29/Ⅸ.(木)2011 一日、クリニックの外に出ていないので今日の天気はわからず
Oさんに昔のアイドルのグッズを取り扱っている店を教えて貰った。
ナカナカの充実振りだそうだ、今度行こう。
何かの映画の中で、監獄で生活をする人がピンナップ・ガールの写真を壁に飾り、
苦しい時間に耐えるという描写があったが、いつの世もアイドルにはそういう存在理由があって、
だからアイドルは素晴らしい職業だと思うし、アイドルにお金を消費するのは人生において必要経費だと思う。
そんな僕は、中学3年の頃、東中野のマンションに兄と2人で住みだした頃で、
それは実家から毎日当校するのが大変だからで、
でも実際は、週の大半を母が面倒を見に来てて、
だから父は1人茅ヶ崎で家族のために稼いでいて、そんな両親に感謝をすべきなのだが、
子供は子供で大変で、中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、
絶望的な気分で毎日を送っていた。
きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。
その頃、僕の生活を支えたのは、一枚のアイドルのポスターだった。
そのアイドルとは、山口百恵だ。
山口百恵はシングル盤では、「秋桜」を歌ってる頃で、もうアイドルというより賞レースの本命になる王道の歌手で、
「横須賀ストーリー」以来の本格派ポップス路線から、「百恵神話」へと移行してゆく途上だった。
僕は、前にも書いたが、「中3トリオ」の3番手の頃の山口百恵が好きで、
その後の売れ線路線にはあまり好感を抱いていない。
それは僕がひねくれ物のマイナー志向だからではなく、第一、山口百恵はマイナーじゃないから。
それでも、僕を支えてくれたその時の山口百恵のポスターとは、
当時の山口百恵としても、当時のアイドルのポスターとしても、少し風変わりだった。
それは、白いブラウスに茶色のスカートをはいた普段着の格好で、
ポスターのくせにこちらの目を見ずに脇の方を向いている。
その視線の先に何があるかは、ポスターに写っていないので想像するしかないのだが、
おそらく他愛も無いものにちがいない。
それは近くのキレイなお姉さんみたいな風体だった。
東中野のレコード屋で、『花ざかり』というお花をテーマにした歌ばかりを集めたアルバムを買ったら特典としてもらった。
僕は、毎日、このポスターに見守られ、中3の一年間を皆勤賞で過ごした。
ちなみに、『花ざかり』は「川原達二の選ぶ10枚のアルバム」という企画があったら絶対に選出されるであろう作品だ。
そんな有りもしない企画などどうでもよくて、今はとても便利な時代でヤフオクとかに色んなものが出品されていて、
こないだ、ついに僕はこのポスターを入手した。
懐かしいな。
嬉しいな。
意外と安くて驚いた。
思い出は、お金では計れないということだ。
今更だが、うちのクリニックは僕の部屋に来て貰うというコンセプトなので
(「徹子の部屋」とか「さんまのまんま」みたいな感じ)、堂々と僕の好きなものを飾ったり貼ったりして、
皆さんに見せびらかしてる訳ですが、このポスターは自分の為だけに貼ろう。
どこにしようかな?。やっぱり診察室がいいな。
僕から見えるところに貼って、あの頃のように山口百恵に見守って貰おう。
何もかも、うまく運ぶはずさ。
だから皆さんは気付かれないかもしれませんが、隠すような物でもないので、興味があったら言って下さいね。
こっそり、教えてあげます。
BGM. 山口百恵「言わぬが花」
※山口百恵・関連記事~2010年6月「ヰタ・セクスアリス」、良かったら見て下さい。
Dr.kawahara
この文面が今までの先生のくっだらないブログの中で、一番私の心に響いたよ。
先生、やっと殻を破ったんじゃない?
「そんな僕は、中学3年の頃、東中野のマンションに兄と2人で住みだした頃で、それは実家から毎日当校するのが大変だからで、でも実際は、週の大半を母が面倒を見に来てて、だから父は1人茅ヶ崎で家族のために稼いでいて、そんな両親に感謝をすべきなのだが、子供は子供で大変で、中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、絶望的な気分で毎日を送っていた。きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。」
私もその頃からだったかな?でも、私の場合、高校生になったら心身症になってだんだん登校が出来なくなった。
その頃は、まだ「不登校」という言葉が無かったし、ストレスで体にいろんな症状が出てくるなんて、私も世間も思いもよらない時代でしたよ。だから、ただの「なまけ者」としか思われなかったですよ。先生だけでなく、同級生も、たまたま六本木のクラブに出入りいてたことを見られたみたいで、学校に来ていないのにクラブには行っているらしいという「冷たい」空気が学校の中で流れました。私はその子のことをそれ以来よく思っていなかったのに、卒業して何年も会っていないのに、「結婚式の招待状」が送られてきた。もちろん、行かなかった。何で、私に送ってくるのか怒っていました。
医者になるのに、本当に大変な毎日を送っていたんですね。でも、先生は目標達成して今は開業医にもなっているんだから、その時代は無駄ではなかったんですよ。
私が高校3の時にとっても好きになった人がいたんですが、その人は頭はいいし、頭の回転もいいし、スポオーツ万能で、人柄も優しくて、遊びもそこそこ面白いことをやっていたし、顔もかっこよくて、久し振りに惚れ込んでしまいました。
でも、私はその頃、本当に心身症でうつ状態で、その人とレベルも違うし、「雲上の人」という」感じだったので、いつも4人で遊んでいた友達には私の一方的な恋心を話していたけど、彼は結局早稲田大学の政経に入学して、バイトしながらバンド活動したりして、益々輝いていた。どんどん、距離が遠くなって私も合いたいという気持ちが無くなって来て、全く会わなくなったんです。でも、私が高校を卒業できるかどうか怪しい時期に(確か、真冬だったかな)、彼から手紙をいただいた。それを私はお守りのように、何枚かコピーしてスケジュール帳に張ったり、ノートに張っていたりして、いつも目に入るように大切にしていた。その内容は、私はこの学校にいた6年間は「無」だったということを彼に言ったことに、
彼はそこを聞き流さずに「君はこの6年間は無だったというくだり。それは間違いだ。この6年間は君は大変な思いをしたと思って青春がなかったというけれど、過去にロストジェネローションという人たちはそのつらかった経験をバネにして
成功をおさめている。きみの6年間を無にするか、どうかは君次第だ。」と、掻い摘んで言うとそのような内容が細かい字でぎっしり書いてありました。私は、その彼の手紙を読んで泣いて泣いて泣きまくりました。その頃、私は生きている意味さえ見出せなくて、死んでしまおうかと毎日思っていましたから。私が死ななかったのは、彼の手紙のおかげなんです。彼は新聞社に勤めたいと言っていたので、希望がかなっていたら今頃新聞記者になっているんではないかしら。
先生の今回のコメントを読んで、毎日死んでしまおうかと悩んでいた過去の私を思い出しました。
Freskさん
いい手紙ですね。彼が、報道の世界にいてくれるといいなと思いました。
茅ヶ崎から獨協は、遠いなと。以前から思ってました。ご家族の協力のもと中学3年で、皆勤賞。
立派です!
あんころもちさん
ありがとうございます。このコメントを読んだら、きっと、両親も喜ぶと思います。
追伸
私の感想。「心を亡くす」。
「そんな僕は、中学3年の頃、東中野のマンションに兄と2人で住みだした頃で、それは実家から毎日当校するのが大変だからで、でも実際は、週の大半を母が面倒を見に来てて、だから父は1人茅ヶ崎で家族のために稼いでいて、そんな両親に感謝をすべきなのだが、子供は子供で大変で、中3の僕は、特に何があったという訳ではないのだが、絶望的な気分で毎日を送っていた。きっと、クラスメートや教師や家族にも気付かれなかったが、暗澹たる日々だった。」
私の中学、高校生時代は両親がコンビニをやっていた上に、祖父母が3人同時に老人介護が始まり、母は私のことに目を配るところまでいかなかった。だから、両親はいつも毎日ご飯も食べる時間が無くて、寝る暇も無かった。だから、私は出来る限りのお手伝いをしようと、学校から帰ると入院している祖父母のところに行ったり、家のご飯や掃除など
いろいろやった。その頃には、自分の心身症がひどくなっていたので、母は私の原因不明の症状のことでさらに忙しくなってしまった。そのころ、コンビニで働いていたパートさんから「娘さんの腰痛や足の痛みはストレスから来ているのではないですか?」と、言ってくださった方がいて、川原先生もご存知でしたO先生に「心身症」と診断されて、いきなり1日16錠の薬を出されたことを覚えています。私が10歳で両親がコンビニを開店したときから、私達家族の人生はまるっきり変わってしまった。まだ、中学入学したばかりの時に、私は「ホィットニーヒューストン」を良く大声で歌いながら、ストレス発散していたことを覚えている。そのとき、歌うときに私はいつも心の中で「忙しいという字は心を亡くす。と書くんだよ。ママ。」と、母にいえない気持ちを私は部屋の中で、大きなカ鏡に向って歌っていた。「忙しいという字は心を亡くす、という意味なんだ。」って。
私は長い間、大切な思春期の時期に「心を亡くした両親」に育てられたです。高校3年で「心身症」と診断された時に、受験勉強なんて何もしないで、いろんな心理学の本を読みました。加藤諦三さんの本から入って、一番興味を持ったのは
「深層心理学」関係の本でした。それから、精神科の専門医が読むような厚い病気の辞典のようなものまで読みました。
読んでいるうちに、私は自分で「自己分析」をするよになって、結局「何で私はこんな病気になったのか、自分なりの解釈ですが知ってしまったのです。専門書の中で「自殺願望があるときは、底についているときだから後は病状は良くなる」と言う意見を出している本を読んだ時は、自分なりに「ああ、これから良くなるのかも知れない」とも思ったこともありました。しかし、「負の連鎖」という説明を読んだときに、私は自分の子供にも同じような育て方をしてしまうのではないかと、
深く考えすぎてまた絶望的になってしまって、「被害者」から「加害者」になるんではないかと思って、やっぱり死んでしまった方が良いのではないかと思い悩むようになりました。だから、私の今の5歳の息子のためには私の二の舞にならないように、全力投球なんです。こども中心、こどもが一番なんです。「私の青春は無だった。」というのは、そうではなかったと思うようになりたい。だから、息子が中学高校生のときにはどんなことがあっても、専業主婦で家で遠目で息子を見守ってあげたいと思うのです。その時は今よりものんびりした生活をして、息子のちょっとした変化も見逃さない母親に
なり、息子の守護神になりたいと思っています。そんな、人生が遅れたら「私の青春時代は無ではなかった。」ということになる。いつか、手紙をくれたKくんにどこかで出会って「無」ではなかったよ、と言いたい。
川原先生に「君は奇跡の生還をしたんだよ。こっちの世界に戻って来れたんだよ。」と言っていただいて、私は益々自信をもらって自分をよくやく取り戻した奇跡を無駄にしたくはないのです。
北朝鮮のことわざに、「思い続ければ石の上にも花が咲く」ということわざがあります。
私、自分の夢を諦めません。先生は、病気だから大望を言っていると思っているかと思いますが、
病気のせいではないんです。
Freskさん
いつもコメントありがとうございます。夢は諦めない方がいいと僕も思います。「みんな、夢を持つんだ!」と清志郎も言っていました。
先生、本当にお願いを聞いてくださってありがとうございました。
この文章にはいろんな方がいろんな思いで読むんではないかと思いながら書いたのです。
それぞれの立場で、ふたをしていたところに気づいて欲しいという願いがあったのです。
これを読んだ患者さんが、先生にいろいろ聞いてきても私のことは何でも話していいですから。
私は地獄の世界に2回ほど言って来ましたが、今も波乱万丈に生きています。
しかし、私に今までの辛い経験がなければ、分からなかったことがたくさんあります。
だから、次々に出てくる試練は人生の最後に悟りを得るためなんだと思って乗り越えて行くしかないと思うのです。
私は子供を育てながら、世の中のためになるようなことをするために、多くのご縁をいただきながら、自分の与えられた
才能を利用して、世界中の生きとし生けるもののために後世を過ごすことが役目だと思っています。
先生、思い切って公開してくださりありがとうございました。
Freskさん
思い切って、公開しましたよ。でも、確かにこれを読んで何かを感じたことを診察で話してくれるのはいいことだと思います。