17/Ⅵ.(木)2010 快晴、梅雨?
僕が初めて吉田拓郎を知ったのは、赤塚不二夫の「天才バカボン」だった。
長髪に上下ジーンズでギターを持った若者は、
自身の作った歌だけでは食べていけず常に空腹で食べ物をみると飛びついた。
その名を、めしだたかろう、と云う。
当時、「結婚しようよ」を大ヒットさせフォークソングのブームを作った「よしだたくろう」のパロディであった。
とは言え、小学生の僕にはテレビの出演拒否をするフォークシンガーを知る機会はなく、
このマンガで、どうやら「よしだたくろう」という人が流行っているらしいと知る。
幸い僕には4つ年上の兄がいて彼が「南こうせつとかぐや姫」のファンだったから、
「ヤングセンス」とか「guts」などと言う音楽雑誌が家にあった。
それで、よしだたくろうという人間に注目した。
拓郎が一躍、スターダムにのし上がったのは‘71年8月の「第3回中津川フォーク・ジャンボリー」だという。
反体制シンガーとして「フォークの神様」に祭り上げらたが疲れ果ててしまい「もう歌えない」と
書き置きを残して旅に出た岡林信康が、
エレキ・ギターを持って「はっぴいえんど」をバックに復活するための舞台だった。
岡林を待望するファンは岡林以外のミュージシャン達に「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールを浴びせた。
一方で、よしだたくろうはサブステージでPAの故障でマイクが不能となる中、2時間強、
「人間なんて」ただ1曲だけを歌い続けた。
興奮した観客を鎮めようと、小室等と六文銭のリーダーである小室等は
「メインステージに行こう」と促したのだが、
これが狂気と化した群衆には「メインステージを占拠せよ!」と聞こえ火に油を注ぎ、
群衆はメインステージを破壊して占拠して主催者の吊るし上げと岡林批判のティーチ・インを始めたという。
岡林も散々だ、同情する。
‘72年、よしだたくろうは「結婚しようよ」「旅の宿」と大ヒットを飛ばし、
「天才バカボン」に登場するまでの大成功を収める。
よしだたくろうは、岡林と違ってアイドル性があった。「明星」とかにも出ていた。
本音は嫉妬だろうが、「コマーシャリズムに身を売った」と古いファンの反感も買った。
当時はショービジネスもまだ未熟で、1人で行うライブをリサイタルと呼び、
大抵は合同のコンサートや「唄の市」のようなフェスティバルが主流だった。
そこでたくろうは一斉に「帰れ!」コールを浴びせられた。
しかし、実際のよしだたくろうはそんな軟弱な男ではなく、大酒のみで喧嘩っぱやく弁も立つし生意気で、
豪傑でバンカラなイメージと理論武装した反体制の旗手のようなイメージと
自由な遊び人的なイメージが混じり合っていた。
そんな中、よしだたくろうは‘タイホ’された。
俗に言う、金沢事件。たくろうが公演先の金沢の喫茶店でファンと一緒に酒を呑み、
はじめは和気あいあいとしていたが、仕舞いには口論となり、
A君を殴り、B子さんを旅の宿で強姦したという罪状だ。
たくろうはA君を殴ったことは認めたが、B子さんを強姦したことは否定した。
当時のマスコミはもろびとこぞりて、たくろうを叩いた。
何故か、「月刊明星」だけは好意的だった。
人気のあるものがシクジリを起こすとここぞとばかりに攻撃し引きずり降ろそうとする。
持ち上げて落とす。
マスコミの機能は昔も今も変わらない。
結局、この事件はB子さん側が告訴を取り下げケリがついた。
どうやら、たくろうと知りあったことを仲間に吹聴してるうちに婚約者の耳にまで入ってしまい、
引っ込みがつかなくなったというのが真相のようだった。
たくろうの冤罪の訂正記事を出した週刊誌はほとんどない。
たくろうは雑誌のインタビューで、無罪でなくて不起訴というのが自分らしい。
無罪の‘無’は潔白なイメージだが、不起訴の‘不’は不良とか不道徳の‘不’だ、と笑った。
これが少年の心を掴まない訳がない。
僕は、よしだたくろうの虜になった。
LPレコードを全部揃えた。
エレック・レコードという今で云うインディーズの時代のものから、CBSソニーに移ってからのもの全て買った。
翌年の大晦日、
よしだたくろうは上下ジーンズの格好で森進一がレコード大賞をゲットした表彰の場に「襟裳岬」の作曲者として登場した。 歌謡曲がすごく権力を持ち「体制」だった時代にだ。
レコード大賞がほぼ全国民が視聴する国民的行事だった時代にだ。
たくろうは権威の前に世辞を使うのでもなく、挑発するのでもなく、ボイコットするのでもなく、
森進一と軽く挨拶を交わすと冷静に壇上に並んだ。かっこよかった。
その翌年には、たくろうは僕の兄が好きだったかぐや姫と一緒につま恋で野外オールナイトコンサートを決行した。
僕らはそのニュースに胸を躍らせた。
中学生と小学生の兄弟がフォークソングのオールナイト・コンサートに出かけられる訳がない。
僕らは想像力を駆使して、各々にレコードを聴いて妄想を膨らました。
ちなみに平仮名表記の「よしだたくろう」というクレジットはこのあたりまでで、
小室等・井上陽水・泉谷しげるらとおそらく本邦初となるミュージシャン自身で立ち上げたレコード会社
「フォーライフ・レコード」以降の作品は漢字表記の「吉田拓郎」というクレジットに変わった。
僕はそれから何年もの間、「よしだたくろう」や「吉田拓郎」ばかりを選んで聴いた。
全部の曲を録音状態と同じような節や発音で歌えたし、
すべての歌詞を歌詞カードと同じようにスペースを空けたり漢字や仮名の使い分けまで注意深く再生できた。
「今はまだ人生を語らず」や「明日に向かって走れ」や「ローリング30」が好きだった。
吉田拓郎の「オールナイト・ニッポン」や「セイ・ヤング」は毎回寝ないで聴き学校で寝て、
毎回テープに録音し次週まで繰り返し聴いた。
拓郎の生き様が好きだった。
だから、後年、KinKi kidsと共演する拓郎を観るのは辛かった。
昔からアイドルに楽曲提供したり、ラジオ番組のゲストにアイドルが来て軽口を交わすのは見慣れた光景だった。
しかし、往年の拓郎はトンガっていた。
それが、ほのぼのとした空気の中でKinKi Kidsにいじられてやりこめられて苦笑いをしている。
なんでKinKi Kidsなんだ?
話を戻すが、1979年、拓郎は篠島でアイランド・コンサートというオールナイト・イベントをやることになった。
「流星」というシングル曲が発売され、そのB面が「アイランド」だった。
あきらかに篠島のイベントを意識されて作られた曲で、
曲の終りに「人間なんてラ・ララ~ラ・ラララ・ラ~ラ」とコーラスがかぶってフェイド・アウトするのだ。 「続きは、篠島で!」と言われてるようだ。
毎日の生活にも気合が入る。
しかし、僕は篠島には行けなかった。
高校生の男子を、
何県にあるのかも答えられないような島で行われるオールナイト・コンサートへ行く許可を親が出さなかったのだ。
ま、妥当な判断だ。
篠島コンサートは、文化放送でぶっ通しで生放送されることになった。
「青春大通り」と「セイ・ヤング」の枠をつぶしたのだ。
僕は夕方からラジオの前に座った。
ラジカセの脇に交換用のカセットテープを積み上げて、聴きながら全部録音した。
深夜にさしかかった所で、ゲストが出演した。
さすがに拓郎にも休む時間が必要だ。
一人目のゲストは小室等だ。
今生きていることがどうしたこうした、という谷川俊太郎が書いたという詩に曲をつけ延々と歌い、
お馴染の「雨が空からふれば」をいつも以上に貯めて
「あ~の~ま~ち~ほぉ・わ~あ~め~のなか・っは~、こ~の~まっちぃ~も・っほぉ~あ~め~の・な・か・っは~」
と熱唱していた。
次に、出てきたのが長淵剛だった。
長淵はその頃、南こうせつのオールナイト・ニッポンで「つよしの裸一貫、ギターで勝負!」という
コーナーを持たせてもらっていたので、こうせつのオールナイトを毎週聞いていた僕は長淵の歌や、
長渕剛が拓郎のファンであることを知っていた。
女目線の生活感が滲み出た恋愛の歌が多かったが、気の良い隣のお兄ちゃんみたいな人だった。
長淵が登場するなり観客は「帰れ!帰れ!」とシュプレヒ・コールを送った。
拓郎のアイランド・コンサートに出るに相応しい覚悟があるのかという踏み絵的な意味と、
拓郎もそこを通って来たんだという洗礼的な意味合いと、
いい加減あきて来ちゃって早く拓郎に出て来て欲しいフラストレーションが、
拓郎の先輩に当る小室等にはさすがにぶつけられず、
丁度いい具合に気の弱そうな若者がしゃしゃり出てきたから、
小室等のつまらさの分もまとめてこいつでウサ晴らししようぜ(半笑い)
的な意味が入り混じっていたのではないか。
長淵剛は「俺は帰らない。ここで歌う」みたいことを言って自分の持ち時間を全うした。
これが後に武勇伝みたいに語られているが、
ラジオを通して聴く限りはそんなに大したハプニングでもなかった。
「帰れ!」コール自体がある意味‘パロディ’だったし、
お祭りの一環という認識は皆にあったし、
長淵のゲスト出演が決まった時点で「やっちゃおうか?」的なお約束はファンの間にあった。
だから、すごく優しさにも満ちていた。
通過儀礼みたいなものだ。然し、これがその後の大変な事件の引き金となったのだ。
長淵剛はこの件で男をあげ、オールナイト・ニッポン2部のパーソナリティーの座をゲットした。
このあたりで彼の守護霊が入れ替わったのではないかと僕は睨んでいるのだが、明らかに曲調が変わってきた。
最終的には皆さんもご存じのようにチンピラみたいになっていくのだが。
ある日、長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。
やはり同じような縁を使ったのだろう、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。
当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。
フランク永井だってしない。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。
番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。
只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に言葉は忘れたが「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。
そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。
深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。
その数ヶ月後に2人は結婚する。
真子はトップアイドルの座を捨て引退。
ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。
アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。
自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。
当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。
松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、
もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。 運も実力のうちか。
その位、石野真子のアイドルとしての可愛さと人気はズバ抜けていた。
石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。
真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と
自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。
司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。
泣き出す真子。
観ているこちらもつられて泣き出す。
「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。
締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに
「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」
という名言を残し、コマーシャル。
僕は涙が止まらなかった。
ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と
読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で
本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。
涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。
数日は放心状態。
もうテレビは見なかった。
心配した友人が「早く立直るには誰か別の人を好きになることだ」とアドバイスしてくれた。
とりあえず、「好~き~、スキ・スキ・スキ~、すき通った~光の中~で~」と
コルゲントローチのCMソングを振りつきで歌っていた柏原よしえのファンに転向することにした。
柏原よしえというのも不思議な人だった。
この人も途中で守護霊が入れ替わったんじゃないかと思った。
はじめは可憐で昔のアイドルの歌をカバーして懐古趣味を煽ったかに見えたが、
ちょっと目を離した隙に「よしえ」が「芳恵」になっていて、
さらに油断していたらセクシー路線というか魔性の女みたいなっていた。
豹変といえば豹変なのだが僕には野蛮にしか見えなかった。
何を言いたいかというと、
失恋したからといって別の人で埋め合わせようとしてもうまくゆくとは限らない、という教訓である。
こないだノートの整理をしていたら、宛先のない1通の手紙が出てきた。
中を見てみると、僕の字で恋文が書かれていた。
よしだたくろうの「プロポーズ」という歌の詩がまんま引用されている。
「プロポーズ」は『よしだたくろう オン・ステージ第2集』というエレック・レコード時代のLPの中で、
ナイーブな詞と印象的なメロディーの「静」という初期たくろう作品の中でも名曲と誉れ高い代表作の直前に朗読された詩である。
エレック時代のLPは後にフォーライフから復刻発売されているが、
何故かこの『オン・ステージ第2集』だけは復刻されなかった。
幻のLPだから出所がわからないとふんでパクったのだろうが、
このラブレターは誰かに向けて書いたのは間違いない。
それが誰かは思い出せない。
高1か高2だ。
男子校だったから女の子との接点は少ない。
ひょっとしたら恋に恋をしていて、誰か好きな子が出来た時のためにあらかじめ書いたラブレターで、
投函されないまま机の引き出しの奥に眠っていて、結局書いたことさえ忘れていたのかもしれない。
時代は、サザン・オールスターズがデビューした頃で友人は
「ビリー・ジョエル」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」とか「スティービー・ワンダー」とかを
聴いていた頃である。
こんな詩である。
『 僕の目の中の片隅の とても美しくとってある風景と さみしすぎる素直さ 幾日も幾日も陽が射した 唄のねと およそ争いを嫌う腕 飾られそうになるとつむぐ言葉と 鍛えられるのを嫌う 柔らかい筋肉 めぐらしてもめぐらしても 元に戻ってくる未来へ それから夕暮れにおいてきた優しい言葉の全てを 君に贈ります 』
「吉田拓郎/挽歌を撃て」という本を、約30年ぶりに書棚からとって読んでみた。
80年に発行された本だ。
「金沢事件」に関して面白い箇所があったので抜粋して引用する。
『金沢事件にはっきりとした決着をつけるとしたら、逆告訴するということしかなかった。
当然ともいえる拓郎側からの逆告訴を阻んだのは、拓郎の母の言葉だった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」。
B子さんはまもなく結婚するという話であった。
母は我が子の冤罪を晴らすことより、むしろ加害者である娘の幸せを願った。
拓郎の父は鹿児島県史の編纂者であった。
鹿児島県谷山町で育った拓郎は、小学3年になる時に広島市に移る。
母が盲学校の栄養士兼お茶の先生として働くことになり、
兄、姉、拓郎は母方に引き取られることになったのである。
朝鮮からの引揚者だった吉田家は、父の勤務した鹿児島県庁の給料だけでは家計的に苦しかった。
西郷隆盛の流れを汲む父は一徹者で、朝鮮戦争の特需景気に便乗するような器用な真似も出来ず、
ただひたすら我が運命のように鹿児島県史の研究に没頭していた。 父は以降、たった一人の生活で研究に明け暮れる。
昭和48年1月10日、父は深夜執筆中に突然脳卒中で帰らぬ人となった。
死の直前まで机に向かっていたという壮絶な死であった。
拓郎は父は本望だったろうと思った。
母にしてみれば、‘家庭人’としての父と、晩年は共に暮らしてみてもみたかっただろう。
その悔いが、父の死から4カ月後に起こった息子の金沢事件への干渉となった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」母はくりかえし言った。
拓郎はうなずくと、弁護士に電話をかけた。
「逆告訴を取り下げます……」』。
BGM. よしだたくろう「結婚しようよ」