3部作-③もう一人の自分に出会うための心理テストのすすめ

22/Ⅶ.(土)2017 朝から番犬に吠えられる。セミの鳴き声が聞こえた。

心理テストには質問紙法と投影法があります。
前者は自分の自覚症状や性格傾向を数値化して目でみれるようにしてくれて便利です。
一方、後者は深層心理をみますから、質問紙と違って何をテストされてるのかわからず誤魔化しが効きません。
心の奥底を心理テストに映し出すのが、投影法たる由縁です。まさに、もう一人の自分に出会うチャンスです。
カワクリ心理部門ではマニアックな心理テストも取り揃えてあります。
カウンセリングには抵抗あるけど、もう少し自分のことを知りたい、という人にはおすすめのコースを作りました。
たとえば以下のものが代表です。
現物を出すのは後のお楽しみが減るので、受付の大平さんに類似品「なんちゃって心理テスト」を作ってもらいました。
①ロールシャハテスト
元々、ヨーロッパの子供の遊びだったみたいです。左右対称のインクの染みをみせて何にみえるか聞くテストです。
あいまいな物を無理矢理何にみえるか答えなければなりません。「インクの染み」という答えはNGです。↓。


これは、「逆さまにした方が皆さん、想像しやすそう」との作者の提案で、ひっくり返してみました。
何にみえますか?。↓。


②P-Fスタディ
Pはピクチャー、Fはフラストレーション。ムカつく場面のひとコママンガの吹き出しにセリフを書きます。
自分の内面を投影させるため、テストのマンガは表情や髪型などがあいまいで限定しにくくなっています。
主に、怒りの矛先や怒るとどんな対応をするかとか、
始めは我慢してるが最後に切れる、とか、始めは抗議するが疲れるとあきらめる、などのパターンもみれます。
スタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」でも登場しました。
下が、大平さん版P-Fスタディ。↓。


③SCT(sentence completion technique:文章完成法テスト)
書き出ししかない不完全な文章の続きを書いて文章を完成させます。
これが何故、投影法かというと、この質問に対しては色んな答えが出来るはずです。
それを一つだけ書くことで、その人が何に囚われてるとか執着してるとか固着してるかをみます。
逆に、答えにつまる、なんてのも意味がありますね。国会答弁の「記憶にありません」みたいで怪しいですね。
下が、大平さん版SCT。↓。


④TAT(Thematic Apperception Test:絵画統覚検査)
意味ありげな絵画をみて、物語を作ります。
こども版もあって、その中の一枚はRCサクセションのシングルマンのレコードジャケットになっています。↓。


シングルマン、は名盤なのですが、一時期は廃盤でした。ファンの再販運動があってレコード会社がわびて復刻されました。
まさに日本の音楽業界の本質をみる目をテストした結果になった訳です。
下が、大平さん版TAT。皆さんもやってみましょう。出来るだけ想像力を働かせてドラマチックな物語作家になって下さい。
過去にどんなことが起きていたのか?そしてこの絵の場面では何が起きているのか?
登場人物達は何を考え、どう感じているのか?さらに今後物語りはどう展開して行くのか?
その辺の紙片にでも書き留めてみましょう。↓。


どうですか?意外と難しそうじゃないですか?興味のある人は、受付に。カワクリ心理部門が作ったパンフレットあります。
己を知り敵を知れば百戦危うからず、です。まずは順番通りに、己から。

BGM. 中山千夏「あなたの心に」


上半期、最後の頁(ページ)~マグカップをこわしちゃった

30/Ⅵ.(金)2017 くもり時々雨
最近は、豊田真由子議員のニュースで持ちきりだが、暴言はともかく、あの秘書もすごいな。
宛名を間違えて郵便出すんでしょ?
紹介状を別の病院に送られたら、俺でも怒るなぁ。
ハゲ、とは言わないけど。ハゲ、いないし。
でも、秘書は本当にハゲてたのかな?
ハゲてたら許しがたい差別発言だが、もしハゲてなかったら、ハゲって単語を、例えば、タコ、とか、カス、とか、ボケナス、
と同じように罵倒のボキャブラリーの一つとしてラインナップしていたことになる。
豊田真由子議員、どてらい奴だ。気が合うかも。嘘です。
そんなことより、コラムを頼まれた。
医学雑誌だ。
参考に前号を送ってくれたが、僕が依頼されたコーナーの医者の記事は、立派で学術的で専門的な、僕にはとても真似出来ない、面白くもなんともない文章だ。
参考文献とかも付いていた。
まだ何を書くかすら決めていないが、断言出来るのは、僕には参考にする文献がない。
無理矢理、「談志の遺言」とか、「川原綾子遺歌集」とか、「佳子さま流、生き方・恋・魅力」とかを引用してみるか。
怒られるかな?
「このハゲー!」って。
大人になって怒られるのは嫌だな。頭フサフサなのに。
コラムのテーマは、患者さんとの関わり、みたいなことなのだが、昔、病院勤めしてた頃、
点滴をする患者さんの点滴パックにマジックで絵を描いてあげたらとても好評だった。
小児科病棟では、日常的にナースがやってることと同じことをしただけ。
無味乾燥な点滴パックのビニールが、点滴を受けなくちゃいけない憐れな神経を逆なでするから、
そこにアンパンマンやら、ドラえもんやら、ピカチュウを描いてあげる思いやりが、重い槍、のように力強くささくれた心を癒す手立てになる。
手当てになる。
これは子供に限らず、大人も同じだ。
僕はおととい、お気に入りのイソべやん、のマグカップを割ってしまった。
診察の合間に水を飲む時に使う必需品だ。
自分のせいとは言え、ショックだ。
ウォーターサーバー横の紙コップを代用したのだが、受付が親切で、紙コップに「デデデデ」のイラストを描いてくれた。
おんたんのお兄さん。↓。

イソベやん。↓。

アベカワ。↓。

おんたん。↓。

まるで小児科のナースみたいだ。
と、こんな感じで、「川原達二の十中八九NG」の要領で、コラムを執筆しようと思う。
俺に頼んだ方が悪い。
BGM. 山口百恵「最後の頁(ページ)」


11月はおとなしくしてよう⑫~疾病利得(しっぺい・りとく)

12/ⅩⅠ.(土)2016 あたたかい
今年はインフルエンザが早目に流行っているらしく、保育園とかでは学級閉鎖もあるとか。
クリニックでも、スタッフの予防接種はしています。
患者さんにはしてないので、あしからず。
インフルエンザと言えば高熱ですが、今回は高熱の話。ただし仮病。
今回のタイトルは、疾病利得(しっぺい・りとく)、です。
疾病とは病気のことで、利得は得をすることで、「病気で得するの?」って少し不思議に思うかもしれませんね。
これは難しいから専門的なことは最後に書きます。
これから書くのは、仮病の話です。仮病って厳密には疾病利得には含まれないかもしれないですが、そこは雰囲気で。
子供の頃でした。今頃の季節です。
川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。
応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。
それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。
でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。
平熱でした。
そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。
目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。
でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノックしました。
まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。
母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。
母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。
すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。
そして、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
心の芯からの思いやりとか、思いをやる、とか、見透かしてるけど見逃してくれる、とか、親身になるとか、
愛情を感じられる体験だったから、そこに固着せず、仮病を繰り返さなかったのではないかという体験をしてるから、
すぐ「疾病利得」うんぬん、って言う人は、仮病を使う人の気持ちや、したくて仮病をしてるんじゃないよ、って
核の部分の気持ちを感じ取れてないせいで、そこが本当に共鳴すれば、案外こじれないんじゃいかと思うのだけれど。
でも、それはやっぱり、甘いかな?
プロのいうことじゃないですね。
専門家仲間から、「病気をなめてる!」って怒られるのかな。嫌だな、大人になって怒られるの。
参考文献、弘文堂「精神科ポケット辞典」より、P148「疾病利得」。
「患者が精神的あるいは身体的な疾患であることにより得る意識的ないし無意識的で心理的・現実的な利益。
病態や不適応が患者にとり心理的な安定維持の手段になっている場合を第一次疾病利得、
疾病の結果二次的に得られる現実的利益(例えば学校へ行かなくて済む、補償金をもらえる、家族に大事にしてもらえる)
を第二次疾病利得という。
本人にとっては無意識であることが多く、意図的・作為的である詐病(さびょう)とは異なる。
疾病利得はしばしば患者の病態化を促進したり、治療を困難にさせる」
11月は、父の命日と、両親二人の誕生日があるから感傷的になるのです。反省、反省。


11月はおとなしくしてよう⑩~おしゃべり大将

11/ⅩⅠ.(金)2016 冷たい雨
精神療法のテクニックで、「ヒア&ナウ」(今ここ)というのがあります。
カウンセリングでは、「何を喋ってもいいですよ」と自由に喋ってもらいます。
すると、例えば、「あの時の、誰々は、話が通じてるのかどうか判らなくて不気味だった」とか、
逆に、「あの時の、彼々は、みんなが自分の敵だったのに、味方をしてくれて嬉しかった」など、
とその場で思いついたことを語ります。
「ヒア&ナウ」では、数ある話題の中から、わざわざそれを選んだには、無意識的な意味があると考えるのです。
大抵は、「ゼァ&ゼン」(あの時、あそこで)の話題です。
それを「ヒア&ナウ」(今ここ)で考えてみるというのは、こういうことです。
つまり患者さんは意識では、「昔」とか「どこか」の話をしていますが、
無意識的には(今ここ)での治療者との関係を語っているのでは?、と仮定してみる技法です。
そうすると、先にあげた例文の前者は、治療者に話が通じてるのか?と不安になっているのでは?となり、
後者は、ここでは味方をして貰っているとお礼を述べているのだとか、
或は、味方をしてくれますよね?とそう釘をさしている、となり、
治療関係を関わりを持ちながらも俯瞰的に観察してみよう、という第三者的な視点を持つことの推奨なのです。
「ヒア&ナウ」が上手になるためには、トレーニングも必要です。
コツは、相手の他愛もない話を一々「被害関係妄想」的に<自分のことを言っているのでは?>と勘繰ってみることです。
「ヒア&ナウ」は厳密な設定をした上で有効な物なので、皆さんは日常生活に取り入れない方が良いでしょう。
たとえば、デート中に、「あの映画のセリフはうそ臭い」などと言われて、一々、<俺がうそ臭いのか?>
なんてハラハラしてたら、身がもたないですからね。
なんでいきなり、こんな話をしてるかと言うと、話は数日前に遡ります。
しばらくご無沙汰をしてるお店の大将とバッタリ外で会いました。「お久し振り」みたいな挨拶をしました。
そんなことがあると、お店に顔を出さないと気まずいじゃないですか?
それで、今日のお昼に受付のソネさんを連れて大将の店にランチに行きました。
大将は、陽気で楽しい人物です。
しかし、時々、<そんなこと聞くか?>という侵襲的な質問をして来ます。
僕は少し、苦手だったりします。良い人なんですけどね。
案の定、大将はソネさんに質問攻撃です。
以下、「」が大将のセリフ。<>がソネさんのリアクションです。
「休みの日は何をしています?」、<家にいます>
「ひきこもり?」、<ひきこもり、です>
「今日は家にいたいって時に、友達に誘われたら?」、<断ります>
「グイグイ来る友達だったら?」、<グイグイ来る人は友達じゃありません>
「電話でグイグイ来られたら?」、<切ります>
と、大将の包丁さばきも見事だが、大将の質問攻撃をいなせにさばくソネさんも牛若丸のように見事でした。
っていうか、大将、気付けよ。これ、「ヒア&ナウ」だろ。
BGM.ビートルズ「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」


映画にならない話

22/Ⅹ.(土)2016  はれ マミさんのフィギュアの備品の扇子が紛失し、凹む
映画「聲の形」を観ました。
これで「こえ・の・かたち」と読みます。「かに」、と読み間違えそうですね。
この映画の原作はマンガで、単行本で全7巻です。
僕は1巻だけ読んで、暗い気持ちになったので、読むのをやめてしまいました。
「障害」とか「イジメ」をテーマにしていると、思ったからです。
映画化が決まり、京アニ(ハルヒ、や、かんなぎ、や、けいおん、や、日常、を制作した会社)と聞き、胸騒ぎ。
そして、うちの受付スタッフの約67%が「観た」というので、僕も観る事にしました。
観た後、なんとも懐かしい感じがしたのは、監督さんが「けいおん」の監督だったからかも。
男の主人公の声は、「おそ松さん」のトド松でした。しかし、トッティには聴こえませんでした。↓。

女の主人公は、「物語シリーズ」のアンリミテット・ルールブックでお馴染みの、斧乃木余接↓、の声の人。

聴覚障害の役の声なので、どうやるんだろう、と思ってましたが、上手でした。
誰かが、ももクロの元メンバーがやっている、と言ってましたが、「早見」違いですよ。
この声優さんは、「俺妹」の新垣あやせ、の声もやっている人です。
よつぎ、より、あやせ、の方が似てました。…って、同じ人なんですけどね。
全然関係ないですが、こないだ、「新垣あやせ」の抱き枕を買ってしまいました。(後日、みせます)
下の、向って右が、あやせ。↓。

僕が観た回は、「プレミアムなんとか」と言って、耳の聞こえない人用(?)の、字幕つきでした。
字幕は、「役名」&「セリフ」、で出るから役名を覚えやすかったです。
びっくりしたのは、主人公の男子の高校の同級生、永束、のセリフの度に、劇場の女子が受けまくってたことです!
ドッカン、ドッカン。
まるで、出オチ状態。
後で、パンフを観たら、人気の声優さんみたいですね。
そうそう、まどマギ、の、鹿目まどか、の声の人も出てました。
男言葉だから、わかりにくかったですが、ボソっと言う独り言が、まどか、の声でした。↓。

僕は昔、「こどもの病院」に勤務してたことがあります。
その時、こどもの治療では、オーソリティーである先生が当時の僕の師匠でした。
僕が今でも、印象的なのは、ある小学生が自殺願望を抱いていると直観された師匠は、
その子に、戦争で亡くなった方の写真(死体)をみせたのです。
すると、その子はじっと食い入るように写真(死体)をみて、「あ~、死ぬのも駄目か」とあきらめたという荒技でした。
僕も師匠の真似をしてみました。
幸い、病院には、大きな図書館が付属されていたので、写真(死体)をみつけるのは容易でした。
それを持って、病棟に行き、これから患者にみせると話したら、スタッフ全員に大反対されました。
非常識だというのです。
でも、僕はオーソリティーの先生の直伝だという自信があるから、スタッフを説得し、敢行しました。
すると、どうでしょう?
判で押したように、患者から、「あ~、死ぬのも駄目か」、という反応が返って来たのです。
今から、15年くらい前のことです。
そして、話しを、映画「聲の形」に戻します。
主人公(女)の妹は、動物の死骸ばかりを写真に撮っていました。下は、原作マンガから。↓。

そして、それらを家中に貼っていました。
姉がその中の1枚をコンクールに応募すると、入賞します。↓。

賞をとったのは、死骸をどけた空白の写真でした。
西宮とは、主人公(女)のことです。
妹が、家中に写真(死骸)を貼る理由は、映画の中では語られませんが、マンガではそれが描かれています。
ある日、妹は「障害」のため、ずっとイジメられているお姉ちゃんから、手話で、「死にたい」、と告白されます。
どんなにイジメられてても、ニコニコしてて、「わけ、わかんねぇ」と思っていた姉の切実な本音でした。↓。

それからです。妹が、死骸の写真ばかりを撮るようになって、家中に貼るようになるのは。
妹は、それを毎日みていれば、お姉ちゃんが死ぬのをあきらめると思ったのです。
僕の師匠と同じ発想ですね。
ところが、それでもお姉ちゃんは自殺未遂をしてしまいます。
それを男主人公が救うシーンが、映画ではハイライトです。
絵になる見せ場です。
しかし、その時の妹の心境はどうだったのでしょうか?
幼いなりに考えて、頑張っていたのに、自分の非力さを思い知ったのでしょうか?
さっきも言いましたが、映画はマンガ7巻分をまとめたものですから、どこかが割愛されるのは仕方がないです。
原作では、もう少し詳しく妹の心理が描写されています。
姉の自殺未遂のあと、妹は、家中の写真(死骸)を剥がして周ります。
お母さんに、「あら、剥がすの?」と聞かれると、「もう貼ってる意味がないんだ」とつぶやきます。
死骸を毎日みていれば、お姉ちゃんが死ぬのをあきらめると思い、そうしていたからです。
このあたりの妹の純情は健気で、キュンと抱きしめたくなる程、ひとりよがりで無力でした。↓。

最近、実は僕が気になっていることがあるのです。
それは、インターネットやスマホの普及で、若者の情報量が師匠が荒技を振るっていた15年前とは、段違いなのです。
自殺の方法や、「死体」の写真も簡単にみれるそうなのです。
僕が驚いているのは、「死体の写真」をみて、「きれい」とか「安心する」と言う若い子が結構いることです。
その発言自体の衝撃というよりも、もはや「師匠の荒技」が通じない世の中になったという時代の変化への戸惑いです。
人間の心の仕組みは、100年や200年で変わりはしないから、フロイトの精神分析の根幹は現代でも通用するでしょう。
でも、こどもを取り巻く環境や情報は15年前とは大違いだから、技法という枝葉は通じなくなったということなのでしょう。
むしろ、通じないのが当たり前で、修正してゆくべきなのでしょうね…。
僕はなんとなく、あやふやにしておきたかったセンチメンタリズムを、「聲の形」の、「映画にならない話」の部分で、
直面させられてしまった訳です。
人間というのはひょんなことから日頃モヤモヤしていた抑圧の輪郭がみえたりするもので、
今回の記事で一番、言いたかったのはそのことです。
さよなら、師匠。
BGM. BELLRING少女ハート「タナトスとマスカレード」


躁からうつ

4/Ⅷ.(木)2016 はれ 暑い!
アカデミックな話で恐縮だが、「初期統合失調症」の研究をしている大学病院がパッとしない。
それから、話しは変わるが、診断にも流行があり、最近では「大人のADHD」と「双極性障害Ⅱ型」が流行りだ。
両者とも、否定的な意味で取り上げてみたのだが。
それは診断を検査に頼り過ぎで、これは一昔前に「経験ある医者の勘のみで診断するのは、危険」と指摘され、
根拠に基づく医療、が浸透したのはいいが、どうも精神科との相性は悪かったみたいで、
そもそも精神科の病気の原因が何一つ解明されてない仮説ばかりなので、限界が来たのだと思う。
ロールシャハも光トポも、色々の角度から僕なりに検証してみたが、未来予測、は出来ないみたいな印象だ。
早期発見とか未病という観点から言うと、甘い、のだ。
だから僕は、これらを何とかしようをスローガンに、7月攻勢をミーティングで打ち出したのだが、
ニュアンスの部分で、うまくスタッフに伝わらない…。
というか、診察での負担が大きくなって返って来てしまい、こちらのキャパ・オーバー。
伝え方が下手なのだろうか。
あるいは、分不相応なことをしているのか。
こういうのは、それこそ大学病院や医療センターなどの研究・専門機関に任せておくべきことで、
何も町の診療所がしゃしゃり出て、やることではないのかな。
マン・パワーが足りない。
昔、「ドカベン」で、中学時代の岩鬼がピッチャーをしていて、
「サードもショートもファーストも外野もみんなワシがやりたいで」
みたいなことを言っていたが、そんな気分はともかく、全部、自分でやれたら話しは早いんだろうが。
今週の新患の中でも、強化項目のターゲットの人はいて、僕の読みの通り、そういう相談の需要は増えるだろう。
だからと言って、内容が追いつかないのだから、「専門外来」みたいなアドバルーンをあげて、患者が集まっても、
納得いただける結果は出せず、誇大広告になってしまうと思い知った。
ひょっとしたら、スタッフはそんなことはお見通しで、それを僕が、<伝わらない>、と受け取った齟齬なのかも。
小さい美容院で、1日に予約する人数を制限して、シャンプーから会計まで全部1人でやる美容師さんがいると、
とても安心する、のと同じで、分業システムの落とし穴か。
法人化は荒野をめざす、のか。
またまた話しは変わって、僕は精神保健指定医なので、月に1-2回、指定医業務の当番が来る。
今週はそれも重なって、火曜が「夜間救急」で水曜が「後方支援」だった。
「夜間救急」では、トリアージと言って、緊急の患者さんの介入や送り先を判断して指示する役割があるのだが、
その際、その対象となる患者さんの主治医とも電話でやりとりした。
その先生は、新橋にあるクリニックの院長で、ホームページをみたら、洗練された院内風景で、美人な女医さんだった。
相談したケースの病気は「重そう」で、これをクリニック(病床がない)で診るのは大変だろうな、と思った。
でも、この女医さんはえらい人で、長年この患者さんを抱えているようで、「今、して欲しいこと」を、
こちらに丁寧に要求した。
僕は、<この人は顔写真だけでなく、心も綺麗なんだなぁ>と正直、ちょっと感動した。
そして、思った。
僕は今、疫学的に増えるだろう患者さんの専門外来をどうにかしようと考えていたが、そんなことより、
縁あってうちのクリニックに訪れる患者さんの一人一人を大切に診ていくことで、
その中には、僕が言わんとしてる「時代の傾向」も反映されるだろうから、そこはちゃんとおさえて、
それ以外にも必要なものはあるだろうから日々の診療に取り入れて、新橋の女医さんを見習って、
何かの専門に特化することを誇示するのではなく、目の前の出来ることを一つづつやって行こうと思い直した。
BGM. ザ・フォーク・クルセダーズ「青年は荒野をめざす」


考えるひとコマ

8/Ⅵ.(水)2016 はれ 
2014年5月末に、AKBの握手会で事件がありましたね。
直後の6/7と6/8のイベントでは金属探知機を導入したとか。
他のアイドルも握手会を自粛したりする中、
2014年6/8、ベルハーはクアトロでセカンド・ワンマンを行い、なんと!一曲目の「テクテクウォーク」を歌いながら、
客席後方から登場し、ファンがアーチで舞台までの花道を作り、ステージに登りました。
そんなファンとアイドルの信頼関係が印象的でした。
それが、6/8~つまり、今日、ということだけで~書いてみました。
僕は本当は、しょこたんのバースディ・ライブのレビューを書かねばならないのですが、
カワクリの心理アセスメントに新メニューが加わったので、今日はそれの紹介をしようと思います。
P-Fスタディという、F(フラストレーション)を感じるP(絵)をみせて、ひとコマ漫画みたいな吹き出しに、
自由にセリフを書かせて、それを解析する心理テストです。
映画「時計じかけのオレンジ」にも出てきましたね。↓。

セックスと暴力が全編に流れる映画ですが、主人公が更生施設で人格改造治療みたいなものを受けて、
暴力的なことを口にしようとするだけで、激しい拒絶反応が身体に出てしまうようになります。
でも、政治的な権力争いから、主人公は犠牲者だ、ということになり、また治療を受けて元の性格に戻ります。
その回復度をみるために、P-Fスタディ、が出てきてました。
白衣を着た女医(心理?)が、フラストレーティブな絵をみせて感想を聞きます。
すると、主人公は、悪そうな顔をして、「このオタンコナスめ!」みたいなことを答えます。
身体への拒絶反応は出ません。
もう1枚、別の絵をみせると、「バカやろう!ぶっ飛ばすぞ!」みたいことを言って笑顔を見せます。
すると、女医(心理?)も柔和な笑みで、「大分、良くなりましたね」という場面がラストにあります。
昔、僕はそれをマネして、「P-Fスタディで遊ぼう!コンテスト」を開きましたが、
賛同者がなく、1人で開催して、当たり前ですが、優勝しました。
その時の用紙が、まだとってあったので、その一部をこの機会に紹介しましょう。
これが、表紙です。「この帳簿のつけ方は何ですか!」にセリフで言い返します。↓。

それに対する僕の答えです。<やり直したまえ!>。↓。

こういう絵が24パターンあります。次々と順番になるべく速く答えるのがルールです。
例です。11.「すみません。交換手が電話番号をまちがえたものですからー」。↓。

僕の答え、<いや、助かった。今、悪夢でうなされていたんだ。>↓。

14.寒風にコート来た女性が二人。
「あの人は10分前にここへ来ていなくてはならないはずなんですがー」に、↓。

<さっき、川で溺れてたの、あの人だったんだわ。どうしましょう…。
『助けて~』って、あまりにうるさいもんだから、石ぶつけちゃったわ。>と答えてみました。↓。

16.「君が無理に追い抜こうとしたのが間違いだよ。」をよく見てみて下さい。↓。

<君こそ、ルビのふり方が間違ってるぞ。>。我ながら、よくぞ、ミスプリに気付いたと思います。↓。

18.「すみません。一つだけのこっていたのも、たった今売り切れてしまいました。」↓。

<ほう…そうなると売れ残ってるのは、娘さんだけということかね。>と嫌味を言ってみました。↓。

20.「あの人が私達を招待しなかったのは、変だわ!」に対して、↓。

ちょっとウィットを利かせて、<そうね。少なくとも私を招待しないのは変ね。>↓。

21.「あなた達は、あの人のことを悪く言っていますが昨日、災難にあって今は病院に入っているんですよ。」↓。

シンプルに、<今日から、神様を信じるわ。>としてみました。↓。

最後の24.「お貸しして頂いた新聞をお返しします。赤ん坊が破ってしまいましてすみません。」↓。

<かまいませんよ。それに、赤ん坊の本当の父親は私ですから。>判ります?ちょっと難しいですかね?。↓。

以上は、僕のおふざけですが、心理テストとしては面白く、今、心理のメンバーが解析の精度を高くすべく、
猛勉強中です。
受けてみたい人は、診察で言って下さいね。
吹き出しつながりなのですが、カワクリの喫煙所には、個人情報の交換を禁止するポップがあります。
これは、吉田拓郎。喫煙所だけに、タバコを吸っています。↓。

こちらは、ブッダ。ルールを破るとバチが当たりそう、という理由での人選です。↓。

トラブルの元になるので、こういうのを貼ってあるのですが、もう1枚くらい増やしたいです。
そこで、抜擢されたのが、十字架にかかったイエス像、です。↓。

エネルギー療法の先生が、フィリピンで買って来たのを譲ってもらったのです。
宗教戦争覚悟で、ブッダの横に貼りました。もっとも、最近は立川あたりでは、仲良しですからね。↓。

このイエスに吹き出しを付けたいです。
たとえば、<ルールを破ってこうなりました…>とか<皆の代わりに罰を受けてます>みたいな。
もっとパンチの効いたフレーズが欲しいですね。
先日、心理のコンテストが終わったばかりだから、今度は受付のコンテストにしようかしら?
大喜利風に「受付P-Fスタディ・コンテスト」。
ミッション系出身(?)の小森さんが有力か?今の喫煙所のポップを作ったのも彼女だがら本命か?
「つきなみトーク」で波に乗る大平さんが突っ走るか?
ボソっと一言なら右に出る者なし、ボソ部のミクちゃんが本領発揮か?
はたまた、あっと驚く大穴で、みどりちゃんがビギナーズ・ラックか?
優秀作品は、ブログと喫煙所で発表しますね。
BGM.BELLRING少女ハート「Tech Tech Walk」


スーパービジョン考

14/Ⅳ.(木)2016 はれ、暑い(朝は小雨)
精神療法のトレーニングの中に、「スーパービジョン」というものがある。
主に、精神分析学派を中心に、治療者がもっと力のある先生にケース検討をしてもらい今後の治療の指針にするのだ。
僕も大学院の4年間は「精神療法班」に所属したから、ケースを持っていて、スーパービジョンを受けていた。
ところが、現在進行形のケースをスーパービジョンに出すと、必ず、その直後の治療の流れがおかしくなるのだ。
それにはいくつかの理由があると思うので考察してみたい。
1番大きいのは、そもそもうまく行ってないから、スーパービジョンに出している、ということ。
それでも、何とか患者さんと二人三脚でやっていた共同作業なのに、自分だけ外から知恵をつけて貰おうとする不誠実さ。
2番目は、数あるケースの中から、スーパービジョンに出すというのはそれだけ思い入れがあるケースだが、
言ってみれば実験台みたいなもので、失敗が成功のもとだ。
案外と、スーパービジョンに出したケースよりもその助言を活かして、新たに関わったケースの方がうまく行ったりする。
 (これは、子育てにも似てるかもしれない。
  第1子は試作品のような宿命を持っていて、第2子以降の方が親も上手にやれたりして。
 僕は第2子だから、得をしてる面はいっぱいあるが、親の第1子に対する愛着には嫉妬する。
  つまり試作品ほど、作り手の愛情の熱量が大きく感じられるのだ。)
3番目は、そもそも患者にとって「響いた言葉」と、こちらが<上手い事言ったと思う言葉>に差があるのだ。
よく患者さんから、あの時先生にああ言われた言葉が印象に残る、と言われるが、大抵、言った覚えがない。
精神療法は、心を扱うから、非言語的なやり取りの時間を共有する体験だという側面もあり、
あえてそれを言葉にすると齟齬(そご)が生じてしまう可能性がある。
言葉は相手に自分の気持ちや心を伝える便利なツールだが、言葉は気持ちや心と数学的にイコールではない。
つまり、体験を共有していないスーパーバイザーにケースを提出する時点で、もう近似値的になってしまっている。
それをきちんと理解しないまま、スーパービジョンを絶対視してすがってしまうと、自分だけ楽になって、目から鱗、感が、
患者には、「なんかこいつ、こないだまでと様子が違うな」という違和感を感じさせてしまう。
しかし、余程でない限り、患者はそんなことは意識化出来ないから、空気だけがギクシャクするのである。
大体、この3つが原因ではないかと思います。
それを踏まえて、僕が編み出した方法があります。
それは、患者に正直に、<実は、今度、スーパービジョンに出すからね>と話しておくのです。
そうすれば、スーパービジョン前後の不連続性があっても、患者は「ははーん、成程、そのせいか」と
察しもつく。そこを黙っておくから、ズレの原因が判らないまま、ギクシャクするのだと思うから。
具体的には、スーパービジョンには、まとめ、を用意するから、それを患者にまず見せて、添削してもらう。
すると、患者は、「ここは私はそう思わない」とか「私はこんなことは言っていない」とか「私はこう感じていた」とむしろ
下手なスーパーバイザーより役立つことを言ってくれて、<スーパービジョンに出さなくてもいいや>なんて思ったりもした。
このケースのまとめを患者に訂正させる作業は、患者にとっては治療同盟という意識を強化させる効果があり、
こちらには患者への非治療的に働いている治療者の個人的な思い入れに気付かされる。
そして、そもそも非言語的な体験を言語化する時に生じる齟齬を、患者側の言葉に寄せて紡ぎ直すことを、
患者目線に立つ、というのではないだろうか。
スーパービジョンには結構、お金がかかる。下手したら、患者からもらってる料金よりも高い。
それは我々のトレーニングの一環だから、支払って当然のコストなのだが。
しかし、この作戦だと患者にも、<結果を全部、教えるから、君も少し出しなさい>、とか言える(笑)。
まぁ、出さないけれど。
精神療法は薬物療法と比べると定まった成功のパターンが読めないので、治療者も不安になり、誰かにすがりたくなる。
実はそれこそ、患者が治療を受けようと思った気持ちやモチベーションと似通っているのだと思う。
だから時として、我々が患者から理想化されるのと同じように、スーパーバイザーを神格化してしまうことがある。
そもそも、それだけの力量の先生がスーパービジョンをするのだから、十分、想定内のことだ。
僕は自分が精神分析的な精神療法をやっている時に、こんな実験をしたことがある。
それは、一つのケースを別の4人の偉い先生に1ヶ月以内に続けてスーパーバイズしてもらい違いを浮き彫りにするのだ。
松茸の季節に松茸を何万円分も買ってたらふく食べると、もう翌年から、松茸を有り難がらなくなる、のと同じ効果を狙った。
精神療法班の先輩からは、「悪趣味だ」と言われた。
僕の選んだ4人の先生は、当時、最前線で活躍・指導をされている先生方だった。
僕はケースを通して、先生方に<精神療法でもっとも大事な物は何か?>という本質的な問いもしてみた。
一人目の先生は、米国帰りの先生で、「それは、共感、ですよ」と仰った。
生き生きとした心の交流だそうだ。
しかし、その先生のオフィスの花瓶には精巧な造花が活けられていた。葉っぱの水滴まで、イミテーション。
二人目の先生は、「それは、構造、だ」と言った。
構造とは、いつ・どこで・何分間・いくらでやるか、などの条件を厳密に決めて、それを忠実に守る事だそうだ。
しかし、その先生はサービス精神旺盛で、約束の時間をオーバーしてもスーパービジョンを続けてくれて、有り難かった。
三人目の先生は、「それは、正直さ、だ」と言った。
なるべく、治療者・患者関係に、嘘が少ない方が良いと力説された。
しかし、その先生の趣味は、手品、だった。
四人目の先生は、僕の尊敬する先生で、「それは、治療者の責任と覚悟、だ」と言い切った。
そこで僕はこれまで同じケースを別の3人の先生にスーパービジョンに出した事を打ち明けた。
<共感が大切だと言った先生の花瓶には造花が、構造化が大切だと言った先生は頼みもしないのに時間を延長してくれて、
正直さが大切と言った先生の趣味は種も仕掛けもございます。
僕はそこで重要なことに気付いた。
どんなに優秀な先生でも、人間だから、パーフェクトということはない。
その上で、自分の弱点と関連したところを大切だ、と気付くのではないか。
たとえば、人間が生きるのに必要なものは何か、という問いと似てて、普通にしてることをあげたりはしないだろう。
空気、なんて真面目に答える人は変人だ。皆、意識しないで、酸素を吸って二酸化炭素を吐いているのだ。
お父さん、息を吸って!、なんて言う時は、もうヤバイ時だ。
僕の大学の先輩に、精神科治療でもっとも大切な物は何ですか?、と尋ねたら、「愛だよ」と答えられた。
その先生は、離婚歴3回だった。
そんなことは良いとして、僕の尊敬する先生は、本当に、責任と覚悟がある、のに、何故、「責任と覚悟」、と答えたのだろう。
このままでは、せっかく僕がたどり着いた仮説が間違っていたことになってしまうではないか。
どうして、先生は責任と覚悟があるのに、治療に大事なのは、責任と覚悟、だなんて言うのですか?>
と聞いたら、すごく嫌そうな顔をして苦笑いをされた。
どうですか?悪趣味ですか?
話しは変わるが、最近、スーパービジョンをあまり神格化しない方が良い、という意見を聞いた。
その理由が、患者についてはスーパーバイザーより治療者の方が知ってるからだ、という事だが、僕はそれは解せない。
それなら、患者の事は治療者より患者自身の方が知ってるじゃないか、という理屈も成立しないか?
それとも、患者は素人だからこの理屈は当てはまらないのかな。
自分で自分を判ってれば、そもそもセラピーなんて受けないか。
自分が一番自分を判っていない、というのが人間か。
誰かが言っていたが、「スーパービジョンとは質の良い岡目八目だ」と。
岡目八目とは囲碁の言葉で、岡目とは傍で見てる人のことで、つまり囲碁を打ってる人より8手先まで読める、ことから、
当事者より第三者の方が物事を正しく判断出来るというたとえだ。
クイズ番組をテレビで見てると全部解けるのに、いざ自分が出演したら全然解けないという、のに似てるかもしれない。
それは、ただ、あがってるだけか?
そう言えば、囲碁ではなくて、将棋だが、天才バカボン、に似たような場面があった。
昔は、町の通りで将棋を指してる人がいて、それを通行人が取り囲んで見物という風景があった。
娯楽の少ない時代の話だ。
天才バカボン、のその回では、町の将棋で、王手、でもはや参ったしかないか、と追い詰められた局面が展開されていた。
岡目たちも「つんだ」と思っていた。
その人垣には、バカボンのパパ、もいて、バカボンのパパは、将棋など判らず、脇で流れるプロ野球の中継を横見していた。
時代は、巨人・大鵬・卵焼き、だ。
プロ野球中継と言えば、巨人戦で、相手チームのバッターがファースト・フライを打ち上げた。
当時の巨人の一塁手は王貞治だ。
テレビに向って、バカボンのパパは、「王が捕る」、と言った。
人垣は、バカボンのパパ、のこの一言にハッとして、
「その手があったか!」
王手の駒を、王が自ら取れば良いのである。
人々は、バカボンのパパを、「あなたは将棋の名人ですね」と勘違いして騒動が巻き起こるという話。
スーパービジョンの記事なのに、バカボンのパパ、の話なんかを出したりすると、「一緒にするな!」と怒られるかな。
バカボンのパパ、に。
BGM. 薬師丸ひろ子「あなたを・もっと・知りたくて」


白い部屋

12/Ⅳ.(火)2016 はれ、暖かい。
子供の頃から、繰り返しみる夢があった。
僕は静かな白い部屋にいて、壁にもたれかかるように体育座りして、高い窓から光が差し込む。
見覚えの無い部屋だが、どこか懐かしい部屋だった。
心当たりのない部屋なのに、鮮烈な記憶があった。
そんな風だから、一時期は前世の記憶かしら?、などと考えたりもした。
どの夢にも共通するのは、無音の白い部屋ということで、なぜそこにいるのかは、夢によってバリエーションがあった。
理由が無い場合もあったし、ある時は、政治犯だったし、ある時は凶悪犯罪を起こした罰だった。
正義であるがゆえに、悪い権力者に無実の罪で投獄されたこともあった。
いずれも、僕の感情は無感情、何の抵抗も工夫もせず、その状況を受け入れていた。
結局、そこが僕の「居場所」であったような気さえした。
精神科医になって、研修医の2年目で関連病院の単科の精神病院に出向した。
僕は大学病院とリハビリセンターくらいしか病棟を知らなかった。
今はもうそんな病院はないが、僕が医者になりたての頃の精神病院は、アメニティより収容に重きを置くような作りだった。
そんな中、過度に刺激的になっている患者さんを、他の患者さんから隔離する部屋を「保護室」と呼んだ。
保護室は大学病院の病棟にもあったが、僕は僕の勤務先の病院の保護室をみて愕然とした。
それは、ずっと子供の頃から、夢に出て来ていた、白い部屋、だったから。
僕は医者になって3年目から大学院に進学するため、大学に戻った。
医者になるとお金が儲かりそうだと思われがちだが、それは何年かしてからで、
今は随分と改善されたようだが、当時の研修医の月給は5万円だった。
僕は比較的、若く結婚していて子供もいたが、大学院生は無給で、むしろ学費を払わないといけなかったし、
卒後教育も大切で、勉強会やスーパービジョンにもお金がかかった。
見かねたオーベン(指導医)が、アルバイト先を紹介してくれて、日曜日やまとまった休みには出稼ぎに行った。
今はもうそんな所はないだろうが、当時は「無医村」のような精神病院が地方にはあった。
僕は夏休みに家族を連れて、九州や東北の病院に2週間泊り込みで勤務に行った。
宿舎を用意してくれると言われたが、そこのお風呂場に黄色い巨大な物体があり、家族は悲鳴をあげた。
何かと思ったら、キノコ、が浴槽からはえていた。
僕は昼間、病院に行って仕事をして、夕方に宿舎に帰った。
九州の病院では、赤とんぼ、がいっぱい飛んでいて、僕は<なんとかこれ食えないかな?>と思ったものだ。
僕の仕事は、「いればいい」、だけだった。
さすがに医者がいないのはまずいからという理由で、雇ってもらえていたのだから。
回診と言って、病棟の患者さんの様子をみて回る時に、保護室の患者さんの様子もみる。
看護婦さんは、「この人はもう何年もここから出られないのです」と僕に説明した。
僕は、ナース・ステーションに戻ってから、カルテをみた。
すると入院時から何年も1回も薬が変更されていなかった。
これは何とかなるかもしれない、と思った。
僕は薬の調整と患者さんへの働きかけを考えた。
看護婦さん達は、やる気になって、どんな指示にも嫌がらず、無理な要求も頑張って動いてくれた。
僕には2週間の時間しかなかったが、複数の患者さんを保護室から出す事に成功した。
看護婦さん達は、自分たちがあてにされたことをすごく喜んで、仕事をしてて良かったと言った。
僕の大学院の生活は4年間だったから、そんな出稼ぎを、その間、ずっと続けた。
同じ病院にも行ったし、違う病院にも行った。
それは、僕が雇われる理由は、医者の腕ではなくて、医者がいないと困るから、で、その時の病院の都合によった。
でも、行く先々で看護婦さん達の反応は同様だった。
よく「チーム医療」などと言って、医者はそのリーダーだと言われる。
リーダーに求められるのは、その人の治療的な姿勢に尊敬が出来て、強力なリーダーシップで皆をその気にさせ、
明確な指示をだし、役割分担の采配をして、その結果における責任のすべてを医者自信が背負うという覚悟だと思う。
僕にもしそれがあるとするならば、それは大学や教育機関では習わなかったし、教えてももらわなかった。
僕はこのジプシーのようなアルバイト生活で、限定した2週間の仕事で、それを実感したのだと思う。
看護婦さんや薬剤師さんや栄養士さんやお掃除のおばちゃん達が一丸になって結束した力は、
我々の臨床のエネルギーにも転換された。
そして僕は大学院を修了し関連病院に派遣され、医者になって7年目で、やっとアルバイトをしなくて良い生活が送れた。
それまでに、多くの患者さんを保護室から出せた。
不思議な物で、そのせいなのか、それ以来、僕は、白い部屋、の夢をみなくなった。
BGM. 八神純子「さよならの言葉」


コンテスト

17/Ⅲ.(木)2016 はれ、あたたかい 花粉飛ぶ
カワクリ心理部門で「下克上、コンテスト」というのを行った。
今のシステムでは、カウンセリング希望者は、1回診察を受けて、適応を僕が見定めて心理に依頼することになっている。
カウンセリング希望者は年々増加しているが、僕が考えている「カウンセリング」と希望されるそれは少し異なってる印象だ。
男性用カツラのCMでも、「まずは無料カウンセリングから」などと謳っているし、
こないだドラッグストアの貼り紙に「カウンセリング化粧品」などという物を見つけ、思わず、写メを撮ってしまった。↓。

そこで我々は、まずこちらが考えているカウンセリングというものを説明しようということになった。
パンフやホームページにも大々的に、打ち出して行こう!と決起した。
そのため、経験年数や年令は関係なく、ガチ勝負でアイデアを出し合う。
それを名付けて、「カワクリ心理・下克上、コンテスト」と呼んだ。
前回の記事「診察とカウンセリングのちがい」を受けて、心理の4名に皆さんのハートを掴むような記事を書いてもらいます。
そう思ったきっかけは、うちのクリニックに来てくれる人の8~9割は、ネットからです。
事前にカワクリのホームページをみてくれたり、ブログを読んで来てくれてる人が多いです。
でも、うちは川原色が強いから、たとえばカウンセリングを希望していても、あれを見たら敬遠した人もいたかもしれない。
川原色が良いと言ってくれる人と、そうじゃない人は当然、評価が分かれると思う。
それはそれで良いと思う。
一生懸命やっていれば、いつか分かってもらえると思うから。
漢字で書くと、「分かれる」と「分かる」って同じ字なのですね。
川原色のバイアスを排除して、個々のカウンセラーやそこで提唱されるカウンセリングに惹かれて訪れる人がいた方が、
裾野も広がり、クライエントもカウンセラーにも双方にとって良いと思うのだ。
ちなみに、カウンセリングを行う相談室は刺激が少ないし、防音も出来る限りしています。
心理の4人が書きやすいように、簡単に前置きを書いておきます。
カワクリのカウンセリングは、「精神分析的な心理療法」という共通認識を持ちました。
しかし、この「精神分析的な心理療法」というのがよく知られていない。
我々は「常識」のように口にするが、心理の常識は世間の非常識、という場合だってあると思う。
実際、カウンセリング(精神分析)の「常識」を知らない人は多い。
それは、こんな背景があって、どうも先進国で精神分析運動が根付いたことがない国は日本くらいだというのだ。
中国や韓国やインドでもあるらしい。
我々が掲げている精神分析的なオリエンテーションとは、まるで小学校のドッジボールのルールのように、そこでだけ通じて、
学校が変わると通じない「常識」みたいなのだ。
「何故、保険でやらないのか」とか、
「何故、キャンセル料が発生するのか」とか、
「何故、毎週同じ時間にやるのか」とか、
「何も話す事がない時は休んでも良いと思う」という意見とか、
それはカタルシスだけを目標にしているのではなく、自己探求とか自己洞察を目的にしているから、という理屈なのだが、
純粋に援助を求めてる人には、余程、説明しないと伝わらないと思う。
「お時間をとらせているから、キャンセル料をお支払いしないと」っていうのは少し違うのである。
これはとても難しいところで、たとえば精神科医の世界では、「精神分析」はマイナーもしくは異端に近い。(言い過ぎか)
同業者にさえ、「精神分析は金持ちしか相手にしないから駄目だ」とか、
「本人のやる気や必死さを何でも金に換算してやる考え方は貧しい発想だ」とか批判的な声も多いのが事実だ。
同業者の中でも理解を得ていないのに、「素人」にそれを求めるのは、どうか。
こちら発信で、我々が教科書的に習ったことを、患者さんにも真摯に伝える労力が必要なのじゃないか。
そういうことを、啓蒙、って言うんじゃないかな。
まぁ、偉い人はそういうことをやっているのだろうが、全然浸透してないのが現実で、
最近では「精神分析的な心理療法」と「精神分析」はまったく別物だ、と国際基準の精神分析にしがみつき、
まるで伝統芸能保存会みたいに、それを理解してる患者(ごく少数そういうインテリは存在する!)と、
閉じた社会でやっている人が声高に叫んでいて、「精神分析を受ける人の義務は精神分析家を食わせることだ」、
というジョーク(マジ?)もある程だ。だけど、日本の伝統芸能じゃないと思うんだけど、精神分析。
これは立川談志が27才の頃に「現代落語論」で、「このままでは落語は能と同じになる」と警鐘を鳴らしたのとよく似ている。
談志曰く、能はかつて大衆芸能のトップだったが世の中の移り変わりに対応出来ず、伝統芸能に成り下がった。
落語もそうなる運命にある。
それではいかん、と訴えて、談志は「伝統を現代に」をスローガンに、落語と大衆と戦い続けた人で、
それが今の落語ブームに続いてると言っても過言じゃないと思う。
そういうことをしていかないと、一人相撲みたいなカウンセリングは皆からそっぽを向かれる。
日本は元々、「赤ひげ幻想」があり、医療に露骨にお金が絡むのを嫌う。
「先生、今日は治療費がないので、どうかこれで…」と頭を下げて、畑でとれた大根を差し出す人に優しく微笑む、
医は仁術である、という文化だ。
そりゃぁ、精神分析は根付きにくいだろうと思う。
そういった土壌で自分達が仕事をする。
そこでどうやったら自分達のやってることを理解してもらえるか努力や工夫をすることが最優先課題だ。
日本の消費者は馬鹿じゃない。
高くても質の良い物を選ぶ。その質を見極める力もある。
そこをちゃんとアピールすることも、心理の仕事だ。
それをコンテストの課題にした。
皆さんのコメントや反響でコンテストの結果とさせていただこうと思う。
全然、話しは変わるけど、コンテストと聞いて、思い出すのは、「きりきり舞い、ダンス・コンテスト」です。
これは、近田春夫&ハルヲフォンが「電撃的東京」というLPを出したことを記念して、
当時、近田春夫がオール・ナイト・ニッポンの火曜深夜のパーソナリティーだったから、
その番組で生で行われた収録です。
「電撃的東京」は歌謡曲のカバー・アルバムだったのですが、選曲やアレンジが滅茶苦茶かっこ良かったです。
前年に吉田拓郎が「ぷらいべぇと」というカバー・アルバムを出していますが、
例えば、郷ひろみを両者がピックアップしてますが、拓郎が「よろしく哀愁」であるのに対し、
「電撃的東京」は「恋の弱味」です。このセンス、伝わるかなぁ。
その「電撃的東京」からシングルカットされたのが山本リンダの「きりきり舞い」で(ヴォーカルはベースの高木)、
その曲に合わせて、ダンスを披露して、ナンバーワンを決めようというのが、「きりきり舞い、ダンス・コンテスト」です。
近田春夫をはじめとした審査員のワルノリした嬌声が、深夜の3時から5時の間、ラジオから流れ続けていました。
聞いてるこっちは、ラジオなので誰がどんなダンスをして盛り上がってるのかが判らないし、伝えもしないから、
さっぱり意味不明な番組でした。番組の私物化と呼んでもよいくらいリスナーを無視した回でした。
これを延々、2時間、やってるのだから、馬鹿馬鹿しいと言われてもしょうがないと思いました。
そう言えば、落語の小噺で、こんなのがあったのを思い出しました。
<1番、馬鹿な奴、知ってる?>
「なんだい?」
<あいつ。釣れもしないのに、もう2時間もああやってるんだ>
「なんで、2時間もやってる、って判るんだ?」
<だって、俺、ずっと見てたもん>
「お前が1番、馬鹿だ」
なんかそれと似てますね。
そんなのを放送する方もする方だけれど、聴いてるこっちもこっちで。
でも、高校生だったから、そこはひとつ。
しかし、カワクリのコンテストはそれとは大違い!
透明性が高いですよ。
リレー性で行くんでしょ?
トップ・バッターは誰?
BGM. 近田春夫&ハルヲフォン「きりきり舞い」