同窓会

18~19/Ⅱ.(土)~(日)2012
2月の始めに「大学の同期会」をやるとの葉書が来た。
<随分と直前に連絡をよこすものだなぁ。それで、人、集まるか?>と思って、同期の友人Wに連絡したら、
「その日は、大学全体の同窓会があって、その葉書は、二次会のものだ」と教えてくれた。
言われてみれば、去年の年末に大学の同窓会のお知らせが来ていた。
返事を出さずに、放っておいた。
Wは、それから仲の良かった友人や女子にも連絡をして、「この際だから皆で、
同窓会に出よう」と話しをまとめた。
Wは、同窓会事務局に問い合わせ、僕が出欠の連絡を出していないが、出席できるように手配をしてくれた。
Wは、元々、頭のいい奴なのでこのくらいは朝飯前だ。
今の仕事も成功しているみたいだ。
場所は、都内の一流ホテル。僕はWに<何を着ていくの?>と尋ねると、
Wは「スーツ」と答えた。
僕はスーツを持っていないから、
<襟のついたシャツと高級なGパンならいいかな?それだと入れてくれないかな?>と
質問した。
それというのも、以前、有名なレストランに招待されたことがあり、草履で行ったら、
お店に用意してあるブカブカの靴に履き替えさせられた苦い体験があるから。
でも、店に靴が用意されてるということは、結構、草履で来る人が多いってことだよな。
なんだよ、偉そうに、大して旨くもないのに、味の違いわかんねぇよ。
それは舌の問題か?、失礼しました。
するとWの返事は、
「どんな格好でも、大丈夫。ただ、俺はスーツで行く。
医者って格好とか気にする奴いるじゃん。それが面倒くさいから。ホテルはGパンでOK!」
とお墨付きを貰ったので、
僕はミック・ジャガーが上半身裸でズボンのポケットに手を突っ込んでいるプリントTシャツの上に、
白地に淡い花柄のシャツを羽織り、腿の辺りに音符が描かれてるGパンを履いて、
靴は履きなれない靴を履くと必ず靴ズレするからいつものスニーカーがカラフルだからそれでいいと、
コーディネート終了。
同窓会は土曜日なので、外来が終ってから行くので、遅れて合流することに。
先に着いたWから「今、どこ?」とか
「何線に乗り換えて、何個目」とか
「何番出口から出て、橋を渡って右の建物」とか
「入ったら守衛がいるから‘○○の間’はどこか聞けばいい」とか
一つづつミッションが送られてくるので、
僕はそのナビに従って会場に向かった。
実際、僕は何ホテルでやるのか知らなかったから。
正確に言えば、‘知らなかった’のではなく‘知ろうとしなかった’のだけれど。
途中、Wに<皆、何着てる?>ってメールをしたら、「全員、スーツ」と返って来た。
ちょっとだけ<帰ろうかな…>と弱気になったが、
忌野清志郎が山口百恵と三浦友和の結婚式に招待された時
(清志郎と三浦友和は高校の同級生だったから)にGパンに革ジャンで行った、
と何かで読んだのを思い出し、勇気を出した。
会場に着くと、首から提げる名札を渡され、
誰だか判る目印にするのだろう、首からブラ提げた。
すぐにW達の待つ場所に合流し、そこにはMやVもいて、少し遅れてT君も到着した。
皆で会うのは10年いや20年ぶりくらいなんじゃないか?
僕はワインを駆けつけ3杯、すぐに皆と打ち解けた。
食事がバイキング方式になってるので、グラスと皿を持って会場をウロウロしていると、
「川原君、変わらないね」と色んな人が声を掛けてきてくれた。
皆、懐かしそうに、嬉しそうな顔をしている。
卒業してから20年以上経っているのだ、僕の見た目が変わらない訳がない。
おそらく皆が言いたいのは、
こういう会にもこういう格好で来て偉そうにしているところが変わらない、ということなのだろう。
そして、そのことに対して、皆、好意的もしくは寛容であった。
僕は好きだった女の子の何人かと一緒にツーショット写真を撮らせてもらった。
大事に保存するつもりだ。
いきなり背後から大声で、
「キャーボー!」という声がして、振り向くまもなく、スリーパーホールドを極められた。
勿論、愛情表現である。
僕のことを「キャーボー!」などと呼ぶ人間は限られている。
それは野球部でだけ使用されていた僕の愛称だったからだ。
「川原坊や」が「キャーハラ・坊や」に転じて、「キャーボー」とあいなった訳である。
声の主は僕が1年の時の4年生のキャプテンだった。
「元気か?何だ、お前その格好は?今度の野球部の謝恩会は来るのか?相変らずだな、キャーボー!」と
矢継ぎ早に脈絡のないことを言われ、僕も矢継ぎ早に
<元気です。ミック・ジャガーです。謝恩会の返事は出してません。皆にもそう言われました>と
質問の順番通りに答えた。
僕は新歓コンパで酔い潰れてキャプテンのアパートに泊めてもらい、
翌日には風呂にも入れさせて貰った恩義があり、その時のことを感謝して、その舌の根も乾かぬうちに、
<でも、水風呂で冷たかった>と文句を言った。
するとキャプテンは「すまん、追いだき機能がなかったんだ」と頭を下げた。
しかしキャプテンになるような人はやはり器が違うのだ、翌日に僕にメールをくれ、
野球部の謝恩会に参加できるようにしておいたから、
いついつの何時にどこどこホテルの‘何の間’に来い、
と手配してくれていた。
仕方ないから、行くことにする。
…仕方ない、って言い方も失礼だな。
訂正、喜んで参加する。
二次会は同じホテルの上の階で各々の学年ごとに同期会をするのだ。
そもそも、これが冒頭の葉書の正体なのだ。
違う大学に入局したために、同窓会に来ていないO君を呼ぼうと意見が一致した。
メールで<おいでよ>と出すが、
O君は「俺は同窓会名簿に入っていないから」と言うので、
<二次会は名札を返しちゃってるから紛れ込んでも判らないよ>と返信した。
すると、O君は「○○ホテルに行ける様な服じゃない」と遠慮するので、
<俺とかVはGパンだよ>と説得すると、
O君は「俺は作業着みたいなズボンだ。ホテルは遠慮しておくよ。3次会に呼んでくれ」と
寂しいことを言う。
O君が好きだった女の子も来てるんだし、服装ごときを理由に辞退するのはくだらないことさ。
そこで僕は、Vに僕の格好を写メに撮らせ、
その際、丁度、帽子とマフラーと手袋が一体となってる防寒着を着て来てたので、
それは豹柄で帽子には豹のように耳が付いていて、その方がインパクトがあるので
(つまり格好なんて関係ないよ、というメッセージ性が強いので)、
その写メを添付してO君に送った。
その効果は抜群で、O君は二次会に合流した。
呼んどいて言うのもなんだが、本当に作業着みたいな服だった。
しかし、O君は僕の格好を見て安心したから来たのではあるまい。
そこまでしてくれる旧友への男気として駆けつけたのだろう。
じゃなきゃ、普通の神経で、○○ホテルにあんな格好で来れまい。
あれ?俺、矛盾したこと言ってるか?。
下が、O君の男気を稼動させた写メ。↓。

僕らは学生時代は馬鹿騒ぎをする方で、
たとえば学園祭などでは、ステージで各クラブごとに出し物をする恒例があるのだが、
そういうステージに乱入したりして楽しんでいた。
学園祭実行委員会は当然ながら進行を妨害するものを排除したい。
そのため、柔道部とかの屈強な奴らが警備に当たっていて、
彼らとは何度か衝突したことがある。
そんな因縁もあり、我々はお互いを煙たがり、距離をとっていた。
同期会では、そんな柔道部の一人が
「おぉ、川原。相変らずだね。まぁ、一杯やれよ。何呑んでんだ?ワインか」と
俺の持ってるワイングラスにワインを注いだ。
普通、ワインというのは、チマチマとグラスの半分位づつ入れて呑むものだと思うのだが、
奴はワインをグラスにナミナミと注いだ。
相変らず、嫌な奴だな。
俺は、そう思いながら、グラスを一気に呑み干した。
すると、奴はビックリした顔をして、「お前、何、やってんの?」と言った。
俺は、<つがれた酒は一気に呑まないと>と理由を答えたら、奴は苦笑しながら、
「俺な、実は、そういう体育会系のノリ、苦手なんだよ」と耳元で囁いた。
僕らは顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
昔のことは恩讐の彼方に、我々は20年以上の歳月を経て和解した。
時は魔法使いのようだ。
さっきも言ったが、二次会は名札がないので誰が誰だか判らない。
しかし、同期なら判らないのは失礼である。
ところが僕は同級生の顔と名前を覚えるのが苦手なのである。
正確に言えば、覚えようとしなかったのである。
以前、山手線の中で、
「もしかして、川原君だよね?俺、○×だよ!」と声を掛けられたことがあるが、
誰だか判らなかった。
彼は必死で、
「俺、○×だよ!一緒に、海外旅行に行ったじゃないか?」と言われて、ナントナク、そんな人いたなぁ、
と思ったくらいで、たいそう、相手をガッカリさせた前科がある。
だから、二次会は危険だ。
向こうはこっちを知っている。
しかし、こっちは向こうを知らない。
さらに、それを向こうにさとられてはいけない。
そこで僕が考えた作戦は、
僕の近くにMを配置し(Mは僕がそういう人間だと知っている)、
<もし誰かが俺に話しかけてきて俺がそいつを誰だか判らなかったら、‘コマネチ!’ってたけしのギャグをやるから、
そうしたら自然に『おぉ、×○じゃないか、元気?』と小芝居をして、さりげなくそいつが誰だか俺に教えろ>
と仕込んでおいた。
結果、俺は二次会中、ずっと‘コマネチ!’、‘コマネチ!’と言い続けていた。
平成24年2月のサタデーナイト、
おそらく日本中で一番、‘コマネチ!’と叫んでいたのは自分だという自信がある。
自負と言ってもよい。
しかし、僕の失敗はそばに配置しておいた人間の人選ミスで、
Mは俺が‘コマネチ!’、‘コマネチ!’という度に、
「わかんねぇ~」とか「俺に聞くなよ~」とか言って、
Mは俺と同じくらいクラスメートの名前を知らなかった。
そのせいで、僕は後輩にペコペコ頭を下げて逆に恐縮されたり、
先輩に横柄な態度をとって呆れられたりする始末。
学年毎に、分かれてるといっても、
そこはアコーディオン・カーテンみたいなもので仕切られてるだけだから、結局、入り乱れるのだ。
そうは言っても、印象的な人たちもいて、たとえばヨット部の1個上の3人組の先輩(女子)は、
「たつじ、元気?アンタ、何、やってんの?相変らずねぇ。T君も来てる?」と矢継ぎ早に脈絡なく話しかけられ、
僕も矢継ぎ早に、
<元気です。あなたたちと話しています。皆にそう言われます。どっかにいますよ、連行しましょうか?>
と質問順に答えた。
3人組の先輩(女子)をそこに待たせ、Mを誘って、T君を探しに各階・各部屋を回っていった。
T君は、僕らのグループの一人で、ヨット部のキャプテンだった人だ。
ちなみに僕はヨット部の幽霊部員でもあった。
僕はさっきO君に送った写メ用の豹の帽子付きマフラーを被ったままの格好で歩き回っていて、
最初に入った部屋が運悪く、一回生の集まりの部屋だった。
さすがに一回生は10歳とか20歳とか年上の人達だから、知らん顔して退室しようとしたら、
そのマフラーが怪しがられた。
一回生たちは、何か妙なものが入って来たと僕とMを取り囲んだ。
今、考えれば、帽子を脱ぐだけで随分違ったのだろう。
「ちょっと、待て!お前は誰だ!何回生だ?何科の医者だ?それより医者か?名刺を出せ!」と
矢継ぎ早に脈絡のないことを言われたので、
僕も矢継ぎ早に
<待ちます。川原と言います。何回生かは思い入れがないのでわからないです。精神科です。名医です。名刺は明日、作ります>
と質問順に答えた。
ここはもう腹をくくるしかない。
‘居残り佐平次’にでもなったつもりで、口からデマカセなことを言って、適当に先輩方をおだてたり、
<上品なネクタイですね。万引きですか?>などと軽口を叩いてるうちに、
「面白い、気に入った」などと認められ、
握手を求められたり、ハグされたりして、最後は胴上げまでされる始末。
何とか無事に逃れることが出来た。
もしも同じ様なことが起きた時のために、アドバイスをしましょう。
このように沢山の偉い人に囲まれたら、瞬時にその中で一番偉そうな人を見分けて、
その人だけをターゲットにたらしこみましょう。
一人で大勢と喧嘩をする時には、その中で一番強そうな奴だけを倒しに行け、
という喧嘩の極意に通じるものがあるでしょう。
しかし、僕とMにはまだT君を探す仕事が残っている。
3人組の先輩(女子)を待たせているのだから。
あっさりと、次に開けた扉の向こうにT君の姿があった。
僕は、
<T君!探したよ!先輩が逢いたがってるよ!一回生、最悪だったよ!早くおいでよ>
と腕を引っ張ると、
T君は丁度、その部屋の集会でスピーチをしている最中だった。
なるほど、だから、T君だけ立っているのか、と納得した。
そこにいた人達は驚いただろうな、いきなり豹を被った男が無遠慮に侵入してきて、
しみじみと思い出にふけっているT君を拉致しようとしたのだから。
しかし、T君はキャプテンともなるような人間だから器が大きく、僕の扱いにも慣れているから、
うまく僕をいさめて、スピーチを続けた。
しばらく僕はT君の隣に立って、テーブルの奴らのことを見回したが、知ってる顔はいなかった。
T君は、結構、感動的な話をしていたから、僕は空気を読んで、
<じゃ、T君!下にいるからね!皆さん、お邪魔しました~!ご歓談をお続け下さい~!
じゃぁね~、また見てね~!バハハ~イ!>
とか言って、その場を立ち去った。
部屋の外のソファにMが座って待っていた。
Mは、一回生の部屋で懲りたらしく、この部屋には入ってこなかったのだ。
Mよ、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
T君は間もなく、下に降りて来て、3人組の先輩(女子)と再会し、僕にも、
「さっきはサンキューな。あの乱入のおかげで場が盛り上がったよ」と、
明らかに嘘だと判る、お礼を述べた。
ホテルの会がお開きとなり、僕はWとMとVとO君とT君の6人で、女子を誘って3次会に行った。
普通の居酒屋の奥の座敷だったが、僕はこの辺りから記憶があやしい。
色んな人に逢って懐かしかったし、Wのはからいで来て良かったと思ったけれど、
それなりに気を使ったし、緊張もしたね。
だから、4次会は、男6人だけでもう一軒行こうよ。
僕はやはり、この6人だと楽だな、と思った。
それは6人ともそう思ったんじゃないかな。
ここに今日来れなかった、沖縄にいるKがいたらより最高だったな。
Vの行きつけのオカマバーで呑んだ。
明日が日曜日だから、こんな時間まで騒いでいられるんで、翌日、仕事だったら大変だな、
と僕が言ったら、
Wが「俺、今日、仕事(会議?)なんだよ」と言った。
朝の5時だった。
Wは酒を呑めないので、二日酔いこそないが、さすがに徹夜はきついだろう。
そう言えば、学生の頃もこのメンツで呑んで、Wは朝までシラフでつきあっていたっけ。
W、お前が一番変わってねぇよ。
帰りは、Mが家が同じ方面だからと、タクシーに一緒に乗っけてくれて、僕の家の前で降ろしてくれて、無事、ご帰還。
家に帰ってから寝て、夕方に起きたら、声が出ない。
晩年の立川談志みたいにかすれている。
家族は驚いて、「カラオケでも行ったの?」。
俺、<いや、普通に喋ってただけ>。
家族は不安そうに、「何を、喋ったの?」。
俺、<よく覚えてない>。
家族、「覚えてないの?」。
俺、<そう。でもね、おそらく…>。
家族、無言。
かすれた声で俺は言う、<おそらく、十中八九N・G>。
BGM. 山本山田「旧友再会フォーエバーヤング」


仲間の新年会2012~ゴルフの思い出

7/Ⅰ.(土)2012 
今日は、大学医局の先輩&同輩&後輩と、4人で寿司屋で新年会をする。
同窓の仲だから、医療に関する考え方やバックボーンが似通っていて、話していて楽だし、
勉強にもなったし、お寿司もお酒も美味しくて満足な会であった。
同輩が近頃ゴルフを始めたらしく、これで僕以外の3人はゴルフをやることになり、
もし僕がゴルフをやってたら、4人でコースに出ようと言う話しで盛り上がるのだろうな。
そういう僕は、一度だけゴルフをしたことがある。
それは、研修医1年目の医局コンペで、研修医は強制参加、だったから。
面倒見のいい、ゴルフ好きの先輩がいて、本番の前に練習場に何回か連れて行かれ特訓をし、
本番はその先輩と一緒に回る組になった。
キャディさんというんでしょう、僕らのグループと一緒に回るそのおばさんはきつい性格の感じの悪いキャディで、
口うるさくて、僕の歩き方が悪いとか、芝が駄目になるとか文句ばかりをつけてきた。
こっちだって、好きで来てる訳じゃないし、初めは我慢していたが、途中から
<うるせぇ!ババァ>とか<林にボールを打ち込んだから、その自慢の声でカラスを追っ払え>とか
<池に落ちたボールを潜って取って来い>とか言い、ババァも負けじと
「自分で池に入れ」とか「カラスのことまで知らない」とか「ゴルフをやる資格がない」などと言った。
<別に俺はゴルフをやらなくったって困らないから、ただ進行が遅れるだけで、それも知ったこっちゃない>
と言うと、先輩が「まぁまぁ、仲良くやろうよ」とか、キャディに「彼は純粋な性格なだけなんだ」と言い訳したり、
「池のボールは取らなくていいんだよ」と新しいボールを差し出したり、
「‘少年ジェット’みたいにやってみようかな~」とおどけて大声をあげて
「ウー、ヤー、ター!」とカラスを追い払ったりしていた。
こう書き連ねてみると良い人だな、先輩、元気かな?
結局、前半が終了した所で、医局の偉い先生達で話し合って
、僕は後半のラウンドは出なくていいことになり、風呂に入ったりして自由にしていて良いと許しをもらった。
皆が打ち終わると優勝者とか準優勝者とかブービー賞とかに賞品を授与するセレモニーがあるのだが、
僕は「努力賞」とかいう名目で電子ピアノの玩具みたいなのを貰った。
帰りはそれぞれ車に分乗するのだが、僕はさっきの親切な先輩の運転する車に乗った。
僕は、もらった玩具のピアノを車中でずっとデタラメに弾いていて、
先輩は「川原君、ちょっと静かに出来ないかな?」とハンドルを握りながら言って、
僕は<あと少しでやめますから>と即興で不協和音を鳴り響かせた。
その先輩はとても穏やかな人で、「川原君、もうそろそろいいかな?」と静かに言った。
<もうチョイ>そんなやりとりを僕がピアノに飽きるまでやって、僕は飽きたらやめて、
その後は後部座席で爆睡し、やさしく先輩に起こされて、目を覚ましたら自宅の前だった。
ま、当然だが、翌年の医局コンペに僕は誘われなかった。
それ以来、僕はゴルフのクラブを触ったことがない。
そんな若かりし研修医時代を思い出す2012年~新年会でした。


粋な別れ

30/ⅩⅠ.(水)2011
11月もおしまいですね。
11月は、父と母の誕生月であり、父の命日があり、息子の誕生日もあり、色々と物想う月であります。
去年は猫のミーちゃんが家出して、今だ帰らず、今年はとうとう談志が死んだ。
いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。
僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。
試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。
僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、
と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。
友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、
まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。
「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。
今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。
友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、
中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。
僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。
しかし、僕は本当に実感がなかったから、<いや、本当に悲しくないんですよ~>と軽く(明るく?)答えたら、
「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。
うちの父は顔が広いから(別に面積が広いわけではない)色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。
父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。
それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。
さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。
父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。
明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。
でも、僕は思った。
この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、
今日のところは譲ってやろうと思った。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。
僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。
父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。
そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。
それは、家庭用のカラオケの機械だった。
父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことは
前にもブログに書いたが、(2011年4月「子に習う。」です、良かったら読んで下さい)、
そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。
父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、
知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、
1から医学校に入り直したらしい。
詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。
父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。
しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。
実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。
僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、
結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。
僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。
そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。
僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。
堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、
社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。
そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。
招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。
向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。
僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」って
インプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、
ふとカラオケを購入したのかもしれない。
カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。
僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、<チッ!>と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。
これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。
よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。
おそらく父が好きな歌なのだろう。
しかし、おそろしく丸印が少ない。
僕は、「い」のページで目と手が止まった。
二つ、丸印が並んでいる。
一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。
その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。
『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる
誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』
にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。
BGM. 石原裕次郎「粋な別れ」


映画の友

28/Ⅹ.(金)2011 くもり、少し寒い
芸術の秋、なので僕と映画について書いてみる。
僕は、アイデンティティーが危機的になると映画館に行く傾向があるみたいで、つまり映画の思い出話の巻です。
その1。浪人の頃、彼女だけ大学に受かって、僕は代ゼミに通っていた。
今くらいの季節かな、僕は成績が伸び悩み、着々と実力をつけていくライバル達に遅れをとり、
それを偏差値教育や受験戦争に嫌気がさしたと思い込み、「こんな奴らと、一緒にいられるか!。
人間の顔など見たくない」と思い、ある週の始まり、授業をエスケープして、衝動的に動物園に行くことにした。
代々木から上野なんて山手線に乗っていれば、連れて行ってくれる。
もっと早いルートもあるかもしれないが、急ぐ旅でもない。山手線でグルリと行こう。
上野動物園に着くと、月曜日は休園だった。
フラれた気分で、不忍池のあたりを一周してると、ピンク映画館を見つけた。
ピンク映画とは、成人向けのポルノ映画のことである。
「動物に会えないなら、せめて獣みたいな人間を観よう」と古臭い映画館に入った。
ストーリーは、希望に燃えて上京してきた少女が、悪い男に騙され、性に溺れて、あげくには毛じらみを伝染されて、
下の毛を剃って終わるという、確か『毛』というタイトルの映画だった。
観終わった僕は「このままではいけない」と、正気に返り、慌てて家に帰ってモーレツに勉強した。
その2。僕は精神科医になりたくて医学部に入ったが、いきなり精神科の授業はない。
一般教養や基礎医学から始まる。
体中の骨の名前を日本語と英語とラテン語で覚えたりする。
生理学や生化学など、理科の実験の親玉みたいなこともしなくてはならない。
精神科医になりたい僕には、苦行でしかない。
自分だけうまくいかなくて嫌気がさして、「こんなことをしたくて大学に入ったんじゃねえよ!」と1人で切れて、
ある週の始まり、実験をエスケープして、衝動的に新宿に出た。
理由は簡単、高校の頃、よく遊んでた街だから。
新宿をブラブラしてたら、ピンク映画館で「薔薇族映画3本立て」という看板を見つけた。
薔薇族とは男性同性愛者向けの雑誌のタイトルで、つまりホモの映画の特集をやっているという告知であった。
僕は、どうとでもなれ、という気分だったので迷わず入館した。
客は、僕の他は美人の女性の2人組みだけだった。
観客は3人、映画が始まった。
ストーリーは、原爆の被爆者である2人の男がお互いの孤独に惹かれあって、愛し合ってゆくというもので、
全編にしとしと雨が降っていて、憂鬱なフィルムだった。
僕は「安易な気持ちで踏み入ってはいけない領域もあるのだ」とカルチャーショックを受け、学校に戻って、
実験の後片付けに合流した。
その3。上級生になると病院実習が始まる。色んな科を回って実地の診療を見学するのだ。
色んな科には色んな医者がいて、中にはすごくインケンな指導医もいて、ことごとく僕に意地悪をした。
まぁ、元はこっちが生意気だったのが原因なのかもしれないが、もしそうなら大人気ない奴だな、そいつは。
僕にだけものすごい量の宿題を出した。
休みの日も教科書とニラメッコだ。
そんな休日の過ごし方にも嫌気がさし、
丁度、大森キネカという映画館で寺山修司の実験映画の特集をしていたから気分転換に観に行った。
その日は、『書を捨てよ町へ出よう』が上映される日で、僕にはピッタリのタイトルで、
このグッド・タイミングは僕の正当性を立証されてるような気分になった。

映画館は日曜ということもあり、割と混んでいた。
奥の席の手前に空席を見つけそこに座ろうとすると、奥の席の客は若いお洒落な女の子だった。
こんな子が1人で寺山修司の映画なんか観るのかな?と思って、
<隣あいてますか?>とたずねると、丁寧に「どうぞ」と言った。
だから僕も丁寧に、<どうも>と返した。
ストーリーは、最初に主人公が画面いっぱいに正面から映し出され、客席に向かってアジるのである。
何しろ、「書を捨てよ町へ出よう」である、まず行動しろ、ということで具体的な提案を延々と訴えるのである。
すごい迫力である。
そして、主人公は「そこの君、まず隣の女の子の手を握ってみろ!」と言うから、僕は焦って、隣の子の様子を伺うと、
その子もこっちを見ていて、目が合って、二人して同時に笑った。
それから僕はその子と帰りにお茶をして、友達になった。
その4。数日後、彼女から千石の三百人劇場でルイス・ブニュエルの映画があるから一緒に行こうと誘われた。
ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」は寺山修司の年表にも登場するので、寺山つながりとして抑えておこうという訳だ。
タイトルは、『銀河』という異端キリスト教徒の話であったが、やや難解だった。
帰りに、お茶をして彼女から感想を求められたから、
<むずかしかったな>と答えると、「嘘!つまんなかったんでしょう?」と言われた。
図星で、この子は読心術の使い手か?、とヒヤッとしたが、そんなことはなくて、実は彼女も「つまらかった」んだって。

それから僕らは、面白い映画ってなんだ?、という話になり、結構ややこしい方向に彷徨ったりしたが、
最終的には喜劇映画の話になった。
今度の土曜の夜、浅草の六区の映画館でクレージー・キャッツの5本立てのオールナイトをやるから観に行くと僕が言うと、
彼女も是非連れって行ってくれと言う。
前から興味はあったが、女の子が1人で行くにはハードルが高かったというのだ。
その5。その日のラインアップは大したものだった。
一本目が『ニッポン無責任時代』で二本目が『ニッポン無責任野郎』である。
この2本は、川原達二が選ぶ日本の喜劇映画10本に間違いなく選出される作品で、
そんな架空のランキングなどどうでもよくて、
この2本はそれぞれが面白いのだが、話がつながっているから続けて観ると何倍も面白い。
まだ観てない人は、観るといいです。
順番を間違えないようにね。「~時代」、「~野郎」の順です。
当時の浅草はロックスが出来て集客に意欲を見せていたが、僕らの仲間は滅多に行かなかった。
皆、新宿や池袋は渋谷で遊び、お洒落な人が六本木や原宿あたりをうろついていた時代だ。
ビートたけしが、ギャグで「E・T」を観ようと映画館に行ったが銀座も新宿もどこもいっぱいで入れなかったが、
浅草の映画館はガラガラだったと言っていた。
勿論、たけし一流の浅草への愛情表現だと聞くものには伝わっていた。
かつての浅草からは多くの喜劇人が輩出された。
そんな喜劇の本場でクレージー・キャッツの映画を観るのである。
期待は膨れ上がってくる。
この日は、浅草に黄金時代が再現されたようだ。
こんな豪華な企画を放っておく馬鹿もないもので、その日の映画館はオールナイト映画にしては大入りだった。
後で判るのだが、大抵の人はこの2本を観たら帰ってしまった。終電もなくなるからね。
僕らは、朝まで観るつもりだから、まずは腹ごしらえ。
駅構内の焼きそば屋で、焼きそばを1人前とビールを2本たのんで、
焼きそばをを半分づつつまみにして、ビールを飲んだ。
その後、糸井重里がやっている団子屋がロックスにあるから、そこへ行きたいというので行ってみた。
孔雀なんとか、という店の名前だった気がするが、違ったらごめん。
話を映画に戻そう。
映画館は異様な盛り上がりで、彼女も嬉しそうにゲラゲラと笑いころげてて、僕は内心、ホッとした。
2本が終わると、彼女は輝いた顔をして、「スゴイね!」と興奮していた。
それと同時に、ゾロゾロと多くの客が帰って行った。
この映画館で夜を明かすべく残ったのは、僕ら2人と酔っ払って寝てる浮浪者みたいな何人かと、
そもそもここが寝ぐらなのでは?、と疑いたくなる本格的に寝ている何人かだけになった。
空気がガラリとかわり、彼女の表情も同様に変わった。
不安そうだったので、<大丈夫だよ>と僕が言うと、「やっぱり1人じゃ来れないわ」と彼女は苦笑してみせた。
3本目は、「日本一の色男」だったかな?。彼女の反応は、イマイチだった。
4本目は、クレージー・キャッツの後期の作品でドリフの加藤茶が準主役級で出てる映画で、
彼女はついにこの映画の途中で眠り出し、とうとうこの映画館で映画を鑑賞している客は僕1人になった。
ラストの5本目は、『喜劇泥棒家族』という映画で、僕も初めて観る作品だった。
ストーリーは、ある島の住民は全員が泥棒で、時々、船で本土へ行っては集団で泥棒をして生計を立てていた。
その島の泥棒のボスが植木等で、植木は昔、警察に捕まって拷問を受けて片足が動かなくなって、杖をついていた。
警察はいよいよ本腰を入れてこの泥棒達を捕まえようとし、島に乗り込んでくるのである。
圧巻は、男どもが次々に逮捕される中、最後に残った植木等が刑事に追い詰められるシーンである。
なんと、植木等はそこで杖を捨て、動かないはずの方の足をヒョイ・ヒョイ・ヒョイと動かしてみせ、
画面いっぱいに満面の笑みを浮かべ、空を飛ぶ鳥のように、海を泳ぐ魚のように、活き活きと走り回るのである。
植木等、健在!という感じだ。
何だか僕は、この僕以外は全員が寝てる映画館で、1人、感動していたのである。
結局、泥棒は全員捕まり、働き手(と言っても泥棒だが)を失った島は女と子供だけになった。
警察は、泥棒は逮捕したが、盗まれた金品を島から見つけ出すことは出来なかった。
ボスである植木等が、決して口を割らなかったからである。
ラストは、自転車の練習をしている子供に女たちが、気をつけなさいよ、と声を掛ける。
子供は、それでもよろめいて、電柱にぶつかって転んでしまう。
ほら~、言ったばかりでしょう、と女たちが駆け寄ると、自転車の前のライトのガラスが割れて、
中から金銀財宝が顔を出していた。
植木等は警察の目を誤魔化すためにここに隠していたのだ。
驚く女たち。
キラキラと輝く宝石のアップで映画は終わった。
不覚にも僕は感涙して、少し落ち着いてから、彼女を起こして映画館を出た。
犬一匹、猫一匹いない。カラスも鳴いていない。
無人街の浅草六区は、真っ白い朝もやに包まれていた。
僕は朝もやと瞼に焼きついたキラキラの映画のラストシーンの両方を自分の未来と重ね合わせて、
先はみえないけど何とかなる、と根拠のない確信を得て、頑張ろうと心に思ったんだ。
BGM. シカゴ「朝もやの二人」


アイドルを探せ

29/Ⅸ.(木)2011 一日、クリニックの外に出ていないので今日の天気はわからず
Oさんに昔のアイドルのグッズを取り扱っている店を教えて貰った。
ナカナカの充実振りだそうだ、今度行こう。
何かの映画の中で、監獄で生活をする人がピンナップ・ガールの写真を壁に飾り、
苦しい時間に耐えるという描写があったが、いつの世もアイドルにはそういう存在理由があって、
だからアイドルは素晴らしい職業だと思うし、アイドルにお金を消費するのは人生において必要経費だと思う。
そんな僕は、中学3年の頃、東中野のマンションに兄と2人で住みだした頃で、
それは実家から毎日当校するのが大変だからで、
でも実際は、週の大半を母が面倒を見に来てて、
だから父は1人茅ヶ崎で家族のために稼いでいて、そんな両親に感謝をすべきなのだが、
子供は子供で大変で、中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、
絶望的な気分で毎日を送っていた。
きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。
その頃、僕の生活を支えたのは、一枚のアイドルのポスターだった。
そのアイドルとは、山口百恵だ。
山口百恵はシングル盤では、「秋桜」を歌ってる頃で、もうアイドルというより賞レースの本命になる王道の歌手で、
「横須賀ストーリー」以来の本格派ポップス路線から、「百恵神話」へと移行してゆく途上だった。
僕は、前にも書いたが、「中3トリオ」の3番手の頃の山口百恵が好きで、
その後の売れ線路線にはあまり好感を抱いていない。
それは僕がひねくれ物のマイナー志向だからではなく、第一、山口百恵はマイナーじゃないから。
それでも、僕を支えてくれたその時の山口百恵のポスターとは、
当時の山口百恵としても、当時のアイドルのポスターとしても、少し風変わりだった。
それは、白いブラウスに茶色のスカートをはいた普段着の格好で、
ポスターのくせにこちらの目を見ずに脇の方を向いている。
その視線の先に何があるかは、ポスターに写っていないので想像するしかないのだが、
おそらく他愛も無いものにちがいない。
それは近くのキレイなお姉さんみたいな風体だった。
東中野のレコード屋で、『花ざかり』というお花をテーマにした歌ばかりを集めたアルバムを買ったら特典としてもらった。
僕は、毎日、このポスターに見守られ、中3の一年間を皆勤賞で過ごした。
ちなみに、『花ざかり』は「川原達二の選ぶ10枚のアルバム」という企画があったら絶対に選出されるであろう作品だ。
そんな有りもしない企画などどうでもよくて、今はとても便利な時代でヤフオクとかに色んなものが出品されていて、
こないだ、ついに僕はこのポスターを入手した。
懐かしいな。
嬉しいな。
意外と安くて驚いた。
思い出は、お金では計れないということだ。
今更だが、うちのクリニックは僕の部屋に来て貰うというコンセプトなので
(「徹子の部屋」とか「さんまのまんま」みたいな感じ)、堂々と僕の好きなものを飾ったり貼ったりして、
皆さんに見せびらかしてる訳ですが、このポスターは自分の為だけに貼ろう。
どこにしようかな?。やっぱり診察室がいいな。
僕から見えるところに貼って、あの頃のように山口百恵に見守って貰おう。
何もかも、うまく運ぶはずさ。
だから皆さんは気付かれないかもしれませんが、隠すような物でもないので、興味があったら言って下さいね。
こっそり、教えてあげます。
BGM. 山口百恵「言わぬが花」
※山口百恵・関連記事~2010年6月「ヰタ・セクスアリス」、良かったら見て下さい。


困った時の「金村さん」。

15/Ⅸ.(木)2011 はれ
先日、クリニックのインターネットが繋がらなくなった。
困った。僕は、自慢ではないが、てんで機械が苦手で、どこに苦情を訴えていいのかもわからない。
そこで、困った時の「金村さん」。
メールで、<インターネットが繋がらない…>と送信すると、
「それでは、○○の○×君を紹介しましょう」と手配してくれた。無事、解決!
「金村さん」のオクスアイという会社は医院の開業支援をしてくれる会社で、僕はオクスアイに開業支援をオファーした。
以降、アフターフォローも万全で、困った時は「金村さん」。
トイレの電球が切れちゃった時も「金村さん」は飛んできて電球を交換してくれた。
診察室の扉がバタンと勢いよく閉まり過ぎた時も「金村さん」は飛んできて扉の上のバネみたいのを調節して直してくれた。
テレビが故障した時も、「金村さん」が電気屋さんと一緒に来てくれた。
僕は、元々は開業する気はまるでなかった。
勤務医の方が気楽だし、臨床の仕事は好きだが院長ともなると管理的な業務や経営的なことを考えなくちゃいけないから、
そういうのは不向きだと自分が一番知っていた。
それでは、何故、開業する気になったかというと、うちの母親は古い人間で、
「医者になったのなら、他人に使われてるようでは駄目。独立開業して一人前!」という自分の価値観を押し付けてくるタイプだった。
僕は、平気の平左(へいきのへいざ、と読む。‘平気’という意味)で、その時にやりたいことをやれる病院を渡り鳥みたいに、
気ままに見つけて、渡り歩いて生きていた。
晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、
茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。
その頃、僕の旧友がやはり独立開業を計画していて、オクスアイの「金村さん」と打ち合わせをするという情報を小耳に
はさみ、参考に同席させてもらった。
喫茶店で2人のやりとりを聞いてて、<この人にしちゃおう>とその場で、開業支援を依頼した。
今、考えると、霊感商法に引っかかるオッチョコチョイみたいだな、「金村さん」いい人で良かった。
以降、気をつけたい。
でも、「金村さん」は有能であり、僕にとって有益な人物だった。
僕は開業すると言っても、ほとんど思いつきもいい所で、何のビジョンも、具体的な案も、現実的な資金もなかった。
「金村さん」は、資金繰りから面倒みてくれた。
さて、具体的な段階になる、まずは物件探し。
「金村さん」は、「場所はどこがご希望ですか?」と訊く。
<え~、全然、考えてない。そうだ!中野ブロードウエイなんかどうかな?4階は結構、空きのテナントあったけど>と
僕のその場の思いつきも、「ご自宅から遠いでしょう?。疲れますよ。やめましょう」と冷静に却下してくれた。
<じゃ、いいとこ見つけて。「金村さん」に任せるよ>と丸投げし、その結果、大岡山になった。いい加減なものだ。
次いで、「どのようなイメージの内装にしましょう?」ということになり、
<え~、全然、考えてない。
そうだ!イッッ・ア・スモール・ワールドみたいにして、入り口からボートに乗って、診察室まで漕ぎ着くのはどうかな?>と
僕のその場のノリも、「船酔いされる方がいると困るでしょう?。患者さんが気の毒です。やめましょう」と優しく修正してくれた。
色々なクリニックやカフェや雑貨屋などを一緒に周り、相談して、今のクリニックになった。
レセコンという会計のコンピューター・システムの導入も、看板や広告も、従業員の応募も、役所への届出も、
必要な書類の整備も、ご近所への挨拶も、開院披露パーティーの提案も、取引する業社も、普段使う電話機も金庫も
タイムレコーダーもロッカーも、「金村さん」がやったり決めたりしてくれた。
僕がしなきゃいけないことだけは、具体的に指示してくれるので言われた通りにやって、スムーズに事が運んだ。
一つだけ誤算があったとすれば、開院披露パーティーを待たずに母親が死んだことかな。
僕が開業すると知って安心して、死期を早まらせたのかもしれないな。
でも、まぁ、長く苦しむよりは良かっただろう。
一応、満足したろうし。
僕は親のことをよく知らなくて、父親は大正10年の生まれで親から離れて北海道やら満州に移り住んでいたらしいが、
理由とかは知らず、それに比べれば母親のことはよく知ってると思ったのだが、大正14年生まれで東京に育って、
実家が薬局のようなものをやっていたということくらいの知識しかなかった。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
それも、「金村さん」の助言だった。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。
内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
「金村さん」そこまでリサーチ?。まさかね…。偶然らしい。
僕は、それまで母と大岡山の関係をまったく知らなかったから、ビックリした。
ひょっとしたら、母の魂が「金村さん」を導いたのかもしれないな。
不思議だな。こういうのを縁って言うんだろうな。大切にしよう。


患者が医者を育てる

9/Ⅴ.(月)2011
校医の後、ステラ治療院へゆく。
ステラには、最近、新人さんが入って、今日は始めの少しのマッサージをその人が担当した。
マッサージを受けながら、僕はいつも寝てしまうのだが、ふと自分の研修医の時のことを思い返していた。
僕は、医者になって大学病院の神経精神科に入局した。
入局2年目までは研修医で、見習いみたいな扱いだ。
何人かの研修医で、外来の予診をしたり、病棟で処方箋を書いたり、入院患者に点滴をする仕事を分担した。
精神科で点滴というと驚く人もあるかもしれないが、意外と多いのである。
注射薬を直接静脈から入れたり、精神的な負担で食事が食べれない人も多いからだ。
僕は、この点滴が嫌いだった。
血管は個人差がすごくあって、太く見えている人は楽々できるが、細い人や見えない人の時は大変なのである。
刺しては失敗し、刺しては失敗しを繰り返すと、何度も刺される患者さんも可哀想だし、出来ない自分もみじめになる。
結局、困ると上の先生に頼んでやって貰うことになる。
だから、僕はパッとみて無理そうだったら、始めから上の先生を呼んだ。
その方が、患者さんの負担も少ないし、効率的だからだ。
間違ってないだろう?。
ある日、僕は、「あの人は血管がないよ」と評判の「研修医泣かせ」の女性患者さんの点滴当番になった。
僕は、ベッドまでガラガラと点滴を引きずってゆき、「ちょっと、血管を拝見」と駆血帯を上腕に巻き、
血管を探すも薄~い線みたいなものしか見当たらない。
いつものように先輩を呼びに戻ろうすると、その患者さんは、
「先生が刺して下さい。やらないと上手くならないですよ。私で練習して下さい」と言ったのだ。
なんか、その迫力に負けて、「はい」とか言って、やったのが間違いだった。
何度刺しても、血管に当たらないのである。
10回以上、失敗しただろうか。
さすがにこれは先輩を呼んだ方がいいと思ったのだが、その患者さんは「まだ大丈夫です」と言って、
駆血帯をはめてない方の手を、グーパー・グーパーしてるのである。
これから刺す手が失敗した時のために、もう一方の手の血管を少しでも浮き出させようと準備してくれているのである。
それにどれだけの効果があるかは知れないが、想いが伝わってくる分、プレッシャーになる。
その部屋は、女子の6人部屋で6つのベッドがあり6人の患者がいる。
僕と点滴が格闘している只ならぬ雰囲気を感じ取り、残り5人の患者が僕らのベッドの周りに集結した。
口々に、「○×ちゃん(その患者さんのこと)、頑張って!」「先生、しっかり!」と妙な一体感が生じてきた。
まずいな…。
それでも僕は、何度も失敗をして、それでもその患者さんは「やらないと、上手くならない!」と言って
グーパー・グーパーし続けるし、5人の患者の応援も「が~んばれ!が~んばれ!」みたいなコーラスになってきた。
まずいな…。
まぐれなんだろう。
ひょっとしたら、医学の神様が「この位にしておこう」と力をお与え下さったのかもしれない。
点滴が入ったのである。
駆血帯を外し、滴下しても、腕は腫れあがらない。
成功だ。一斉にオーディエンスからは歓声と大拍手が起こった。
ある患者さんは「○×ちゃん、頑張ったね!」とその患者さんに声をかけ、
背の小さいおばあちゃん患者さんは僕の背中をたたいて「よくやったね」と涙ぐんでいた。
しばらく歓声は鳴り止まず、「何事が起きたのだ?」とあわてて医者や看護婦が駆けつけて来た。
「来るなら、もっと早く来いよ、ばか」と思った。
その後、僕は3ヶ月間、救命救急センターで研修をした。
24時間、いつでも出動できるよう病院に寝泊りした。
ある時、急患が運ばれて来て、輸血をするかもしれないから、少し太い針で血管を確保しないといけない。
僕がその係をした。
あとになって指導医の先生から、「川原、よくあの患者さんの血管とれたな」と誉められた。
僕は知らないうちに点滴が上手くなっていたのだ。
僕は、「あの時の女性患者さんのお陰だな」と心の中で思った。
子が親を育てる、と言うし、生徒が良い先生を育てる、とも言う。
それと同じ様に、良い医者は患者に育てられると思う。
本当にそう思う。
そういう謙虚な気持ちは、いつまでも忘れてはならないと思う。
ところで、どんな道でもそうだが、1人前と認められるには時間が必要だ。
ステラ治療院の若い先生の健闘を祈る。
BGM. 槇みちる「若いってすばらしい」


子に習う。

27/Ⅵ.(水)2011 はれ
ラブなんとか、といういかがわしいサイトから、1日に10何件も携帯メールが届く。
消しても消しても、まだ届く。
「何とかならないか?」と娘に相談したら、「貸して」と携帯を取り上げ、「こうして、こうして、こうするの」と、
オチャノコサイサイと拒否リストに振り分けてくれた。
ついこないだまで、宿題をみてあげてたような気がするのに。
うちの息子には、秘蔵のビデオや古い漫画をみせ英才教育を施してるのだが、
かわりに動画サイトで「海外の格闘技」や、昔の立川談志や野坂昭如の出演した番組を発掘してみせてくれる。
これが、面白いのだ。
子供に何かを教わるというのは、親として喜ぶべきことなのだろうか。
そういえば、小3の頃、父に「医師会の忘年会」でやる出し物の相談をうけたことがあった。
父は短‘歌’や‘芸’術には明るかったが、流行‘歌’や‘芸’能界には暗かった。
そこで、その分野では、父の知り合いの中では最も長けてると思われる人物=我が子の知恵を拝借しようというわけだ。
僕は、「医師会の忘年会」という響から、堅物の年寄りのヨッパライの集まりだと即座に判断し、
当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」のB面の「大変歌い込み」を教えてあげた。
これは、♪エンヤートット、エンヤートット♪という掛け声で始まる民謡「大漁歌い込み」の替え歌で、
♪大漁だよ~♪という所が♪大変だよ~♪という風になっている。
シャイで下戸で音痴な父が、いくら酔っ払いの前とはいえ、歌を披露するとなると、一つ間違えれば、
「ジャイアン・リサイタル」だ。(当時、ドラえもん、まだないけど)。
それでも本人自らが、♪大変だよ~♪、と歌い上げてしまえば、先手必勝である。
周囲も納得せざるをえまい。大変なんだから。ドキュメンタリーともいえる。
演じる方も大変だが、聞く方だって大変だ。指名した人に責任がある。そんな、「大変歌い込み」。
実況中継に近い。同情と共感が入り混じって、拍手さえ起こるかもしれない。そんな目論みだ。
父は、僕の指導の下、なんとか1番だけを覚えた。会のあと、父は上機嫌でご帰還し、大変感謝された。
父親の役に立ったというこの体験は、その後の僕の性格形成に、なんらかの影響を及ぼしたと思う。
BGM. ザ・ドリフターズ「大変歌い込み」


仕事。

31/Ⅲ.(木)2011
Kさんから頂いたピンクのカーネーション。
フォトby徳田さん(カワクリ写真部)。↓。

Kさんは、
「××花屋さんは、あんまりお花が好きじゃないみたい。お花も元気ないし。○×花屋さんの方がよい」と言っていた。
お店屋さんは、自分の扱ってる品物を愛さないといけませんね。
それで思い出したのが、僕が大学生の時に出会った美容師さんのこと。
当時、僕は悪ノリで青山のモッズヘアとかジャニーズ御用達の「コバ(古場?)」とか
キョンキョンの通う「スターカットクラブ」などに月替わりで通ってた。
美容師さんは気を使って色々話しかけてくれるのだが、僕にはそれは鬱陶しい限りだ。
「学生さん?」なんて聞かれても、「何で、テメェに答えなきゃいけねぇんだよ」とか思った。
他人に自分の素性を知られるのも、「医大生!」と答えたりする自分も嫌で、
ふざけて「見ての通りのボイラー技士です」とか「こどもスパイ」と言ったり
「それは秘密です」とテレビ番組のタイトルをコールしたり出鱈目に答えてた。
だったら行くなよ!、って話だが、1980年代初頭ってそんな空気だったのである。
時代のせい。
そんな遊びもじきに飽きて、ある日、僕は気まぐれに地元の美容院に入った。
担当したのは元・不良って感じのお姉さん。お約束の「学生さん?」に、僕は面倒くさく、「まぁね」と答えた。
すると、彼女は、
「私は美容師になりたくてこの道に入ったの。
美容師でも好きじゃなくて仕事でやってる人もたくさんいるよ。
でもね、私は思うんだけど、私なら美容師の仕事が好きな人に髪を切って欲しいな。
だから、私はそう思って仕事をしてるんだ」
と鏡越しに真剣な目で語った。
さすが、元・不良。(決め付けるな)。
次回、僕はまたその人の予約をとり、自分から「僕は、今、実は医学部に通ってる学生なんだよ」と打ち明けた。
彼女は「何科のお医者さんになるの?」と聞き、僕は「精神科」と答えた。
不思議なことに、それ以来、僕は美容院で話しかけられるのが、それほど嫌じゃなくなっていた。
BGM . RCサクセション「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」


かい。

28/Ⅲ.(月)2011
先日、寿司屋で巻貝という長っぽそい貝を醤油焼きにしてつまみにした。
韓国で買ったアワビの賞味期限もギリギリなので、毎日食べている。
クリニックの飲み会でも、僕は「サザエの壺焼き」を決まって頼む。
そんな、貝好きである。
僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、
必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。
母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、
「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。
毎回言う。徳田さんの日常はあまり聞かないから知らないが、きっと「団らん」だ。
貝といえば、「かい」という名の女ナースがいたな。
僕らはよく仲間で呑みに行った。「かい」は名字で、下の名前は知らない。
彼女は、僕のことを「たつじん」と呼んでいた。
丁度、「料理の鉄人」という番組が流行ってる頃で、「達二」と「達人」をかけて、発音は平仮名で「たつじん」。
「鉄人」や「達人」を「てつじん」や「たつじん」にすると途端に骨抜きみたいになって、
意味内容を形骸化させる効果があって、僕は気に入っていた。
僕は、カラオケやディスコというのが嫌いなのである。
何か、歌ったり踊ったりってちょっと自己陶酔の世界だから、そんな姿を他人に見られたくない。
だったら、白昼堂々真っ裸で銀座の歩行者天国を口に生魚を加えて猫のポーズで四つん這いで歩いた方が百倍マシだ。
…何、言ってんだ?俺。
そんな僕でも、「かい」達とはカラオケに行って歌ったりした。
平たく言えば、心を許してたってこと。
西城秀樹の「君よ抱かれて熱くなれ」や郷ひろみの「寒い夜明け」や野口五郎の「グッド・ラック」や
トシちゃんの「ラブ・シュプール」やマッチの「情熱☆熱風・せれなーで」を歌った(ヨッちゃんのは歌わなかった)。
午前3時を過ぎると、園まりの「逢いたくて逢いたくて」、渚ゆう子の「京都慕情」、
黛ジュンの「天使の誘惑」などの女性歌手の歌を歌った。
何度か歌うと、彼女らがそれを耳で覚え、いずれ歌ったりした。
やっぱり、女の歌は女性が歌った方がいい。
「かい」は元気でやってるかな。
ちゃんと生きてるかな。
一緒に遊んでた、セイコやT先生は死んじゃったもの。
俺は、割とうまくやってるよ。
死んだ2人に申し訳ないな、って思うことが、何故かたまにふっとあるよ。
BGM. 郷ひろみ「寒い夜明け」