勉強会!

2/Ⅹ.(土)2010 はれ
夜から、新薬の勉強会。診察が長引いてしまい、大幅に遅刻。
城南地区の勉強会や精神科医の集まりの時は、必ず「つね先生」が世話人になってくれている。
面倒見の良い親分肌の先輩だ。
2次会は、その「つね先生」の馴染みの銀座のバーへ。
酒のつまみに出た、コンニャクの甘辛煮がうまかったので、板長を呼び、ハワイ旅行で余ってた$紙幣をチップで渡す。
板長はノリノリになり、「チップ、頂きました~!。七百$です~!」と大声で叫び、鉢巻にお札を差して働いていた。
以前にも、僕はここに連れて来てもらったことがあり、その時、店のゲイ・ボーイに
「ウチらを本当に旅行にまで誘って、実際に連れてってくれるのは「つね先生」くらいなんですよ」と、
「つね先生」がトイレに行ってる時にこっそり泣きながら告白されたことがある。
もらい泣きした。その事、「つね先生」には言ってない。調子に乗るといけないから。
「つね先生」は、最近は加圧トレーニングに凝ってて、ここ30日くらいは酒も呑んでいないという。
豪快にして繊細な人が、自分の肉体改造に興味が行くなんて、三島由紀夫の最期みたいじゃないか。
心なしか顔色も悪いな。顔が浅黒い。
「つね先生」本人は、「ハワイ焼けだ!」というが、心配だ。
<お前、自殺すんなよ!>と言って、ヘッドロックして、頭5発くらい殴っといたから、まぁ、当分は大丈夫だろう。
開業医が集まると、経営の話に少しはなる。
「今の診療報酬では(経営は)苦しい」と皆、口々に言っていた。
「つね先生」に、「お前もやり方、考えろよ」と言われた。
なんじゃ、そりゃ?。
製薬会社の人も1人、一緒に来たが、いつまでもネクタイをしめてるから、
「ネクタイをとれ!。もしくは、ネクタイだけになれ!」と命令した。
結局、別の医者の頭に、ネクタイを巻いてやった。
製薬会社の人に、「最初から、この店でやれば良かったのに」と言ったら、
「つね先生」に「バ~カ、ここじゃ経費で落ちねぇんだよ!」と言われた。
なんじゃ、そりゃ?。
で、今日の勉強会の会場に選ばれたのが、神楽坂のアグネス・ホテル。
アグネスというと、アグネス・チャンやアグネス・ラムを思い浮かべる人も多いと思うが、
アグネスと言えばなんてったって「聖アグネス」だろう。
聖アグネスは、4世紀の初頭、「キリストはわたしの花婿です。わたしはその方に従います」と宣言した。
ローマの裁判官の息子は、美しいアグネスを見そめてプロポーズするが、聖アグネスはまったく受け付けなかった。
この親子、甘言で落ちないとみると、力づくの威しに出た。
裁判官は「それなら、つぎの2つのうちどちらかを選べ。ローマ神殿に行って供物を捧げるか、娼婦館に行くか」。
聖アグネスは、それでもひるむことなく
「わたしは偶像の神々に供物を捧げるつもりはありません。しかしまた、わたしを肉体の罪で汚すこともできないでしょう。
わたしには、わたしのからだを守ってくれる主の御使いがついているからです」。
そこで、裁判官は、聖女の服を脱がせ、全裸の姿で娼婦館にひきたてようとした。
すると、聖アグネスの髪の毛が長く伸びて、子羊のように全身を覆ったという。
娼婦館に着くと天使が待っており、聖女に明るく輝く服を与え、館の中をその輝きで満たしたという。


朝、起きたらポケットにクチャクチャの1万円札が3枚、入ってた。
覚えてないけど、きっと払おうとしたんだろうな。
※訂正:本文中のチップの額‘七百$’は‘7$’の書き間違えでした。七百円と混同したのです。お詫びして訂正いたします。
BGM. J.S.バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」


憬れのハワイ航路④

あくる日。
目覚ましより早く目が覚める。ダイヤモンドヘッドの登山に出かける。
ホテルからのバスで登山口まで、そこから歩く。


ハワイといえば透き通る青い海。この青い海を保つため、ハワイ市長は毎朝早起きして海岸を歩き、
バスクリンをまいている、とバスガイドが日本人向けのジョークを言ってたが、
ダイヤモンドヘッドの展望台から観る海の色はまさにバスクリン。
バスクリンを誉めるべきか。


草も木もない裸の山から見える青い海とのコントラストも絶景だが↑、
ゴツゴツと剥き出しの山肌と枯れ木に親近感を覚える。
ハゲタカとかハイエナとか、嫌われ者の住み家のようで気を遣わなくてよさそうだから。↓。


ホテルに戻って、フルーツを食べて、お土産を選ぶ。
少し横になり本を読み、浮輪を持ってビーチへ。
今日は波がない。
浮輪で漂っていると、どんどん沖に流されて行ってしまい、怖いのでなるべく浅瀬に滞在する。
立って、ヘソくらいの波でも、腹這いになってれば頭を越える大波だ。
十分、サーファー気分が味わえる。


そのかわり、海水パンツの中は砂だらけになる。
浅瀬で溺れ恐ろしい体験をするも、冷静に足をつけば、なんてことはない。
恐怖とはイメージの作り出すものだ。
泳げないことにコンプレックスを持ってる人に朗報。吉田拓郎もカナズチです。
僕は、それを小学校の時に知って、とても気が楽になり、それ以降、まったく泳ぎの練習をしなくなった。
そういえば、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンも泳げないらしい。
話を、海に戻す。
娘が、同様に浮輪を持って海に出るが、彼女は命知らず、どんどん沖の方へ行ってしまう。
娘は小学校の頃、スイミング・スクールにも通っており、僕とは違い、泳ぎには自信があるのだ。
海を満喫している。
その間、こちとら相変らず浅瀬で溺れている訳である。
1時間くらい経過して、疲れたので妻の待つゴザへ戻る。
僕は、娘の様子を時折、気にしていたが、どんどん沖へ流れていく。
一向に帰ってくる気配がない。
もしかして、戻れなくなったのではないか?
風が凪ぎ、波が沖へ沖へと物体を引き寄せているのかもしれない。
さっきまで娘の浮輪の目印のグリーンの付近にたくさんいた他の遊泳者達も遠ざかり、
娘の現在地を示すグリーンは、太平洋にひとりぽっち、ポツンと浮かんでいる。
自分から助けを求められない、内気な子だ。
不安でも周りに声をかけられない、それどころか外見は平然として見られてしまう。
周りも気付かないから、さらに沖へ流されている。
まだ陽は高いが、人間はこんなに長い時間、海に浮かんでいて楽しいと思うか?
人間には海に浮かんでいて楽しいと感じる時間の限界もあるだろう。
ライフセーバーの位置を確認する。
砂浜から、娘の名を呼んでみるも届かない。
望遠で写真を撮ってるカメラマンがいる。
彼にレンズをのぞかせてもらって表情を確認するか?。
いくら泳ぎが達者とは言え、いくら魚座生まれとは言え、足がつってしまえば使い物になるまい。
「河童の川流れ」、「海のもくず」、「水の泡」という不吉なフレーズが頭をよぎる。
早川義夫の声で、ジャックスの「からっぽの世界」の一節が脳内にかかり始める
。♪静だな~海の底~。静だな~何もない~♪。
砂浜から、娘の名を念じ気を送る。
その限りは、浮輪が破れない、荒波にさらわれない、そんなコーティングの力を期待して。
いよいよ、娘のグリーンの浮輪は、沖へ流されて行く。
娘を助けなければ。
もし仮にそれが過剰な心配でも構わない。
確率の問題ではない。期待値の問題だ。
娘が、もし助けを求め、不安のまま流されていたなら…そう思うと胸が張り裂けそうだ。
娘を助けに行こう。目測で50~100mの距離だ、と弟が言う。僕は泳げないが、弟も泳ぎが達者だ。
娘同様、小学校時代スイミング・スクールに通い、色んなトロフィーをもらって帰ってきていた腕自慢だ。
娘を助けるべく、僕は黄緑の浮輪をくぐり、弟に娘の所まで泳いで連れてってもらうことにする。
弟に、ビートバンの要領で、浮輪の僕をバタ足で押させる娘・救出作戦だ。
妻によく沖で観察し、もしグリーンか黄緑の浮輪が見えなくなったり、異変を感じたら
(たとえば、サメの背ビレが見えた、とか)あそこのライフセーバーに連絡するよう言い残す。
妻も、弟に無理はするな、そして弟が1人で行った方がいいんじゃないか?、などと言う。
それは、ちがう。
主は1匹の羊が迷ったら残りの99匹をその場に残してでも探しに行くと聖書に書いてあるではないか。
一家の長である、私が行かない訳にはいくまい。
僕は、自ら浮輪をかぶりスタンバイOK、弟の動力で娘のもとへ泳ぎ出す。
僕が方向を「12時の方向」、「11時の方向」、「1時の方向」と指示を出す。
風は逆風、波も我々救出班を岸へ押し戻そうとする。
必死に押す弟が、「進まない、遠い」と弱音を吐く。
オレも体重を前にかけ、波に負けないように体重移動、波の抵抗を和らげるべく波に向かって体を
45度に舵取りして、弟に「がんばれ!」と叱咤激励を飛ばし、自らもフル稼働で足を動かすも、
お風呂で遊ぶアヒルのおもちゃのごとく微力だが、気合を伝えるには十分で、弟は英雄的に力を発揮、
波を追い抜き浮輪は前進。必死の形相、男らしく育ったものだと感慨。
竜雷太・主演、「これが青春だ」の主題歌が脳内でかかり出す。
♪嵐の中も~君のためなら~七つの海を泳いでいこう~
誇りひとつを胸に掲げて~夢に飛び込む~それが若さだ~そうとも!これが青春だ~♪。
娘のグリーンの浮輪が近付く。
ホルンの奏法で身につけた複式呼吸の要領で、娘の名を呼ぶ。2度、3度。
すると、娘はこちらに気付き、手を振る。
SOSのサインか?
娘の名を呼び続けながら、手招きすると、勇気百倍になったか、自力でこちらに泳いでくる。
「何?」と言う。
潮に流されてるのではと心配して救助に来た、と伝えると、娘は安堵の照れ笑い。
砂浜へ戻るぞ、との号令に従い、彼女はスイスイと先に泳いでいく。一安心。
一方、弟は、「重い重い、浮輪が邪魔だ」と嘆きながら、今度は方向転換、
必死で今来た道をUターン、砂浜に父を無事に送り届ける任務にミッション変更。
そんな弟に、いかにお前のとっている行動が人として素晴らしく、縁の下の力持ちとは男らしい美学なのだ、
ということを噛んで含めるように言って聞かせながら、足がつく所までくれば、こっちのもの。
右足で砂浜をギュっと掴むように立ち、左足も前に、両足でしっかりと立てた。
もう大丈夫だ。
オレは、振り返り、疲労困憊の弟の手を握り、ご苦労様、と引っ張るようにすくいあげる。
ここだけ見たら、オレ、ヒーロー。
とにかく、皆、無事で良かった。
足の砂を洗い流してホテルの部屋に戻り、一休みして、おなかが空いたので焼肉を食べに行く。
その席で、弟に、泳ぎの不安はなかったか?、と聞くと、「自分が溺れたらどうしよう」と心配だった、と言った。
「人生は、多くの場合、慎重にしておいた方が無難だ。
しかし、あの場面で泳ごうと決意したのはとても立派なことだ。男らしく育って、お父さんは鼻が高いぞ」と誉め、
「今日のMVP」の称号を与えた。


男たちヒーロー軍団は疲労して、早々と床につく。
かたや、姉は元気いっぱい、遅くまで母親とショッピングを楽しんだ。
ハワイもあと2日。
BGM.A面 平山美紀「真夏の出来事」/B面 ザ・フォーク・クルセダーズ「女の娘は強い」


人相

2/Ⅸ.(木)2010 はれ
Y.S.が、似顔絵を描いてくれた。
実に人相がよろしく、やさしさ2割増し。サービス・カット。
なんとも、気恥ずかしいというか、嬉しいです。ありがとう。
人相といえば、小学校の「聖書」の時間に聞いたお話をひとつ。
ある画家が、絵の依頼を受けた。
それは、マリア様に抱かれた赤ん坊のイエス様と12人の弟子を一緒に描いてくれ、という注文。
(時代考証メチャクチャ)。
画家は、街を歩いてモデルを探す。
最初に見つけたのが、可愛らしく純真な顔をした赤ん坊。イエス様のイメージにピッタリ。
それから、1人づつモデルを見つけ描き上げていく。
しかし、どうしても最後の1人、「裏切り者のユダ」だけが描けない。
悪どい顔の人間というのもそうそう世の中にはいないもので、何年も歳月が過ぎた。
ある日、街で「これだ!」という悪い人相の男を見つけ、モデルを引き受けてもらった。
やっと、完成するぞ。
絵を描かれてる途中、モデルの男は画家に向かってこう言った。
「私は、人生で絵のモデルをやるのは2回目なのです。
1回目は、赤ん坊の時だったので覚えていませんが」。
イエスのモデルをした赤ん坊が、大人になってユダのモデルをやった、というお話。
悪いことをすると顔が変わるから、みんなも気をつけよう~、という脅しだった。
人を外見で判断してはイケナイが、ある程度の人間性は顔に出る。
せっかく、いい人相に描いてもらったのだから、恥じないように生きなければと心に誓った。
40何才の秋なのだ。

BGM. 郷ひろみ「How many  いい顔」


サタデー・ナイト・ラバさん

28/Ⅷ.(土)2010  はれ
先日のブログ記事「逢ったとたんに~」を書いてから、思い出したことを書きます。
ちなみに表題のサタデー・ナイト・ラバさんの、ラバさんとは、小学校の時、ドリフの歌で♪わたしの~ラバさん~酋長の娘~♪ 
という変な歌があり、何かと思ったら、ラバとはLOVERで恋人のことらしい、と知ってから気に入って使ってる単語。 
つまり、土曜の夜にピアノのレッスンを受けてたから、ふざけてそう言ってた。
その日のマリコ先生は何かスターのような白いワンピースに赤いベルトの様なものをしめ、
いつもながら独特のふんわりとした、しとやかな意志の流れみたいな電磁波を発している、サタデー・ナイトだった。
次にやりたい曲を聞かれたので、「Just One Look」ってな調子で、「来週、テープを持ってくる」ということにし、
試しに僕はそのメロディーを右手だけで弾いて、「こういう曲なんですよ」的な次回予告風の紹介をすると、
彼女は「ああ」と光り輝く笑みを浮かべ、いきなり「こういうのですね」と両手でスラスラと弾き出したのだ。 
僕が、メロディーだけなら口ずさめる程度のものを、マリコ先生はピアノでやれてしまうのだ。
そして、その時、「これ、リンダ・ロンシュタットも歌っていますね」と言ったのであった。
別の機会にマリコ先生が「川原さんに合うと思って」とチョイスしてくれたレッスン曲が「メロディー・フェア」だった。 
偶然だが、これは僕の大好きな映画「小さな恋のメロディ」の、僕の大好きな主題曲で、たいそう感激した。 
僕の葬式に、是非、生演奏して欲しいと思ったほどだ。
ここで、「葬式にかけて欲しい曲ベスト3」を選出してみよう。
第3位、西城秀樹「君よ抱かれて熱くなれ」。第2位、郷ひろみ「花とみつばち」。第1位、野口五郎「きらめき」。
新御三家で、決めてみた。
BGM. エルトン・ジョン「土曜の夜は僕の生きがい」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑨~「お~い、ナカクラ君」

31/Ⅶ.(土)2010 はれ
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第九弾。
医師国家試験のテスト範囲は膨大である。
その全部を完璧にこなすのはなかなか難しく、また全部が出題される訳でもなくどこが出るかわからない。
そこで、傾向と対策が必要になり情報戦が重要になる、らしい。
僕らの頃の情報戦の主軸は、「~が出るらしい」という風の噂。
それを聞くと、そこを集中的に取り組む。
また別の噂を聞きつけると、そこを見直す。そんなことをしていた。
実際、情報内容よりも、そういうものを自分だけが知らない不安がプレッシャーを呼ぶから
心理的効果の方が大だったのかもしれない。
そうは言っても、国師直前の僕らには、まるでTVの選挙速報よろしく、
「どこが出るらしい~」というガセネタを待ちわびながら、自分の勉強を続ける、
というスタイルがスタンダードだったような気がする。
クラスの頭の良い子が、学校にかけ合い、6年生のために皆で勉強をし情報を
共有するためのスペースを確保してくれた。
これは、大変助かる。
0時とか1時まで解放してくれるのだが、その時間まで学校に残ると僕は家に帰れなくなってしまう。
僕は、当時、へんぴな所に住んでいたので、交通手段がなくなってしまう。
大学6年にもなると、結構マイカーを持ってる人がいて乗り合わせたりして帰っていたが、僕は車は乗らないし、
いかんせん‘へんぴ’なので、他の友人に乗せてもらって遠回りになってしまうので悪くてお願い出来ない。
それも毎日毎日のこと。
とてもじゃないが頼めない。
困っていると、これまで6年間、ひとことも喋ったこともない男が、                                                      「川原さん、僕、帰り送って行きましょうか?家は○×ですよね?うちもすぐですから」と言ってくれた。 
本当に?いいの?。
「川原さんの所、帰り道なんでいつも通るんですよ。1度、見かけたこともありますよ」と言ってくれた。
悪いなぁ。じゃ、お言葉に甘えて。
ところで、君、誰?。
すると彼は真面目な顔をして、「ナカクラです」と答えた。
ナカクラ君、と呼ぶことにした。
ナカクラ君の車は紺色の丸味を帯びた地味な日本製の車だった。
学校から僕の家までの間、車中で今日勉強した箇所を話し合った。                                                     ナカクラ君がどの位頭がいいのか僕は知らないが、きっと僕より成績はいいのだろう。                                        「そこはこうだと思いますよ」「それと関連して、コレコレ、というのも覚えておくといいですよ」などと言ってくれたから。
約束通り、国家試験が終わるまで、毎日、ナカクラ君は僕を家まで送り届けてくれた。
国家試験の当日、僕の手応えはなかなか良かった。                                                             ナカクラ君はどうかな?と少し気にしたが、広い会場だ、誰がどこにいるかなんてわからなかった。
そして、国家試験の発表。テストは水物だから、受かる人もいれば落ちる人もいる。
合格発表者の表にナカクラ君の名前はなかった。                                                                他のクラスの子に「ナカクラ君、駄目だったの?」と聞くと、「ナカクラ?誰?」と言われた。 
えっ?。…合格欄だけではない。卒業名簿にも「ナカクラ君」の名はなかった。
今でも、不思議に思う。ナカクラ君は、いなかった?。                                                             ただ一つ、はっきり言えるのは、もしナカクラ君がいなければ今の僕はいない、っていうことだ。
BGM. ソフトクリーム「クラスメイト失踪事件」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑧~「マイラ」

28/Ⅶ.(水)2010 猛暑つづく
 7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第八弾。
医学校は6年制であり、さすがに大学6年にもなると、皆、目の色をかえてラスト・スパートをかける。 
断っておくが、それが悪いと言ってるのではない、当然である。
ただ、なんとなく、ひとこと、「さぁ、俺達も頑張ろうぜ!せーの」みたいなワンシーンが欲しかっただけなのだ。
こないだまで一緒にバカをしてた友達がいきなり国試モードになったので戸惑った。
本当に、戸惑った、という言葉がピッタリだ。僕は最終電車に乗り遅れたヨッパライのようで、
おきざりにされた気分に浸った。
こういう時には、人の心に隙間ができる。そこに悪魔がやってくるのだ。
1年後輩の遊び人だ。あまり親しくはなかった。
それが「川原さん、一緒に遊びましょうよ」と誘ってきた。
学校のそばの繁華街のフィリピン・パブへ行こうという。
ついて行く。
「Black&White」とか「おしゃれ泥棒」とかいう名前だったと思う。
そのお店は、ステージが1つあり、あとは広いフロアにテーブルが幾つかあって、
各々のテーブルに艶やかな色のチャイナドレスをまとったフィリピン人の女の子がつき、
水割りを作ってくれたり、カラオケをしたり、会話を楽しむ、そういう雰囲気。
馴染のお客には目当ての女の子がいる。
僕は後輩に「川原さんは、マイラがいいでしょう」とマイラをあてがわれた。
マイラは、華奢で背格好もそんなに大きくなく、端正な顔立ちをしているフィリピン美人だ。
彫が深いというのか、鼻筋がピンと伸び、肉厚のある唇をいつもツンととがらせているから、
ちょうど顔面の中央部分が穏やかに隆起しているような造りだった。
黄色いドレスを着ていたせいもあり、第一印象は、ひよ子みたいな顔をしてるなぁ、と思った。
マイラは他の子と少し違った。
マイラ以外の子は率先して場を盛り上げたり、客とデュエットしたり、それを囃したてるため変な拍子の
掛け声をかけたりしてふざけているが、マイラはそれを見て笑ったり手拍子を合わせているだけだった。
僕はそういうところで盛り上がる社交性に少し欠けていたから、「担当・マイラ」は疲れなくて助かった。
後輩のチョイスが正しかった、ということなのだろう。
それから僕はフィリピン・バーに通った。学校帰りに一人で寄って、ビールを一本だけ飲んで帰る日もあった。
僕は今でもカラオケは苦手なのだが、この頃のカラオケはお店のステージに出て歌うから、
他の客にも見られるので余計いやだった。
それでも毎日、後輩の歌を聞いていると2つ程、レパートリーが出来た。
長淵剛の「とんぼ」とマッチの「夕焼けの歌」だ。
僕の生活はすさんできた。
クラスはピリピリした雰囲気だし、良男さんはもう卒業して学校にいなかった。
水は低きに流れる、というのか、どうしても楽な方へ逃げたくなるのが人情だ。
僕の足は、フィリピン・バーに流れた。
ある日マイラが、明日の日曜日、自分の家に遊びに来い、とこっそり僕に言った。
マイラは、真剣な目をしていて、後輩には内緒で一人で来い、と言った。了解した。
翌日、指定されたところで待ち合わせ。
彼女らは、7~8人でタコ部屋みたいなところに雑居していた。
「お~、タツジ!」皆、顔見知りだから、口々に歓迎してくれた。
いつもの仲間、いつもの笑顔、という感じだが、いつもと違うのはノーメイク&私服だということだ。
普段の華やかさはまるでなく、なぜフィリピン人はくすんだ色の服を好むのだろうか。
仕事で原色ばかり着させられるから、反動形成なのかもしれないな。
センス的には野暮ったいが、この方が街に同化するには効果的だろう。
僕らは近所のホカ弁でからあげ弁当を買って食べた。
そのあと、川の方に出て、子供たちがするような遊びをして時間を浪費した。
川沿いのコンクリートの部分に、僕とマイラは並んで座った。
マイラは正面の川を見ながら、僕の方を一切見ず、
「タツジ、もう明日からお店、来ない方がいいよ。勉強しなさい。」と言った。
僕は「わかった」とか「そうする」とか阿呆みたいな返事をした。
どうしてこういう時、もっと気の効いたセリフが出ないのだろう?。いつもいつもそう思う。
それから僕は勉強した。
狂ったように勉強した。
テレビも東スポも一秒も見なかった。
本当に狂っていたのかもしれない。
とにかく寝てる時間以外は勉強しかしなかった。
そして、そのペースは国試の当日まで持続した。
結果、僕は試験に合格して医者になった。
後日談。僕は一度だけ、マイラに会ったことがある。
医局の先輩が、うまい焼肉屋を見つけたからと連れて行ってくれたのだ。
店主と奥さんの2人で切り盛りしてる小さな店だ。
常連なのか、巨人軍の選手のサイン色紙が壁に飾ってある。
その隣りに先輩のサイン色紙が並べて貼ってあり、笑った。
お会計の時、奥さんらしき人は、サービスでガムとヤクルトをくれた。
顔を見て、僕はビックリした。
マイラだった。
「あっ…」と僕が絶句するのを、先輩は不思議そうに見ている。
僕が「マイ…」と言いかけて「ラ」の音を発音する瞬間に、マイラは「元気?」と言葉をかぶせて、
「ラ」の音を消した。
マイラは軽く微笑んでいて、相変わらず、ひよ子みたいな顔だった。
BGM. ポール・マッカートニー&ウィングス「マイ・ラブ」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑦~「良男さん」

27/Ⅶ.(火)2010 はれ、暑い
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第七弾。
名は体をあらわす、などと言うがこの人は良い人だった。
名前が「良男」である。大学時代の野球部の1年先輩だった。
僕はサードを守り、良男さんは控えの一塁手だった。
ある日の試合で、ショートの先輩が失策したあと、僕がサードゴロを一塁へ悪送球した。
ピッチャーは振り返って「怖くて三遊間には打たせられないな」と嫌味を言った。
ファーストだって捕れない球ではないだろう。
技術的な問題ではなく、捕る気がないのではないか?と思った。
無性に腹が立った。
そんな時、ベンチから良男さんの声が響く。
「ドンマイ~、ドンマイ~。川原~、くさるなよ~」。
3アウトをとり、ベンチに戻ると、良男さんが僕の横に座り、
「くっそ~、俺がファーストだったら捕ってやったのに。俺が試合に出れないから…」と
口惜しがった。
良男さんは努力の人だった。
野球部の練習日以外も自主練していた。
その試合の後、僕は良男さんに誘われ練習をした。
良男さんが一塁ベースにつき、僕がゴロを捕球したと想定しあらゆる体勢から一塁へ送球する送球練習。 
細長いファーストミットの先を使ってショートバウンドの球は全部すくい上げる。
頭を超えそうな暴投もジャンプしてキャッチしてくれる。
言い忘れたが良男さんは長身である。
たまさか胸のあたりにストライクのボールを投げると、
いい音を出すためにファーストミットを思いっきり強く早くはじくように閉じる。
パシーン!球が重そうだ。
「川原~、ナイス・スロ~!」、良男さんは目をつむって青空に向かって雄叫びをあげるのだ。
こっちが照れる。
その後、僕はささいなことから日々がめんどくさくなり人間関係を全部切りたくなり部活を辞めた。
学校で部活の先輩とすれ違うとバツが悪いのは初めだけで、すぐに挨拶もしなくなった。
それでも良男さんは違った。僕の悪い噂を聞きつけると、
そのたびに学生会館まで僕を探し出しにきて、
「川原、くさるなよ」「川原、学校は辞めるなよ」と、こっちが「うん」と言うまで肩を揺すられた。
先日、新宿紀伊国屋書店に医学書を買いに行った。
モン・スナックでカレーを食べ、伊勢丹の方に歩いて行く途中で後ろから「川原!」と声をかけられた気がした。
しかし、ふり返ってもそこにはただビル風みたいなのが吹いているだけで、
カラクリ人形みたいな人間が往来してるだけだった。
しかし、それは聞き覚えのあるあの人の声だ。
僕が今、こうして精神科医をやったり院長ブログを書いたりしてるのも良男さんのお陰である。
「川原、くさるなよ」と言って引きとめてくれなかったら、本当に学校辞めてたかもしれない。
感謝しておりますです、心から。
BGM. ベニー・グッドマン「夢見る頃を過ぎても」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑥~「AZ as No.1」

26/Ⅶ.(月)2010 はれ時々くもり
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第六弾。
いつの世も、クラスにはアイドル的存在な子がいるものだ。
AZもその1人だった。
医学校時代、薬師丸ひろ子が「古今集」というLPを発表した年のお話。
AZは外見は可愛いいが、あまりブリブリ・キャピキャピしてなくて、さっぱりした親切な人だった。
性格的には男っぽいのかもしれない。
だから、恋愛の対象として大ブレークすることはなかったが、隠れファンは多かった。
AZ人気がブレークしない別の理由は、もう何年もつき合っている彼氏がいることだ。
AZは自慢するでもなく、かと言って秘密にもしてなかった。
AZが21才の頃だろうか。AZの誕生月は11月なのだが、その誕生日の前に彼氏と別れたらしい。
この噂は一瞬にしてクラス、学校中に広まった。
我々の耳にも入ってきた。僕と藤巻人間とベナの3人は、紳士的に闘おう、と協定を結んだ。
もうじきAZの誕生日、ここはひとつ各々が「バースデー・テープ」を作りAZに贈り誰のテープが
心を射止めるかで勝負をしよう。
「かぐや姫」のおとぎ話みたい。まだMDのない時代。条件を次のように決めた。
①テープはTDKのAD45分を使用する。
②コンセプトはバースデーだが、必ずしもお誕生日の歌だけでなくてもよい。
③薬師丸ひろ子の「元気を出して」はなるべく入れる。
④風の「22才の別れ」は入れてはいけない。
⑤テープ以外のものをプレゼントしてはいけない。
⑥曲目紹介のインデックス・カードを添えるのはよいが、ラブレターのような内容は禁止する。
ここから「バースデー・テープ作り」という名の恋を争うレースが始まった。
一番有利なのは、洋楽・邦楽すべてのジャンルに全方位網的に博識な藤巻人間だ。
彼はソラで、バースデーソングと歌手名を2~30は言えた。
それを絞り込み曲順を考え、曲と曲のつなぎにジングルのようなものを使おうと自信満々だった。
べナは、「ポパイ」なんていう当時のオシャレ雑誌にも載ったことがある我らのファッション・リーダーなので、
オシャレなテープ作りを心掛けた。
骨董通りにある「ハイドパイパーハウス」という輸入レコード屋でレコードをチョイスしていた。
スティービー・ワンダーをものすごく上手に使っていた。
僕はというと、A面は遠藤賢司の「踊ろよベイビー」、クレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」、
遠藤ミチロウの「お母さんいい加減あなたの顔は忘れてしまいました」、
原田知世の「天国にいちばん近い島」、ZELDAの「東京TOWER」、A.R.B.の「ダン・ダン・ダン」、
ムーンライダースの「9月の海はクラゲの海」などと、まぁまぁの滑り出しだったのだが、
経過報告でお互いの試作品を聴き合う品評会をやったら、彼らの出来が素晴らしく、…戦意喪失。 
B面は山崎春美の「タコ」とかいうインディーズのレコードで前衛的な音楽に
「草葉の陰から一生呪ってやる」と延々とシャウトしてる演奏があり、
それが丁度20分ちょっとあったからそのまま吹き込んで終りにした。
絶対、こんなバースデー・テープ貰いたくないな。
AZ、ごめん、悪気はなかったんだ。
で、このレースの行方がどうなったかというと、AZは僕らのプレゼントをとても喜んでくれ、
「ありがとう」と感激してくれた。
その日の僕らは僕の家に集まり、感想を言い合ったり解剖学の勉強をしたりした。
後日、どのテープが一番良くてどれが一番駄目だったか?を3人で聞きに行ったら、AZはやんわりと
「人に順位はつけられない」みたいなことを言っていた。
AZは1年後の11月、僕の父親のお通夜に試験直前にもかかわらず顔を出してくれた。
藤巻人間が気を利かせてAZを引っ張ってきてくれたのだ。
「喪服が色っぽいね」と僕が言ったら、AZはとても優しい笑顔で「無理に明るいふりをしなくていい」みたいなことを言って、
それから何かを思いついたらしく、ファッションショーのモデルみたいにクルっと一回転して喪服姿をサービスしてくれた。
BGM. SMAP「世界に一つだけの花」


ザ・ヒストリー・オブ・川原③~「エロスとタナトス」

11/Ⅶ.(日)2010 
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第三弾。
僕が小さい頃、父親は雷おやじだったので~父は大正生まれで戦時中は樺太や満州などで苦学したらしい~
いつも怒ってたので、僕は「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。
ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えた。
逆に、母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。                                                     だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、
母が死んだら後を追おうと決意した、小学校低学年の頃である。
母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。                                                               僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。
死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。                                              何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。
中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、
掲載されてるマンガがシュールで面白かった。
誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、
いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。                                                                                            
エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して
エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなっていた。
話は父に戻るが、父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。
僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、
藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、そろいで着て喫茶店に行ったりした。
医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、
「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。
父が死ぬ直前~兄はもう医者になっていて僕は医学生だった~僕は毎日、
学校の実習を終えるとお見舞いに通った。
父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。
僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、
ある日、2人きりの時にすべてを教えた。
父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。
主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」
というようなことを言われた。
だから、僕もこの件は誰にも言っていない。今、始めて言った。
父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、
まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。
BGM. 青山和子「愛と死をみつめて」


ザ・ヒストリー・オブ川原①~「家族の肖像」

3/Ⅶ.(土)2010 蒸し暑い、くもり夕方から雨
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第一弾。
生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理だった。
カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、
「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、
堂々と好きになっても許される安心感があった。
天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」
だという噂があったが、真偽の程は定かではない。
父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうよう頼んでやるから」と
交換条件をチラつかせた。
しばらくして、森昌子が「せんせい」でデビューした。
僕と一緒に歌謡番組を観てた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。
父は堅物だが、時々おかしなことを云う。
僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、
今日からお姉さんよ、などと言われても困ると思った。
その頃、モンチッチ、まだなかったけど。
茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。
僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。
そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が
松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。
朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。
「マミー」は「くれんの?」と答えた。
僕は、こいつらはお似合いだな、森昌子は「マミー」にまかせた、と思い随分と気が楽になった。
母は働き者で浮かれたことはまずなかった。
だから芸能人で誰が好きかなんて話も聞いたことがない。
唯一、歌舞伎の坂東玉三郎を贔屓にしていたくらいか。
晩年は、兄がアリスの堀内孝雄に似てると誰かに言われたらしく、2か月半くらい堀内孝雄を応援していた。
僕は部屋に月刊明星か月刊平凡の付録についていた天地真理の等身大ポスターを貼っていた。
紺色のチョッキにベルボトムのGパンを履いて微笑んでいて、隣の真理ちゃんという感じだった。
いい感じ。                             
兄の部屋は殺風景で『ミクロの決死圏』という、博士の命を救うために医療チームがミクロになって
博士の耳から体に入っていくというSF映画のポスターが貼られてたのを覚えている。
兄はギターが弾けて学生時代はテニス部だった。
兄の部屋のポスターの変遷は「かぐや姫」とか「ビートルズ」といったアーティストか
コナーズとかボルグといったテニス・プレーヤーで、およそ色気も素っ気もなかった。
アイドルにうつつを抜かしたことなんてないんじゃないか?
あっても、岡田奈々1週間、とか、小泉今日子10日間、なんて程度じゃないかな。
そのくせ、東京乾電池の高田純二がやっていた土曜のお昼の8チャンの番組で、
アナウンサーの寺田理恵子のお見合い相手を大学生から募集するというコーナーの、
第1回の出演者としてテレビ出演していたのには驚かされた。
<ご趣味は?>「テニスです」
<何級ですか?>「硬球です」という、仕込まれた掛け合い漫才みたいなことをやっていた。
家族には極秘にしていたが、僕はその番組が録画されたビデオをたまたま発見して観た。
でもそこは武士の情け、親には内緒にしておいた。
BGM. サザンオールスターズ「茅ヶ崎に背を向けて」