10/Ⅶ.(土)2010 はれ
茅ヶ崎駅南口から海に向かう道を、東海岸という。茅ヶ崎は先週、海開きをしたそうだ。
かぐや姫の「かぐや姫Today」という再結成コンサート(←観に行った)が行われた年、
加山雄三は『加山雄三通り』」というLPを出した。
矢沢永吉の「時間よ止まれ」とかサーカスの「Mr.サマータイム」が流行ってた夏だ。
榊原郁恵は「夏のお嬢さん」、石野真子は「私の首領<ドン>」、大場久美子は「エトセトラ」だ、なつかしい。 『加山雄三通り』を聴けば、加山雄三通りとは東海岸のことだとわかった。
当時、地元の年寄りが「若い奴が勝手をして困る。けしからん」と難癖つけてて、ズレてるなぁと思ったものだ。 だって、もうサザンオールスターズなんて新人が活躍してるんだぜ。
加山雄三、若くないぞ。
加山雄三、おじさんだぞ。って。
今は昔、いつしか加山雄三通り、正式名称になっていた。
近頃は海水浴場を「サザンビーチ」と呼んで集客してるようだ。
年寄り、いいのか?
「老人と海」でした。
BGM. かぐや姫Today「湘南 夏」
わたしはここにいる
7/Ⅶ.(水)2010 くもり、やっぱり雨
七夕といえば涼宮ハルヒだ。
中学生のハルヒは七夕の日の真夜中に学校へ忍び込み、ジョン・スミスと名乗る北高生の助けをかり、
校庭にナスカの地上絵のような落書きをする。
それは、宇宙人へのメッセージだという。
ハルヒが考案した宇宙語で、「わたしはここにいる」という意味だった。
おとなの皆さん、これが「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズを楽しむにあたっての鍵になります。
それでは、コマーシャルです。↓。
七夕は諸事情があって別れ別れになった二人が1年に1度だけ逢えるチャンスで、雨が降ったら来年に繰り越し、
という縛りがロマンティックですね。
郷ひろみも♪会えない時間が~愛、育てるのさ~、目をつぶれば君がいるぅ~♪と歌ってました。
昔、七夕に『吉田拓郎のオールナイト・ニッポン』があり番組しょっぱなで拓郎が、
「吉田拓郎で、流星、です。僕も誰かに逢いたいなぁ~」と曲紹介したのを何故だか妙によく覚えている。
当時のオールナイト・ニッポンは月曜・中島みゆき、火曜・所ジョージ、水曜・タモリ、木曜・たけし、金曜・拓郎、
土曜・鶴光だった。スター達が定点のように、いつもの曜日いつもの時間いつものダイヤルに必ずそこにいた。
それこそまさに恒星だった。
BGM. 吉田拓郎「流星」
ザ・ヒストリー・オブ川原①~「家族の肖像」
3/Ⅶ.(土)2010 蒸し暑い、くもり夕方から雨
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第一弾。
生まれて初めて好きになったアイドルは天地真理だった。
カトリック系の幼稚園から小学校に通っていた僕にとって、「天地創造」の天地に、
「わたしは道であり、真理であり、命である」の真理を名に持つアイドルは、
堂々と好きになっても許される安心感があった。
天地真理の本名は、斉藤真理といい、実家は茅ヶ崎の南口の駅前にある「斉藤不動産」
だという噂があったが、真偽の程は定かではない。
父は、なんとか僕に勉強させようと、「斉藤不動産にお嫁に来てもらうよう頼んでやるから」と
交換条件をチラつかせた。
しばらくして、森昌子が「せんせい」でデビューした。
僕と一緒に歌謡番組を観てた父は森昌子を大変気に入り、「娘に欲しい」と言った。
父は堅物だが、時々おかしなことを云う。
僕はブラウン管の森昌子を観ながら、こんなモンチッチみたいな奴にいきなり家に来られて、
今日からお姉さんよ、などと言われても困ると思った。
その頃、モンチッチ、まだなかったけど。
茅ヶ崎は潮風から家を守るために海沿いには松林が広がっている。
僕はそこらじゅうに落ちている松ぼっくりを見ては、忌々しく森昌子を自由連想した。
そんな折、ラチエン通りに密生しているヘビイチゴを食べることで評判の上級生「マミー」が
松ぼっくりを食べることに成功したというニュースを耳にした。
朝の礼拝で、僕は「マミー」に「森昌子、好き?」と話しかけてみた。
「マミー」は「くれんの?」と答えた。
僕は、こいつらはお似合いだな、森昌子は「マミー」にまかせた、と思い随分と気が楽になった。
母は働き者で浮かれたことはまずなかった。
だから芸能人で誰が好きかなんて話も聞いたことがない。
唯一、歌舞伎の坂東玉三郎を贔屓にしていたくらいか。
晩年は、兄がアリスの堀内孝雄に似てると誰かに言われたらしく、2か月半くらい堀内孝雄を応援していた。
僕は部屋に月刊明星か月刊平凡の付録についていた天地真理の等身大ポスターを貼っていた。
紺色のチョッキにベルボトムのGパンを履いて微笑んでいて、隣の真理ちゃんという感じだった。
いい感じ。
兄の部屋は殺風景で『ミクロの決死圏』という、博士の命を救うために医療チームがミクロになって
博士の耳から体に入っていくというSF映画のポスターが貼られてたのを覚えている。
兄はギターが弾けて学生時代はテニス部だった。
兄の部屋のポスターの変遷は「かぐや姫」とか「ビートルズ」といったアーティストか
コナーズとかボルグといったテニス・プレーヤーで、およそ色気も素っ気もなかった。
アイドルにうつつを抜かしたことなんてないんじゃないか?
あっても、岡田奈々1週間、とか、小泉今日子10日間、なんて程度じゃないかな。
そのくせ、東京乾電池の高田純二がやっていた土曜のお昼の8チャンの番組で、
アナウンサーの寺田理恵子のお見合い相手を大学生から募集するというコーナーの、
第1回の出演者としてテレビ出演していたのには驚かされた。
<ご趣味は?>「テニスです」
<何級ですか?>「硬球です」という、仕込まれた掛け合い漫才みたいなことをやっていた。
家族には極秘にしていたが、僕はその番組が録画されたビデオをたまたま発見して観た。
でもそこは武士の情け、親には内緒にしておいた。
BGM. サザンオールスターズ「茅ヶ崎に背を向けて」
焼肉小倉優子
2/Ⅶ.(金)2010 はれ
小倉優子の焼肉屋が訴えられてる、と週刊誌に出ていた。
「居抜き」で使ったからどうのこうの、というあまり大した事件でないから良かった。
お店には、僕も一度行ったことがある。
新宿駅からコマ劇場に向かう途中のビルの上の方に大きな看板があり、
「焼肉小倉優子」の文字とゆうこりんの笑顔。
小倉優子を認知したのは、よみうりランドのポスターに起用された時だ。
当時、小田急線を利用してた僕は毎朝見かけた。
・水着姿でプールサイドに無表情で座り小首をかしげて、
「学生、来て来て!安くするわよ」と入園料学割。
・水しぶきを浴びる絶叫マシンで髪を逆立てて悲鳴をあげ、
「ヤダーッ、こんなにビショビショ」。
・暗がりで怯えながら、
「一日三回もなんて…。もう許してぇ!」はお化け屋敷。
さすがにこれはマズイだろうな、と思ってたら案の上、差し替えになった。
12チャンの夕方の帯番組「シブスタ」でライセンスと、
後番組「ぶちぬき」で雨上がり決死隊と組んで司会を勤めた。
僕個人は色々ときつい時期で、どれだけこの番組に救われたかわからない。
毎回録画して観た。
こりん星キャラが完成していく過程が見れた。
CD『フルーchu・タルト』の一曲目、「ビタミンLOVE」で毎朝、起こしてもらった。
恵比寿のリキッド・ルームでやったシークレット・ライブにも行った。
「ビタミンLOVE」は2曲目だった。
オール・スタンディングなので前の方で観れた。
この頃の、小倉優子は可愛かった。
小倉優子の失策は、何かのインタビューでコスプレをちょっと馬鹿にする発言をしたことだ。
ゆうこりんはコスプレ写真集も出してたのだから、間接的に、ファンを見下した発言だった。
その結果、ファンは中川翔子に流れた。
あっ、この場合のファンは僕です。
そうは言っても、昔のよしみ、小倉優子がイジメられたら知らん顔もしてられない。
僕が開業する時、前の病院から独立祝いに防災ポスターを貰った。
今もクリニックの喫煙所に貼って、火の用心を呼びかけてもらっている。
清志郎も初期のRCサクセションの「けむり」という歌で、
♪火のないところにも煙は立つものさ~♪と歌っている。
頑張れ、小倉優子。
BGM. 小倉優子「だいじょうぶ…」
サタデー・ナイト・ラヴァさん~ジューン・ブライド
30/Ⅵ.(水)2010 ハレ晴れ
ジューン・ブライド「6月の花嫁」、6月に結婚した花嫁は幸せになるという。
ヨーロッパでは古い伝承のようで、ローマ神話の結婚の女神Junoにあやかったとか、3~5月が結婚を禁止し
6月は解禁月だからとか、欧州では6月が一番雨が少なく天候がよく復活祭もあり祝福ムードが高まるとか。
でも、日本でジューン・ブライドを広めたのは間違いなく「よしだたくろう」だ。
ヒット曲「結婚しようよ」の歌の通り六文銭の四角桂子と、6月に教会で白いスーツを着て結婚式をあげた。
それが若者の結婚式の一つのスタイルになった。
結婚は幸福、祝福だけとはかぎらない。
面白くないと思ってる人もいる。まして、それが想いを寄せてる人なら…。
流行歌にはそういうテーマがよくあって代表曲はシュガーの「ウエディング・ベル」と早川義夫の「サルビアの花」だ。
シュガーは80年代に流行った3人組のガールズ・グループで、僕はファンでシングル・レコードを全部持っている。
「ウエディング・ベル」は元恋人の結婚式に呼ばれ祭壇の一番隅で二人の幸せを見せつけられ、
♪クタばっちまえ、ア~メン♪と、ハーモニーを効かせ全員で小首をかしげるポーズを決めるのが可愛い、
80年代OLのサバサバした心境を歌ったヒット曲だ。
一方、早川義夫は60年代のGSの中でも異彩を放つ存在の「ジャックス」のリーダーで解散後は岡林なんかに楽曲提供もしていた。
そんなことはどうでもいい。問題は、早川義夫のソロ・アルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』である。
まずは、このレコード・ジャケットを見て味わって欲しい↓。
このA面の5曲目に「サルビアの花」が収録されている。
オケはなく、早川義夫がピアノで弾き語りをしているが、その迫力に凍りつく。
早川義夫の歌唱法は独特で、口の中で言葉をこねくり回し、陰湿というか恨めしい。
「サルビアの花」の歌詞は、♪扉が開いて出てきた君は偽りの花嫁。頬をこわばらせ僕をチラっと見た。
泣きながら君の後を追いかけて花吹雪舞う道を、転げながら、転げながら、走り続けたのさ~♪、である。
60年代の色恋のもつれの怨念じみたものが見事に描写されている。
シュガーの「ウエディング・ベル」と続けて聴いて比較することをオススメしたい。
以前、BS-NHKのフォーク特集でゲストの早川義夫が「サルビアの花」を歌っていて、
演奏終了後にアシスタントの岡部マリが「こわ~い」と震えあがり、司会の坂崎幸之助が苦笑していたのを覚えている。
僕は大学の頃、「ローランド・大人のためのピアノ・スクール」というのに1年間だけ通ったことがある。
渋谷の、今のアニメイト・コミック館の坂を登りきったジョナサンの付近にあった。
毎週土曜日の夜レッスンに通った。
マリコ先生という大学を出たくらいの育ちの良さそうな美人が僕の担当だった。
僕は子供の頃少しピアノをやっていたし、中高はブラス・バンドにいたから譜面も読めた。
だからレッスンは「好きな曲を弾けるようになろう」という目的にした。
そこで僕は早川義夫の「サルビアの花」弾き語りバージョンがやりたい、と言い出した。
当時は、スコアなんてものは売ってないから、マリコ先生にレコードを貸し譜面におこしてもらった。
それがこれ↓。懐かしい。
ピアノを始めて半年くらい経って、医学校の同級生・レレちゃんとマリコ先生が女子高時代の友人だと判明した。
僕はちょっと恥ずかしかった。
レレは、鬼の首を取ったように得意気だった。
僕は大学が忙しくなりピアノをやめた。
自動的に、マリコ先生とは会わなくなった。
何年後か、マリコ先生の結婚パーティーがあり、僕は当日レレに連れられパーティーに顔を出した。
僕はあまり気が乗らなかったが、レレが強引だった。
「サルビアの花」の男が来た、と嫌われないかと不安だったが余計な心配だった。
マリコ先生は、ノーブルなウエディング・ドレスで僕の飛び入りをとても喜んでくれた。
僕も嬉しかった。
レレに感謝した。
BGM. RCサクセション「マリコ」
行方不明
24/Ⅵ(木).2010 はれ
蒸発者に憬れたことがある。安部公房の『燃えつきた地図』とか三島由紀夫の『音楽』とか。 皆さまがたにおいてはW杯で盛り上がってらっしゃるところ、なんなんな話題でしょう。
何の不自由もなく、一見幸福そうにさえ見えた男が突然姿を消した。
行き場所も告げず、書き置きもない。
懸命な捜索、やっとの思いで男を見つけ出した。ドヤ街みたいな処にみすぼらしい姿でいた。
でも、声はかけなかった。
なぜなら、今までのどんな瞬間よりも男の顔が幸福そうに見えたから。
そんな話に憬れた。
「蒸発者」にではない。
「身内や友人に親身に心配される存在」を夢想した。
だから、もし僕が「蒸発者」だったら、自分を必死に探し回る家族や仲間の心配顔を、物陰に隠れて、 かくれんぼする子供みたいに、「あっ、来た来た」なんて喜んで見るに違いない。
これじゃ、蒸発者失格だ。
そんなことを考えてたのが10代の終り頃、我ながら幼稚である。
昔、wowowでシティーボーイズの舞台『丈夫な足場』というのを観たことがある。
蒸発者の集いがあり、各々がどういう経緯で蒸発するに至ったかを、時間軸や座標軸をシャッフルして、
つぎはぎにして、最後に話が繋がるというものだ。
面白かった。DVD、出てるかな?
「蒸発」に似てるものに「神隠し」がある。
神隠しといえば『ピクニックatハンギング・ロック』という映画だ。
1900年のオーストラリアの寄宿制の女子学校が舞台。
先生に引率された一行が、岩山ハンギング・ロックへピクニックに行く。すると、ちょうど12時に時計が止まって、
少女達がいなくなってしまう事件の顛末が筋。
意味深だなと思ったのは、1人だけ岩山に吸い込まれなかった子がいて、その子があまりかわいくない子として、
非常に差別的に描かれていたことだ。
神隠しにあうのはきれいな子だけ、きれいじゃない子はだめ~っていう。
「選ばれなかった子」は、事件の「証人」の役割をさせられた。
なんか、意味深でしょ?
BGM. よしだたくろう「かくれましょう」
聖地巡礼
23/Ⅵ.(水) 雨のウエンズディ
4時に目がさめる。早朝覚醒。外は雨。気分は憂鬱。
憂鬱といえば、涼宮ハルヒですが、春休みに「消失」の映画化を記念して来阪しました。
長門のマンションや、キョンが毎日文句を言いながら通う急な登り坂の通学路や、北高や、
みくるがキョンに未来人だと告白した公園とか、光陽園学園とか、映画「消失」で古泉がキョンに
「うらやましいですね」とつぶやく声が踏み切りの音でかき消されてしまう場面の踏み切りとか、
その直前にハルヒと古泉とキョンが入ったサイゼリヤとか、
古泉とキョンが閉鎖空間に侵入するスクランブル交差点、などなどを観光してきて楽しかった。
また行きます。
下の写真は、北高。
制服姿の女子が駆け上がってきそうだ。
BGM. 猫「雪」
バターになりたい?
18/Ⅵ.(金)2010 快晴のち雨
これから雨が続くそうで嫌になりますね。
ゆううつになるし、この世から取り残されたような淋しい気分にもなります。
孤独感。ひとりぼっちは、さみしいですね。
今日は、手の痺れと胃の調子が悪いから南波先生に鍼と温灸をしてもらいました。
だいぶ良くなった。
中学の頃、TV番組から伊東四郎と小松政男の「シラケ鳥」というのが流行した。
そのギャグ自体は別に面白くも何ともなかったのだが、
燃える男・長嶋茂雄が引退したりして世の中全体が燃え尽きてシラけた世相を反映して、
ウケてたのではなかろうか。
中学生にもなると、「シラケ鳥」は幼稚でシラけ気味であったが。
その後、時代は校内暴力とか「金属バット事件」に代表される家庭内暴力や
暴走族など殺伐とした風景に様変わりして行った。
するとコナイダまでラジオの深夜放送で
「天才・秀才・バカ」というくだらないコーナーで人気のあった谷村新司の率いるアリスが
「冬の稲妻」のヒットを皮切りに爆発的な支持を得たのはよいとして、
ちょっと隙を見せたら武道館で「美しき絆~ハンド・イン・ハンド」などという観客同士が
手と手をつなぎ合い絆を深めるという新興宗教みたいなライブをおっぱじめた。
「3年B組金八先生」がスタートしたのも同じような時期だ。
コナイダまで「ジョーダン!ジョーダン!ジョ~~ダン!!」なんて、
西城秀樹のYMCAをおちょくってJODANという歌を冗談半分に体でアルファベットを作りながら歌っていた武田鉄也が
熱血教師に扮し「‘人’という字は支え合って出来ています。人間は1人じゃない」と熱く語り、
そのフレーズが本当はさびしいだけでやり場のない怒りを
社会に向けるしかなかった不良達の心のブラックホールにピタっとはまった。
孤独に悩むたくさんのひとりぼっちが「金八」や「アリス」という箱舟に飛び乗った。
一方、それに乗り遅れた若者たちもいた。
「金八」や「アリス」に偽善の香りを嗅ぎ取ったり恥ずかしさを感じ
、直感的に「この舟に乗るのは危険だ」と察知したのだ。
現実は定員オーバーで乗りそびれただけかもしれないが…。
そこにビートたけしが登場した。
衝撃的とはこういうことを言うのだろう。
たけしは世間のウソや誤魔化しや偽善を、たけし自身にも内包していると告白しながらも、
露悪的に毒ガスという風刺の効いた笑いに昇華した。
「金八先生、すごいですね~。‘人’という字は支え合うって、‘入る’っていう字になっちゃった。弱っちゃうな~」。
ヒーローに思えた。
僕が今でも忘れられないのは、ある日のオールナイト・ニッポンで、
「アリスってのもすごいですね~、ハンド・イン・ハンドだって。君たちは1人じゃない、って、バカ野郎!
人間みんな1人なんだよ!1人じゃないのはシャム双生児くらいだ!」とやった。
シャム双生児とは体が結合している双生児のことだ。
こんな放送を聴いていたら、聴いてるものも同罪として罰せられるのではないかと心配した。
しかし、そんなことはなかった。
それどころか、世間はビートたけしを歓迎した。
特に「知識人」は率先して評価した。
たけしを評価することが‘インテリげんちゃん’としての評価につながった。
しかし、最も驚くべき現象は「金八」や「アリス」の人気も落ちなかったことだ。
つまり、たけしと金八・アリスのファンが重複したのだ。
想像してごらん(by ジョン・レノン)~、金八に感動しアリスのライブで手を取り合った奴らが、
翌日のTVでたけしに昨日のことをバカにされ大笑いしてるのである。
ある種の贖罪の儀式か?
勝ち残るのは大衆ということか?
密かに、僕は奴らと一緒に笑ってることで知らないうちに汚染され同化してしまうのではないかと恐怖した。
ま、そうなったらそうなったでひとりぼっちではなくなるのだが、
みんなと溶け合ってバターにはなりたくなかった。
ところで、醍醐というのは「バター」のことで醍醐天皇が好きだったからそういう名前になった、
とタモリのオールナイト・ニッポンで聴いて知った。
あくる日、国語の授業で先生が同じ話をしたからたいそう驚いた。バター、豆知識でした。
BGM. 高橋美枝「ひとりぼっちは嫌い」
結婚しようよ
17/Ⅵ.(木)2010 快晴、梅雨?
僕が初めて吉田拓郎を知ったのは、赤塚不二夫の「天才バカボン」だった。
長髪に上下ジーンズでギターを持った若者は、
自身の作った歌だけでは食べていけず常に空腹で食べ物をみると飛びついた。
その名を、めしだたかろう、と云う。
当時、「結婚しようよ」を大ヒットさせフォークソングのブームを作った「よしだたくろう」のパロディであった。
とは言え、小学生の僕にはテレビの出演拒否をするフォークシンガーを知る機会はなく、
このマンガで、どうやら「よしだたくろう」という人が流行っているらしいと知る。
幸い僕には4つ年上の兄がいて彼が「南こうせつとかぐや姫」のファンだったから、
「ヤングセンス」とか「guts」などと言う音楽雑誌が家にあった。
それで、よしだたくろうという人間に注目した。
拓郎が一躍、スターダムにのし上がったのは‘71年8月の「第3回中津川フォーク・ジャンボリー」だという。
反体制シンガーとして「フォークの神様」に祭り上げらたが疲れ果ててしまい「もう歌えない」と
書き置きを残して旅に出た岡林信康が、
エレキ・ギターを持って「はっぴいえんど」をバックに復活するための舞台だった。
岡林を待望するファンは岡林以外のミュージシャン達に「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールを浴びせた。
一方で、よしだたくろうはサブステージでPAの故障でマイクが不能となる中、2時間強、
「人間なんて」ただ1曲だけを歌い続けた。
興奮した観客を鎮めようと、小室等と六文銭のリーダーである小室等は
「メインステージに行こう」と促したのだが、
これが狂気と化した群衆には「メインステージを占拠せよ!」と聞こえ火に油を注ぎ、
群衆はメインステージを破壊して占拠して主催者の吊るし上げと岡林批判のティーチ・インを始めたという。
岡林も散々だ、同情する。
‘72年、よしだたくろうは「結婚しようよ」「旅の宿」と大ヒットを飛ばし、
「天才バカボン」に登場するまでの大成功を収める。
よしだたくろうは、岡林と違ってアイドル性があった。「明星」とかにも出ていた。
本音は嫉妬だろうが、「コマーシャリズムに身を売った」と古いファンの反感も買った。
当時はショービジネスもまだ未熟で、1人で行うライブをリサイタルと呼び、
大抵は合同のコンサートや「唄の市」のようなフェスティバルが主流だった。
そこでたくろうは一斉に「帰れ!」コールを浴びせられた。
しかし、実際のよしだたくろうはそんな軟弱な男ではなく、大酒のみで喧嘩っぱやく弁も立つし生意気で、
豪傑でバンカラなイメージと理論武装した反体制の旗手のようなイメージと
自由な遊び人的なイメージが混じり合っていた。
そんな中、よしだたくろうは‘タイホ’された。
俗に言う、金沢事件。たくろうが公演先の金沢の喫茶店でファンと一緒に酒を呑み、
はじめは和気あいあいとしていたが、仕舞いには口論となり、
A君を殴り、B子さんを旅の宿で強姦したという罪状だ。
たくろうはA君を殴ったことは認めたが、B子さんを強姦したことは否定した。
当時のマスコミはもろびとこぞりて、たくろうを叩いた。
何故か、「月刊明星」だけは好意的だった。
人気のあるものがシクジリを起こすとここぞとばかりに攻撃し引きずり降ろそうとする。
持ち上げて落とす。
マスコミの機能は昔も今も変わらない。
結局、この事件はB子さん側が告訴を取り下げケリがついた。
どうやら、たくろうと知りあったことを仲間に吹聴してるうちに婚約者の耳にまで入ってしまい、
引っ込みがつかなくなったというのが真相のようだった。
たくろうの冤罪の訂正記事を出した週刊誌はほとんどない。
たくろうは雑誌のインタビューで、無罪でなくて不起訴というのが自分らしい。
無罪の‘無’は潔白なイメージだが、不起訴の‘不’は不良とか不道徳の‘不’だ、と笑った。
これが少年の心を掴まない訳がない。
僕は、よしだたくろうの虜になった。
LPレコードを全部揃えた。
エレック・レコードという今で云うインディーズの時代のものから、CBSソニーに移ってからのもの全て買った。
翌年の大晦日、
よしだたくろうは上下ジーンズの格好で森進一がレコード大賞をゲットした表彰の場に「襟裳岬」の作曲者として登場した。 歌謡曲がすごく権力を持ち「体制」だった時代にだ。
レコード大賞がほぼ全国民が視聴する国民的行事だった時代にだ。
たくろうは権威の前に世辞を使うのでもなく、挑発するのでもなく、ボイコットするのでもなく、
森進一と軽く挨拶を交わすと冷静に壇上に並んだ。かっこよかった。
その翌年には、たくろうは僕の兄が好きだったかぐや姫と一緒につま恋で野外オールナイトコンサートを決行した。
僕らはそのニュースに胸を躍らせた。
中学生と小学生の兄弟がフォークソングのオールナイト・コンサートに出かけられる訳がない。
僕らは想像力を駆使して、各々にレコードを聴いて妄想を膨らました。
ちなみに平仮名表記の「よしだたくろう」というクレジットはこのあたりまでで、
小室等・井上陽水・泉谷しげるらとおそらく本邦初となるミュージシャン自身で立ち上げたレコード会社
「フォーライフ・レコード」以降の作品は漢字表記の「吉田拓郎」というクレジットに変わった。
僕はそれから何年もの間、「よしだたくろう」や「吉田拓郎」ばかりを選んで聴いた。
全部の曲を録音状態と同じような節や発音で歌えたし、
すべての歌詞を歌詞カードと同じようにスペースを空けたり漢字や仮名の使い分けまで注意深く再生できた。
「今はまだ人生を語らず」や「明日に向かって走れ」や「ローリング30」が好きだった。
吉田拓郎の「オールナイト・ニッポン」や「セイ・ヤング」は毎回寝ないで聴き学校で寝て、
毎回テープに録音し次週まで繰り返し聴いた。
拓郎の生き様が好きだった。
だから、後年、KinKi kidsと共演する拓郎を観るのは辛かった。
昔からアイドルに楽曲提供したり、ラジオ番組のゲストにアイドルが来て軽口を交わすのは見慣れた光景だった。
しかし、往年の拓郎はトンガっていた。
それが、ほのぼのとした空気の中でKinKi Kidsにいじられてやりこめられて苦笑いをしている。
なんでKinKi Kidsなんだ?
話を戻すが、1979年、拓郎は篠島でアイランド・コンサートというオールナイト・イベントをやることになった。
「流星」というシングル曲が発売され、そのB面が「アイランド」だった。
あきらかに篠島のイベントを意識されて作られた曲で、
曲の終りに「人間なんてラ・ララ~ラ・ラララ・ラ~ラ」とコーラスがかぶってフェイド・アウトするのだ。 「続きは、篠島で!」と言われてるようだ。
毎日の生活にも気合が入る。
しかし、僕は篠島には行けなかった。
高校生の男子を、
何県にあるのかも答えられないような島で行われるオールナイト・コンサートへ行く許可を親が出さなかったのだ。
ま、妥当な判断だ。
篠島コンサートは、文化放送でぶっ通しで生放送されることになった。
「青春大通り」と「セイ・ヤング」の枠をつぶしたのだ。
僕は夕方からラジオの前に座った。
ラジカセの脇に交換用のカセットテープを積み上げて、聴きながら全部録音した。
深夜にさしかかった所で、ゲストが出演した。
さすがに拓郎にも休む時間が必要だ。
一人目のゲストは小室等だ。
今生きていることがどうしたこうした、という谷川俊太郎が書いたという詩に曲をつけ延々と歌い、
お馴染の「雨が空からふれば」をいつも以上に貯めて
「あ~の~ま~ち~ほぉ・わ~あ~め~のなか・っは~、こ~の~まっちぃ~も・っほぉ~あ~め~の・な・か・っは~」
と熱唱していた。
次に、出てきたのが長淵剛だった。
長淵はその頃、南こうせつのオールナイト・ニッポンで「つよしの裸一貫、ギターで勝負!」という
コーナーを持たせてもらっていたので、こうせつのオールナイトを毎週聞いていた僕は長淵の歌や、
長渕剛が拓郎のファンであることを知っていた。
女目線の生活感が滲み出た恋愛の歌が多かったが、気の良い隣のお兄ちゃんみたいな人だった。
長淵が登場するなり観客は「帰れ!帰れ!」とシュプレヒ・コールを送った。
拓郎のアイランド・コンサートに出るに相応しい覚悟があるのかという踏み絵的な意味と、
拓郎もそこを通って来たんだという洗礼的な意味合いと、
いい加減あきて来ちゃって早く拓郎に出て来て欲しいフラストレーションが、
拓郎の先輩に当る小室等にはさすがにぶつけられず、
丁度いい具合に気の弱そうな若者がしゃしゃり出てきたから、
小室等のつまらさの分もまとめてこいつでウサ晴らししようぜ(半笑い)
的な意味が入り混じっていたのではないか。
長淵剛は「俺は帰らない。ここで歌う」みたいことを言って自分の持ち時間を全うした。
これが後に武勇伝みたいに語られているが、
ラジオを通して聴く限りはそんなに大したハプニングでもなかった。
「帰れ!」コール自体がある意味‘パロディ’だったし、
お祭りの一環という認識は皆にあったし、
長淵のゲスト出演が決まった時点で「やっちゃおうか?」的なお約束はファンの間にあった。
だから、すごく優しさにも満ちていた。
通過儀礼みたいなものだ。然し、これがその後の大変な事件の引き金となったのだ。
長淵剛はこの件で男をあげ、オールナイト・ニッポン2部のパーソナリティーの座をゲットした。
このあたりで彼の守護霊が入れ替わったのではないかと僕は睨んでいるのだが、明らかに曲調が変わってきた。
最終的には皆さんもご存じのようにチンピラみたいになっていくのだが。
ある日、長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。
やはり同じような縁を使ったのだろう、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。
当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。
フランク永井だってしない。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。
番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。
只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に言葉は忘れたが「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。
そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。
深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。
その数ヶ月後に2人は結婚する。
真子はトップアイドルの座を捨て引退。
ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。
アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。
自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。
当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。
松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、
もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。 運も実力のうちか。
その位、石野真子のアイドルとしての可愛さと人気はズバ抜けていた。
石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。
真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と
自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。
司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。
泣き出す真子。
観ているこちらもつられて泣き出す。
「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。
締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに
「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」
という名言を残し、コマーシャル。
僕は涙が止まらなかった。
ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と
読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で
本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。
涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。
数日は放心状態。
もうテレビは見なかった。
心配した友人が「早く立直るには誰か別の人を好きになることだ」とアドバイスしてくれた。
とりあえず、「好~き~、スキ・スキ・スキ~、すき通った~光の中~で~」と
コルゲントローチのCMソングを振りつきで歌っていた柏原よしえのファンに転向することにした。
柏原よしえというのも不思議な人だった。
この人も途中で守護霊が入れ替わったんじゃないかと思った。
はじめは可憐で昔のアイドルの歌をカバーして懐古趣味を煽ったかに見えたが、
ちょっと目を離した隙に「よしえ」が「芳恵」になっていて、
さらに油断していたらセクシー路線というか魔性の女みたいなっていた。
豹変といえば豹変なのだが僕には野蛮にしか見えなかった。
何を言いたいかというと、
失恋したからといって別の人で埋め合わせようとしてもうまくゆくとは限らない、という教訓である。
こないだノートの整理をしていたら、宛先のない1通の手紙が出てきた。
中を見てみると、僕の字で恋文が書かれていた。
よしだたくろうの「プロポーズ」という歌の詩がまんま引用されている。
「プロポーズ」は『よしだたくろう オン・ステージ第2集』というエレック・レコード時代のLPの中で、
ナイーブな詞と印象的なメロディーの「静」という初期たくろう作品の中でも名曲と誉れ高い代表作の直前に朗読された詩である。
エレック時代のLPは後にフォーライフから復刻発売されているが、
何故かこの『オン・ステージ第2集』だけは復刻されなかった。
幻のLPだから出所がわからないとふんでパクったのだろうが、
このラブレターは誰かに向けて書いたのは間違いない。
それが誰かは思い出せない。
高1か高2だ。
男子校だったから女の子との接点は少ない。
ひょっとしたら恋に恋をしていて、誰か好きな子が出来た時のためにあらかじめ書いたラブレターで、
投函されないまま机の引き出しの奥に眠っていて、結局書いたことさえ忘れていたのかもしれない。
時代は、サザン・オールスターズがデビューした頃で友人は
「ビリー・ジョエル」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」とか「スティービー・ワンダー」とかを
聴いていた頃である。
こんな詩である。
『 僕の目の中の片隅の とても美しくとってある風景と さみしすぎる素直さ 幾日も幾日も陽が射した 唄のねと およそ争いを嫌う腕 飾られそうになるとつむぐ言葉と 鍛えられるのを嫌う 柔らかい筋肉 めぐらしてもめぐらしても 元に戻ってくる未来へ それから夕暮れにおいてきた優しい言葉の全てを 君に贈ります 』
「吉田拓郎/挽歌を撃て」という本を、約30年ぶりに書棚からとって読んでみた。
80年に発行された本だ。
「金沢事件」に関して面白い箇所があったので抜粋して引用する。
『金沢事件にはっきりとした決着をつけるとしたら、逆告訴するということしかなかった。
当然ともいえる拓郎側からの逆告訴を阻んだのは、拓郎の母の言葉だった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」。
B子さんはまもなく結婚するという話であった。
母は我が子の冤罪を晴らすことより、むしろ加害者である娘の幸せを願った。
拓郎の父は鹿児島県史の編纂者であった。
鹿児島県谷山町で育った拓郎は、小学3年になる時に広島市に移る。
母が盲学校の栄養士兼お茶の先生として働くことになり、
兄、姉、拓郎は母方に引き取られることになったのである。
朝鮮からの引揚者だった吉田家は、父の勤務した鹿児島県庁の給料だけでは家計的に苦しかった。
西郷隆盛の流れを汲む父は一徹者で、朝鮮戦争の特需景気に便乗するような器用な真似も出来ず、
ただひたすら我が運命のように鹿児島県史の研究に没頭していた。 父は以降、たった一人の生活で研究に明け暮れる。
昭和48年1月10日、父は深夜執筆中に突然脳卒中で帰らぬ人となった。
死の直前まで机に向かっていたという壮絶な死であった。
拓郎は父は本望だったろうと思った。
母にしてみれば、‘家庭人’としての父と、晩年は共に暮らしてみてもみたかっただろう。
その悔いが、父の死から4カ月後に起こった息子の金沢事件への干渉となった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」母はくりかえし言った。
拓郎はうなずくと、弁護士に電話をかけた。
「逆告訴を取り下げます……」』。
BGM. よしだたくろう「結婚しようよ」
W杯勝利記念 『作戦勝ち』
15/Ⅵ.(火)2010 はれ
僕はまったくサッカーを見ないが、さすがに日本がカメルーンに勝ったというニュースは見た。
戦術やゴールがどのくらいスゴいのかはわからないが、詳しい人に聞くと「作戦勝ち」らしい。
作戦にも色々あろうが、圧倒的な兵力の差がある相手と戦う時に有効なのは頭脳戦である。
おそらく頭脳戦とは、
①心理的な罠を仕掛け
②精神的に苛立たせ
③相手の持ち味を封じ込め
④攻撃を空回りさせ
⑤動きが雑になったところを仕留める、クレバーな兵法である。
かつて僕は、頭脳戦のお手本みたいな試合を観たことがある。
それは、ジャイアント馬場vsスタン・ハンセンの一戦だ。
全盛期を過ぎた馬場は勢いに乗るハンセンに破れPWF世界ヘビー級ベルトを奪われた。
リターン・マッチが組まれたが、もう誰も馬場が勝つとは思わなかった。
しかし、馬場はここでハンセンにものすごい頭脳戦を仕掛けたのだ。
タイトルマッチが決まった日から、報道陣に「次の試合に秘策がある。
ハンセンがウエスタン・ラリアートを仕掛けて来た時に‘16文ラリアート’を打つ」と言うのだ。
それを伝え聞いたハンセンは慌てた。
「ナニ?‘16文ラリアート’だと?16文は馬場の足のサイズだろ?ラリアートは腕を使う技だ。
どうやってやるんだ?そもそもラリアートは俺様の得意技だ!」と激高し、記者たちに八つ当たりした。
ジャイアント馬場は余裕しゃくしゃくに
「ま、当日を楽しみにしてよ」と太い葉巻を吹かし、記者たちの質問を煙に巻いた。
ハンセンのイライラがピークに達した頃、決戦の火蓋は落とされた。
普段のスタン・ハンセンの試合ではなかった。
いつものハンセンらしい破壊力が陰をひそめた。
‘16文ラリアート’を恐れるばかりに踏み込んだ攻撃ができないからだ。
その為、馬場に決定的なダメージを与えられないのだ。
一進一退の攻防の中、正直ここまで馬場が善戦するとは思わなかった、
不用意に飛び込んだハンセンをクルっと馬場が「小包固め」に丸め込んで3カウントを奪って勝利した。
「小包固め」とは、
相手の首に自分の腕を巻きそのまま自分の足を相手の足にひっかけクルっと前転させエビに固めるセコイ技である。
馬場は勝利者インタビューで、「16文ラリアート?そんなモン無いよ。16文は足のサイズ、ラリアートは腕を使う技。
出来る訳ないだろう」と笑い飛ばした。
ハンセンは‘16文ラリアート’という亡霊に負けたのである。
馬場の談話を伝え聞いたスタン・ハンセンは「ガッデム!」と悔しがったという。
お昼に、徳田さんからトゥーリオが日本に来て仲間と溶け込むまでの苦労話と
トゥーリオは実は日本に帰化していて「〇〇〇」という漢字の名前であることを聞いた。
「〇〇〇」は覚えていない。
そう言われて思い出したのだが、
沢村栄治と並ぶ戦前の巨人軍のエースだったスタルヒンは戦時中は
「須田博」という漢字の名前にしたそうな。
BGM. ザ・プラターズ「16トン」