情熱大陸600回記念・爆笑問題

6/Ⅵ.(日)2010 はれ
6月6日はロールケーキの日だそうだ。
6・6を横から見るとロールケーキに見えるからだそうだ。
「ポケモン・サンデー」でショコタンがそう言ってた。
ブルーレイに録り貯めた番組を観る。
「情熱大陸600回記念」は2回に渡り爆笑問題にスポットを当てた。
爆笑問題は1988年結成。
1998年4月「情熱大陸」第4回に爆笑問題は出演している。人気が出始めた頃だ。
太田光は天才・鬼才と世間をにぎわしていた。
田中祐二は飄々とその傍らに寄り添う「普通の男」。
デビュー間もない頃、ある大物芸人から2人はこんな言葉を贈られた。
「お前ら天下、取っちゃえよ。田中は切るなよ」。
立川談志だった。
太田の値打ちを発揮するために、田中を切るな、とそう言ったのだ。
友人の伊集院光は田中を
「超普通です。もはや異常の域の普通」と評して、田中の普通さを
「何でも切れる刀を入れとくサヤってすごいな」と最大限の賛辞で表現した。
田中あっての爆笑問題だという声である。
そういえば、昔、コント55号にも似たような議論があったな。
二郎さんは欽ちゃん以外ともコンビを組めるが、欽ちゃんの良さは二郎さんにしか出せないと、
坂上二郎が評価されていた。
番組に話を戻す。
売れない頃、田中はコンビニのバイトに励んだ。
太田は読書とゲームに耽った。
田中は売れ残りの弁当を太田に差し入れていた。
<太田に働けよと思わなかった?>というインタビューに田中は
「それは思わないんですね。働けるワケがない!、とオレが思ってましたからね。
毎日、時間どおりに行くとか普通の仕事ってできないですからね。
興味のあることしか、ちゃんとできないんですよ、太田は。
僕は出来ますよ。
たとえば明日から生花店で働きなさいと言われたら、そこで一生懸命やる自信があります。
僕、そういうの出来るんです。太田は絶対!できない」。
才気走った小学生、
10歳「殺人事件」11歳「刑事と泥棒」、作・演出・主演、こんな題目の劇を学芸会で発表した太田は、
高校に上がると一転して友達も出来ず、言葉を交わす相手さえなく3年間1人自分の殻に閉じこもった。
インタビューに答え太田は
「それはもうホント、絶望してましたよ。ホントに何にも感動できなくなってしまった。
色も失われているような感じで、最終的にはね、飯がまずかった。
で、そん時はもういい、オレ、生きててもしょうがないと思ってた」と述懐する。
その頃、太田の孤独を癒したのは1人の喜劇人だった。
チャールズ・チャップリン。
哀しみの中にも怒りの中にも笑いがある。
笑いながら全てをくるんで表現することを彼が教えてくれた。
それが一筋の光となり、道も決まった。
17歳の太田が書いた詩が紹介される。
「笑わすために努力をつんだ芸こそ その研究されつくした滑稽な体の動きこそ感動的なのだ」。
爆笑問題の漫才は一切、アドリブなし。
番組は
「相方の一言半句にまでこだわり指示する太田の才能も、
それを受け容れる大きな器がなければ無駄にこぼれて人の目には届かなかったこましれない」
と語り、田中祐二のネタ帳を映し出す。
静止画像にして見てみると、
「そんなワケねーだろ」を消して「無理にきまってんだろ」に、
「そこまでいくとね、ヤワラちゃんが強いっていうより、」を消して「そこまでいくと、まわりが弱いんじゃないか、」に、
「確かにね」を消して「そうそう」に。
素人の僕には違いがワカラナイ。
番組の最後に2人に広辞苑を渡し『情熱』から連想するコトバを選ばせる。
田中祐二は「松岡修造しか思い浮かばない」と笑いながら『走る』を選ぶ。
太田光は迷わなかった。
1つの言葉にまっしぐら。
『爆笑』を選んだ。大勢が大声でドッと笑う、爆笑の渦につつみこまれる。
太田は「爆発させたいんだよ、木端微塵に」と言った。
余談だが、ショコタンの新しい猫の名前は田中が命名したらしい。
ショコタンがコンサートのMCで発表していた。
名前は「ねぎ」。理由はよくわからない、と。さすものしょこたんも苦笑するしかなかった。
爆笑問題&中川翔子、豆情報でした。
BGM. チャック・ベリー「ロックン・ロール・ミュージック」


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