23/ⅩⅠ.(月)2015 小雨
先週の僕はずっとBABYMETALの骨パーカーを着ていたのは、傷を隠す為でした。
こうやって伸ばして、親指を出せるから、手の甲まで隠れるのです。↓。
夜遅くに、高級住宅街を横切って、家路に向う時、深夜の1時か2時でした。
いきなり、犬に吠えられました。
柵みたいのがあったから良かったが、びっくりした。
僕はよく犬から吠えられる性質で、小さい頃にも従兄弟の家の近くで猛犬に僕だけ襲われたことがある。
大学生の時、女の子の家に行ったら、犬に噛み付かれた。
飼い主は、「おかしいわね、ペロはそんなことしないのに~」だって。
おかしいのは、どっちだよ。今、見たよね?ペロが噛んだところ。
散歩中の犬にも6割以上、吠えられる。
何か、動物にしか判らない、野生のフェロモンが放出されているのだろうか。
そんな訳で、僕は犬が嫌いだ。厳密には、吠える犬が嫌いだ。正確に言うと、俺を吠える犬が嫌いだ。
だから、深夜の帰り道、それでもまだ俺を吠え続ける犬に腹が立った。
ダチョウ倶楽部の寺門ジモンがテレビでやっていた横隔膜を振るわせるライオンの鳴きマネで威嚇した。
深夜の高級住宅街で「ワンワンワン」、<ウォ~、ウウォ~>という泣き声対決である。
それでも、犬が泣き止まないので、頭に来て、人間語で<うるせーんだよ、馬鹿犬!黙れ!>と言って、キックの振りをした。
すると、犬はひるんで、「キューン」と泣いて逃げた。
勝った!、と思った瞬間だ。
遠くから、暗闇から、「カァーカァー」と泣き声とともに一直線にカラスがこちらに向って来た。
きっと犬の援軍に来たのだろう。
近隣の動物同志は、テレパシーで助け合い同盟を組んでいたのかもしれない。
漫画「犬童貞男」みたいだ。
僕はとっさ<カラスは鳥目じゃないのかよ>と突っ込みながらも、空中戦は不利と判断して、ここは逃げることにした。
とりあえずダッシュしたが、直線距離だと追いつかれてしまう。
そこで、僕は機転を利かせて、すぐ次の路地を左に直角に曲がった。
カラスは直進しか出来ないと計算したのだ。
案の定、カラスは急カーブをついて来れず、「カァーカァー」と真っ直ぐに飛んで行った。
しかし、急カーブについて来れなかったのは、ヤミカラスだけでなく、僕の足もで、勢い余って転倒してしまった。
その時、かばって左手をついたのだが、それが擦りむいてしまって。
BABYMETALの骨パーカーは、この傷を隠すためだったのでした。↓。
ちなみに翌日も同じルートで帰りました。負け癖はつけたくないからね。
今日、久々に、エネルギー療法に行ったら、「大分、負のエネルギーがたまっていますね」と言われた。
「近頃、まだ幽霊を見ますか?」と聞かれたのは、こないだ金縛りにあって、幽霊に取り囲まれて大変だったからである。
僕は、<最近はない>と答えた。
エネルギー療法の先生は、「それは良かったです。では、もう少し、詳しく調べてみましょう」と言って、色んな手技をして、
負のエネルギーの正体を特定した。その答えは、「闇、ですね」だって。
何も言ってないのに。すごいね(笑)
BGM. ジョン・レノン「真夜中を突っ走れ」
へそもち
20/ⅩⅠ.(金)2015 はれ
まったくもって季節はずれの話で恐縮だが、白玉あずき、について。
幼い頃、母に言われて、近所のおばあちゃんの家に遊びに行っていた。
いつも1人で寂しがっているから、話相手になってやれ、とのこと。
おばあちゃんは、僕を可愛がり、昔話を聞かせ、おやつの時間に磯辺焼きを焼いてくれた。
夏には、気が向くと、白玉あずき、を作ってくれた。
おばあちゃんの作る、白玉、はちょっと変わっていた。
白玉のお腹の部分を指で押してくぼみを作り、「へそもち」を呼んでいた。
おへそ、みたいな形だからね。
おばあちゃんは、「へそもちを作ると、雷様が欲しがって、鳴り出すんだよ」が口癖だった。
僕は子供とは言え、そんな馬鹿馬鹿しい話を鵜呑みにしなかった。
おばあちゃんが、へそもちを作った日に高確率で、雷が鳴っても、それはそういう季節だから、とクールに受け止めていた。
ある夏の日、おばあちゃんが、へそもちを作った。
おばあちゃんは、「今日は雷様が来るよ~」といつもの様に言うが、僕は老人の独語だと思い、受け流していた。
しかし、衝撃だったのは、台所に立つおばあちゃんが鼻をほじっている光景を目撃してしまったことだ。
多分、僕はこの頃から、食べ物に潔癖症になったのだと思う。
僕は鼻をほじった手で作った、へそもち、を食べる気になれず、手をつけず、<帰る>と言った。
すると、おばあちゃんは、「タッちゃんの好きな、へそもちなのにどうしたの?」と聞いた。
だけど、そこで何を答えられようか。
おばあちゃんは、お土産に、へそもちを包んでくれた。
僕は、へそもちを家に持ち込むと家全体が汚染されそうな気がして、帰路、民家の塀の向こうに投げ捨ててしまった。
やれやれ。やっとこれで晴れた気分で家に帰れる、ホッとしたのも束の間。
にわかに空が暗くなり、雷様がゴロゴロと泣き出しそうな雲行きだ。
慌てて僕は全速力でダッシュして、両手でへそを隠して、大急ぎで家まで走った。
BGM. 堀ちえみ「稲妻パラダイス」
背後霊
12/ⅩⅠ.(木)2015 はれ
僕が精神科医になった理由は、予告ブログの番外編にあげてあるので、時期も良いので、近いうちにアップします。
今回は、精神科領域でも、何故、僕が精神分析や精神療法に興味を持つようになったのか、のお話です。
大学生の頃、母が、東北から神様がやって来るという噂を聞きつけて、2人で見物に行ったことがある。
川崎の方の、何かの新興宗教の道場みたいなところだった。
僕らは熱心な信者に混じって、罰当たりみたいに、ゆるく座って、神様の登場を待っていた。
リーダーみたいな男は、神様が現れる時には強い風が吹くからこの無風の道場の松の葉が大きく揺れる、と説明した。
僕は試しに、神様が鎮座する予定の場所まで歩いて行くと、無風の道場の松の葉が大きく揺れた。
信者達は、どよめいた。リーダーみたいな男は焦っていた。母は、よくぞやった、と大喜びした。
きっと、「係りの者」がボタンでも押し間違えたのだろう。
しかし、僕ら親子は、神様が登場する前に別室に移動を命じられた。
そこに神様が待機していた。
神様は予想に反して、普通の田舎のおばさんだった。
神様は困った顔をして、「お願いだから、帰ってくれまいか?」と田舎弁でお願いした。
母はブツブツ文句を言っていたが、僕はこのおばさんが急に不憫に思えて、母を説得し帰ることにした。
<まぁ、俺たちの勝ちだから、いいじゃん>みたいに言って。
そうしたら神様は良い人(?)で、「あなたの後ろには3人の背後霊がいる」と教えてくれた。
「その3人はあなたと同年代で、あなたのことを羨ましがっていて、力を貸してくれるから安心して良い」と言った。
僕には思い当たる3人がいた。
僕は比較的、珍しいと思うのだが、10代後半に同級生3人を亡くしている。
その3人のことかな、と一瞬、納得した。
でも良く考えたら、そのうち2人は医者を目指していたが、親友という程の仲でもなかったし、力を貸すとは信じれなかった。
おばさんは、テキトーなことを言って、僕らを言い包めて信じ込ませる作戦なのかなと疑った。
そんなことはどっちでも良いのだけれど、今日の本題である。
3人のうちの1人は、確かに僕のことを今でも応援してくれていると信じられる。
彼こそ、僕に精神分析やフロイトのことを教えてくれた張本人で、中高の時の同級生だった。
彼は博識で見た目は中原中也に少し似ていた。
英語とドイツ語が堪能だった。
僕は彼に借りたフロイトの文庫本を<わかんない>と言って突き返したら、彼はこんな風に言うのだった。
「それはわからないのではなくて、つまらなかったんだね。フロイトは日本語訳より原文の方が面白いんだけどな」って。
そして彼は、「川原君は、絶対、精神科医になるべきだ」と言い、フロイトの本を彼流に噛み砕いて放課後に教えてくれた。
僕はそこで防衛機制とかを知って、それは面白いと興味を持った。
高校の3年は理系と文系で授業が分かれるから、彼とは疎遠になって行った。
卒業後、しばらくして彼は死んだ。11月だった。家族だけの密葬だった。
しばらくして、僕は彼の家族に呼ばれて、彼の家に招かれた。
家族はどうしても僕と会いたかったそうだ。
ちょっと難しい問題なのだが、彼は僕のことが好きだったらしく、彼はいわゆる同性愛者だったらしい。
簡単に言えば、ホモだった。
性の嗜好は人それぞれだ。人にとやかく言われる筋合いはない。人に迷惑をかけなければね。
東京スポーツの風俗欄をみると、色んな性癖に合わせた性産業があり驚かされる。
最近の流行は、ぺチャパイ、みたいだ。巨乳ブームの反動か?
しかし、同性愛の風俗はあまりみかけない。平成27年でもだ。
だから、彼が死んだのはまだ昭和50年代だったから、色々と思い悩んでいたのかもしれないな。
思い悩んでいなかったら、ゴメン。
彼が僕を好きなことは勘付いていたが、まさかそんな背景があるとは知らなかった。
もしも、彼がそんなに若くして死んでしまうと判っていたら、1度くらい寝てあげても良かったのになと、マジで思う。
だからもし、お前が背後霊で、これを読んでいたなら、ちゃんと俺の手助けをしなさい。
BGM. ザ・ルースターズ「恋をしようよ」
躁的防衛
11/ⅩⅠ.(水)2015 はれ
昨日の記事の最後に書いた「BGM」、RCの「すべてはALRIGHT(YA BABY)」は、僕にとっては特別な歌です。
この曲は、RCが事務所との色んなイザコザをやっと乗り越え、新たなスタートを切る時に発表されたシングルです。
今聞くと、ポジティブな応援歌のように聞こえるかもしれませんが、この時のキヨシの心境はどん底だったことでしょう。
PARCOのCMに使用されるなど、プロモーションに力を入れましたが、チャボを筆頭に他のメンバーは恥ずかしがり屋で、
積極的には協力しません。
キヨシだって、本来はそういうのが得意な人じゃないのです。
なのに孤軍奮闘してましたね、テレビの中で、ガラにもなくオチャラけて。
RCは不遇時代があったから、キヨシはたくさんの楽曲をプールしていました。
だから、ブームが来た後も、クオリティーを落とすことなくニューアルバムを発表して行きました。
しかし、この頃には、「貯金」も底をつき、キヨシは新たに曲も作らなければなりませんでした。
それでも、RCは大人気でした。
その年のクリスマスの武道館コンサートのMCでキヨシはこう言いました。
「今日、ここに来れた奴は幸せだぜ。来たくても来れない奴がいるからな。チケットがとれなかった奴とか。植物人間とか」
後に知ったのですが、この時、キヨシのお母さん(当時は、キヨシもまだ実母だと思っていた)は植物人間だったそうです。
つまり、「すべてはALRIGHT(YA BABY)」は、全然、オーライじゃない時に作られ歌われていたのです。
脳天気なお気楽な歌に聞こえますが、この歌は苦悩の真っ最中にいる人間は、そうでも言わないとやってられない、ということを表現したのです。
僕は当時、医大生でしたが、父が死んだ頃で、それとは関係ないのですが僕の成績は悪く落第しそうな時期でした。
そんな時、♪すべてはオーライ、イエ~ベイビ~♪、と歌うキヨシの姿は手本になりました。
精神分析の用語で「躁的防衛(マニック・ディフェンス)」という概念があります。
簡単に言うと、抑うつ不安に陥った時の防衛のことで、現実を否認して、根拠のない万能感で乗り切ろうとする試みです。
これは、躁病の説明に使われることもあります。
そうなのです。躁病とは、楽しくてなるのではないのです。
あぁ、それで思い出したのですが、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉がありますが、あれも似たようなところがあるそうです。
江戸時代には家屋の特徴などのせいで、大層、家事が多かったそうで。
それは決して、江戸の見物(みもの)だった訳ではなく、そうとでも言ってないとやってられなかった、という所だったようです。
度を越した負け惜しみ、と強がりですね。
こないだ、しょこたんと小林幸子とのスリーショットの時にお話しましたが、僕の携帯のカメラ機能はイカレテしまいました。
自宅のブルーレイも故障しました。
カワクリでは、待合室のモニターで流すDVDが動かなくなったり、動いたかと思うと、プリンターが故障したり。
診察室の椅子が片一方、壊れたり。受付カウンターのイエス様のライトが破損したり。
光と地球の自転だけで半永久的に動くはずの地球儀が止まってしまったり。
立て続けに、SOSサインを、アニミズム的に言えば、先祖の霊が教えてくれていて。
なるほど、そういうことかと今さらながら、判ったけど。
昨日は、11月のせいにしたけれど、月が変われば何とかなるというものでもない。
目の前の物に、立ち向かって行くしかないのだ。
そう言う訳で、サポートメンバーの募集中です。今一度、BGMをリピート再生です。
BGM. RCサクセション「すべてはALRIGHT(YA BABY)」
記念日反応
8/ⅩⅠ.(日)2015 父の命日
なんてこった。
またもや11月だ。
いつも11月だな。11月はそれでなくても気が急くのに。
二人とも死んじゃってるが、父と母の誕生日が11月で、父の命日が11月だ。
その他にも、友人や親戚の誕生日や命日も11月がやたらと多い。
…ただ、そんな気がするだけかな。
思い出そうとしなくとも、その季節の独特の空気感や木々のざわめきなどが心をその頃にタイム・スリップさせる。
アニバーサリー・リアクションは直訳すると「記念日反応」だが、日本語では「命日反応」とも訳すのは日本人の死生観か。
そんなこともあり、11月のネイルのテーマは、「悲喜こもごも」。
ネイリストさんは、拡大解釈して「冠婚葬祭」をテーマにしたそうです。
ケーキやフラッグでパーティー感を、黒いのは棺やお墓だそうです。↓。
そうは言っても、お父さん、すべてはオーライ!
こっちは何もかもうまく行っているよ。
俺の視界には俺を邪魔するものなんて微塵もみえやしない。
ノー・ガンチュー、だよ。すべては始まったばかりさ。
ボーズとは喧嘩してるから、墓参りには行かないけれど、せいぜい草葉の陰からこのブログでも読んで安心していてくれ。
ネイルのアップ見る?
サービス、サービス!。↓。
BGM. RCサクセション「すべてはALRIGHT(YA BABY)」
予告ブログ⑥~「爬虫類を飼うこと」
5/ⅩⅠ.(木)2015 亡き母の誕生日
この予告ブログをした頃だから、もう1年以上前のことだ。
爬虫類に詳しい、Kさん、から池袋のサンシャイン60で「大爬虫類展」をやると聞いた。
爬虫類の展示即売もするらしい。
それがうっかり家族にバレてしまった。
家族は口々に、
「行っても良いけれど、何も買ってきちゃダメよ」
「誰も世話する人が家にいないんだからね」
「飼っても、可哀想なのは、その爬虫類なんだからね」
「本当に好きならやめてあげて」
「むしろ、爬虫類展には、行かない方が良いんじゃないか」
「見たら絶対、欲しくなるものね」
「欲しくなったら、絶対、買ってきちゃうものね」
「やっぱり、爬虫類展には行かない方が良い!」
と寄ってたかって、多勢に無勢だ。
民主主義に乗っ取って、仕方なく、僕は爬虫類展に行くのをやめた。
代わりに、オオトカゲのフィギュアを買って、診察室に置いた。↓。
受付スタッフは朝に診察室のお掃除をしてくれるのだが、知っていても毎朝ドキリとする、と不評であった。
今回は特別に診察机の上に置いてお披露目。↓。
患者さんからも、「あれ、恐い。隠して」と言われ、それであちこちに移動しているうちに、首のあたりに亀裂が入り、
首の中から下のスポンジ生地がモコモコと出て来て、まるで、憐れなジラースの最後、みたいになってしまった。
ジラースとは、ウルトラマンに出てくる怪獣で、ビジュアルは同じ円谷プロのゴジラに襟巻をした怪獣だ。↓。
おそらく、ジラースはウルトラ怪獣史上、最弱の部類だ。
怪獣博士が、ジラースを作り湖の中で静かに暮らしていたのに、旅行者に発見され、ウルトラマンに怪獣という理由だけで、
何も悪いことをしていないのに退治された。
その時のウルトラマンの極悪非道ぶりは、筆舌に耐えがたく、ジラースをもてあそぶように、からかいながら、たとえば、
ジラースの襟巻を引きちぎり、その襟巻をマントのようにヒラヒラさせて、ジラースは頭から突進することしか出来ない。
ウルトラマンはそれを闘牛士気取りで、サッと身をかわして、おどけて、イジめるのである。
そしてお決まりのスペシゥム光線でやっつけて、ラストは口から血を吹いたジラースの断末魔の表情がクローズアップされ、
ブクブクと湖に沈んで行き、おしまい。
以前、ナースの塚田さんに見せたら、「これはひどい!ジラースが可哀想すぎる!」と怒っていた。
彼女は弱気を助け強気をくじく、正義感が強いからね。
憐れなジラースをマリア様の慈愛の光とともに。↓。
下が、ウルトラマンにやられた、ジラース、のような痛々しさのオオトカゲ。↓。
やはりフィギュアと言えど飼育は難しいのか。
僕は東京都が指定している半透明のビニール袋にお花を添えて、祈りを捧げて、オオトカゲのフィギュアを弔った。↓。
その昔、僕は子供の頃、カメレオン、や、グリーン・イグアナ、なども飼ったことがある。
しかし、当時はヒーターなどの装置もなく、エサもハエを叩いて、半殺しにして与えたりしていた。
これはなかなか難しく、技が必要で、爬虫類たちは動かないと食べないから、気絶だけさせて、全殺し、ではダメで。
その頃の僕は野生児のようで、学校帰りに、トカゲやカエルやイモリやヤマカガシを捕まえてきては、家の庭に放した。
僕の野望はうちの庭で爬虫類と両生類を繁殖させ彼らの楽園を作ることだった。
僕の家の街灯には夜になるとヤモリが群がるのを、理科の教師に自慢したら、「欲しい」と夜に家にやって来た。
<ご自由にどうぞ>、と僕が言うと、教師は「どうやって捕まえるの?」と尋ねた。
僕は、街灯を揺すって、ヤモリの目を回し、ふるい落とし、数匹のヤモリを教師に渡した。
すると、翌日から、学校の狭い廊下で理科教師とかち合うと、向こうが道を空け、「どうぞ」、と言った。
僕は、こんなことで人生の形勢とかが変わるものなんだと実感したものだった。
僕の家族は僕以外は皆、爬虫類(や両生類)が嫌いで、父は池で鯉を飼っていたが、「鯉が食べられてしまう」と怒った。
僕は、<アカハライモリがキンカブトを食べる訳ないじゃないか。バッカじゃなかろうか>とトニー谷みたいに言い放った。
滅多に僕を怒らない母も、目の前で大量のトカゲやカエルを庭に放つ僕の姿をみて、怒っていたな。
僕は、そんな両親をみて、<怒ったって何も変わらないのにな>、と思ったものでした。
その年の川原家の流行語大賞は、「母さん、怒ったって何も変わらないよ」でした。(うそです)。
家族は大変恐怖しましたが、しかし、母の声にびっくりしたのか、ヘビやトカゲはうちの庭からいなくなってしまって、
僕はとてもガッカリした。
あるいは、野鳥に食べられてしまったのかもしれない。女と鳥類は凶暴だな。
おじさんとおばさんの役割とは何か。
唐突だがそんなことを考えてみた。
それは、僕はこう思う。
親が禁止していて、子供が自分の経済力では買えない物をプレゼントする係りだ。
僕のおじさんの住んでいた溝の口の辺りに大きなペットショップがあり、そこにワニが売っていた。
僕は何かの記念日か何でもない日のお祝いに、おじさんにせがんでワニをゲットした。
ワニを池に放とうかとも思ったが、イモリで怒る父だ。ワニを泳がせたら卒倒してしまうかもしれない。
仕方ないから市営プールにワニを連れて行き、一緒に泳いだ。
すると、すぐに係りの者が飛んできて、厳重注意を受け、僕は出禁になった。
なので、僕はそれ以来、夏休みにプールに行くという選択肢が消えた。
だから僕がいまだに泳げないのは、市営プールの警備員のせいだ。
な~んて、そんなことを言ってはいけませんね。
なんでも、他人のせいにするのは、僕の悪い癖で、それは政治や文明や教育や世代のせいだと思う。
両親には僕とワニを厳重に管理する責任があった。
父は庭の隅に、小さなプールを作り、そこで僕らは近所の子供達も呼んで一緒に遊んだ。
子供達はすぐにワニに懐いていた。
ワニの餌は生きたドジョウや、肉を紐で縛り、動かして獲物のようにして食べさせた。
飼育は大変だったが、それなりに面白かった。
しかし、当時は知識も機械も乏しかったから、越冬するのが困難だった。
寒い冬が来ると水温を保てず、ワニは死んでしまった。
ワニが死んだ日のこと。
僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。
しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。
その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。
カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。
淡白で味も素っ気もなかった。
<ワニの肉は言われた通り、本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや>
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。
この「予告ブログ」が、亡き母の誕生日に書けて良かったと思う。
BGM. エルトン・ジョン「クロコダイル・ロック」