喪の仕事

6/Ⅴ.(木)2010 はれ
今日から仕事。診察で「忌野清志郎さん、亡くなって1年ですね」と言われた。
当時、泉谷しげるは「アイツの死は絶対に受け入れない。通夜も行かない。告別もしない。冥福も祈らない」との名言を
はいた。
それを聞き僕も「訃報を信じません」という同じ立場をとろうと考えた。
元々僕は「別れ」に弱く、アントニオ猪木の引退試合もトイレに行ってて見逃した。
父が死んだ時も靴下を買いに行ってて、棺桶に釘を打つのにあやうく間に合わなくなりそうになった。
そういえば、フロイトも自分の父親の葬式に、行き付けの理髪店に行き待たされたために、遅刻してしまったという。
こういうのは失錯行為と言って無意識の作用らしい。
去年の5月9日に青山ロックンロールショーと銘打たれたファンのための清志郎のお別れ会が行われた。
本来なら僕はここには参列しないのだが、当日、僕の息子に「行ったら?」とすすめられ急遽行くことにした。
その日は土曜日だが外来が終わったのが8時すぎでそこから青山に直行した。
下の写真は会場でもらった記念のもの。息子には感謝している。
BGM. 忌野清志郎「Baby#1」


気分はパラダイス

5/Ⅴ.(水)2010 はれ
古いβのビデオを保存目的でブルーレイにダビングして過ごす。
中でも、面白かったのは「気分はパラダイス」。
MANZAIブームの終わり頃で、多分今から30年くらい前の番組。
若かりしビートたけしと島田紳助が「どうやって芸能界に生き残るか?自分たちは生き残れるか?」
ということを公共の電波でずっと相談してる内容だった。
たけしも紳助も未来を知らない。答えを僕は知っている。
「君たちは大丈夫だよ」とブラビアに向かって話しかけてみた。
たけしは丁度、足立区バンドというコミックバンドを作った頃で番組の中で「紳助の影響でバンドをやったんだよ」と告白した。
紳助は今後について「8ミリ映画に挑戦する」と語っていた。
たけしは「映画?」と言ってポカンとしていた。
勿論まだこの時点でたけしは自分が映画を撮るとか「世界の北野」になることを知らない。
ついでに言うとフライデー襲撃事件もバイク事故で顔面麻痺になることも知らないのだ。
だから紳助の影響でバンドをやったように、この会話をきっかけにたけしの頭の中に、
「映画かぁ」なんて選択肢が増えたのなら面白いな、と思った。
さばの塩焼き、行者にんにくのおひたし、たけのこの味噌汁を食す。
BGM. ザ・ジャガーズ「君に会いたい」


らくだ


4/Ⅴ.(火)2010 はれ
よみうりホール「立川志らく 25周年記念公演 独演会 スペシャルゲスト:立川談志」に行く。
談志は「昔は師匠がいいと、いい弟子は育たないと思っていた。でも、志の輔、志らく、はる(談春のこと)、
最近では談笑あたりが出てきて、これだけの弟子を育てたことで己の存在意義はある」という趣旨のことを言っていた。
数日前、談志はたけし、太田(爆笑問題)と3人で鰻屋の離れで呑んだらしい。
その時、太田が若い頃、談志に「お前はこのスタイルでやってていい」と言われて非常に安心した、という話をしていたという。
志らくは、談志に「人情噺はするな」と言われて言われた通り、「人情噺はしません」と言って「らくだ」を演じた。
話は全然変わるが、日本に初めて「らくだ」が来た時はつがいで来たらしい。
大変、珍しい動物で話題になったから、当時はアベックで出かけると
「おっ、今日はらくだかい?」などとからかわれたと何かで読んだ記憶がある。
BGM. ザ・フォーククルセダーズ「コブのない駱駝」