25/Ⅶ.(火)2017 はれ 7/24&25は国会は閉会中審査、カワクリは7/24川原・7/25大平と誕生日ラッシュ。
去年の10月頃、
色々と大変だった僕はブログの記事も書けず、
仕方なく、高校の頃からつけていた夢日記に、時々、挿絵も添えていたから、
それらをアトランダムにピックアップして、夢のイラスト展覧会、という苦肉の策を載せました。
それが殊の外、好評でしたものですから、世の中とは不思議なものですね。
そこで、今回の企画は素晴らしいですよ。(これが本当の自画自賛ですね)
受付の大平さんに、元のイラストに塗り絵の要領で着色してもらい、リニューアル。
題して、夢の展覧会・総天然色カラー版!
下が、現存する最古の夢日記ノート。1981年ということは…36年前のもの。↓。
36年前と言えば、大平さんはまだ生誕してないですね。
でも、この夢日記を書いてた(描いてた)僕は、10代後半~20才そこそこですから、
今の大平さんにとっては、川原先生の絵ではありながら、年下の男の子~タメの年齢の絵です。
どんな気持ちで塗り絵をしたのでしょう。
そんなタイム・パラドックスも味わいの一つとして、どうぞご賞味下さい。
それでは、ここからは大平っちにバトンタッチDEATH!
こんにちは。受付、大平です。
鑑賞方法の説明です。
・作品タイトル&先生の当時の年齢→先生の夢のイラスト(プレーン)→総天然色カラー版→大平のつぶやきコメント、の順です。
それでは、ごゆっくりお楽しみ下さい。
・カラス貝のマニキュア女vsトラディショナル・ブルー~瞳~少年風(1981.9月:川原少年19才の作品)
↓
カラス貝は黒?色っぽいは何色?紫かな・・・
・伊藤つかさは、トマソンがお好き(1982.1月:川原少年19才の作品)
↓
左下の謎のポーズをしてる3人組みがお気に入りです。
・貪婪(どんらん)…非常に欲が深いこと(1982.1月:川原少年19才の作品)
↓
これ、私が塗ったんじゃなかったりして・・・
(だから塗り直し)
↓
魔法の書を読み始めた感じで色を塗ったんですが、タイトルは貪婪だったのですね・・・
・手のひらを太陽に(1982.1月:川原少年19才の作品)
↓
こういうポスター学校とかに貼ってありましたよね。
・もう君に逢うこともない、心は揺れても(1982.2月:川原少年19才の作品)
↓
北京のバッグが気になると川原先生に話したら、本当に先生が持っていたバッグらしいです。
・小田急線のひとコマ(1982.2月:川原少年19才の作品)
↓
この絵、座ってるとこ上手くかけてますよね。
・本厚ちゃん(1982.3月:川原少年19才の作品)
↓
かわいくしたかったのに無理でした・・・。
・キヨシローのまね(1982.3月:川原少年19才の作品)
↓
カラフルにすればそれっぽく見えないですか?
・川守田(1982.4月:川原少年19才の作品)
↓
川守田さんは先生のお友達です。
・一人になりたい…ううん、一人がいやだから。(1982.7月:川原少年19才の作品)
↓
後ろにいるのはサメなのでしょうか?・・・えぼし岩だそうです。
・伊代はまだ(1982.8月:川原青年20才の作品)
↓
腕が長いですね。先生が20歳の頃、松本伊代が流行っていたんですかね。
・天才の誤算(1982.9月:川原青年20才の作品)
↓
靴が素敵なんですよ。
・テスト前日(1982.12月:川原青年20才の作品)
↓
こういうよく分からない絵を塗るのって楽しいです。
・物理ダメ(1983.2月:川原青年20才の作品)
↓
これ,左側にスイーツ隠れてたんです。
・ダルなboyは、Love is Real.(1983.3月:川原青年20才の作品)
↓
『Maiこ』ちゃんは先生の好きだった子ですかね?私には『Maiこ』に見えたんですが、
『Maiこ』じゃなくて『Mari』だったんですね・・・
・マリン・スポーツ(1983.5月:川原青年20才の作品)
↓
ドラえもん、オバQ、いしのまこ、カバ・・・なぜかカバ。
・カルピス(1983.5月:川原青年20才の作品)
↓
カルピスのボトルに書いてある帽子をかぶったやつが可愛い!!
・誕生日。小指と小指をつないで歩く、理科室でキス(1983.7月:川原青年20才の作品)
↓
理科室のガイコツ懐かしいですね~
・夢見る年頃~36/38≒95(1983.8月:川原青年21才の作品)
↓
夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第3位。
・野球大会(1983.8月:川原青年21才の作品)
↓
先生の書くドラえもんは丸くない!
・クリスマス・イブ(1983.8月:川原青年21才の作品)
↓
夢の絵の中で1番かっこいい絵だと思います。
・恋人峠の昼下がりPart.2(1983.9月:川原青年21才の作品)
↓
夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第1位。
・すっかりトロピカル(1985.7月:川原青年22才の作品)
↓
陽気な感じと南国な感じが夏にピッタリの絵です。
・明日のイブはRC(1985.12月:川原青年23才の作品)
↓
8時42分に何が起こったんでしょう。
・オキドキの古着で遊園(1986.5月:川原青年23才の作品)
↓
ベレー帽といえば赤です。これもしかして塗り途中かもです・・・。
(それを完成)
↓
「オキドキ」って川原先生はお店の名前と言っていましたが、私はマリオが思い浮かびます。
・直ちゃん(1987.6月:川原青年24才の作品)
↓
これは塗りやすい絵だったんですが、サインペンで色を塗るのは難しくて、
色鉛筆にすぐに戻しました。
・Hanesの白のTシャツに血を滴らせてしまった(1987.6月:川原青年24才の作品)
↓
私も白い服にシミができた時こんな顔します。
・元・日本軍の男と、ユキヒョウ(1987.7月:川原青年24才の作品)
↓
「ユキヒョウはどこにいるんですか?」と塗っている時に不思議でしょうがなかった絵。
・大船観音がくずれた(1987.7月:川原青年24才の作品)
↓
観音様のお顔だと気づかず、先生に言われて気づき塗り足しました。
・みつけてくれたらキスしてあげる(1987.7月:川原青年24才の作品)
↓
真ん中の子にと左の子にかわいさをプラスしました。気づきましたか?
・甘くて冷たいアイスクリーム・ベイビー(1987.7月:川原青年24才の作品)
↓
この絵のタイトルを知らない人から「31アイスみたいだね」と言われ
塗り絵レベルが上がったと実感し嬉しくなりました。
・気がつけば兵隊(1987.7月:川原青年24才の作品)
↓
みんなの表情がいい。
・眠れ。ライオネル・リッチーの墓の上(1987.7月:川原青年24才の作品)
↓
どんな色で塗っていいかもわからなくなってしまった絵。
・スタン・バイ・ミー(1987.8月:川原青年25才の作品)
↓
暑い日は海辺でのんびり、いいですよね。
・ニース予想図(1987.8月:川原青年25才の作品)
↓
ニースってフランスのニースですかね?噴水あるんですか?
・アイスもハシャいでる、僕は日焼け(1987.8月:川原青年25才の作品)
↓
また、アイス!後ろの2人は羨ましがってるのかな。
・ダチョウ(クジャク)ともも焼き(1987.8月:川原青年25才の作品)
↓
ダチョウ(くじゃく)って全然違う鳥だけど・・・
・僕は照れる(1987.8月:川原青年25才の作品)
↓
川原先生はいったい何に照れたのか?
・新宿地下の靴専門店(1987.8月:川原青年25才の作品)
↓
この失明者用の靴は指の先が触覚の様に動くと先生が説明してくれました。
・過ぎ行く夏を惜しんで~絵を描く2人の少女(1987.9月:川原青年25才の作品)
↓
最初に先生が少しだけ色を塗っている絵は色を塗るのがラクです。
・念力(1987.9月:川原青年25才の作品)
↓
念力は見えないから何色にしようか迷いました。
・さっきまでの競争のつづきだ(1987.9月:川原青年25才の作品)
↓
人を緑色で塗ったらハルクみたいにみえますね。
・渡り廊下の窓から連中が手を振る(1987.9月:川原青年25才の作品)
↓
渡り廊下だと気付かず、カラフルにしてしまいました。
ちなみにこの絵左側にいるのは川原先生で
研修?授業?かなにかをさぼって帰るところのだそうです。
手に持っているのは白衣だと言っていたのですが、
私には抱き枕かぬいぐるみに見えました。
・脳外科はじまる(1987.9月:川原青年25才の作品)
↓
これは一体何でしょう???
・お前はストーブの前でのびていた。あくびしかしなかった(1987.9月:川原青年25才の作品)
↓
これ、色を塗っていたらよく分からないパーツがあって、そこだけ着色しませんでした。
・聴神経腫?すぐに手術(1987.10月:川原青年25才の作品)
↓
わかめ・・・
・宙に浮く機械(1987.10月:川原青年25才の作品)
↓
宙に浮く機械!夢っぽいですね。
・すいみんやくが欲しい(1987.10月:川原青年25才の作品)
↓
夢の展覧会の絵の中で私が気に入っている第2位。
・明るく生きるコト(1987.10月:川原青年25才の作品)
↓
川原先生はカラフルなボーダーが好きらしいです。
・サンボのジャケット(1988.7月:川原青年25才の作品)
↓
サンボってなんですか?っと聞いたら格闘技の雑誌を川原先生が見せてくれました。
・オバQが正ちゃんのクラスの記念写真に写ってしまった。皮膚科テスト、60点。(1988.7月:川原青年25才の作品)
↓
記念写真にオバQ写ってたらおもしろいですよね。
・ウサギに乗って空を飛ぶ(1988.12月:川原青年26才の作品)
↓
いい夢ですね~。ウサギに乗ったらもふもふなのか。
・うその固まり(1989.1月:川原青年26才の作品)
↓
「きみだけに話すんだけど・・・」て誰かに話すと皆に知られていた小学生の時を思い出しました。
・すべては幻想である(1989.1月:川原青年26才の作品)
↓
ヒョーロン家が怪しい。
・柔道(着)一直線!激しい視線の火花が散る(1989.4月:川原青年26才の作品)
↓
三角関係ですかね!!!
・世代交代の口約束(1995.3月:川原中年32才の作品)
↓
先生の描く力士はなんだか可愛い。
・2002.8月6日からの夢日記の表紙:先生不惑の40才の作品
↓
この夢の絵に色づけするとき『これは何だろ?、川原先生の夢だからこんな色でもいいかな』と、
タイトルを教えてもらうまで何の絵かも分からなかったり、
普段の私だったら使わないような色で塗ってみたりという絵がたくさんありました。
自分じゃない誰かの絵を塗るのって面白いですよね。
それが川原先生の描いたなんか可愛くて奇妙な夢の絵だからもっと面白い。
何ヶ月かのあいだ、受付業務の合い間のちょっとした楽しみの1つでした。
川原先生が最初にかいていましたが、この夢の絵の中には
私より若い頃の先生が描いた絵もあるんですよ・・・。
なんだか不思議な気分になりますね。
BGM.OH MY GIRL「Coloring Book」
母の日
17/Ⅴ.(水)2017 連投
こないだの日曜は、母の日、だったそうで、週明けにもなると、
「誰々さんの家ではこんなことをしてもらったそうよ!」という母親の不満の怒号から、
口論がやまないご家庭もお有りのことでしょうね、皆さん、お元気ですか?
僕はもうとうに母が死んでるので、母の日、なんて忘れていました。
今や、母の日で思い出すのは、カーネーションより、まよいマイマイ、になってしまいました。
そんな僕ですが、そんな僕だからこそ、少し母のことを思い出しましょう。
これは、母の遺歌集。↓。
中の写真に、自宅前とあるが、これは近藤先生というお方のお家を訪問した時に、近藤先生のお宅の玄関先で撮ったもの。
それが、自宅前にて、となってるから、この本が出版された時、さぞかし近藤先生は驚いたことでしょう。
この歌集の編集の一部は僕がやりました。
僕のミスです。近藤先生、すみません。お家、乗っ取っちゃって。↓。
母の死後、押入れから、僕が子供の時に描いた絵が出てきた。
これは近所の養鶏場で描いたもの。
形見分けの時に、兄に、「持って行け」と言われたので、診察室に置いてある。↓。
話は変わりますが、小学校の何年生だったか忘れたが、夏休みの宿題が終わってなくて、
最終日、大人が集まって手分けしてやった。リアル・サザエさん(カツオ)。
一番大変だったのは、「自由研究」。
母は何の変哲もない木箱を持って来て、その蓋に、僕に絵を描かせた。
僕は、蕎麦屋の前の置物の、タヌキ、の絵を描いた。
母は、趣味で、鎌倉彫、をやっていたから、僕のタヌキを上手に彫って、色をつけて、上にニスを塗って完成。
これが優秀だと評判になり、神奈川県の賞をとり、どこかに展示された。
「子供らしい視点、自然との調和と、子供らしからぬ技術の確かさ」みたいなことが評価された。
母は、ニワトリの絵はとっておきながら、この鎌倉彫、は捨てていた。
僕が作ったものじゃないからかな。親心って、そんなものなのかな?
母の死顔はおだやかで眠ってるようでした。
僕はその後、寺の坊主とケンカして墓参りには一切行かないし、実家にも10年以上寄り付いていないから、
今でもふらっと茅ヶ崎の家に帰ったら、母がメロンでも食べてるような気がしてなりません。
BGM. 八九寺 真宵(加藤英美里)「帰り道」
上手な川原達二の作り方
19/Ⅲ.(日)2017 母の命日
※今回はこれまでのブログ記事から母の思い出をピックアップして加筆・修正して編集した企画です。
(1)母は2006年3月19日に死去していますが、僕はろくにお墓参りなどしていません。
そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、そのお墓には両親の骨が入っています。
でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。
それは、あの寺の坊主がひどい人相をしていて、態度もふてぶてしい。おまけに、その嫁も。
あいつらと喧嘩して、お墓参りをしなくなった。
そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかった。縁もゆかりもない場所だ。
何かの歌にあったけれど、お墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのだ。
僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。
そもそも法要があったかどうかさえも知らされてないし。
こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれない。
なので名誉挽回に、今日は母の誕生日なので、母の思い出を綴ろうという訳だ。
形式にとらわれない、供養の仕方を模索しよう。母に語りかける口調で。
・お母さん、小学校の頃、僕は背が小さかったですね。
ある日、お母さんは僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ましたね。
「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいましたね。
聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言ってましたね。
僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど。
お母さんが悔しがってるのが、かわいそうでね。
僕はお母さんを馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。
それで、家に帰って、その報告をしたら、お母さんは嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてたね。
・もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きましたね。
僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血しましたね。
すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しましたね。
・箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃。
お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって。
口もきかないから、お母さんは困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいましたね。
・大学の入学式です。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。まだ反抗期ですね。
僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。
お母さんは、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってましたね。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。
あれが正解だったのかも。
・そう言えば、兄の結婚式の時も。
僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。
結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、お母さんはホットした顔をして、振り向いて笑っていましたね。
・僕は、お母さんの作る「ロースト・ビーフ」が好きでした。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですね。
高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。
それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べる。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないのです。お母さんは、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったですね。
・こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。
僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。
その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言う。
多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたのだろう。
だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえない。
その子と目と目が合った。僕は、<お前、意地でも喋るな!>と気合いをこめて合図を送った。
しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがった。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていて。
僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、お母さんのことを思い出して、考えますよ。
お母さんは、僕の心の中にいると思ってますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だね。
(2)山口百恵は、まだ中3トリオの一番地味な子、っていう括りからやっと抜けたかどうかが僕のイメージだった。
ここから山口百恵は大きく軌道を修正して‘神話’や‘伝説’というおかしな方向に進むのだが、
『百恵白書』はその第一歩で、中でも一番、食あたりしたのは「いた・せくすありす」という、A面の3曲目の歌だ。
タイトルは森鴎外の性欲史みたいな小説をモジったことからもわかるよに、
百恵の性的なことに関する告白みたいなものが録音されていた。
あの下品な鶴光のオールナイト・ニッポンよりも、聴いてるところを母親に聞かれたくなかった。
畑中葉子の「後から前から」の方がまだマシだ。何を言ってるんだ?
(3)母は働き者で浮かれたとこはなかった。
だから芸能人で誰が好きかなんて話も聞いたことがない。
唯一、歌舞伎の坂東玉三郎を贔屓にしていたくらいか。
晩年は、兄がアリスの堀内孝雄に似てると誰かに言われたらしく、2か月半くらい堀内孝雄を応援していた。
(4)僕は子供の頃、あまり大きい方ではなかった。
背の高さなんてどうでもいいと思うのだが、他人に「タッちゃんは小さいからね」と言われると、
母はよく、「サンショは小粒でピリリと辛い!」と怒っていた。
写真は、母が作ってバザーに出した麒麟のぬいぐるみ。
僕の方が、少し背が高く設計されている。赤いマフラーはサイボーグ009。↓。
(5)小学校低学年の頃。母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。
だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、
母が死んだら後を追おうと決意した。母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。
僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。
中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、
掲載されてるマンガがシュールで面白かった。
誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、
いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して、エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなってしまった。
(6)「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真のTシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、「木馬座」のもぎりのおばさん。うそ。母。↓
(7)それにしても、暑い毎日だ。僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。
(8)山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む。23歳の医学生だった風太郎の、昭和20年1月から12月までの日記。
始めは文語体だった日記が、だんだん口語体に変わっていく。
母は山田風太郎のことを「プー太郎」と呼んでいた。プー太郎、って結構、古い単語みたいだぞ。
(9)子供の頃、祖母が蕎麦屋から「もりそば」の出前を取り、海苔をたくさん千切ってかけて「ざるそば」にしているのを発見した。
祖母が言うには、「ざる」と「もり」では百円の値段差がある。
それなら、自分の家で海苔をかけた方が良いと言うのだ。
帰ってそのことを母に話すと、大きな溜息をつき、昔は、「ざるそば」と「もりそば」では御つゆが違ったものよ~、と
現代そば事情を嘆いた。
僕は、この親子はアベコベだな、と思った。
(10)母の誕生日は11月5日、「いい子」だ。いとこのあっちゃんも同じく、「いい子」。
Sちゃんの誕生日は4月15日、「よい子」だ。 Sちゃんの娘は1月17日生まれで、「いいな」。
僕の誕生日は7月24日で、「何よ?」。 川原クリニックの電話番号は7255で、「何ここ?」。
亡き母を偲び、語呂合わせの巻、でした。
(11)小学校の頃、母の買い物は日本橋の三越か横浜の高島屋で、付き添い役は僕。
横浜の帰りは、ダイヤモンド地下街というところの『鳥◎』で釜飯を食べた。
その手の焼鳥屋さんがそうであるように、釜飯が炊き上がるまでの間、焼鳥をつまみながら待つのである。
僕は偏食なので、鳥皮を30本とか40本とか食べるのである。そして、母の釜飯を少し分けてもらう。
鳥皮だけを馬鹿のように食べる小学生を見て、店のおじさんは「この子は、将来、大物になるよ」とあきれ返り、
それを真に受けた母は喜んで、「このお店だって繁盛するわよ」とお世辞で返してたのが微笑ましい。
ちなみに、今、『鳥◎』はない。
(12)子供の時、寿司の出前は高級な「寿司A」と決まっていたが、僕は近所の立ち食い寿司屋の「寿司B」の方が好きだった。
子供ごころに「寿司A」は気取って見えたし、性分としてのアマノジャクと判官贔屓もあった。
さらに、親に怒られて家から締め出されると、家のお金をチョロまかして「寿司B」に寄っていた、常連気分も手伝った。
僕は、穴子の甘いツメが好きで、マグロもエビもタコも全部ツメで食べたが、穴子が断然旨かった。
「寿司B」のおじさんは笑って、「それは、ツメは穴子から作るんだから当たり前だよ」と教えてくれた。
それ以降、10年以上、僕は寿司屋では穴子しか食べなくなるのである。
だから、家で寿司の出前をとる時も、「寿司A」で大きな桶を頼む時は、僕用に「寿司B」で穴子だけを注文した。
そんなある日、「寿司A」の出前と「寿司B」の出前が玄関で出くわしてしまった。桶の大きさが全然ちがう。
「寿司B」のおじさんの決まりが悪い風に見えて、「寿司B」のおじさんに嫌な思いをさせたのではないか、と大変気にした。
それを知った母は僕に、「タツジの1番は『寿司B』なんだから、堂々としていればいい」と言い、僕は<なるほど>と思った。
(13)母はバレンタインに毎年、死ぬまでチョコレートをくれた。
皆さん、思春期の男子にとって、その年のバレンタインデーのチョコレートが、
「収穫ゼロ」と「母親から貰った1個だけ」、のどっちが嫌だと思います?。ビミョーなラインだと思うなぁ。
(14)僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。
母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、
「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。毎回言う。
(15)河岸といえば、僕も子供の頃、年の瀬になると母親に連れられて買出しに行った。
母は、東京の人だから、年末には築地に行ってものすごい量を買い、従業員や近所に配っていた。
母からは河岸のルールをいくつか教わった。場内を車が通るのだが、それは車がよけるのではなく、人がよけるのだと。
ひかれたら、ひかれた人が悪いらしい。母は、場内に入ると、俄然キビキビしてきて、チャキチャキしてくる。
ある店で買い物をして、店の人がお釣りを渡すのにまごついていたら、
「いくらお釣りなの?200円?それなら、ここにあるわよ!」と店の人に200円を渡して帰って来るのだ。
僕が、<今のは、おかしいぞ。200円向こうが払うのを、こっちが200円払ったら、400円の損だ>と指摘したら、
「達二、ここでは、それでいいの!」と言い切った。
寿司屋の大将に、母から聞いた「河岸ルール」をたずねてみると、
「車は今でも、そうですね。だから、場内は勝手を知ってる人と行かないと怖いですよ」と真顔で言った。
<お釣りの件は?>とたずねると、「う~ん、どうでしょう?それはないんじゃないでしょうか~」と笑いながら答えた。
(16)立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、というのは女性を美人だとおだてる時に使う文句だ。
美人とお花といえば、子供の頃、母が観てたので一緒に見てた、「花ははなよめ」というドラマを思い出す。
主題歌が、メロディーに乗っけてただただ花の名前を並べるだけで、途中に「いよー」とか「よーい」とかお座敷っぽい合いの手が入る。
それは、主演の吉永小百合が芸者なのだが、3人の子連れの花屋にお嫁に行くという設定だったからだろう。
僕がよく覚えてるのは、吉永小百合が「母親」であることに悩んで、自分のお母さん(この人も芸者)の淡島千景に相談に帰ると、
淡島が吉永小百合に「ただの子供好き」と「母親」の違いをたとえ話で言って聞かせるシーンだ。
それによると、子供がご飯を食べながらボロボロこぼしてたら、
「ただの子供好き」はこぼすたびに「まぁ、こんなにこぼして」と一々、拭いて面倒をみるのだが、
「母親」は笑ってそれを眺めていて子供が食べ終わったら黙って拭いてあげるのだという。
吉永小百合は何かを悟り花屋に走って帰り、それを淡島が優しく見送るのである。名シーンだ。
後日、茅ヶ崎の北口にある西友というスーパーで僕は母と買い物をして、その帰りに上のレストランで何かを食べた。
僕と母は対面に座り、僕が何かをこぼしたら、母が「あら、こぼしてる」と手を出そうとしたので、
僕は母に上に書いた「花ははなよめ」の淡島千景のセリフを言ってやった。母は、即、ダマった。
母は負け惜しみで、「嫌な子ね…」というから、僕は負けじと、<親の顔がみたい?>と言い返した。圧勝で終わった。
(17)晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、
茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
物件は、開業支援の会社がみつけて来てくれたもので、偶然だった。
(18)11月5日は、母の誕生日。子供の時、兄の提案で兄弟でお金を出し合い、プレゼントをしたことがある。
それは、おもちゃの指輪で、多分、数百円の代物で、エメラルドのイミテーションで、
キラキラの緑色がカメレオンみたいで魅力的だった。
母は、その日、父に「子供達が、これをくれた」と報告しているのを、僕はコタツでうたた寝しながら聞いていた。
父は、「子供達は、宝石のつもりなんだから、一生、大切にするように」と言うのを、僕は寝たふりをして聞いていた。
実際、母はその通りにして、母が亡くなって遺品を分ける時、宝石箱の中にそれをみつけた。
僕は素早く、その指輪を抜き取って持ってる。
この幼児体験は、のちのちの僕の女子との付き合い方の原型となった。
要は、「お金<気持ち」である。
僕は大学時代や医者になってからも女子に高価なプレゼントをするのは不誠実だと思った。
プレゼントには、オリジナルの彼女を主役にしたマンガを描いたりしてた。
結構、大人になってから、価値観の合う女の子が、
「プレゼントに、ブランド物を貰うと嬉しい」と言ったのを聞き、とても驚いた。
(19)父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。
母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。
僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、
母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
今思うと、僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかった。
そう遠くもないんだし。母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
(20)うちの母は、薬剤師の資格を持っていて、僕が子供の頃、風邪をひくと、葛根湯(かっこんとう)を少し多めに飲ませた。
「ちょっと多い方が、すぐ効く!」と言っていた。
(21)母は、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。
だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。
神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。
1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。
すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。
僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。
「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。
母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。
(22)母校の卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。
OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。
僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。
その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。
僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>
と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄をニヤニヤして見てる男の姿に出くわして。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
一度、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。
当然、母は聞き出そうとする。
<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)
(23)ワニが死んだ日のこと。
僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。
しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。
その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。
カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。淡白で味も素っ気もなかった。
<ワニの肉は言われた通り、本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや>
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。
(24)母で思い出すのは、中学1年の時の「サングラス事件」。
僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやって来た。高級な着物だった。これは母の戦闘モード。
担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」
と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。
担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」
に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、
「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。
じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。
職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。
これは指導じゃない、お願いだ」と言った。
(25)僕の小学校は女子校の付属で、小学校時代は、バレンタインに軽トラック1台分くらいのチョコをもらった。
それが、中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。
こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。
(26)喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。
母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。
すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)
あれは何だったのか、いまだに判らない。
(27)僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
(28)ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。
僕は、正直、女子ってバカだと思ってたけど、そんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。
すると母は、そこは女の子を選ぶ時の必須条件で、顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。
(29)親心で思い出したのだが、僕が小4の頃、上級生達も引き連れて、休み時間に野球をやって、
ゲームをキリの良い所まで延長したから、皆を授業に大量遅刻させてしまい、
そのことで学校から注意を受けた母が、親戚に電話してるのを、こっそり聞いてしまったことがある。
電話口に向って、母は、
「上級生まで従えて、野球で授業に遅れるなんて、達二は将来、竹見太郎のような大親分になるんじゃないかしら?」
と、相談事のはずが、自慢話に変わっていて、僕はそれを盗み聞きしながら、<このままじゃマズイな>と思ったものだ。
ちなみに、竹見太郎、とは、ケンカ太郎、とも呼ばれた、その頃の日本医師会の会長。
(30)皆さんこんにちは、大平です。
本日はクリニックの模様替えをお知らせいたします。
バレンタインも終わりましたが、カワクリはひな祭りです。
これは先生のお母様がプレゼントをして下さったもののようです。
男の子に雛人形をあげるのは珍しいですね。桃も飾りました。↓。
(31)カワクリは、6月から法人化して、医療法人綾枝会、になりました。
綾枝会の綾は、母の名前からとりました。
母はここのクリニックをみることなく死んでしまいましたが、あの母のことだからどこかから見ていることでしょう。
(32)子供の頃でした。今頃の季節です。川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。
応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。
でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。平熱でした。
そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。
目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。
でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノックしました。
まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。
母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。
母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。
すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。
そして、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
(33)さくら学院の舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。
おしまい。アーメン。
やおい、じゃないよ、やよい、だよ
2/Ⅲ.(木)2017 雨 かまやつひろし死ぬ
友人が病気になった。「誰にも言うな」と云うから<分かった>と答えたら、「ブログにも書かないで」と念押しされた。
ん?これは、「あえて書いて!」というフリなのか?ダチョウ倶楽部的な。
ま、期待値(ギャンブルで掛け金に対して戻ってくる見込みの金額をあらわしたもの)を考慮して、一応、ふせておこう。
確率は低いけど、当たるとデカそうだから。
こないだ会った時に友人は「リリーズのコンサートに行った」と自慢していて、「相変わらず可愛かったよ」と言っていたから、
何かの機会に、僕の持っている「好きよキャプテン」のシングルレコードでも見せて、薬師丸ひろ子のように、<元気を出して>、
と言ってあげたい。
時の経つのは早いもので、もう3月ですね。やおい、じゃないよ、やよい、だよ。
そういう訳で、今回は、3月のカワクリの模様替え、をお送りします。
クリニックに来院されてる方はとっくに気付いているはずですが、ウォーターサーバーの場所を替えました。
今までは、カウンターテーブルと90度の角度に位置していたから、端っこに誰かが座っていると使いにくかったでしょう。
それをこの様にして改善したのです。↓。
この移動に押しやられる形で、缶とペットボトルは美空ひばりの下に移りました。↓。
ウォーターサーバーのサイドには、お湯→お風呂という発想で、入浴中の忍野忍を配置しました。↓。
このポスターの忍ちゃんは、「お前さまよ、この儂と同じ絵柄のフィギュアが受付にあるぞ」と教えてくれています。
時計回りに受付の方を振り返ってみて下さい。
ここにあります。↓。
ウォーターサーバーに戻ります。
忍ちゃんコーナーには、入浴つながりで「入浴彼氏」のキモイメッセージも添えてみました。
劇場版「傷物語」を観に行った、I.さんからもらった入場記念の特典カードのコヨミンも心なしかホストっぽいですね。↓。
そんな軟派な男にお仕置きするのはセーラー戦士、ウォーターサーバー横だけに、水野亜美。↓。
缶バッジをアップで写します。
決め台詞、「水でもかぶって反省しなさい!」。
「入浴彼氏」にピッタリですね。↓。
もしも水をこぼしてしまったら、こちらのティッシュをつかって下さい。
「おそ松さん」のシコ松・ティッシュボックスカバーも配備しました。
アニメ「事故?」の名シーンを商品化したものです。↓。
薬は水か白湯で飲みましょう、というキャンペーンではないのですが、「好きな人を振り向かせる処方箋」も置きました。↓。
その下にいるのは、イカ娘。「振り向くでゲソ!!」と言っています。この処方箋と引っ掛けての「振り向かせ」ですね。
言われた通りに振り向いてみましょう。
こんなパノラマが広がります。
診察室の入口に何かいます!。↓。
ズームアップしてみましょう。
本当だ!巨大ダイオウイカがいるでゲソ!!。↓。
折角なので診察室の扉を開いて、中を見てみましょう。
診察室の内扉は、以前にお知らせしたように、石野真子シングルスコーナーになりました。
今の季節だと、「春ラ!ラ!ラ!」を思い出しますが、この歌詞は何ともおかしなものです。
それは、♪春という字は、三人の日、と書きます。あなたと私と、そして誰の日?♪と歌い出したかと思うと、
なんと、あなたを好きになる前の彼も呼んで三人でお出かけしましょう、という提案なのです。
これは僕が高校生の頃の歌ですが、当時の僕は<どんなシチュエーションだ?>と頭を悩ませました。
あの頃と比べたら僕も少しは人生経験を積んで来たから、当時は純情すぎただけかな?、と考察し直してみましたが、
それでも、やはりおかしな状況で、それを三人そろって、♪春ラララ~♪と歌う心境はいまだに理解の範疇を越えています。
昭和生まれだからでしょうか?
そう思って受付の三人(大平・ソネ・うかい)に歌詞を教え感想を聞いてみました。
そうしたら、三人とも口を揃えて、「気まずい(苦笑)」と答えてくれました。
良かった。時代のせいではないみたいだ。この歌、変だよ!でも、石野真子の最大のヒット曲なんだよなぁ。
僕は割と石野真子の出演する番組や雑誌のインタビューやファンクラブの会報を熱心にみてるファンだったが、
石野真子が、この歌詞が変だ、と言ってるのを聞いた記憶がない。
デビュー35周年記念ライブにも行ったが、そこのトークコーナーでも「春ラ!ラ!ラ!」については言及しなかった。
「私はオレンジ」という谷山裕子が提供した歌(ファーストアルバム収録曲)については、
「あの頃は何も意味もわからずに、♪私を食べて、今すぐ食べて♪なんて歌ってて恥ずかしい」、
と言って会場を笑わせたのにだ。
僕が石野真子を他のアイドル達と違うな、と位置づけてる理由のひとつはそういうところだ。
彼女は人を傷つけたり裏切ったりする発言が皆無なのだ。
いまや主流ともいえる、当時のぶっちゃけトーク、や、全部言っちゃうね、みたいなことを一切しない。
倉田マリ子と双璧をなす、芸能界口の固い女、と言えるかもしれない。
あれ、倉田マリ子は濡れ衣だっけ?
石野真子コーナー。↓。
診察室の皆さんが座った正面、僕の背後には、山口百恵ちゃんのLPを飾りました。
上が、山口百恵15才、今のベビメタ、ゆい&もあ、の方が年長です。
下が、山口百恵20才、今の元・ベルハー、みずほ、と同い年です。
なんでしょう、このベテラン感。さすが、昭和と寝た女、ですね。↓。
意外と死角というか、皆さんが目にしないのは、後ろの正面です。
そこにも、シングル・ジャケットを貼り直してみました。
良かったら、見てみて下さい。何か知ってるの見つかるといいですね。↓。
当時は娯楽が少なかったのと、レコード業界に活気があったから、皆、やたらとレコードを買っていました。
友達の家に行くと、本棚とレコードラックをチェックし合い、そこでヒエラルキーが決まったりしました。
いつの世も例外はいて、高校時代の同級生・マル君、は高1の時点で一枚もレコードを持っていませんでした。
彼は僕のレコードラックをみてビックリしてましたが、僕はレコードを一枚も持ってないマル君に驚きました。
僕らは都内の私立の男子校に通っていて、そこには神奈川や埼玉や千葉から通う子も多かったです。
マル君、も結構、遠くから通っていました。
「マル君は、生まれてから一度も本物の海を見たことがない」という噂が学園中を飛び交ったこともあります。
僕が流したデマです。
そんなマル君が高校卒業間際についにレコードを買います。
当時は、秋葉原の石丸電気3号館がレコードセンターで、今で言うタワレコみたいな存在でした。
僕は、マル君がレコードを買う場面に立会いたくて同行(尾行?)しました。
そして、マル君の選んだ一枚とは、クリスタルキングの「大都会」でした。
下が、シングルレコードのストック。↓。
歌謡曲の思い出と言えば、高3の時、何かの拍子で、ツッパリ達のグループと一晩明かすことになりました。
はじめは、皆、不良自慢をしていました。
当時の時代背景は、金属バット事件とか校内暴力、学校の廊下をバイクが走る、駅で不良高同士が喧嘩をする、
などが日常茶飯事だったのです。
しかし、夜も更けて来ると、まるで歌声喫茶みたいに(行ったことないけど、歌声喫茶)皆が歌を歌い出し、
当時流行っていたオフコースの「さよなら」とか「眠れぬ夜」(西城秀樹バージョンもあり)を
ツッパリ達が歌っては、皆が涙を流して、口々に、
「俺たちにも、金八先生がいればこんなにはならなかった…」みたいなことをほざいてて、あきれた。
だから、
<武田鉄也がトルコ風呂(ソープランドのこと)へ行ったら、トルコ嬢(ソープ嬢のこと)が、
「え~、なんで金八先生がこんなところに来てるの~?」と泣き出してしまい、困ってしまった武田鉄也が、
「あれは~、仕事だから~」と言ってなだめた>というエピソードを話したら、一斉にツッパリ達から睨まれて、こわかった。
下のレコードを貼ってくれたのは、受付のソネさんで、ソネさんは「初恋」が好きだそうです。
ソネさんは、三田寛子バージョンも知っていて、さすが!、知ってることは何でも知っていて、
知らないことは何も知らない人です。
あっ、リリーズの「好きよキャプテン」が登場しました。友人に電話して知らせよう。
薬師丸ひろ子みたいに、「もしもし、私、誰だかわかる?」。↓。
中学時代、ブラバンで同期だった、おんだ君は、太田裕美の大ファン。
おんだ君が言うには、「太田裕美の水着写真は、この世に絶対、存在しない」。
<絶対、ってものはこの世にないだろう?>と僕が言うと、おんだ君はムキになって、「もし在ったら100万円払う!」って。
100万円って価格設定が、中2っぽい。
そこで僕は100万円ハンターになり、色々調べてみたが、太田裕美の水着写真は確かになかった。
そこは僕も中学生だから、負けず嫌いで、太田裕美の顔写真を切り抜いて、外人のヌード写真の顔の部分に貼り付けて。
作った合成写真は、今でいうアイコラ。我ながら良い出来で、お色気たっぷり。
おんだ君も気に入ってくれたらしく、「青い海と空のコントラストがキレイだね」なんて言ってさ、100円で買い取った。
100万円が100円に。
そんな、おんだ君の部活での政治力は絶大で、高吹連の自由曲に「赤いハイヒール」を選ぶよう、顧問や幹部に働きかけ、
僕らはコンクール(中高一貫校は中学生も出ていい)で、それをやった。
僕はホルンで、おんだ君はフルートだった。
「赤いハイヒール」はその時の練習用に買ったシングル。
「ブルースカイブルー」と「よろしく哀愁」は、ずっと不倫の歌だと思っていた。
今回歌詞を読み返したら、必ずしもそうとは限りませんね。
でも、そんな風に中学生に勘違いさせてしまうような歌が、堂々と歌番組でアイドルが歌っていたのだから、
鷹揚というのか、世の中の懐の深さというのか、あそび(この場合、ブレーキのあそび=余裕、に近い)があった。
女遊びは芸の肥やし、なんてテレビで皆言ってたけど。今だったら、大バッシングですね。
勝新が今の時代に生きていたら、どうなるんだろう?
勝新、芸能界追放かな?
それとも、世間の芸能界の見方が変わるのかな、ありゃ特別だ、って。
去年の一連の芸能界の「ゲス不倫騒動&報道」について、勝新の意見聞きたいな。
守護霊インタビューが出来る人、勝新の本、出してくれないかな。俺、買うけど。
桂木文は「ムー一族」で郷ひろみの恋人役をやっていたから、郷ひろみの隣にしました。
「短編小説」は、「ムー一族」の挿入歌で、さだまさし、の作詞作曲です。
さだまさし、は当時人気で、一方でタモリが深夜放送で、さだまさしの悪口ばっかり言ってました。
僕も世代的には、どストライクです。百恵ちゃんの「秋桜(こすもす)」も書いてますしね。
立川談春は僕と年齢が近いから、談春は、さだまさしの大ファンらしい。
談志が死んでから、談春は、さだまさしと二人で落語会をやっていた。談志が死んでからね。
生きてるうちにやってたら、破門だろ(笑)。↓。
立川談志にとっての歌謡曲とは最も新しくて、「津軽海峡冬景色」までだそうです。
弟子の志らくにとっての歌謡曲の最新は、久保田早紀の「異邦人」までだそうです。
下の、一番下の右から二番目が「異邦人」。
水谷麻里は、「すすめ!!パイレーツ」の江口寿史の奥さん。何故か右手だけ白い手袋ようなものをはめていた。
上坂すみれプレゼンツの「80年代アイドル歌謡曲」の選曲はかなりマニアックでした。あの子も変わった子だ。
中でも、伊藤つかさの曲では「へんネ!」をチョイスしています。これは「悲しみをうけとめて」のB面です。↓。
立川流四天王と言えば、志の輔・談春・志らく・談笑ですが、レコード盤にたとえて、
伝統を重んじる、志の輔・談春が「A面」、イリュージョン担当の、志らく・談笑が「B面」と言われています。
志らく曰く、「得てして、名曲はB面に多い」。
その代表でしょうか、薬師丸ひろ子の「探偵物語」のB面の「すこしだけやさしく」は名曲です。
ソネさんも昭和のアイドルには詳しくて、<一番好きなのは誰?>って聞いたら、石川ひとみ、ですって。
二枚貼ってみました。石川つながりで、隣には、石川秀美、を配置してみました。
その下には、聖子ちゃん。うかい、さんは、松田聖子、が好きらしい。↓。
大平さんにも、<誰が一番可愛い?>と質問したら、悩んだ末に、三田寛子、を指名しました。
受付三人の名前が出たので、ウォーターサーバーに戻りましょう。
元々、ウォーターサーバーがあった場所が移動してさびしくなったから、4人合作の絵を描いて貼りました。
良かったら見てみて下さい。
これは、奇数月に更新する予定です。1月・3月・5月・7月・9月・11月。大相撲の本場所と一緒ですね。
まずは、3月からスタート。↓。
個別にみて行きましょう。どれが誰の作品かは、ご想像にお任せします。
まずは、春と言えば、「花粉症」ですね。
ACHOO、は英語で、ハクション、の意味だそうですよ。↓。
3月と言えば、ひな祭りですね。ピカチュウで描かれています。↓。
それで思い出しましたが、今日、ひな人形を出しました。
これは僕が二十歳の頃、うちの母親が僕に買ってくれました。
思春期の男子に、ひな人形をプレゼントする母親って変わっていますね。
やおい、じゃないよ、やよい、だよ。
これを飾るために、寝釈迦動物たちを、ソネさんが移動させました。
寝釈迦サンタ以来、彼女のセンスは光ります。
今回のポイントは、ピンクの豚が、ピンクの蓮の花の中に保護色で隠れてるところでしょう。↓。
続きまして、今回のメインテーマである、3月=弥生、です。
色んな不思議な生き物がいますね。
あれ?、弥生、の文字が消えてる。↓。
上の絵の「おとうふ」とは、とうふメンタル、のことだそうです。
皆さんは、「知ったら常識」、というフレーズを知っていますか?
僕は、とうふメンタル、を、受付に説明されるまで知りませんでした。
それは、おとうふのようにちょっとした外圧で崩れやすい弱いメンタルのことを言うのだそうです。
皆さんは、知りませんでしたか?とうふメンタル。これ、常識ですよ!
…と、この様に使います、「知ったら常識」。
ちなみに、このおとうふの表情は、早番で来たら、もう既に患者さんが玄関の前で列を作ってた時の受付の表情だそうです。↓。
これは一目瞭然、僕のです。
「春よ来い」と「恋」を引っ掛けて、おめかししてるシーンです。
大学5~6年生の頃の病棟実習のイメージです。
病棟実習には、ネクタイ着用が義務づけられてましたからね。
左下の、「キャー」とは僕のペンネームで「キャーハラ」の略です。
ジェームス・ディーンが映画の中で、
「僕の名前は、ジェイミー。本当は、ジミー、だけど親しい人にだけ、ジェイミー、って呼ばせるのさ」と言うと、
ヒロインの女の子が、「まぁ、ジェイミー?面白い名前ね!」って笑うシーンからパクりました。↓。
あんまり上手じゃないから恥ずかしいのですが、この頃に僕が詠んだ短歌があります。
とっときのペイズリーのタイでも絞めて町へ出ようか春ともなれば
父は僕が大学2年の冬に胃癌で死にました。
父の形見のネクタイを僕は何本も持っていたのですが、普段はネクタイなどしません。
しかし、病棟自習はネクタイが必要なので、その時にネクタイを引っ張り出して来たのです。
その中の一本にペイズリー柄の赤と緑のネクタイがありました。
流行はよく一回転するなどと言いますが、丁度その当時、ペイズリー柄が流行していました。
ちょっと派手なネクタイなので病棟実習には着用しませんでしたが、いざという時に使おうと思ったのです。
春、とは、父が死んだのが冬だから、そのショックから立ち直るという意味もありました。
小此木啓吾先生の「対象喪失」という本の中に、大体どこの文化圏も喪に服す期間は1年、と書いてありました。
年賀状を出さない、とかね。
でも、本当の意味で受容するのは、個人差があるでしょうね。時間って、人によって流れ方が違う気がするし。
僕の場合、病棟自習の前にこの句を詠んでるから、受容するのに3年かかっていますね。
それから、春、には、いよいよ病棟実習が始まり医者に近付いてきて、国家試験に合格して、サクラサク、で、
春よ来い、という意味も込められてましたね。
そして、さっき言った「春よ来い」と「恋」を引っ掛けた、春、のトリプル・ミーニングですね。
この絵で僕がおめかししながら空想してる女の子のモデルは、受付にしました。
以前、<それ一つ?二つ?>、とソネさんに聞いたら、指を一本差し出して、「一つです」と答えたのが、
「この指、止まれ」みたいだなぁ、と思ったのが印象的だったからこのポーズにしてみました。
女の子本体は、大平さんに似せようと描いたのですが、何故か、サザエさんのカオリちゃんみたいになっちゃいました。
ソネさん&大平さんで完成してしまったのですが、うかいさん要素を使用しないのは不公平なので、
黄色いアワアワの空想のルートを、迂回、させてみました。↓。
さて、3月のカワクリの模様替えをお送りしましたが、いかがでしたか?
ついでに、僕の新しいネイルをお見せしましょう。
僕の最近のお気に入りのマンガ「デデデデ」をテーマにしました。
親指は、おんたん&門出(かどで)。↓。
残りの指は、「デデデデ」と書きました。門出側は、青。コミックス1巻の表紙を参照。↓。
おんたん側の「デデデデ」は赤。コミックス2巻の表紙を参照。↓。
そんなネイリストさんも、実家に帰るらしく、3月でサヨナラです。
おニャンコクラブの「じゃあね」の歌い出しではありませんが、
「春はお別れの季節です。みんな旅立ってゆくんです」。
彼女の実家は僕の好きなマンガの舞台で、町中の鉄がみんな錆びている田舎。
人生は、出会いと別れの連続ですね。
出会いや別れに慣れては来たけれど、ちょっぴりさびしいものですね。
下が、今月の新刊、「死人(しびと)の声をきくがよい」9巻直筆サイン入り。
早川さん、可愛いです。特に1巻の最後の話が僕の純情ロマンティックのツボです。
母の命日も3月です。でしゃばりで、過保護で、アナーキーな人だから何やら口出しして来そうな季節です。↓。
BGM. ソフトクリーム「やったね!春だね!!」
11月はおとなしくしてよう⑮~さくら学院祭・続
14/ⅩⅠ.(月)2016
昨日の、さくら学院祭、のオープニングは、まさかの夏にやった舞台「秋桜(しゅうおう)学園合唱部」のパロディの寸劇で
始まりました。
これは、さくら学院の制服ではなく、セーラー服だから新鮮です。
11月3日にDVDが発売されていますが、今は売り切れで追加生産中です。
秋桜学園は、人里離れた田舎にある由緒正しいお嬢さん学校で、規律の厳しい寮生活を送っています。
そこに破天荒な少女が転校してから巻き起こるドラマで、「イジメ」が原因で廃校の危機にある学校を、
女生徒達が合唱部を立ち上げ、コンクールを勝ち進むことで学校を救うというストーリーです。
僕はこの舞台を観た時、映画「野のユリ」を思い出しました。
「野のユリ」は母が好きな映画で、子供の頃、何度も何度もテレビの洋画劇場で放映されていました。
その都度、母は、「野のユリ」は良い映画ねぇ、と感嘆していました。
それはこんな話です。
その街にやって来た風来坊を、始めは教会のシスターは嫌っていました。
ところが教会が何かの圧力で潰れされそうになった時に、その男が中心になってシスター達と合唱団を作り、
人々の関心を集め、歌で教会を守るというお話です。
11月3日が「秋桜学園合唱部」DVDの発売日、11月5日が母の誕生日です。
今日の休みを利用して、「秋桜学園合唱部」と「野のユリ」を2本続けて観てみようと思いました。
ところが、うちには2台ブルーレイ・レコーダーがあるのですが、なんと2台ともディスクの再生が出来ません。
ケルト民族やアメリカ・インディアンは、先祖の魂は亡くなった後でも、身近な者のそばにいて、
身近な物に宿って、しるし、を送ってくれると信じていたと聞きます。
母が、何かを伝えているのでしょうか?
現代は昔のように足で映画館を回ったりしなくていいような便利な時代になりました。
その分、「いつでもみれる」、と、「その瞬間」を大切にしなくなったのかもしれません。
母は、「その時その時を大切にしなさい」、ということを伝えたいのでしょうか?
そう言えば、中学でブラバンに入ったら、先輩から最初に教わったのは課題曲のレコードの聴き方で、
「いいか、川原、これを1回しか聴けない、と思って聴けよ」とレコードを渡された時に言われて、
僕は今でも言いつけを守って、そうやってアイドルのCDの新譜などを聴いています。
「野のユリ」ですが、機械が動かないので仕方がないから、ネットであらすじを調べてみたら、
僕の記憶と全然ストーリーが違っていました。
だから上に書いた「野のユリ」の筋は間違っています。「秋桜学園合唱部」も違うかも…。
こういう間違いは、何故起こるのでしょう?
多分、フィーリングで覚えてるからで、細部は自分の知ってる他の作品を組み合わせて構成してるからなのでしょう。
人間の心の営みではよくあることなので、あまり気にはしないようにしています。
それより、ブルーレイを直さなきゃ。
11月はおとなしくしてよう⑫~疾病利得(しっぺい・りとく)
12/ⅩⅠ.(土)2016 あたたかい
今年はインフルエンザが早目に流行っているらしく、保育園とかでは学級閉鎖もあるとか。
クリニックでも、スタッフの予防接種はしています。
患者さんにはしてないので、あしからず。
インフルエンザと言えば高熱ですが、今回は高熱の話。ただし仮病。
今回のタイトルは、疾病利得(しっぺい・りとく)、です。
疾病とは病気のことで、利得は得をすることで、「病気で得するの?」って少し不思議に思うかもしれませんね。
これは難しいから専門的なことは最後に書きます。
これから書くのは、仮病の話です。仮病って厳密には疾病利得には含まれないかもしれないですが、そこは雰囲気で。
子供の頃でした。今頃の季節です。
川原家は、兄の進路か何かの話し合いがされていました。
応接間に両親と兄が入って、僕はのけ者です。
それでも、しばらくは、テレビをみたり、一人でおとなしくしてたはずです。
でも、我慢しきれなくなったのです。子供だし、寒い日だったから。
僕は何度か応接間の戸をノックしましたが、話は終りません。
よほど、大事な話し合いらしく、僕はずっと放っぽかされてました。
そして、いよいよ、どうにも我慢できず、親の気をひくため体温計で熱を測りました。
平熱でした。
そこで僕は<もう少し熱を上げなきゃ>と思い、何を思ったのでしょう、ガスコンロで水銀計をあぶったのです。
目盛を見ましたが、よく数字が見えませんでした。
でも触ると熱いから、<これで良いだろう>とそれを持って、応接間の戸をノックしました。
まだ話の途中のようでしたが、母が体温計を受け取りました。
母は、体温計を見て、仰天した顔をしました。
どうやら、直接炎に点けたから、目盛を振り切っていたみたいなのです。
母は、それを父に見せました。ちょっとあきれた顔をしてました。
すると、父はその体温計を見て、両親は一瞬顔を見合わせました。
そして、父が母に言いました。
「達二の看病をしてあげなさい」
母は僕の方に来て、何をしてくれたのかは具体的には覚えていませんが、「良い体験」として記憶しています。
僕は仮病が親にバレタのは、すぐ判りました。
仮病だと判りながら、よくしてもらえると何かが、ストンと心に落ちたのです。
僕はそれ以降、親を振り向かせるために仮病を使う事は、あまりしなかったと思います。
心の芯からの思いやりとか、思いをやる、とか、見透かしてるけど見逃してくれる、とか、親身になるとか、
愛情を感じられる体験だったから、そこに固着せず、仮病を繰り返さなかったのではないかという体験をしてるから、
すぐ「疾病利得」うんぬん、って言う人は、仮病を使う人の気持ちや、したくて仮病をしてるんじゃないよ、って
核の部分の気持ちを感じ取れてないせいで、そこが本当に共鳴すれば、案外こじれないんじゃいかと思うのだけれど。
でも、それはやっぱり、甘いかな?
プロのいうことじゃないですね。
専門家仲間から、「病気をなめてる!」って怒られるのかな。嫌だな、大人になって怒られるの。
参考文献、弘文堂「精神科ポケット辞典」より、P148「疾病利得」。
「患者が精神的あるいは身体的な疾患であることにより得る意識的ないし無意識的で心理的・現実的な利益。
病態や不適応が患者にとり心理的な安定維持の手段になっている場合を第一次疾病利得、
疾病の結果二次的に得られる現実的利益(例えば学校へ行かなくて済む、補償金をもらえる、家族に大事にしてもらえる)
を第二次疾病利得という。
本人にとっては無意識であることが多く、意図的・作為的である詐病(さびょう)とは異なる。
疾病利得はしばしば患者の病態化を促進したり、治療を困難にさせる」
11月は、父の命日と、両親二人の誕生日があるから感傷的になるのです。反省、反省。
11月はおとなしくしてよう⑧~ストーブ
10/ⅩⅠ.(木)2016
朝刊に、トランプ氏が米大統領に世界が動揺、と書いてあったが、よしだたくろうの歌ではないが、
まつりごと、など、もう問わないさ。気になることと言えば今をどうするかだ。
僕が指示をした覚えはないのだが、受付は契約された時間より早く出勤してるみたいだ。
それは歴代の人がそうだからで、そう申し送られているみたいで。
多分、患者さんの中にうんと早く着く人がいて、その人が外で待っていたのがきっかけみたいだ。
そう言えば、うちの父も似たようなことをしていた。
ある冬の日、クリニックの開業時間前に患者さんが外で行列してると噂を耳にした父は、
外は寒いだろう、と、扉を開けて患者を中に入れて、ストーブを点けて、自分は一旦家に帰って、開業時間まで家にいた。
小学生の僕は、<勝手に早く来てるのだから、従業員が来るまで外で待っていれば良いんじゃない?>と言ったが、
父は、寒そうだから、と中に入れてあげてた。結構、朝の早い時間だったと思う。
冬休み、僕は代わりに、扉を開けに行く係りを変わってあげた。
そうしたら、父からも、患者さんたちからも、大変感謝された。
僕は、こういうことは大切なんだと思ったものだ。
そういうことをスタッフに言ったことはないはずなのに、自然とそうやってくれているから不思議だ。
しかし、それには不都合なこともあって、例えば、朝の掃除がしずらいとか。
時間通りに来る患者さんが、すごく待たされるとか。
つまり、早く来てる人は受付時間前に受付を済ませている。それは、厳密にはルール違反だ。
きちんとルールを守っている人が損をして、それなら自分も次から早く来よう、という悪循環を呼び、
受付時間と言うルールが、あってないようになってしまった。
午後の受付も、2時半からなのに、午前中に診察券だけ出しに来る人もいて。
たまにならいいが、毎回だと、ちょっと。
午後の受付時間を守っている人の診察が午後4時とかになるのは、さすがに不公平だ。
だから、これは近いうちに是正するつもりだ。
あまり規則・規則とうるさく言うのは好きではないが、これは患者さんを守るために仕方ない。
と言う訳で、近いうちに受付時間の厳守の徹底をお知らせするチラシを配布します。
手書きの文をコピーします。その方が説得力があるでしょう?
その原稿も早く作らなきゃだ。
父はどうしていたのかな?
11月はおとなしくしてよう⑥~家族
8/ⅩⅠ.(火)2016
ボブ・ディランがノーベル賞をとったことにビックリしている僕はボブ・ディランに詳しくない。
泉谷しげるが「家族」というLPを出した時に、何かのレビューで、これは製作期間を考えると、
ほぼボブ・ディランのなんとかというアルバムと同時期の発想で、つまり泉谷はディランに影響されたのではなく、
同じ時期に、同じような事を考え、同じような作品を発表したのだ、ということを読んで興味を持ったくらいだ。
その頃、中学生だった僕は、何か人間の文明とか、比較文化人類学的なことを考える時の良い素材ではないか、と思った。
恐山のイタコと、沖縄のユタが、似たような側面を持っていても、地理的にも遠いし接点もなさそうなのに、
「イタ」と「ユタ」の発音が似てる、のと同じように、泉谷しげるの「家族」とディランの何かが似てるそうだ。
肝心のディランの方を覚えてなくて恐縮だが、そんな「家族」が、今日のテーマ。
僕は、たとえばコカコーラのCMのように、仲間が集まって、美味しいものを食べて、(バーべQでも可)、そういう‘場’を、
自分の家庭に作りたいと、Xmasでも盆暮れでも、行き場のない人がウチに来て、楽しめればいいな、と
ずっと小さい頃から思っていた。
こんなことを言っては、しょってるが、そういう素質はあるし、サービス精神はあるし、そういうことは好きだし努力もするから、
将来、結婚して子供を作ったら、そういう家族を作りたいな、と思っていた。
そういうお手本になるホームパーティーにも招待されたことがあるから、イメージ・トレーニングは出来ている。
結論から言うと、僕が思い描いていたものに近い形になっているのが、「カワクリ」だと思う。
まだ努力は必要だし、スタッフの熱量も大切だ。
それには、まずスタッフをその気にさせないといけないのだが、まぁ、それはいいとして。
どうして僕がそんなことを思うようになったかと言うと、僕の家は茅ヶ崎の眼科の開業医で、僕が幼い頃から周囲には、
お手伝いさんも含め、たくさんの従業員がいて、昭和40年くらいは住み込みとかあったし、常に同じ屋根の下に3~4人の
若いお姉さんと一緒に暮らしていて、僕はたくさんの大人に囲まれて育った。
その中には、19才とか20才の人もいて、僕が浪人してる頃には、そんなに年も違わないし、シチュエーション的には、
恋におちてもおかしくなかった。落ちなかったけど。受験生だけに。
愛くるしかったあの人達が今は、50~60才なんだと思うと、年齢なんて関係ないな、と思う。
ご対面番組で芸能人が子供の頃、世話になった「お姉さん」に会うという企画で、相手はもうヨボヨボなのに、
泣いて抱き合うシーンに、僕は最近、違う意味を見い出したりして、<まぁ、良いものだな>と思ってる。
僕が同窓会に参加するようになった心持ちとも共通するのだろう。
きっと死期が迫っているのだ。朝からカラスがうるさい。
さて、うちの父は、大正10年生まれの酉年だった。酉年は夜明けを告げる干支で、初代運が強いと祖母が言っていた。
父の歴史はよく知らない。
北海道にいたというが生まれはどこか知らない。
北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?
その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに、父は何故か医者になると言い、
満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。
戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は
戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。
そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。
父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。
結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、
ということを常に考えている子供だった。
父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、
従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、
スポンサーになった。
子供にも教育費ばかりでなく、学校にものすごい寄付をしていた。
たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。
今と違って当時は節税とか開業医の経費の優遇とかあったのだと思うが、だから出来たのだとも言えるが、
別にそこにお金を使わなくてもいいのに、純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、
自分の家族に味あわせたかったのだと思う。
それはまるで質の良いマスターベーションのように思える。
なぜなら、父は家族旅行には一切参加しなかったから。
足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし、主目的は自分が楽しむよりは家族が楽しむ事で、
家族の家族や友達が楽しむことが主眼で、眼科医だけに、そこには自分がいるのは照れがあったのかもしれないし、
経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったのかもしれない。
医学部じゃ習わないしね。
大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。
夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。
周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、
父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。
しかし、そんな父の性格は大正生まれだし、頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようだ。
すぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「こいつは金だけ稼いで、死ねばいいのに」とか思っていた。
ひどいと言われれば、ひどいものだ。
小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。
その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。
あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。
僕は末っ子だったから、結構、俯瞰的に家のことを見れていて、父の葛藤もみていたと思う。
兄は父の跡を継ぎ眼科医になって医者としてのアイデンティティーを引き受ける重責だ。
僕は父の願いである、兄弟で眼科医になって、父と3人で医院を大きくする願いを無視した。
つげ義春の「ねじ式」じゃあるまいし、そんなに目医者ばかりいてもしょうがない。↓。
父は僕が浪人してる頃に胃癌が発覚して、リタイアを余儀なくされた。
僕が父とまともに喋れるようになったのは、その1年で、父は仕事に出れない体力で、僕は所属する学校がないから、
顔を突き合わす時間が出来たのだ。
その後、父は死ぬから、現役で大学に受からなくて良かったと思う。
現役で受かってたらどう思っていたかは判らないが。
「癌とは、未練の整理に良い物だ」、と言ったのは立川談志で、僕と父はその1年は色々な話をしたものだし、
父は僕の服を真似したり、僕のタバコの銘柄を真似したり、本当は病気にタバコはイケナイけれど、
不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。
僕は精神科医になった分、家庭人としての父が出来なかったリベンジを任されてるような気になっていた。
しかし、実際蓋を開けてみたら、DNAとは怖いものだ。
僕の子供が子供だった頃、僕は子供専門の病院に勤めた。
すると、自分の子供の運動会と、病院の行事の運動会が同じ日で、僕は病院(仕事)をとってしまったり、
家族と離れて病院で生活してる子供(患者)たちのために、1年365日、病院に出て行った。5年くらい続けた。
結果として、僕は父と同じだ。ひょっとしたら、父の悲哀をいつも近くでみていたから、心のどこかで父を乗り越えると、
父が一人ぽっちになってしまうと情けをかけたのかな。
つまり、父が成し遂げられなかった、心の豊かな生活とは何かをみつけて成就することを躊躇したのかな。
父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、
そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、
気になってしょうがない。
クリニックの開業当時は10年前だから、今の僕とでは体力が全然違う。
初期設定で昼休みを1時間としたのは、仮に午前の診療が長引いて昼休みがなくなっても大丈夫、という自信。
<ノンストップで12時間は働ける>、と豪語していた。
気の狂った発言だが、当時誰もそれをおかしいと言わなかった。
仮に、「無茶ですよ~」、とやさしい人が言ってくれても、僕は平気で無視してたと思うが。
それが最近、体にこたえるようになった。
身近な同業者は、「きっちり2時間昼休みをとる。その間、入口は閉める」、と忠告をする。
<なるほどなぁ>、と近頃思うのだが、開院当初にそんな事を言われてもバカにして相手にしてないのだから、
今更、宗旨替えも出来ないし。
季節の変わり目もあるし、天候の寒暖差もある。年のせいもあるし、体力にひびく。
開院時と同じペースでやってるのは、さすがにこたえてくる。
だけど幸い頭はまだ回る。あと10年はもつと思う。
アントニオ猪木がストロング小林戦の試合後に、
「こんな戦いを続けていたら10年もつ選手生命があと3年で終わるかもしれない。それでも私は戦う!」と言った。
燃える闘魂だ。それに結局、猪木以外は皆死んでるし、猪木だけ長生きだし。これでいいのだ。
しかし、先週は本当に疲れて、診察の合間に<このまま死ぬんじゃないか>と思った。
大和言葉では、「疲れる」と「憑かれる」は語源が一緒だというから、何か悪い者に「つかれた」のかと思い、
エネルギー療法の先生に、重点的に手当てをしてもらい、何とかしのいだ。
堺正章のお父さんの堺駿二はコメディアンの鑑で、舞台の上で死んだ、という幻聴が診察の合間ごとに聞こえてきて、
<俺はここで死ぬのか…>と覚悟を決めた一週間でした。
11月8日は、父の命日。こんな記事を書いたりするのも、季節のせいならいいんだけれど。
BGM. よしだたくろう「風邪」
11月はおとなしくしてよう②~主任教授の土産
6/ⅩⅠ.(日)2016 不動前で呑む
僕が医者になったばかりの時の主任教授の息子から、デューラーの「メランコリア」の版画の複写をもらった。
この絵はかねてから僕が目をつけていて、教授にどうやって入手したのかを手紙に書いて質問したりしたから、
その回答としてこれを下さったのだ。
裏には、川原達二先生へ、と直筆で先生のサインと日付もある。ありがたい。
デューラーの「メランコリア」は、人間はすべての欲しい物が手に入ると、憂鬱になる、という意味深なモチーフで、
色んな成功の象徴が、天使の祝福とか完成された魔方陣とか、散りばめられていて、謎解きして行くのが面白い。
憂鬱になるくらい、すべての物を手に入れたいものだ。…本当か?(自問自答してみました)
昔、ハンク・アーロンの記録を抜いた頃、週刊ベースボールのインタビューで、王貞治が、
「好きな歌は、梓みちよの『メランコリー』」、と答えていたのを何故か忘れられない。
BGM.梓みちよ「メランコリー」
11月はおとなしくしてよう①~母の誕生日
5/ⅩⅠ.(土)2016
前の記事に書いた、「湘南少年将棋大会」と同じ頃、桜木健一の「柔道一直線」がブームでした。
僕はいとこ(6つ上、男)と兄(4つ上)と3人で、「湘南少年柔道大会」をしました。
そこでは僕は3位でした。つまり、いとこと兄に柔道ゴッコで負けた訳です。
しかし、その頃の僕は負けず嫌いで、すぐに「第2回湘南少年柔道大会」を企画しました。
体格差で劣る僕は、まさに窮鼠猫を噛む、で投げられる瞬間に相手に噛み付いたのです。
兄貴は、「イテテ、イテテ~よ…」と、バナナボート、みたいに言いました。
いとこは、「タッちゃん、柔道で噛むのは反則だよ」と言いました。
僕がションボリしていると、いとこは、「でも、プロレスなら反則は5秒以内はOKだよ」と啓蒙してくれました。
プロレスラーには、噛み付きを得意技にしてる、ブラッシーという選手がいることも教えてくれました。
僕はそんな素晴らしいルールがあるのか。
清濁併せ持つのが人生だ(使い方、合ってるか?)
プロレスの方が柔道より人生向きだと思いました。
そんな頃です!テレビアニメ「タイガーマスク」が始まりました。
それ以来、僕はプロレスの魅力に取り憑かれ、梶原一騎イズムや、猪木の過激なセンチメンタリズムなどの、
相手がどんなにルール無用の悪党でも、フェアプレーで切り抜けて、こちらは正義の技で勝つ、という男の生き方が
人格形成の核になりました。
もっとも、どうしても我慢できなかったら、千倍返しの反則をしても良い、というオプションもついてます。
今日、11月5日は母の誕生日。
だから、ここ何日かは母との心暖まるエピソードや、親孝行風のちょっと良い話しを色々と考えていたのだけれど…
結局、アントニオ猪木の話になってしまいました。いのきの母A、なんてダジャレを猪木が言いそうですね。
昔、「傷だらけの天使」というドラマで、ショーケンと水谷豊が1枚だけレコードを買って良いことになりレコード店へ行き、
ビートルズやストーンズやベンチャーズやJAZZやら何やかやを嬉々として見比べて嬉しそうにチョイスする場面から、
一転して、2人は部屋に帰っていて、腕組みをして、首をひねって、レコードのターンテーブルを凝視しながら、
「どうしてこれを選んだんだろう?」とつぶやきます。
背後に流れてる曲は、浪花節、でした。
あまりに考えすぎると本来の趣旨から遠ざかってしまうということはよくあるもので、それと良く似た母の誕生日の記事でした。
BGM. 遠藤ミチロウ「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」