結婚しようよ

17/Ⅵ.(木)2010 快晴、梅雨?
僕が初めて吉田拓郎を知ったのは、赤塚不二夫の「天才バカボン」だった。
長髪に上下ジーンズでギターを持った若者は、
自身の作った歌だけでは食べていけず常に空腹で食べ物をみると飛びついた。
その名を、めしだたかろう、と云う。
当時、「結婚しようよ」を大ヒットさせフォークソングのブームを作った「よしだたくろう」のパロディであった。
とは言え、小学生の僕にはテレビの出演拒否をするフォークシンガーを知る機会はなく、
このマンガで、どうやら「よしだたくろう」という人が流行っているらしいと知る。
幸い僕には4つ年上の兄がいて彼が「南こうせつとかぐや姫」のファンだったから、
「ヤングセンス」とか「guts」などと言う音楽雑誌が家にあった。
それで、よしだたくろうという人間に注目した。
拓郎が一躍、スターダムにのし上がったのは‘71年8月の「第3回中津川フォーク・ジャンボリー」だという。
反体制シンガーとして「フォークの神様」に祭り上げらたが疲れ果ててしまい「もう歌えない」と
書き置きを残して旅に出た岡林信康が、
エレキ・ギターを持って「はっぴいえんど」をバックに復活するための舞台だった。
岡林を待望するファンは岡林以外のミュージシャン達に「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールを浴びせた。
一方で、よしだたくろうはサブステージでPAの故障でマイクが不能となる中、2時間強、
「人間なんて」ただ1曲だけを歌い続けた。
興奮した観客を鎮めようと、小室等と六文銭のリーダーである小室等は
「メインステージに行こう」と促したのだが、
これが狂気と化した群衆には「メインステージを占拠せよ!」と聞こえ火に油を注ぎ、
群衆はメインステージを破壊して占拠して主催者の吊るし上げと岡林批判のティーチ・インを始めたという。
岡林も散々だ、同情する。
‘72年、よしだたくろうは「結婚しようよ」「旅の宿」と大ヒットを飛ばし、
「天才バカボン」に登場するまでの大成功を収める。
よしだたくろうは、岡林と違ってアイドル性があった。「明星」とかにも出ていた。
本音は嫉妬だろうが、「コマーシャリズムに身を売った」と古いファンの反感も買った。
当時はショービジネスもまだ未熟で、1人で行うライブをリサイタルと呼び、
大抵は合同のコンサートや「唄の市」のようなフェスティバルが主流だった。
そこでたくろうは一斉に「帰れ!」コールを浴びせられた。
しかし、実際のよしだたくろうはそんな軟弱な男ではなく、大酒のみで喧嘩っぱやく弁も立つし生意気で、
豪傑でバンカラなイメージと理論武装した反体制の旗手のようなイメージと
自由な遊び人的なイメージが混じり合っていた。
そんな中、よしだたくろうは‘タイホ’された。
俗に言う、金沢事件。たくろうが公演先の金沢の喫茶店でファンと一緒に酒を呑み、
はじめは和気あいあいとしていたが、仕舞いには口論となり、
A君を殴り、B子さんを旅の宿で強姦したという罪状だ。
たくろうはA君を殴ったことは認めたが、B子さんを強姦したことは否定した。
当時のマスコミはもろびとこぞりて、たくろうを叩いた。
何故か、「月刊明星」だけは好意的だった。
人気のあるものがシクジリを起こすとここぞとばかりに攻撃し引きずり降ろそうとする。
持ち上げて落とす。
マスコミの機能は昔も今も変わらない。
結局、この事件はB子さん側が告訴を取り下げケリがついた。
どうやら、たくろうと知りあったことを仲間に吹聴してるうちに婚約者の耳にまで入ってしまい、
引っ込みがつかなくなったというのが真相のようだった。
たくろうの冤罪の訂正記事を出した週刊誌はほとんどない。
たくろうは雑誌のインタビューで、無罪でなくて不起訴というのが自分らしい。
無罪の‘無’は潔白なイメージだが、不起訴の‘不’は不良とか不道徳の‘不’だ、と笑った。
これが少年の心を掴まない訳がない。
僕は、よしだたくろうの虜になった。
LPレコードを全部揃えた。
エレック・レコードという今で云うインディーズの時代のものから、CBSソニーに移ってからのもの全て買った。
翌年の大晦日、
よしだたくろうは上下ジーンズの格好で森進一がレコード大賞をゲットした表彰の場に「襟裳岬」の作曲者として登場した。                   歌謡曲がすごく権力を持ち「体制」だった時代にだ。
レコード大賞がほぼ全国民が視聴する国民的行事だった時代にだ。
たくろうは権威の前に世辞を使うのでもなく、挑発するのでもなく、ボイコットするのでもなく、
森進一と軽く挨拶を交わすと冷静に壇上に並んだ。かっこよかった。
その翌年には、たくろうは僕の兄が好きだったかぐや姫と一緒につま恋で野外オールナイトコンサートを決行した。
僕らはそのニュースに胸を躍らせた。
中学生と小学生の兄弟がフォークソングのオールナイト・コンサートに出かけられる訳がない。
僕らは想像力を駆使して、各々にレコードを聴いて妄想を膨らました。
ちなみに平仮名表記の「よしだたくろう」というクレジットはこのあたりまでで、
小室等・井上陽水・泉谷しげるらとおそらく本邦初となるミュージシャン自身で立ち上げたレコード会社
「フォーライフ・レコード」以降の作品は漢字表記の「吉田拓郎」というクレジットに変わった。
僕はそれから何年もの間、「よしだたくろう」や「吉田拓郎」ばかりを選んで聴いた。
全部の曲を録音状態と同じような節や発音で歌えたし、
すべての歌詞を歌詞カードと同じようにスペースを空けたり漢字や仮名の使い分けまで注意深く再生できた。
「今はまだ人生を語らず」や「明日に向かって走れ」や「ローリング30」が好きだった。
吉田拓郎の「オールナイト・ニッポン」や「セイ・ヤング」は毎回寝ないで聴き学校で寝て、
毎回テープに録音し次週まで繰り返し聴いた。
拓郎の生き様が好きだった。
だから、後年、KinKi kidsと共演する拓郎を観るのは辛かった。
昔からアイドルに楽曲提供したり、ラジオ番組のゲストにアイドルが来て軽口を交わすのは見慣れた光景だった。
しかし、往年の拓郎はトンガっていた。
それが、ほのぼのとした空気の中でKinKi Kidsにいじられてやりこめられて苦笑いをしている。
なんでKinKi Kidsなんだ?
話を戻すが、1979年、拓郎は篠島でアイランド・コンサートというオールナイト・イベントをやることになった。
「流星」というシングル曲が発売され、そのB面が「アイランド」だった。
あきらかに篠島のイベントを意識されて作られた曲で、
曲の終りに「人間なんてラ・ララ~ラ・ラララ・ラ~ラ」とコーラスがかぶってフェイド・アウトするのだ。                                  「続きは、篠島で!」と言われてるようだ。
毎日の生活にも気合が入る。
しかし、僕は篠島には行けなかった。
高校生の男子を、
何県にあるのかも答えられないような島で行われるオールナイト・コンサートへ行く許可を親が出さなかったのだ。
ま、妥当な判断だ。
篠島コンサートは、文化放送でぶっ通しで生放送されることになった。
「青春大通り」と「セイ・ヤング」の枠をつぶしたのだ。
僕は夕方からラジオの前に座った。
ラジカセの脇に交換用のカセットテープを積み上げて、聴きながら全部録音した。
深夜にさしかかった所で、ゲストが出演した。
さすがに拓郎にも休む時間が必要だ。
一人目のゲストは小室等だ。
今生きていることがどうしたこうした、という谷川俊太郎が書いたという詩に曲をつけ延々と歌い、
お馴染の「雨が空からふれば」をいつも以上に貯めて
「あ~の~ま~ち~ほぉ・わ~あ~め~のなか・っは~、こ~の~まっちぃ~も・っほぉ~あ~め~の・な・か・っは~」
と熱唱していた。
次に、出てきたのが長淵剛だった。
長淵はその頃、南こうせつのオールナイト・ニッポンで「つよしの裸一貫、ギターで勝負!」という
コーナーを持たせてもらっていたので、こうせつのオールナイトを毎週聞いていた僕は長淵の歌や、
長渕剛が拓郎のファンであることを知っていた。
女目線の生活感が滲み出た恋愛の歌が多かったが、気の良い隣のお兄ちゃんみたいな人だった。
長淵が登場するなり観客は「帰れ!帰れ!」とシュプレヒ・コールを送った。
拓郎のアイランド・コンサートに出るに相応しい覚悟があるのかという踏み絵的な意味と、
拓郎もそこを通って来たんだという洗礼的な意味合いと、
いい加減あきて来ちゃって早く拓郎に出て来て欲しいフラストレーションが、
拓郎の先輩に当る小室等にはさすがにぶつけられず、
丁度いい具合に気の弱そうな若者がしゃしゃり出てきたから、
小室等のつまらさの分もまとめてこいつでウサ晴らししようぜ(半笑い)
的な意味が入り混じっていたのではないか。
長淵剛は「俺は帰らない。ここで歌う」みたいことを言って自分の持ち時間を全うした。
これが後に武勇伝みたいに語られているが、
ラジオを通して聴く限りはそんなに大したハプニングでもなかった。
「帰れ!」コール自体がある意味‘パロディ’だったし、
お祭りの一環という認識は皆にあったし、
長淵のゲスト出演が決まった時点で「やっちゃおうか?」的なお約束はファンの間にあった。
だから、すごく優しさにも満ちていた。
通過儀礼みたいなものだ。然し、これがその後の大変な事件の引き金となったのだ。
長淵剛はこの件で男をあげ、オールナイト・ニッポン2部のパーソナリティーの座をゲットした。
このあたりで彼の守護霊が入れ替わったのではないかと僕は睨んでいるのだが、明らかに曲調が変わってきた。
最終的には皆さんもご存じのようにチンピラみたいになっていくのだが。
ある日、長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。
やはり同じような縁を使ったのだろう、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。
当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。
フランク永井だってしない。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。
番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。
只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に言葉は忘れたが「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。
そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。
深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。
その数ヶ月後に2人は結婚する。
真子はトップアイドルの座を捨て引退。
ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。
アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。
自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。
当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。
松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、
もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。                                          運も実力のうちか。
その位、石野真子のアイドルとしての可愛さと人気はズバ抜けていた。
石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。
真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と
自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。
司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。
泣き出す真子。
観ているこちらもつられて泣き出す。
「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。
締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに
「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」
という名言を残し、コマーシャル。
僕は涙が止まらなかった。
ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と
読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で
本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。
涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。
数日は放心状態。
もうテレビは見なかった。
心配した友人が「早く立直るには誰か別の人を好きになることだ」とアドバイスしてくれた。
とりあえず、「好~き~、スキ・スキ・スキ~、すき通った~光の中~で~」と
コルゲントローチのCMソングを振りつきで歌っていた柏原よしえのファンに転向することにした。
柏原よしえというのも不思議な人だった。
この人も途中で守護霊が入れ替わったんじゃないかと思った。
はじめは可憐で昔のアイドルの歌をカバーして懐古趣味を煽ったかに見えたが、
ちょっと目を離した隙に「よしえ」が「芳恵」になっていて、
さらに油断していたらセクシー路線というか魔性の女みたいなっていた。
豹変といえば豹変なのだが僕には野蛮にしか見えなかった。
何を言いたいかというと、
失恋したからといって別の人で埋め合わせようとしてもうまくゆくとは限らない、という教訓である。
こないだノートの整理をしていたら、宛先のない1通の手紙が出てきた。
中を見てみると、僕の字で恋文が書かれていた。
よしだたくろうの「プロポーズ」という歌の詩がまんま引用されている。
「プロポーズ」は『よしだたくろう オン・ステージ第2集』というエレック・レコード時代のLPの中で、
ナイーブな詞と印象的なメロディーの「静」という初期たくろう作品の中でも名曲と誉れ高い代表作の直前に朗読された詩である。
エレック時代のLPは後にフォーライフから復刻発売されているが、
何故かこの『オン・ステージ第2集』だけは復刻されなかった。
幻のLPだから出所がわからないとふんでパクったのだろうが、
このラブレターは誰かに向けて書いたのは間違いない。
それが誰かは思い出せない。
高1か高2だ。
男子校だったから女の子との接点は少ない。
ひょっとしたら恋に恋をしていて、誰か好きな子が出来た時のためにあらかじめ書いたラブレターで、
投函されないまま机の引き出しの奥に眠っていて、結局書いたことさえ忘れていたのかもしれない。
時代は、サザン・オールスターズがデビューした頃で友人は
「ビリー・ジョエル」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」とか「スティービー・ワンダー」とかを
聴いていた頃である。
こんな詩である。

 『 僕の目の中の片隅の   とても美しくとってある風景と  さみしすぎる素直さ  幾日も幾日も陽が射した 唄のねと         およそ争いを嫌う腕  飾られそうになるとつむぐ言葉と   鍛えられるのを嫌う  柔らかい筋肉   めぐらしてもめぐらしても  元に戻ってくる未来へ それから夕暮れにおいてきた優しい言葉の全てを  君に贈ります 』

「吉田拓郎/挽歌を撃て」という本を、約30年ぶりに書棚からとって読んでみた。
80年に発行された本だ。
「金沢事件」に関して面白い箇所があったので抜粋して引用する。
 『金沢事件にはっきりとした決着をつけるとしたら、逆告訴するということしかなかった。
当然ともいえる拓郎側からの逆告訴を阻んだのは、拓郎の母の言葉だった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」。
B子さんはまもなく結婚するという話であった。
母は我が子の冤罪を晴らすことより、むしろ加害者である娘の幸せを願った。
拓郎の父は鹿児島県史の編纂者であった。
鹿児島県谷山町で育った拓郎は、小学3年になる時に広島市に移る。
母が盲学校の栄養士兼お茶の先生として働くことになり、
兄、姉、拓郎は母方に引き取られることになったのである。
朝鮮からの引揚者だった吉田家は、父の勤務した鹿児島県庁の給料だけでは家計的に苦しかった。
西郷隆盛の流れを汲む父は一徹者で、朝鮮戦争の特需景気に便乗するような器用な真似も出来ず、
ただひたすら我が運命のように鹿児島県史の研究に没頭していた。                                                    父は以降、たった一人の生活で研究に明け暮れる。
昭和48年1月10日、父は深夜執筆中に突然脳卒中で帰らぬ人となった。
死の直前まで机に向かっていたという壮絶な死であった。
拓郎は父は本望だったろうと思った。
母にしてみれば、‘家庭人’としての父と、晩年は共に暮らしてみてもみたかっただろう。
その悔いが、父の死から4カ月後に起こった息子の金沢事件への干渉となった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」母はくりかえし言った。
拓郎はうなずくと、弁護士に電話をかけた。
「逆告訴を取り下げます……」』。

BGM. よしだたくろう「結婚しようよ」


TVの国からキラキラ

16/Ⅵ.(水) 雨のウェンズデイ
最近みた夢。
◎ダウンタウンの浜ちゃんと松ちゃんが、僕をプールに落とそうと画策している。
番組の企画か?親しみを込めたおふざけか?
◎石野真子がCM女王に返り咲いた。
◎中山美穂が「ラブラブ電報をもらって嬉しい!」とCMに出ている。
懸賞は、テレフォン・カード。
◎三河屋温泉に泊まる。
どのチャンネルをまわしてもテレビは「忍者ハットリくん」しかやっていない。
BGM.  田原俊彦「ハッとして!Good」


W杯勝利記念 『作戦勝ち』

15/Ⅵ.(火)2010 はれ
僕はまったくサッカーを見ないが、さすがに日本がカメルーンに勝ったというニュースは見た。
戦術やゴールがどのくらいスゴいのかはわからないが、詳しい人に聞くと「作戦勝ち」らしい。
作戦にも色々あろうが、圧倒的な兵力の差がある相手と戦う時に有効なのは頭脳戦である。
おそらく頭脳戦とは、
①心理的な罠を仕掛け
②精神的に苛立たせ
③相手の持ち味を封じ込め
④攻撃を空回りさせ
⑤動きが雑になったところを仕留める、クレバーな兵法である。
かつて僕は、頭脳戦のお手本みたいな試合を観たことがある。
それは、ジャイアント馬場vsスタン・ハンセンの一戦だ。
全盛期を過ぎた馬場は勢いに乗るハンセンに破れPWF世界ヘビー級ベルトを奪われた。
リターン・マッチが組まれたが、もう誰も馬場が勝つとは思わなかった。
しかし、馬場はここでハンセンにものすごい頭脳戦を仕掛けたのだ。
タイトルマッチが決まった日から、報道陣に「次の試合に秘策がある。
ハンセンがウエスタン・ラリアートを仕掛けて来た時に‘16文ラリアート’を打つ」と言うのだ。
それを伝え聞いたハンセンは慌てた。
「ナニ?‘16文ラリアート’だと?16文は馬場の足のサイズだろ?ラリアートは腕を使う技だ。
どうやってやるんだ?そもそもラリアートは俺様の得意技だ!」と激高し、記者たちに八つ当たりした。
ジャイアント馬場は余裕しゃくしゃくに
「ま、当日を楽しみにしてよ」と太い葉巻を吹かし、記者たちの質問を煙に巻いた。
ハンセンのイライラがピークに達した頃、決戦の火蓋は落とされた。
普段のスタン・ハンセンの試合ではなかった。
いつものハンセンらしい破壊力が陰をひそめた。
‘16文ラリアート’を恐れるばかりに踏み込んだ攻撃ができないからだ。
その為、馬場に決定的なダメージを与えられないのだ。
一進一退の攻防の中、正直ここまで馬場が善戦するとは思わなかった、
不用意に飛び込んだハンセンをクルっと馬場が「小包固め」に丸め込んで3カウントを奪って勝利した。
「小包固め」とは、
相手の首に自分の腕を巻きそのまま自分の足を相手の足にひっかけクルっと前転させエビに固めるセコイ技である。
馬場は勝利者インタビューで、「16文ラリアート?そんなモン無いよ。16文は足のサイズ、ラリアートは腕を使う技。
出来る訳ないだろう」と笑い飛ばした。
ハンセンは‘16文ラリアート’という亡霊に負けたのである。
馬場の談話を伝え聞いたスタン・ハンセンは「ガッデム!」と悔しがったという。
お昼に、徳田さんからトゥーリオが日本に来て仲間と溶け込むまでの苦労話と
トゥーリオは実は日本に帰化していて「〇〇〇」という漢字の名前であることを聞いた。
「〇〇〇」は覚えていない。
そう言われて思い出したのだが、
沢村栄治と並ぶ戦前の巨人軍のエースだったスタルヒンは戦時中は
「須田博」という漢字の名前にしたそうな。
BGM. ザ・プラターズ「16トン」


キース・ムーン☽

14/Ⅵ.(月)2010 雨がしとしと
「鳥」からキース・ムーンの生涯を映画化するという噂を聞いた。
キース・ムーンはザ・フーのドラマーで「奇人」「壊し屋」としても有名。
あるパーティーの会場でキース・ムーンの姿を見かけたミック・ジャガーは、
慌てて逃げ帰ったという話が有名である。
「けいおん!!」の3話目くらいで、ドラムの田井中律がスランプに陥った。
理由は、ドラムはスポットライトが当たらない目立たない存在であるからだった。
楽器を代えようかと、ギターやキーボードにも挑戦した。
しかし、律ちゃんは中学時分に好きだったザ・フーのビデオを夜通し観て、自分にはドラムしかない、
キース・ムーンに憧れてドラムを始めたのだ、という初心を思い出し立ち直るという、ちょっといい話だった。
でも、律ちゃん、キース・ムーン好きだったんだぁ。
田井中律はもう高3である。
律ちゃんの一個下の学年にあたる「鳥」は、動画サイトでディズニーの「ピーターパン」を観ていたら、
キース・ムーンに似ているな、と思って興味を持ち色々調べたという。
16歳は勉強盛りだ。彼から聞いた逸話で面白いものを紹介しよう。
題して『~キース・ムーン 奇才ドラマー~』。
①自宅からわずか500m先のパブに行くのにもヘリを飛ばしていった。
②ホテルのロビーに車ごと突っ込んでフロントに一言「キーをくれ」。
③オランダのユダヤ人街でロンメル将軍のコスプレをする為にナチスの制服を着て闊歩し、殺されかけた。
④スティーブ・マックイーンは、隣に住んでいたキース・ムーンが夜中にジャンプ台を使ってモトクロスで爆撃してくるので、塀を高く作り直した。すると何故かキースは自分の家側の塀をそれよりも高く作り直した。
⑤オノ・ヨーコのスカートをまくりあげた。
⑥自宅のプールにロールスロイスを沈める。
⑦自宅の門を入るとすぐプールになっていて、知らずに車で入ってきた友人はそのまま水没した。
⑧奇抜な格好でレストランに入ろうとして追い出されると、その店を買い取って自分を追い出した店員をクビにした。
⑨「自分が死んだ」と嘘の電話をメンバーや仲間にメイドを使って電話をかけさせ、あわてて駆けつけた知人が来ると死んだふりをした。実際、本当に死んでしまった時、ザ・フーのメンバーはキース・ムーンの親まで葬式に来てるのを見て「マジなのか?いや棺桶を突き破って出てくるに違いない」と思っていたそうだ。
キース・ムーンは、
1978年、ポール・マッカートニーのパーティーでいつものように羽目を外し、
オーバードラッグ&大酒を呑み、翌朝自宅のベッドで冷たくなっているのを婚約者に発見された。
享年、32歳だった。
BGM. 河合奈保子「ムーンライト・キッス」


ヰタ・セクスアリス2

13/Ⅵ.(日)2010 はれ
学生時代に出席番号の近かった友人が、
奥さんに浮気がバレばい秘訣とは「嘘に事実を少し混ぜて喋ることだ」と自慢していたのを何故か思い出した。
彼の説によると、
「人間は嘘をつくと表情に出る。
だから、本当のエピソードを少し挿入すれば、事実を話す時には表情に変化が出ないから、‘
相対的に’表情の変化が薄まり、嘘がバレにくくなるのだ」と言う。
なるほどと感心したが、数年後に彼は離婚していた。
僕に初恋というものがあるなら、小学校の時のクラスメートの娘だろう。
彼女は当時流行っていたテレビの魔法少女に似た名前で、広い松林のすぐ脇に住んでいた。
彼女の家に遊びに行くと、彼女は親に見つからないように僕を押入れの中に誘い、
押入れの上の段の狭く暗い空間に2人並んでしゃがむと、
息を殺し頃合を見計らっては僕の手をギュっと黙って握るのだった。妙にドキドキした。
これは顕かに‘悪い’ことだった。
なぜなら彼女が母親に
「まさか押し入れに入っていないでしょうね?」と咎められてるのを見たことがあるからだ。
彼女は平然と「入ってないわ」と嘘をついていた。
魔女っ子だ。
彼女の家では犬を飼っていて、彼女は
「犬は嘘をつくと目が動くのよ。人間も同じだと思うの。
だから、私はお母さんに何か聞かれても、じっと目を動かさないようにしているの」と告白した。
僕らは何度も押入れに入ったが、この方法でついに一回もバレなかった。
ある日、いつものように押入れの上の段に並んで座り、いつもは彼女が手を握ってくるのを待つのだが、
はじめて僕から手を握ってみた。
すると彼女は怒って「駄目!手は、私から握るの!」と手を振りほどいた。
僕は「女って、勝手だなぁ」と呆れて、それ以来、彼女の家に寄るのを止めた。
次第に僕らは疎遠になり、僕の初恋は自然消滅した。
上に紹介した2つのツールは結構、実用的だと思う。
もし、やむなく嘘をつかなければならない時にお役に立てば幸いである。
BGM. 憂歌団「嘘は罪」


ヰタ・セクスアリス

13/Ⅵ.(日)2010 はれ
山口百恵の『百恵白書』というLPに「いた・せくすありす」という曲がある。 
『百恵白書』は、全曲宇崎竜童作曲・阿木耀子作詞の当時のアイドルのLPとしては異例の、
シングルカット曲なし、というトータル・アルバムだった。トータル・アルバムなんて言い方も古いが、
要は一つのコンセプトを持った作品集という意味だ。
フィル・スペクターの「クリスマス・アルバム」や、
ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」、
ビートルズの「サージェント・ペパーズ」などが代表と言えば理解るだろうか。 
当時の歌謡界はシングル・レコードに重きを置いていて、
特にアイドルのLPなんてシングルが溜まったらベスト・アルバムみたいにして出すか、
洋楽や人の歌を歌う(カバーなどという概念はない)手抜き感が満載だった。
ポール・モーリアの曲に適当な歌詞をつけて歌っている人もいた。天地真理だ。持ってる。
話を戻す。
日本の歌謡曲でトータル・アルバムと言ったら、
フォークルの「紀元弐阡年」とタイガースの「ヒューマン・ルネッサンス」くらいではないか。
フォークルは歌謡曲じゃないか。そんな中、『百恵白書』は突然変異みたいにポンと世に出た。
帯には、
「このアルバムは私の分身、この中に18歳の、そう制服をぬいだわたしのすべてが入っています」と書いてあったが、
その煽情的な文句でさえが生ぬるく感じた、その内容は赤裸々で中学生だった僕には衝撃的だった。
まさに‘赤い衝撃’だ。
僕は薄幸そうな百恵のファンで、かねてから百恵が「私」という言葉を「アタシ」と発言するのがアバズレみたいで好きだったが、
『百恵白書』は何もそこまでお話していただかなくてもけっこうなのでございますが…、という「重さ」があった。
山口百恵は、まだ中3トリオの一番地味な子、っていう括りからやっと抜けたかどうかが僕のイメージだった。
ここから山口百恵は大きく軌道を修正して‘神話’や‘伝説’というおかしな方向に進むのだが、
『百恵白書』はその第一歩みたいなもので、僕は悪い予感がしたんだ。
このアルバムの中には、ファイナル・コンサートの異様なクライマックスで迎えるラストの
「さよならの向こう側」の前に歌われた「歌い継がれてゆく歌のように」が収録されていて、
この曲も名曲なのは判るが、初めて聴いた時、何か得体のしれない不安が脳裏をよぎったんだよなぁ。
山口百恵、守護霊、入れ替わったか?と少しマジで思ったりした、友達には言わなかったけど。
中でも一番、食あたりしたのは「いた・せくすありす」という、A面の3曲目の歌だ。
やっと、書き出しと繋がった。
タイトルは森鴎外の性欲史みたいな小説をモジったことからもわかるよに、
百恵の性的なことに関する告白みたいなものが録音されていた。 
あの下品な鶴光のオールナイト・ニッポンよりも、聴いてるところを母親に聞かれたくなかった。
後にも先にもない。畑中葉子の「後から前から」の方がまだマシだ。何を言ってるんだ?
今、あらためて歌詞を見ると別に大したことは書いてないのである。
その後の百恵を知っているから驚愕しないのか、感性が鈍ったか、これを成長と言うのか、
これを老いというのか。
しかし、あらためて聴く勇気はない。
BGM. 西城秀樹「勇気があれば」


徳田先生の思ひ出

13/Ⅵ.(日)2010 ハレ晴れ
行きつけの美容院の美容師さんが腰椎ヘルニアになって、
しばらくお休みすると電話があった。
早く良くなって下さい。
10年くらい昔、髪の毛を青色に染めた時、絵画療法の大御所である徳田良仁先生にものすごく感心されたことがある。
「素晴らしい青だ!まさに青春の青だ。それは若者の哀しみを表現する青だ。ムンクの愛した青だ!」
と髪の毛を色んな角度から見られてベタ褒めされた。
食堂中に響き渡る声だった。
恥ずかしいから、やめて欲しかった。
世間では「ホメ殺し」という言葉が流行っていた。
当時、徳田良仁先生は僕の勤める病院の副院長でもあられたから、新手の風紀指導かとも疑った。
ちなみにウチの心理の徳田さんは、
たまに「娘さんですか?」と聞かれることがあるらしいが、血縁関係にはないらしい。
徳田、豆情報でした。
BGM. 杉本哲太「青くてごめん」


夏まで乗り切れ!お疲れサマーの会

12/Ⅵ.(土)2010 はれ
クリニックのお疲れ様会をやる。
こないだと同じ店。
前回我々が指摘したメニューの、
「カ」が抜けて「カマンベール」が「マンベール」になっていた箇所は
手書きで「カ」の字が書き足され修正されていた。
その「カ」の字だが、きっと芯の強いボールペンで筆圧の強い人間が力を込めて書いたのだろう、
心が逸ったか、右上方から左下方に流れる線の勢いが付き過ぎ、
結果「カ」の字の、上に突き出る部分が不十分となり「刀」という字に見えた。
刀マンベール、である。
恐ろしい。
実は親切心で教えたことが逆恨みされ、
バカにされたと勘違いし腹を立てた献立係に背後から刀で斬り付けられるのではないか…
と一同恐怖に怯えた…。うそ。
そのお店には、大きな水槽がありグッピーなどが泳いでいた。
一般的に居酒屋では、活きの良さをアピールしたりその視覚的効果から食欲を煽るために
食材となるべき魚介類を泳がせることが多いと思うのだが、100パー観賞用だった。
ちなみにメニューにグッピー料理はなかった。
昨日の東スポ社会面に、
いけすの掃除の仕方をたびたび怒られていた北海道函館市の34歳の男が
腹を立て報復にいけすに洗剤を入れイカやカニやホタテやアワビなどを全滅させ器物破損の疑いで逮捕された、
という記事が載っていた。
人を雇うのは大変だ。そういう話か?
ワインを飲みすぎた。二日酔いで頭痛が痛い。
BGM. 岩崎宏美「熱帯魚」


しみじみとした会話

11/Ⅵ.(金)2010 はれ
その店の常連は‘70年代を超えられない男で、僕のことを‘センセー’と呼ぶ。
「センセーは森山良子を聞きますか?」
「センセーは唱歌は何が好きですか?」
「センセーは東横線の古い車両に乗ったことはありますか?」
「センセーは子守唄はどんなのが好きですか?お母さんに歌ってもらいましたか?」
質問攻めである。
僕は思い出せなかった。
子守唄?
誰も歌ってくれなかったのでは…などと急に不安で胸がいっぱいになり、 
<あなたはそういう記憶はありますか?>と訊き返した。
すると彼にあっさり
「そんな小さい頃の記憶、ある訳ないじゃないですか!」と呆れられた。
なんでだろう、理不尽なのにホッとした。
子供時分、茅ヶ崎の「ナンデモ屋」のちょっと先に大きな木があって、そこがカラスの巣だ、
と意地の悪いお手伝いさんに教えられ怖くなった思い出がある。
BGM. はしだのりひことシューベルツ「さすらい人の子守唄」


ゴマスリ行進曲

10/Ⅵ.(木)2010 はれ
突然、何の前ぶれもなく僕の部屋に植木等がやってきた。
僕はディスコグラフィーをめくりながら、
と軽い気持ちで聞いてみると、
何と!
その場で僕一人のために植木等が「ゴマスリ行進曲」を大熱演で歌ってくれたのだ。
映画『日本一のゴマスリ男』のテーマ曲だ。
クレージーの曲は劇中歌でさえ全曲知ってるつもりだったが、
この曲だけは細かい部分の歌詞がうる覚えでせっかく目の前で植木等が歌ってくれるのに
一緒に口ずさめないのはファン失格か…。
一瞬、そう思ったがそんなことは小さい小さい、現に目の前で僕のためだけに植木等が歌ってくれている、
この幸せな瞬間だけでいいじゃないか、と心底思った。
植木はまるでチャップリンのようなイデタチでシルクハットに付け髭をつけ、手拍子を、
♪パン!パン!パン!パパ~ン・パン!♪、
と打ちながら部屋にいっぱいの風船をアグレッシブに蹴りながら体全体で「ゴマスリ行進曲」を歌ってくれた。
僕はナンって幸せなんだろう~。
そんな夢を見た。
先日、爆笑レッド・カーペットで、
「みなさん、こんにちわ。浅倉南~、39才です。アハハハ~。
こないだ『イヤッーホー!』という自分の声で目が覚めたの~。
なんの夢を見ていたのか思い出せないけど~。
夢の世界に戻りたい!
飲むユンケルの値段が~ドンドン高くなる~!OK~!」という、
いとうあさこのリボンの演技にシンパシーを感じた。
BGM. ハナ肇とクレージー・キャッツ「ゴマスリ行進曲」