21/Ⅵ.(月)2010 快晴
手塚治虫の「アトム秘話」をビデオで観る。
アトムの誕生。
鉄腕アトムは手塚の代表作なのに、当初、手塚はそれ程、重きをおいてなかった。
そしてテレビアニメーション。
今までの常識を覆す、というか、無理がある製作。
当然、スタッフから文句が出る。
でもそれをまとめて皆をその気にさせたのは、手塚治虫の情熱だった。
手塚の頑張る姿に皆がつられていった。
BGM. スティクス「ミスター・ロボット」
リクエスト特集・第1弾~オリジナリティー
21/Ⅵ.(月)2010 快晴
「爆問学問」で浦沢直樹の工房を訪れる番組を観る。
工房は教室みたいに浦沢直樹が教壇みたいな位置にいて、
アシスタントが机を向き合わせて作業をしている。
面白かったのは、
浦沢直樹がアシスタントに原稿を渡す時にほとんど下書きの線が見えないものがあるそうだ。
それは何故かというと、鉛筆の段階でミスの線がないから下書きの線に迷い線がないのだという。
そういう時がたまにあり、頭で思った映像がどんどんどんどん右手を伝わって出てくる、
「今、漫画の神様が降りて来ちゃっているよ~」という感じなのだという。
で、「グーって書いているんだけど、ワ・ワ・ワ・ワ・ワ~、すごい!すごい!すごい!」って思ってると、
翌日、物凄く具合が悪くなったりするのだという。
そういう時は危なくて、「もう限界のピリピリに行っちゃってるのだ」と言う。
浦沢直樹は中学の時、手塚治虫の「火の鳥」を見て
「なんだ、これは?こんなすごいものを描く人が世の中にいるんだ」と縁側で一日、ボーっとしたという。
爆笑問題の太田も、お笑いをやっているとどうしてもビートたけしという存在が大きく、
デビュー当時よく「ツービートに似てますね」と言われて、それはモロに影響を受けていたから当たり前で
発言やら何やらは「どうしても(たけしの)亜流」になってしまう。
そういう自分がすごく嫌なんだけど、「それ」が抜けられないのは「それ」がきっかけで好きになってるからで、
「あいつ(たけし)、早く死んでくれないかな~ってラジオで言って問題になちゃったんだけど~(笑)」
との照れ芸もたけし譲りだ。
それから2人は~正確には田中がいるから「3人は」なのだが~浦沢が手塚を、太田がたけしを、
いつまでたってもその人になれない、くつがえせない、
「オレ、やってる意味ないじゃん」的な表現者としてのジレンマや宿命
というテーマがあることを、お茶の間とともに共有した。
ここで浦沢がこの難問への一つの模範解答として、
ザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが自分が死んだら墓碑銘に
「過去の遺産を未来に語り継いだ男」
と刻んでくれと語っていることを紹介し、
「自分のやったことはそのぐらいだっていうスタンスはかっこいい。
こんなのだったよ、っていうのをとにかく若い世代に語り継ぐっていうくらいしかできないだろう」と言った。
太田は「もし、それができたら、それはそれですごい…」と無口な子供のような表情で下を見た。
昔、藤子F不二雄が手塚治虫の「新宝島」の‘衝撃’を書いてる文章を読んだことがある。
それはとにかく
「あの衝撃はあの時に読んだものにしかわからない。今、キミたちが読んでも伝わらない」
ということだけを繰り返し言っていて、およそ藤子F不二雄らしくない拙い文章が印象的で、
「伝わらない」ということを強調することによって、何かを必死に「伝えよう」としているように思えた。
BGM. Tレックス「20th Century Boy」
少女はいつも
21/Ⅵ.(月)2010 快晴
少女は、1人でお化け屋敷に入るのが、全然怖くない。
お化けは、‘嘘こ’の「のっぺらぼう」しかいないし、お化け屋敷にも自分しかいないから。
「のっぺらぼう」は、いつも「バナナ、バナナ」と言っていて、少女の弟を食べてしまう。
だけど全然く怖くない~ だって「のっぺらぼう」は、パイナップルと女の子は食べないから。
弟が食べられて、少女は悲しくなるが~すぐに笑ってしまう。
BGM. アネット「パイナップル・プリンセス」
W杯の陰で
21/Ⅵ.(月)2010 快晴
土曜日は外来が混んでて終わったのが10時近かった。
行きつけの寿司屋さんはサッカーの試合があるとお店が暇だと言ってた。
力道山のプロレス中継があると銭湯がガラ空きだったり、
ビートルズがエド・サリバン・ショーに出てる時ティーン・エイジャーの犯罪はゼロ件だった~
なんてのと同じか。
それにしてもオランダ戦は惜しかったようですね。
次のデンマーク戦がいやがおうにも盛り上がりますね。
世間の注目がサッカーに向くから、婚約発表などニュースに取り上げて欲しいものはまだ先にして、
スキャンダルなど騒がれたくないものは今のうちに謝っちゃえ、というのがパターンでしょう。
その効果を最大限に利用してるのが、相撲協会の賭博疑惑ではないでしょうか。
ほとんどのスポーツ新聞のスポーツ欄や芸能欄はサッカー一色で、
東京スポーツだけが、サッカーの記事を終面に追いやり角界の賭博問題を連日報道しています。
東スポの読者層はプロレスファンなどで構成されているから、
世間と一大事がずれるので、こういうことはよくあります。
おまけに東スポは時々、スクープ!と言って
「宇宙人がつかまった」とか「プレスリーが生きていた」とか「ケネディが生きていた」とか「雪男発見」とか
「ミック・ジャガーがん」などのガセネタを一面に載せるので、
今回の相撲協会はこの「東スポさんの言うことですから~」もうまく利用できていて上手いなぁと感心しました。
技能賞!
僕の記憶に残っている東スポでのW杯関連の記事は、
開幕早々南アフリカでマラドーナの前夫人が逮捕されたというもの。
これは終面を丸々割いた大きな記事だった。
どうもマラドーナ前夫人がフーリガン一味と疑われヨハネスブルクの空港で拘束されたというのだ。
マラドーナが入国の裏工作をしたのでは、などと憶測で記事が進み、
結局は「間違いだとわかり謝罪された」というオチだった。
しかし東スポは、南ア当局はマラと極悪集団の関係を問題視しているのは間違いない、
としW杯期間中「GO!GO!マラドーナ」というコーナーを設け
「必ず何かをやってくれる男」マラドーナに密着すると宣言した。
今のところ、「GO!GO!マラドーナ」の続編はない。
オランダ戦の前日も一面は「武蔵川理事長隠ぺい疑惑」で、
サッカーは終面で「本田家の掟 『オレ』禁止」であった。
どういう記事かと言うと、サッカー日本代表の本田圭祐の大叔父にあたる元カヌー五輪代表の本田大三郎(75)が、
中田英寿との対談番組を見ていたら圭祐が公共の場で「オレ」という言葉を使っていたことに緊急提言したのだ。
一流スポーツマンは紳士であれ、が本田家のモットーだという。
なんと、この大三郎の長男があのプロレスラー本田多聞だというから驚きだ。
多聞は荒々しいプロレス界の中に生き続けながらも‘家訓’を守り、
一人称は「オレ」ではなく必ず「私(わたくし)」を使う。
その礼儀正しさはプロレス界一と言っていい。
そして多聞は、
親戚がサッカーの試合に出るので良かったら見て下さい~的なメッセージを東スポ読者に送ってた。
僕にとっての知名度は、本田多聞>>本田圭祐だからこれで正しいのだが、
多分世の中とは大きくズレてるのだろうな。
本田圭祐って有名だぜ。誰に言ってんだ?
そういえば、こないだのタモリ倶楽部でも、
右上隅に「日本vsオランダ放送まであと18時間37分30秒」というテロップが出ながらも、
番組は‘酢’についてだった。
どの酢で作る酢の物が酒に合うかという、ワールド・カップのワの字も出ないプログラムだった。
世間に迎合しないことが、長寿の秘訣か。
BGM. シド・ビシャス「マイ・ウェイ」
たっちゃん、ピンチ!
20/Ⅵ.(日)2010 一日寝ていたので天気はわからず
昨日、
「ブログ、読みにくいんですよ。もう少し間を空けるとか改行するとかしてくれませんか?」とネギタンに言われた。
自分でもそう思っていたが、追い打ちで「なんか論文みたいなんですよね」と言われへこんだ。
モチベーションが急低下。
この人は僕の心を折る急所を知っているのかもしれない。
BGM. 加藤和彦「気分を出してもう一度」
時代屋の女房
19/Ⅵ.(土)2010 はれ
夏目雅子と「時代屋」でお酒を呑んでいる夢を見た。
つまみはコチの刺身、牛肉を葉っぱにくるんで焼いた物、まこガレイの唐揚げ、店員は石野真子。
夏目雅子と伊集院氏の問題になったところで、僕は
<それは2人の問題だ」>応えたら彼女は泣き出した。
そんなことは重々承知だし皆なにもそう言われている、と。
僕は精神科医でありながら皆なと同じ発言をして彼女を傷つけてしまったのだ。
悪かった、と謝った。
夏目雅子は急にビクッとして
「殺されるかと思った」と怖がった。
君を怖がらせてごめんよ。
大丈夫、エリマキトカゲが君の味方さ。
<そういえば、僕は小さい頃、ワニを飼っていたよ>。
「私はコオロギやカブト虫を家で放し飼いにしていたわ」。
彼女の恐怖心が和らいでくれた。
それにしても、夏目雅子はもう死んでいるのではなかったっけ?
人間というものは、死んでもまだ死を恐れるものなのか?
死人も人間だ、平等なのか。
BGM. 夏目雅子「Oh!クッキーフェイス」
バターになりたい?
18/Ⅵ.(金)2010 快晴のち雨
これから雨が続くそうで嫌になりますね。
ゆううつになるし、この世から取り残されたような淋しい気分にもなります。
孤独感。ひとりぼっちは、さみしいですね。
今日は、手の痺れと胃の調子が悪いから南波先生に鍼と温灸をしてもらいました。
だいぶ良くなった。
中学の頃、TV番組から伊東四郎と小松政男の「シラケ鳥」というのが流行した。
そのギャグ自体は別に面白くも何ともなかったのだが、
燃える男・長嶋茂雄が引退したりして世の中全体が燃え尽きてシラけた世相を反映して、
ウケてたのではなかろうか。
中学生にもなると、「シラケ鳥」は幼稚でシラけ気味であったが。
その後、時代は校内暴力とか「金属バット事件」に代表される家庭内暴力や
暴走族など殺伐とした風景に様変わりして行った。
するとコナイダまでラジオの深夜放送で
「天才・秀才・バカ」というくだらないコーナーで人気のあった谷村新司の率いるアリスが
「冬の稲妻」のヒットを皮切りに爆発的な支持を得たのはよいとして、
ちょっと隙を見せたら武道館で「美しき絆~ハンド・イン・ハンド」などという観客同士が
手と手をつなぎ合い絆を深めるという新興宗教みたいなライブをおっぱじめた。
「3年B組金八先生」がスタートしたのも同じような時期だ。
コナイダまで「ジョーダン!ジョーダン!ジョ~~ダン!!」なんて、
西城秀樹のYMCAをおちょくってJODANという歌を冗談半分に体でアルファベットを作りながら歌っていた武田鉄也が
熱血教師に扮し「‘人’という字は支え合って出来ています。人間は1人じゃない」と熱く語り、
そのフレーズが本当はさびしいだけでやり場のない怒りを
社会に向けるしかなかった不良達の心のブラックホールにピタっとはまった。
孤独に悩むたくさんのひとりぼっちが「金八」や「アリス」という箱舟に飛び乗った。
一方、それに乗り遅れた若者たちもいた。
「金八」や「アリス」に偽善の香りを嗅ぎ取ったり恥ずかしさを感じ
、直感的に「この舟に乗るのは危険だ」と察知したのだ。
現実は定員オーバーで乗りそびれただけかもしれないが…。
そこにビートたけしが登場した。
衝撃的とはこういうことを言うのだろう。
たけしは世間のウソや誤魔化しや偽善を、たけし自身にも内包していると告白しながらも、
露悪的に毒ガスという風刺の効いた笑いに昇華した。
「金八先生、すごいですね~。‘人’という字は支え合うって、‘入る’っていう字になっちゃった。弱っちゃうな~」。
ヒーローに思えた。
僕が今でも忘れられないのは、ある日のオールナイト・ニッポンで、
「アリスってのもすごいですね~、ハンド・イン・ハンドだって。君たちは1人じゃない、って、バカ野郎!
人間みんな1人なんだよ!1人じゃないのはシャム双生児くらいだ!」とやった。
シャム双生児とは体が結合している双生児のことだ。
こんな放送を聴いていたら、聴いてるものも同罪として罰せられるのではないかと心配した。
しかし、そんなことはなかった。
それどころか、世間はビートたけしを歓迎した。
特に「知識人」は率先して評価した。
たけしを評価することが‘インテリげんちゃん’としての評価につながった。
しかし、最も驚くべき現象は「金八」や「アリス」の人気も落ちなかったことだ。
つまり、たけしと金八・アリスのファンが重複したのだ。
想像してごらん(by ジョン・レノン)~、金八に感動しアリスのライブで手を取り合った奴らが、
翌日のTVでたけしに昨日のことをバカにされ大笑いしてるのである。
ある種の贖罪の儀式か?
勝ち残るのは大衆ということか?
密かに、僕は奴らと一緒に笑ってることで知らないうちに汚染され同化してしまうのではないかと恐怖した。
ま、そうなったらそうなったでひとりぼっちではなくなるのだが、
みんなと溶け合ってバターにはなりたくなかった。
ところで、醍醐というのは「バター」のことで醍醐天皇が好きだったからそういう名前になった、
とタモリのオールナイト・ニッポンで聴いて知った。
あくる日、国語の授業で先生が同じ話をしたからたいそう驚いた。バター、豆知識でした。
BGM. 高橋美枝「ひとりぼっちは嫌い」
結婚しようよ
17/Ⅵ.(木)2010 快晴、梅雨?
僕が初めて吉田拓郎を知ったのは、赤塚不二夫の「天才バカボン」だった。
長髪に上下ジーンズでギターを持った若者は、
自身の作った歌だけでは食べていけず常に空腹で食べ物をみると飛びついた。
その名を、めしだたかろう、と云う。
当時、「結婚しようよ」を大ヒットさせフォークソングのブームを作った「よしだたくろう」のパロディであった。
とは言え、小学生の僕にはテレビの出演拒否をするフォークシンガーを知る機会はなく、
このマンガで、どうやら「よしだたくろう」という人が流行っているらしいと知る。
幸い僕には4つ年上の兄がいて彼が「南こうせつとかぐや姫」のファンだったから、
「ヤングセンス」とか「guts」などと言う音楽雑誌が家にあった。
それで、よしだたくろうという人間に注目した。
拓郎が一躍、スターダムにのし上がったのは‘71年8月の「第3回中津川フォーク・ジャンボリー」だという。
反体制シンガーとして「フォークの神様」に祭り上げらたが疲れ果ててしまい「もう歌えない」と
書き置きを残して旅に出た岡林信康が、
エレキ・ギターを持って「はっぴいえんど」をバックに復活するための舞台だった。
岡林を待望するファンは岡林以外のミュージシャン達に「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールを浴びせた。
一方で、よしだたくろうはサブステージでPAの故障でマイクが不能となる中、2時間強、
「人間なんて」ただ1曲だけを歌い続けた。
興奮した観客を鎮めようと、小室等と六文銭のリーダーである小室等は
「メインステージに行こう」と促したのだが、
これが狂気と化した群衆には「メインステージを占拠せよ!」と聞こえ火に油を注ぎ、
群衆はメインステージを破壊して占拠して主催者の吊るし上げと岡林批判のティーチ・インを始めたという。
岡林も散々だ、同情する。
‘72年、よしだたくろうは「結婚しようよ」「旅の宿」と大ヒットを飛ばし、
「天才バカボン」に登場するまでの大成功を収める。
よしだたくろうは、岡林と違ってアイドル性があった。「明星」とかにも出ていた。
本音は嫉妬だろうが、「コマーシャリズムに身を売った」と古いファンの反感も買った。
当時はショービジネスもまだ未熟で、1人で行うライブをリサイタルと呼び、
大抵は合同のコンサートや「唄の市」のようなフェスティバルが主流だった。
そこでたくろうは一斉に「帰れ!」コールを浴びせられた。
しかし、実際のよしだたくろうはそんな軟弱な男ではなく、大酒のみで喧嘩っぱやく弁も立つし生意気で、
豪傑でバンカラなイメージと理論武装した反体制の旗手のようなイメージと
自由な遊び人的なイメージが混じり合っていた。
そんな中、よしだたくろうは‘タイホ’された。
俗に言う、金沢事件。たくろうが公演先の金沢の喫茶店でファンと一緒に酒を呑み、
はじめは和気あいあいとしていたが、仕舞いには口論となり、
A君を殴り、B子さんを旅の宿で強姦したという罪状だ。
たくろうはA君を殴ったことは認めたが、B子さんを強姦したことは否定した。
当時のマスコミはもろびとこぞりて、たくろうを叩いた。
何故か、「月刊明星」だけは好意的だった。
人気のあるものがシクジリを起こすとここぞとばかりに攻撃し引きずり降ろそうとする。
持ち上げて落とす。
マスコミの機能は昔も今も変わらない。
結局、この事件はB子さん側が告訴を取り下げケリがついた。
どうやら、たくろうと知りあったことを仲間に吹聴してるうちに婚約者の耳にまで入ってしまい、
引っ込みがつかなくなったというのが真相のようだった。
たくろうの冤罪の訂正記事を出した週刊誌はほとんどない。
たくろうは雑誌のインタビューで、無罪でなくて不起訴というのが自分らしい。
無罪の‘無’は潔白なイメージだが、不起訴の‘不’は不良とか不道徳の‘不’だ、と笑った。
これが少年の心を掴まない訳がない。
僕は、よしだたくろうの虜になった。
LPレコードを全部揃えた。
エレック・レコードという今で云うインディーズの時代のものから、CBSソニーに移ってからのもの全て買った。
翌年の大晦日、
よしだたくろうは上下ジーンズの格好で森進一がレコード大賞をゲットした表彰の場に「襟裳岬」の作曲者として登場した。 歌謡曲がすごく権力を持ち「体制」だった時代にだ。
レコード大賞がほぼ全国民が視聴する国民的行事だった時代にだ。
たくろうは権威の前に世辞を使うのでもなく、挑発するのでもなく、ボイコットするのでもなく、
森進一と軽く挨拶を交わすと冷静に壇上に並んだ。かっこよかった。
その翌年には、たくろうは僕の兄が好きだったかぐや姫と一緒につま恋で野外オールナイトコンサートを決行した。
僕らはそのニュースに胸を躍らせた。
中学生と小学生の兄弟がフォークソングのオールナイト・コンサートに出かけられる訳がない。
僕らは想像力を駆使して、各々にレコードを聴いて妄想を膨らました。
ちなみに平仮名表記の「よしだたくろう」というクレジットはこのあたりまでで、
小室等・井上陽水・泉谷しげるらとおそらく本邦初となるミュージシャン自身で立ち上げたレコード会社
「フォーライフ・レコード」以降の作品は漢字表記の「吉田拓郎」というクレジットに変わった。
僕はそれから何年もの間、「よしだたくろう」や「吉田拓郎」ばかりを選んで聴いた。
全部の曲を録音状態と同じような節や発音で歌えたし、
すべての歌詞を歌詞カードと同じようにスペースを空けたり漢字や仮名の使い分けまで注意深く再生できた。
「今はまだ人生を語らず」や「明日に向かって走れ」や「ローリング30」が好きだった。
吉田拓郎の「オールナイト・ニッポン」や「セイ・ヤング」は毎回寝ないで聴き学校で寝て、
毎回テープに録音し次週まで繰り返し聴いた。
拓郎の生き様が好きだった。
だから、後年、KinKi kidsと共演する拓郎を観るのは辛かった。
昔からアイドルに楽曲提供したり、ラジオ番組のゲストにアイドルが来て軽口を交わすのは見慣れた光景だった。
しかし、往年の拓郎はトンガっていた。
それが、ほのぼのとした空気の中でKinKi Kidsにいじられてやりこめられて苦笑いをしている。
なんでKinKi Kidsなんだ?
話を戻すが、1979年、拓郎は篠島でアイランド・コンサートというオールナイト・イベントをやることになった。
「流星」というシングル曲が発売され、そのB面が「アイランド」だった。
あきらかに篠島のイベントを意識されて作られた曲で、
曲の終りに「人間なんてラ・ララ~ラ・ラララ・ラ~ラ」とコーラスがかぶってフェイド・アウトするのだ。 「続きは、篠島で!」と言われてるようだ。
毎日の生活にも気合が入る。
しかし、僕は篠島には行けなかった。
高校生の男子を、
何県にあるのかも答えられないような島で行われるオールナイト・コンサートへ行く許可を親が出さなかったのだ。
ま、妥当な判断だ。
篠島コンサートは、文化放送でぶっ通しで生放送されることになった。
「青春大通り」と「セイ・ヤング」の枠をつぶしたのだ。
僕は夕方からラジオの前に座った。
ラジカセの脇に交換用のカセットテープを積み上げて、聴きながら全部録音した。
深夜にさしかかった所で、ゲストが出演した。
さすがに拓郎にも休む時間が必要だ。
一人目のゲストは小室等だ。
今生きていることがどうしたこうした、という谷川俊太郎が書いたという詩に曲をつけ延々と歌い、
お馴染の「雨が空からふれば」をいつも以上に貯めて
「あ~の~ま~ち~ほぉ・わ~あ~め~のなか・っは~、こ~の~まっちぃ~も・っほぉ~あ~め~の・な・か・っは~」
と熱唱していた。
次に、出てきたのが長淵剛だった。
長淵はその頃、南こうせつのオールナイト・ニッポンで「つよしの裸一貫、ギターで勝負!」という
コーナーを持たせてもらっていたので、こうせつのオールナイトを毎週聞いていた僕は長淵の歌や、
長渕剛が拓郎のファンであることを知っていた。
女目線の生活感が滲み出た恋愛の歌が多かったが、気の良い隣のお兄ちゃんみたいな人だった。
長淵が登場するなり観客は「帰れ!帰れ!」とシュプレヒ・コールを送った。
拓郎のアイランド・コンサートに出るに相応しい覚悟があるのかという踏み絵的な意味と、
拓郎もそこを通って来たんだという洗礼的な意味合いと、
いい加減あきて来ちゃって早く拓郎に出て来て欲しいフラストレーションが、
拓郎の先輩に当る小室等にはさすがにぶつけられず、
丁度いい具合に気の弱そうな若者がしゃしゃり出てきたから、
小室等のつまらさの分もまとめてこいつでウサ晴らししようぜ(半笑い)
的な意味が入り混じっていたのではないか。
長淵剛は「俺は帰らない。ここで歌う」みたいことを言って自分の持ち時間を全うした。
これが後に武勇伝みたいに語られているが、
ラジオを通して聴く限りはそんなに大したハプニングでもなかった。
「帰れ!」コール自体がある意味‘パロディ’だったし、
お祭りの一環という認識は皆にあったし、
長淵のゲスト出演が決まった時点で「やっちゃおうか?」的なお約束はファンの間にあった。
だから、すごく優しさにも満ちていた。
通過儀礼みたいなものだ。然し、これがその後の大変な事件の引き金となったのだ。
長淵剛はこの件で男をあげ、オールナイト・ニッポン2部のパーソナリティーの座をゲットした。
このあたりで彼の守護霊が入れ替わったのではないかと僕は睨んでいるのだが、明らかに曲調が変わってきた。
最終的には皆さんもご存じのようにチンピラみたいになっていくのだが。
ある日、長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。
やはり同じような縁を使ったのだろう、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。
当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。
フランク永井だってしない。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。
番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。
只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に言葉は忘れたが「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。
そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。
深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。
その数ヶ月後に2人は結婚する。
真子はトップアイドルの座を捨て引退。
ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。
アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。
自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。
当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。
松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、
もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。 運も実力のうちか。
その位、石野真子のアイドルとしての可愛さと人気はズバ抜けていた。
石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。
真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と
自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。
司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。
泣き出す真子。
観ているこちらもつられて泣き出す。
「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。
締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに
「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」
という名言を残し、コマーシャル。
僕は涙が止まらなかった。
ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と
読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で
本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。
涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。
数日は放心状態。
もうテレビは見なかった。
心配した友人が「早く立直るには誰か別の人を好きになることだ」とアドバイスしてくれた。
とりあえず、「好~き~、スキ・スキ・スキ~、すき通った~光の中~で~」と
コルゲントローチのCMソングを振りつきで歌っていた柏原よしえのファンに転向することにした。
柏原よしえというのも不思議な人だった。
この人も途中で守護霊が入れ替わったんじゃないかと思った。
はじめは可憐で昔のアイドルの歌をカバーして懐古趣味を煽ったかに見えたが、
ちょっと目を離した隙に「よしえ」が「芳恵」になっていて、
さらに油断していたらセクシー路線というか魔性の女みたいなっていた。
豹変といえば豹変なのだが僕には野蛮にしか見えなかった。
何を言いたいかというと、
失恋したからといって別の人で埋め合わせようとしてもうまくゆくとは限らない、という教訓である。
こないだノートの整理をしていたら、宛先のない1通の手紙が出てきた。
中を見てみると、僕の字で恋文が書かれていた。
よしだたくろうの「プロポーズ」という歌の詩がまんま引用されている。
「プロポーズ」は『よしだたくろう オン・ステージ第2集』というエレック・レコード時代のLPの中で、
ナイーブな詞と印象的なメロディーの「静」という初期たくろう作品の中でも名曲と誉れ高い代表作の直前に朗読された詩である。
エレック時代のLPは後にフォーライフから復刻発売されているが、
何故かこの『オン・ステージ第2集』だけは復刻されなかった。
幻のLPだから出所がわからないとふんでパクったのだろうが、
このラブレターは誰かに向けて書いたのは間違いない。
それが誰かは思い出せない。
高1か高2だ。
男子校だったから女の子との接点は少ない。
ひょっとしたら恋に恋をしていて、誰か好きな子が出来た時のためにあらかじめ書いたラブレターで、
投函されないまま机の引き出しの奥に眠っていて、結局書いたことさえ忘れていたのかもしれない。
時代は、サザン・オールスターズがデビューした頃で友人は
「ビリー・ジョエル」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」とか「スティービー・ワンダー」とかを
聴いていた頃である。
こんな詩である。
『 僕の目の中の片隅の とても美しくとってある風景と さみしすぎる素直さ 幾日も幾日も陽が射した 唄のねと およそ争いを嫌う腕 飾られそうになるとつむぐ言葉と 鍛えられるのを嫌う 柔らかい筋肉 めぐらしてもめぐらしても 元に戻ってくる未来へ それから夕暮れにおいてきた優しい言葉の全てを 君に贈ります 』
「吉田拓郎/挽歌を撃て」という本を、約30年ぶりに書棚からとって読んでみた。
80年に発行された本だ。
「金沢事件」に関して面白い箇所があったので抜粋して引用する。
『金沢事件にはっきりとした決着をつけるとしたら、逆告訴するということしかなかった。
当然ともいえる拓郎側からの逆告訴を阻んだのは、拓郎の母の言葉だった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」。
B子さんはまもなく結婚するという話であった。
母は我が子の冤罪を晴らすことより、むしろ加害者である娘の幸せを願った。
拓郎の父は鹿児島県史の編纂者であった。
鹿児島県谷山町で育った拓郎は、小学3年になる時に広島市に移る。
母が盲学校の栄養士兼お茶の先生として働くことになり、
兄、姉、拓郎は母方に引き取られることになったのである。
朝鮮からの引揚者だった吉田家は、父の勤務した鹿児島県庁の給料だけでは家計的に苦しかった。
西郷隆盛の流れを汲む父は一徹者で、朝鮮戦争の特需景気に便乗するような器用な真似も出来ず、
ただひたすら我が運命のように鹿児島県史の研究に没頭していた。 父は以降、たった一人の生活で研究に明け暮れる。
昭和48年1月10日、父は深夜執筆中に突然脳卒中で帰らぬ人となった。
死の直前まで机に向かっていたという壮絶な死であった。
拓郎は父は本望だったろうと思った。
母にしてみれば、‘家庭人’としての父と、晩年は共に暮らしてみてもみたかっただろう。
その悔いが、父の死から4カ月後に起こった息子の金沢事件への干渉となった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」母はくりかえし言った。
拓郎はうなずくと、弁護士に電話をかけた。
「逆告訴を取り下げます……」』。
BGM. よしだたくろう「結婚しようよ」
TVの国からキラキラ
16/Ⅵ.(水) 雨のウェンズデイ
最近みた夢。
◎ダウンタウンの浜ちゃんと松ちゃんが、僕をプールに落とそうと画策している。
番組の企画か?親しみを込めたおふざけか?
◎石野真子がCM女王に返り咲いた。
◎中山美穂が「ラブラブ電報をもらって嬉しい!」とCMに出ている。
懸賞は、テレフォン・カード。
◎三河屋温泉に泊まる。
どのチャンネルをまわしてもテレビは「忍者ハットリくん」しかやっていない。
BGM. 田原俊彦「ハッとして!Good」
W杯勝利記念 『作戦勝ち』
15/Ⅵ.(火)2010 はれ
僕はまったくサッカーを見ないが、さすがに日本がカメルーンに勝ったというニュースは見た。
戦術やゴールがどのくらいスゴいのかはわからないが、詳しい人に聞くと「作戦勝ち」らしい。
作戦にも色々あろうが、圧倒的な兵力の差がある相手と戦う時に有効なのは頭脳戦である。
おそらく頭脳戦とは、
①心理的な罠を仕掛け
②精神的に苛立たせ
③相手の持ち味を封じ込め
④攻撃を空回りさせ
⑤動きが雑になったところを仕留める、クレバーな兵法である。
かつて僕は、頭脳戦のお手本みたいな試合を観たことがある。
それは、ジャイアント馬場vsスタン・ハンセンの一戦だ。
全盛期を過ぎた馬場は勢いに乗るハンセンに破れPWF世界ヘビー級ベルトを奪われた。
リターン・マッチが組まれたが、もう誰も馬場が勝つとは思わなかった。
しかし、馬場はここでハンセンにものすごい頭脳戦を仕掛けたのだ。
タイトルマッチが決まった日から、報道陣に「次の試合に秘策がある。
ハンセンがウエスタン・ラリアートを仕掛けて来た時に‘16文ラリアート’を打つ」と言うのだ。
それを伝え聞いたハンセンは慌てた。
「ナニ?‘16文ラリアート’だと?16文は馬場の足のサイズだろ?ラリアートは腕を使う技だ。
どうやってやるんだ?そもそもラリアートは俺様の得意技だ!」と激高し、記者たちに八つ当たりした。
ジャイアント馬場は余裕しゃくしゃくに
「ま、当日を楽しみにしてよ」と太い葉巻を吹かし、記者たちの質問を煙に巻いた。
ハンセンのイライラがピークに達した頃、決戦の火蓋は落とされた。
普段のスタン・ハンセンの試合ではなかった。
いつものハンセンらしい破壊力が陰をひそめた。
‘16文ラリアート’を恐れるばかりに踏み込んだ攻撃ができないからだ。
その為、馬場に決定的なダメージを与えられないのだ。
一進一退の攻防の中、正直ここまで馬場が善戦するとは思わなかった、
不用意に飛び込んだハンセンをクルっと馬場が「小包固め」に丸め込んで3カウントを奪って勝利した。
「小包固め」とは、
相手の首に自分の腕を巻きそのまま自分の足を相手の足にひっかけクルっと前転させエビに固めるセコイ技である。
馬場は勝利者インタビューで、「16文ラリアート?そんなモン無いよ。16文は足のサイズ、ラリアートは腕を使う技。
出来る訳ないだろう」と笑い飛ばした。
ハンセンは‘16文ラリアート’という亡霊に負けたのである。
馬場の談話を伝え聞いたスタン・ハンセンは「ガッデム!」と悔しがったという。
お昼に、徳田さんからトゥーリオが日本に来て仲間と溶け込むまでの苦労話と
トゥーリオは実は日本に帰化していて「〇〇〇」という漢字の名前であることを聞いた。
「〇〇〇」は覚えていない。
そう言われて思い出したのだが、
沢村栄治と並ぶ戦前の巨人軍のエースだったスタルヒンは戦時中は
「須田博」という漢字の名前にしたそうな。
BGM. ザ・プラターズ「16トン」