今回はなごみの記事にしました

26/Ⅹ.(木)2023 はれ 踏み活ってなんだ?

 

最近は、宗教やホストなどがお金を搾取するため、借金をさせたり風俗で女性を働かせるなどの社会問題に目を向けてきた。残りは、パチンコだ。ギャンブル依存で自己破産する人も少なくない。なんとかしたい借金問題の3本柱が、宗教・ホスト・パチンコだ。パチンコは、ひろゆきがネットで発言してるから、パチンコと「のんちゃん、本名使えない」問題は、ひろゆきに任せて、今日は和ネタ。あっ、そう言えば、ある人に聞いたのですが、ひろゆきがピアスかイヤリングをしてるそうですよ。

 

前にも紹介した、大岡山かるた、が発表されました。場所は、カワクリのそばで、時々、沖縄物産展とか漆の器を売ってる催事場。元、お菓子のまちおか、といえば、昔を知ってる人はピンと来るかな?

 

 

 

これが、大岡山かるた、です。真ん中の段が、かるた、に本採用。僕の作ったのは端っこの落選に4つありました。さて、僕の作品はどこでしよう?

スタバ、がそうです。ドトールに申し込み用紙があったので、暗に、大岡山は老人が多いからスタバのシステムよりドトールの方が優しいという意味で作りました。

加山雄三、がそうです。駄洒落です。

「来た先祖」と「北千束」の駄洒落と、アイスオレ、がそうです。どうしてもドトールの申し込み用紙で書いたから、ドトール前提にしたのが敗因でした。

本採用の「そ」には「北千束のダジャレ」が使われていて負けました😭 。そもそも同じ発想という時点で恥ずかしいです。

このかるたは読み手と対応する絵札を子供たちが書いてるから、かるたとしては難易度がかなり高いですよ。例えば、

「あ」

「し」

「ひ」

「ろ」

10/29(日)に、かるた大会をやるそうだから出てみては?東工大の企画の様です。面白いですね。

 

今朝、スタッフに差し入れで東急ストアの「まい泉」のカツサンドを買いこみました。

結構買ったでしょう。

今はカボチャのサンドがあります。パン生地もカボチャだそうです。

これは僕が買ったあとの棚。上の段がごっそり行かれてるのが分かりますね。

この世に、まい泉かぼちゃバーガーを知らない人を生み出してしまいましたね。朝イチで買い占めたから🤣

 

 

今日のパンツはハロウィン仕様。ゲンガー可愛いですね!

ちなみに枕は、アーニャ。

 

10/31はクロミ、11/1はキティちゃんの誕生日は有名ですが、実はキティちゃんの飼い猫のチャーミーキティの誕生日も10/31なんだって。クロミと一緒にしたのは何故だ??サンリオだけに企みがあるはず。

BGM. きゃりーぱみゅぱみゅのハロウィンの歌


いたちごっこ

25/Ⅹ.(水)2023 はれ 「頂き女子」がだまし取った現金を受け取ったホスト2人逮捕

いろんなことが起きますが、もんたよしのり、死にましたね。高田文夫がラジオで言ってましたが、もんた&ブラザーズはデビューが漫才ブームと同じ1980年で、ジャパニーズ・ソウルみたいな新感覚のニューミュージック「ダンシング・オールナイト」は大ヒット、後ずさりしながら歌う、もんた、をみんなが真似したものですが、ある日から「やばいぞ」っていじるのをやめたそうです。なぜなら、もんた&ブラザーズは「北島音楽事務所」の所属だと分かったからで、「サブちゃんとこのだ、やばいぞ、いじるな」となったって(笑)。面白いですね。

 

 

しかし色々あるもので統一教会の騒ぎが収まらないのに、新天地教とかいう韓国の宗教団体が韓流アイドルと占いをエサに日本人信者を獲得に乗り出してるとか。韓国は宗教、多すぎませんか?…日本も同じか。

 

そう言えば、統一教会の次は、ホストクラブを摘発するという話を聞きますが、あれはあれで経済を回してますが(男が女に貢ぐ、女がホストに貢ぐ、ホストがヒステリックグラマーに貢ぐなど)ちょっとやり方がひどいので摘発して欲しいです。ま、いたちごっこなのでしょうが、何もしないよりいいから。

 

ということで昔、ホストクラブに潜入した記事を紹介しますね。

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16~17/Ⅷ.(土)~(日) 2014 猛暑
その日は、風俗方面で大活躍中のSちゃんという女の子(23歳)から彼女のバースディ・パーティーに誘われたのです。場所は歌舞伎町のホストクラブ。仲間だけで祝う会だと言う。歌舞伎町のコンビニで待ち合わせ。
さすが、歌舞伎町、コンビニの雑誌コーナーに、「ホストマガジン」なんて雑誌がありましたよ。大岡山のコンビニでは、まず見ませんね。この一冊で全国優良ホストクラブ情報を完全網羅!らしい。9月号は、上半期ナンバーワン大特集だって、うひょ~!

その日のホストクラブは浴衣デー。従業員ホストは全員浴衣(将棋柄とか金魚柄など)で、お客も浴衣ならドリンク只。僕は、浴衣を持ってないので、アメ横で買った海軍のセーラー服に水兵帽という「水兵さん」の格好で行った。Sちゃんは着付けに時間がかかり、僕は歌舞伎町のコンビニで待機する。しかし、コンビニに出入りする客層が怖いし、僕をジロジロみるから、近くの交番の前で待つ。すると、交番に「あの店で、ボッタくられた!」と怒鳴り込んでくる強面のお兄さんたちが多数。歌舞伎町の交番は、ボッタくりバーの苦情処理所にもなっていた。おまわりさんが、「店に表示してる限り、金額に関しては、こちらは何も言えない」と歌舞伎町ルールを一々、説明していた。

僕は、Sちゃんへの誕生日プレゼント代わりに、Sちゃんと自分の分の代金をおごるという約束をしていた。なんか、これから起こる事を暗示してるかのような光景だ。それにしても、Sちゃん、早く来ないかな。怖いな。帰りたくなってきたよ。待つこと20分。浴衣姿のSちゃんが現れて、水兵さんの僕が手を振ると、「すぐ判った」と彼女は笑いながら駆け寄って来た。履きなれない下駄で走るから、左足の親指を切っちゃって。圧迫止血とかしてやったよ。歌舞伎町の真ん中で救急処置。

この会は、Sちゃんの誕生日に開かれたものだが、参加者は1人の女の子(ホスト好き)を除けば残りは皆、ホスト。つまり、店側の人じゃん。Sちゃんは友達が少ない。そういうところ嫌いじゃないです。Sちゃんが僕を招待してくれた理由のきっかけは僕が元気がなかったからだが、本当の深層心理は参加してみて判った。「自分にはこんな変わった友人がいる!」という自慢を皆にしたかったようだ。Sちゃんは、実際、僕をその様に紹介した。
「髪の毛、スイカなんだよ~」
「見て見て、爪、ケーキなんだよ。私の誕生日祝いだからなんだよ~」
「この人、いくつに見える~?」
「本当の職業、言って良い?」などと無邪気にはしゃぐ姿は少女のままだ。
あるホストから、「自分も~昔~、バンドやってたし~、まったく同じ~髪色にしたことあるし~、超~懐かしい~!」って、20代前半の奴に先輩風吹かされるみたいに言われる、50代前半の男の哀愁って、皆さん、判る?
あるホストは、僕に「年齢、本気に当てに行っちゃっても良いですか?」と挑んできた。「いやいや、そんなに面白いオチとか、ないから」。そのホストは上から下まで何度も見て、クイズ番組の回答者みたいな声で「37!」と答えた。
Sちゃんは、大喜び。「やった~!年齢不詳~!」って大騒ぎ。ちなみに僕は、昭和37年生まれの52。だから、<(37は)惜しい!>って答えた。
ホストは、「惜しい?じゃ、38?39?36!」とピンそば狙い。
Sちゃんも一緒に混乱して、「あれ、そんな年だったっけ??」と言っている。かなり酔ってる。僕は、「今、37、って言ったでしょう?それが、惜しいの」とヒントをあげるがホストは「47?えっ、74?」とトンチンカン。案外、それ程、アドリブの適応力が必要とされない職場なのかもしれないな。その点では、我々の方が質の高い連想力を要求されるな。ちなみに、「74」ってどんだけジジイだよ。ジョン・レノンの年だよ、もし生きてたらね。しかし、年齢の話で驚いたのは、Sちゃんの本当の年齢だ。ホストは、口々に、「おめでとう~、ついに大台ですね」とSちゃんをいじって、祝っていた。Sちゃん、今日が、実は30歳のバースデーパーティーだったのです。僕は、「Sちゃん、23歳って言ってなかったっけ?」。「それは、営業用よ、言ってなかったっけ?」と、Sちゃん。「じゃ、何?福岡をガイドしてくれた幼馴染は?」、「あの子も、今度、30」。俺の緊張とときめきの博多の夜を返せ!人のこと「年齢不詳」とか言っといて、そっちは「年齢詐称」じゃないか。7つもサバ読んどいて。

Sちゃんには、この店にお気に入りのホストがいる。今日のバースディパーティーは、VIP席で、そのホストを完全指名し、常に脇に置いていた。そのホストから名刺を頂いて驚いた。そこには、「S」と書いてあった。「S」は、男でも女でもおかしくない名前だ。Sちゃんの「S」は源氏名だが、その由来がこのホストの源氏名から来てたとは、ホストから名刺を頂くまで知らなかった。どんだけ「おそろ」にしてんだよ。バウンダリーなさすぎだろ。中2かっ!(タカ&トシ風に)

Sちゃんは、そのホストと僕を会わせたかったみたいだ。気が合うと思ったらしい。正気か?Sちゃんは、そのホストと僕がちょっと似てる、とも言った。娘のフィアンセと会う時の父親って、こんな気分なのかな。どんな奴が来ても、絶対、気に要らないだろうな。俺が父親だったら、相手の男に対して、治療的な精神療法と正反対の事をして、苦しめて試してやる。ケケケ、ザマァミヤガレ。あっ、何を取り乱してるんだ。すみません、お見苦しいところを。話をSちゃんのお気に入りのホストに戻そう。
Sちゃんは、僕とそのホストがちょっと似てると言うけど、Sちゃん、言う程、俺のこと、知らないでしょ。(笑)強いてあげれば共通点は、顔が良いところと、低身長、口がうまい、ヒスを着る、子供の頃から医者を目指してた。…ん?何、最後のそれ?聞き捨てならんな。何ゆえ、今、ホスト?

Sちゃんは僕のリュックについているオレンジのプンプンを指差して、「私、前から、これ気になるんだぁ」とホストに言った。↓。


Sちゃんのお気に入りのホストは、「知ってます。言わないで下さい。当ててみせます。う~ん…、おやすみプンプン!」と、俺の目の前に人差し指を突き出して、自慢げに答えた。「正解です…」と俺。「すご~い!なんで知ってるの~?」とSちゃんはホストの肩を揺すり、ホストは照れながら、「サブカルですよね」と俺に言った。俺は心の中で、「なんたる、浅薄…」と絶句した。そのホストは、それ以上の知識がないとみて、Sちゃんに「きっと、君は、好きじゃないよ」と優しく諭す様にささやいた。Sちゃんも、しなだれかかって、「うん」なんて酔っ払って言ってるし。もう帰ろうかな。でも、せっかくのSちゃんの誕生日会だし。空気をぶち壊しては可愛そうだし。一応、福岡の学会の恩はあるし。ここは、じっと我慢する。男はつらいよ。そうやって、僕がこの日、Sちゃんの誕生祝いに、この店に支払った金額は、7万円でした。
Sちゃんのバースディパーティーは、ドンペリのゴールドを開けて盛大にお祝いされた。それで、7万は安いなと思って聞いたら、シャンパン代は、Sちゃんが毎月積み立てていたらしい。僕はSちゃんに「いくらするの?」とシャンパンの値段を聞いた。すると、Sちゃんはちょっと躊躇って、「引かない?さっき払ってくれた金額あるっしょ?その10倍」だって。…70万!!おまけに3月にホストの誕生日があるから、同じシャンパンで祝うため、現在、積み立て開始中だって。

Sちゃんは、あんなに取材をバンバン受けて、顔を売って、ほぼ毎日、オールタイム店に出て、完全歩合制で、稼いで、頑張ってるなぁと感心してたら、こんなことに消費してたのか。こんなこと、って言い方はないな。訂正します。失礼しました。しかし、職業に貴賎はないし、職業にランクもない、と僕は本気でそう思う。誰がどう何に自分の稼いだ金を使おうが他人にとやかく言われる筋合いはない、と僕は本気でそう思う。価値の多様化したこの世の中だし、趣味も人それぞれ、他人に理解して貰えなくても構わない、と僕は本気でそう思う。自分の好きなことを好きだ、と胸を張って言える心は大事だし、時に勇気のいることだと僕は本気でそう思う。そんなことを全部、踏まえた上で、一言だけ、言わせてもらいたい。
「何やってんだ!?、Sちゃん」。
カモられてんじゃん。カモネギだよ。Sちゃんがカモで、俺がネギ。情けないなぁ。50過ぎて、野菜担当かよ。悔しすぎるぜ。ホストは、真剣に俺にこう言った。「こう見えて自分は子供の頃、体が弱くかかりつけの小児科医がとてもよい先生で。自分も将来はその先生のように小児科の先生になりたかった。しかし、自分が高2の時、その医者が児童ポルノの罪でつかまった。なんだ、あんなに良い先生だと思っていたのが、実はそういう目で子供を見てたのかと。裏切られたと思って勉強をやめてしまった」、それが医者をめざした理由と辞めた理由のすべて。

ん~、どうでしょう??

ま、それは実話なのかもしれない。百歩譲って、真実なら、こう言うしかないな。「その医者が逮捕されたのが医学部に入る前で良かったね」と。まぁ、Sちゃんの誕生日だったから、言わなかったけどね。医学部は6年間。臨床心理士も同様だ。大学を出た後、大学院に行って、資格試験を受ける権利を得る。その時間は、単に膨大な知識を吸収するためだけにかかる時間なだけではない。その間に気持ちが折れずにモチベーションを維持出来るかどうかが問われているのだと思う。そうやって、患者と向き合う覚悟が問われ、責任感が育まれるのだ。我々だって何度も、理想と現実のギャップをつきつけられ、ぐらつくことに耐えて、生き残った。サバイバルした。少なくとも、「尊敬する先生がロリコンだったから幻滅して、夢を放棄」なんて、責任転嫁な言い訳は通用しない。ところが、こっちの世界では、通じちゃうみたいだ。むしろ、逆に、有効でさえあるみたいなのだ。「その医者、サイテー」とか、「可哀想~、被害者だね~」なんて同情票が期待できる。とほほ、な話でしょ。ぬるい!「Sちゃん、目を覚ませ!」。Sちゃんは馬車馬の様に働いている訳だが、それはホストに貢ぐためで。だから、それを今、急に取り上げたりしたら、自殺しちゃうかも。Sちゃんには、何か別の生きる目的を見つけてもらってから、脱錯覚させよう。肝心なのは順番だ。これは、「地雷撤去」とか「遺跡発掘」と似ていて、精神療法の十八番の技術をそのまま応用すれば良いだけだ。軽くとっかかりくらいはつけておこう。取り敢えず、Sちゃんが貢いでるホストの語る現時点での将来の夢は、天文学者、だ。「医者」→「ホスト」→「天文学者」って、どんだけ、振れ幅、デカいんだよ。
なれないモン、無いんじゃないか?って言うか、ブレ過ぎだろ、軸が。芯がないのか。

コミックス「おやすみプンプン」は、愛子ちゃんが転校して来て、「もうすぐ地球は滅亡する」と言う所から始まる。愛子ちゃんの可愛さと衝撃的な発言に戸惑う小学生のプンプンは、同時に学校の宿題の作文の提出期限も迫っていた。作文の題は、「将来の夢」。何も思いつかないプンプンは愛子ちゃんの言葉を思い出し、「僕は将来、宇宙を研究する人になって人類を滅亡から救いたい」と書いた。そして、誰も最終的に救われないストーリー展開の物語の火蓋は切って落とされる。そう言えば、ホスト、Sちゃんに「おやすみプンプン、見なくていい」って断言してたっけ。よし、Sちゃんに「おやすみプンプン」を読ませよう。まずは、天文学者の辺りから切り崩して行くか。

家に帰ってから、今回の件で色々と相談に乗ってくれたFに報告をした。
Fは、「生きて帰れて良かったね。7万円?妥当な金額だね。まあ良く行ったと思うよ、僕なら絶対行かなかったと思うし。君は勇気あるよ、徴兵制度があったらきっと素直に行ったんだろうね」と言った。Fは、終戦記念日に、風俗だホストだと騒いでいた僕を冷静に皮肉った。お前は、ジョン・レノンか?

後日談。
Sちゃん、「お誕生日は、ありがとう」。僕、「こちらこそ、素敵な日に誘ってくれてありがとう。最初は怖かったけど、実は、皆、良い人達だったな」。Sちゃん、笑顔で、「そう言ってもらえると嬉しいわ」。僕、「あの日は荷物になるから持って行かなかったんだけれどさ、これ、誕生日プレゼント。マンガ、なんだけれどね」。そう言って、僕はSちゃんに「おやすみプンプン」全13巻セットを差し出す。カメラは、Sちゃんの驚く顔を、パン。…と、現在、イメージ・トレーニング中。行くぞ!、プンプン!、君が切り込み隊長だ。↓。

 

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いかがでしたか?随分、昔の記事ですね。飲み屋で知り合った飲み友達の女の子の思い出です。元気かな?

 

そんな僕は最近、「宇宙」や「妖怪」や「陰謀論」の本ばかり読んでいて心が闇に引っ張られる時もあり、友人より「やめるように」アドヴァイスされましたが、昨日、寝る前に、つのだじろうの「恐怖新聞」を読んで寝たら…たいそう熟睡出来ました。

BGM. もんたよしのり&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」


心の護美箱(74)~金が結んだ友情

21/Ⅹ.(土)2023 はれ寒い 磯山さやか(39才)写真集「and more」発売。

 

旧統一教会被害者救済へ、立民と維新が教団財産保全でそれぞれ法案提出する世の中、あのちゃんが、 粗品に「自分が借金して500万」貸せると断言した記事を読んだ。あのちゃんは友達がいないから、「友だちの証しだ~」って面白おかしく書いてあったが、こういうのがホストに貢ぐ女性の心理を後押ししなければいいなと懸念に思う。(あのちゃんだって私と同じなんだ〜ならEじゃん)。統一教会の次はホストクラブを摘発しようという動きがあると聞いたが逆行しはしないか?

 

…しないか。

 

オウム事件のあった年、僕は大学院を修了し関連病院に出向した。当時、その病院には「ファントム理論」という何やら難しげな学説を唱えられた安永浩先生というとても偉い先生がいた。とある席で、安永先生は「オウムがやっている拉致監禁や洗脳や電気ショックと、我々の行っている精神科医療のどこが似ていて、どこが違うのかを明確に考えるべきではないか?」という趣旨の発言をされた。その場にいた少しだけ偉い先生や中堅の先生は「全然違いますよ」と一笑にふした。確かに、「全然、違う」のである。それでも安永先生が問題提起した意図は何か?
僕は安永先生の反応に注目した。しかし安永先生はそれっきり何も答えず、それ以降オウムについては何も言わなかった。
賢者とは人里離れた森の奥にただ1人で住み、乱世になると人々の前に姿を現し一言だけ意見をするという。人々がそれを受け容れれば事態は改善し、受け容れなければ黙って森に帰るという。安永先生をみていてそんな話を思い出した。
僕がこの病院を辞め別の病院に移る時、送別会には行けないからと安永先生から手紙をいただいた。筆圧の弱い薄~い、それは風流な文字だった。もし、人が水に字を書くことに成功したら、きっとそんな字になっただろうと思う。

 

心の護美箱(73がいっぱいになったので、(74)を作りました。心の護美箱がなんだかわからない人はバックナンバーを見て下さい。ま、簡単にいうと愚痴を書き込めるページです。「非公開」希望の人はそう書いてくれれば内容はアップしません。みんながどんな相談をしてるのか、これから受診される方には必見です。ただ、その性質上、「コメントは非公開」が多いから、僕の回答しかのってない例が多いです。そんな時は、答えから「コメント」を想像してみるのも一興ですね。

 

ビデオの整理をしていたら、「オウム・ビデオ」というのがvol.1~8まで出てきた。2時間テープだから標準でも16時間。3倍速で録ってたらもっとである。「オウム・ビデオ」とはオウム真理教の一連の騒ぎを、録画しコレクションしておいたものである。よく録ったなぁ。

でも、あの時のオウムはすごかった。不謹慎な言い方かもしれないが、あの時にジャニーズの性加害問題があってもまったくニュースにならなかったと思う。

当時、関口宏が土曜か日曜の夜に「家族でニュースを観よう」みたいなコンセプトのニュース・バラエティーみたいな番組をやっていた。その中で山瀬まみが「お父さんのためのワイドショー講座」というコーナーを持っていて、その週にあった民放各局のワイドショーで取り上げられた話題の放送時間数を合算して、その数値の大きい順にランキングにし、芸能・スポーツ・大衆文化に疎いお父さんに紹介する企画で、このコーナーの間だけお茶の間の力関係が逆転し山瀬のキャラともうまく相まって「やだ~お父さん、こんなのも知らないの~?」的ななごみを生み、家族で観るニュース番組のバランスをとる装置として機能していた。

ところが、オウム事件である。「お父さんのためのワイドショー講座」が機能しなくなった。さすがの山瀬のキャラをもってしても不可能だった。何故なら、ランキング1位がオウムは当然として、2位以下がなかったのである。2位以下がない、というのは、他のニュースが1秒も放送されなかったということである。全民放の毎日のワイドショーがコマーシャル以外はすべてオウムだったのである。これが何週も続いた。芸能人が結婚しようが離婚しようが不倫しようがチャリティーしようが覚せい剤で捕まろうが賞を獲得しようがまったくニュースにならなかったのである。地下鉄サリン事件が起き、どうもオウムが関与してるらしいという話になり、彼らは身の潔白を証明すべく連日テレビに出るようになった。生の記者会見などが昼時に毎日、行われたのが、ワイドショーを独占した1つの要因でもある。しかし、1番大きかったのは「上祐(じょうゆう)さん」こと上祐史浩という特異稀なキャラクターの存在だ。

僕のオウム・ビデオのvol.1の巻頭に録画されているのは、田原総一郎の「サンデー・プロジェクト」で上祐さんは村井秀夫・オウム科学技術省長官とともに生出演した。どこかハーフのような端正なマスクと清潔感のあるひた向きさが彼の第一印象で、大学時代にディベートで鍛えたという話術には田原総一郎も一目置いた。宗教をやってるイコールちょっと変、みたいなマイナスな偏見も彼らのビジュアルが吹き飛ばした。熱い上祐さんの隣に座る村井秀夫という若者も穏やかな悟りを開いた優しい仏さまのようなキャラで、このコンビが番組を通して識者たちの意地悪な質問を正面から受け止め
「自分たちはやっていない。我々はまじめに修行をしているだけだ。オウムも被害者だ」と訴えた。番組の最後で、司会の島田紳介が思わず「この人たちが、あんな事件を起こしたとは思えません」と擁護してしまう程、彼らはシロに見えた。僕も、紳助に同感だった。

それからというもの、上祐さんはテレビに引っ張りダコ。英語もペラペラな高学歴でありながら、理解してもらえないと熱くなり悔しさを素直に表現する若さが日本人特有の判官贔屓と母性本能をくすぐり主婦層の人気を呼んだ。キムタクやヨンさまやベッカムと並ぶのではないか。古いか。

上九一色村の強制捜査や色んな物的証拠が出て来て、オウムはクロだと誰もが確信した。それでも、ひとり上祐さんは潔白を訴えつづけ、テレビに出演し続けた。世間は、オウムには真面目に修行するグループと国家転覆を狙うテロ集団との二つの顔があり、上祐さんは前者に属し本当に事実を知らされてなかったのではないか、などと考えた。

そんな中、村井秀夫がテレビの生中継中に刺殺される事件が起きた。上祐さんはテレビの中で、友人が殺された、と涙を流して憤った。それは、もし我々が友人が誰かに殺された時に見せるだろう反応となんらかわりなく、上祐さんの「正常さ」が強調された。そこからの上祐さんは決死の覚悟だった。どう考えてもオウムの潔白はない中で、孤軍奮闘した。村井秀夫は息をひきとる瞬間、自分を抱きかかえる上祐さんに向かって「ユ…ダ…」と言い残したと言う。上祐さんは村井秀夫の発言は犯人を自分に教えるためのダイイング・メッセージだと理解し、ユダつまり裏切り者、もしくはユダヤ組織の関与かもしれないと分析した。ある番組では、イエスを裏切ったユダやフリーメーソンの解説も行っていた。この頃になると、上祐さんのファンも上祐さんには同情したが、彼の訴えで考えを訂正することはなかった。むしろ、上祐さん、よく頑張った、そろそろあなたも目を覚ましなさい、みたいな風潮になった。

ワイドショーのスタンスも変わった。上祐さんの天敵・江川詔子あたりに「一連のオウム報道に関して、一部、オウムを英雄視した責任がある」みたいなことを言われ、そろそろヤバいぞと思ったのだろう。それまでは、上祐さんに自由に話させてたのが、上祐さんの話をすべて途中でさえぎった。ハナから発言の場を与えられないことより、局アナあたりに話を途中でさえぎられることの方が上祐さんのカリスマ性を風化させる効果があった。今までの上祐さんの独壇場は与えられず上祐さんの発言はまるでその人格を否定する目的であるかのようににことごとくさえぎられた。マスコミによって作られた偶像がマスコミの手によって破壊されるブームの終りの作業だった。それでも上祐さんはよくテレビに出続けたと思う。褒めるようなことではないのかもしれないが、上祐さんはああいうかたちで責任を全うしたのだと思う。僕もそれに付き合った。それがこのビデオテープ8巻である。見直すことはないだろうなぁ。

その後、テレビがどうなったかと言うと、上祐さんの面白みを消したのだから上祐さんで視聴率はとれなくなり、芸能人の浮かれたニュースで賑わうようになり、オウム事件は普通に事件を報道するだけとなっていき、「お父さんのためのワイドショー講座」のランキングから消えていった。

遡ること学生時代、アパート暮らしをしていた僕はセールスや勧誘の類を一々、居間まであげお茶を出し、彼らの言い分を聞いたあと論破して帰らせるという遊びをしていた。色んな人が来た。新聞をとってくれとか、英語の教材を買えとか、カンボジアの子供に寄付する金をくれとか、親子連れで来る宗教の勧誘もあった。ことごとく論破して負けなしだった。ただ1つ、非常に印象に残ってるのは、ヨガの修行を通して自己実現をしようというあまり営利目的ではないお誘いだった。僕は東洋体育もそこそこ詳しかったので、彼を言い負かすのはたやすかったが、その人はそんなことよりいかにヨガが素晴らしく自分には修行が必要だということを真摯に語っていて、ちょっとグラっと来たが実習が忙しくなる学年だったから物理的に時間がとれなくて参加しなかった。

それは、まだ犯罪集団になる前のオウム真理教だった。

 

BGM. 憂歌団「10$の恋」


芦田愛菜への伝言~退行期うつ病

19/Ⅹ.(木)2023 くもり 50代の男性にわいせつ行為、62歳の男を逮捕 

退行期うつ病という言い方をしたものだ。中年から老人にさしかかる時点で発症するうつ病。区切りを「60才」にするか「65才」にするかで揉めてた議論もみてた。自分は「30才」代だったから、ひとごとというか、研究対象だった。

しかし、自分が「60才」になってみて感じた1番の衝撃体験は、「若い頃の思い出が改変される」のだ。僕は結構お気楽に生きて来たし幸せ者だったし母からも愛されて来たと思っていたがある朝起きたら「全然違うストーリー」になっていて、たとえば「母は兄の方を愛していた」などという実感と根拠がいっぱい頭に浮かんでくる。ある種、一晩にして革命である。死ぬかと思った。「60才」を馬鹿にしちゃいけない。危険がいっぱいだ。嘘だと思うなら生きてみるといい。

 

今日の記事はこれまでに書いたものの切り抜きで寄せ集め。

・11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄弟でお金を出し合い、プレゼントをした。おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけ僕は素早く、その指輪を抜き取った。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。要は、「お金<気持ち」である。僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。

・母は薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。喘息には、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。すると不思議と、ヒューヒューが止まった。あれは何だったのか、いまだに判らない。

・小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。
僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、掲載されてるマンガがシュールで面白かった。誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。

・僕は子供の頃から小さいが背の高さなんてどうでもいいと思うのだが、他人に「タッちゃんは小さいからね」と言われると、母はよく、「サンショは小粒でピリリと辛い!」と怒っていた。写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。僕の方が、少し背が高く設計されているのが味噌。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。


・下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓

・子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。
帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と現代そば事情を嘆いた。僕は、この親子はアベコベだな、と思った。

・小学校の頃、母の買い物の付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥ぎん』で釜飯を食べた。
その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。ちなみに、『鳥ぎん』は割とすぐつぶれた。

・子供の時、寿司の出前は高級な「寿司まさ」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司寅」の方が好きだった。
子供ごころに「寿司まさ」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司寅」に寄っていた、常連気分も手伝った。だから家で寿司の出前をとる時は「寿司まさ」で大きな桶を頼み、僕用に「寿司寅」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司まさ」の出前と「寿司寅」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。「寿司寅」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司寅』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は<なるほど>と思った。

・小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまったことがある。電話口に向って、母は、「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、<このままじゃマズイな>と思ったものだ。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。

・兄の進路か何かの話し合いがされていた。応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者。しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはず。でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしたが、話は終りません。いよいよ、どうにも我慢ならず親の気をひくため水銀計をガスコンロであぶったのです。目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノック。母は体温計を見て仰天。どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいでした。母は、それを父に見せました。すると、父は母に言いました。「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事はしなくなりました。

・僕はイジメを経験したことがない。もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った。僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、とか何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。

・中学1年の時の「サングラス事件」。僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」と上品に答える母。担任、絶句。担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。これは指導じゃない、お願いだ」と言った。

・その担任が卒業生を家庭教師にと僕に振って来た。OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しに、<俺も舐められたモンだぜ>とムカついたが、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木の異種格闘技路線で僕は猪木から目が離せなかった。毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。当然、母は聞き出そうとする。<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任に文句をつけて、そいつをクビにした。パ・チンコなのにね(笑)

・中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆された。男子校だったから皆も、チョコなんかもらってなかったから。ま、嘘でもないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。

・大学の入学式。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていた。まだ反抗期ですね。僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいました。母は遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってました。あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。あれが正解だったのかも。

・兄の結婚式。僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻。結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、母はホットした顔をして、振り向いて笑っていました。

・僕は母の作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。母は、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったですね。

・父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。僕が医者になると、兄はアメリカに留学し、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。

・こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、<お前、意地でも喋るな!>と気合いをこめて合図を送った。しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、母のことを思い出して、考えますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だね。

・晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。

・カワクリが法人化して、名称を「医療法人綾枝会」にしました。綾枝会の綾は、母の名前からとりました。母はここのクリニックをみることなく死んでしまいました。

 

芦田愛菜ちゃんに最近は注目してるのですが、日本郵便 2021年度 手紙 新コミュニケーション発表会にて、彼女は「母の存在があるから頑張ろうと…」と思うと母は「絶対的な味方」だと語っています。芦田愛菜ちゃんに誰かあったら伝えて欲しい。「60才になったら変わるぞ」と。

 

BGM. 近田春夫&ハルヲフォン「あの頃~ジョカへ」


10月10日は目の日

10/Ⅹ.(火)2023 くもり 宝塚歌劇団に激震! 劇団員が自殺。

芸術の秋ですね。出口王仁三郎の歌集を買いました。1日に2~300首の歌を詠み生涯15万首以上の歌を残した歌人であり、大正十年と昭和十年の二度に渡って不当な宗教弾圧を受けた「大本教」の教祖。さぞ宗教色の強い、あるいは超自然的なおっかない歌が多いかと思いきや、たとえば、

ころころと背すぢつたひて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は

などというユーモラスなものもあり驚き。

宗教弾圧といえば、大本教のこともあり、戦後日本は宗教弾圧に慎重で、新興宗教が台頭しますが、オウム事件まで野放しでしたね。今度、統一教会への解散命令がついに出されるようですが、鈴木エイトは統一教会の関連団体から訴えられました。サンジャポでその様子をやってましたが、その記者会見に鈴木エイト自身も参加してたのがすごかったです。鈴木エイトはジャニーズの「NGリスト」にも載っていたらしく、本人曰く「光栄です」。

僕は最近「コレクション」について考えてます。
談志が「志らくがいてくれて俺は助かった」という短い言葉の中には、色んな意味があるでしょうが、一つには談志の趣味をこよなく愛して、その資料館のような自宅を引き継いだこともあるでしょう。談志は自分がコレクションした膨大な芸能史の資料が活かされないのが心配で親友の石原慎太郎(当時・都知事)に「江戸の文化を伝える記念館」のようなものを公開の討論番組で直訴して承諾を得ましたが、都の予算は下りなかったようでオジャン。だから談志が死んだら誰も価値が分からないゴミになるものが、志らくのおかげで現存してます。
加藤和彦が死んだ時、彼の膨大なお洒落なジャケットやシャツをコンサートで天井からぶらさげる演出をして追悼した北山修も、「この中でどなたか博物館の知り合いの方がいてこれを展示してもいい、と言って下さる方をご存じの方はご一報を」と真顔で言ってた。北山修の人脈(医学会&芸能界)をもってしても難しいのでしょうね。そこで「はじめての断捨離」という本を買って読んだら、「自分が死んだ時に残された人が困るものから捨てなさい」とのこと。なるほど。価値が分からなかったり、「思い出」なんて継承する物じゃないのだ。さっそく、父と母の「短歌の原稿」を捨てた。

 

こないだお守りの代わりに買ったロザリオが壊れたので別のを買いました。

若い頃のミックジャガーと合わせてみました。

誰かが前のロザリオを修理してくれてました!「魔女っ子メグちゃん」のポスターの右にかけまして。

10月7日にスタートしましたスパイファミリーの劇場版記念に「日清」がコラボしました。

箱から絵柄つきです。

これもとっときたいですが、どんどん物が増えますね。

おまけつき。

どん兵衛のキツネとタヌキ、とUFOのふたにはアーニャがいます。

おまけは、バッジかと思いきや、アクリルスタンド。受付の羽田さんに頼んで狭いスペースのアーニャ・コーナーに仲間入り。

 

さて、配達物といえばこんなものも。なんでしょう?ヒントは最近、日本に来てブランコに乗ってた人です。

 

正解は…

ジャスティンビーバーでした。

彼は日本の変なキャラクターのクッションを買って帰ったみたいです。

ジャスティンビーバーが最もしなさそうなポーズを。

 

めっきり冷たくなりました。マリリンモンローは「寝る時は何を着てる?」と質問されて「シャネルの5番」と答えたと言います。シャネルの5番は香水の名前です。つまり裸で寝てるという意味です。山口百恵も(ブレインは阿木燿子)「ミス・ディオール」と香水の名前を答えています。僕もこないだまでは素っ裸で寝てたのですが、さすがに寒くなり、こんなものをゲットしました。

これは肌触りがモコモコで気持ち良いです。タグは、よく寝れるように(?)カビゴン。

前側には、ポケットもあって、ピカチュウが寝ています。今はこれを着て寝ています。

 

今日慌ててヒゲを剃ったら唇の上をサックリと切ってしまい痛いです。絆創膏を貼って、二重に上から、クロミで隠す。

 

BGM. キャッツ★アイ「めっきり冷たくなりました」


文化部通信~その肆拾陸~

こんにちは、文化部通信46弾。文化部長のスーです。

10月は9月より涼しい日が続くからスポーツや文化などのイベントに最適で、文化祭・芸術の秋・読書の秋と文化部の本領発揮…のはずでしたが、まだまだ暑いですね。

ここで、なぞかけをひとつ。
地球温暖化 とかけまして 面白いゲーム と解きます。
その心は?

なかなか「あき」が来ないでしょう。
(地球温暖化は秋が来ない。面白いゲームは飽きがこない)

さてさて、そんな10月のなんでもない日たちをご紹介

1日 メガネの日 メガネの先生シリーズ

2日 豆腐の日 「酢豆腐」という落語があります。豆腐を腐らせてしまいます。江戸っ子はキザで知ったかぶりの若旦那が嫌いだから、「珍味がある。若旦那なら知ってるでしょ?」と腐った豆腐に唐辛子やらをいっぱいかけて出すと、若旦那は一口で悶絶。「もう一口どうですか?」に若旦那「酢豆腐は一口に限る」‥上方落語では「ちりとてちん」と言うそうです。

3日 登山の日 中1の行事で高尾山へ。真ん中の下が先生。カウボーイ帽は「カウボーイ・ビル・ワット」に憧れてたとの事。

4日 天使の日

5日 レモンの日 ナンシー・シナトラはフランク・シナトラの娘

先生は中学生の時、梶井基次郎の「檸檬」のマネをして、神保町の本屋の積み上げた本の上に檸檬をおいてきたことがあるそうです。

6日 国際協力の日 砂かけばばあ

もともとは敵対していた砂かけばばあでしたが、西洋の妖怪との戦いで皆と一致団結して戦いました。

7日 ミステリーの日 渡辺典子は角川三人姉妹ミステリー部門担当でした。

8日 レーザーディスクの日

9日 世界郵便デー ミュウツーの逆襲で手紙を届けるカイリュウ

けいおん AIRMAIL

↓これは、愛と美の女神アフロディーテ。鳩や金梅花が象徴。このポストカードには「1914年10月15日」の日付が。誰が誰にどんな思いで出したのでしょう?1914年は7月に第一次大戦が始まった年なのです。

10日 目の愛護デー 医者の息子あるあるで、医学書のエッチなページをこっそり見る。というのがあるそうです。川原先生は、子供の時「目玉ってキレイだなぁ」と、こっそり医学書の眼球の解剖図を見ふけっていたようです。ある日、その姿を見られて、あわててページを変えてエッチなページを開き「達二はもう…」と呆れられたそうです。実家が眼科なので、目に興味があると家を継がされそうであわてて誤魔化したんだそう。普通と逆パターンですね(笑)
10代の時にみたルイス・ブニュエルの映画「アンダルシアの犬」の冒頭で、カミソリで目玉を切るシーンに衝撃を覚えたそうです。

11日 ウインクの日 可愛いウインク姿を紹介

12日 石油機器点検の日 オイルショック(石油危機)が起きたのは昭和48年。トイレットペーパーの買い占めが起きたそうです。コロナのマスクみたいですね。この頃、人気だったのがフィンガー5とあのねのねでした。

13日 麻酔の日 華岡青洲は世界で初めて全身麻酔下で手術を成功させました。これは医師国家試験の問題にも出るそうです。

14日 鉄道の日 「ミツバチのささやき」はアナ・トレントの出世作。少女がフランケンシュタインに恋します。線路に耳をあてる少女も名シーンです。

15日 きのこの日 漫画「デデデデ」に出てくるイソベやん。未来からデベ子を幸せにするためにきたきのこ人。ドラえもんのオマージュになります。

16日 ボスの日 ヒエロニムス・ボスの画集

その中から1つをチョイス

17日 カラオケ文化の日

18日 木造住宅の日 木造モルタルの王国(ガロの記念号)

19日 海外旅行の日 けいおんメンバー、卒業旅行にロンドンに行きます。

こちらも海外3本立て

20日 新聞広告の日

21日 国際反戦デー ’69年日比谷フォークゲリラ集会 日本でもベトナム戦争の反対運動がおきました。

22日 アニメの日 私スーの独断と偏見による、ハロウィンにぴったり!ちょっぴり怖いアニメランキングベスト3を。

1位 ひぐらしのなく頃に 小さな村で次々起こる惨劇。クリニック内にもたくさんのフィギュアがありますね。

2位 がっこうぐらし! ただの学園アニメかと思いきや、ゾンビアニメです。OPに注目して楽しんでほしいアニメです。

3位 電脳コイル ホラーアニメではなくSFアニメなんですが、どこか怖さを感じるアニメです。

23日 津軽弁の日 太宰治、寺山修司、ナンシー関の3人を生んだ「津軽」という土壌、興味湧きますよね。太宰は文字通り「津軽」という紀行文があります。終わり方がかっこいいです。「元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」

寺山修司の映画「書を捨てよ町へ出よう」はオープニングから津軽弁の主人公がにらんできます。「まず、となりの女の子の手を握れ!」と言われ、1人で観に行った先生は隣が1人で来てた女の子できまずかったそうです。

ナンシー関は消しゴム版画とエッセイの人

その中から2つを紹介。特徴のとらえ方がすごくいいですよね。

24日 文鳥の日 つげ義春の代表作「チーコ」若いカップルの別れを暗示させます。

25日 民間航空記念日

26日 原子力の日

27日 テディベアズ・デー フィル・スペクターの最初に組んだバンドが「テディ・ベアーズ」。ヒット曲「To Know Him Is to Love Him」は直訳すると「To」は時の不定詞で「彼を知ったときが、彼を愛したとき」ですが、この邦訳が「会った途端に一目ぼれ」です。名訳ですね。

28日 速記記念日 速記で「愛してるって言わなきゃ殺す」と書かされました。ものすごく時間がかかりました。これからAIの時代、速記ってどうなるのでしょうか?

29日 ホームビデオ記念日 寺山修司の死の前年、詩人・谷川俊太郎とビデオ映像による「往復書筒」を始めた。最後は寺山の心電図がスーーッとまっすぐになるモニターの映像で終わるそうです。

30日 初恋の日

アイドルと楽曲提供者の音楽作品は、一時期ブームになりました。他には、河合奈保子・竹内まりやの「けんかをやめて」、高田みづえ・サザンオールスターズ(原由子)の「私はピアノ」…などなど。盛りだくさんでした。

31日 ハロウィン クリニックもすこーしだけハロウィン

10月は神無月、英語の月名「October」はラテン語の「第8の」という意味の「octo」に由来しています。タコの足は8本だからオクトパスみたいですね。これはポケモンの「オクタン」

実際の月の番号とずれているのは、7月にローマの政治家ユリウスが、8月にはローマ皇帝アウグストゥスが自分の名称を入れろとゴリ押ししたから、2つずれて「October」なのに「10月」になった訳です。この2人は何様なんでしょう?神様のつもり?なんて。

日本では、出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなるから「神無月」と言い、逆に出雲では「神在月」と言われます。

これは、世界初の神様グラビア写真集。「かんなぎ」のなぎ様

そして今月のBGMは、ショーケンこと萩原健一が所属していたグループサウンズの名曲です。テンプターズで「神様おねがい」。

何か変な世の中ですが、神様‥そろそろ本気出して。おねがい。


絶望教教祖爆誕?

3/Ⅹ.(火)2023 くもり 江川紹子、「ジュリー氏も、虐待の被害者では?」。「メリーはライオンで私はシマウマ」、ジュリー氏の手紙より。

 

月曜日、迷った挙句、こないだ「夢で出会った少女」に逢いに行ってみた。5時の下校時間のちょっと前。スクールゾーンを3回往復する僕の姿はまるで不審者だ。しかし、5時のチャイムがなっても誰も出て来ない。一人も生徒が出て来ないのだ。学級閉鎖か?それとも「10月1日」が都民の日だから、月曜の10月2日は代休で休みなのか?とりあえず、夢世界との交流が一時休止になった。今日も夢の話。

 

アメリカのコミック雑誌に閉じ込められてしまった。駐車場で敵対勢力が攻防を繰り広げるのを車の陰でおびえながらみる。本当に恐ろしい。そこに入ってきたポリスに寝こそぎ連行される。僕も囚人になった。「檻」の中はとても怖い世界だ。アメリカは人口を調整するために男からは出来るかぎりの精液を搾り取り、後はくじ引きで順番に去勢してしまうとのこと。怖がってばかりもいられない。僕は弱いけれどこんなおかしな仕打ちからは逃げ出さないといけない。同室の黒人は名前も取り上げられていた。彼は腕が太いから僕は「アーム・ジョー」という名前を付けてあげる。ヴィクトル・ユーゴーの「あゝ無情」から拝借したダジャレだ。

僕はアーム・ジョーをそそのかし、脱獄を企てる。僕がカギを盗み、アーム・ジョーが戦車を奪った。しかし、戦車は「科学と学習」の」付録のようなペラペラの折れ線の入った紙だ。僕は悲嘆にくれ、「くそ~!」と嘆くと、ペラペラの紙が軍用の戦車に変わった。どうやらアメリカ軍の兵器は最新鋭で全部「ことば」で管理されてるらしい。僕がたまたま発した「くそ~」が正解だった。ついてるぞ、とアーム・ジョーが戦車に乗り込み僕は助手席に乗る。そろそろ追っ手が来そうだ。車を発車させようとすると「ガソリンがゼロだ」とアーム・ジョーが言う。僕は本当に悔しくて「絶望だ!」と頭を抱えると、それが管理パスワードだったらしく、戦車が動き出した。僕らは市街地へ逃れることに成功した。

そう言えば、僕は前世で空を飛んでたことを思い出し、空を飛ぼうと試みると、空を飛べるのだが今世の僕は体重が重すぎる。これでは長くは飛べない。でも僕はこの世界軸で必要なのは「言霊」だと悟った。自分が飛べない代わりに、「モスラ!ラドン!」と大声をあげると、モスラとラドンが飛来して、支配者たちのビルを破壊する。僕は「ゴジラ!マンモス!ティラノザウルス!」と大声を出し彼らを召喚して街を破壊する。小さな少年がやってきて、「僕にも手伝えることはある?」と聞くから、「ポケモンは言えるか?」と聞くと、「200は言える」と言うから、「心を込めて名前を叫べ!」と命令すると、リザードンやギャラドスやカメックスなどが登場した。

アーム・ジョーは僕のことを肩車して、「キング!」と呼んだ。アーム・ジョーは「キング!みんなのために命令を」と僕を見上げてそう言った。振り返ると沢山の抑圧された民衆が僕らのあとを追ってくる。口々に「キング!キング!」とコールしている。人々は僕のことを「絶望王」と呼ぶ。あらためてアーム・ジョーが「キング!言葉を」と繰り返すから、僕はアーム・ジョーに担がれながら後ろを振り向き、「いいか~、みなども、絶望だ~!」と叫ぶと、民衆は「絶望だ~」「絶望だ~」と大声で叫び、怪獣や恐竜や巨大ポケモン達が壊すビル群を横目に、戦車が道を切り開いて行く。僕らは何物にもおびやかされる必要はない。自分たちの自由と権利と幸福のために突き進むのだ。合言葉は「絶望だ!」。

 

BGM. あがた森魚「最後のダンスステップ」