15/Ⅷ.(日)2010 はれ
終戦記念日といえば、どこかのTVでアニメ「火垂るの墓」をやってそうだ。
勿論、その作者が、野坂昭如だ。
野坂昭如は文庫本のあとがきで、自分は小説の兄ほどには妹に優しくしてやれなかった。
その罪滅ぼしみたいな気持ちでこの小説を書いた、というような趣旨のことを述べていた。
野坂昭如は「焼跡闇市派」を名乗り、自分だけ生き残ってしまった後ろめたさみたいなものを正面から受け止め、
生き様を見せている。僕は、野坂昭如の嘘の少なさが大好きで、男の生き方の手本にしている。
「火垂るの墓」の実話バージョンは「行き暮れて雪」という小説になっている。
神戸で空襲に遭い、福井に疎開し妹を亡くし終戦。17才で窃盗を働き少年院へ。
しかし、実父が保証人となり釈放、新潟へ。そこからの野坂の放蕩生活ぶりは、尋常ではない。
自暴自棄だ。対照的に新潟という街が、小粋な街に描かれている。
小説のかなりの部分で、この露悪的ともいうべき、放蕩生活を描写している。
ある日、野坂は、このままでは駄目だと思い、上京する。
そして早稲田大学を受験する。試験当日は大雪。
野坂は、義士の討入りも二・二六事件も大雪だったから縁起がいいと思う。
自らの受験を、志を持ってあえて負け戦に挑むものと重ね合わせた、野坂の覚悟と照れに共感した。
野坂昭如は、昔、「朝まで生テレビ」の「どーするニッポン」みたいな回で、
「おまんこ」という言葉を発言して出演した女性たちから総攻撃を受けた。
しかし、野坂は「なぜ、おまんこという言葉を言ってはいけないのか?」とまた言った。
パネラーの女性政治家達や田丸美寿々やコリーヌ・ブレはカンカンに怒って、
賑やかしのAV女優にさえ「私もビックリ~」と言わしめた。
(内田春菊だけは「私も使っちゃうから…」と擁護発言をしたが、スルーされた)。
結果、
「野坂さんが言いたいのは、こういうことだ」という西部ススムや栗本慎一郎ら男性陣の論客と、
「これこそが今、言われているセクハラ問題だ」という女性陣の、この日、一番の熱い討論が繰り広げられた。
収拾をつけたのは、野坂昭如自身だ。
「皆さん、僕が悪かった。謝ります。皆さん、ご苦労様」。
大島渚の何かのパーティーでのこと。
スピーチで順番を飛ばされてしまった野坂昭如は、壇上にあがりスピーチ中の大島渚にアッパーカット。
大島渚の眼鏡が吹っ飛び、大きくよろける。
すぐさま、大島渚はマイクで応戦。
2発、野坂の頭を叩くが、スイッチがオンのため会場にゴン!ゴン!という音が鳴り響いた。
事件後初の顔合わせは、上岡龍太郎の番組。
大島渚から「野坂さん、こないだはどうも」と握手。
野坂も「俺だって、頭ボコボコだよ」。
大島渚「あのパンチは効かなかった」。
野坂「自分でも、入れてて効かなかったと思う。だから、今、鍛え直している」。
大島・野坂両氏還暦オーバーの時である。
そんな野坂昭如が「同和問題」の時には、静かな口調でこの問題の説明をした。
田原聡一朗も聞き入っていた。
「朝まで生テレビ」は大抵、人の意見を聞かず、議論が飛び交うのだが、この回の野坂昭如の発言は皆が静まり返った。
「朝まで生テレビ」の差別表現の回に筒井康隆が出て、以前に「士農工商SF作家」と書いたら、
部落解放同盟から注意を受けた、ということが語られた。
筒井康隆は、非常に紳士的に、自分は差別を目的に使用したのではない、
士農工商という言葉は知っていたがその下に順序となる言葉があることを知らなかった、と侘び、その上で、
どうか「士農工商SF作家」という表現を許してもらえないかと頭を下げた。
しかし、知らないでは許されない、差別は深刻なのだ、と筒井康隆の申し出は却下された。
世は、「言葉狩り」や「逆差別」などという言葉も出てた頃だ。
僕が筒井康隆のファンだということを差し引いても、テレビを見た感想は、正直、過剰反応ではと思った。
しかし、その時、野坂昭如が「過剰ではない」と言ったのである。
同じ番組で「おまんこ」発言をして「何が悪い?そういう言葉があるから使うのだ」と言っていた野坂本人が、
過剰ではない、というのだ。どこからどこまでが言葉狩りなのだ?
それから、僕は自分で「同和問題」や「部落差別」について調べた。大きな図書館にも行った。
自分で調べてわかったことがたくさんある。知らなかったのではない、知ろうとしなかったのである。
この時期、戦争をテーマにする番組は定番とも言える。
戦争を知らない子供たちは、学校の教科書で戦争を教えないと言い、戦争を知ってる大人たちは、
何故、自分で勉強しようとしない、と大抵、そんな顛末になっている気がする。
情報量の多い世の中だ。知るにしても、知るきっかけも必要だ。
僕は、野坂昭如にたくさんの知る機会をもらった。ありがたいことだと思う。
BGM. 野坂昭如「サメに喰われた娘」
終戦記念日、特集~「死の島」
14/Ⅷ.(土)2010 はれ
最も感銘を受けた本を一冊あげよ、と問われたら、僕は福永武彦の「死の島」をあげるだろう。小説の面白さや技法もさることながら、絵画やクラッシックに関心を持つきっかけにもなったからだ。
この話は相馬鼎が朝、目を覚まし小説を書き出すところから始まる。
その小説こそが、これから我々が読む小説なのである。
彼は展覧会で見た「島」という作品にひかれて作者の萌木基子と知り合う。
萌木基子は被爆者で、あどけなく美しい相見綾子と二人で住んでいた。
物語は、現在形で書かれる3人のユーモラスな日常と、
過去形で語られる萌木基子の「内部」が交錯して展開していく。
ある日、相馬鼎は、広島の病院から二人が心中したという知らせを受ける。
相馬を乗せた東海道線急行列車は、一路広島へひた走る。
萌木基子と相見綾子に同時に感じた愛情が相馬の回想の中をめぐり、
パラレル・ワールドのように2つのシナリオが用意される。
相見綾子だけ生き残った朝と、萌木基子だけ生き残った朝と。
ストーリーは相馬鼎が朝、目を覚ますところで終わる。
循環小説というのだろうか、小説のラストが小説の始まりに繋がるのである。
だから、最初は相見綾子が生き残った方を選んでも、二度目には萌木基子が生き残った結末を選べる。
何度でも読み返せる。
「死の島」は、シノシマ、と死の頭韻を踏み、死の原爆をうけた広島をさす。
この小説は、原爆を主題にした長編小説だとも言える。
しかし、僕が一番、惹かれたのは、被爆体験を背景に語られる萌木基子の「それ」~
人間の「内部」にある闇である。
死や死の恐怖とは、「死の島」のようなものが何処かにあり「カロンの艀」みたいなもので運ばれていくのではなく、死や死の恐怖とは人間存在の根拠のようなものである。
それを、アーノルド・ベックリンとエドヴァルド・ムンクの作品の対比やシベリウスの交響曲を用いて表現するのだから、あやうく、「それ」に魅せられてしまいそうになる。
BGM. シベリウス「トゥオネラの白鳥」
SMAPとの夢
14/Ⅷ.(土)2010 はれ
SMAPのメンバーと叙々苑に行く。お店の人に「SMAP、6名様~」と呼ばれ、照れる。
離れの個室には、ロナルド・レーガン大統領が人に聞かれたくない話をするために、3人で来てるんだと。
残りの2人は、リーガンとルーガン。
しばらくすると、遅れて森君がやってくる。なーんだ、本当にSMAP6人じゃん。
6人にチャーハンを取り分けてあげる。
藤原組長にだけ少し多めにする。あれ?藤原組長、いつからSMAPに?
組長は、はにかんで目をキラキラ。少女マンガのヒロインみたい。
だてに、SMAPの看板を背負ってないな、と惚れ直す。
組長は、セロリを生でガブリ。
男らしい~!。We are SMAP!。
バルコニーに座って、キムタクと話す。
「こないだのスマスマ観た?」と僕、『観てない』とキムタク。 「DVDに焼こうか?」と僕、『いい』とキムタク。 「観ないの?」と僕、『自分の出た番組は観ない』とキムタク。 「ロン・ヴァケも?」と僕、『そう』とキムタク。 「なんで?」との僕の質問に、キムタクは
「自分が出てる番組を観るなんて、夢を見てるみたいじゃないか」と答えた。
BGM. SMAP「セロリ」
終戦記念日、特集~「戦争は知らない」
13/Ⅷ.(金)2010 はれ、時々雨
先日、3チャンネルで北山修の最終講義をやっていたが、僕にとっては、北山修はいつまでも北山修で、北山先生と呼ぶ気にはならない。それが敬意だし、そんな距離だ。
北山修の代名詞は「戦争を知らない子供たち」である。
北山修は、加藤和彦、はしだのりひことザ・フォーク・クルセダーズ(以下、フォークルと略す)
を組んでいたから、「戦争を知らない子供たち」をフォークルの曲と誤解してる人がいるが、
「戦争を知らない子供たち」はジローズの代表曲である。
この曲は、大阪万博にちなんで作られた歌で、
僕は万博の写真をジャケットに使った別のシングル・レコードを持っている。
間違いやすいのは、フォークルの歌で「戦争は知らない」と似たタイトルの曲がある。
これは、寺山修司が作詞をしている。
もし「フォークル検定」があったとしたら、ここがヤマだな。
あと、フォークルの反戦歌といえば「何のために」。作詞・北山修。
フォークルは、自主制作で作った「帰ってきたヨッパライ」が思いがけず大ヒットしてしまい、
1年の期限付きで活動した。
その解散コンサートで、はしだのりひことシューベルツが紹介され、
「サウンド・オブ・サイレンス」(←サイモン&ガーファンクルのコピー)と
「風」(←北山修作詞のヒット曲)を歌っている。
そのシューベルツのメンバーに杉田二郎がいて、
のちに杉田二郎と北山修で「戦争を知らない子供たち」が作られたのである。
シューベルツは4人編成だったが、
結成後1年ちょっとでウッド・ベースを弾いていた井上博という人が亡くなって、解散した。 そうして、杉田二郎は森下次郎という人と、ジローズを結成することになったのである。
僕が、小学校低学年の頃、「おらは死んじまっただ~」と歌っていたら、友達のお母さんに
「そんな歌を歌うのは、おやめなさい。その歌を歌ってたグループの人は、本当に死んじゃったのよ」
と言われた。
でも僕は、オバサンはフォークルと井上博を混同してるんだろうな、とすぐわかった。
その場で指摘したかは、覚えていない。
時は流れて、加藤和彦も死んでしまった。
そういえば、こないだ今野雄二も死んでしまったな。
今野雄二・作詞、加藤和彦・作曲のサディスティク・ミカ・バンド
「へーい ごきげんはいかが」は、かっこいいナンバーだったな。
皆、死んじゃうな。戦争と関係なくなっちゃった。
BGM. ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」
終戦記念日、特集~清志郎
12/Ⅷ.(木)2010 はれ
昔、「徹子の部屋」の終戦記念日特集に忌野清志郎が出たことがある。
清志郎の実のお母さんが戦時中に残した日記を、2週に渡り、ただひたすら黒柳徹子が読み、
涙ながらに感想を述べ、横で清志郎がただ黙って座ってるだけという番組だった。
清志郎は実のお母さんが別にいると知ったのは、デビュー後ずっと後で、RC後期の過激な
「反戦歌」を歌ってた頃でもまだ知らなかった、と、徹子が説明した。
清志郎の母は、戦地の夫との手紙のやりとりをスクラップ帳のように日記に貼りつけ、
その日記は夫の戦死を告げる葉書を最後に終わっている。
こんな簡単な葉書一枚なんですね~と、徹子は涙ぐむ。
戦争を憎み、平和を祈る、実の母の思いが日記に綴られ、それを知らないはずの清志郎が「反戦歌」を歌い、
平和を訴えたのは、きっとDNAだろう、と徹子は言い、清志郎も頷いた。
僕は、RCが人気絶頂の時の武道館公演のMCで清志郎が、
「今日、ここに来れた奴らは幸せだぜ。来たくても、来れない奴がいるからな。チケットがとれない奴とか、植物人間とかな」
、と言ったのを覚えている。
後に雑誌のインタビュー記事で、その時、清志郎の母親は植物人間で入院中だったと知った。
その「植物人間だった母親」は、実は育ての母親で、実の母親は別にいて、もう死んでいるということを、
その時の清志郎はまだ知らなかった、ということになる。
BGM. RCサクセション「あの娘のレター」
真夏の夜の夢
11/Ⅷ.(水)2010 はれ、あつい
オレは、朝起きてベーコン・エッグを作ろうと思った。
小ちゃな妹は出がけにランドセルを背負って、「朝ごはんはパンにジャムをぬって食べて~」と言う。
オレの幼い妹は舌ったらずな口調で、「小指にジャムつけて舐めちゃダメよ」と言う。
オレは、こんな小っちゃな妹にお母さんの代わりをさせるのは可哀想だな、と思う。
オレはパジャマのままゴロゴロ、今日も午前中、学校に行ってない。
すると、父と母と姉がやってきて口を揃えてこう言った。
「少しはワカメを見習いなさい!」。エッ!?オレ、カツオ??。
学校から電話があった。妹のワカメは立派な出席率。字もきれい。
BGM. 野口五郎「真夏の夜の夢」
風を読む。
10/Ⅷ.(火)2010 白熱酷暑
山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む。
23歳の医学生だった風太郎の、昭和20年1月から12月までの日記。すごい読書量だ。 始めは文語体だった日記が、だんだん口語体に変わっていく。
昔、母は山田風太郎のことを「プー太郎」と呼んでいた。プー太郎、って結構、古い単語みたいだぞ。
BGM. はっぴいえんど「風をあつめて」
タッちゃんの夏休み
9/Ⅷ.(月)2010 小雨
新宿、世界堂に「アリス」のポストカードと「丸尾末広」のポスターをラミネートしに行く。
その前に、麺屋武蔵でつけ麺を食べる。料金同じで大盛になるが、食べきれない量だ。これからは、気をつけたい。
渋谷のアニメイトに寄り、予約しておいた「けいおん」の第二期BLを入手。
帰宅してから、高校野球を少し、観る。夏の甲子園が始まると、敗戦記念日、というフレーズが頭をよぎる。
東スポで、立川談志の連載記事が始まる。談志の前は小柳ルミ子だった。小柳ルミ子の前は山本小鉄だった。 どういう人選なのだろう?絶妙か??
BGM. もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」
ヒゲの日
8/Ⅷ.(日)2010 はれ
8月8日は「ヒゲの日」だそうだ。漢字の「八」がヒゲに見えるからだそうだ。
ポケモン・サンデーで中川翔子が付けヒゲをつけて、そう言っていた。カワユス。
平和な日曜日。『イキガミ』⑧巻を読む。
BGM. スキマスイッチ「アイスクリーム シンドローム」
踊ろよ、ベイビー!
7/Ⅷ.(土)2010 はれ
昨日と今日、クリニックの前の、大岡山北口商店街は、夏祭りでちょうどクリニックの真下にやぐらが組まれ、
♪ドン・ドン・ドン・ガラガッタ、♪ド・ドンガドン・ガラガッタ♪とやっていて、
クリニックの中まで盆踊りの歌や笛太鼓が響き渡ってきました。
しかし、4年目ともなるとすっかり馴れたもので、そんな喧騒に左右されずに診察が出来るほど腕を上げました。
クリニック内の装飾と外部のお祭り騒ぎが相まってカオスな雰囲気を作り出し、
「ここでは日常ではためらうことでも何を言ってもいいんだ」、という治療的な異空間を産み出すことに成功しました。
ピンチをチャンスに変えるのは猪木譲りです。
BGM. デヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」