5/Ⅰ.(水)2011 第2日
龍山寺に行く。龍山寺はご本尊さまとして観音さまをお祭りしているが、他にも「航海の神様」「受験の神様」「三国志の武将」「財運招来」「悪霊退散」「勝負必勝」「商人の神様」などの諸神も併せてお祭りしている。
このお寺は、清時代の乾隆3年(1738年)に着工し、同年5年(1740年)落成したもので270余年の歴史がある。
現在の伽藍は、民国42年(1953年)に再建修復されたもので、反り返った屋根の上から今にも飛び立つのではないかと思わせる鮮やかな瑠璃色の瓦の龍や鳳凰は、以前にも増して豪華絢爛となり、中国の伽藍建築を代表するものだ。↓。
さすが龍山寺だけに龍がたくさんいる。お寺の中の池にも龍がいて、ドラゴン・ボールを握っていた。↓。
龍山寺のご本尊は観音さまであるが、観音さまといえば、僕の実家の割と近くに大船という駅があり、その駅の近くの山の上に立派な大きな真っ白な観音さまが建っている。
小学校の時、休日に横浜や東京のデパートへ向かう時や、中学の登校時に左手にみえる観音さまはやさしく微笑んで見守ってくれているようにみえたが、帰りの暗がりの山の中にライトアップされる観音さまは何故かそら恐ろしくみえ、小学校の時も中学の下校時も大船駅に近付くとなるべく右側をみないように顔をそむけるクセがついた。無意識の罪悪感が反映されていたのかもしれない。
そんな僕はドリフターズ世代であるが、少し背伸びをしてクレージーキャッツを面白がっていた。クレージーといえば植木等の無責任男を連想される方も多いだろうが、実はこの植木等は根は真面目で、自身は本格的な歌手になることを夢見ていたという。
だから、青島幸男作詞の「スーダラ節」の♪スイスイスーダラ・ラッタ、スダラタ・スイスイスーイ♪という歌が来た時には、真剣に「この歌を歌うべきか?」と悩んだらしい。悩んだあげく植木等は父親に相談したという。
植木等の父親は浄土真宗の和尚さんだったが、変わった人で、戦時中に若者に「戦争に行くな!」と説教するようなアブナイ人だったらしい。
そんな植木等の父親はスーダラ節の歌詞をみて、「この青島君というのは、素晴らしい!わかっちゃいるけどやめられない、というのは親鸞の教えだ!」といったような趣旨のことを言い、悩める我が子の背中を押した。吹っ切れた植木等はまるで振り子が逆に振り切れたように、日本一、C調で、無責任なスーダラ男へと変貌したのである。
あの底抜けの明るさで高度経済成長期の日本人の心を救済したのである。これこそ、まさに悟りの境地ではなかろうか。
そんな話を、植木等が自分の父親について書いた「夢をくいつづけた男」という本で知り、僕は親鸞に興味を持って調べてみた。
僧侶の女犯妻帯を初めて認め自分も公然と実行したのは親鸞だった。親鸞がこの女犯問題についての確信を掴んだのは、京都の六角堂に籠った時の夢によってだった。夢に観音さまが現われてこう言った。
「仏教者が前世の宿業によってたとえ女犯するようなことがあっても、私=観音が女となって犯されてやろう。そうすれば、肉体は女でも実体は私=観音とすりかわっているのだから、けがれにはならない。こうして、一生の間、身をきれいにしてやり、死の際は導いて極楽に再生させてやろう」。
なるほど、というわけで、親鸞は女犯の解禁実行を悟るのであった。
クレージーキャッツ経由で、このエピソードを知ったとき、親鸞の観音さまと大船の観音さまが頭の中で二重映しになって、何とも言葉で表現できない、合点がいったのである。20才前後のことだ。
僕は小さい頃から、何か人生の転機がある時に、必ず聖母マリア様の像か観音さまが崩れ落ちる夢をみる。だからと言って決して悪夢ではなく、僕はその状況を、「あぁ、崩れたな」と冷静にみていて、むしろしっかりしているのである。そんな夢を何度もみる。
第二次世界大戦終戦直前の民国34年(1945年)に米軍の空襲で龍山寺本殿が焼夷弾の直撃を受け、石柱までもが全壊するひどい惨状であったが、このような状況のなかで、本像の本尊、観音菩薩像だけは、無傷のまま端然と連座に端座され安泰だったという。
そのため当時、空襲があると付近の住民は観音さまの膝下は絶対安全だと信じ、多数の人々が避難してきたが、激しい空襲の中、不思議なことに避難者には全く死傷者がなかったという。
そのあらかたな霊験は今日でも人々の間で語り伝えられ、ご加護を讃えておるそうだ。
BGM. 近田春夫とハルヲフォン「COME ON,LET’S GO」