文化部通信~その伍拾漆~

こんにちは、文化部通信57弾。文化部長のスーです。

突然ですが、お花って好きですか?

クリニックの中は色々な物で溢れていますが、やはりどうしても無機質なものが多くなってしまいます。なので必ず生花を飾るようにしています。

受付の仕事の1つに、「植物係」があり、受付のその週の「植物係」はお花屋さんに行き、季節のお花をチョイスしてクリニックに飾ります。選ぶお花に決まりは無く、その時の気分で好きなお花を選んでいます。なので、それぞれ選ぶ花に個性が出てるような・・。

そんなお花は「診察室」「カウンセリング室1」「カウンセリング室2」「処置室」「お手洗い」に飾ってあります。

今回は、6月~8月にクリニックに飾ったお花たちの写真を撮ったので、紹介したいと思います。

淡い色のカーネーションに癒されます。

トルコキキョウは気品にあふれてますね。

ダリア・・だと思って選んだのですが合ってますか?

ダリア(カウンセリングルーム)

カーネーションとスターチスのピンク合わせがキュート!

ベルみたいなお花ですね。

診察室にも。

夏といえば向日葵。

色味も大きさも様々です。

カワクリカラーですね。

パキッとカラーでメリハリ。

ボンボン、つい手に取っちゃいます。

なんだか、お上品。

青色と黄色の元気が出る組み合わせ

曲線美

黄色が入ると雰囲気が変わりますね。

お花に疎い私のあやふやお花情報でしたが楽しめましたでしょうか?
背景が白くて撮りやすいお手洗いのお花が多めになってしまいました。
写真で見ても、飾る場所によって全然雰囲気が変わりますね。診察室は外からの光が強くて背景も盛りだくさんなので、どうしてもお花にピントが合わなくて大変でした(笑)

以上、初夏から夏にかけてのお花紹介でした。

~文化部通信アーカイブス~
以前の文化部通信で描いたイラストを掘り起こして来ました。再掲するのは少し恥ずかしいですがどうぞ。

9月生まれの10人のイラストです。先生とスーの交互となっております。

1「三四郎の小宮 9/3」

2「楳図かずお 9/3」

3「二宮金次郎(二宮尊徳) 9/4」

4「フレディ・マーキュリー 9/5」

5「伊達政宗 9/5」

6「長渕剛 9/7」

7「聖母マリア(イエスの母) 9/8」

8「カーネル・サンダース 9/9」

9「泉ピン子 9/11」

10「松田優作 9/21」

「楳図かずおの描く少女はかわいい」は「川原先生の描く少女はかわいい」にもなりますね。きゅるきゅるおめめ可愛いです。血の涙?がホラーチック。

ではでは、そろそろ涼しくなってくれと願うスーでした。


大岡山デート~江夏の夏

2/Ⅸ.(月)2024 台風去る 晴れ

さてお騒がせののろのろ台風も去り、ここのところ一部で評判の大岡山デートの新作です。男も身だしなみです。あなたとデートに行く前に美容院に行く。

今日の髪色のテーマは「焼き芋🍠」。

ジョンの眼鏡をかけて、

出来立てのホヤホヤ(ホカホカ)であなたを迎えに行きます。(これはあくまで架空の妄想デートです)

ご飯は何を食べましょう?最近僕の食べたリストから候補があれば言って下さい。次の5つから選んで下さい。

①大岡山からも頑張れば歩ける自由が丘の天麩羅屋。目の前で揚げてくれます。コース料理ですね。下は、若鮎。

②大岡山から歩いて行ける奥沢のイタリアン。ワインをボトルで頼んだら、アイルトン・セナのTシャツをくれました。下は、冷製コーンスープ。

ボンゴレビアンコ。

イカ墨のピザ。

ベスコングルメ(TBS)で紹介されたTボーンステーキはひとりじゃ多いから二人で分けて丁度ですね。

③寿司屋では一足先に秋の味覚を。新さんま刺身。

松茸土瓶蒸し。まだ中国産ですが。

④昼から呑むなら蕎麦屋ですね。蕎麦屋は「アテ」が多くて昼呑みには好都合。下は、賑わい天丼。海老天が2本です。

⑤鰻屋。肝焼きから行って、

鰻重。

肝吸いも付けます。僕は「お子様」みたいにスプーンをつけてもらいます。あなたも欲しければ頼んであげます。

と、ご飯はいいとして何をしましょう。

今回の大岡山デートは何にしようかと考えて思ったのですが、カップルで「共通の好き」があればそれに行くと楽しいでしょうね。情報も共有出来るし補完も出来るし、何より同じ「好き」の話題で盛り上がるし。

でも、相手の好きに付き合うのも乙な物ですね。彼女が好きなビリー・ジョエルのコンサートに行った友人を横目でみていた大学生時代を思い出します。そう言えば、ユーミンが好きな子に誘われて葉山マリーナにライブを彼女の運転する車で(僕は運転が出来ない)行ったこともありました。

今回は逆のパターンにしようかと思います。彼氏が波乗りが趣味な女の子は自分はしないから彼が海にいる時、自分は砂浜で本を読んだりサーフィンする姿をみたりして待ってると聞いて「大和撫子だなぁ」と感心してちょこっと憧れた気がして、そう言えば、舘ひろしや岩城滉一が在籍していた暴走族バンド「クールス」の曲「ミスターハーレーダビッドソン」は、彼女目線の歌で、私の素敵な彼ったら私とのデートの時も夢中でハーレーダビッドソンの話をして憎らしいけど好きよ、だったり、90年代「アイドル冬の時代」に活躍したCoCoの「はんぶん不思議」の歌詞でも、図書館の帰り道に夕日のにじむ川べりに肩を並べてしゃがんで草野球をみてるとあなたはルールの説明ばかりして私はちょっぴりすねていつも喧嘩になるのよ馬鹿みたい、というラブコメ感も捨てがたいですから、今回はあなたの好きなことを考慮せず、僕の好きなことに付き合ってもらうデートプランです。ビデオを一緒にみます。

広島vs近鉄の日本シリーズの第7戦、勝った方が日本一。広島1点リードで迎えた9回裏近鉄が無死満塁と江夏を追い込む。この両チームの攻防を当時「ナンバー」という雑誌に山際淳司が「江夏の21球」という文を書いた。その映像化。

試合のポイントは、江夏が追い込まれた場面で古葉監督がブルペンで北別府と池谷に投球練習をさせるのであるが、これにはプライドの高い江夏が腹を立てる。「1年間、自分を抑えの切り札として使っておきながら、最後の最後で信用していないのか!」と。これも実に江夏らしい。マウンドで怒りが収まらない江夏のもとに衣笠が近付き、「俺もお前と同じ気持ちだ」と耳打ちしてグラブで江夏の尻をポンと叩く。それで冷静になった江夏は、この絶体絶命のピンチを抑えるのである。江夏はサウスポーだから、三塁走者が見えない。そこで同点スクイズを試みる近鉄の作戦に対し、江夏はなんとカーブでウエストしてスクイズバントを失敗させるのだ。

 

・江夏で思い出すのは、他にもあって、延長11回をノーヒットノーランに抑え、延長11回の裏に自らの決勝サヨナラホームランで試合を決めて、「野球は1人でもできる!」という名セリフを放った。僕は、この試合はよく覚えている。巨人戦のラジオが途中から、甲子園の阪神vs中日に変わったからだ。江夏のサヨナラホームランはまさに劇的で、僕はその後に発売された「週刊ベースボール」の江夏がバンザイしてホームインするピンナップ写真を部屋に貼った。記録に残る選手より記憶に残る選手になりたい、とよく人は言うが、江夏は記憶にも記録にも残る劇的な選手だった。当時は、巨人・大鵬・玉子焼きの時代だったが、江夏は阪神タイガースのエースで生意気でふてぶてしく不良っぽいから好きだった。ギッチョっていうのも、何か不良っぽくみえたな。江夏の劇的なシーンといえば、他に以下のようなものが有名。

・オールスターの9連続奪三振。
オールスターは、1人の投手の投げれるイニングの上限が3回だから、対戦打者全員を三振に斬ってとった。これは、オールスター史上、江夏しかいない。

・江川がはじめてオールスターに選出された時は8奪三振をとった。その試合は、2-0とセ・リーグがリードした9回裏、パ・リーグは1点を返し、尚も無死満塁。そこで、リリーフ・江夏が登場。1人でもランナーを出したら「セ・リーグの勝ち」はなくなる。そんな大ピンチを江夏はここでも、3者連続三振に斬ってとり、またもや伝説を作る。この試合の「プロ野球ニュース」は、βビデオの時代だけど今でも持ってる。

・そんな輝かしいエピソードのどれよりも、僕が一番、江夏らしくて好きなエピソードがある。それは、TV中継が途中で終り、ニッポン放送のショーアップ・ナイターに切り替えた直後に起きた。審判の「ボール!」の判定を不服とした江夏が、アンパイヤを殴ったのである。それが、ラジオで実況中継されるのだが、映像がない分、想像力を掻き立てる。江夏がゆっくりとマウンドを降り、肩で風切るようにアンパイヤを睨みつけながら距離をつめ、アンパイヤは何故、面を外しちゃったんだろう?つけとけば良かったのに。至近距離から的確に審判の顔面にパンチをお見舞いした。江夏、退場。湧き上がる会場のコールに興奮した。その試合の結果がどうなったのかの記憶はない。ただただ、江夏が審判を殴る姿だけを何パターンも頭の中で想像した。左ストレートかな?フックかな?それともアッパーかな?野球で、パンチをするシーンって滅多にないもの。田淵は止められなかったのかな?

江夏は、ピークを過ぎた頃、メジャーに挑戦するが、惜しいところまで行って駄目だった。江夏は、あれだけの選手だったのに、監督もコーチもやっていないと思う。一度だけ、12チャンネルで野球解説をしてるのを聞いたことがあるが、あまり面白くなかった。その後、覚せい剤でパクられたりした。「英雄失格」という梶原一騎世代の僕らにとっては滅びの美学というのだろうか、江夏の生き様に哀愁を感じた。ONを擁して9連覇中のジャイアンツに対して、真っ向から向かっていったタイガースのエース・江夏に、少年時代、心を惹かれた。それは反骨の象徴で、ロックのスピリッツにも通じるものがあった。「江夏の21球」は、野村克也の解説でNHK特集で放送され、今はDVDが販売されているが、この番組でも江夏は実にふてぶてしい。NHKの番組なのに、チンピラみたいなシャツで登場して、インタビューに答え、煙草をプカプカ吸って回想する江夏。これは、必見です。

今日のデートプラン、100点満点で何点ですか?

BGM. CoCo「はんぶん不思議」


僕の夢(寝ている時の)

29/Ⅷ.(木)2024 台風のろのろ 大谷&愛犬デコピンが始球式

「橋」をテーマにして、笹公人が妄想で書いた短歌「念力図鑑」にこんなものが載ってます。

・処女にしか渡れぬ橋がありましてC組の女子だれも渡れず

・童貞しか渡れぬ橋もありましてC組の男子つぎつぎ渡る

面白いですね。下のは「橋」の夢。

見覚えのある川。地元の人はそこにかかった橋を上手に渡るのだが危なっかしい。「急がば回れ」で迂回する道もある。僕は器用にピョンピョンと橋を渡る。渡り切ったあたりで後ろを振り向くと幼い少女が橋を渡ろうとしてる。見るからに危なっかしい。僕は橋を反対方向から戻って少女に「危ないからあっちから行きな」と指をさし、ついでだから一緒に迂回路を歩く。少女は紅いおべべを着てて、髪の毛は文金高島田。(随分、古臭いファッションの子だな)と心で思う。少女は何かの話題を僕に話しかける。どうやら僕のことを知っているらしい。僕が(何故、知ってるんだ?)と不思議に思ってると、「兄から聞いてませんか?」と言われて、ちょっと考えて僕は慌てて飛び起きた。

ここまでが夢。何故慌てて起きたかというと、実は、その二日前、僕の大学の後輩の友人だと名乗る男に川のそばで話しかけられる夢をみていたから。川が見覚えあるのはその川だったからで。僕は「君のこと知らないよ」と言うと、男は「そうでしょう。川原さんは精神科のお医者さんですよね。頼みがあります。妹をみて欲しいのです」。僕は、「いいよクリニックに予約の電話をして」、と夢の名で答えたからです。その妹というのが少女だ、とわかったからひやりとしたのです。

つまり夢がパラレルワールドになってシリーズ化してる。「現実」が1枚の葉っぱだとしたら、「夢」は無意識の産物でもう1枚の別の葉っぱ。同じ「僕」という樹の幹で繋がってる。そう「知性化」して処理していた。月曜までは。

月曜日。それは「現実」の話。夕方5時ごろ小学生の下校時間。最近は防犯意識か集団で下校したり、自転車で迎えにきてるお母さんもいる。月曜は休診日だから僕は近所を散歩。向こうから一人の少女が紅いランドセルを背負って歩いてくる。あれ?なんでこの子は一人なんだろう。そう思ってすれ違いざまに顔をみて驚いた。夢でみた紅いおべべの子と同じ顔をしてる。僕が驚いている姿は傍からみたら不審者に思われるかもしれない。それなのにその少女は僕の顔をじっとみて「こんにちは」と挨拶してすれ違って行った。見ず知らずの人に挨拶するか??僕は「夢の少女」が「現実」に侵入して来たような妄想に恐怖した。一体なんだったんだろう?来週の月曜日も同じ時間に同じルートを歩いてみるか?いや、やめておくべきか。最近、「お護り」をなくしたり、ロザリオがちぎれたりしてるから、君子危うきに近寄らず、か。

スピリュチュアル的には夢は、守護霊が違うパラレルを見せることで何かを気付かせようとしてる考えるのだそうです。

 

という訳で今日は夢の話。

以下は昔、掲載した「夢の展覧会」。僕の夢日記のイラストを、当時の受付の大平さんが色塗りして「つぶやきコメント」を寄せてくれています。下が、現存する最古の夢日記ノート。1981年ということは…43年前のもの。43年前と言えば、大平さんはまだ生誕してないですね。この夢日記を書いてた僕は、10代後半~20才そこそこですから、大平さんにとっては、年下の男の子の絵です。そんなタイム・パラドックスも味わいの一つとして、どうぞご賞味下さい。↓。

・カラス貝のマニキュア女vsトラディショナル・ブルー~瞳~少年風(1981.9月:川原少年19才の作品)


カラス貝は黒?色っぽいは何色?紫かな・・・

・伊藤つかさは、トマソンがお好き(1982.1月:川原少年19才の作品)


左下の謎のポーズをしてる3人組みがお気に入りです。

・貪婪(どんらん)…非常に欲が深いこと(1982.1月:川原少年19才の作品)


魔法の書を読み始めた感じで色を塗ったんですが、タイトルは貪婪だったのですね・・・

・手のひらを太陽に(1982.1月:川原少年19才の作品)


こういうポスター学校とかに貼ってありましたよね。

・もう君に逢うこともない、心は揺れても(1982.2月:川原少年19才の作品)


北京のバッグが気になると川原先生に話したら、本当に先生が持っていたバッグらしいです。

・小田急線のひとコマ(1982.2月:川原少年19才の作品)


この絵、座ってるとこ上手くかけてますよね。

・本厚ちゃん(1982.3月:川原少年19才の作品)


かわいくしたかったのに無理でした・・・。

・キヨシローのまね(1982.3月:川原少年19才の作品)


カラフルにすればそれっぽく見えないですか?

・川守田(1982.4月:川原少年19才の作品)


川守田さんは先生のお友達です。

・一人になりたい…ううん、一人がいやだから。(1982.7月:川原少年19才の作品)


後ろにいるのはサメなのでしょうか?・・・えぼし岩だそうです。

・伊代はまだ(1982.8月:川原青年20才の作品)


腕が長いですね。先生が20歳の頃、松本伊代が流行っていたんですかね。

・天才の誤算(1982.9月:川原青年20才の作品)


靴が素敵なんですよ。

・テスト前日(1982.12月:川原青年20才の作品)


こういうよく分からない絵を塗るのって楽しいです。

・物理ダメ(1983.2月:川原青年20才の作品)


これ,左側にスイーツ隠れてたんです。

・ダルなboyは、Love is Real.(1983.3月:川原青年20才の作品)


『Maiこ』ちゃんは先生の好きだった子ですかね?私には『Maiこ』に見えたんですが、
『Maiこ』じゃなくて『Mari』だったんですね・・・

・マリン・スポーツ(1983.5月:川原青年20才の作品)


ドラえもん、オバQ、いしのまこ、カバ・・・なぜかカバ。

・カルピス(1983.5月:川原青年20才の作品)


カルピスのボトルに書いてある帽子をかぶったやつが可愛い!!

・誕生日。小指と小指をつないで歩く、理科室でキス(1983.7月:川原青年20才の作品)


理科室のガイコツ懐かしいですね~

・夢見る年頃~36/38≒95(1983.8月:川原青年21才の作品)


夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第3位。

・野球大会(1983.8月:川原青年21才の作品)


先生の書くドラえもんは丸くない!

・クリスマス・イブ(1983.8月:川原青年21才の作品)


夢の絵の中で1番かっこいい絵だと思います。

・恋人峠の昼下がりPart.2(1983.9月:川原青年21才の作品)


夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第1位。

・すっかりトロピカル(1985.7月:川原青年22才の作品)


陽気な感じと南国な感じが夏にピッタリの絵です。

・明日のイブはRC(1985.12月:川原青年23才の作品)


8時42分に何が起こったんでしょう。

・オキドキの古着で遊園(1986.5月:川原青年23才の作品)


「オキドキ」って川原先生はお店の名前と言っていましたが、私はマリオが思い浮かびます。

・直ちゃん(1987.6月:川原青年24才の作品)


これは塗りやすい絵だったんですが、サインペンで色を塗るのは難しくて、
色鉛筆にすぐに戻しました。

・Hanesの白のTシャツに血を滴らせてしまった(1987.6月:川原青年24才の作品)


私も白い服にシミができた時こんな顔します。

・元・日本軍の男と、ユキヒョウ(1987.7月:川原青年24才の作品)


「ユキヒョウはどこにいるんですか?」と塗っている時に不思議でしょうがなかった絵。

・大船観音がくずれた(1987.7月:川原青年24才の作品)


観音様のお顔だと気づかず、先生に言われて気づき塗り足しました。

・みつけてくれたらキスしてあげる(1987.7月:川原青年24才の作品)


真ん中の子にと左の子にかわいさをプラスしました。気づきましたか?

・甘くて冷たいアイスクリーム・ベイビー(1987.7月:川原青年24才の作品)


この絵のタイトルを知らない人から「31アイスみたいだね」と言われ
塗り絵レベルが上がったと実感し嬉しくなりました。

・気がつけば兵隊(1987.7月:川原青年24才の作品)


みんなの表情がいい。

・眠れ。ライオネル・リッチーの墓の上(1987.7月:川原青年24才の作品)


どんな色で塗っていいかもわからなくなってしまった絵。

・スタン・バイ・ミー(1987.8月:川原青年25才の作品)


暑い日は海辺でのんびり、いいですよね。

・ニース予想図(1987.8月:川原青年25才の作品)


ニースってフランスのニースですかね?噴水あるんですか?

・アイスもハシャいでる、僕は日焼け(1987.8月:川原青年25才の作品)


また、アイス!後ろの2人は羨ましがってるのかな。

・ダチョウ(クジャク)ともも焼き(1987.8月:川原青年25才の作品)


ダチョウ(くじゃく)って全然違う鳥だけど・・・

・僕は照れる(1987.8月:川原青年25才の作品)


川原先生はいったい何に照れたのか?

・新宿地下の靴専門店(1987.8月:川原青年25才の作品)


この失明者用の靴は指の先が触覚の様に動くと先生が説明してくれました。

・過ぎ行く夏を惜しんで~絵を描く2人の少女(1987.9月:川原青年25才の作品)


最初に先生が少しだけ色を塗っている絵は色を塗るのがラクです。

・念力(1987.9月:川原青年25才の作品)


念力は見えないから何色にしようか迷いました。

・さっきまでの競争のつづきだ(1987.9月:川原青年25才の作品)


人を緑色で塗ったらハルクみたいにみえますね。

・渡り廊下の窓から連中が手を振る(1987.9月:川原青年25才の作品)

渡り廊下だと気付かず、カラフルにしてしまいました。
ちなみにこの絵左側にいるのは川原先生で
研修?授業?かなにかをさぼって帰るところのだそうです。
手に持っているのは白衣だと言っていたのですが、
私には抱き枕かぬいぐるみに見えました。

・脳外科はじまる(1987.9月:川原青年25才の作品)


これは一体何でしょう???

・お前はストーブの前でのびていた。あくびしかしなかった(1987.9月:川原青年25才の作品)


これ、色を塗っていたらよく分からないパーツがあって、そこだけ着色しませんでした。

・聴神経腫?すぐに手術(1987.10月:川原青年25才の作品)


わかめ・・・

・宙に浮く機械(1987.10月:川原青年25才の作品)


宙に浮く機械!夢っぽいですね。

・すいみんやくが欲しい(1987.10月:川原青年25才の作品)


夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第2位。

・明るく生きるコト(1987.10月:川原青年25才の作品)


川原先生はカラフルなボーダーが好きらしいです。

・サンボのジャケット(1988.7月:川原青年25才の作品)


サンボってなんですか?っと聞いたら格闘技の雑誌を川原先生が見せてくれました。

・オバQが正ちゃんのクラスの記念写真に写ってしまった。皮膚科テスト、60点。(1988.7月:川原青年25才の作品)


記念写真にオバQ写ってたらおもしろいですよね。

・ウサギに乗って空を飛ぶ(1988.12月:川原青年26才の作品)


いい夢ですね~。ウサギに乗ったらもふもふなのか。

・うその固まり(1989.1月:川原青年26才の作品)


「きみだけに話すんだけど・・・」て誰かに話すと皆に知られていた小学生の時を思い出しました。

・すべては幻想である(1989.1月:川原青年26才の作品)


ヒョーロン家が怪しい。

・柔道(着)一直線!激しい視線の火花が散る(1989.4月:川原青年26才の作品)


三角関係ですかね!!!

・世代交代の口約束(1995.3月:川原中年32才の作品)


先生の描く力士はなんだか可愛い。

・2002.8月6日からの夢日記の表紙:先生不惑の40才の作品


この夢の絵に色づけするとき『これは何だろ?、川原先生の夢だからこんな色でもいいかな』と、
タイトルを教えてもらうまで何の絵かも分からなかったり、
普段の私だったら使わないような色で塗ってみたりという絵がたくさんありました。
自分じゃない誰かの絵を塗るのって面白いですよね。
それが川原先生の描いたなんか可愛くて奇妙な夢の絵だからもっと面白い。
何ヶ月かのあいだ、受付業務の合い間のちょっとした楽しみの1つでした。
川原先生が最初にかいていましたが、この夢の絵の中には
私より若い頃の先生が描いた絵もあるんですよ・・・。
なんだか不思議な気分になりますね。
BGM.OH MY GIRL「Coloring Book」

BGM. シーナ&ザ・ロケッツ「ユーメイドリーム」


川原はどのように夏休みを過ごしたか?

夏休みに入る前のこと。 「どこか行きますか?」と聞かれたので「ニューヨークとフランス…」と言い掛けたら「まぁ、ゴージャス!」 とビックリされました。
ニューヨークというお笑い芸人の単独ライブと、水道橋博士と松村邦洋のトークライブを聴きに浅草フランス座(東洋館)に行く予定なのに、勝手に勘違いされたのです。 そんなカワクリの夏休みは、8/11(日)~8/19(月)です。 その間に私がどのように用事をスケジュールしたかを今回はお話してみようという日記です。

①8/11(日)

・高円寺昼「水道橋博士とビートきよしのトークライブ」、2000円。

浅草キッドの玉袋筋太郎じゃない方、と、ツービートのビートたけしじゃない方、の二人のトークライブ。

博士のサイン本を買う。

名前入り。

おまけのシール。

1980年のマンザイブーム爆発までの浅草フランス座&ロック座時代の当時の話を聞くという会。ビートきよしは、芸人としてはたけしの2年先輩だが実年齢は2個下で、やたら記憶力がいいので、ビートたけしの諸説の真偽を、たけしマニアの博士が鋭く切り込んで行くという企画。2時間では足らず、次回をやる約束で握手。左がきよし師匠、右が博士。

その足で新宿へ。

10日発売の「いちご新聞」を買いにサンリオショップへ。

これが収穫。

「いちご新聞」220円の今月号のおまけにボールペンがつく。全5種なので5冊買う、1100円。

全部揃えました。

ランチは中村屋。

限定のカレーにしてみましょう。アラジンのランプみたいですね。

ベンゴールカリー2200円です。肉がいっぱい入ってるって感じです。

②8月12日(月)

・ネットフリックスで「地面師たち」をみる。1日1話観ようと思ってたが、ケンタッキーを買って来てAM~PMにかけて一気見。バイソンとアントニーがいい。これが実在した事件だというのが怖い。

③8/13(火)

・今日は映画の梯子。13時から新宿バルト9で藤本タツキの「ルックバック」。58分、1700円。

実写版「推しの子」のポスター。

ルックバックは青春映画。学年新聞に漫画を描いてる主人公がちょっと褒められて嬉しくなって雨が降って来たのにミュージカルスターのように踊る描写は、(クオリティーはともかく)物を作ったことがある人には刺さるはず。あぜ道をスキップするシーンはコミックス(原作)にもあるが、アニメの方が動きがある分100倍良い!「雨に唄えば」のジーンケリーのよう。

入場者特典でもらったポストカード。絵柄が原画風。二枚くれた。

15時~ポレポレ東中野で「方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~」をみる。

この映画館は僕が東中野に住んでる頃にはまだなかった。

昔、世間を騒がせてる頃、ビートたけしがテレビドラマ化した、カルトとバッシングを受けた社会問題「イエスの方舟」の45年後を描く。オウムや統一教会がまだ騒がれる前の時代で、新・新興宗教に日本人が免疫がない時代。

おっちゃん(千石イエス)は死んだけど女性たちは共同生活を続け、「シオンの娘」というクラブ(水商売)で生計をたてていた。彼女らは酒を呑まず、客の横にも座らず、おさわりNG笑。映画では現在の女性たちの姿に同じ人物の20代の頃の映像がザザっと差し込まれて、当時の彼女らがとてもファッショナブルな美女なことに、知ってたけど、こうあらためて突き付けられると今更驚く。

新宿に出てモンスナックのカレーを食べる。

昔は、コーンサラダが「常連さん」だけおまけ。次回に使える「トッピングのコロッケ」が無料だったからそれを再現してみた。今はコーンもコロッケも有料。

④8/14(水)

・おそ松さん第4期制作決定!で、3期以降の劇場版をみてないことを思い出し、サブスクで3本みる。それというのも途中、「2.5次元」とか「実写化」があったので、「映画は無視しよう」とサボってたことへの補習。「えいがのおそ松さん」「ヒピポ族と輝く果実」「魂のたこ焼きパーティーと伝説のお泊り会」と映画3つ観ました。ひとつ目は映画館で観てました。ヒピポは、心が洗われます。たこ焼きパーティーは、トト子ちゃんが可愛いのと、最後のクレジットでスタッフの名前に(長男)(次男)(長女)(秘密)などと書いてあるのが面白かったです。あのスタッフロールでSNSのハンドルネームに長女次女など付けるのが一時期流行ったそうです。

寝る前、YouTubeでブレイキングダウン13オーディション1-5を一気見する。次回は日米対抗戦が目玉。きっと岩国の海兵隊だろう。昔、アウトサイダーでアウトサイダー軍と沖縄海兵隊が5対5の試合をやったのを見に行ったことがあるが、あの時は沖縄軍は名前も偽名(たとえば、ライオン、とか)でなるべく隠してた。

⑤8/15(木)

・テレビ録画で「推しの子」とNHK納涼落語特選「居残り佐平次」立川談志(1979)をみる。その後、部屋の片付けをしてマンガを整理して本棚へ。「藤子F不二雄」SF短編コンプリートを読む。

・有楽町よみうりホール「ニューヨーク単独ライブ」初日、6000円

 

ナイツが夏休みの「ザ・ラジオ・ショー」を平成ノブシコブシの徳井と相席スタートの山添が、安藤なつの相方をした回のゲストにニューヨークが来て、「単独ライブの席がトータル1200枚残ってる」と。そもそも5都市のツアーで東京は「3000」のところ「6000」の応募が来たから凱旋で2公演追加したらお昼で平日で告知不足もあり、チケットが余って「自分達は人気がない」と嘆いていた。「愛のハイエナ」(さらば青春の光、とMCして、山本裕典ホストになる企画をやった番組。超面白い!)のよしみがあるからチケットを買った。

明日もチケットとったが台風が近づいてきている。不要不急の外出はさけろ、とニュースが叫ぶ。ニューヨークせっかくチケット完売したのに、次なる試練?

⑥8/16(金)

・先日新宿紀伊国屋で買った本を読む。

「デデデデ」の1-2巻。映画化記念、あのちゃんといくらちゃんの帯つきコミックス。

「からかい上手の高木さん」卒業アルバム。

これはイラスト集。背表紙。

表表紙。

寄せ書き?西片?みんなの声?

二色刷り「つげ義春」作品。「もっきり屋の少女」の紙芝居用カラーイラストも収録。

永井豪作品は意外と手に入りづらいです。

ハニーが生まれる場面のカラー版。

台風で外出するなというから夜のニューヨークのライブはキャンセル。台風だから払い戻し。吉本が払い戻しに応じるのは異例。

⑦8/17(土)

・中野ブロードウェイへ。

「墓場の画廊」で「伊藤潤二展」をやってると聞いたので観に行くも13日でおしまい。グッズだけ買う。

ステッカー550円を三枚。このステッカーはメルカリで高値で売れてて人気だそう。

その後、普段はチェックが甘めの4階を中心に回る。まんだらけ「マニア館」で古本。

まんだらけ「変や」でおもちゃ。

まんだらけ「海馬」で写真集やオカルトなど。

お昼は「青葉」でつけ麺。

 

特製つけ麺1350円。

夜、アベマテレビで残酷物語「うつくし姫」(物語シリーズ)をリアタイで友人とLineしながら観る。

⑧8/18(日)

・浅草東洋館「水道橋博士62才の生誕祭、改め大感謝祭」、が浅草キッドの修行の地、旧フランス座(現・東洋館)で開催。ゲストは松村邦洋。2000円。

お昼は「尾張屋」で天丼。

とりあえずビール。

板わさ。

天丼(車エビ)3500円。

蓋を開けます。エビがはみ出してますね。

博士生誕は、19時半開場20時開演なので時間があるから、せっかくだから「ロック座」でストリップをみる。吉野家の先にあるのが、ロック座。

ストリップと言っても皆さんが想像するようなものではありませんでした。劇場は改装されて綺麗だし会場のスタッフ&店員も半分くらいは若い普通の女性。8月は真夏の祭典!ワールドダンスレビュー!という演目。「アースビート」というタイトルで、インド・中国・ロック・フラメンコ・サロメの話・和太鼓など世界の音楽に乗せて踊り子さんがビートに合わせて「ポーズ」を決めると会場から拍手が起こるという大衆演劇のような「アート」でした。

フィナーレは全員が舞台に揃いリオのカーニバルのいでたちで「マツケンサンバ」を踊り狂い終わります。何が何だかよくわかりませんがこれが面白いのです。悲しい気分なんかぶっ飛んでしまいます。あまり目の見えない野末陳平先生(92才)が高田文夫(76才)に頼んで今でも連れてってもらうという気持ちがよく分かりました。入場料は7000円(シルバー割は65才からだから利用できず)だが入れ替え制がないので1回入れば最大4公演みれて再入場も可。本公演のステージ写真(1枚1000円)をトリの逢見リカとファイナルを買いました。2ステージ半みました。半というのは、20時から博士の生誕祭があるので3ステージ目は途中退場したという訳です。

そして博士生誕へ。

玉ちゃんからお花が届いてました。これが「伏線」。

1部は映画の話。

2部は付き人の話。

3部は松村邦洋のトーク。ほぼ松ちゃんのモノマネを聞く。そして10/10に浅草キッドがフランス座で復活するというニュースに!「伏線回収」。これはチケット争奪戦必至だ。

⑨8/19(月)

・今日は断捨離と部屋の模様替え。本棚も綺麗に途中経過。

 

さて夏休みも終わりいよいよ再開(再会)ですね。皆さんはどんな1週間でしたか?僕はこんなでした。


大岡山デート~パリ五輪の中

6/Ⅷ.(火)2024 はれ 須崎優衣がまさかの初戦敗退。僕のパリ五輪が終わる。大谷翔平34号ソロ、ベース踏み忘れ?一塁に戻る場面も。

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「元気です」と答えます。コメントを見られたくない人は「非公開」と書いてくれれば皆には分からないようにします。「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

 

久しぶりの「デート記事」です。何をしましょうか?「つまんない顔で写真をとろう」という展覧会が横浜そごうでやってるらしく面白いらしいので、つまらない顔、で写真をとってみましょう。

つまらない、の「記号」と言えば、頬杖。

「あー、つまらない」と叫んでみる。

つまらなさ過ぎて頭を抱える。まるで二日酔いのよう。

つまらないから扇子で扇ぐ。

つまらない顔を隠す。

鼻の下にはさむ。

うまく行かない。つまらない。

落語家みたいにくわえてみる。

曲芸師みたいに物を乗っけてみよう。

ヤドンのソファーは、ひとをダメにする。それほど、リラックス出来るソファー。

つまらない、と、リラックスは別物だ。つま先をピンとするけど、つまらない。

新聞読んでもつまらない。代表選手がタバコと飲酒で辞退だって。

そんなパリ五輪も真っ最中の大岡山北口商店街は夏祭りの雰囲気です。

何を食べに行きますか?候補に最近僕が食べたもの。

塩ラーメン屋の「冷やし中華」キュウリ抜き。

お好み焼き屋「佐竹」の「佐竹スペシャル」。

大岡山から徒歩でも行ける奥沢の中華料理屋。青島ビールと紹興酒。

クラゲの前菜キュウリ抜き。

ピリ辛腸詰。

アワビの醬油煮込み。

麻婆豆腐。

誕生日の寿司屋。

ウニ。

この季節は、小肌の子供、新子。

 

新子は出世魚。なかずみ、と食べ比べ。新子2個分に対し、なかずみ半身。

長良川の天然アユの塩焼き。

これは三つ葉。

0時の位置から時計回りに、ブリ・クジラの尾の身・カツオ。この時期にしては脂が乗っています。

じゅんさい。夏の野菜。寒天みたいです。

石垣貝。口の中に入れると、ほわっと溶けます。食感は、アワビの真逆。

本マグロ。

穴子の甘いツメで食べるものシリーズ。デザート感覚。

家系ラーメン屋でやっていた「7日限定」冷やしネギチャーシュー麺。

実物。

にんにくと生姜を入れると美味しくなります。あと、酢。

デートにファッションも大事ですね。リュックサックを新調しました。これは今まで使ってた「山口百恵」柄。

しょこたんのファンクラブ限定の福袋で当てたリュックに、サンリオのキャラ達をつけてみました。

ヘアスタイルは夏らしく「ひまわり」にしました。頭頂部が茶色で、もみあげと襟足は葉っぱの緑。

横からみるとこうです。

パリ五輪の季節だから応援Tシャツ(水色)で。

真夏のデート気分を作ってみました。ひとりにでもウケる限り、企画は続きます。

BGM. 伊藤咲子「ひまわり娘」


文化部通信~その伍拾陸~

こんにちは、文化部通信56弾。文化部長のスーです。
暑い日が続きまますね。外を少し歩いただけで汗が止まらないので、水分・塩分補給が大事です。カワクリでは熱中症対策として、ポカリが大流行!

こんなに暑い日に必要不可欠なのは、”アイス”ですね。
暑い日にぴったりの「サクレ 梨味」がファミマから限定発売されてます。
私が毎年楽しみにしているアイスの1つです。

サクレは店舗限定で他の味も出てるようです。探しにいかなくては。
そんな暑い夏を乗り越えるための、夏にぴったりアイスランキングを私が考えてみました。

1位 スイカバー
2位 サクレ 梨
3位 アイスボックス

やっぱり夏にはさっぱりするアイスを選んでしまいますね。
みなさんは好きなアイスありますか??おすすめのアイスがありましたらぜひ教えて下さい。

さて、前回の文化部通信では、カワクリのポリシーについて触れましたね。
それと同時に今までのなぞなぞを紹介しました。探してみたら8月分もたくさんみつかったので前回に続いて なぞなぞ を紹介します。
今回は答え合わせをすぐ出来るように、問題のすぐ下に答えを書いてみました。ぜひ解きながら読み進めてみてください。

なぞなぞ過去作 8月ver

2017年

答え
① 1.チーズ
② 2.お寿司
③ 1.王様

2018年

答え
① 10
② りょうて
③ 1人

2018年 先生作

答え

2019年 先生作

答え
① ハスキー
② 童謡(同様)
③ 20才(ハタチ=歯タッチ)
④ 血管(欠陥)
⑤ 造花(増加)
⑥ シー(sea)
⑦ 聴診器(長身・き)

2021年

答え
① MOON
② 口(くち)
③ 回転(開店)

2023年

答え
① ハンガー
② ふうせん
③ メイク

いかがでしたか?
今までのなぞなぞとちょっとテイストが違う先生作の”ダジャレクイズ”もありましたね。それにしても、11万円もするキャンディーってなんだ??

なんだか問題を解いているうちに頭が熱くなってきました・・。
早急にアイスを食べて冷やすことにします。

 


7月最期の頁は「上手な川原達二の作り方~男親編」

31/Ⅶ.(水)2024 はれ パリオリンピック、日本、金メダル総数は1位。

 

父は1984年11月8日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その寺を父は知りません。縁もゆかりもない場所です。僕は墓参りどころか、法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてません。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月は僕のお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は父に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理でした。カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、堂々と好きになっても許される安心感がありました。天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」だという噂があったが、真偽の程は定かではないです。僕の父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうように頼んでやるから」と勉強をするようにと交換条件をチラつかせました。

(2)森昌子が「せんせい」でデビューした。僕と一緒に歌謡番組を観ていた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。父は堅物だが、時々おかしなことを云う。僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、「今日からタッちゃんのお姉さんよ」、などと言われても困ると思った。その頃、モンチッチ、まだいなかったけど。茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。「マミー」は「くれんの?」と答えた。「あげるよ」と僕は言い、こいつらはお似合いだな、と森昌子は「マミー」にまかせた、と思い、気を楽にした。

(3)僕が小さい頃、父は頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようにすぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えていた。ひどいと言われれば、ひどいものだ。小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。

(4)父の歴史はよく知らない。北海道にいたというが生まれはどこか知らない。北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに何故か医者になると言い、満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。

(5)父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、ということを常に考えている子供だった。父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、スポンサーになった。子供の学校にものすごい寄付をしていた。たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、自分の家族に味あわせたかったのだと思う。それはまるで質の良いマスターベーションのように思う。

(6)父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、気になってしょうがない。

(7)母方の祖母は、「タッちゃんのお父さんは、トリ年生まれだから、夜明けを告げる人で、だから立派に一代で財を築いた」と幼い僕に説明した。僕は、「じゃ、僕は大人になっても働かなくていいね」と言ったら、祖母は狼狽して、「タッちゃんはトラ年で一番強いんだから、お医者さんになって、お兄ちゃんと一緒にお父さんと3人で病院を大きくしないと」と言った。昭和40年代の医者の子供は皆、「後を継ぐのが当然」のように育てられて、良い悪いではなくて、そんな時代だったのだと思う。

(8)小4の時、手の骨を骨折して、父の知り合いの整形外科の医者にかかり、その家族と付き合うようになる。クラスに医者の子は僕だけだったので、よその医者の家の様子を知るのは、自分の家と比較して自分を客観視する上で参考になった。父の知り合いの病院は茅ヶ崎の南湖という海岸の方にあって、これで治療が全部、おしまいという日に、父の友人のお医者さんは車で家まで送ってくれた。家族総出で。僕の家は両親とも運転免許証をもっていなかったから、家族が一台の自家用車で移動するという空間にお邪魔するのは新鮮だった。その家のお父さんが運転手をして、僕が助手席に座り、後部座席に奥さんと子供が2人いた。「人生ゲーム」みたいだと思った。子供は、僕より年少の人見知りをしない騒々しい男の兄弟だった。道中、彼らは父親に向かって、「ねぇ、このお兄ちゃんを治したのは、パパ?」と後ろから話しかけていた。父の知り合いの医者は、ハンドルを握りながら、子供たちに、「違うよ。タッちゃんが一生懸命、自分で治したんだよ」と答えた。僕は、この家では子供は自分の父親を誇りに思うんだ、と思って、自分にはそういう気持ちが欠けてるな、と思った。僕は自分の両親に車内でのやりとりの一部始終を報告した。「お父さんの友人の医者は、自分が治したと自慢してもいいのに、治療は患者の治そうとする気持ちが大事だと教えてたよ。なかなか大したものだよ。あの兄弟は、将来医者になって、あの病院を大きくすると思うよ」と僕は言った。すると、僕の父と母は、顔を見合わせて、困ったような顔をして黙り込んだ。僕は、その瞬間の「間」をよく覚えている。その後、僕は疲れて、居間でそのままうたた寝をした。母が僕に毛布を掛けた拍子に目を醒ましたが、同時に両親の会話が耳に入って来た。父「さっきの達二の言い分を聞いたか?」。母「ええ」。父「達二は、将来、駄目かもしれないな」。母「あの子は、難しいから」。その後、父母、沈黙。僕は、重い空気を読んで、タヌキ寝入りを続行。

(9)父は、僕が二十歳の頃、胃癌が見つかって、医者をリタイアした。子供の頃は、あまり父と話さなかったが、父が死ぬまでの1年弱はよく話した。父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、揃いで着て喫茶店に行ったりした。医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。本当は病気にタバコはイケナイけれど、不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。

(10)父が死ぬ直前。兄はもう医者になっていて僕は医大生だった。僕は毎日、学校の実習を終えるとお見舞いに通った。父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、ある日、2人きりの時にすべてを教えた。父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」と言われた。

(11)父は家族旅行には一切参加しなかった。足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし自分が楽しむよりは家族が楽しむことが目的だったのだろうけど、きっと、経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったからだと思う。医学部じゃ教えないから。大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。

(12)父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。AZもその1人だった。AZは僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。藤巻が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。

(13)いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。しかし、僕は本当に実感がなかったから、「いや、本当に悲しくないんですよ~」と軽く(明るく?)答えたら、「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。

(14)うちの父は顔が広いから色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。でも、僕は思った。「この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、今日のところは譲ってやろう」。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。それは、家庭用のカラオケの機械だった。父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことがある。そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、1から医学校に入り直したらしい。詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」ってインプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、ふとカラオケを購入したのかもしれない。カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、「チッ!」と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。おそらく父が好きな歌なのだろう。しかし、おそろしく丸印が少ない。僕は、「い」のページで目と手が止まった。二つ、丸印が並んでいる。一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる 誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。

(15)子供に何かを教わるというのは、親として喜ぶべきことなのだろうか。そういえば、小3の頃、父に「医師会の忘年会」でやる出し物の相談をうけたことがあった。父は短‘歌’や‘芸’術には明るかったが、流行‘歌’や‘芸’能界には暗かった。そこで、その分野では、父の知り合いの中では最も長けてると思われる人物=我が子の知恵を拝借しようというわけだ。僕は、「医師会の忘年会」という響から、堅物の年寄りのヨッパライの集まりだと即座に判断し、当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」のB面の「大変歌い込み」を教えてあげた。これは、♪エンヤートット、エンヤートット♪という掛け声で始まる民謡「大漁歌い込み」の替え歌で、♪大漁だよ~♪という所が♪大変だよ~♪という風になっている。シャイで下戸で音痴な父が、いくら酔っ払いの前とはいえ、歌を披露するとなると、一つ間違えれば、「ジャイアン・リサイタル」だ。(当時、ドラえもん、まだないけど)。それでも本人自らが、♪大変だよ~♪、と歌い上げてしまえば、先手必勝である。周囲も納得せざるをえまい。大変なんだから。ドキュメンタリーともいえる。演じる方も大変だが、聞く方だって大変だ。指名した人に責任がある。そんな、「大変歌い込み」。実況中継に近い。同情と共感が入り混じって、拍手さえ起こるかもしれない。そんな目論みだ。父は、僕の指導の下、なんとか1番だけを覚えた。会のあと、父は上機嫌でご帰還し、大変感謝された。父親の役に立ったというこの体験は、その後の僕の性格形成に、なんらかの影響を及ぼしたと思う。

BGM. ザ・ドリフターズ「大変歌い込み」


専門外来〜幸せになる?!〜

こんにちは、とくだです。これまで心理部門では、様々な専門外来をご提案してきました。元々は、川原先生の斬新な発想から生まれた専門外来の数々。

例えば、『花嫁になる君に〜虐待防止カウンセリング』では、愛情があるのに子育てのうまくいかなさから叱りすぎてしまう、虐待が疑われる、そういうケースが時折ありますが、そこに焦点を当てた外来でした。親自身の幼少期の体験が現在の子育てにもオーバーラップする(いわゆる世代間伝達する)場合も多いので、子育て中の方だけでなく、これから母親(父親も)になる人に向けての外来でした。

他にも、なかなか人には言えないけれど、不倫をしてしまった側の人への支援を考えた『不倫外来』や、『精神科的懺悔室』、過去にカウンセリングを受けたけれど、うまくいかなかったという人に向けての『リベンジ・カウンセリング』・・・等です。

これらは大きく括るとすれば、支援の必要性に焦点が当たる立場は言わずもがなですが、焦点の当たりにくい立場でもケアは求められる、という視点が強かったかもしれません。あまり公に語ることが難しい、言葉にしにくいというようなことでも、様々な立場から、個人のニーズに光を当てようという視点で、診察という場もそうですが、じっくりと時間をかけて語ることのできる場としてカウンセリング(心理療法)を、なるべく入りやすく、キャッチーなフレーズで知っていただきたいというところから生まれた専門外来の数々。(ちなみに、今考えている最新版の専門外来は、個人の視点よりも、もう少し社会的な視点が入った専門外来として、またご提案したいと思っていますが、それは近日公開予定です。ご興味あったらぜひご覧になってください。)

さて、そんな経緯があった専門外来でしたが、川原先生からまた別のご提案が。

「また別の専門外来思いついたんだよ・・・今までは困っているということに向けての専門外来だったけど、もう少し座標軸を変えてみた視点が必要だと思うんだ」と。「題して、『幸せになろう外来』というのはどうか」と。

たぶん、これまで私はわりと川原先生のおっしゃるキャッチーなフレーズやその意図を自分なりに理解していると思っているけれど、今回の『幸せになる外来』を理解するまでに結構時間がかかり、どういうことか何度も尋ねてしまいました・・・

幸せ??どういう視点??よくある女性雑誌の「愛されコーデ」みたいなこと??などと勘繰ってしまって、混乱・・・。

『幸せ』というワードの持つ曖昧さや、こちらが勝手にちょっと黒い気持ちでその言葉を捉えてしまい、隣にいた原さんにも尋ねてしまいました。松井さんにも聞いてみたいところだわと思いつつも。

精神分析の創始者のフロイトは、「痛ましい状況」を「ありきたりの不幸」に変えることができれば、困難や苦しみにもう少し立ち向かえる、といった主旨のことを言ったそうですが、困っていることや苦しいことをどのように理解して、自分が立ち向かえるところを見出そうとすること、苦しい中でもいかに考えられる心を持つか、ということを考えたいと思っているものの、シンプルに『幸せになる』と言われるとなんでこんなに理解が遠くなったのだろうか、、、と不思議です。

少しやり取りを重ねて、新専門外来については、

そもそも『幸せ』の定義とは何かということになる、そこにその人の歴史あり。そういった個人史をカウンセリングで紐解いていこうということです。病気だから、問題があるから、ではない視点。幸せになるために自分は何を求めているのかを考えてみようというカウンセリング(心理療法)。それは確かにちょっとこれまでの専門外来の視点とは違うかもしれません。よりよく生きるには、生きづらさについて考える、というよりももっと積極的に幸せについて考えてみる。

皆さんにとっての『幸せ』はどういうものですか・・・?

もし私のように、腑に落ちない、という感覚に陥ったり、

言われてみれば自分は何を欲しているのだろう?と思ったり、

ご興味をお持ち方はどうぞこの専門外来に一度いらしてみてはいかがでしょうか?

P.S.原さんと松井さんにもこのテーマについて記事を書いてもらいました!続いては、原さんです。その後に松井さんと続きます~。


こんにちは。心理士の原です。

「幸せになろう外来」をやろう!と発表する川原先生と徳田さんのやりとりをそばで聞いてました。

幸せになろう外来は

「幸せとはなにか」を知ることから始まる

 

みなさんにとっての幸せはどういうものですか。

・おいしいものを食べる

・恋人と一緒にいる

・ペットと過ごす時間

・推しのライブが始まる直前

・新しいゲームを全ステージクリア

・ミステリー小説のラスト10ページ

・釣りに出かける前日に持っていく道具を確認する

・スポーツジムで汗をかいた後のシャワー

・社長へのプレゼンで手ごたえを感じた

・予定いっぱいのスケジュール

・家族のいない家にひとりでいる

・子どもが小さかった頃のアルバムを眺める

それぞれの人にとって「幸せとはなにか」はそれぞれ違うもの。持っている価値観や感じ方が十人十色で違うから。

 

そこでカウンセリング(心理療法)です。

自己理解を通して自分の価値観を知ること、日常生活で自分の気持ち(感情)に意識を向けることは、自分だけの「幸せとはなにか」を知ることに役立ちます。

隣の芝生は青く見え・・・ない!

「どうして自分はいつもうまくいかないんだろう」

「自分が生きている意味ってなんだろう」

こんな考えが湧いた時は、幸せになろう外来の絶好の機会です。

相談室でお待ちしています。

 


こんにちは。心理の松井です。

 

「幸せ」と聞いて、素直にスッと心に入ってくる人とは、果たしてどれくらいいるのでしようか。幸せというワードは、どうかすると暴力的になることすらあると私は思います。

なぜなら「幸せ」とは、幸せになりたい幸せとは何か自分は幸せなのかといったように、自分の内から生まれてくるものであって、外から提示されるようなものではないと思っているからです。幸せとは、常にプラスアルファ、通常よりも素晴らしく最上位の状態であり、無敵のような圧を内包していると思います。なので、自発的に「幸せになろう!」と行動を起こすのはともかく、「幸せになろうよ!」と突然投げかけられるのは、結構酷なことだなと思うのです。

 

創作物のジャンルに「メリバ」というものがあります。これは「メリーバッドエンド」の略で、受け手にハッピーエンドかバッドエンドか解釈が委ねられたり、結末を選んだ主人公にとっては幸せと定義されても、周囲から見るとバッドエンドである作品のことを言います。

例を調べると「マッチ売りの少女」や「幸福な王子」などが出てきます。現代だと「まどマギ」がそうでしょう。体感でしかないですが、メリバはなかなか根強い人気を誇るジャンルのひとつだと感じます。

 

メリバで描かれる幸せ悲劇であるにも拘わらずという要素があって成り立つと言えるので、手放しの幸せとは違うでしょう。むしろ、幸せは定義ができるか?という「幸せ」に対する皮肉的な感情から、メリバというジャンルが生まれたようにも感じます。

 

個人的な好みではありますが、自分は少なからずそこに共鳴し、一定数刺さる人がいて、ジャンルを通して「幸せ」に構え気味な人々がいることを思うと、幸せというプレッシャーから少し解放される気持ちになります。

「幸せ」について考える時、そういったややこしさや難しさ、複雑さは、人々の心のどこかにあるものではないでしょうか。だからこそ、「幸せ」を投げかける時、慎重であって悪いことはないと思うのです。

 

幸せが何かというのは捉えるのが難しく、人それぞれ、結局はどう生きるか、どう生きたいか、それを模索し進む過程で、結果的に「これか」と気づくようなものなのだと思います。ですので、私は「幸せとは何か外来」の方がいいなあと、密かに思っています。


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24/Ⅶ.(水)2024 はれ 手越祐也、国家独唱を辞退 RIZIN運営謝罪、SNSは同情の声

今日は土用の丑の日。鰻じやなくても、「う」のつくものならなんでも食べれば良いんだって知ってました?たとえば、うどん、とか、卯の花、とか、ウインナーなど。

今日のお昼は暑いから熱い天ぷら「う」どんにしよう。

受付に、「う」まい棒明太子味を買ってきました🤣

自分用の朝に、「ウ」インナーロール

新しい本棚リスト。東口宜隆は、さらば青春の光、の東ブクロの本名です。彼の卒業文集をYouTubeの企画で幻冬舎が手作りで製本化(商品化)した限定品。東ブクロは先輩芸人のお嫁さんと不倫して干された問題児。「不道徳ロック講座」の帯と並べるとイカしてますね。何気に「力道山未亡人」の帯も興味をそそります。

トランプのTシャツも飾りました。カワクリにあると政治色が薄まるとお褒めの言葉をいただきました。テクノポップが流行しても、歌謡曲に使われると結局、「テクノも歌謡曲になっちゃう」的な。或いは、新興格闘技団体UWFが一世風靡した時でさえ、「シューティング(真剣勝負)も含めてプロレスなんだよ」と語ったジャイアント馬場の含蓄を思い出します。

Tシャツと言えば、「パリ五輪」応援Tシャツが届きました。

女子レスリングの須崎優衣さんに注目です。

あとは柔道。

BGM. RCサクセション「エミちゃん、おめでとう」


夏休みの自由研究~川原達二の作り方 2024

19/Ⅶ.(金)2024 はれ、暑い トランプさんの銃撃事件のTシャツ早くも売り出される

母は2006年3月19日に死にましたが、僕はろくに墓参りなどしません。その墓は父が死んだ時に建てたもので、その墓には両親の骨が入っています。でも、僕はどうにもその墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。そもそも、親が死ぬまで、そこに寺があることもしらなかった、縁もゆかりもない場所です。何かの歌にあったけれど、墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのです。僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていません。そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれませんね。

今月はお誕生日月なので、自分のルーツというのか、今回は母に関する記事をお届けします。今回も「心のゴミ箱」兼用です。昔の知り合いでたまたま、ここを見つけた人も「元気ですか?」と声をかけて下さい。「非公開」希望の人はそう書いて下さい。

 

(1)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。

(2)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

(3)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と現代そば事情を嘆いた。僕は、この親子はアベコベだな、と思った。

(4)ある日、母は僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来た。「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいた。聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言っていた。僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど母が悔しがってるのが、かわいそうで、母を馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。それで、家に帰って、その報告をしたら、母は嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。

(5)小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまった。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、「このままじゃマズイな」と思ったものです。ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

(6)箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。お正月をゆっくり過ごそうと出かけたのだが、そのシーズンは旅館も混んでて、サービスが悪く僕は不機嫌。口もきかないから、母は困って、結局、この旅行は一泊もしないで、わずか数十分で帰って来る。大学の入学式。大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていた。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて「こんな奴らと一緒にされたくない」と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰ってしまった。母は、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑っていました。どっちの場面も怒って良かったんじゃないかと思う。

(7)兄の結婚式。僕は間に合うように家を出たのだが電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻。結婚式の途中で、バタバタと親族席に遅れて到着すると、母はホッとした顔をして、振り向いて笑っていました。

(8)母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないんですよね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも母の「ロースト・ビーフ」には劣ります。しかし、あの味は、もうこの世にないのです。母は、息子のお嫁さんたちに、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったからです。

(9)こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。その子と目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出して、考えます。母は、僕の心の中にいると住んでいます。母はもう死んでいないから、美化されていて、お得です。

(10)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつけた。僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいから。茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。

(11)ワニが死んだ日のこと。僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、という同じシーンがあった。その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、サザエとフネが青ざめるというものだった。僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。「ワニの肉は本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや」。母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。

(12)川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、「これで良いだろう」とそれを持って、応接間の戸をノックしました。まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。そして、父が母に言いました。「達二の看病をしてあげなさい」。母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。

(13)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)あれは何だったのか、いまだに判らない。

(14)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。

(15)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、今、『鳥◎』とっくにつぶれてる。

(16)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は「なるほど」と思った。

(17)子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。僕が、「今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ」と指摘したら、「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。「お釣りの件は?」とたずねると、「う~ん、どうでしょう?」と笑いながら答えた。

(18)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。

(19)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。カワクリは法人化して、医療法人綾枝会、になる。綾枝会の綾は、母の名前からとった。母はここのクリニックをみることなく死んでしまったが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。

(20)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。語呂合わせの巻。11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金<気持ち」である。僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

(21)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。

(22)僕には、いじめられ体験がほぼない、が、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。僕が、「塾」と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。男の子のプライドを大事にしたんだと思う。僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

(23)中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

(24)母はバレンタインに毎年、それこそ死ぬまでチョコレートをくれた。皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなライン。中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。ま、僕は嘘もついてないし。しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

(25)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、「俺も舐められたモンだぜ」と思った。結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、「ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい」と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、「先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!」と母をせかした。母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、「言おうかどうか迷ってるんだ」と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。「あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ」と僕は答える。母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。「中学生は入っちゃいけない店なんだ」。母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。「うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ」。すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。パ・チンコなのにね(笑)

(26)僕が中3の頃、異常なスペースインベーダ―のブームが来た。ゲームセンターだけではなく、喫茶店のテーブルもみんなゲーム機だった。東中野の駅前のパチンコ屋の2階もゲームセンターになった。僕はそこでスペースインベーダーをやっていたら、後ろから不良に椅子を蹴られ「順番変われ」と脅された。僕はそんなに喧嘩が強い訳でもないし、相手の学校の縄張りだから席をどいた。家まではすぐ。でも帰り道に段々腹が立ってきて、「これはおかしい!」と思い、家まで走って帰り、何か武器を探した。あまり役に立つものはなく、かと言って包丁を持っていくのも違うから、丁度、お風呂の湯船の栓をするのが、黒いまん丸い球状のものでそれが鎖のようなものにつながってるから、それを引きちぎり、ゲームセンターに逆戻りをしようとした。その時、家には母がいて、「どうしたの?」的なことを聞かれたと思うが、僕は頭に血が上ってたから、何も言わずに家を出た。ゲームセンターにつくと不良の二人組がゲームをやっていた。僕はそいつらのところに行き、風呂の栓をブラブラさせて相手を威嚇して、「席を返せ」とすごんだ。不良たちは「なんだよ!」と声を荒げてこっちをみたが、おれの形相におじけづいたのか、あっさりと退散した。僕はいささか拍子抜けだが、ゲーム機が空いたからそこに座ってスペースインベーダーを再開する。何か店の隅に異変を感じたから振り向いたら、母がこっちを見守っていた。不良たちがビビって去ったのは、僕の武器にではなく、背後で睨みつける母にだった。

(27)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。おしまい。アーメン。

BGM.  さくら学院「秋桜学園」