ。

お昼ご飯のサイドオーダーは鶏の唐揚げ。3人いるから(もう一人は心理の徳田さん)「一粒づつ」分ける。

メインはカレーうどん。これもライカのカメラで。

さて、今日は近頃、多い傾向のお悩みを専門ジャンル別に紹介。カウンセリング部門の啓蒙記事です。「あっ、これ!」と思い当たる方は診察や電話や受付で申し込んで下さい。

 

・「花嫁になる君に外来」(花婿でもオッケー)

世代間伝達という言葉があります。これは部活のしごきの悪しき風習が受け継がれていくように、自分が下級生の時に上級生にされて嫌だったのに、自分が上級生になったら、「伝統だ」などと言って、やってしまうのと同じで、世代から世代へと伝達されてしまうことを言います。

ロンブーの淳さんが言ってましたが、自分が嫌だなと思った風習は自分が上級生になった時に終らせた、というように、世代間伝達はどこかで止めることが出来ます。多分、必要な条件は、自分が嫌だったことをしっかり受け止め、言語化し、整理して、論理的に再構成出来ること、だと思います。この作業を一人でやるのはなかなか大変です。

世代間伝達は、子育てでもよく起きます。情緒豊かに育った子は、情緒豊かな親になる反面、虐待を受けて育った子はやがて虐待をする親になってしまう、負のスパイラルが起きることが残念です。子育てには、自分の受けた体験が影響する訳です。不幸な体験をした人は無意識にそれを繰り返すのです。幼少期に未解決な問題を抱えて大人になってる人がたくさんいます。なんとかかんとかやっていても、自分が親になった時、寝た子が起きるように、潜在化していたテーマが我が子に投影されて、子育ての中で蒸し返されるのです。そうやって「育児ノイローゼ」として受診される方はたくさんいます。我々はそれを手助けする方法を持っています。

でも思うのです。それをそうなる前に未然に防げたらいいのに、と。子育ては、誰でも例外なく、自分の問題と向き合う作業ですし、多かれ少なかれ、世代間伝達の問題を持っていない人はいません。現代は、幸せと不幸の基準があいまいです。ものすごく不幸ではないけれど、すごく幸せでもない、という人がほとんどです。ですから花嫁になる君へ、母になる前に、自分の問題と対峙して、整理しておきませんか?花嫁修業の一環として。ま、でも、結婚したからって、必ず、母親になる必要なんてないんだけどね…。

 

・不倫専門外来

19世紀末ロンドンでは、裏表が綺麗に峻別されていて、その世界観が、「ジキル博士とハイド氏」のような交代人格を産んだ。社会が腐敗すると少年犯罪が増えるように、児童や思春期の子供はその空気感に敏感に反応する。マスコミが偽の正義感みたいに本質をみないで不倫問題を表面的に扱ってると、そのうち若年層で解離とか多重人格が頻発するぞ。数が増えれば増えるほど、病気か仮病か見分けられなくなる。俺は知らないからな。(誰に宣言してる?)
という訳で、そうならない為にも、「不倫専門外来」を作ろうかと思います。不倫は、相方への裏切り行為です。しかし、日常的には氾濫しています。それにより心の傷を負った人のケアは通常どおり行って行きます。今回の提案は、そうではなくて、「不倫をしてしまった人」のための専門外来を指します。
①性の暴走、②特殊な性的趣向性、③罪悪感、④わかっちゃいるけどやめられない、⑤配偶者への不満、⑥幼少期からの屈折した歴史、⑦やり直すにはどうしたらいいか、などにスポットを当ててみます。カウンセリングと心理テストで評価して、5回くらいをメドに行う、コース・メニューです。

 

・いじめ、DV、ハラスメント専門外来

これは、いじめをうけた人ではなく、「加害者」、のためのものです。いじめた人の心の闇にスポットライトを当てます。DV、モラハラも同様です。これらの行為は決して許されることではありません。しかし、結果だけを咎めて、「なぜ、そうしてしまうのか」、にFOCUSしないと、相手を変えてまた同じことを繰り返しますね。校医で、いじめの相談を受けたことがあります。それは「被害者」ではなく、「加害者」の面接でした。その子は、親の呼び出しや、生徒指導、校長譴責(けんせき)など、こっぴどくやられて、ふってくされて、投げやりでした。「どうせ、あんたも同じだろう」という態度でしたが、何度か会っているうちにバターのようにとろけてくれました。いじめは何があってもいけないことですが、いじめる側にも事情や都合があるでしょうから、その辺を聴いてみたのです。パワハラを受けた人を助けるために事実関係を診断書に書いて提出したら、パワハラしてる人から自身のカウンセリングを求めて来られたけれど、まさか二人を同時にみる訳にも行かないので断りました。今思うと、主治医は無理でも、カウンセラーにまわしてあげれば良かったです。これらが専門外来を作ろうと思ったきっかけです。
専門外来では、加害者の①ブレーキの効かなさ、②相手のどこがムカつくのか(それは自分が抑圧してる部分と重なるからか?)③反省してもまたやってしまう愚かさと自己嫌悪、などをカウンセリングと心理テストで、歴史を振り返り、原因を探り、解決のお手伝いをする、コース・メニューです。いやな自分とさよならしましょう。加害者側の心のケアについて皆さんはどう思いますか?

 

・安楽死専門外来

9/1は、18才以下の自殺者数が1年で一番多い日だそう。自殺、は仕事柄、常に向き合っている問題だが、いつも思うのは、命かけてまで行く価値のある学校なんてないってことで、行きたくなけりゃ行かなきゃいい。いまどき、「すべての人間が平等だ」、と本気で信じ込んでる人は少ないと思うが、人間誰しも、「自分の意志で生まれて来たんじゃない」、という点と、「自分の望むタイミングでは死ねない」、という点のみにおいては平等だ。そんな宿命に抵抗する手立は自殺くらいしかないのだとしても、失敗して生き残るとかえって面倒だったりするし、成功するにせよ、死ぬまでは生きてないといけない訳で、決意してから死ぬまでの時間は恐怖だろう。自殺をする勇気がないのなら、せめて安らかに死なせて欲しいものだ。
研修医の頃、精神科の主任教授に、「川原君、今後の高齢化社会で重要なことは何だと思う?」と質問された。僕は少し考えてから、「安楽死ですか?」と答えたら、教授は、真顔で「惜しい!」と、うなった。ちなみに、正解は、「安心してボケられる世の中作りだ」って。
自殺と安楽死って、ニュアンスが似てる部分があると思う。僕の通ってた医学部の教養課程では、「医療倫理」という講座があって、主に、①「安楽死」と「尊厳死」の違い、とか②ヒポクラテスの誓い、などがテストのヤマ、だった。安楽死は、医者が末期患者などに薬を用意して自殺幇助(ほうじょ)することで医者が関与したケースで、一方、患者が同じ薬を自分で手に入れて使用したら、それは自殺になる。尊厳死は、患者の意志によって延命治療を止めて自然に死を迎えること。つまり、安楽死と尊厳死の違いは、医者が手を加えるかどうかの差。ちなみに「ヒポクラテスの誓い」では、医者は誰に頼まれても決して死に至る薬を与えない、という項目があり、安楽死は認めていない。
時代の移り変わりで価値観は多様化し、安楽死を認めている国もある。スイス・ベルギー・ルクセンブルグ・オランダ・アメリカの一部・オーストラリア・カナダ・コロンビア。この中でも、スイスだけが外国人の安楽死を行ってる。末期癌の疼痛や、痛みの激しい不治の病の安楽死は、了解しやすい。問題は、精神的な苦痛をどこまで考慮するかだ。ステージは末期ではないが独り身でゆくゆくは老人ホーム、これまで幸せに生きて来たがこれからは不幸になるだけ。それならば不幸になる前に逝きたい、という人が安楽死を希望したら?何十年も連れ添った配偶者が末期癌で、本人は病気ではないが、配偶者のいない人生は考えられないと、夫婦同時安楽死、が論争になったこともある。ベルギーでは精神疾患や重症の「うつ病」などにも、安楽死、が認められたケースがあるという。一昔前は、うつ病患者に自殺をしない約束をしたものだ。うつ病の病前性格は真面目だから、「約束は守る」とか、「医者に迷惑がかかる」、ことがブレーキになると考えられていた。随分と、性善説だ。電車に飛び込むと賠償金とか、飛び降りは誰かをまき沿いにするからとか、が自殺を食い止めている場合もある。しかし、本当にヤケになって、死ぬしかない人は、死んだ後の心配など知ったこっちゃない、のであるのも確かで、精神科医がそんな浅い性善説に頼っていては、患者に見透かされて、「何もわかってないな」と見限られてしまう。
10代からODやリスカを繰り返し、精神病院に強制入院になり、病棟で首吊り自殺をする、なんてケースはよくある。だから閉鎖病棟の持ち物検査は厳格で、ベルトや紐靴もNGだ。それでも本気で死のうと思ったら、入院させても100%は防げない。シーツを破ったり、舌を噛んだりするから。もし、こういう人に、安楽死、を認めてあげたら、逆に抑止力にならないだろうか?自殺が出来ない自殺願望のある人の最大の苦しみは、死ねない、という事実で、「この薬さえ飲めばいつでも自分のタイミングで楽に逝ける」と思えば、結局死なないで済むケースも出て来ないか?ただ難しいのは、自殺の意志や本気度は今日言ってることと5年後に言うことが全く違うことがあることだ。「うつ状態」の時と、薬を飲んで「良くなった」時では言ってることが、180度違い、そのどっちが「本気」なのかはわからない。安楽死はまだ日本では認められていないが、今後の動向はわからない。早いうちから、「安楽死専門外来」、を立ち上げておくと、その道のオーソリティーになって、認可されやすいかもしれない。だから、自殺を今考えてる人は、もう少し待てるなら、「安楽死専門外来」、に通ってみたらどうか。医者が手助けして、無痛で20分くらいで苦しまずに死ねて、事故物件とか残された人にも文句を言われないで済む。
この間、自殺願望の強い女の子に、「安楽死専門外来」を考えてるんだとフライング気味に話してしまった。すると驚いたことに彼女は、「私はスイスに行きたいんです」と教えてくれた。彼女は、どんなビザをとったらいいか、とか、手続きとかを一生懸命調べていた。思わず僕は、「あなた、よく勉強してるね」って感心すると、彼女は照れ笑いして、「そんなの皆、知ってますよ」と謙遜した。
彼女の言ってる「皆」がどの辺りのグループをさしているのかは疑問だが少なくとも「自殺」をあきらめて、「安楽死」に希望を託す人たちがいる空間がこの世に存在してるようだ。僕が、「色々と難しい問題はあるが、そういうことも考えているんだ」と告白したら、彼女は、「それはとても安心しました」、「もう少し生きててもいいかな」、と言った。
繰り返しになるが、一番難しいのは、人間は状況に依存しているから、状況次第でコロコロ考えが変わったり、衝動的になったりする点だ。だから、一時の勢いで重要な決断をしない方が良い。安楽死、もそうだ。人間は信用出来ないが、中でも一番信用おけないのが「自分」だったりするものだ。一生懸命生きてる人は一瞬一瞬を大切にしてる分、発言に一貫性がないのと似ている。だから賢明なのは、自分のことをよく知っていてくれる人を身近に置いておくことだ。家族や友人でもいいが彼らは思い入れがある分、ノイズが入るであろう。だから、専門家に定期的に通い、そういうことにブレない恒常的な外部オプションを作っておくのが良いと思う。それが、安楽死専門外来、の設立の理念。ブラックジョークみたいに思うかもしれないけれど、「自殺」がこれだけ問題になっているのだから何かしなきゃね。
膣内に一度に射出される精子の数は、数千万~数億個で、それが日本の人口と同じ位で、それで精子の時点で競争に勝って受精したのだから、生まれて来ただけで人間は「勝ち組」って言う人もいるけれど、そういう人が数千万~数億人いるのだから、その理屈で自分を「特別」と思えるほど、お気楽にはなれない。生きること死ぬこと、を考えるのは難しいですね。「安楽死」はとりあえず、脇に置いておいて、「生きる意味」とか、「自殺は何故悪い」とか、「人殺しは悪いのに戦争だと英雄になる矛盾」とか、このご時勢もふまえて皆さん、どうお考えになりますか?「なんで頼んでもないのに生んどいて勉強しなきゃいけないの?」とか。

 

・休職中、復職準備・短期集中カウンセリング

オーバーワークやハラスメントで心身が疲れた人は、燃えつき症候群になる前に、早目に休むのも手です。ストレスから距離をとり休息をとることが、「くすり」になる場合もあります。ただし、不慣れな休暇は、将来の不安を煽ることもあります。そんな不安の源になるものを見つめ直し、働き方や生き方、本来の自分を見失っていないかを考えるカウンセリングは、復職準備として有効です!

 

・アイデンティティーを考える

アイデンティティーと言えば、みうらじゅん、のマンガ「アイデン&ティティ」が面白いですね。①でボブ・ディラン、②でジョン・レノンが主人公の前にあらわれて、メッセージ(彼らの歌詞の引用)を送り、主人公(バンドマン)が商業主義的な「ロック」の流れに抗って、社会にプロテスト・ソングを発表してゆく成長物語。ちなみに、ディランとジョン&ヨーコは主人公にしか見えないし、その声は彼にしか届かない設定。下が、みうらじゅん、の「アイデン&ティティ」の載ってた雑誌。↓。


カワクリでは、今、アイデンティティーを考えるキャンペーンをやっています。
しあわせの基準がわからない現代、不幸の基準もわからない。高学歴の人がバカなことをやっているニュースが毎日、聞こえる。勉強だけ出来てもダメなことは、もはや国民に啓蒙されたのではないか。それなのに、勉強しろ、と言う。わけがわからない。青春はどうなる?利口の基準もバカの基準もわからない。自分が利口かバカかもはっきりしない。中途半端もつらいぞ。いっそのこと、ぐうの音も出ない理論で、お前はバカだ、と納得させられたら、むしろ楽に生きられそうだ。自分はバカだと思っても、バカの考えだから反対なのかも。じゃ、自分は利口か!やったー。こんなことを毎日考えている。多かれ少なかれ、みんなも同じじゃないか?自分とは何者か?それを、ここではアイデンティティーと呼んでみる。
イジメやハラスメントなどの外的なストレスは、耐えたり、逃げたり、工夫してしのぐのだが、内面的なアイデンティティーは、外的なストレスと同じくらいやっかいだ。アイデンティティーには身分証明の意味もあるが、自分が所属する準拠集団(学校・会社・家族・都会・男/女役割etc.)の求めるものと己の価値観に差がありすぎて、しっくりこない。昨日や今日に始まったことでもない。そういう意味では、逆説的だが、アイデンティティーがわからない人生こそが自分のアイデンティティーだ。これじゃ、禅問答か言葉遊びで、まるで答えになってない。世間はそんなに甘くない。そこで、お待たせしました、今回のキャンペーン!自分の歴史やルーツや生い立ちや風土や文化を専門家と一緒に見つめ直し、アイデンティティーを考える。そういう作業がカウンセリングなのだと考えている。

 

・リベンジ・カウンセリングの提案

過去にカウンセリングを受けたが、「効果がなかった」「ただ一週間の報告をするだけだった」「話すことがなくなった」という理由で中断したというカウンセリングへの不満を聞くことがある。彼らの言い分は、事前に心理テストを受けたり、自分史まで用意して、一大決心して、やる気まんまんだったのに、もうカウンセリングはこりごりだと言う。言わんとしてる意味は痛いほど判る。しかし、だからこそ、そんな人に、言ってみたい。リベンジ・カウンセリングの提案、を。言いたかないけど、「相性」や「カウンセラーの技量不足」だったのかもしれないから。人によって傷ついた心は、人でしか癒されないように、カウンセリングで負った心の傷はカウンセリンが請け負いたい。良かったら、別の治療者、とやり直してみませんか?

 

・人生脚本

「劇的」というとドラマティックというイメージが思い浮かびますが、テレビでは一体何本のドラマが流れているのでしょう。きっとつまらないドラマも五万とあるのでしょうね。我々の人生を「劇」にたとえる場合もあります。主人公は「自分」です。精神療法的に考えると、人生には本人でも気づいていない「台本」を各々が持っていて、配役が決まると周りの人にその台本を配り役を演じさせるのです。シチュエーションは違えど、大体、同じ結末になります。それはそうですね。台本が同じだから。この台本の曲者なところは無意識に書かれているところです。人生が悲劇なのか喜劇なのかはその人の台本によるのです。そこでは脇役・登場人物の個性はあまり重要視されません。「監督=脚本」にはさからえませんからね。あんまり無茶なことをする役者だと、「影武者」の「勝新太郎」のようにおろされてしまいます。だから多くの場合、どんなに善人でも「その人の台本」が「どうせ人間はみんな最後には私を見捨てる」というものだとそうします。選ばれた役者が「冷たい人」ならまだマシですが、「根は優しい」なんて場合は悲劇の度合いが増しますね。上げて下げて、ですから。同様に、「男は結局、体が目当てなだけだ」って脚本に選ばれると、本当は紳士なのに、非道なことをさせられるのです。そして主人公の台本だけが勝ち残り、「どうせ~なんて~だから」という人生のテーマが太塗りされて行くのです。

我々精神療法をする人間は時として、この台本に着目します。それは反復的に同じことをその人が繰り返している場合、その台本を読み解き、可能なら書き換える作業を提案します。これは無意識が作ってるので過去の人生を紐解いて、どうしてこんな台本が作られたのか、を分析して行く訳です。なぜそんなことをするかというと、書き換えられるものならそうした方がいいかもしれないからです。別にそれが分かったからって書き換えなくてもいいのです。「書き換える/そのままで生きる」その選択は患者さん自身がすればいいのです。ただし、選択肢は多い方が良いというのが我々の考え方です。台本で割とよくあるテーマに、「成功しそうになると破滅する人」というのがあります。ここぞという時に無意識下で親を乗り越えてはいけない、という遠慮のような親孝行のような忠誠心が働く訳です。これも無意識の仕業なので、意識化していればいい訳です。「いつもダメな男を引いてしまう女性」も相手にそういう台本を渡してしまっているのかもしれません。その男の人は「あなた」じゃなければまともな男だったのかもしれません。人生は難しいですね。

手塚治虫の「どろろ」に白面不動という妖怪が出てきます。自分の顔を持たないために、次々に人の顔を欲しがります。白面不動によってかりそめの命を与えられた手下の女は白面不動の言いつけで人間をだまして谷に落として殺します。殺す時、この女は、相手が心に思う人間の顔に成りすませるのです。これではひとたまりもないですね。「どろろ」の前にあらわれた女は「どろろ」の母親の顔になり近づきます。いつものように生贄にしようとしたのに自分のことを「おっかちゃん」と慕う「どろろ」に情を抱いてしまい、白面不動の命令に背いて、「この子だけは助けて下さい」と逆らってしまうのでした。このように我々の好きな話は、こういう「台本」が書き換えられる時なのかもしれません。それは二つの「台本」がぶつかってどっちの台本が生き残るのか、という見方も出来ますね。それこそ劇的ですね。

うちには3人の臨床心理士がいます。彼女らの仕事は精神療法です。彼女らがその仕事を選択したのには彼女らの「台本」があってのことでしょう。そこは一括りには出来ませんが、共通するのは、専門的なトレーニングと実践的な理論と戦略的な方法論を持って、カウンセリングに臨んでいることです。数いる臨床心理士の中から何故、この3人がうちにいるのかと言えば、それは僕が面接して選んだからです。選んだ基準は、僕の臨床的価値観に近いからという理由です。どうですか?安心ですね。

 

・専門外来〜幸せになる?!〜

そして、1番新しいのが心理のスタッフが書いた記事「幸せになる外来」です。これはリンクで飛べるようにしたから良かったらみてやって下さい。下は僕が中学の卒業文集に載せたイラスト。「幸福の定義」付けをしていますね。身もふたもないですが、ま、そこはひとつ、子どものやったことなので。

 


出口戦略

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。はじめてここを見て「ゴミ箱?」って方は前の記事を読んでみて下さい。ま、読まなくても「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

31/Ⅴ.(金)2024 雨 大谷翔平「ジャンプスポーツ漫画賞」審査員に

病院に来るきっかけは「症状」~不眠とか過呼吸など。それを治療するのは薬、それ以外に精神療法。あるいはたくさんの(多職種の)ひとが関わるのは、人間は社会的な動物だし、価値が多様化した世の中だから自分らしく生きる、よりよく生きる、美しく生きるという悩みが必ず残るから、「症状」はそういう問題と向き合う入り口に過ぎず、「治療の終わりは?」という出口戦略は、患者がもう一人で大丈夫と思うまでで、それまでは「ここ」を使っていていいから一緒に考えるから、支えるから、「症状」がなくなって、薬がいらなくなっても、「ここ」に来てていいから、そう考えてここのクリニックを作って、他のクリニックとの差別化を考えたし、それがうちのアイデンティティーだから、「もう来なくていいよ」ってこっちから別れを切り出したりは絶対にしないから、何を言いたいかというと、「安心して」良くなっても大丈夫です、ってことです。

BGM. 坂崎幸之助が語る、大瀧詠一「君は天然色」 松本隆の妹さんへの想いを歌詞に反映

大瀧詠一「君は天然色」


Gさんのソーダ水

G「明日徳田先生のカウンセリングと、診察の予約をしていたのですが、(その時間息子を見てもらう為の)父が忙しく、また母も具合が悪く、キャンセルせずを得ない状況になってしまいました。先週も同じ理由でカウンセリングを当日キャンセルしてしまいました。ちなみに父は来週も忙しいらしく…次のカウンセリングはしばらく未定となりそうです。川原先生の診察は、土曜などに会いに行きます🙋‍♀️何卒よろしくお願いします。」

僕「子供は連れて来れないよね??」

G「不可能ではないかもしれませんが、泣いたりぐずったりはするかもしれないです💦」

僕「1時からにしたら?そしたら、俺がみててやるよ。明日のその時間はたまたま暇なんだよ。明日は俺の母の命日だから、なんとかしてやりたいんだよ、個人的には。故人だけに。診察室で玩具あるし。喋れるんでしょ?男同士何か話すよ。」

G「まだ喋れないんです。ガッコ(だっこ)なら言えます。」

僕「俺、仕事柄、話通じない人、慣れてる。原さんもいるし。なんなら、公園に連れてく。」

G「話通じない人、慣れてるって…笑ってしまいましたが、有難うございます。息子は‘ソーダ水’というあだ名で一歳5ヶ月です。」

僕「喋れなくても絵は描けるの?たとえば、離れてる間のお守りに母子で描いた絵を各々持ってたら?」

G「クレヨンとか色鉛筆を投げたりして遊びます。苦笑。なにかお守り的なの探して行きます。今年で一番温かいです。。😭」

僕「まだ3月だけどな」

G「では行ってもいいですか?泣いたりして手がつけられなったら、川原先生と息子もカウンセリングルームに入ってきてください。徳田先生がオッケーなら🙇」

僕「徳田さん、原さんともオッケー。了解です。」

G「本当に有難うございます。ちょっと場慣れも必要なので、12:30過ぎくらいの少し早めに伺います。よろしくお願いいたします!!」

僕「人生は一発勝負だけどな。」

G「そうですね。先生のお母さまも見守ってくれてるのだし、心強いです。」

僕「うちの母は、俺に甘い❕」

G「先生をみれば愛されてたことは分かりますよ笑」

僕「俺がこんな魚の黒い皮しか食べれない偏食でも、

従業員(当時は10人以上で一緒にご飯を食べてた)の、皮を強奪して、僕に与えてた。それも愛?きっと愛?もしかして愛?松坂慶子か?」

G「笑!」

僕「お守りづくりを12時半からやろう。」

G「了解です!なんだか楽しみになってきました😊 画材はお願いしても良いですか?」

僕「画材はありあわせで。ありあわせ、って料理が好きな子が多いらしいね。みんな違うメニューなのに。OK牧場!」

 

元受付の鈴木さん(元うかいさん)にも助っ人を頼む。直前に連絡が入る。

鈴「準備してたのですがお昼寝してしまって行けませんでした😫がんばってください!」

 

Gさんはお花を持って来院。母への供物か。お花ありがとう。

 

僕「写真、撮った。これブログに使いたいけれど良い?子供=クライエントで、僕はカウンセラーで、情動調律したりあやしたり相手が何を欲してるのかを不器用ながら探す50分が、カウンセリングと似てるなと思い、患者も本気、こっちも本気の真剣勝負だと思いました。退行現象とか、共感とかホールディングについて考えさせられたので、記事を書こうと思います。勿論個人情報はぼやかしてね。オッケー?」

G「あの時間でこんなにいっぱい撮ってくれたんですね‼️ いい写真ばかり🙌落ち着いたら家族にも見せます。ありがとうございました。‘ソーダ水’と行けて良かったです(smile)」

僕「で、出来れば、写真を使いたいんだよ。ぐずる子。あやす。泣き止む。他の人に変わろうとすると泣く。また抱っこで泣き止む。座ると泣く。ゆすったり、歩き回ると泣き止む。作業をやめると泣く。高い高いは嫌い。心臓を合わせる抱っこが安心。そのうち疲れて寝る。他の人には代わってもうまくやれず。でも、見守ってくれてるのが安心。ワンオペ大変だわ。という写真を20枚くらいで顔を隠したりして。子供と原さんや渡辺さんは隠した方が良いかな?加工してくれない?」

G「↑の文章がもういい感じです👏心臓を合わせる抱っこが安心。分かります。原先生や渡辺さんのことは分かりませんが、息子は(先生がご希望でしたら)顔出て大丈夫ですよ。記事楽しみです(moon laugh)記事書いてくださーい‼️写真も載せてください🌿🐥」

とのことだが、誘拐犯とか出ると嫌だから、文化部長(部員ゼロ)スーちゃんに頼んで加工してもらった。

海老反って泣き叫ぶ‘ソーダ水’。

ママがいなくて泣く‘ソーダ水’。

顔中の分泌物を総動員する‘ソーダ水’。

和傘であやす原さん。海老一染之助・染太郎か?

頑張れ!海老一。

海老一染之助・染太郎が、令和生まれ・‘ソーダ水’にはハマらず。

泣きすぎて過呼吸になるから心臓と心臓をくっつけ、‘ソーダ水’の心音の周波数に僕の周波数を調律する。

泣き止む‘ソーダ水’の分泌物をティッシュで優しく拭いてくれる原さん。‘ソーダ水’は安いティッシュには顔をそむけるが高級品質のティッシュだと受け入れる。高級ティッシュは味も甘い。ミルクの味か?

泣き止んだので散歩しながら歌を歌う。

選曲ミスでまた泣き出す。

仕方がないからお父さん抱っこ。お父さん抱っこは、お母さん抱っこより高い位置に目線をあげる。子供と作る胸の間の空間面積が広がる。

それは嫌だろうと原さんが手を添え、お母さん抱っこに修正する。

お父さん抱っこからの~

お母さん抱っこ。

これだけのサービス精神にも不満を隠さない‘ソーダ水’。

妥協を知らぬのか?‘ソーダ水’。

受付の渡辺さんに代わってもらう。が、2秒くらい抱いて泣き止まないと「やっぱりセンセーがいいよね」とニセ読心術を使い、僕に返す。

抱っこしながら周遊してみる。

泣き止まぬ‘ソーダ水’。「泣きたいランキング2位」は川原。

キャッチボールのコツは相手の取りやすい場所(主に胸とされる)にコントロールよく投げてやり、相手の暴投は全力でジャンプしてでも全部取る。ショーバンも胸で止める。

とにかくそれを繰り返す。

すると相手の投げる球も段々こちらの取りやすいところに来る。

それは人と人とのコミュニケーションと同じだ。明石家さんま曰く、「会話はキャッチボールや」。

こうしてスタン・ハンセン級の不沈艦、‘ソーダ水’も眠りにつく。

力が抜けてこちらに体重を任せてくれると、同じ質量なのに軽くなる。

‘ソーダ水’の寝顔。

山田パンダ曰く、「僕の胸でおやすみ」。

こうして男の中の母性が発揮された。何も母性は母親だけのものではない。逆に女にも父性がある。美輪明宏のヨイトマケの唄、よろしく。人間の理想形は中性ではない、両性だ。

1才半から2才半をラプロシュメントといい、喜怒哀楽が暴れ馬のように走り回る時期のことを言う。

ポチタが‘ソーダ水’を見守る。

原さんがやさしく見守る。

安全な抱っこは、抱っこする僕が見守られて初めて成立する。伊藤つかさ曰く「見つめていてね」。

‘ソーダ水’の顔を覗き込む原さんの視線が夏の湘南を訪れる人のように優しい。何故、海が見たいのだろう?もう若くもないのに。「せめて沈む夕陽に間に合えば…。ただそれだけのこと」。

こうして走り回る暴れ馬を手名付けたカウボーイハットをかぶらない令和のカウボーイ、ビル・ワット。

育児で大切なのは赤ちゃんのリズムを良く知ること。恋愛と同じだぞ、男ども。

写真を送ったら元受付の鈴木さん(元うかいさん)から返信メール。

鈴「楽しそうですね✨いいな〜行きたかったです☺️Gさん、頼れる場所があってきっと安心したと思いますよ☺️」

これはGさんが徳田さんとカウンセリングを行った50分の出来事。たった50分でクタクタ。「今や核家族の時代ではない。すべての大人ですべての子供を育てるのだ」を有言実行してみたが、なかなか無責任に発する言葉ではないと思った。そしてワンオペのお母さん(お父さん)には頭が下がる。

僕は実家とは縁がないし、墓の坊主と喧嘩したから墓参りにも行かないが、たまたま母の命日に子供の扱いを任せられたのは特別な意義を感じた。

Gさん、カウンセリング、どんなだったのでしょう?

 

BGM. たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣!


行き暮れて雪

6/Ⅱ.(火)2024 雨 全力脱力タイムズに臨時アナウンサー役で小倉優子が出演しこりん星キャラを披露するも、下手になってた。

 

書こうが書くまいか迷った。記事にするべきか。名誉棄損で相手が「5億5千万」くらいの賠償金を求めて来てもやだし。それよか「ブーメラン」もありうるし。かと言って精神科救急のあまりのひどい現実を「専門家たち」が分かってなかったり、医者のプライドがなくなり「タイムカードで働くサラリーマン化した」弊害で医者のアイデンティティーである「責任と覚悟」が風化して、迷惑するのは患者で、それも「錯乱」してる者への一定の対応はあれど、問題は実は自殺する患者の多くは「錯乱」してるものではなく、smilling depression(微笑みうつ病)という「顔で笑って心で泣いてる」「現実検討力をギリギリ有す」タイプで同居してる家族だって気付けない。IPPONグランプリみて笑ってたかと思うと部屋に帰ってODする。

その状態ではおそらく僕がみても診断出来ない。プレコックス・ゲフュールのような「匂い」もしないし。唯一、当人だけが「病識」があって、本人が信頼できる人だと合格した人にだけ伝えてくれる「SOS」。それをどうすくえるか。それをフォローする社会的システムがない。自分の患者は自分ところでみろ。あとは知らねぇよ、という救急体制に対する問題定義だ。なんとか白書で「自殺者何万人」って言ったてまずはこういう患者の救出だろうが。

 

しかし書いてるうちに特定の医療者への悪口になる。期待してた分、腹が立つ。「みそこなったぞ」。それで怒りのペンを握ろうと決意。土曜日は腹が立ち過ぎて酒も呑まずに知り合いや同門の医者に、その病院の文句を吹聴してた訳だが反応はイマイチ。「ひどいですねぇ」と上っ面だけ同情してくれるのは良い方で、「どうせ酔ってんでしょう?」「酒が覚めたら聞くよ」「●●は大学病院より高水準だよ」など、ひどいのは「サラリーマンを馬鹿にするな」だと。ま、そりゃそうだが、前後の文脈みりゃ何を言いたいかわかるだろうに。切り取りするな。あ~、いわゆるこれが「セカンドレイプ」って奴だな。それで土曜はふて寝。

日曜は昼の3時くらいに目が覚める。すぐ呑みたい。しかし、コロナ以降、「通し」でやってる店がない。2時でランチが終り夜は5時から。前にどっかの店で「その時間を開けると質の悪い客がダラダラ居座って、5時に来る上客が入れないからやらないんです」だって。なるほどね。でも今日の俺は5時まで待てない。そこで足で探した。町のすみに小さな蕎麦屋をみつけた。

芋焼酎を頼む。そば湯割り。

つまみは、もつ煮とシウマイ。

シウマイはウマいから毎週食いたいのだ、はバカボンのパパの名言。僕は崎陽軒シウマイが1番好き。

芋焼酎お代わり。

こんなメニューになっています。

だから、シウマイと芋焼酎をお代わり。

〆はチキンカレーライス。それと芋焼酎。

チキンが、新宿中村屋のインドカリーみたいです。

と、全く蕎麦屋の暖簾を無視したオーダーでした。確かにこりゃ「質の悪い客」だ。でも、開いててくれてありがとう。帰りは5時過ぎてた。

 

翌日(月)はメインテナンス・デー。怒りとストレスで歯痛が再発。歯医者に電話したら「すぐ来ていい」と。出かける準備をしてると僕の地下室にも聞こえる外の雨音。扉を開けたら雪だった。2・26事件や忠臣蔵を思い出す。

 

歯医者では相変わらず原因不明だが、舌が荒れてるからレーザーで焼いてもらいアフタッチを処方された。懐かしい名前。

北口薬局に処方箋を持って行ったら「うちには在庫がないから近所から買って来ますのでしばしお待ちを」と、雪の中を薬局の人が着替えて近所の薬局までアフタッチ6個をわざわざ取りに行ってくれた。お会計で「出張代は?」と聞いたら「いいです」と笑ってる。親切だ。

帰り道、焼鳥屋「たかぎ」の前を通ったらランチメニュー「玉たか」の貼り紙。営業時間を30分オーバーしてるが中をのぞいたら店主がいるから、「いい?」と言って返事する前に入ったら「いいですよ」と苦笑いして、親子丼を作ってくれた。ランチビール500円とあるから、悪いから要らないけど頼んだ。

これがランチの親子丼鶏スープ付き。

これが鶏スープ。

親子丼は夜に使う(希少部位)じゃないももを使うらしい。鶏を一羽買うから要らない部分が出るそうだ。

ビールと親子丼、計1500円税込み。月・木・金のみやってます。この話を友人にしたら「ひとの温かさが身に沁みますね」というから、そんなもんかなと思う。

「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」by俵万智。

2時半だ。駅前のつかもと整骨院にその足で向かう。午後3時からの診療だが、雪だし、と勝手に理由をつけて顔を出すと、「どうぞ」って時間前だけど施術してもらう。どうも右半身の筋肉が調子悪いから定期的に鍼を打ってもらってる。

家に帰ってYouTubeをみながらLINE友達とLINEして、5時からエネルギー療法。

詳細は伏せて、「普段の俺なら文句言うんだけどどう思う?」と聞いた。2024年からは次元上昇だしアサーションだし、今までのやり方で事を運ぶのは宇宙的にはどうなのか。すると、「伝わらない相手に言っても、チッ、って思われるだけで、川原さんに嫌な気が来るだけだし。大きな組織を敵に回しても損ですよ」と正論を言われて驚いた。てっきり、3次元から5次元への次元上昇の前には弱者に寄り添い戦う時代です、とか、逆に、アサーションの前には分断を生むから、ここは鬼は内・福も内、と統合して行きましょう、などとどっちにしろスピリチュアルな答えを期待してたのに…。

そして、「ちょっと早いですが」と、チョコくれた。

バレンタインだって。

 

僕はすっかり戦意喪失して、家に着く前に中華料理屋に寄る。店主が「今日は誰も来ないと思ってた」と笑ってた。こんな大雪は何年ぶりらしく大雪が警報に変わったと言っていた。

まずは青島ビール。雪にビールはよく似合う。ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー。

紹興酒。

腸詰。

くらげ、キュウリ抜き。

フカヒレ姿煮。

僕の大好きな麻婆豆腐。少な目。

皆さんはどうやって食べますか?食べ方は勝手で好き好きですね。僕はこうします。

雪だから外にも出れまい。家族にお土産を買って帰る。

 

雪よ、汚ねぇこの世界を白銀に覆い隠してくれようとしてるのか。きっと人間嫌いの彼女なら大雪の日にはそんなことを妄想してそうだが、ひとびとの意識や成熟度が高くなることを心から願う。さもなきゃいっそ滅びてしまえ、人間ども。

帰り道、雪の中、雷がなった。とても珍しい現象だが今日の気分にはジャストフィット。

BGM. ジ・アニマルズ「朝日のあたる家」


歯が痛い

17/Ⅰ.(水)2024 寒い 昔もらった「お守り」の正体が判明。なんと地底人信仰だった。

 

歯が痛い。歯医者ではノープロブレム。エネルギー療法の先生がくれたのが菊花茶。

これは実はスピリチュアル界隈では、「人の念」や「邪気」に良いらしい。ジャスミン茶のような香りがうっすらして味は野草。

整骨院に行ったら座り方が悪いからだと。右が突っ張る座り方をしてるらしい。でも直さなくていいと。仕事がしにくくなるといけないから、ここで治しますからと。でも3日くらいしかもたないが、ま、十分だ。

僕の仕事姿勢。こう見えて、椅子の上であぐらをかいてる。

遠ざけてみると、こんな感じで座ってます。

拡大。

後姿はこんな感じ。

拡大。

 

自分でも出来ることと思い漢方をお湯に溶かして飲む。

寒さとセロトニンと痛みは関係してるから、SSRIも使用しますが即効性がないから、オーギュメンテーションとしてエビリファイを上乗せします。既存治療で十分な効果がない時に使えます。

 

セロトニン仮説は僕が国家試験の時にはなかった割と新しい説です。精神医学自体が新しい学問ですから。昔の人はどう考えてたのでしょう?

病虫のせいだとしてたそうです。そう言えば落語で「疝気の虫」というのがあって、病気の原因は「虫」で、その虫は蕎麦が好きで唐辛子が苦手です。言われてみると僕らはほぼ毎日、ランチは蕎麦屋だから、「虫」が喜んだのかも。

そこで今日は仇をとります。まず普通にそばを食べます。

虫がのこのこ出てくるのを誘います。

油断をさせといて、唐辛子作戦。

小皿にも取ります。

直接舐めてやる。

辛いな。

さらに後から来る。体を張った割にはよくならない。「疝気の虫」とは別物か。

西洋の妖怪も調べてみた。ベルギーに「歯痛殿下」というのがいた。確か、「悪魔くん」に出て来た奴だ。

うちにはベルギー関連の美術品があるからおびき寄せてるのかも。文化部長のスーちゃんに、水晶と音叉で浄化してもらう。

デルボーの絵。

診察室の絵もマグリット、ベルギーの人。卵をみて、中の鳥を画家が描いています。タイトルは「透視」。シュールレアリズムです。

念入りに浄化。

この帽子の紳士のオブジェもマグリット。

書棚も浄化。

クノップフからデルボー、マグリットまで。

歯痛を起こす妖怪は世界でも珍しく、このベルギーの「歯痛殿下」くらいだそうだ。しかし、対処策が載っていない。おそらく、西洋の妖怪の類は吸血鬼と同じことをしとけば良いだろう。毎日「にんにく、にんにく」と唱えながら、あるったけのロザリオを。

十字架に弱いはずだから。

これみよがしに見せてやる。

エクソシストになった気分を出してみる。

こうして歯痛対策は、整体・西洋医学・東洋医学・スピリチュアル・おまじない・虫対策・信仰など多方面から固めてみた。あと、足りないものと言えば、愛、くらいか。「ひと薬」って一番効きそうですね。黒澤明の赤ひげで、熱発した研修医の加山雄三をいたいけな少女が手拭いを一晩中、しぼって看病したように。おかけで、加山雄三だけでなく少女も良くなった。誰かのためになる、のは実は自分のためにもなること。赤ひげの作戦だったのです。

昔、沢田知可子の「会いたい」を嘉門達夫が「歯痛い」と替え歌にしたのを思い出しました。

BGM. 芦田愛菜、高校生とは思えない大人な発言(映画『星の子』イベント)


心の護美箱(74)~金が結んだ友情

21/Ⅹ.(土)2023 はれ寒い 磯山さやか(39才)写真集「and more」発売。

 

旧統一教会被害者救済へ、立民と維新が教団財産保全でそれぞれ法案提出する世の中、あのちゃんが、 粗品に「自分が借金して500万」貸せると断言した記事を読んだ。あのちゃんは友達がいないから、「友だちの証しだ~」って面白おかしく書いてあったが、こういうのがホストに貢ぐ女性の心理を後押ししなければいいなと懸念に思う。(あのちゃんだって私と同じなんだ〜ならEじゃん)。統一教会の次はホストクラブを摘発しようという動きがあると聞いたが逆行しはしないか?

 

…しないか。

 

オウム事件のあった年、僕は大学院を修了し関連病院に出向した。当時、その病院には「ファントム理論」という何やら難しげな学説を唱えられた安永浩先生というとても偉い先生がいた。とある席で、安永先生は「オウムがやっている拉致監禁や洗脳や電気ショックと、我々の行っている精神科医療のどこが似ていて、どこが違うのかを明確に考えるべきではないか?」という趣旨の発言をされた。その場にいた少しだけ偉い先生や中堅の先生は「全然違いますよ」と一笑にふした。確かに、「全然、違う」のである。それでも安永先生が問題提起した意図は何か?
僕は安永先生の反応に注目した。しかし安永先生はそれっきり何も答えず、それ以降オウムについては何も言わなかった。
賢者とは人里離れた森の奥にただ1人で住み、乱世になると人々の前に姿を現し一言だけ意見をするという。人々がそれを受け容れれば事態は改善し、受け容れなければ黙って森に帰るという。安永先生をみていてそんな話を思い出した。
僕がこの病院を辞め別の病院に移る時、送別会には行けないからと安永先生から手紙をいただいた。筆圧の弱い薄~い、それは風流な文字だった。もし、人が水に字を書くことに成功したら、きっとそんな字になっただろうと思う。

 

心の護美箱(73がいっぱいになったので、(74)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

ビデオの整理をしていたら、「オウム・ビデオ」というのがvol.1~8まで出てきた。2時間テープだから標準でも16時間。3倍速で録ってたらもっとである。「オウム・ビデオ」とはオウム真理教の一連の騒ぎを、録画しコレクションしておいたものである。よく録ったなぁ。

でも、あの時のオウムはすごかった。不謹慎な言い方かもしれないが、あの時にジャニーズの性加害問題があってもまったくニュースにならなかったと思う。

当時、関口宏が土曜か日曜の夜に「家族でニュースを観よう」みたいなコンセプトのニュース・バラエティーみたいな番組をやっていた。その中で山瀬まみが「お父さんのためのワイドショー講座」というコーナーを持っていて、その週にあった民放各局のワイドショーで取り上げられた話題の放送時間数を合算して、その数値の大きい順にランキングにし、芸能・スポーツ・大衆文化に疎いお父さんに紹介する企画で、このコーナーの間だけお茶の間の力関係が逆転し山瀬のキャラともうまく相まって「やだ~お父さん、こんなのも知らないの~?」的ななごみを生み、家族で観るニュース番組のバランスをとる装置として機能していた。

ところが、オウム事件である。「お父さんのためのワイドショー講座」が機能しなくなった。さすがの山瀬のキャラをもってしても不可能だった。何故なら、ランキング1位がオウムは当然として、2位以下がなかったのである。2位以下がない、というのは、他のニュースが1秒も放送されなかったということである。全民放の毎日のワイドショーがコマーシャル以外はすべてオウムだったのである。これが何週も続いた。芸能人が結婚しようが離婚しようが不倫しようがチャリティーしようが覚せい剤で捕まろうが賞を獲得しようがまったくニュースにならなかったのである。地下鉄サリン事件が起き、どうもオウムが関与してるらしいという話になり、彼らは身の潔白を証明すべく連日テレビに出るようになった。生の記者会見などが昼時に毎日、行われたのが、ワイドショーを独占した1つの要因でもある。しかし、1番大きかったのは「上祐(じょうゆう)さん」こと上祐史浩という特異稀なキャラクターの存在だ。

僕のオウム・ビデオのvol.1の巻頭に録画されているのは、田原総一郎の「サンデー・プロジェクト」で上祐さんは村井秀夫・オウム科学技術省長官とともに生出演した。どこかハーフのような端正なマスクと清潔感のあるひた向きさが彼の第一印象で、大学時代にディベートで鍛えたという話術には田原総一郎も一目置いた。宗教をやってるイコールちょっと変、みたいなマイナスな偏見も彼らのビジュアルが吹き飛ばした。熱い上祐さんの隣に座る村井秀夫という若者も穏やかな悟りを開いた優しい仏さまのようなキャラで、このコンビが番組を通して識者たちの意地悪な質問を正面から受け止め
「自分たちはやっていない。我々はまじめに修行をしているだけだ。オウムも被害者だ」と訴えた。番組の最後で、司会の島田紳介が思わず「この人たちが、あんな事件を起こしたとは思えません」と擁護してしまう程、彼らはシロに見えた。僕も、紳助に同感だった。

それからというもの、上祐さんはテレビに引っ張りダコ。英語もペラペラな高学歴でありながら、理解してもらえないと熱くなり悔しさを素直に表現する若さが日本人特有の判官贔屓と母性本能をくすぐり主婦層の人気を呼んだ。キムタクやヨンさまやベッカムと並ぶのではないか。古いか。

上九一色村の強制捜査や色んな物的証拠が出て来て、オウムはクロだと誰もが確信した。それでも、ひとり上祐さんは潔白を訴えつづけ、テレビに出演し続けた。世間は、オウムには真面目に修行するグループと国家転覆を狙うテロ集団との二つの顔があり、上祐さんは前者に属し本当に事実を知らされてなかったのではないか、などと考えた。

そんな中、村井秀夫がテレビの生中継中に刺殺される事件が起きた。上祐さんはテレビの中で、友人が殺された、と涙を流して憤った。それは、もし我々が友人が誰かに殺された時に見せるだろう反応となんらかわりなく、上祐さんの「正常さ」が強調された。そこからの上祐さんは決死の覚悟だった。どう考えてもオウムの潔白はない中で、孤軍奮闘した。村井秀夫は息をひきとる瞬間、自分を抱きかかえる上祐さんに向かって「ユ…ダ…」と言い残したと言う。上祐さんは村井秀夫の発言は犯人を自分に教えるためのダイイング・メッセージだと理解し、ユダつまり裏切り者、もしくはユダヤ組織の関与かもしれないと分析した。ある番組では、イエスを裏切ったユダやフリーメーソンの解説も行っていた。この頃になると、上祐さんのファンも上祐さんには同情したが、彼の訴えで考えを訂正することはなかった。むしろ、上祐さん、よく頑張った、そろそろあなたも目を覚ましなさい、みたいな風潮になった。

ワイドショーのスタンスも変わった。上祐さんの天敵・江川詔子あたりに「一連のオウム報道に関して、一部、オウムを英雄視した責任がある」みたいなことを言われ、そろそろヤバいぞと思ったのだろう。それまでは、上祐さんに自由に話させてたのが、上祐さんの話をすべて途中でさえぎった。ハナから発言の場を与えられないことより、局アナあたりに話を途中でさえぎられることの方が上祐さんのカリスマ性を風化させる効果があった。今までの上祐さんの独壇場は与えられず上祐さんの発言はまるでその人格を否定する目的であるかのようににことごとくさえぎられた。マスコミによって作られた偶像がマスコミの手によって破壊されるブームの終りの作業だった。それでも上祐さんはよくテレビに出続けたと思う。褒めるようなことではないのかもしれないが、上祐さんはああいうかたちで責任を全うしたのだと思う。僕もそれに付き合った。それがこのビデオテープ8巻である。見直すことはないだろうなぁ。

その後、テレビがどうなったかと言うと、上祐さんの面白みを消したのだから上祐さんで視聴率はとれなくなり、芸能人の浮かれたニュースで賑わうようになり、オウム事件は普通に事件を報道するだけとなっていき、「お父さんのためのワイドショー講座」のランキングから消えていった。

遡ること学生時代、アパート暮らしをしていた僕はセールスや勧誘の類を一々、居間まであげお茶を出し、彼らの言い分を聞いたあと論破して帰らせるという遊びをしていた。色んな人が来た。新聞をとってくれとか、英語の教材を買えとか、カンボジアの子供に寄付する金をくれとか、親子連れで来る宗教の勧誘もあった。ことごとく論破して負けなしだった。ただ1つ、非常に印象に残ってるのは、ヨガの修行を通して自己実現をしようというあまり営利目的ではないお誘いだった。僕は東洋体育もそこそこ詳しかったので、彼を言い負かすのはたやすかったが、その人はそんなことよりいかにヨガが素晴らしく自分には修行が必要だということを真摯に語っていて、ちょっとグラっと来たが実習が忙しくなる学年だったから物理的に時間がとれなくて参加しなかった。

それは、まだ犯罪集団になる前のオウム真理教だった。

 

BGM. 憂歌団「10$の恋」


心の護美箱(63)~子供たちが本当に言いたいこと

8/Ⅹ.(土)2022 急に寒い、なのに来週にはまた暑いと。まるで女のようだぜ。

 

寒いし暗いニュースばかりで、「死にたい」という人は多いですが、その意味内容は様々です。
積極的に「自殺したい」という意味以外にも、消極的に「死ねるものなら死にたい」「死にたいくらいつらい」「死んだ方がマシだ」「死んでやる(こりゃ迷惑だ)」まで。中には「消えたい」という人もいる。この世から消滅したい。もっと考えてる人は、すべての人の記憶から自分を消したいなどと出来っこないことを口にします。「死にたい」というのは必ずしも後ろ向きではなく、たとえば、タロットカードのⅩⅢカードは「DEATH(死神)」で、「死」や「ゲームオーバー」を意味しますが、これが逆位置に置かれると「再生」「起死回生」になるから、古い自分が死んで新しい自分に生まれ変わりたい、という願望が「死にたい」の中に内包してる気がします。

自殺の方法でその人の葛藤を探る研究もありますが、たとえば夜中の海に入水自殺するのは胎内回帰願望だとか、高いところから飛び降りる人は「産み落とされた」という恨みがある人(アジャセコンプレックス)など諸説ありますが、あまり趣味が良くないので僕はあまり信じてません。
つらさを誰かがわかってくれたら「生きててもいいか」と思える場合もありますね。
だから不謹慎だけど、「すごく不幸な人」って羨ましいですね、みんながつらいと同情してくれるし、「ああ、そりゃ死にたくなるね」とわかってくれるから。
つらいのは、はたからはまぁまぁ幸せそうに見える場合です。「あんた、ぜいたくだよ。そんなに恵まれてるのに」って言われるから。
心の中のことなんてわからないくせに。境遇だけで判断されてもね。隣の芝生だから青くみえてるだけなのに。バカが多くて困るよ。そっちの方が、「死にたく」なりますね。

人間は不平等だし、人生は運不運があります。
唯一、「人間が平等だ」とするなら、それは死んだ一年以内には、「リンとカルシウムになっている」ということくらいでしょうか。
そういう僕の立場は「なるべく自殺はよしましょう」です。自殺が何故いけないのか?納得の行く説明は有史以来、誰も言えてない。ひとに迷惑をかけない自殺はないから、なんて言ったって、自殺をする人には「知ったこっちゃない」でしょうし。通り魔に刺されて殺された人の命が報われない、と言っても「私が刺されりゃ良かった」と言う始末。難病で苦しみながら一生懸命闘病してる人もいると言ってもどこか遠い国の物語。

そう言えば僕は偏食で給食など食べれなかったが担任に「たっちゃん、アフリカでは飢え死にする人もいるのよ」と諭されたが「じゃ、僕が給食を残さなかったらアフリカの子供は満腹になるんですか?」と屁理屈を返して教師を困らせました。それと同じかな。

 

心の護美箱(62)がいっぱいになったので、(63)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみて下さい。

 

9月にスプラツゥーン3というゲームが出てすごく流行っていますが、僕はゲームをしないのでやってる人に教えてもらったら、あれは人を廃人に追い込むようなゲームですね。当然、大人たちはゲームをやめさせようとあの手この手。でも子供は堂々とゲームを続けます。何か強い後ろ盾があるかのように。

新宿や秋葉原など歩いていると新しいゲームが出ると壁一面に広告が出てて、テレビCMでもゲームを流します。あきらかに日本の経済を回しているようで大人たちが知恵を絞っていかにヒットさせるか考えていて、時には「クールジャパン」なんて日本発の文化だと自慢したりします。生前、立川談志は「良い悪いは別にして、今の親は子供に小遣いを10万円あげないといけないです」と言ってました。大人の作る世の中で子供が生きるにはそのくらいの金がかかるということです。

今を生きろ、と言う人がいます。しかし、今ほど大変な時代もありません。コロナが2年半、戦争をやってて、暗殺があって、宗教の問題、聖職者たちが破廉恥なことをして、子供の見本になるべく大人がブレブレです。子供はそれをじっと見ています。

日本の文化は本音と建前の文化で、大人は清濁併せ吞むものなのでしょうが、そんなことするのが大人の条件なら子供のままでいいやと思う人もいるかもしれません。

電車に乗ってる人はみんな疲れ切った顔をしてますね。義務教育が終わっても高校は出とけと言われ、一流大学・一流企業に入っても、そこに栄光がみえません。まるで学校とは社会に奉仕するロボット量産工場のようだと子供たちは嘆きます。それに何と答えたら良いのでしょう。

僕が思うのは子供たちは大人をみています。「こいつは信用できるのか?」「ただ若者に迎合してる物分かりの良い偽物じゃないか?」とか。おためごかしは通用しません。

世の中がそんなに簡単に行かないことは子供もわかっています。だからこそ、真剣にこの惨状と向き合って嘘をつかず、一緒に悩み生き抜く大人の後姿を求めているのだと思います。

BGM. クレージーキャッツ「ホンダラ行進曲」