SC(スクールカウンセリング)セカンドオピニオン外来

こんにちは、とくだです。

タイトルにもあるように、新専門外来、『SCセカンドオピニオン外来』のご提案です。

昨今、子どもを取り巻くメンタルヘルスの問題としてよく耳にするのは、例えば、発達障害(発達障害の過剰診断?とも最近では言われますが)にまつわるさまざまな話題、子ども、10代の人たちの自殺率の増加、子どものうつ病などの気分障害の罹患率の増加・・・などが挙げられます。

そして、彼らの生活に大きく影響する学校現場の疲弊した様子が最近よく聞かれるようになっています。

ひと昔、ふた昔前の、『そういう子もいるよ』『あまり気にしなさんな』という牧歌的な『学校』という組織が機能していた時代と比べると、現代のように、価値観は多様化し、グローバル化もしているし、家庭と学校の関係性の変化も起きている時代です。昔のままの制度では学校側の対応が追いつかなくなってきている現状があるようです。最近ではクラス担任をなくして、チーム担任の制度を導入している学校もあるそうです。それだけ学校現場も大変です。

政府も子どものメンタルヘルスには問題意識を持っていて、例えば、東京都の小中、最近は高校もSC全校配置や、SCによる小5、中1、全員面接、などが行われています。「問題」を未然に防ぎ、なるべく早めに対応できるように、という動きがあります。

ただ、多くの場合、SC来校日は、週1回、多くて2回。相談のニーズは多いけれど、SCを利用できる時間にも限界があり、場合によっては、相談がいっぱいであるとか、じっくり1人の子をみる、ということは難しいことがあります。

学校の先生方やカウンセラーは問題を見落とさないために、重め?厳しめ?に子どもの「問題」(あるいは問題になりそうな点)を指摘することがあるようです。それは未然に「問題」に対処するために、診断がつくのであれば診断名を、ということが背景にはあるのだろうと思われます。SCの相談に行ったら、発達の問題について、キツめに言われてしまい、ショックを受ける場合もあるようです。

また、別の視点になりますが、SCとしては、『親、家族に問題がありそう・・・』という場合には、診断や発達への助言と同じくらいに言いにくい場合があり、やんわりと、「専門家にご相談されては」と助言するしかない場合もあるようで・・・。

もし、そう言われたら、それは子どもの問題だけではなく、親や、家のあり方を問題視されていると翻訳して考えてみるのも良いかもしれません。これは決して悪いことだけではなく、子どもの問題の背景に、「社会」(家族も小さな社会)がある場合、学校はその子どもの処遇に寛容になる場合があるので、ここは親としても適切に動くべきポイント!になります。

そういうことも含めて、子どものこと、家族のことなどを考えていける場として、SCセカンドオピニオン外来が機能していけるようにと思っています。

そこで、今回の『SCセカンドオピニオン専門外来』では、学校での相談でわからなかったことやモヤモヤした思い、診断についてのご相談、などをカウンセリングの中で少し整理していきませんか?というご提案です。学校現場と医療と家庭と、そういった連携を作ってお子さんのサポートを考えていけるといいと思います。

今回のテーマを松井さんと原さんのお考えも伺っています。

まずは松井さん、よろしくお願いします!

心理の松井です。学校で指摘される「問題」のある子、という括りの「問題」とは、一体何を指すのでしょうか。 
ひとつ、自分のSC時代のできごとを、守秘義務を考慮して、細部を少し変えて話したいと思います。

SCの見回り業務として、小学1年生の教室に入った時のことでした。その子は興味のないことには集中できず、みんなと同じ集団行動ができないといった特徴があって、担任の先生のキツい言葉が飛んでくることもありました。
授業中、窓近くのカーテンの内側に入り、席に戻らずそこから動かなくなりました。私はそっとそのカーテンの裏にお邪魔して、たしか「何が見えるの?」と聞いたと思います。するとその子は「ここがね、キラキラしてるの」と、太陽の光が反射してピカピカしている窓枠や、カーテンを照らすチラチラした光の模様を指差しました。それが本当に綺麗で、こりゃあ授業より面白いだろうな、と思ってしまいました。

先生からしたら、カーテンの裏に入るより、漢字を書いたり計算をするために、椅子に座ってほしいに決まっています。
でも、あんな目を見てしまっては、席に戻ろうとは言えませんでした。それに、その子はとても楽しんでいる。自分なりに学校を楽しんでいるのです。これが果たして「問題」なのでしょうか?

そうは言っても、先生には先生のプレッシャーがあると思います。椅子に座らせようとしないことが「職務放棄」と捉えられてしまうかもしれません。学校として子どもを教育していないとクレームが入ったら大変と、出る杭を打たねばと思うかもしれません。

SCという立場であっても、学校の空気にのまれ、適応的で集団に馴染める子以外の存在を、どうにかしなければと躍起になったりすることもあります。
親は親として、「こんなんで社会に出てやっていけるのか?」と心配になったり、個人面談や呼び出しなどといった形で不安を受け取り、頭や心を悩ませたりします。

つまり、不安なのはずっと大人の方なのです。

そんな時に、子どもは学校で何を体験しているのか?何を感じているのか?実は誰が困っているのか?…といったこと、「この子はこれでいいじゃない」と、色んな視点から、子どもの特性や伸ばしていける能力、感性、発想、そういったものについて話せたら、みんなの心が少し軽くなって、みんなの生き方の選択が広がっていくと思うのです。

そういう話ができる場所として、クリニックに行ってみようと思ってもらえたらいいなと思います。

 

「問題」とは、誰にとっての、どんな「問題」か?

そういうことを考えることのたいせつさを思い出させてくれる気がしますね。

とはいえ、学校という集団の場で、どう過ごしていくか、その観点も抜かせません。そういった観点からも 次は原さん、よろしくお願いします!

 

 心理の原です。セカンドオピニオン外来は、SCや学校に言われて困ったり悩んだりした時「親として適切に動くにはどうしたらいいか」という方に役立ちます。

子どもは、親や家庭と同じくらい長い時間を「学校」で過ごします。子どもが安心して学校生活を送るためには、どうしたらいいでしょうか。

つまり、親だけではなく「先生や学校の協力」が必要なことも多いでしょう。

セカンドオピニオン外来は、学校の先生に「学校がその子のためにできること」をフィードバックすることができます。つまり、子どもが安心して学校生活を送る上で「学校は何をしたらいいのか」を伝えることができます。

以前は、学校の先生の中には「特別扱いはできない」から「そんな配慮はできない」という先生もいましたが、それはアウトです。合理的配慮は学校に義務付けられています。合意的配慮は、特別扱いではなく、その子が安心して学校生活を送るための専門家の「知恵と工夫」です。「前例がないから」はやらない理由にはなりません。

そうはいっても、学校の先生も本当に忙しい。先生ほど働き方改革の進まない職場もないかもしれません。

本人の特性に合わせて「合理的配慮をしてください」と言われても、学校の先生は具体的にどうしていいのか、分からないこともあります。

そこでセカンドオピニオン外来です。

医師や専門家の意見として、

「外からの刺激に過敏な子なので、テストは別の部屋で受けることが望ましいでしょう」

「席替えでは、前のほうの席が落ち着くでしょう」

「修学旅行は親しい子が同じグループであれば、緊張や不安が和らぐでしょう」

「音楽のテストは、大勢の前で歌えなくても、自分で歌って動画をとってくれてもOK」

「教室に入れなくても部活動だけでも気が向いたら行けるといいね」

「読み書きに課題があるため、板書はすべて写真に撮影してもらうとよいでしょう」とか。

 

「専門家(医師)の意見」があると、学校は動きやすいし、担任の先生も校長先生に伝えやすい、ということがあります。

 

セカンドオピニオン外来は、本人が学校生活を少しでも安心して送るための「知恵と工夫」を客観的な情報に基づいて学校に伝えるお手伝いをします。

子どもが過ごす環境のサポート、「合理的配慮」とは、どこをサポートしていくのか?

その点を考えていくことは、個人より少し視点を広げて、環境にも目を向けていくことが必要ですね。

ちなみに、あまり知られていないかもしれませんので、補足情報として。

「合理的配慮」は、2016年に施行された「障害を理由とする差別の解消推進に関する法律(障害者差別解消法)」によって義務付けられているものです。

障害のある子どもたちや発達のつまずきがある子どもたちが共に学校教育を受けるために、学校(20244月からは私立も含む)が、状況に応じて提供する個別に必要とされる支援や配慮、と言われています。

この法律では、20244月から企業などの事業者も合理的配慮について義務付けられるようになりました。

 時代の流れとともに、学校現場に求められるあり方が変わってきています。こういった法的な取り決めが、子どもたちが過ごす環境において、心の通った意味あるものにしていけるようにしていきたいです。そのためにも、私たちも、心を機能させて考えていくことができるよう、SCセカンドオピニオン外来が皆さんにとって活用しやすい場にできるよう努めたいと思っています。気になった方はぜひご連絡ください。


心理部門「エスパー専門外来」

8/Ⅹ.(火)2024 雨でちょっぴり憂鬱 地球平面論者(フラットアーサ―)が増えてるらしい。

先週号の「FRIday」に磯山さやかが出てる。

2025年のカレンダーから3枚の写真を特別にみせてくれている。

先週の金曜ビバリーは、高田文夫・松村邦洋・磯山さやかで、磯山さやかのカレンダーの話題でひとしきり盛り上がった。松村邦洋は「磯山ちゃんの足の裏がいいね」とラジオで言ってたけどどれかな?と思ってたらこれですね。

足の裏が好きな人のためにクローズアップ。

 

ひとしきり磯山さやかのカレンダーで盛り上がりましたね。さて、前回の記事は「川原がエスパー魔美に救われた」という記事でしたが、今回はそのお礼をしたい。つまり、エスパーの相談を受けようという外来の新設です。

昔、12チャンネルの朝に、「おはようスタジオ」という新人アイドルの出る番組があって、そこにゲスト出演する新人アイドルは新曲情報などを「たぬきインタビュー」というコーナーで紹介してもらうのですが、「たぬきインタビュー」とは文字通り、質問の答えから「た」を抜いて答えねばならず、失敗して、「た」と言ってしまうと顔にタヌキの絵のシールを貼られて行くという罰ゲームが見所でした。皆、最初こそ警戒するのですが、インタビューが進むに連れ、ついつい1つ2つ「た」と言ってしまいそこが愛嬌なのですが、僕が今尚、忘れられないのは原田知世で、原田知世はショッパナから、「た」の字を連発して、インタビュー半ばにして、タヌキシールで顔が見えなくなっていました。途中からチャンネルをつけたら誰だか判らないです。今なら放送事故です。そんな原田知世が「時をかける少女」で映画デビューした時のキャッチフレーズが「恋の予感のジュブナイル」でした。僕は当時、受験生でしたが、「ジュブナイル」という単語を知らなくて辞書を引きましたよ。「10代」って意味でした。

ジュブナイルといえば、過去のジュブナイル作品にリスペクトをはかった「君の名は。」を思い出します。さすがにまだ観てない人はもう見ないと思うので多少ネタバレしますが、僕の印象的だったシーンを話します。主人公の少女が巫女さんで、口噛み酒、を造る儀式です。口噛み酒、とは、神様に奉納する神聖なお酒のことで、少女がお米をよく噛んで、液体状になったら吐き出すのです。当時の受付の大平さんと一緒にお昼を食べに行った時、「君の名は。」を観て泣いた、と言ったら「どこでですか?」と聞かれたから、「口噛み酒」と答えたら、ドン引きされました。↓。


主人公の少女は、この儀式を同級生にみられるのを嫌がっいてましたが、おませな妹が、励ましのように、「いっそ、生写真とメイキング映像もつけて、口噛み酒、を売り出せば良い」と発言してました。僕は、「商品化したら買おう」と一瞬、思いましたが、昔、ブルセラというのが社会問題になっていた頃、摘発された店主(おっさん)が、女子高生の「つば」、と偽って、自分の唾液を売っていたというニュースを思い出し、産地を見極める、とか、食の安全、ということにあらためて思いをめぐらせたものでした。↓。

この映画は、我々の世代には受けると思いました。それは、大林宣彦の尾道三部作のジュブナイル映画を彷彿させ、監督のちょっとした洒落っ気なのですかね?、ちょっとオマージュしてる場面もあってニヤニヤします。「ある!ない!」と自分のオッパイをもんだり、上半身裸で姿見に映るのは、「転校生」の小林聡美ですね。↓。

小林聡美は念のため、「下」も確認します。「ない!」。↓。


小林聡美は「転校生」の冒頭で大胆にもオッパイを見せましたが、「君の名は。」では光の加減で隠していました。これは映倫とか都条例とかの影響ですかね?コミケ関係でも、結構、問題になってましたね。「女子高生はヤバイから、女子校生にしよう」とか。つまり、女子高生は18歳以下でアウトだけど、女子校生なら専門学生とか短大も含むからOKみたいな、議論を聞いたことがあります。↓。

原田知世の「時をかける少女」のエッセンスもありました。「君の名は。」でも、タイムトラベルは重要なテーマですからね。原田知世の「時をかける少女」では、未来人・深町くん、が未来へ帰る時に、原田知世の質問に答えてこう言います。「時は過ぎるのではなく、やってくるものだ。だから、また会える。でも、その時、2人とも記憶はないんだ」と。それに答えて、原田知世は「また会えるの?私にはわかるわ」と本来なら絶対的な力を持つ「時間」に対して、私は忘れない、というピュアで強い意志の力のみで抗おうとする決意表明をします。↓。


この時に、意味は判りませんが、深町くんは、原田知世のほっぺに墨のようなもので、まるで落書きのようにします。上の写真の、原田知世の画面左側のほっぺが黒いのはそのせいです。「君の名は。」でも、ほっぺに落書き、はコミカルなシーンとして登場してますね。↓。


顔に落書きと言えば、劇場版「涼宮ハルヒの消失」の終盤でも、キョンが意識を失い入院してる時、「団長の責任」として、病室の床に寝袋で泊まり込んでいたハルヒが、意識を回復してキョンに起こされた時に発したセリフが「私の顔にイタズラ書きとかしてないでしょうね」というツンデレで、キョンも「したかったけどな」と返しています。こちらは、コミック9巻から。↓。



「涼宮ハルヒの憂鬱」でも、「時をかける少女」や「なぞの転校生」などには敬意を払っていますから、これらのテーマは世代を越えて青春には鉄板で、寝顔に落書きはラブコメの王道なのかもしれませんね。あっ、すみません。話が、「涼宮ハルヒの憂鬱」になってしまいました。
「君の名は。」で、大林宣彦の映画を連想した話に戻します。「時をかける少女」のラストの方で、大きくなった原田知世は、大学の薬学部に勤めていて、図書をいっぱい抱えて廊下を歩いていると、大人になった深町くんらしき人とぶつかって道を聞かれます。道を教えて、別方向に歩いて行くのですが、お互い記憶がないけれど、何かを感じたのでしょうね、まずは、深町くんが振り返って、原田知世は気づかずです。↓。


そして、深町くんが歩いて行くと、今度は原田知世が振り返りその背中を見送ってすれ違いのまま…。↓。


これは「君の名は。」では、歩道橋の上みたいなところで、よく似たすれ違いのシーンがみれました。↓。


「時をかける少女」は、原田知世と深町くんの二人の強い意志が運命を手繰り寄せる予感をさせて終ります。何年も心に引っ掛かっていた、青春の忘れ物の続編を、映画「君の名は。」で、みせてくれたような気がしました。

ジュブナイル作品にはエスパーものが多いです。そういうエスパーものを見てていつも思うのは、我々・精神科医への「世間の偏見」と「あるべき役割」です。こういうエスパーものは、決まって、ある日突然、主人公が超能力に目覚め、最初は「自分が狂ってしまったのでは?」と不安になり、やがて本当に超能力があるらしいと納得すると、今度は「自分の存在理由は何なのか?」と悩み、そして同様の仲間が集まり、共通の目的のため(敵を倒す、とか)に活躍します。中には、自分がおかしくなったと思う始めの段階で、精神科やカウンセリングをたずねる場合もあります。しかし、決まって、精神科医やカウンセラーは、「ノイローゼですね」とか「薬を出しておきましょう」としか言わず、役に立ちません。エスパー達への、社会の「無理解」の象徴として描かれているのが精神科医で、偏見ですね。

ある日、突然に超能力に目覚めたら、自分はおかしくなった?と思うのは当然であり、そういう人が精神科やカウンセリングを訪れる可能性はあります。そんな時、僕らはどうしたらいいのだろう?と常に考えます。
彼らの身に起きたことを、「常識」という物差しだけで判断せずに耳を傾け、不安や悩みや孤独感で押し潰れそうな心を支え、いつしか時が来れば、仲間や目的が見つかり活躍する、という希望を信じて、「その時まで」寄り添うことですね。不安な彼らが、「あそこに行けば、いてくれる」と思えるような「定点」になることだ。「わたしはここにいる」。固定観念に囚われない「非常識」さと、人としての誠実さが必要条件で、それから自分が病気をしない健康管理も大切だ。でも、実はこれは、普段の診療やカウンセリングでも同じなのです。心理部門もエスパー対応OKです。僕はと来たら、怪我に用心して、200歳まで生きよう。

BGM.  忌野清志郎「Baby何もかも」


カワクリ・カウンセリングキャンペーン復活礼賛

6/Ⅸ.(金)2024 はれ 先週の台風の余波で今日も激混み。

今週は先週の台風の影響で激混みなので、こんな気分のTシャツで出勤。カメラマンは文化部長(部員ゼロ)のスーちゃん。

Tシャツの文字をアップ。

お昼休みは昨日と同様、蕎麦屋へ。ライカのカメラのアプリで撮ってもらう。カメラマンは心理の松井さん。

カメラマンから「おそ松らしく、シェーのポーズを」と指示が飛ぶ。

お昼ご飯のサイドオーダーは鶏の唐揚げ。3人いるから(もう一人は心理の徳田さん)「一粒づつ」分ける。

メインはカレーうどん。これもライカのカメラで。

さて、今日は近頃、多い傾向のお悩みを専門ジャンル別に紹介。カウンセリング部門の啓蒙記事です。「あっ、これ!」と思い当たる方は診察や電話や受付で申し込んで下さい。

 

・「花嫁になる君に外来」(花婿でもオッケー)

世代間伝達という言葉があります。これは部活のしごきの悪しき風習が受け継がれていくように、自分が下級生の時に上級生にされて嫌だったのに、自分が上級生になったら、「伝統だ」などと言って、やってしまうのと同じで、世代から世代へと伝達されてしまうことを言います。

ロンブーの淳さんが言ってましたが、自分が嫌だなと思った風習は自分が上級生になった時に終らせた、というように、世代間伝達はどこかで止めることが出来ます。多分、必要な条件は、自分が嫌だったことをしっかり受け止め、言語化し、整理して、論理的に再構成出来ること、だと思います。この作業を一人でやるのはなかなか大変です。

世代間伝達は、子育てでもよく起きます。情緒豊かに育った子は、情緒豊かな親になる反面、虐待を受けて育った子はやがて虐待をする親になってしまう、負のスパイラルが起きることが残念です。子育てには、自分の受けた体験が影響する訳です。不幸な体験をした人は無意識にそれを繰り返すのです。幼少期に未解決な問題を抱えて大人になってる人がたくさんいます。なんとかかんとかやっていても、自分が親になった時、寝た子が起きるように、潜在化していたテーマが我が子に投影されて、子育ての中で蒸し返されるのです。そうやって「育児ノイローゼ」として受診される方はたくさんいます。我々はそれを手助けする方法を持っています。

でも思うのです。それをそうなる前に未然に防げたらいいのに、と。子育ては、誰でも例外なく、自分の問題と向き合う作業ですし、多かれ少なかれ、世代間伝達の問題を持っていない人はいません。現代は、幸せと不幸の基準があいまいです。ものすごく不幸ではないけれど、すごく幸せでもない、という人がほとんどです。ですから花嫁になる君へ、母になる前に、自分の問題と対峙して、整理しておきませんか?花嫁修業の一環として。ま、でも、結婚したからって、必ず、母親になる必要なんてないんだけどね…。

 

・不倫専門外来

19世紀末ロンドンでは、裏表が綺麗に峻別されていて、その世界観が、「ジキル博士とハイド氏」のような交代人格を産んだ。社会が腐敗すると少年犯罪が増えるように、児童や思春期の子供はその空気感に敏感に反応する。マスコミが偽の正義感みたいに本質をみないで不倫問題を表面的に扱ってると、そのうち若年層で解離とか多重人格が頻発するぞ。数が増えれば増えるほど、病気か仮病か見分けられなくなる。俺は知らないからな。(誰に宣言してる?)
という訳で、そうならない為にも、「不倫専門外来」を作ろうかと思います。不倫は、相方への裏切り行為です。しかし、日常的には氾濫しています。それにより心の傷を負った人のケアは通常どおり行って行きます。今回の提案は、そうではなくて、「不倫をしてしまった人」のための専門外来を指します。
①性の暴走、②特殊な性的趣向性、③罪悪感、④わかっちゃいるけどやめられない、⑤配偶者への不満、⑥幼少期からの屈折した歴史、⑦やり直すにはどうしたらいいか、などにスポットを当ててみます。カウンセリングと心理テストで評価して、5回くらいをメドに行う、コース・メニューです。

 

・いじめ、DV、ハラスメント専門外来

これは、いじめをうけた人ではなく、「加害者」、のためのものです。いじめた人の心の闇にスポットライトを当てます。DV、モラハラも同様です。これらの行為は決して許されることではありません。しかし、結果だけを咎めて、「なぜ、そうしてしまうのか」、にFOCUSしないと、相手を変えてまた同じことを繰り返しますね。校医で、いじめの相談を受けたことがあります。それは「被害者」ではなく、「加害者」の面接でした。その子は、親の呼び出しや、生徒指導、校長譴責(けんせき)など、こっぴどくやられて、ふってくされて、投げやりでした。「どうせ、あんたも同じだろう」という態度でしたが、何度か会っているうちにバターのようにとろけてくれました。いじめは何があってもいけないことですが、いじめる側にも事情や都合があるでしょうから、その辺を聴いてみたのです。パワハラを受けた人を助けるために事実関係を診断書に書いて提出したら、パワハラしてる人から自身のカウンセリングを求めて来られたけれど、まさか二人を同時にみる訳にも行かないので断りました。今思うと、主治医は無理でも、カウンセラーにまわしてあげれば良かったです。これらが専門外来を作ろうと思ったきっかけです。
専門外来では、加害者の①ブレーキの効かなさ、②相手のどこがムカつくのか(それは自分が抑圧してる部分と重なるからか?)③反省してもまたやってしまう愚かさと自己嫌悪、などをカウンセリングと心理テストで、歴史を振り返り、原因を探り、解決のお手伝いをする、コース・メニューです。いやな自分とさよならしましょう。加害者側の心のケアについて皆さんはどう思いますか?

 

・安楽死専門外来

9/1は、18才以下の自殺者数が1年で一番多い日だそう。自殺、は仕事柄、常に向き合っている問題だが、いつも思うのは、命かけてまで行く価値のある学校なんてないってことで、行きたくなけりゃ行かなきゃいい。いまどき、「すべての人間が平等だ」、と本気で信じ込んでる人は少ないと思うが、人間誰しも、「自分の意志で生まれて来たんじゃない」、という点と、「自分の望むタイミングでは死ねない」、という点のみにおいては平等だ。そんな宿命に抵抗する手立は自殺くらいしかないのだとしても、失敗して生き残るとかえって面倒だったりするし、成功するにせよ、死ぬまでは生きてないといけない訳で、決意してから死ぬまでの時間は恐怖だろう。自殺をする勇気がないのなら、せめて安らかに死なせて欲しいものだ。
研修医の頃、精神科の主任教授に、「川原君、今後の高齢化社会で重要なことは何だと思う?」と質問された。僕は少し考えてから、「安楽死ですか?」と答えたら、教授は、真顔で「惜しい!」と、うなった。ちなみに、正解は、「安心してボケられる世の中作りだ」って。
自殺と安楽死って、ニュアンスが似てる部分があると思う。僕の通ってた医学部の教養課程では、「医療倫理」という講座があって、主に、①「安楽死」と「尊厳死」の違い、とか②ヒポクラテスの誓い、などがテストのヤマ、だった。安楽死は、医者が末期患者などに薬を用意して自殺幇助(ほうじょ)することで医者が関与したケースで、一方、患者が同じ薬を自分で手に入れて使用したら、それは自殺になる。尊厳死は、患者の意志によって延命治療を止めて自然に死を迎えること。つまり、安楽死と尊厳死の違いは、医者が手を加えるかどうかの差。ちなみに「ヒポクラテスの誓い」では、医者は誰に頼まれても決して死に至る薬を与えない、という項目があり、安楽死は認めていない。
時代の移り変わりで価値観は多様化し、安楽死を認めている国もある。スイス・ベルギー・ルクセンブルグ・オランダ・アメリカの一部・オーストラリア・カナダ・コロンビア。この中でも、スイスだけが外国人の安楽死を行ってる。末期癌の疼痛や、痛みの激しい不治の病の安楽死は、了解しやすい。問題は、精神的な苦痛をどこまで考慮するかだ。ステージは末期ではないが独り身でゆくゆくは老人ホーム、これまで幸せに生きて来たがこれからは不幸になるだけ。それならば不幸になる前に逝きたい、という人が安楽死を希望したら?何十年も連れ添った配偶者が末期癌で、本人は病気ではないが、配偶者のいない人生は考えられないと、夫婦同時安楽死、が論争になったこともある。ベルギーでは精神疾患や重症の「うつ病」などにも、安楽死、が認められたケースがあるという。一昔前は、うつ病患者に自殺をしない約束をしたものだ。うつ病の病前性格は真面目だから、「約束は守る」とか、「医者に迷惑がかかる」、ことがブレーキになると考えられていた。随分と、性善説だ。電車に飛び込むと賠償金とか、飛び降りは誰かをまき沿いにするからとか、が自殺を食い止めている場合もある。しかし、本当にヤケになって、死ぬしかない人は、死んだ後の心配など知ったこっちゃない、のであるのも確かで、精神科医がそんな浅い性善説に頼っていては、患者に見透かされて、「何もわかってないな」と見限られてしまう。
10代からODやリスカを繰り返し、精神病院に強制入院になり、病棟で首吊り自殺をする、なんてケースはよくある。だから閉鎖病棟の持ち物検査は厳格で、ベルトや紐靴もNGだ。それでも本気で死のうと思ったら、入院させても100%は防げない。シーツを破ったり、舌を噛んだりするから。もし、こういう人に、安楽死、を認めてあげたら、逆に抑止力にならないだろうか?自殺が出来ない自殺願望のある人の最大の苦しみは、死ねない、という事実で、「この薬さえ飲めばいつでも自分のタイミングで楽に逝ける」と思えば、結局死なないで済むケースも出て来ないか?ただ難しいのは、自殺の意志や本気度は今日言ってることと5年後に言うことが全く違うことがあることだ。「うつ状態」の時と、薬を飲んで「良くなった」時では言ってることが、180度違い、そのどっちが「本気」なのかはわからない。安楽死はまだ日本では認められていないが、今後の動向はわからない。早いうちから、「安楽死専門外来」、を立ち上げておくと、その道のオーソリティーになって、認可されやすいかもしれない。だから、自殺を今考えてる人は、もう少し待てるなら、「安楽死専門外来」、に通ってみたらどうか。医者が手助けして、無痛で20分くらいで苦しまずに死ねて、事故物件とか残された人にも文句を言われないで済む。
この間、自殺願望の強い女の子に、「安楽死専門外来」を考えてるんだとフライング気味に話してしまった。すると驚いたことに彼女は、「私はスイスに行きたいんです」と教えてくれた。彼女は、どんなビザをとったらいいか、とか、手続きとかを一生懸命調べていた。思わず僕は、「あなた、よく勉強してるね」って感心すると、彼女は照れ笑いして、「そんなの皆、知ってますよ」と謙遜した。
彼女の言ってる「皆」がどの辺りのグループをさしているのかは疑問だが少なくとも「自殺」をあきらめて、「安楽死」に希望を託す人たちがいる空間がこの世に存在してるようだ。僕が、「色々と難しい問題はあるが、そういうことも考えているんだ」と告白したら、彼女は、「それはとても安心しました」、「もう少し生きててもいいかな」、と言った。
繰り返しになるが、一番難しいのは、人間は状況に依存しているから、状況次第でコロコロ考えが変わったり、衝動的になったりする点だ。だから、一時の勢いで重要な決断をしない方が良い。安楽死、もそうだ。人間は信用出来ないが、中でも一番信用おけないのが「自分」だったりするものだ。一生懸命生きてる人は一瞬一瞬を大切にしてる分、発言に一貫性がないのと似ている。だから賢明なのは、自分のことをよく知っていてくれる人を身近に置いておくことだ。家族や友人でもいいが彼らは思い入れがある分、ノイズが入るであろう。だから、専門家に定期的に通い、そういうことにブレない恒常的な外部オプションを作っておくのが良いと思う。それが、安楽死専門外来、の設立の理念。ブラックジョークみたいに思うかもしれないけれど、「自殺」がこれだけ問題になっているのだから何かしなきゃね。
膣内に一度に射出される精子の数は、数千万~数億個で、それが日本の人口と同じ位で、それで精子の時点で競争に勝って受精したのだから、生まれて来ただけで人間は「勝ち組」って言う人もいるけれど、そういう人が数千万~数億人いるのだから、その理屈で自分を「特別」と思えるほど、お気楽にはなれない。生きること死ぬこと、を考えるのは難しいですね。「安楽死」はとりあえず、脇に置いておいて、「生きる意味」とか、「自殺は何故悪い」とか、「人殺しは悪いのに戦争だと英雄になる矛盾」とか、このご時勢もふまえて皆さん、どうお考えになりますか?「なんで頼んでもないのに生んどいて勉強しなきゃいけないの?」とか。

 

・休職中、復職準備・短期集中カウンセリング

オーバーワークやハラスメントで心身が疲れた人は、燃えつき症候群になる前に、早目に休むのも手です。ストレスから距離をとり休息をとることが、「くすり」になる場合もあります。ただし、不慣れな休暇は、将来の不安を煽ることもあります。そんな不安の源になるものを見つめ直し、働き方や生き方、本来の自分を見失っていないかを考えるカウンセリングは、復職準備として有効です!

 

・アイデンティティーを考える

アイデンティティーと言えば、みうらじゅん、のマンガ「アイデン&ティティ」が面白いですね。①でボブ・ディラン、②でジョン・レノンが主人公の前にあらわれて、メッセージ(彼らの歌詞の引用)を送り、主人公(バンドマン)が商業主義的な「ロック」の流れに抗って、社会にプロテスト・ソングを発表してゆく成長物語。ちなみに、ディランとジョン&ヨーコは主人公にしか見えないし、その声は彼にしか届かない設定。下が、みうらじゅん、の「アイデン&ティティ」の載ってた雑誌。↓。


カワクリでは、今、アイデンティティーを考えるキャンペーンをやっています。
しあわせの基準がわからない現代、不幸の基準もわからない。高学歴の人がバカなことをやっているニュースが毎日、聞こえる。勉強だけ出来てもダメなことは、もはや国民に啓蒙されたのではないか。それなのに、勉強しろ、と言う。わけがわからない。青春はどうなる?利口の基準もバカの基準もわからない。自分が利口かバカかもはっきりしない。中途半端もつらいぞ。いっそのこと、ぐうの音も出ない理論で、お前はバカだ、と納得させられたら、むしろ楽に生きられそうだ。自分はバカだと思っても、バカの考えだから反対なのかも。じゃ、自分は利口か!やったー。こんなことを毎日考えている。多かれ少なかれ、みんなも同じじゃないか?自分とは何者か?それを、ここではアイデンティティーと呼んでみる。
イジメやハラスメントなどの外的なストレスは、耐えたり、逃げたり、工夫してしのぐのだが、内面的なアイデンティティーは、外的なストレスと同じくらいやっかいだ。アイデンティティーには身分証明の意味もあるが、自分が所属する準拠集団(学校・会社・家族・都会・男/女役割etc.)の求めるものと己の価値観に差がありすぎて、しっくりこない。昨日や今日に始まったことでもない。そういう意味では、逆説的だが、アイデンティティーがわからない人生こそが自分のアイデンティティーだ。これじゃ、禅問答か言葉遊びで、まるで答えになってない。世間はそんなに甘くない。そこで、お待たせしました、今回のキャンペーン!自分の歴史やルーツや生い立ちや風土や文化を専門家と一緒に見つめ直し、アイデンティティーを考える。そういう作業がカウンセリングなのだと考えている。

 

・リベンジ・カウンセリングの提案

過去にカウンセリングを受けたが、「効果がなかった」「ただ一週間の報告をするだけだった」「話すことがなくなった」という理由で中断したというカウンセリングへの不満を聞くことがある。彼らの言い分は、事前に心理テストを受けたり、自分史まで用意して、一大決心して、やる気まんまんだったのに、もうカウンセリングはこりごりだと言う。言わんとしてる意味は痛いほど判る。しかし、だからこそ、そんな人に、言ってみたい。リベンジ・カウンセリングの提案、を。言いたかないけど、「相性」や「カウンセラーの技量不足」だったのかもしれないから。人によって傷ついた心は、人でしか癒されないように、カウンセリングで負った心の傷はカウンセリンが請け負いたい。良かったら、別の治療者、とやり直してみませんか?

 

・人生脚本

「劇的」というとドラマティックというイメージが思い浮かびますが、テレビでは一体何本のドラマが流れているのでしょう。きっとつまらないドラマも五万とあるのでしょうね。我々の人生を「劇」にたとえる場合もあります。主人公は「自分」です。精神療法的に考えると、人生には本人でも気づいていない「台本」を各々が持っていて、配役が決まると周りの人にその台本を配り役を演じさせるのです。シチュエーションは違えど、大体、同じ結末になります。それはそうですね。台本が同じだから。この台本の曲者なところは無意識に書かれているところです。人生が悲劇なのか喜劇なのかはその人の台本によるのです。そこでは脇役・登場人物の個性はあまり重要視されません。「監督=脚本」にはさからえませんからね。あんまり無茶なことをする役者だと、「影武者」の「勝新太郎」のようにおろされてしまいます。だから多くの場合、どんなに善人でも「その人の台本」が「どうせ人間はみんな最後には私を見捨てる」というものだとそうします。選ばれた役者が「冷たい人」ならまだマシですが、「根は優しい」なんて場合は悲劇の度合いが増しますね。上げて下げて、ですから。同様に、「男は結局、体が目当てなだけだ」って脚本に選ばれると、本当は紳士なのに、非道なことをさせられるのです。そして主人公の台本だけが勝ち残り、「どうせ~なんて~だから」という人生のテーマが太塗りされて行くのです。

我々精神療法をする人間は時として、この台本に着目します。それは反復的に同じことをその人が繰り返している場合、その台本を読み解き、可能なら書き換える作業を提案します。これは無意識が作ってるので過去の人生を紐解いて、どうしてこんな台本が作られたのか、を分析して行く訳です。なぜそんなことをするかというと、書き換えられるものならそうした方がいいかもしれないからです。別にそれが分かったからって書き換えなくてもいいのです。「書き換える/そのままで生きる」その選択は患者さん自身がすればいいのです。ただし、選択肢は多い方が良いというのが我々の考え方です。台本で割とよくあるテーマに、「成功しそうになると破滅する人」というのがあります。ここぞという時に無意識下で親を乗り越えてはいけない、という遠慮のような親孝行のような忠誠心が働く訳です。これも無意識の仕業なので、意識化していればいい訳です。「いつもダメな男を引いてしまう女性」も相手にそういう台本を渡してしまっているのかもしれません。その男の人は「あなた」じゃなければまともな男だったのかもしれません。人生は難しいですね。

手塚治虫の「どろろ」に白面不動という妖怪が出てきます。自分の顔を持たないために、次々に人の顔を欲しがります。白面不動によってかりそめの命を与えられた手下の女は白面不動の言いつけで人間をだまして谷に落として殺します。殺す時、この女は、相手が心に思う人間の顔に成りすませるのです。これではひとたまりもないですね。「どろろ」の前にあらわれた女は「どろろ」の母親の顔になり近づきます。いつものように生贄にしようとしたのに自分のことを「おっかちゃん」と慕う「どろろ」に情を抱いてしまい、白面不動の命令に背いて、「この子だけは助けて下さい」と逆らってしまうのでした。このように我々の好きな話は、こういう「台本」が書き換えられる時なのかもしれません。それは二つの「台本」がぶつかってどっちの台本が生き残るのか、という見方も出来ますね。それこそ劇的ですね。

うちには3人の臨床心理士がいます。彼女らの仕事は精神療法です。彼女らがその仕事を選択したのには彼女らの「台本」があってのことでしょう。そこは一括りには出来ませんが、共通するのは、専門的なトレーニングと実践的な理論と戦略的な方法論を持って、カウンセリングに臨んでいることです。数いる臨床心理士の中から何故、この3人がうちにいるのかと言えば、それは僕が面接して選んだからです。選んだ基準は、僕の臨床的価値観に近いからという理由です。どうですか?安心ですね。

 

・専門外来〜幸せになる?!〜

そして、1番新しいのが心理のスタッフが書いた記事「幸せになる外来」です。これはリンクで飛べるようにしたから良かったらみてやって下さい。下は僕が中学の卒業文集に載せたイラスト。「幸福の定義」付けをしていますね。身もふたもないですが、ま、そこはひとつ、子どものやったことなので。

 


専門外来〜幸せになる?!〜

こんにちは、とくだです。これまで心理部門では、様々な専門外来をご提案してきました。元々は、川原先生の斬新な発想から生まれた専門外来の数々。

例えば、『花嫁になる君に〜虐待防止カウンセリング』では、愛情があるのに子育てのうまくいかなさから叱りすぎてしまう、虐待が疑われる、そういうケースが時折ありますが、そこに焦点を当てた外来でした。親自身の幼少期の体験が現在の子育てにもオーバーラップする(いわゆる世代間伝達する)場合も多いので、子育て中の方だけでなく、これから母親(父親も)になる人に向けての外来でした。

他にも、なかなか人には言えないけれど、不倫をしてしまった側の人への支援を考えた『不倫外来』や、『精神科的懺悔室』、過去にカウンセリングを受けたけれど、うまくいかなかったという人に向けての『リベンジ・カウンセリング』・・・等です。

これらは大きく括るとすれば、支援の必要性に焦点が当たる立場は言わずもがなですが、焦点の当たりにくい立場でもケアは求められる、という視点が強かったかもしれません。あまり公に語ることが難しい、言葉にしにくいというようなことでも、様々な立場から、個人のニーズに光を当てようという視点で、診察という場もそうですが、じっくりと時間をかけて語ることのできる場としてカウンセリング(心理療法)を、なるべく入りやすく、キャッチーなフレーズで知っていただきたいというところから生まれた専門外来の数々。(ちなみに、今考えている最新版の専門外来は、個人の視点よりも、もう少し社会的な視点が入った専門外来として、またご提案したいと思っていますが、それは近日公開予定です。ご興味あったらぜひご覧になってください。)

さて、そんな経緯があった専門外来でしたが、川原先生からまた別のご提案が。

「また別の専門外来思いついたんだよ・・・今までは困っているということに向けての専門外来だったけど、もう少し座標軸を変えてみた視点が必要だと思うんだ」と。「題して、『幸せになろう外来』というのはどうか」と。

たぶん、これまで私はわりと川原先生のおっしゃるキャッチーなフレーズやその意図を自分なりに理解していると思っているけれど、今回の『幸せになる外来』を理解するまでに結構時間がかかり、どういうことか何度も尋ねてしまいました・・・

幸せ??どういう視点??よくある女性雑誌の「愛されコーデ」みたいなこと??などと勘繰ってしまって、混乱・・・。

『幸せ』というワードの持つ曖昧さや、こちらが勝手にちょっと黒い気持ちでその言葉を捉えてしまい、隣にいた原さんにも尋ねてしまいました。松井さんにも聞いてみたいところだわと思いつつも。

精神分析の創始者のフロイトは、「痛ましい状況」を「ありきたりの不幸」に変えることができれば、困難や苦しみにもう少し立ち向かえる、といった主旨のことを言ったそうですが、困っていることや苦しいことをどのように理解して、自分が立ち向かえるところを見出そうとすること、苦しい中でもいかに考えられる心を持つか、ということを考えたいと思っているものの、シンプルに『幸せになる』と言われるとなんでこんなに理解が遠くなったのだろうか、、、と不思議です。

少しやり取りを重ねて、新専門外来については、

そもそも『幸せ』の定義とは何かということになる、そこにその人の歴史あり。そういった個人史をカウンセリングで紐解いていこうということです。病気だから、問題があるから、ではない視点。幸せになるために自分は何を求めているのかを考えてみようというカウンセリング(心理療法)。それは確かにちょっとこれまでの専門外来の視点とは違うかもしれません。よりよく生きるには、生きづらさについて考える、というよりももっと積極的に幸せについて考えてみる。

皆さんにとっての『幸せ』はどういうものですか・・・?

もし私のように、腑に落ちない、という感覚に陥ったり、

言われてみれば自分は何を欲しているのだろう?と思ったり、

ご興味をお持ち方はどうぞこの専門外来に一度いらしてみてはいかがでしょうか?

P.S.原さんと松井さんにもこのテーマについて記事を書いてもらいました!続いては、原さんです。その後に松井さんと続きます~。


こんにちは。心理士の原です。

「幸せになろう外来」をやろう!と発表する川原先生と徳田さんのやりとりをそばで聞いてました。

幸せになろう外来は

「幸せとはなにか」を知ることから始まる

 

みなさんにとっての幸せはどういうものですか。

・おいしいものを食べる

・恋人と一緒にいる

・ペットと過ごす時間

・推しのライブが始まる直前

・新しいゲームを全ステージクリア

・ミステリー小説のラスト10ページ

・釣りに出かける前日に持っていく道具を確認する

・スポーツジムで汗をかいた後のシャワー

・社長へのプレゼンで手ごたえを感じた

・予定いっぱいのスケジュール

・家族のいない家にひとりでいる

・子どもが小さかった頃のアルバムを眺める

それぞれの人にとって「幸せとはなにか」はそれぞれ違うもの。持っている価値観や感じ方が十人十色で違うから。

 

そこでカウンセリング(心理療法)です。

自己理解を通して自分の価値観を知ること、日常生活で自分の気持ち(感情)に意識を向けることは、自分だけの「幸せとはなにか」を知ることに役立ちます。

隣の芝生は青く見え・・・ない!

「どうして自分はいつもうまくいかないんだろう」

「自分が生きている意味ってなんだろう」

こんな考えが湧いた時は、幸せになろう外来の絶好の機会です。

相談室でお待ちしています。

 


こんにちは。心理の松井です。

 

「幸せ」と聞いて、素直にスッと心に入ってくる人とは、果たしてどれくらいいるのでしようか。幸せというワードは、どうかすると暴力的になることすらあると私は思います。

なぜなら「幸せ」とは、幸せになりたい幸せとは何か自分は幸せなのかといったように、自分の内から生まれてくるものであって、外から提示されるようなものではないと思っているからです。幸せとは、常にプラスアルファ、通常よりも素晴らしく最上位の状態であり、無敵のような圧を内包していると思います。なので、自発的に「幸せになろう!」と行動を起こすのはともかく、「幸せになろうよ!」と突然投げかけられるのは、結構酷なことだなと思うのです。

 

創作物のジャンルに「メリバ」というものがあります。これは「メリーバッドエンド」の略で、受け手にハッピーエンドかバッドエンドか解釈が委ねられたり、結末を選んだ主人公にとっては幸せと定義されても、周囲から見るとバッドエンドである作品のことを言います。

例を調べると「マッチ売りの少女」や「幸福な王子」などが出てきます。現代だと「まどマギ」がそうでしょう。体感でしかないですが、メリバはなかなか根強い人気を誇るジャンルのひとつだと感じます。

 

メリバで描かれる幸せ悲劇であるにも拘わらずという要素があって成り立つと言えるので、手放しの幸せとは違うでしょう。むしろ、幸せは定義ができるか?という「幸せ」に対する皮肉的な感情から、メリバというジャンルが生まれたようにも感じます。

 

個人的な好みではありますが、自分は少なからずそこに共鳴し、一定数刺さる人がいて、ジャンルを通して「幸せ」に構え気味な人々がいることを思うと、幸せというプレッシャーから少し解放される気持ちになります。

「幸せ」について考える時、そういったややこしさや難しさ、複雑さは、人々の心のどこかにあるものではないでしょうか。だからこそ、「幸せ」を投げかける時、慎重であって悪いことはないと思うのです。

 

幸せが何かというのは捉えるのが難しく、人それぞれ、結局はどう生きるか、どう生きたいか、それを模索し進む過程で、結果的に「これか」と気づくようなものなのだと思います。ですので、私は「幸せとは何か外来」の方がいいなあと、密かに思っています。


出口戦略

この記事も「心のゴミ箱」兼用です。はじめてここを見て「ゴミ箱?」って方は前の記事を読んでみて下さい。ま、読まなくても「ゴミ箱」が何かわからなくても、この記事だけで楽しめるようにはしてあります。

31/Ⅴ.(金)2024 雨 大谷翔平「ジャンプスポーツ漫画賞」審査員に

病院に来るきっかけは「症状」~不眠とか過呼吸など。それを治療するのは薬、それ以外に精神療法。あるいはたくさんの(多職種の)ひとが関わるのは、人間は社会的な動物だし、価値が多様化した世の中だから自分らしく生きる、よりよく生きる、美しく生きるという悩みが必ず残るから、「症状」はそういう問題と向き合う入り口に過ぎず、「治療の終わりは?」という出口戦略は、患者がもう一人で大丈夫と思うまでで、それまでは「ここ」を使っていていいから一緒に考えるから、支えるから、「症状」がなくなって、薬がいらなくなっても、「ここ」に来てていいから、そう考えてここのクリニックを作って、他のクリニックとの差別化を考えたし、それがうちのアイデンティティーだから、「もう来なくていいよ」ってこっちから別れを切り出したりは絶対にしないから、何を言いたいかというと、「安心して」良くなっても大丈夫です、ってことです。

BGM. 坂崎幸之助が語る、大瀧詠一「君は天然色」 松本隆の妹さんへの想いを歌詞に反映

大瀧詠一「君は天然色」


心の護美箱(80)~収納したり買い替えたり、春よ来い

11/Ⅳ.(木)2024 はれ 小保方さん、極秘結婚してた。 

いちご新聞の「5月号」を4つ買いました。

下の中から付録が選べるから。今回は缶バッジ。

4のクロミ・ばつ丸。

7のハンギョドン・けろっぴ。

8のキティ・マイメロ&クロミ。と、10のメル・ぬいぐるみセット。これは珍しく「絵」じゃないから。

今日から、キャラクター大賞の応募が開始です。去年は、シナモン・プリン・ポチャッコの男子3人組にクロミが「3位」で食い込み、ポチャッコを「4位」に落としました。今年の注目は、「50周年」のキティちゃんが何位になるかです。

キティ様は「ヨシキティ」など違うバージョンもあり票が分かれてしまいます。その上、61のこれです。

イチゴマンもキティ様なので票はどうなるのか?

去年はエントリーせず、授賞式で皆に「はなまる」を届けて話題をかっさらった、まるまる、が90でエントリー。

まるまる、の絵描き歌まで紹介される人気ぶりで目が離せません。

「周年」組は、キティ以外にも「45周年」のタキシードサム。

はぴだんぶい、のマンガで応援されています。

「40周年」に「みんなのたぁ坊」。この子は去年の国別ランキングで何故か「台湾」で「1位」でした。

いちご新聞もたまったので専用のファイルをゲットしました。収納出来る訳です。

中はシンプルな棒です。

これを1本とって新聞に挟みます。

そうやってファイリングして行きます。

これで出来上がり。近いうちに新しいデザインのファイルが発売されるそうです。

収納ついでにポスターも。

前回の記事で「からかい上手の高木さん」コーナーを作ったと言いましたが、そのせいであぶれた「高倉健」も収納してもらいました。ちなみに文化部長のスーちゃんは、お母さんが高倉健のファンだから「高倉健さん」と「さん」付けで呼びます。高倉健・豆情報でした。

2つポスターファイルがあるのですが、何が入ってるかを、スーちゃんが目次を刷って貼ってくれました。

きゃりーぱみゅぱみゅ、と、アンヌ隊員が入ってると分かります。探す時に便利ですね。

転校生、と、ベルハー・タワレコ。

もう一つのファイル。

星間飛行、と、あの花。

CLARISのファイヤーシスターズと、めぞん一刻。

黒澤明の「生きる」、と、あまちゃん。「本名を返せ~!」。

別の作業も同時進行で。化粧室にも変化を。

80年代に出た糸井重里の「萬流コピー塾」で「トイレを綺麗に」というお題で選ばれた作品を貼ってあるのですが、40年以上も前のトレンドですし、元ネタが分からないと怖そうなので、変えます。

「便器の呪い」から、さもありそうなうんちくを書いてみました。

これは前回の記事で紹介した、世耕氏の生き様のようなゴーギャンの作品。ゴーギャンは自殺未遂をしてますが、この作品を描いた後に未遂をしてるので「遺書」のような意味合いを持つと言います。

解説も添えてみました。ゴッホとゴーギャン、興味深い関係性ですね。

フロイトの肖像画?も二つ買って、それぞれ相談室に渡しました。

「要らない」って言われるかと思ったら案外、無造作に採用されました。相談室1。

相談室2。心理のスタッフにはフロイトの遺伝子が繋がっているという意味なのでしょう。

 

心の護美箱(79)がいっぱいになりそうなので、(80)を作ってみました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

ファッションも変えました。普段の部屋履きのハンギョドンのスリッパがくたびれたので…

ポチャッコにしました。ウインクしてますね。

外履きの、「からかい上手の元高木さん」サンダルもくたびれたから…

スヌーピーに。

横はこんなです。

春らしいCrocsは心弾みます。どこかへ出かけたくなります。「春よ来い」のみぃちゃんみたいです。さて、どこへ行くか考えるか!順序があべこべ?

BGM. 芳本美代子「白いバスケット・シューズ」


Gさんのソーダ水

G「明日徳田先生のカウンセリングと、診察の予約をしていたのですが、(その時間息子を見てもらう為の)父が忙しく、また母も具合が悪く、キャンセルせずを得ない状況になってしまいました。先週も同じ理由でカウンセリングを当日キャンセルしてしまいました。ちなみに父は来週も忙しいらしく…次のカウンセリングはしばらく未定となりそうです。川原先生の診察は、土曜などに会いに行きます🙋‍♀️何卒よろしくお願いします。」

僕「子供は連れて来れないよね??」

G「不可能ではないかもしれませんが、泣いたりぐずったりはするかもしれないです💦」

僕「1時からにしたら?そしたら、俺がみててやるよ。明日のその時間はたまたま暇なんだよ。明日は俺の母の命日だから、なんとかしてやりたいんだよ、個人的には。故人だけに。診察室で玩具あるし。喋れるんでしょ?男同士何か話すよ。」

G「まだ喋れないんです。ガッコ(だっこ)なら言えます。」

僕「俺、仕事柄、話通じない人、慣れてる。原さんもいるし。なんなら、公園に連れてく。」

G「話通じない人、慣れてるって…笑ってしまいましたが、有難うございます。息子は‘ソーダ水’というあだ名で一歳5ヶ月です。」

僕「喋れなくても絵は描けるの?たとえば、離れてる間のお守りに母子で描いた絵を各々持ってたら?」

G「クレヨンとか色鉛筆を投げたりして遊びます。苦笑。なにかお守り的なの探して行きます。今年で一番温かいです。。😭」

僕「まだ3月だけどな」

G「では行ってもいいですか?泣いたりして手がつけられなったら、川原先生と息子もカウンセリングルームに入ってきてください。徳田先生がオッケーなら🙇」

僕「徳田さん、原さんともオッケー。了解です。」

G「本当に有難うございます。ちょっと場慣れも必要なので、12:30過ぎくらいの少し早めに伺います。よろしくお願いいたします!!」

僕「人生は一発勝負だけどな。」

G「そうですね。先生のお母さまも見守ってくれてるのだし、心強いです。」

僕「うちの母は、俺に甘い❕」

G「先生をみれば愛されてたことは分かりますよ笑」

僕「俺がこんな魚の黒い皮しか食べれない偏食でも、

従業員(当時は10人以上で一緒にご飯を食べてた)の、皮を強奪して、僕に与えてた。それも愛?きっと愛?もしかして愛?松坂慶子か?」

G「笑!」

僕「お守りづくりを12時半からやろう。」

G「了解です!なんだか楽しみになってきました😊 画材はお願いしても良いですか?」

僕「画材はありあわせで。ありあわせ、って料理が好きな子が多いらしいね。みんな違うメニューなのに。OK牧場!」

 

元受付の鈴木さん(元うかいさん)にも助っ人を頼む。直前に連絡が入る。

鈴「準備してたのですがお昼寝してしまって行けませんでした😫がんばってください!」

 

Gさんはお花を持って来院。母への供物か。お花ありがとう。

 

僕「写真、撮った。これブログに使いたいけれど良い?子供=クライエントで、僕はカウンセラーで、情動調律したりあやしたり相手が何を欲してるのかを不器用ながら探す50分が、カウンセリングと似てるなと思い、患者も本気、こっちも本気の真剣勝負だと思いました。退行現象とか、共感とかホールディングについて考えさせられたので、記事を書こうと思います。勿論個人情報はぼやかしてね。オッケー?」

G「あの時間でこんなにいっぱい撮ってくれたんですね‼️ いい写真ばかり🙌落ち着いたら家族にも見せます。ありがとうございました。‘ソーダ水’と行けて良かったです(smile)」

僕「で、出来れば、写真を使いたいんだよ。ぐずる子。あやす。泣き止む。他の人に変わろうとすると泣く。また抱っこで泣き止む。座ると泣く。ゆすったり、歩き回ると泣き止む。作業をやめると泣く。高い高いは嫌い。心臓を合わせる抱っこが安心。そのうち疲れて寝る。他の人には代わってもうまくやれず。でも、見守ってくれてるのが安心。ワンオペ大変だわ。という写真を20枚くらいで顔を隠したりして。子供と原さんや渡辺さんは隠した方が良いかな?加工してくれない?」

G「↑の文章がもういい感じです👏心臓を合わせる抱っこが安心。分かります。原先生や渡辺さんのことは分かりませんが、息子は(先生がご希望でしたら)顔出て大丈夫ですよ。記事楽しみです(moon laugh)記事書いてくださーい‼️写真も載せてください🌿🐥」

とのことだが、誘拐犯とか出ると嫌だから、文化部長(部員ゼロ)スーちゃんに頼んで加工してもらった。

海老反って泣き叫ぶ‘ソーダ水’。

ママがいなくて泣く‘ソーダ水’。

顔中の分泌物を総動員する‘ソーダ水’。

和傘であやす原さん。海老一染之助・染太郎か?

頑張れ!海老一。

海老一染之助・染太郎が、令和生まれ・‘ソーダ水’にはハマらず。

泣きすぎて過呼吸になるから心臓と心臓をくっつけ、‘ソーダ水’の心音の周波数に僕の周波数を調律する。

泣き止む‘ソーダ水’の分泌物をティッシュで優しく拭いてくれる原さん。‘ソーダ水’は安いティッシュには顔をそむけるが高級品質のティッシュだと受け入れる。高級ティッシュは味も甘い。ミルクの味か?

泣き止んだので散歩しながら歌を歌う。

選曲ミスでまた泣き出す。

仕方がないからお父さん抱っこ。お父さん抱っこは、お母さん抱っこより高い位置に目線をあげる。子供と作る胸の間の空間面積が広がる。

それは嫌だろうと原さんが手を添え、お母さん抱っこに修正する。

お父さん抱っこからの~

お母さん抱っこ。

これだけのサービス精神にも不満を隠さない‘ソーダ水’。

妥協を知らぬのか?‘ソーダ水’。

受付の渡辺さんに代わってもらう。が、2秒くらい抱いて泣き止まないと「やっぱりセンセーがいいよね」とニセ読心術を使い、僕に返す。

抱っこしながら周遊してみる。

泣き止まぬ‘ソーダ水’。「泣きたいランキング2位」は川原。

キャッチボールのコツは相手の取りやすい場所(主に胸とされる)にコントロールよく投げてやり、相手の暴投は全力でジャンプしてでも全部取る。ショーバンも胸で止める。

とにかくそれを繰り返す。

すると相手の投げる球も段々こちらの取りやすいところに来る。

それは人と人とのコミュニケーションと同じだ。明石家さんま曰く、「会話はキャッチボールや」。

こうしてスタン・ハンセン級の不沈艦、‘ソーダ水’も眠りにつく。

力が抜けてこちらに体重を任せてくれると、同じ質量なのに軽くなる。

‘ソーダ水’の寝顔。

山田パンダ曰く、「僕の胸でおやすみ」。

こうして男の中の母性が発揮された。何も母性は母親だけのものではない。逆に女にも父性がある。美輪明宏のヨイトマケの唄、よろしく。人間の理想形は中性ではない、両性だ。

1才半から2才半をラプロシュメントといい、喜怒哀楽が暴れ馬のように走り回る時期のことを言う。

ポチタが‘ソーダ水’を見守る。

原さんがやさしく見守る。

安全な抱っこは、抱っこする僕が見守られて初めて成立する。伊藤つかさ曰く「見つめていてね」。

‘ソーダ水’の顔を覗き込む原さんの視線が夏の湘南を訪れる人のように優しい。何故、海が見たいのだろう?もう若くもないのに。「せめて沈む夕陽に間に合えば…。ただそれだけのこと」。

こうして走り回る暴れ馬を手名付けたカウボーイハットをかぶらない令和のカウボーイ、ビル・ワット。

育児で大切なのは赤ちゃんのリズムを良く知ること。恋愛と同じだぞ、男ども。

写真を送ったら元受付の鈴木さん(元うかいさん)から返信メール。

鈴「楽しそうですね✨いいな〜行きたかったです☺️Gさん、頼れる場所があってきっと安心したと思いますよ☺️」

これはGさんが徳田さんとカウンセリングを行った50分の出来事。たった50分でクタクタ。「今や核家族の時代ではない。すべての大人ですべての子供を育てるのだ」を有言実行してみたが、なかなか無責任に発する言葉ではないと思った。そしてワンオペのお母さん(お父さん)には頭が下がる。

僕は実家とは縁がないし、墓の坊主と喧嘩したから墓参りにも行かないが、たまたま母の命日に子供の扱いを任せられたのは特別な意義を感じた。

Gさん、カウンセリング、どんなだったのでしょう?

 

BGM. たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣!


相談室だより  ~~まとめ~~

相談室だより  ~~2024ポスター完成~~

こんにちは。心理のとくだです。‘ハンバーグ食い’です・・・(笑)

 

さて、入り口のポスター、こんな感じです!

全体像はこんな感じです↓

 

松井さんが描いてくれました。
心理のご案内に、絵を導入するという初の試み。

これは先生の斬新な発想が元ではありますが、日々の話の文脈があって出て来たものだなと思っているところでもあります。

その日々の話のうちの一つには、精神分析の理論は、無意識を意識化することや、転移や逆転移を言語化していくことに重きが置かれるけれど、実際には言語で表しきれないノンバーバルな部分も重要で。そういうノンバーバルにも注意を向けながら、文脈をつないでいく作業、言葉にしていく作業を繰り返していくことを大切にしていきたいということを話していたり。。

そんな中で、ご案内を、言葉よりも絵で伝えるという今回のポスター案が。。きっと先生の中でそんな回路がつながったのではないか、という私なりの解釈。それもなかなかいいのかもしれないと思いました。でも、ポスターの絵、って、ノンバーバル?なのか?バーバル?なのか?というところもありますね。

それはさておき・・・
今回の作者の松井さんの声をまず聞いてみようと思います。

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心理の松井です。この度、僭越ながらカウンセリングポスターを描かせて頂きました。
子どもの頃から絵を描くのは好きですが、先生から「カウンセリングのポスター描いて!」と言われた時はなかなか悩みました。
“絵を描く”のと”ポスターを描く”のは全く別の作業だからです。
“診察を受ける”のと”カウンセリングを受ける”くらい違うかもしれません。
病院の診察、症状を話す、先生と話す、というのは想像できても、カウンセリングと聞くと身構えてしまう。実体がよくわからないし、イメージが湧かないし、正解もわからないぞ、となると、カウンセリングがとても意を決していよいよどうにもならなくなった時に始める、最終手段のように思えてしまうかもしれません。
そんな”入りにくさ”を少しでも減らしたく、ポスターには”あるある”な悩める人々に登場してもらいました。
どうでしょうか。自分の”あるある”は居ますでしょうか。
カウンセリングを始める理由は、”あるある”からでいいのです。困ったらカウンセリングという手もあるしな!くらい身近に感じてもらえたいいなと思っています。
というわけで、不慣れなカウンセリングというものを知ってもらいたく、不慣れなポスター作りをしてみました。

私事ですが、今年の目標は”気になっていることをやってみる”です。ずっと登山に興味があったので、年明けに小さな山ですが登ってみました。おかげでポスターの山登りのテイデアが浮かびました。
全く別のものが繋がることってありますね。
カウンセリングにも、そういう発見がたくさんあると思います。
いつでもお待ちしています。
心理士と漫画家の二刀流…?ちょっと何のことだか…先生が二刀流”あるある”ポスターを作ってくれたら、やる気になるかもしれません。

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松井さんの制作秘話でした。

せっかくだから(?)心理の原さんにも、久々にインタビューしてみます!

それは次回にお届けします!

 

相談室だより  ~~創造の病(creative illness)~~

松井さんからバトンを受け取りました、心理の原です。
カウンセリングの新しいポスターができましたね。
若い人にもカウンセリングを身近に感じてもらえたら、と思っています。

2022年度から、高校の保健体育の授業では精神疾患にかかわる項目が盛り込まれるようになりました。背景には、①精神疾患の多くが10代(思春期)に発症が急増していること、②適切な処置が遅れると症状や生活への影響が深刻になりやすいことがあります。最近の研究では、うつ病や統合失調症など発症のピークは19.5歳から20.5歳、強迫性障害や不安障害、摂食障害のピークは14.5歳から15.5歳という結果もあります。また精神疾患全体(認知症を除く)では18.5歳までに罹患者の半数が発症しているとも言われています。もちろん大人になってから発症する人もいますが、10代での発症は見逃せない割合に達するわけです。(参考:東京都こころの健康だよりNo.138 2023年10月)

思春期は、子どもから大人へと心身ともに変化する時期です。急激な身体の成長に戸惑いながら、心の中は子どもと大人の間を行ったりきたりします。周りの評価を気にしながら、自分とは何かを自問自答したり、親に甘えたい気持ちと自立したい気持ちの間で揺れ動いたり、多くの葛藤を抱えて戸惑いながら過ごしています。

自分自身を過大評価する一方で、ささいなことで自己卑下にとらわれたり、周囲に対して根拠なく優越感を持ったり、次の瞬間に激しい劣等感が湧いてきたりします。容姿や体型などの外見的特徴もアイデンティティの形成に大切な役割を担っています。このように思春期は、自分への関心が高まり、自分らしい生き方を模索する時期ともいえるでしょう。いわば、だれもが自意識過剰なわけです。

カウンセリングでは、精神疾患の治療や不登校などの一時的な停滞を、アイデンティティを構築する上で「意義あるもの」として考えます。とにかく早く症状や問題行動がなくなればよいとか、それらを取り除いてもらうためにやってくるだけ、という考え方はしません。その人のそれまでの生活や周囲との人間関係、社会的状況とも関連づけながら、その症状が出現した意味を検討して、理解して、役立てることを期待してお会いしています。

川原クリニックでの私は「創造の病(creative illness)」という考え方も大切にしています。人が病気(特に精神疾患)になり、それを克服しようとする過程の中で、今までとは異なる創造的な考え方を生み出したり、生き方そのものが創造的に変容したりすることを示している概念です。

河合隼雄は「病というのは、その人なりに、どこか自分の心の深いところと接触して何か変化しているのではないか」と述べています。「カウンセリングによって、その人が単に元通りに治ったというのではなく」「生き方が前と少し変わった、あるいは考え方が少し変わった、それはやはり、ある種の創造じゃないでしょうか」「カウンセリングを受けに来る人はみんな、その意味で言うと創造の病にかかっている人です」と指摘しています。

川原クリニックのカウンセリングでは、病気の人が来て病気を治して健康になる、という考え方だけではなく、その人が自分の人生の物語を生きるうえで「創造の病」をどう活きるのか、を一緒に考えたいと思っています。

そうそう、大人になって中年期に訪れる「第二の思春期」もありますね。家族関係、転職、ハラスメント、不倫、喪失や逆境体験など、メンタル不調という症状になって現在の自分をおそってきます。

嵐のような思春期の真っただ中にいる方も、かつて思春期だったミドルエイジの方も、自分を見つめる機会にカウンセリングを考えてみませんか。

ついしん:精神疾患の授業ですが、高校では遅い?かもしれません。せめて14歳、中2頃には教養として伝えたいなぁ

それでは徳田さんにパスを送ります!

 

相談室だより〜〜ポスター特集の最終回

こんにちは。とくだです。

ポスターみてくださった方もいて、嬉しく思います。ありがとうございます。

実際に、‘カウンセリング、心理療法は最後の手段‘、という思いで来てくださる方も多いです。だからこそ、その一歩手前で、心理療法というものを身近に感じてもらいたいという意味合いがある今回のポスターです。

 

心理療法を知るきっかけ、がクリニックの場合は、医療の場なので、どうしても心身の不調と密接です。でも、必ずしも病気、というわけではなく、私たちは悩む時期があります。それも一つの創造の病でしょうか。

 

私たち心理士は、その人にとっての病を理解して、その意味を考えていく作業において、連続性を持って複数回の面接を重ねていきます。

 

ここで、もう一歩話を進め、心理療法を始めてから、の話。

心理療法を始めてしばらく経つと、

何を話していいかわからなくなった、

話すことがなくなった、

何も思い浮かばない、

思っていたような方向とは違っていた、

沈黙が多くなった、

といったことが起きてくることがあります。

 

あるいは、

遅刻が増える、

キャンセルが増える、

料金の支払いが滞る、

こういうこともしばしば起きることがあると言われています。いわば、心理療法あるある、なのです。

心理療法が進んでいく過程で起きてくることで、始めてみたからこそわかること、とも言えるでしょう。‘偶然‘かもしれないけれど、繰り返される、そんな時は、これは心理療法の進み具合と連動しているかもしれません。

私たちは良くも悪くも変化することに抵抗感を抱くもののようで。少し専門的にいうなら、治療抵抗といわれます。抵抗、というと否定的なイメージの言葉かもしれませんね。でも、否定的な意味合いだけではないパワーがあるものです。

精神分析の理解では、かつては、この抵抗は、変化を求めるはずが、それとは逆の力が働くもの、治療の妨げになるもの、という側面がまず注目されました。

ただ、現代では、抵抗の他の側面、その人が自分を守り自己の安定感を維持するためのもの、その人の現実適応を支えるためのものという側面もあることが考えられるようになってきています。

抵抗には、その人の持つ生き様というのでしょうか、そういうものが絡んでいるのです。無意識的に安定を維持しようとやってきた方法が人それぞれあるわけで。それは外からみたら歪な方法に見えたり、自分自身でも苦しんでいる方法であっても、それが自分にとっての適応的な方法だったり。

でも、場合によってはその方法は、かつては適応的だったかもしれないけれど、今、合わなくなってきているものかもしれない。そのひずみと症状が関連しているかもしれない、そんな仮説を考えます。現実適応はとても大切ですが、無理が生じていては苦しくもなります。そういうところは、一歩踏み込んでみないと見えにくいところです。

心理療法が、予約制で、時間と料金とペースが決まっているのは、見えにくいものを少し見やすくする、そういう風に作られています。

抵抗が生じている時、まず自分自身があまり気づいていない、ということも多いものです。

あれ?もしかするとそういうことかな?という視点を持ってもらえたら、それについて話し合えるきっかけになるかなと思います。

気付いたとしても、実際に、面と向かって心理士に話しにくい場合もあると思いますが、その思いを言葉にしてみてください。

そういう話し合いを通じて、そこのテーマを一段深めていくことができるかもしれません。あるいは、結果的に、そこで心理療法を終わることも一つかもしれません。

私たち心理士にとってもですが、心理療法の終わり、というテーマは、さまざまな思いが巡るものです。心理療法を終わる場合には、終わりの時期を決めて、その過程を話し合えるといいでしょう。

心理療法、というものは、まだまだあまり馴染みがないかもしれませんが、この少し特殊な時間、人生の中であるひととき、そういう時間を持ってみるのも一つではないでしょうか。


相談室だより〜〜ポスター特集の最終回

こんにちは。とくだです。

ポスターみてくださった方もいて、嬉しく思います。ありがとうございます。

実際に、‘カウンセリング、心理療法は最後の手段‘、という思いで来てくださる方も多いです。だからこそ、その一歩手前で、心理療法というものを身近に感じてもらいたいという意味合いがある今回のポスターです。

 

心理療法を知るきっかけ、がクリニックの場合は、医療の場なので、どうしても心身の不調と密接です。でも、必ずしも病気、というわけではなく、私たちは悩む時期があります。それも一つの『創造の病』でしょうか。

 

私たち心理士は、その人にとっての病を理解して、その意味を考えていく作業において、連続性を持って複数回の面接を重ねていきます。

 

ここで、もう一歩話を進め、心理療法を始めてから、の話。

心理療法を始めてしばらく経つと、

何を話していいかわからなくなった、

話すことがなくなった、

何も思い浮かばない、

思っていたような方向とは違っていた、

沈黙が多くなった、

といったことが起きてくることがあります。

 

あるいは、

遅刻が増える、

キャンセルが増える、

料金の支払いが滞る、

こういうこともしばしば起きることがあると言われています。いわば、心理療法あるある、なのです。

心理療法が進んでいく過程で起きてくることで、始めてみたからこそわかること、とも言えるでしょう。‘偶然‘かもしれないけれど、繰り返される、そんな時は、これは心理療法の進み具合と連動しているかもしれません。

私たちは良くも悪くも変化することに抵抗感を抱くもののようで。少し専門的にいうなら、治療抵抗といわれます。抵抗、というと否定的なイメージの言葉かもしれませんね。でも、否定的な意味合いだけではないパワーがあるものです。

精神分析の理解では、かつては、この抵抗は、変化を求めるはずが、それとは逆の力が働くもの、治療の妨げになるもの、という側面がまず注目されました。

ただ、現代では、抵抗の他の側面、その人が自分を守り自己の安定感を維持するためのもの、その人の現実適応を支えるためのものという側面もあることが考えられるようになってきています。

抵抗には、その人の持つ生き様というのでしょうか、そういうものが絡んでいるのです。無意識的に安定を維持しようとやってきた方法が人それぞれあるわけで。それは外からみたら歪な方法に見えたり、自分自身でも苦しんでいる方法であっても、それが自分にとっての適応的な方法だったり。

でも、場合によってはその方法は、かつては適応的だったかもしれないけれど、今、合わなくなってきているものかもしれない。そのひずみと症状が関連しているかもしれない、そんな仮説を考えます。現実適応はとても大切ですが、無理が生じていては苦しくもなります。そういうところは、一歩踏み込んでみないと見えにくいところです。

心理療法が、予約制で、時間と料金とペースが決まっているのは、見えにくいものを少し見やすくする、そういう風に作られています。

抵抗が生じている時、まず自分自身があまり気づいていない、ということも多いものです。

あれ?もしかするとそういうことかな?という視点を持ってもらえたら、それについて話し合えるきっかけになるかなと思います。

気付いたとしても、実際に、面と向かって心理士に話しにくい場合もあると思いますが、その思いを言葉にしてみてください。

そういう話し合いを通じて、そこのテーマを一段深めていくことができるかもしれません。あるいは、結果的に、そこで心理療法を終わることも一つかもしれません。

私たち心理士にとってもですが、心理療法の終わり、というテーマは、さまざまな思いが巡るものです。心理療法を終わる場合には、終わりの時期を決めて、その過程を話し合えるといいでしょう。

心理療法、というものは、まだまだあまり馴染みがないかもしれませんが、この少し特殊な時間、人生の中であるひととき、そういう時間を持ってみるのも一つではないでしょうか。

 


相談室だより  ~~創造の病(creative illness)~~

松井さんからバトンを受け取りました、心理の原です。
カウンセリングの新しいポスターができましたね。
若い人にもカウンセリングを身近に感じてもらえたら、と思っています。

2022年度から、高校の保健体育の授業では精神疾患にかかわる項目が盛り込まれるようになりました。背景には、①精神疾患の多くが10代(思春期)に発症が急増していること、②適切な処置が遅れると症状や生活への影響が深刻になりやすいことがあります。最近の研究では、うつ病や統合失調症など発症のピークは19.5歳から20.5歳、強迫性障害や不安障害、摂食障害のピークは14.5歳から15.5歳という結果もあります。また精神疾患全体(認知症を除く)では18.5歳までに罹患者の半数が発症しているとも言われています。もちろん大人になってから発症する人もいますが、10代での発症は見逃せない割合に達するわけです。(参考:東京都こころの健康だよりNo.138 2023年10月)

思春期は、子どもから大人へと心身ともに変化する時期です。急激な身体の成長に戸惑いながら、心の中は子どもと大人の間を行ったりきたりします。周りの評価を気にしながら、自分とは何かを自問自答したり、親に甘えたい気持ちと自立したい気持ちの間で揺れ動いたり、多くの葛藤を抱えて戸惑いながら過ごしています。

自分自身を過大評価する一方で、ささいなことで自己卑下にとらわれたり、周囲に対して根拠なく優越感を持ったり、次の瞬間に激しい劣等感が湧いてきたりします。容姿や体型などの外見的特徴もアイデンティティの形成に大切な役割を担っています。このように思春期は、自分への関心が高まり、自分らしい生き方を模索する時期ともいえるでしょう。いわば、だれもが自意識過剰なわけです。

カウンセリングでは、精神疾患の治療や不登校などの一時的な停滞を、アイデンティティを構築する上で「意義あるもの」として考えます。とにかく早く症状や問題行動がなくなればよいとか、それらを取り除いてもらうためにやってくるだけ、という考え方はしません。その人のそれまでの生活や周囲との人間関係、社会的状況とも関連づけながら、その症状が出現した意味を検討して、理解して、役立てることを期待してお会いしています。

川原クリニックでの私は「創造の病(creative illness)」という考え方も大切にしています。人が病気(特に精神疾患)になり、それを克服しようとする過程の中で、今までとは異なる創造的な考え方を生み出したり、生き方そのものが創造的に変容したりすることを示している概念です。

河合隼雄は「病というのは、その人なりに、どこか自分の心の深いところと接触して何か変化しているのではないか」と述べています。「カウンセリングによって、その人が単に元通りに治ったというのではなく」「生き方が前と少し変わった、あるいは考え方が少し変わった、それはやはり、ある種の創造じゃないでしょうか」「カウンセリングを受けに来る人はみんな、その意味で言うと創造の病にかかっている人です」と指摘しています。

川原クリニックのカウンセリングでは、病気の人が来て病気を治して健康になる、という考え方だけではなく、その人が自分の人生の物語を生きるうえで「創造の病」をどう活きるのか、を一緒に考えたいと思っています。

そうそう、大人になって中年期に訪れる「第二の思春期」もありますね。家族関係、転職、ハラスメント、不倫、喪失や逆境体験など、メンタル不調という症状になって現在の自分をおそってきます。

嵐のような思春期の真っただ中にいる方も、かつて思春期だったミドルエイジの方も、自分を見つめる機会にカウンセリングを考えてみませんか。

ついしん:精神疾患の授業ですが、高校では遅い?かもしれません。せめて14歳、中2頃には教養として伝えたいなぁ

それでは徳田さんにパスを送ります!