13/Ⅷ.(金)2010 はれ、時々雨
先日、3チャンネルで北山修の最終講義をやっていたが、僕にとっては、北山修はいつまでも北山修で、北山先生と呼ぶ気にはならない。それが敬意だし、そんな距離だ。
北山修の代名詞は「戦争を知らない子供たち」である。
北山修は、加藤和彦、はしだのりひことザ・フォーク・クルセダーズ(以下、フォークルと略す)
を組んでいたから、「戦争を知らない子供たち」をフォークルの曲と誤解してる人がいるが、
「戦争を知らない子供たち」はジローズの代表曲である。
この曲は、大阪万博にちなんで作られた歌で、
僕は万博の写真をジャケットに使った別のシングル・レコードを持っている。
間違いやすいのは、フォークルの歌で「戦争は知らない」と似たタイトルの曲がある。
これは、寺山修司が作詞をしている。
もし「フォークル検定」があったとしたら、ここがヤマだな。
あと、フォークルの反戦歌といえば「何のために」。作詞・北山修。
フォークルは、自主制作で作った「帰ってきたヨッパライ」が思いがけず大ヒットしてしまい、
1年の期限付きで活動した。
その解散コンサートで、はしだのりひことシューベルツが紹介され、
「サウンド・オブ・サイレンス」(←サイモン&ガーファンクルのコピー)と
「風」(←北山修作詞のヒット曲)を歌っている。
そのシューベルツのメンバーに杉田二郎がいて、
のちに杉田二郎と北山修で「戦争を知らない子供たち」が作られたのである。
シューベルツは4人編成だったが、
結成後1年ちょっとでウッド・ベースを弾いていた井上博という人が亡くなって、解散した。 そうして、杉田二郎は森下次郎という人と、ジローズを結成することになったのである。
僕が、小学校低学年の頃、「おらは死んじまっただ~」と歌っていたら、友達のお母さんに
「そんな歌を歌うのは、おやめなさい。その歌を歌ってたグループの人は、本当に死んじゃったのよ」
と言われた。
でも僕は、オバサンはフォークルと井上博を混同してるんだろうな、とすぐわかった。
その場で指摘したかは、覚えていない。
時は流れて、加藤和彦も死んでしまった。
そういえば、こないだ今野雄二も死んでしまったな。
今野雄二・作詞、加藤和彦・作曲のサディスティク・ミカ・バンド
「へーい ごきげんはいかが」は、かっこいいナンバーだったな。
皆、死んじゃうな。戦争と関係なくなっちゃった。
BGM. ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」
終戦記念日、特集~清志郎
12/Ⅷ.(木)2010 はれ
昔、「徹子の部屋」の終戦記念日特集に忌野清志郎が出たことがある。
清志郎の実のお母さんが戦時中に残した日記を、2週に渡り、ただひたすら黒柳徹子が読み、
涙ながらに感想を述べ、横で清志郎がただ黙って座ってるだけという番組だった。
清志郎は実のお母さんが別にいると知ったのは、デビュー後ずっと後で、RC後期の過激な
「反戦歌」を歌ってた頃でもまだ知らなかった、と、徹子が説明した。
清志郎の母は、戦地の夫との手紙のやりとりをスクラップ帳のように日記に貼りつけ、
その日記は夫の戦死を告げる葉書を最後に終わっている。
こんな簡単な葉書一枚なんですね~と、徹子は涙ぐむ。
戦争を憎み、平和を祈る、実の母の思いが日記に綴られ、それを知らないはずの清志郎が「反戦歌」を歌い、
平和を訴えたのは、きっとDNAだろう、と徹子は言い、清志郎も頷いた。
僕は、RCが人気絶頂の時の武道館公演のMCで清志郎が、
「今日、ここに来れた奴らは幸せだぜ。来たくても、来れない奴がいるからな。チケットがとれない奴とか、植物人間とかな」
、と言ったのを覚えている。
後に雑誌のインタビュー記事で、その時、清志郎の母親は植物人間で入院中だったと知った。
その「植物人間だった母親」は、実は育ての母親で、実の母親は別にいて、もう死んでいるということを、
その時の清志郎はまだ知らなかった、ということになる。
BGM. RCサクセション「あの娘のレター」
真夏の夜の夢
11/Ⅷ.(水)2010 はれ、あつい
オレは、朝起きてベーコン・エッグを作ろうと思った。
小ちゃな妹は出がけにランドセルを背負って、「朝ごはんはパンにジャムをぬって食べて~」と言う。
オレの幼い妹は舌ったらずな口調で、「小指にジャムつけて舐めちゃダメよ」と言う。
オレは、こんな小っちゃな妹にお母さんの代わりをさせるのは可哀想だな、と思う。
オレはパジャマのままゴロゴロ、今日も午前中、学校に行ってない。
すると、父と母と姉がやってきて口を揃えてこう言った。
「少しはワカメを見習いなさい!」。エッ!?オレ、カツオ??。
学校から電話があった。妹のワカメは立派な出席率。字もきれい。
BGM. 野口五郎「真夏の夜の夢」
風を読む。
10/Ⅷ.(火)2010 白熱酷暑
山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む。
23歳の医学生だった風太郎の、昭和20年1月から12月までの日記。すごい読書量だ。 始めは文語体だった日記が、だんだん口語体に変わっていく。
昔、母は山田風太郎のことを「プー太郎」と呼んでいた。プー太郎、って結構、古い単語みたいだぞ。
BGM. はっぴいえんど「風をあつめて」
タッちゃんの夏休み
9/Ⅷ.(月)2010 小雨
新宿、世界堂に「アリス」のポストカードと「丸尾末広」のポスターをラミネートしに行く。
その前に、麺屋武蔵でつけ麺を食べる。料金同じで大盛になるが、食べきれない量だ。これからは、気をつけたい。
渋谷のアニメイトに寄り、予約しておいた「けいおん」の第二期BLを入手。
帰宅してから、高校野球を少し、観る。夏の甲子園が始まると、敗戦記念日、というフレーズが頭をよぎる。
東スポで、立川談志の連載記事が始まる。談志の前は小柳ルミ子だった。小柳ルミ子の前は山本小鉄だった。 どういう人選なのだろう?絶妙か??
BGM. もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」
ヒゲの日
8/Ⅷ.(日)2010 はれ
8月8日は「ヒゲの日」だそうだ。漢字の「八」がヒゲに見えるからだそうだ。
ポケモン・サンデーで中川翔子が付けヒゲをつけて、そう言っていた。カワユス。
平和な日曜日。『イキガミ』⑧巻を読む。
BGM. スキマスイッチ「アイスクリーム シンドローム」
踊ろよ、ベイビー!
7/Ⅷ.(土)2010 はれ
昨日と今日、クリニックの前の、大岡山北口商店街は、夏祭りでちょうどクリニックの真下にやぐらが組まれ、
♪ドン・ドン・ドン・ガラガッタ、♪ド・ドンガドン・ガラガッタ♪とやっていて、
クリニックの中まで盆踊りの歌や笛太鼓が響き渡ってきました。
しかし、4年目ともなるとすっかり馴れたもので、そんな喧騒に左右されずに診察が出来るほど腕を上げました。
クリニック内の装飾と外部のお祭り騒ぎが相まってカオスな雰囲気を作り出し、
「ここでは日常ではためらうことでも何を言ってもいいんだ」、という治療的な異空間を産み出すことに成功しました。
ピンチをチャンスに変えるのは猪木譲りです。

BGM. デヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」
エビスと丸尾
6/Ⅷ.(金)2010 はれ、ホットサマー
若い人の間で丸尾末広の人気はすごいと思う。
よくこんな若い人が~と感心する。若い人にも、丸尾にも。
それに比べ、蛭子能収の評価が低すぎると思う。
やはり、「スーパーJockey」のせいか。本業以外で売れると、有難みが目減りするのかもしれない。
僕は、エビスさんは天才だと思う。
エビスさんの初期作品集「地獄に堕ちた教師ども」「私はバカになりたい」「私の彼は意味がない」
「私は何も考えない」「なんとなくピンピン」「狂った果実」は傑作だ。是非、オススメだ。
それ以降の作品は、途端に手抜き色が濃くなるが、そんなことで前の作品の価値が下がるものではない。
僕は、年賀状に「私の彼は意味がない」とだけ書いて全員に出した年がある程だ。どれ程だ?
1993年4月号「月刊ガロ 蛭子能収特集」もエビスさんの魅力が満載だ↓。超オススメ。

蛭子能収と丸尾末広は同時期に「ガロ」に掲載されていた。
その他にも、泉昌之、平口広美、根本敬、川﨑ゆきお、渡辺和博、菅野修、アラーキーらが作品を発表していた。
毎月、「ガロ」が出るのが楽しみだった。
僕は「ガロ」に敬意を表して、電車に乗って町田の本屋まで買いに行っていた。
中野でもシモキタでもなく、聖地は町田!、と自分で決めていた。
今や、町田も様変わりした。さびしいものだ。
下は、中野「タコシェ」で買った丸尾のピンナップを額装したもの。
絵とは全く関係のない名言をひっぱってきて、短冊状にして左右に貼り付けて、
結びつけて楽しむのが今のマイ・ブーム。

(右・学生) 『いま ぼくが ひたすら望んでいることは~存在すること(to be)なのだ。
どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ』。ヘンリー・ミラー「南回帰線」
(中・豹男) 『メフィストフェレス「お昇りなされ、あるいは下りなされ。同じことじゃよ』。ゲーテ「ファウスト」
(左・少女) 『幸福がそんなにみじめなものなら、幸福から私を救って下さい』。ジャン・ジロドウ「間奏曲」
↑…こんな雰囲気です。僕は丸尾末広の「DDT」と「少女椿」のサイン本を持っている。
BGM. ヒカシュー「私はバカになりたい」
マイ・ブーム
5/Ⅷ.(木)2010 はれ
「エンドレス・エイト」の巻でもお話しましたが、最近のマイ・ブームは、ポスターやピンナップを貼って、 その左右に短冊状に「名言」を並べてみる。本来、全く関連ないものを結んで、雰囲気を楽しむ遊び。
自分、考案。

↑(右、チェシャ猫) 『余の髭(ひげ)に気をつけてくれ。首切り役。余は首をきられることにはなっておるが 髭を切られることにはなっておらんで』。1535年、トマス・モア卿。
↑(左、アリス) 『どうせあたしをだますまら、死ぬまでだまして欲しかった』。西田佐知子「東京ブルース」。

↑『憂鬱は凪いだ情熱に他ならない』。アンドレ・ジイド「地上の糧」。
…と、まぁ、こんな様子です。不定期に、ご報告して行きマス。
お昼は、森国さんと「マスの照り焼き定食」を食べマスた。
BGM. シューベルト「ます」
20代前半の悩み
4/Ⅷ.(水)2010 はれ、アスファルト・ジャングル照り返しが強い
NHKの、矢沢永吉&糸井重里~今だから「お金」の話、を録画してある。観るのが楽しみ。
「糸井重里の萬流コピー塾」を読む。1984年初版の本。今、読んでも面白い。
糸井重里といえば、昔、テレビで「結局、20代前半までの悩みなんて、その時だけのもので、
後になっても考えることなどない」なんてことを言っていた。当時の日記に書いたから覚えてる。
衝撃だった。それも、同じ1984年頃。
BGM. 斉藤哲夫「悩み多き者よ」
