粋な別れ

30/ⅩⅠ.(水)2011
11月もおしまいですね。
11月は、父と母の誕生月であり、父の命日があり、息子の誕生日もあり、色々と物想う月であります。
去年は猫のミーちゃんが家出して、今だ帰らず、今年はとうとう談志が死んだ。
いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。
僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。
試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。
僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、
と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。
友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、
まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。
「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。
今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。
友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、
中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。
僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。
しかし、僕は本当に実感がなかったから、<いや、本当に悲しくないんですよ~>と軽く(明るく?)答えたら、
「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。
うちの父は顔が広いから(別に面積が広いわけではない)色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。
父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。
それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。
さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。
父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。
明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。
でも、僕は思った。
この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、
今日のところは譲ってやろうと思った。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。
僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。
父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。
そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。
それは、家庭用のカラオケの機械だった。
父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことは
前にもブログに書いたが、(2011年4月「子に習う。」です、良かったら読んで下さい)、
そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。
父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、
知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、
1から医学校に入り直したらしい。
詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。
父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。
しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。
実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。
僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、
結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。
僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。
そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。
僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。
堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、
社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。
そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。
招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。
向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。
僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」って
インプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、
ふとカラオケを購入したのかもしれない。
カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。
僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、<チッ!>と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。
これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。
よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。
おそらく父が好きな歌なのだろう。
しかし、おそろしく丸印が少ない。
僕は、「い」のページで目と手が止まった。
二つ、丸印が並んでいる。
一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。
その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。
『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる
誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』
にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。
BGM. 石原裕次郎「粋な別れ」


2 Replies to “粋な別れ”

  1. そうか~、やっと川原先生の正体がわかったぞ。
    昔、診察が終わってそれぞれ2人で別々の出口から出て行く時に、先生は時々それって営業スマイル?みたいなお辞儀してニコッて笑う時があった。私は観察力があるのか、それがどうしても不自然に思えて気になっていた。
    (これ、ちゃんと公開してね。)
    通夜というのは、私は18歳で喪主になったことのもあり、我が家から3回も葬儀を出したこともあり、友達が突然死をした人が2人もいたりと、何故か葬儀には縁がある。だから、私はまだ40歳なのに葬儀に関してはいろいろと知識があり、先日も町内の人が二人も葬儀を出していたことが気づかず、後からそれぞれの自宅に香典袋を持って喪服姿で行きました。その話はこのブログに書いたかもしれませんが、葬儀というのはその個人の集大成というか、家柄も出てしまうですよね。
    先生は、まだ大学生だったからお通夜のことを知らなかったのでしょうけど、「通夜」というのは文字通り、夜通し親しい皆で線香の火を絶やさないように、お酒など飲みながら亡くなった個人を偲ぶ会なのです。先生には、家族だけで
    ひっそりとお父様を囲んで話たいという気持ちがあったのかもしれませんが、もし誰もいなくなってしまったら亡くなったお父様も寂しいでしょうし、残った遺族もしんみりした雰囲気で益々悲しくなるでしょう。
    私の親しい友人が事故で亡くなったとき、式場から遺族も自宅に帰るというので、私はそんな可哀想な、、と思ってでしゃばって、「私がこの会場に残ります」と言って人にで線香の火を絶やさないように一人で広い会場に朝まで残っていたことを思い出します。その人は私のことで、亡くなった人なのでどうしても私が最後まで心を込めて遺骨になるまで見送りたかったのです。
    お通夜、告別式、初七日と誰かが亡くなったら、日本の葬儀はバタバタと忙しいものなのです。遺族は葬儀が始まる前に決めなければならないことや、親族や親しい友人が次から次へと自宅に来てくれるので、接客はしなくてはいけないし、葬儀屋といろいろと決めなくてはならないし、慌ただしくて悲しんでいる暇はないのです。でも、それで良いのではないかと思います。初七日から、四十九日までに遺族はだんだんと亡くなった悲しみが実感してくるのです。
    私はバタバタと忙しい葬式で、良いと思います。
    先生のお父様が通夜までお付き合いしてくださる友人がいたということは、どんな人生だったのか最後の葬儀でわかるものなのです。先生も、一緒に混じって先生の知らないお父様の話でも聞いてみれば良かったのに。
    でも、先生も私の両親みたいな親に育てられていたんだ~と驚きましたよ。
    だから、先生は患者さんの気持ちになって話ができる先生なんですね。

    1. Freakさん
      多分、そうなんでしょうね。あっ、葬儀がバタバタと忙しい必要性のことです。
      この年齢になると、一緒に混じって~という提案も、素直に飲みこめます。

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