エビスと丸尾

6/Ⅷ.(金)2010 はれ、ホットサマー
若い人の間で丸尾末広の人気はすごいと思う。
よくこんな若い人が~と感心する。若い人にも、丸尾にも。 
それに比べ、蛭子能収の評価が低すぎると思う。
やはり、「スーパーJockey」のせいか。本業以外で売れると、有難みが目減りするのかもしれない。
僕は、エビスさんは天才だと思う。
エビスさんの初期作品集「地獄に堕ちた教師ども」「私はバカになりたい」「私の彼は意味がない」
「私は何も考えない」「なんとなくピンピン」「狂った果実」は傑作だ。是非、オススメだ。
それ以降の作品は、途端に手抜き色が濃くなるが、そんなことで前の作品の価値が下がるものではない。
僕は、年賀状に「私の彼は意味がない」とだけ書いて全員に出した年がある程だ。どれ程だ? 
1993年4月号「月刊ガロ 蛭子能収特集」もエビスさんの魅力が満載だ↓。超オススメ。

蛭子能収と丸尾末広は同時期に「ガロ」に掲載されていた。
その他にも、泉昌之、平口広美、根本敬、川﨑ゆきお、渡辺和博、菅野修、アラーキーらが作品を発表していた。
毎月、「ガロ」が出るのが楽しみだった。
僕は「ガロ」に敬意を表して、電車に乗って町田の本屋まで買いに行っていた。
中野でもシモキタでもなく、聖地は町田!、と自分で決めていた。
今や、町田も様変わりした。さびしいものだ。
下は、中野「タコシェ」で買った丸尾のピンナップを額装したもの。
絵とは全く関係のない名言をひっぱってきて、短冊状にして左右に貼り付けて、
結びつけて楽しむのが今のマイ・ブーム。




(右・学生)  『いま ぼくが ひたすら望んでいることは~存在すること(to be)なのだ。
どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ』。ヘンリー・ミラー「南回帰線」
(中・豹男)  『メフィストフェレス「お昇りなされ、あるいは下りなされ。同じことじゃよ』。ゲーテ「ファウスト」
(左・少女)  『幸福がそんなにみじめなものなら、幸福から私を救って下さい』。ジャン・ジロドウ「間奏曲」
↑…こんな雰囲気です。僕は丸尾末広の「DDT」と「少女椿」のサイン本を持っている。
BGM. ヒカシュー「私はバカになりたい」


マイ・ブーム

5/Ⅷ.(木)2010 はれ
「エンドレス・エイト」の巻でもお話しましたが、最近のマイ・ブームは、ポスターやピンナップを貼って、                                その左右に短冊状に「名言」を並べてみる。本来、全く関連ないものを結んで、雰囲気を楽しむ遊び。
自分、考案。

↑(右、チェシャ猫) 『余の髭(ひげ)に気をつけてくれ。首切り役。余は首をきられることにはなっておるが                              髭を切られることにはなっておらんで』。1535年、トマス・モア卿。
↑(左、アリス)   『どうせあたしをだますまら、死ぬまでだまして欲しかった』。西田佐知子「東京ブルース」。

 
 ↑『憂鬱は凪いだ情熱に他ならない』。アンドレ・ジイド「地上の糧」。
…と、まぁ、こんな様子です。不定期に、ご報告して行きマス。
お昼は、森国さんと「マスの照り焼き定食」を食べマスた。
BGM. シューベルト「ます」
 


20代前半の悩み

4/Ⅷ.(水)2010 はれ、アスファルト・ジャングル照り返しが強い
NHKの、矢沢永吉&糸井重里~今だから「お金」の話、を録画してある。観るのが楽しみ。
「糸井重里の萬流コピー塾」を読む。1984年初版の本。今、読んでも面白い。
糸井重里といえば、昔、テレビで「結局、20代前半までの悩みなんて、その時だけのもので、
後になっても考えることなどない」なんてことを言っていた。当時の日記に書いたから覚えてる。
衝撃だった。それも、同じ1984年頃。
BGM. 斉藤哲夫「悩み多き者よ」


エンドレスエイト

3/Ⅷ.(火)2010 ハレ晴れ
エンドレスエイトとは、夏休みに何かやり残した感のある涼宮ハルヒが無意識に8月を繰り返させる話で、
テレビでは去年の夏、実際8週に渡り同じようなものを観させられた。
なぜ8週かはわからないが、エンドレスエイトの8月の8に引っかけたのかもしれないし、
無限大∞が数字の8を横にした形に見えるからかもしれない。関ジャニ∞と同じ要領だ。本当に同じか?
これからハルヒのアニメを観ようという大人は、まず一期の「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ~Ⅵ」までを観て、
次いで二期の「笹の葉ラプソディ」に飛び、劇場版「涼宮ハルヒの消失」のDVD(BL)化を待つのがよいと思う。
本当は一期、二期と順々に観て、「~消失」に進むのが王道だが、
いかんせん二期の「エンドレス・エイト」がしんどい。
二期アニメを期待していたため、反動でうんざりした。
名作「涼宮ハルヒの消失」は無限ループを全て記憶していた長門有希がエラーを起こす話だから、
本当は観ていた方が長門有希に共感できていいのだが、あれはつらいから、大人には無理だと思う。
下の写真は、クリニックの控え室の扉に貼ってある、長門有希のポスター。
左右に短冊状に「名言」を並べてみた。雰囲気を楽しむ、マイ・ブーム。

(右)『人生は、書物のそとで聞く音色が違っている』。ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」。
 …長門はいつも部室で本ばかり読んでるから、花火の音色はどう聞こえるかしら?というもの。
(左)『死のうと思ってゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。
着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織り込められてゐた。これは夏に着る着物であろう。
夏まで生きてゐようと思った』。太宰治「晩年」。
 …長門の浴衣姿にひっかけてみました。
BGM. サザンオールスターズ「夕方Hold  On ME」


火の玉ボーイ、復活。

2/Ⅷ.(月)2010 はれ
午前中、スカパーで五味のUFC2戦目をペーパービューで観る。1ラウンド、KO勝利だ。とにかく勝って良かった。
午後は、友人とメールのやりとりをして、そのあと新宿へポロシャツを買いに行く。
焼肉を食べた。スマスマを見た。
BGM. THE MAD CAPSULE MARKETS「SCARY」


郵便配達は二度ベルを鳴らす。

1/Ⅷ.(日)2010 一日寝てたので天候は不明
昨日は、OB会のような集い。常さんは面倒見の良い親分肌な先輩なので、ついつい安心して呑みすぎた。
タクシーに乗せられ帰宅した。そんな日の夢。
一晩、明けたら茅ヶ崎の家にいた。
2階の南側の陽の当るおだやかな部屋だ。                                        
きのう、あんなに呑んだけど、もうすっかり気分はいい。
自然の光で目が覚めた。
起きた時、予想もしてない程に部屋がキレイな状態にあるというのは、誰かが一緒に住んでいて、
僕を起こさずに、こっそりと片付けてくれてる証拠だ。
机の上には、通販で申し込んだ僕宛の郵便物がきてる。
小包の上書きには、こんな風に記されていた↓。
「これはこんなに沢山の代金をお支払い頂き申し訳ないので、販売をご辞退させて頂きます。
商品、サンボジャケット(黒)」。
昼過ぎ、角川書店から「涼宮ハルヒの憂鬱、パノラマ・クリア・ポスター」が届いた。←これは、本当の話。
BGM. マーヴェレッツ「プリーズ・ミスター・ポストマン」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑨~「お~い、ナカクラ君」

31/Ⅶ.(土)2010 はれ
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第九弾。
医師国家試験のテスト範囲は膨大である。
その全部を完璧にこなすのはなかなか難しく、また全部が出題される訳でもなくどこが出るかわからない。
そこで、傾向と対策が必要になり情報戦が重要になる、らしい。
僕らの頃の情報戦の主軸は、「~が出るらしい」という風の噂。
それを聞くと、そこを集中的に取り組む。
また別の噂を聞きつけると、そこを見直す。そんなことをしていた。
実際、情報内容よりも、そういうものを自分だけが知らない不安がプレッシャーを呼ぶから
心理的効果の方が大だったのかもしれない。
そうは言っても、国師直前の僕らには、まるでTVの選挙速報よろしく、
「どこが出るらしい~」というガセネタを待ちわびながら、自分の勉強を続ける、
というスタイルがスタンダードだったような気がする。
クラスの頭の良い子が、学校にかけ合い、6年生のために皆で勉強をし情報を
共有するためのスペースを確保してくれた。
これは、大変助かる。
0時とか1時まで解放してくれるのだが、その時間まで学校に残ると僕は家に帰れなくなってしまう。
僕は、当時、へんぴな所に住んでいたので、交通手段がなくなってしまう。
大学6年にもなると、結構マイカーを持ってる人がいて乗り合わせたりして帰っていたが、僕は車は乗らないし、
いかんせん‘へんぴ’なので、他の友人に乗せてもらって遠回りになってしまうので悪くてお願い出来ない。
それも毎日毎日のこと。
とてもじゃないが頼めない。
困っていると、これまで6年間、ひとことも喋ったこともない男が、                                                      「川原さん、僕、帰り送って行きましょうか?家は○×ですよね?うちもすぐですから」と言ってくれた。 
本当に?いいの?。
「川原さんの所、帰り道なんでいつも通るんですよ。1度、見かけたこともありますよ」と言ってくれた。
悪いなぁ。じゃ、お言葉に甘えて。
ところで、君、誰?。
すると彼は真面目な顔をして、「ナカクラです」と答えた。
ナカクラ君、と呼ぶことにした。
ナカクラ君の車は紺色の丸味を帯びた地味な日本製の車だった。
学校から僕の家までの間、車中で今日勉強した箇所を話し合った。                                                     ナカクラ君がどの位頭がいいのか僕は知らないが、きっと僕より成績はいいのだろう。                                        「そこはこうだと思いますよ」「それと関連して、コレコレ、というのも覚えておくといいですよ」などと言ってくれたから。
約束通り、国家試験が終わるまで、毎日、ナカクラ君は僕を家まで送り届けてくれた。
国家試験の当日、僕の手応えはなかなか良かった。                                                             ナカクラ君はどうかな?と少し気にしたが、広い会場だ、誰がどこにいるかなんてわからなかった。
そして、国家試験の発表。テストは水物だから、受かる人もいれば落ちる人もいる。
合格発表者の表にナカクラ君の名前はなかった。                                                                他のクラスの子に「ナカクラ君、駄目だったの?」と聞くと、「ナカクラ?誰?」と言われた。 
えっ?。…合格欄だけではない。卒業名簿にも「ナカクラ君」の名はなかった。
今でも、不思議に思う。ナカクラ君は、いなかった?。                                                             ただ一つ、はっきり言えるのは、もしナカクラ君がいなければ今の僕はいない、っていうことだ。
BGM. ソフトクリーム「クラスメイト失踪事件」


もしもタヌキが世界にいたらの夢

29/Ⅶ.(木)2010 小雨、雨、蒸し暑い
オレの友人は、石段の所でタヌキにちょっかいを出された。
2人でタヌキの檻まで‘お礼参り’だ。
タヌキは「こないだの奴か」と鼻で笑い、高飛車に「お前は、何年だ?」と聞いてくる。
オレの友人は、うっかりスモックを着たままで「い…1年だよ」とやや、ヤケになって答える。
すると、タヌキは完全にナメ腐ったように「1年?」と聞き返し、
仲間のリスやウサギとよってたかって「フンコロガシ野郎だ」と馬鹿にして笑う。
檻の中から、タヌキの毛のまじったフンを蹴りつけて来た。
さらに仲間うちで多数決をとったりと、汚い手口だ。
オレは、冷静なスズメに多数決を取り直してもらったら、8―0でタヌキが悪い、という結果だ。
当たり前だ。
オレは一気呵成に、
「ここの支配者に、お金を払い、あのタヌキを買い取って、タヌキ汁にしてしまおう」と強硬案を打ち出す。
オレの友人は、
「それは名案」という顔をして、タヌキはキツネにつままれたような顔をしている。                                             オレの友人は、「いつにしましょう?どうしましょう?」と揉み手をしながら、
「あなたはスガイ教授と仲が良いから、そのルートで」としつこく頼ってくるので、
オレは「まぁ、2・3日、様子を見て、それでもタヌキに反省の色がなければね」となだめた。
元の石段を引き返す。ここは勾配がかなり急だから注意が必要だ。
ミニFM局が見えてきたら、もう海辺だ。
オレは、マリンブルーのトレーナーの袖を長くして着て、オレのイニシャルは‘TATZJI’かなと考えながら、
道路を渡り自販機のDr.ペッパーを買いに行く。
Dr.ペッパーは、おばあちゃんも最近、飲んでいるという。
BGM. ユミ(ソフトクリーム)「もしもタヌキが世界にいたら」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑧~「マイラ」

28/Ⅶ.(水)2010 猛暑つづく
 7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第八弾。
医学校は6年制であり、さすがに大学6年にもなると、皆、目の色をかえてラスト・スパートをかける。 
断っておくが、それが悪いと言ってるのではない、当然である。
ただ、なんとなく、ひとこと、「さぁ、俺達も頑張ろうぜ!せーの」みたいなワンシーンが欲しかっただけなのだ。
こないだまで一緒にバカをしてた友達がいきなり国試モードになったので戸惑った。
本当に、戸惑った、という言葉がピッタリだ。僕は最終電車に乗り遅れたヨッパライのようで、
おきざりにされた気分に浸った。
こういう時には、人の心に隙間ができる。そこに悪魔がやってくるのだ。
1年後輩の遊び人だ。あまり親しくはなかった。
それが「川原さん、一緒に遊びましょうよ」と誘ってきた。
学校のそばの繁華街のフィリピン・パブへ行こうという。
ついて行く。
「Black&White」とか「おしゃれ泥棒」とかいう名前だったと思う。
そのお店は、ステージが1つあり、あとは広いフロアにテーブルが幾つかあって、
各々のテーブルに艶やかな色のチャイナドレスをまとったフィリピン人の女の子がつき、
水割りを作ってくれたり、カラオケをしたり、会話を楽しむ、そういう雰囲気。
馴染のお客には目当ての女の子がいる。
僕は後輩に「川原さんは、マイラがいいでしょう」とマイラをあてがわれた。
マイラは、華奢で背格好もそんなに大きくなく、端正な顔立ちをしているフィリピン美人だ。
彫が深いというのか、鼻筋がピンと伸び、肉厚のある唇をいつもツンととがらせているから、
ちょうど顔面の中央部分が穏やかに隆起しているような造りだった。
黄色いドレスを着ていたせいもあり、第一印象は、ひよ子みたいな顔をしてるなぁ、と思った。
マイラは他の子と少し違った。
マイラ以外の子は率先して場を盛り上げたり、客とデュエットしたり、それを囃したてるため変な拍子の
掛け声をかけたりしてふざけているが、マイラはそれを見て笑ったり手拍子を合わせているだけだった。
僕はそういうところで盛り上がる社交性に少し欠けていたから、「担当・マイラ」は疲れなくて助かった。
後輩のチョイスが正しかった、ということなのだろう。
それから僕はフィリピン・バーに通った。学校帰りに一人で寄って、ビールを一本だけ飲んで帰る日もあった。
僕は今でもカラオケは苦手なのだが、この頃のカラオケはお店のステージに出て歌うから、
他の客にも見られるので余計いやだった。
それでも毎日、後輩の歌を聞いていると2つ程、レパートリーが出来た。
長淵剛の「とんぼ」とマッチの「夕焼けの歌」だ。
僕の生活はすさんできた。
クラスはピリピリした雰囲気だし、良男さんはもう卒業して学校にいなかった。
水は低きに流れる、というのか、どうしても楽な方へ逃げたくなるのが人情だ。
僕の足は、フィリピン・バーに流れた。
ある日マイラが、明日の日曜日、自分の家に遊びに来い、とこっそり僕に言った。
マイラは、真剣な目をしていて、後輩には内緒で一人で来い、と言った。了解した。
翌日、指定されたところで待ち合わせ。
彼女らは、7~8人でタコ部屋みたいなところに雑居していた。
「お~、タツジ!」皆、顔見知りだから、口々に歓迎してくれた。
いつもの仲間、いつもの笑顔、という感じだが、いつもと違うのはノーメイク&私服だということだ。
普段の華やかさはまるでなく、なぜフィリピン人はくすんだ色の服を好むのだろうか。
仕事で原色ばかり着させられるから、反動形成なのかもしれないな。
センス的には野暮ったいが、この方が街に同化するには効果的だろう。
僕らは近所のホカ弁でからあげ弁当を買って食べた。
そのあと、川の方に出て、子供たちがするような遊びをして時間を浪費した。
川沿いのコンクリートの部分に、僕とマイラは並んで座った。
マイラは正面の川を見ながら、僕の方を一切見ず、
「タツジ、もう明日からお店、来ない方がいいよ。勉強しなさい。」と言った。
僕は「わかった」とか「そうする」とか阿呆みたいな返事をした。
どうしてこういう時、もっと気の効いたセリフが出ないのだろう?。いつもいつもそう思う。
それから僕は勉強した。
狂ったように勉強した。
テレビも東スポも一秒も見なかった。
本当に狂っていたのかもしれない。
とにかく寝てる時間以外は勉強しかしなかった。
そして、そのペースは国試の当日まで持続した。
結果、僕は試験に合格して医者になった。
後日談。僕は一度だけ、マイラに会ったことがある。
医局の先輩が、うまい焼肉屋を見つけたからと連れて行ってくれたのだ。
店主と奥さんの2人で切り盛りしてる小さな店だ。
常連なのか、巨人軍の選手のサイン色紙が壁に飾ってある。
その隣りに先輩のサイン色紙が並べて貼ってあり、笑った。
お会計の時、奥さんらしき人は、サービスでガムとヤクルトをくれた。
顔を見て、僕はビックリした。
マイラだった。
「あっ…」と僕が絶句するのを、先輩は不思議そうに見ている。
僕が「マイ…」と言いかけて「ラ」の音を発音する瞬間に、マイラは「元気?」と言葉をかぶせて、
「ラ」の音を消した。
マイラは軽く微笑んでいて、相変わらず、ひよ子みたいな顔だった。
BGM. ポール・マッカートニー&ウィングス「マイ・ラブ」


ザ・ヒストリー・オブ・川原⑦~「良男さん」

27/Ⅶ.(火)2010 はれ、暑い
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第七弾。
名は体をあらわす、などと言うがこの人は良い人だった。
名前が「良男」である。大学時代の野球部の1年先輩だった。
僕はサードを守り、良男さんは控えの一塁手だった。
ある日の試合で、ショートの先輩が失策したあと、僕がサードゴロを一塁へ悪送球した。
ピッチャーは振り返って「怖くて三遊間には打たせられないな」と嫌味を言った。
ファーストだって捕れない球ではないだろう。
技術的な問題ではなく、捕る気がないのではないか?と思った。
無性に腹が立った。
そんな時、ベンチから良男さんの声が響く。
「ドンマイ~、ドンマイ~。川原~、くさるなよ~」。
3アウトをとり、ベンチに戻ると、良男さんが僕の横に座り、
「くっそ~、俺がファーストだったら捕ってやったのに。俺が試合に出れないから…」と
口惜しがった。
良男さんは努力の人だった。
野球部の練習日以外も自主練していた。
その試合の後、僕は良男さんに誘われ練習をした。
良男さんが一塁ベースにつき、僕がゴロを捕球したと想定しあらゆる体勢から一塁へ送球する送球練習。 
細長いファーストミットの先を使ってショートバウンドの球は全部すくい上げる。
頭を超えそうな暴投もジャンプしてキャッチしてくれる。
言い忘れたが良男さんは長身である。
たまさか胸のあたりにストライクのボールを投げると、
いい音を出すためにファーストミットを思いっきり強く早くはじくように閉じる。
パシーン!球が重そうだ。
「川原~、ナイス・スロ~!」、良男さんは目をつむって青空に向かって雄叫びをあげるのだ。
こっちが照れる。
その後、僕はささいなことから日々がめんどくさくなり人間関係を全部切りたくなり部活を辞めた。
学校で部活の先輩とすれ違うとバツが悪いのは初めだけで、すぐに挨拶もしなくなった。
それでも良男さんは違った。僕の悪い噂を聞きつけると、
そのたびに学生会館まで僕を探し出しにきて、
「川原、くさるなよ」「川原、学校は辞めるなよ」と、こっちが「うん」と言うまで肩を揺すられた。
先日、新宿紀伊国屋書店に医学書を買いに行った。
モン・スナックでカレーを食べ、伊勢丹の方に歩いて行く途中で後ろから「川原!」と声をかけられた気がした。
しかし、ふり返ってもそこにはただビル風みたいなのが吹いているだけで、
カラクリ人形みたいな人間が往来してるだけだった。
しかし、それは聞き覚えのあるあの人の声だ。
僕が今、こうして精神科医をやったり院長ブログを書いたりしてるのも良男さんのお陰である。
「川原、くさるなよ」と言って引きとめてくれなかったら、本当に学校辞めてたかもしれない。
感謝しておりますです、心から。
BGM. ベニー・グッドマン「夢見る頃を過ぎても」