24/Ⅲ.(水)2021 はれ 小林麻耶、スピリチュアル夫から逃避別居?
エヴァの公式サイトがネタバレを解禁したそうだが、あまり本筋と関係のないネタバレを含むので注意です。
おととい、NHKのプロフェッショナルでエヴァの監督である庵野秀明に密着取材した様子を放送し、視聴率が8.8%だったそうだ。それをみてて思ったのだが、僕と意外と年が近いのである。だからエヴァで流れる昭和風の歌謡曲などは馴染みがある訳である。
僕らの上の世代は「60年安保」とか「70年安保」などと絡めて学生運動があって派手に暴れていたが、我々の時代には「80年安保」がなく学生運動もなかった。「もうそんなことをやっても無意味だ」という風潮もあった。
学生運動とともに流行ったのは「プロテストソング」などのフォークソングで、僕らのギリ上の世代は「岡林信康」をフォークの神様と呼ぶ。僕らの世代は、はっぴぃえんどをバックバンドに使ったくらいの認識と80年に何かのCMソング「グッバイ・マイ・ダーリン」が小ヒットしたくらいで、71年の中津川フォークジャンボリーでサブステージのよしだたくろう(当時は平仮名表記)にメインステージをかっさわられそのまま主役も交代し、「おいらいちぬけた」と農業に走った人というイメージで、僕らの世代は「文明に疲れたり」「革命に敗れる」と農業に走るものだとインプットされた。80年代には「みんな八百屋にな~れ」という本も流行ってた。だから、エヴァの集落で登場人物が酒に酔い、よしだたくろうの「人生を語らず」を歌うのは味わい深かった。「未来志向」という意味で。
よしだたくろうは中津川の「人間なんて」や後のシングルヒット「結婚しようよ」「旅の宿」で知られるが、当時は「天才バカボン」にも乞食のフォーク歌手・めしだたかろう、が登場したほどに人気者。拓郎がエポックメーキングだったのは、当時の芸能界では類を見ない「売れてもテレビに出ない」というスタイルの確立とそれをカッコいいと思わせる価値観の変換だった。そしてとどめは森進一への楽曲提供。「襟裳岬」がレコード大賞を獲った。当時はレコード大賞は紅白と並んで大晦日の締めだ。レコード大賞の楽曲には作詞作曲編曲者も表彰されるから果たして「よしだたくろう」が登場するかが注目を集めた。拓郎は当日、普段着のジーパンにTシャツでニヤニヤして壇上に現れた。それがまたカッコ良かったのです。
そんな拓郎の次のLPはCBSソニーでラストとなるもので「襟裳岬」をセルフカバーしている名盤にして再販されない「今はまだ人生を語らず」。これのA面の2曲目が「人生を語らず」でした。なぜこのLPがラストかというと、拓郎は陽水・泉谷・小室等と「ミュージシャンのミュージシャンによるミュージシャンのためのレコード会社・フォーライフレコード」を立ち上げたためです。フォーライフのフォーはこの4人の「フォー」と思われがちですが、「~のために」のフォーです。フォーライフレコードの第1弾アルバムは注目の的。4人は合作で「クリスマス」というクリスマスアルバムを発表しました。拓郎以外の3人はこのアルバムのために曲を作りましたが、拓郎は作らず泉谷の作った歌と「お正月」と讃美歌の「諸人こぞりて」を歌いました。という訳で、エヴァのラストの方の伴奏曲に「諸人こぞりて」が流れた時、僕はさっきの「人生を語らず」が布石でこう来たか、と一人で得心したのですが、こじつけですね(笑)
吉田拓郎は月1でラジオをやっていてそれによると昔のミュージシャン仲間とはほとんど会わないし、気も合わなくなったと言ってました。唯一、小田和正だけが例外でたまに二人で会ってショートケーキを食べながら話をするのだと笑っていた。僕はそれを聞いていて中津川で群衆をサブステージに「誘導」したり「篠島コンサート」にも参加した小室等とも交流が絶たれてるって、人間の関係性や友情ってはかないなぁと思ったものでした。
特にコロナの昨今、人と会う機会も減り誰と会うかを選別しないといけない現代を我々は生きてるのだけれど、志らくの「グッとラック!」も3月で終了になりますが小林麻耶がレギュラーだったことを忘れてる人も多いでしょう。小林麻耶はイジメで降板したとかしないとか言っていましたが、結局、旦那が「変な人で洗脳されてる」ってことで決着しました。僕は小林麻耶のファンなので残念でした。そこに今日発売の「女性セブン」です。
思わずこの見出しに魅かれ購入しました。しかし、よく表紙をみてみたら吉田拓郎の名前があるではないですか!
まさかの「Kinki」です。絵もV6森田と宮沢りえのツーショット写真をサブリミナルにして、下の段に「福原愛不倫デート」と男女の愛のもつれを女性誌らしく描いていますが、その流れで「Kinkiとやりたい」っておかしな意味に感じ取ってしまうのは私だけ?
BGM. 吉田拓郎「諸人こぞりて」