予告ブログ①~「生きること、死ぬこと」

15/ⅩⅡ.(月)2014 はれ 
※今思うと、あれがプロローグだったんだね。
珍しく、マサキから電話があって、この1年で同級生が2人死んだんだそうで。
2人は闘病日誌をフェイス・ブックにアップしてて、別の友人が、自分も癌で闘病中、とコメントしてるそうで。
<なんか壮絶だな>と僕が答えると、マサキはこう言った。
「だからさ、もう僕らの年は、普通に病死する年齢になったんだよ」って。
<まぁ、そうだな。で、だから何?>。
「ところで、君、まだ、酒呑んでから、風呂に入ったりしてるの?」。<もうしてないよ>。
マサキは、「病死なら良いんだよ。病気なら。只さ、君は酔って風呂で寝たりするから、変な死に方はやめて欲しいんだよ」。
<死に方に、普通とか変とかあるか?>と僕が言うと、
「あるよ!こっちが後悔するんだよ。『あぁ、注意しとけば良かった』ってさ。病気なら許すよ。事故死はやめてくれよ」と、
マサキは強い口調で言ってたな。
ここで少しだけ、僕とマサキの関係を話しておきたい。2人の思い出話を。
僕とマサキは、同じ大学の医学部に一緒に入学した同期。年はマサキが一個上。
自分で言うのも何だけど、入学したての僕の態度は悪かった。
言い訳じみてるけど、僕は精神科医になりたくて医学部に入ったから、他の奴らとは目的意識が違うと思っていた。
皆は、医学全般を勉強して、国家試験をパスしてから、自分の最も興味のある分野に進むという選択肢を持ってたでしょう?
だから、僕はハナからそんな奴らと気が合う訳がない、と決め付け、友達を作ろうとしなかったんだ。
だから、皆、僕を変人扱いしていたね。
そんな僕にとって、化学の実習はペアで協力してやらなければならないから、それは苦痛だった。
ペアは機械的に出席番号順に組まされてね。
僕とマサキの苗字は二人とも「カ行」で、続きだったから、席順は隣同士だった。
僕らの初めての接触は、化学の実習だったね。
これは誰にも話してない事かもしれないけど、マサキの漢字は「マキ」とも読めてね。
僕は何を早合点したのか、てっきり、ペアを組む子は「マキちゃん」という女の子だと決め付けていたんだ。
<マキちゃんって、どんな子かな。きっと笑顔の良く似合う世話好きな少女に違いない。イヒヒ>って妄想してた。
さっき、友達を作ろうとしなかったと言ったけど、ホラ、鎖国しても出島くらい作るでしょう?
僕は、空虚な大学生活に、学園ラブコメの要素を期待して、「マキちゃん」の到着を待ってたんだよ。
そこに現れたのが、マサキで、実習のパートナーに「こんにちは、僕、マサキだよ」と丁寧に挨拶する男で。
あの時、僕は一瞬にして頭の中にこさえた砂の城が崩れ落ちて、混乱を通り越して殺意さえ感じたんだよ。
だから僕の実習のパートナーに対する第一声は、<君、この実験、1人でやってね。俺、やる気なくしたから>だった。
確かに、ひどいね、俺。
おまけに僕は嘘が嫌いなので、本当にマサキに1人でやらせたんだよ。
実習はとても長くかかって、マサキは僕に、「頼む、これ洗ってくれないか?」と巨大な球状のビーカーを渡してね。
それは、何十万円もする高級なガラス細工の実験道具だったけど、僕は怒りが鎮まらなくって。
<わざと落として割っちゃえよ。洗わないで済むぜ>って平然と答えてね。
後で、聞いた話だと、マサキの僕の第一印象は、「本当に嫌な奴だった」そうで。
その後、僕とマサキは卒業するまで同じクラスだったけど、一切交わりがなかった。
きっと、マサキが避けてたんだろうな。
そんな僕らは一緒に大学を卒業して、同時に国家試験に受かって、僕は精神科へ進み、マサキは放射線科に入局した。
うちの精神科の教授のモットーは、「精神科医は体も診れなくてはいけない」で、救命センターのローテを義務づけた。
しかし、そこの労働環境は劣悪で、24時間救急で夜など寝れず、それなのに翌朝からも仕事があって。
寝る時間などほとんどなく、時間をみつけては、当直室で仮眠するくらいで、家にはほぼ帰れない3ヶ月、で。
マサキも同時期に、救命センターをローテしていたから、僕らはそこで再会した。
もう、さすがに、年月が経ってるから、化学の実習のことは、時効で。
僕らはお互いの医者になってからの近況を報告し合って。
だけど、そこで耳にしたマサキの話に僕は耳を疑くった。
放射線科医は直接患者と接さないイメージだが、CTスキャンの造影撮影などでは、血管確保のために注射をうつ。
血管の出やすさは個人差があって、出やすい人と出にくい人の差は激しい。
マサキは、たまたま、血管の出にくい人に当たって、注射を失敗したことがあったそうで。
マサキのオーベンは、ヒステリックな意地の悪い女医で、駆血帯という腕を縛るゴムに針を刺す練習を何日もさせたらしい。
マサキは、「駆血帯なら、すぐ刺せるんだよ」と当たり前のことを言って、笑いを誘おうとしたけど、それは笑えない。
俺は聞いてて、頭に来たんだ。
<それは、イジメじゃないか!マサキ、そんな科はやめて、精神科へ来い!>と救命センターの後、精神科にローテするよう勧誘した。
マサキも精神科には興味があったらしく、僕に背中を押されて、とても感謝していたね。
やたら有り難がるから僕はそこに付け込んで、<じゃさ、毎朝の患者のデータのチェックと伝票書き、俺の分もやっといて>。
マサキは、笑いながら、二つ返事でOKした。
これで、イーブン。僕の救命センターでの仕事の負担はかなり減り、気持ちも大分、楽になった。
出会いの関係性は、普遍的だと思ったものだよ。
僕らがいる頃の救命センターは大忙しで、テレビ局が泊り込みで密着取材をしてる程だった。
その番組は、救急車が病院玄関に着くなり、待ち構えていた医者が心臓マッサージをしながら、病院の中まで運ぶシーンから始まる。
その心臓マッサージをしているのが、マサキだった。
マサキは、ばっちり全国放送の電波に乗っていた。
その番組は2時間くらいの特番だったけど、一方の僕は1コマも画面に映っていなかった。
テレビ映えしないのかな。ま、いいや。俺が勝負するとこは、そこじゃないし、って負け惜しみを言って。
僕はなんとかマサキの力を借りて、救命センターのローテを終え、マサキを引き連れて、精神科に戻った。
マサキは主流派のグループの先輩たちに可愛がられ、そのまま精神科に移籍した。
その結果、僕らは、精神科でも同期になり、研修医を終えたら、二人とも大学院に進んで、そこでも同期で。
大学院生には週に1日「研究日」と言って、まったくポケベルが鳴らない、呼び出しをくわない日がもらえた。
つまり、毎週1日、一回50分の精神療法の枠が8コマ、確保出来る。それも4年間。
当時、僕は精神分析を勉強中で、大学院に行けば、「精神療法センター」の面接室も使えて。
そこは一般の外来とは、かけ離れた場所にある静かな空間で。
こんな治療環境は、どこでも手に入らないから、僕はそれ欲しさに大学院に進んだんだ。
だから、僕らの大学院生活は対照的だった。
マサキは研究をして、学会発表をたくさんして、アカデミックな舞台で精力的に活躍した。
僕はただただ地味に地道に精神療法をして、外部にスーパービジョンを受けに行って、やりたいように精進した。
僕は精神療法班の皆さんの協力の下、というより皆が手分けしてくれて、論文を仕上げた。
しかし、大学院卒業には語学力をみる、という項目があって、英語の論文の全訳の提出も必須だった。
お恥ずかしい話だが、僕がそれを知ったのは、提出期限まで残り2日の時点だった。
僕が教室の隅で困っていたら、マサキが「どうしたの?」と声をかけてきて、僕は事情を説明して。
すると、マサキは、「それなら~」と自分が訳した最新の英語の文献の全訳をくれた。
マサキは、いくつも、論文を訳していて、提出したのは別のだから、「良かったら使って」と僕にくれた。
<そう?悪いね>と棚からぼたもちで、滑り込みセーフ。僕は、運も実力のうちだ、と思ったっけ。
そして、僕とマサキは無事、審査を通り、二人揃って、大学院の卒業式に参加して。
マサキは両親が、僕の家からは母が式に出席して。
マサキの両親とうちの母は、嬉しそうに挨拶を交わしていて、記念にと僕らは、2ショットの写真を撮られたね。
まだ、その写真、うちにあるけど。
マサキは晴れやかな表情で正面を見て写っていて、僕は視線をそっぽに向けて写っていて。
真を写す、と書いて写真と読むが、正攻法で卒業した人間の達成感と、人に頼ってばかりの男の、コントラストみたいで。
二人とも若いよ。
大学院を卒業すると、関連病院に出向になる。
丁度その頃、アメリカの大学の精神科で教授をしていたという精神分析のM先生が日本に帰国するという噂を聞いた。
そして、M先生はA病院が引き抜いたとの情報もキャッチした。
僕は、実際、学問的な先生の臨床が、実践的な日常の現場で通じるものなのかをこの目で確かめたかった。
そばにいれば多くのことを学べるとも思った。
だから、僕の出向先をA病院に希望した。
ところが、A病院へ出向するのは、もう既に、マサキで決定済みだった。
それは、マサキが大学院時代にA病院にパートタイムで勤務していた実績があり、A病院からのオファーでもあった。
大学病院の医者は、どこの関連病院も欲しがり、引く手あまた、だ。
医局長は、「A病院はマサキで決定で、1つの病院に2人は派遣出来ない。川原をA病院に出すのは、無理だ」と言った。
しかし、そんなことで引き下がる僕ではない。
僕は医局長に、直訴した。
<A病院には僕を行かせるべきだ。その方がA病院の為にもなる。マサキは、丹沢の山の奥の病院にでも飛ばせば良い>。
返す刀で僕はマサキにも、<お前は、A病院を辞退しろ。お前が行くより、俺が行くのがふさわしい>と圧力をかけた。
そして、僕は毎日の様に、医局長とマサキにしつこくそれを言い続けて。2人とも、ノイローゼにならなかったかな?
でも、その結果、医局長は英断した。
異例の医局人事。
「A病院へ、川原とマサキの2名を同時に出向」。
無理が通れば道理が引っ込むのが、世の中だ。
大学院を出た者は、通常、2年間出向したら、一旦、大学へ戻るシステムだった。
だけど、僕はある人から、「大学病院から来る医者は大抵2年で帰るから患者に不親切だ」と言われ、その通りだと思った。
そこで僕は、3年目以降も居残りを希望して。
もう医局は、あまり僕と関わると面倒になると懲りていたのかしら、すんなり僕の意見は通って。
これで、マサキとはおサラバになると思っていたんだ。
そうしたら、マサキもA病院に残留になって。
それは、A病院から医局へのたってのお願いであって、マサキの残留の理由は僕のそれとは大きく違ってた。
A病院は、各大学から精鋭の医者が揃う大所帯だ。それをまとめるのは、大変な仕事だ。
A病院は、マサキの力を高く評価していて、A病院の「医局長」として残って欲しいとの要請だった。
大学の医局は、これには難渋を示したが、(俺とは大違いだ)結局、裏金でも動いたのか(嘘です)、マサキも残留となって。
これは今まで、ちゃんと話したことがなかったと思うから、今更だけど、告白するね。
ある日、A病院で僕が受け持った患者さんから、衝撃の事実を聞いたんだ。
彼は精神科救急で入院してきて、これまでの精神科受診歴はなかった、はずだった。
病気が良くなった彼が僕に語ったのは、実は小学生の時に親に内緒で1人で精神科を訪れていたと言う過去だった。
そんな情報は、全然、聞いていない。
そりゃそうだ、入院時は本人から情報を聴取出来ないから、家族からの陳述を手がかりに診療がスタートする。
家族は、彼が小学生時代に1人で精神科を受診していたことなど、知らないのだ。
だから、記録には残っていない訳だ。
我々は診断面接と言って、最初の数回でその人のこれまでの歴史を聴取するけど、重要な事は最初は喋らないのかもね。
向こうもこちらを伺っていて、「本当にこいつは信用して良い人物か」なんて吟味しているんじゃないかと思うんだ。
その人の小学生の時の精神科受診体験は、1回の診察で、「病気ではない。何かあったら来て」と言われて帰されたそうだ。
「何かあった」と思うから、意を決して、受診したのにだ。
彼は、精神科医療に失望したそうだ。
だから、「何かあった」けど、受診をしなかった。
そして、いよいよどうにもならなくなって、精神科救急のルートに乗ったのだ。
もし、小学校の時の、初回の診察が違う形だったら、もしかしたら入院を回避できていたかもしれないな、と僕は思って。
言われてみると、研修医の頃、上級医の先生の外来に陪席させてもらった時に、似たような患者さんが来た事があった。
その先生は丁寧に診察をして、同様に、「君は病気じゃないから、安心しなさい」と諭して帰した。
そして、先生は「あの子はテレビの番組をみて、自分も病気なんじゃないかと心配して来たけど、これで安心しただろう」と
満足そうに笑っていた。
しかし、僕はその子が絶望的な表情で部屋を出て行くのが印象的でよく覚えていたんだ。
点と点が線になった、というのか。僕は、こういうケースは世の中にたくさんあるのではないかと思って。
一般的に精神科の病気は発症すると病識がない、と言われて、自分で自分が病気だとは思えないというけど…。
確かに、ヘビーな病気の急性期の多くは、病識がないけど。
だけど軽症の病気や、再発直前の患者さんは自ら、「自分はおかしい」と訴えてくるよな。
それは時には、専門家の僕らや、普段、一緒に暮らしている家族でさえ気づかない程のわずかな異変なのだ。
つまり、病気の極初期には本人にしか判らない、ものすごく病識がある時期がある、という仮説が成り立たないか?
だって、小学生が1人で精神科を訪れるなんて、通常じゃない。きっと本人にしか判らない病識があるという仮説。
それを多くの医者が見落としている可能性がある。
しかし、それは「誤診」ではない。まだ発症してないのだから。
でも、発症してしまったら、それは精神科医でなくても判断がつくものだろう。専門家なんて要らないよ。
だから僕は思ったんだよ。
専門家の仕事は、病気になる寸前に受診してきた患者さんをしっかりつかまえて離さないでおくことだって。
たった1回で帰してはいけない。医療につなげていく。
理想を言えば、病気が発症する前に、病気を治すこと、それは、未病とも言えるかもしれないね。
精神科の病気の多くは、「発症」するのではなく、「発見」されるだけなのかもしれない、とも。
だったら、なるべく早く「発見」した方が良い。
僕はそんなことを、A病院で患者さんから教わったんだよ。
そうしたら僕は、いてもたってもいられなくなって。
僕は「こどもの精神科医」になって、多くの子供の助けをしなくてはという使命感にかられて。
そんな時、「こどもの精神科」を専門にするB病院で精神科医の募集をしていることを知って。
これは、俺に行け!、と神様やご先祖様が言ってるのだと思って。
僕は迷わず応募して、シンクロだと思って、これは僕のための「欠員」だと信じて疑わなかったんだ。
ちゃんと説明したことなかったけど、そういう経緯だったんだよ。
そして、僕はB病院の採用面接を受けて、晴れて合格して。
でも、そこで色々な問題が噴出してきたんだよね。
まずは、そもそも僕のワガママで、A病院に医局から2名出向させていた人員の埋め合わせ。
さらに、今度、新しく勤めるB病院では、僕は公務員扱いになるらしく、大学の医局を退局しなければならなくって。
只でさえ、医局は人事のやりくりで大変なのに、助手クラスの僕が突然に辞めるのは、駒を動かす方は大打撃で。
大学の医局からも、A病院からも、責められそうで。
そこで、僕はマサキにそのことを打ち明けて。
マサキはさすがに驚いて一旦は僕を慰留したけど、すぐに止めても無駄だと理解してくれて。
マサキは、「わかった。僕が何とかするから。君は大人しく何もしないでくれ」と言って。
出会いの関係性は大事だと思ったよ。面倒なことは、マサキに任せよう。
僕はひたすら、果報を寝て待つことにして。
さすが、マサキはどんなマジックを使ったのか、どんな交渉術を駆使したのか、知らないけれど、首尾よく事は進んだ。
僕は、円満に医局を退局し、A病院に別れを告げて、B病院に就職した。
僕は児童思春期病棟の入院患者と、思春期デイケアの担当をして。
病棟の患者と通いの患者の垣根をはらって、「ソフトボール・チーム」を作り、毎週、近所のグランドを借りて、半日、練習した。
そして、近隣の同じように児童専門の病院に、「ソフトボールの試合」を申し込み、試合を成立させた。
病棟では、プログラムに乗れない夜行性の患者たちのために病院非公認の漫画クラブ「メソ部」を作り、コミケにも出店した。
年末のクリスマス会では、ほぼ楽器初心者のメンバーで、バンドを組み、演奏をした。僕もピアノで参加した。
普通の病院にいたら体験出来ない有意義な4年あまりだった。
自分で考えたことをどんどん思いつき実行して。
そして、それはそれをサポートしてくれるスタッフたちの協力もあったから可能だったのだが。
勿論、あまりなスタンド・プレーを面白く思わない人たちもいた。
しかし、僕はそれでいいと思っていた。
本当に良いものは、評価が分かれるものだと知っていたからね。
万人に気に入られる高感度№1タレントが面白くもなんともないのと同じ理屈で。
しかし、いいことばかりはありゃしない。僕は、意外な形でB病院を辞めることになってしまって。
それは、精神科の中で分裂騒動があったからで、僕はそれを収拾しようと尽力したのだが、かえって事が大きくなって。
本当は水面下で計画は完了していたはずなのに、僕がそれを表面化させたからで。
結局、病院長や総婦長まで巻き込んで、毎日のように会議が開かれたが、平行線。
あげくの果て、問題の早期収拾のため、「これは事を大きくした川原が悪い!」という結論になって。
<え~>、って思ったが、言われてみれば、そうかもしれないね。
僕は、そんな政治的なやりとりの日々に辟易していたし、病院長以下の評価がそうなら、もうここは潮時だと思った。
そうすると、不思議なもので、「ヘッド・ハンティング」の会社から、お誘いがあった。
何故、この時期にタイミング良く?と僕はいぶかしがった。
僕を面白く思ってない奴らの差し金だと、被害的なもののとらえ方もした。
しかし、もう病院にはいられないし、この病院に移る時に医局も辞めてしまったので、僕には後ろ盾がなかった。
だけど、困った事に、僕には、多くの患者さんがいた。
精神科の治療は、他の科と違い、終わりが有りそうでない。
それは、「病気」を診るからではなく「人」を診る診療科だからだと思う。
「症状」は「相談」の入り口に過ぎないのだ。
一般的に、医師が異動する時には、次の医者に引き継いで行く。
僕は幸せ者で、患者さんの多くは、僕について来てくれていた。
僕が病院を移るたびに、一緒に医療機関を移して、ついて来てくれていた。
僕は行く先々の病院で、多くの患者を連れて行くので、驚かれたよ。
「ひとりゲルマン民族大移動」と呼ばれた事もあった。
つまり、そんな患者さん達の診療を続ける場所が必要だったんだ。
僕は仕方なく、「ヘッド・ハンティング」の会社の紹介で、ある病院の院長と事務長の接待を受けた。
僕の経歴は、見栄えが良かった。
大学院は出てるし、直近のB病院では「医長」だったし。
僕を、ヘッド・ハンティングする病院が提示した条件は悪いものではなかった。
ただ、顔色の悪い院長の面構えが気に入らないのと、幇間のような事務長の「今日はザックバランに」という連呼が耳障り。
僕は、その後、数日、耳の奥で、「ザックバラン」「ザックバラン」という幻聴に悩まされたくらいで。
しかし、僕には、もう選択肢がなかった。
そこに行くしかないと決意しかけた夜だった、マサキから電話があった。
マサキは、「大体の話は聞いたよ。この業界は狭いからね。大変だったね」と僕を労って。
マサキは、「A病院に戻っておいでよ」と言った。
僕は、<それは出来ないだろ。俺、変な辞め方してるし>。
「大丈夫、俺が話をまとめるから。君がくればA病院にとっても戦力になるし。あっ、俺、診療部長になったんだよ」だって。
だから、マサキにはある程度人事権とかもあるみたいで。「話は僕がつけるから。君は何もしないでね」と言った。
せっかく、そう言ってくれてるんだから、ここはマサキに任せた。
そして、僕は晴れて、A病院に出戻りすることになって、懸案の患者さんの行き場も出来た。僕はマサキに拾われた。
でも、皆さん、覚えてますか?あいつ、元・放射線科医ですよ。誰のおかげで偉くなったと思ってんだ?
その時の僕の偽らざる心境は、1度死んだ身だ、思う存分やろう、だった。
僕がこれまでの経験で学んだ事は、多職種が協力するチーム医療で医者に求められる物は、強力なリーダー・シップと他のスタッフが犯したミスも全部請け負う責任と覚悟だった。
人間と言うのは、相手が本気かどうかを嗅ぎ分ける力があって。
そして、それが本物だと感じ取ると必ずひるむ。
僕は、もう失う物は何も無かったから、強気で攻めた。
僕は次々と新機軸を打ち出し、それをマサキが会議で通してくれた。
どんな魔法を使えば、あんな滅茶苦茶なアイデアが会議で通るのだろう?
おかげで、僕の病院での評価も高くなったんだけどね。
気がつけば、マサキは副院長に昇格するという。
大出世だね!おめでとう。僕は1人の男のサクセス・ストーリーをこんな真近で見られるとは思わなかった。
ちなみに僕の役職は、「ヒラ」のままで。
マサキは、僕に診療部長にならないか?、と打診した。
自分が副院長になるから、診療部長の兼任は会議が多すぎて、荷が重いと言うのだ。
僕は、きっぱりと断った。
<だったら、『会議を少なくするための会議』を新たに発足させたらと良い>と助言してね。
もっとも、マサキは、僕の将来のことを考えていてくれて、「元・A病院診療部長」は何かの時につぶしがきくと言うのだ。
それでも僕は断った。
<マサキのように実力がない奴は肩書きが必要だが、俺のように優秀な者には邪魔なだけだ>と言って。
マサキは、「そんなことを言うなよ」と悲しそうな目で言ってたね。
ある日、マサキが僕に「実は開業しようと思うんだ」と打ち明けた時にはびっくりした。
僕はてっきり、マサキはこのままの流れで院長になるものかと思っていたから。
するとマサキは笑って、「だから、院長になるんだよ」と開業してクリニックの院長になるんだと珍しくシャレたことを言った。
マサキが開業支援の会社オクスアイの金村さんと打ち合わせをする時、僕も野次馬で同席させてもらった。
マサキと金村さんはかなり具体的な打ち合わせをしていた。
一方の僕は、自分の性格上、開業は向いてないと思っていた。
自分は経営者向きの性格じゃないと思っていたから。
だけど、オクスアイの金村さんの辣腕を見ていたら、この人なら僕でも開業が出来るのではと思えてきた。
その頃、僕の母は末期癌で闘病中だった。
母はかねがね、僕に、「人に雇われていてはダメ。開業しなさい」と口が酸っぱくなる程言っていて。
僕は、老い先短い母に親孝行をしたい、と魔が差して。
そして、マサキの打ち合わせの最中、金村さんに<俺も頼んで良い?>と衝動的に申し込んだ。
僕は開業を決意した。マサキも金村さんもビックリしていた。
マサキは、「君と僕が同時に開業したら、病院は大騒ぎになるから、自分が開業の許可を取ってからにしてね」と釘を刺した。
僕はその言葉に引っかかり、<何だ?マサキと俺が同時期だとまずいのか?>。
確かに、マサキが抜けたら、病院は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
そこに俺が辞めると言ったら、絶対、引き止められるな。
出戻りの身だ。弱味もある。
<よし、マサキより先に辞めよう!>。
僕は、金村さんに、マサキより俺の案件を優先してくれ、とせっついた。
そして、マサキのお願いを無視して、病院側に<僕は開業するので、年内で辞めます>と宣言した。
こんな僕でも、病院はちょっとパニックになり、ありがたいことに慰留された。
マサキは、「アチャー」って顔をしていたね。
ごめんね、こういうの早いもの勝ちだから。知らなかった?
ちなみに、カワクリは平成19年1月の開業で、マサキのクリニックは平成19年4月がオープンです。
僕らは開業後、しばらくは、数ヶ月に1回は集まって酒を酌み交わし、近況を報告しあった。
開業は僕の方が先輩だが、マサキは大病院の管理をしていた人間だから、主に僕がマサキに判らないことを相談する会だった。
僕は今でも、誰々が急死したけど、香典いくらにする?、とか電報とかお花とか贈る?とマサキに電話して相談している。
逆に、マサキから電話があることは滅多にない。
そんなマサキが、今回、珍しく電話を寄越して。
その用件が、「酒を呑んで風呂で寝るな」とか「事故死をするな」だって。
唐突に思われるかもしれないけど、それには一応、伏線があって。
この位の季節だったから。あの事件は。
それは最初に僕らがA病院に勤務してる頃の話。
僕は過酷な過重労働で肉体的に疲弊していて。
あまりに体調が悪いので、マサキのすすめで内科の先生に診てもらって。
内視鏡検査では異常がなかったけど、血液検査で、「多血症」の所見が出た。
臨床検査技師の話では僕の血の色が真っ黄色で、大変驚いたと、マサキから聞かされた。
「多血症」はストレスでもなるらしく、治療法は「血を抜く」しかないらしい。
なんて野蛮な治療法があるものだ。
その直後、僕は大学の精神療法センターの忘年会に参加した。
疲れていたし、僕の呑み方は破滅的な呑み方をするから、泥酔した。
運が悪いことにその時、僕は何か原稿の作成中でノートパソコンを持ち歩いていて。
会がお開きになり、その店は2階にあり、僕は足を踏み外し、両手をふさがれたまま、急な階段を顔面から落下した。
受け身が取れなかった。
その後の記憶はない。
後で聞いた話では、そのまま大流血したまま、走り出し、また転倒。
起き上がってフラフラしたところに、通りかかったタクシーにぶつかって行ったらしい。
幸い、そこの道は細い路地で、タクシーは徐行していたから、タクシーの運転手に過失はなかった。
僕はそのまま自分の出身大学であり、自分がかつて勤務していた救命センターに搬送されて、ICUに緊急入院となった。
ICUって言っても、国際基督教大学(International Christian University)じゃないですよ。
集中治療室(Intensive Care Unit)ね。
皆さんは、「ICU症候群」って知っていますか?
ICUのような特殊な医療環境に入る人は体も弱ってるため、一過性の精神症状を引き起こすことがあるのです。
僕はそれになりました。
「せん妄」という精神運動興奮を伴う意識障害です。
この間の記憶はまったくないのです。
ICUは基本的に重症の身体疾患の患者さんを診てる訳で、そこで「ICU症候群」が起きると精神科医が呼ばれます。
運悪く呼ばれた精神科医は僕の後輩だったため、僕に罵倒されて帰ったそうです。
その時の僕は暴れるから、ベッドに強力な紐で拘束されていたそうで。
仕方なく上級医の医者が呼ばれる訳ですが、僕は先輩に対しても、「俺より出来ないくせに出しゃばるな!」と悪態をついて。
先輩は、本当のことを言われて、ひどく傷ついたそうです。
そこでも、最後に登場したのは、マサキでした。
マサキは、僕を強力な精神安定剤で数日間、眠らせたそうです。
僕の家族は、後になって言うことには、このままもう僕が二度と目を覚まさないんじゃないかと心配したそうです。
意識障害の回復の仕方は独特です。
まるでトンネルから出るように、ある時からパッと記憶が戻ります。
その瞬間、僕の目の前には、マサキがいました。
マサキは、「起きた?おい、酒は呑むもので、呑まれちゃダメだぞ」と言いました。
<ば~か。『酒は、反省するために呑むものだ』って、立川談志が言ってるぞ!>と僕が言い返すと、
「良かった。君、正気に戻ったね」と答えるマサキの笑顔が見えました。
よく言うよね、てめぇで、セデーションかけといて。
僕の病状は大量の出血と顎の骨の骨折でした。
大量の出血は、僕の多血症の治療に役立ち、血液検査のデータは正常値に戻っていました。
僕は全身状態も回復し、意識も正常になり、拘束も解かれ、形成外科の病棟に移りました。
大学病院に入院したことがない人でも、ドラマなどで、見たことがあると思いますが、教授回診というのがあります。
主任教授を筆頭に医局員が全員大名行列のようにゾロゾロとベッドサイドを回るやつです。「白い巨塔」とかで見ませんか?
僕の部屋にも、教授回診はやってきました。
形成外科の教授はいかにも職人気質の融通のきかなそうな無愛想な男でした。
僕は学生時代にこの人の授業を受けたことがあるので、顔と名前は一致しました。
教授は、僕のレントゲンを見て、「う~む、見事な骨折線だ」と言って、一同が口を揃えて、「見事だ」と賛美しました。
骨折線を誉められても、別に嬉しくもないのですが、誉められて嫌な気分はしませんでした。
後になって知ったのですが、マサキが形成の先生に、「川原君は誉めながら、治療をして下さい」と頼み込んでいたらしく。
頭ごなしだと、治療意欲がそがれるタイプだからって。
僕の治療は、手術ではなく、顎間固定と言う、口が開かないようにワイヤーで上下の歯茎をくくりつける方針になりまして。
骨折線が、美しいから、ね。
顎間固定の期間は、3ヶ月だって。その間は口から物も食べれないので入院生活です。
僕は1ヶ月くらいで退屈な入院生活に我慢が出来ず、点滴を自己抜去し、病院を無断で離院して、家に帰りました。
家族があやまりに病院に挨拶に行き、僕は「傷病手当金」の給付を受けて自宅療養です。
家でなるべく液状のもので栄養がとれるような生活をしました。
しかし、暇でした。
「男はつらいよ」の全シリーズを1作目から全部観たり、太宰治の小説を年代順に読み直したりしました。
いよいよ、3ヶ月がたって、顎間固定が外れました。
まだ、顎の骨がずれるといけないので、頭のてっぺんと顎を包帯でグルグル巻きにして、僕は現場に復帰しました。
その姿は痛々しくて、無理に出なくても良いんじゃないか、という賛否両論も聞かれました。
最近で言えば、フィギュア・スケートの羽生選手のような姿ですね。一緒にしたら、怒られるか。
僕の外来患者さんは、3ヶ月間、マサキの外来で代診してもらって。
マサキは、「君の患者さんはすごいね。まるで手がかからなかったよ」と感心していて。
「薬も、川原先生の出したものをそのままで、って3ヶ月間、何も問題がなかったよ」と言ってましたが、僕は内心で、
<お前に言ってもしょうがない、と思ったんだろう>と思っていたんだ。
その証拠と言っちゃなんだが、復帰後、ある少女からもらったカセット・テープには参った。
彼女は、家族以外で口を利くのは僕くらいで、僕も彼女との診察時間を大切にしていて。
そんな彼女にしてみれば、いきなり僕が怪我で3ヶ月入院と聞かされた時にはショックだったことの予想は出来る。
彼女は気丈にも、僕と会えない日々を、本来なら診察時間が約束されてる時間帯にカセットにメッセージを吹き込んでいて。
初回は、DJ風に、「達二先生がいなくても、意外と私は大丈夫です。今日の1曲目は、Xの紅、です」って感じで。
そして、普段なら診察でお話するような他愛もない話を、明るい口調でユーモラスに独り語りしていて。
1ヶ月が4週とすると、3ヶ月×4週=12回分の収録があった。
最初の方は、そんな感じでDJ風のセッションなのだが、2ヶ月目になると、途端に無口になって行って。
そして、最後の1ヶ月は、泣き声と嗚咽で。
「私は達二先生に会いたいが、患者だから、お見舞いにも行けない。立場が違うから。今までそんなことにも気づかなかった。
そんな自分が馬鹿でくやしい。達二先生に、会いたい」と言って泣いていた。
これにはやられた。おそらく僕の担当の患者さんの代表の意見だと思った。
僕は人生で後悔することはしょっちゅうあるが、反省することは滅多にない。
だけど、さすがにこれを聞いた日には猛省した。
彼女がこのテープを吹き込んでいる頃、僕は家で<暇だ~暇だ~>と文句を言っていたのだから。
あかんたれ、だと思った。
そして、僕はそれから心に誓ったことがある。
翌日に診療のある日には酒を呑むのは、よそう。
酒が残って、患者さんの話を集中して聞けなかったらいけない、と思ったからで、それは今でも続けている。
実際には、ビールの1~2本や、日本酒の2~3合や、ワインの3~4杯が、明日の診療に影響を及ぼすことなどまずない。
でも、そういう決意をしたことで、皆さんに勘弁してもらおうと勝手に1人で決めたのです。
勿論、例外はあるけどね。
たとえば、お通夜に呼ばれて、「故人の為に今日は呑んでやって下さい」なんて遺族に酒を勧められた時とか。
そんなシチュエーションで、<いえ、明日は診療がありますから>なんて断れないだろう。だから、そういうのは例外ね。
僕は多分この時から心を入れ替えたのだと思う。
患者さんがいるから、勝手に死んだりしてはいけないと思っている。
皆を見送ってから、死のうと思っている。
あっ、そんなことを言って、今、思春期の新患をバンバンとってるけど、大丈夫か?俺の寿命。
ま、いいか。人生、成り行き、だ。
閑話休題。
そんな僕に、マサキが電話を寄越した。
ここのところ、知り合いが立て続けに死んでるからという理由で。
それで僕が事故死でもすれば、マサキの旧友ゆえの虫の知らせが当たったという事になるのだろうが。
だけど、それじゃ、話としては面白くない。人生はそんなにシンプルではない。人生はもっと奇抜だ。
だったら、例えば、実はこれは、その逆で、マサキが急に死ぬのではないか?
これは意表を突かれたが、考えてみたら、ありがちなパターンではある。
僕を心配して寄越した電話が、実はマサキの最期のメッセージだった、なんて感じで。ありそう!
マサキが死んだらやっぱり友人代表として、弔辞を読むのは、僕だろうな。
僕が何故、予告ブログ「生きること、死ぬこと」に手こずっていたかと言うと、途中でその事に気づいてしまったからで。
記事と平行して、マサキの葬式で読み上げる挨拶文も、考えなくてはならなくなったからで。
こんなに長く付き合いのある友人の死と直面するのが苦痛だったのだ。
だから、僕は弱虫でブログの記事を先送りにし、カワクリのスタッフにブログの更新を委ね、現実から目をそむけていた。
しかし、それではいけない。
困った事から逃げ出すのは、僕の悪い癖で、僕はもう大人だし、若者の手本にならなければいけないのだ。
だから、いつまでも、マサキの死を否認してばかりはいられない。
予告ブログ「生きること、死ぬこと」と同時進行で、マサキへの弔辞も書き上げることにしよう。
僕とマサキの思い出話を書くのだ。
それが、マサキへの弔辞になる。
しかし、ここまで来ても、どうも、まだマサキが死んだ実感が湧かないんだ。
そりゃそうだ、マサキ、生きてるから。ピンピンしてるから。
でも、人間はいつ死ぬかなんて判らない。メメント・モリだ。一期一会だ。
手探りながら書いてみる。
マサキに語り掛けるように、お別れの言葉を書こう。
書き出しは、こんな感じだ。
<マサキ、なぜ君はこんなに早く逝ってしまったのか。僕はこれから誰に頼れば良いんだ。
僕は今、友人代表として、君の弔辞を読むためにここにいる。いまだに信じられないよ~>
~の続きは、この記事の冒頭に循環します。※D.C.
・おまけクイズ
僕は入院生活の時、家族に頼んで、僕の本棚から、あるマンガを持って来てもらいました。
さて、それでは問題です。
僕が入院中に家から持って来させて読んだマンガとは、以下のうちどれでしょうか?
①小林まこと「1・2の三四郎」
②永井豪「あばしり一家」
③手塚治虫「火の鳥」
④高橋留美子「めぞん一刻」
⑤みつはしちかこ「小さな恋の物語」
正解は、ラストの「BGM.」で発表します。
しかし、なんで、このマンガをチョイスしたのかは、今考えても、謎です。
深層心理を究明出来る人は考えて見て下さい。
その推理の結果も、コメントにお寄せ下さい。
では、正解発表。
BGM. ギルバート・オサリバン「アローンアゲイン」
 (とても綺麗なメロディです。この歌詞の意味を知らない人は、訳詞を調べない方が良いですよ。ひきますから)
 (アニメ「めぞん一刻 」で一度だけOP曲に使われました。おまけクイズの正解は、④高橋留美子「めぞん一刻」でした)


21 Replies to “予告ブログ①~「生きること、死ぬこと」”

  1. 先生、おはようございます。
    朝起きたらUPされていて、いっきに読みました。
    先生の「一代記」のようですね。
    途中から、マサキさんはもう亡くなったのでは?と思いましたが、お元気でいらっしゃるのですね。
    人と自分とを比べることもないのですが、私には学生時代からの友人はゼロなんです。
    もちろん、子どもの頃から付き合いの続いている人も、いません。
    長い付き合いの友だちがいる人が羨ましいかというと…よくよく考えると、「どうしてそんなに長く続の?」と不思議に思う気持ちの方が強いです。

    1. トモトモさん、こんばんは。
      長い記事なのにいっきに読んでくれてありがとう。
      疲れたでしょう?
      僕は、書きながら、<絶対、皆、これ、途中で読むのやめるよなぁ>と思ってました。
      だから、いっきに読んでくれてありがたいです。それも早朝。
      共通の知り合いからも、マサキが死んだのかと思った、とメールをもらいました。
      当人のマサキも、「俺が死んだって噂を聞いたけど」だって。
      「粗忽長屋」かっ、って(笑)。
      僕も友達は少ないです。
      同窓会も呼ばれません。だけど、さびしくはありません。負け惜しみでもありません。
      ちょっと似てますね。

  2. 川原先生。先生は、医学部入学の時から、すでに精神科医を目指していたのですね。
    私は、先生もご存知の今の私の年齢でも、場当たり的な生き方をしていて、何者にもなり得ない、とても
    情けない生き方です。人生に目的がないって、糸の切れた凧と一緒だな・・・って、毎日不安になります。
    それでも、頑張って生きてるし、自分は大切な世界に一人しかいない自分だし。
     川原先生とは、患者として長い付き合いをさせてもらっているけど、開業された先生のクリニックに、
    いつも、たくさんの患者さんが集まっている。みんな、川原先生の存在が大切なんだと思います。
     なので、お酒を飲みすぎて、けがをしたりしないでくださいね。。。
     先生のように、自分の目的が見つかるように、模索していくつもりです。

    1. シンシアさん
      長い記事なのに、読んでくれてありがとうございます。
      疲れたでしょう?
      生きてゆくことは、色々と大変ですが、支え合って行きましょうね。
      お互い、お酒が好きだから、注意しましょうね。
      メールの返信がブロックされてて、出来なくてすみません。
      この場を借りて、お詫びします。ではまたね~

  3. 久しぶりにコメントします。
    今回の記事、大作ですね。
    若い頃の先生の態度が悪すぎて、笑ってしまいました。
    そして、初めて先生にお会いした時を思い出しながら
    読ませて頂きました。
    私は夜間に親族に無理矢理連れられてタクシーで病院に到着しました。
    明らかに通常の精神状態ではありませんでしたが、自分では病識が無かったので、
    なぜこんな所に来なければいけないんだ!と怒りでいっぱいでした。
    看護士に連れられるがまま、暗い廊下を進み、診察室に入ると
    ミイラのような姿の川原先生が…。
    「こりゃ、本当におかしな所に来てしまった。医者がこんな姿をしてるなんて。
    この人は本当に怪我をしてるのだろうか?
    それとも、この不思議な状況にどう対応するのか自分が試されているのだろうか?!」
    と、疑念と不信感に包まれたのでした。
    入院して1週間後くらいでしょうか、先生が私の病室に来て
    「今一番したい事は何?」と尋ねました。
    私は病棟から出られないのがとても辛かったので
    「外に出て大声で叫びたい」と答えると
    先生はすぐに病棟を出て私を屋上に連れていってくれましたね。
    屋上に出ると、空は青く、風は冷たく、自分が生きている事を感じました。
    大声で叫ばなくても、外の空気を吸うだけで充分でした。
    この時から先生への不信感が、信頼に変わっていった気がします。
    それから順調に(?)回復し、開業されてからは診察に伺う事も少なくなりましたが、
    今も何かあれば先生に話を聞いてもらおう、心の拠り所になっています。
    なので、先生には長生きしてもらわないと困ります!!
    ご友人への弔辞も、読むことのないまま何十年と月日が流れて、
    将来、笑い話になるのではないかと思います。
    長々書いてしまい失礼しました。
    あの時の当直医が川原先生で本当に救われました。
    これからも宜しくお願いします。
    ブログも楽しみにしています。
    本業や体調に響かないように、更新はほどほどにしてくださいね。

    1. ひつじ雲さん
      長い記事を読んでくれてありがとうございます。
      ところで、そうか、あなた、僕の包帯姿の時に出会ったのですね!
      初診の時のあなたの心理描写は、見事ですね。
      今読むと、笑ってしまいますが、笑い事ではないですね、失礼しました。
      僕も時々、あなたのブログ、見てますよ。
      時々、見合おうって約束したものね。
      マサキにも長生きしてもらおうと思います。ではまたね~

  4. 最近海未ちゃん推し は長いので、HNをウミオシに変えます。
    ワタシの父の大親友の苗字が、『マサキさん』でした。
    父はいつも彼のコトを『マザキ、マザキ』と呼んでいたので、ワタシの中では『マザキさん』ですが。
    すみません、これ以上のコメントはできません。
    PS 父の葬儀の時、『マサキさん』は、ネクタイを締め変えるのを忘れて、最後のお焼香の1人になり、水色のストライプのネクタイのままでした。

    1. ウミオシさん
      ひょっとしたら、その人の話を聞いたことあるかも。
      呑みに連れてってくれた人??
      とりあえず、「マサキさん」ピンピンしてて良かったです。
      全国の「マサキさん」にピンピンしてて欲しいですね~

  5. 先生の文章、途中で疲れて読むのをやめる人はいないと思いますよ。
    この先どうなるのか、知りたくなりますから。
    ひつじ雲さんが書いていらっしゃる「ミイラ姿」拝見したかったです。
    (全く第三者の興味で、失礼します。)
    先生の外見からも(ピンクのダッフルコートとか、血しぶき模様のストッキングとか、髪とかネイルとか)、「ここではどんな格好しても良い、どんな自分でも良い」とメッセージをもらっています。
    「俺が死んだって噂」、粗忽長屋ですね(笑)
    23日の志らくのリクエスト演目、芝浜になりそうですね。
    芝浜をリクエストした人々は、演劇らくご芝浜は見なかったのでしょうか?見ても評価していないのか。年末は芝浜!、ということなのか、不思議です。
    私は結局、リクエストしませんでした。

    1. トモトモさん
      ご指摘のように結構な数の方が、粘り強く最後まで読んでくれてました。
      書いて良かったです。
      「ひつじ雲さん」のコメントに出てくる「ミイラ姿」は確かに見てみたいですね。
      「ひつじ雲さん」の描写が面白いせいだと思いますが。
      「粗忽長屋」が通じる友人が僕には、少ないです。
      ほぼいないかも。
      だから、通じて、良かったです。
      志らくのリクエストは、「死神」にしようと思っていたのですが、結局、僕もリクエストしてません。
      今から間に合うのだったら、「粗忽長屋」かな(笑)

  6. 二回目のコメントになります。
    まだ先生の載った記事を読んでいない
    ですが、返信します。
    川原先生も、やんちゃな時期があったんだな〜とか思いながら読ませていただきました。
    先生の親友のマキちゃん(笑)
    が、男で良かったのではないでしょうか?女の人だったら先生、やる気だして真面目に学生生活を送っていただろうし、次々とトラブル(革命)を起こさなかったろうし。
    だから、本物の女房では無く、(女房役)
    のマサキさんが、居たからこそ”名医”
    川原先生が、ここに居るのではないでしょうか?
    そんな”名医川原”が居たからこそ自分も
    ここに居ると感じます。
    川原先生が、入院中に「めぞん一刻」
    を読もうとしたのは、我が家感と恋愛
    だと思います。(そのまま)
    入院という特殊な環境下で、我が家では、貯まらないストレスとかを何処かで感じて居たんだと思います。
    恋愛の方は、逆に外の世界での体験
    (ストレス含む)を味わいたいと言う
    欲求のあらわれだと思います。
    •••。全然分析になって無いですね。
    自分が考えるには、こんな感じです
    今度は、ちゃんと先生の載った記事
    を読んで出直して来ます。

    1. OKoWaさん、二回目のコメント、ありがとうございます。
      コメントを読んでて、なるほど、と思ったのは、「めぞん一刻」の分析もそうですが、「マキちゃん」という女の子じゃなくて良かったという点です。
      もし、「マキちゃん」と僕が恋仲になって、僕が真面目に実習とかしてたら、今の僕とはまったく違うパーソナリティーの人間になっていたことでしょう。
      もし、パラレル・ワールドが存在したら、どこかで僕はマキちゃんと今とは違う幸せになっているのかもしれませんね。
      僕の人生で品薄感があるのは、確かに「我が家」と「恋愛」ですね。
      病院やクリニックにいる時間が長く家には寝に帰るくらいで、「恋愛」もね~二次元の方が安心ですからね。
      従って、OKoWaの「めぞん一刻」分析は、ある意味、良い線、行ってるんじゃないでしょうか?
      三回目のコメント、お待ちしてますね~

  7. 川原先生、こんにちは。
    昨日の夜、受付でこのブログすごく読み応えがありましたね、って話題になり構成がすごく凝ってますよね、と言われて。
    そうだったっけ? と、もう一度読みに来ました。
    同じ文章でも、人の読んだ感想を聞いたあとだと、ま大丈夫視点が変わりますね。
    そして、2回目なのにまた、あれ、このマサキさんってもしかして、と、ミステリを読んでいるように結末をハラハラしながら迎えました。(笑)
    そして読み返してつくづく、マサキさんのすこさと、知り合った先生の運の良さを感じました。
    あと、私がいちばんヒドイ、と思ったのはここです
    > 先輩は、本当のことを言われて、ひどく傷ついたそうです。
    サラッと現在の先生の態度の悪さが出てますよね(笑)
    それでは。先生が精神科を目指した訳、のコラムものんびり待っています。

    1. yoruさん
      2回も読んでくれてありがとうがとうございます!
      僕も客観的に読んでみたら、マサキのすごさと知り合った僕の運の良さを感じました。
      逆だと思ってたのに。
      僕は今回の記事はなるべく正直に、昔の僕の悪かった事を今は反省しているという態度で書きました。
      ただし、たった1箇所だけ、わざと悪意を込めて書きました。
      それが、ご指摘の点です。
      良く気付きましたね!まるで名探偵。
      約束だから、「精神科を目指した理由」は、その内、書きますね。
      のんびり待ってくれると言ってくれると、気も楽で、助かります。
      これからも、時々、見に来て下さいね。

  8. 先生こんにちは。
    コメントが遅くなってしまいまいしたね。
    読んでみるとなるほど、今まで後回しにしていただけの事がありますね、力作でした。
    しかし、昔の先生はやんちゃ(?)ですね~、もうあきれる所も多々ありました。
    今の昔のやんちゃ魂は残っているんでしょうね、あまり見受けられませんが。
    でも先生とマサキさんの付き合い、これこそ縁だなって感じますね。
    出会うべくして出会った感じです。
    そんなマサキさんは早死にする事はないでしょう。
    だから安心して生きること、死ぬことのパート2も書いていいんですよ(笑)
    PS マサキさんにも是非会ってみたくなりました。

    1. sinさん
      いつもコメント、ありがとうございます。
      多分、sinさんと後数人しか覚えてないでしょう、「バリ島」旅行記もこの休み中に書いてしまうつもりです。
      今回の教訓は、くれぐれも予告ブログなんてすべきでない、ってことでしょうか。
      マサキにもよろしく伝えておきますね。きっと、マサキは「誰?」って答えるでしょうが(笑)

  9. 先生、こんばんは。
    予告ブログ、項目がたくさんありましたね。
    (ブログを遡って読んでみて、私が川クリに来る前からあったことを知りました。)
    読みたいような、先生の寿命を削るような「おねだり」をしてはいけないような、複雑な心境です。
    今日は大晦日ですが、あまり「一年を振り返って」「来年の抱負」など考え過ぎないようにしています。
    世の中はそういうのばかりで、うんざりです。
    早く普通の1月にならないかなぁ、と思いながら、実家であれこれしています。
    睡眠不足は良い事は何もないので、もう寝ることにします。
    おやすみなさい。

    1. トモトモさん、こんばんは。
      今年中に、予告ブログを仕上げようと思ってたら、全然無理でした。
      そんな時に、丁度、コメントをもらったので、今日は切り上げます。
      タイミングよく、コメントありがとう。
      僕は何か他にもし忘れたことがあるなぁと思っていたら、それは年賀状を買うことでした。
      おやすみなさい。

  10. こんにちは。
    一気読ませていただきました。(今かい!)
    先生と初めてお会いしたのは、救急入院して意識がもどった1週間後でした。
    「僕が担当の川原です。」とおっしゃつてました。
    私は当時T大学付属病院の名誉教授U先生が担当医で。
    U先生は立派な先生でした。
    「どうして退院後U先生にしなかったの。?」って主人にはずいぶん言われました。
    どうしてだろう。
    きっとご縁ですね。

    1. あんころもちさん
      アップと返信が遅くなってすみません。
      古い記事も、今頃、読んでくれると嬉しいものです。
      そして今さらながら、僕を選んでくれてありがとう。
      ご縁を大切に、良い治療を心かけて行きますね。

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